三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」

2008年06月28日 | 死刑

「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」
 13人の死刑を執行した鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事について、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」は25日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる。侮辱的で感情を逆なでされた」とする抗議文を、同日付で朝日新聞に送ったことを明らかにした。
 抗議文で同会は「法律に従って執行を命じたにすぎない法相を非難することは、法治国家を否定することになる」と批判。記事の意図などについて同社に回答を求めた。
(時事通信6月25日) 

死刑の執行を願うことと、死刑執行にハンコを押すこととは全く違うことであり、あすの会はそれをごっちゃにしているように思う。
被害者遺族が死刑の執行を望んだからといって、すぐに執行されるわけではないだろう。

そもそも
死刑とは国家が敵を殺すという制度である。
被害者感情とか世論は二の次、三の次である。

人の命は地球よりも重たいとか、どんな命であっても大切だから人を殺してはいけないということは誰もが知っている。
しかし、すべての法則に例外があるように、人の命の重さにも例外があって、敵の命は奪ってもいいらしい。
つまり、戦争において敵を殺すことは当たり前のことだし、英雄になることもある。
敵というのは一応敵兵ということなのだが、無差別爆撃がなされるようになってからかもしれないが、敵国の一般人を空襲で無差別に殺戮することもOKである。
さらには、原爆投下によって米軍捕虜も殺されたが、敵国に居住している自国民も殺されても仕方ない。
というふうに、殺してもかまわない人の選択を国に委ねるならば、殺してもかまわない敵はどんどこどんと増えていく。

敵は戦争の相手国だけではないし、外国にだけいるわけではない。
日本の刑法で定められている死刑になる犯罪は殺人罪以外にも、内乱罪、外患誘致罪(外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者)、外患援助罪(日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者)などがある。
彼らは自国民ではあっても、国家の敵だから死刑、というわけである。

では、殺人を犯した者はどうなのかというと、これもまた国家の敵なのである。
トマス・アクィナス「国家の平和が紊されないために、国家の為政者が凶悪な人間に死刑を執行することは正当であり、罪ではない」
ジャン=ジャック・ルソー「社会的権利を攻撃する悪人は、すべてその大罪によって祖国への反逆者、裏切者となる。彼は、祖国の法律を侵すことによって、祖国の一員であることをやめ、ついに祖国に対して戦いをいどむことにさえなる。二つのうち一つが滅びなければならない。そこで、市民としてよりもむしろ敵として、罪人を殺すのである」
という文章が森達也『死刑』に引用されていて、なるほど、社会の敵は国家の敵なわけである。
つまりは死刑とは国家の敵を殺すという制度なのである。

殺してもいい人はどういう人かを国が決めるというのは他にもあって、たとえば脳死である。
臓器を再利用したいから、国が脳死を人間の死と定めた。
胎児だってこれから先、どう利用されるかわからない。

SFによくあるテーマだが、人口が増えすぎて食糧が足りなくなり、30歳とか60歳になると死ななくてはならない法律ができる、といった小説がある。
この場合だと、60歳になっても生きようという人間は国の敵というわけだ。
どんな人間の命も大切だ、殺していい命などない、という基本原則に例外を認めるべきではない。

        
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パソコンの買い換え

2008年06月25日 | 日記

パソコンが突然シャットダウンするようになり、こりゃやばいというので、完全に壊れてしまう前に新しいパソコンを買っておくことにした。
早めに買っておけば、設定やソフトのインストールがあたふたせずに余裕を持ってできる、頭いい、むふふ、のつもりだった。
ところが、結局はあたふたが長引いただけだった。

フォントをインストールしようとしても「フォント」の「ファイル」が表示されていない。
VistaはXPとはプロバイダとの接続の仕方がちがってて、ネットへの接続をどうやってしたらいいかわからない。
ATOKのユーザー辞書を入力できない。
で、そうしたもろもろの難問の解決法をネットで検索して調べないといけない。

なーんだ、というのがあれば、いくらやってもうまくいかないのもある。
お気に入りやメールのインポートがそれで、Outlook ExpressがWindowsメールに変わっていて、いくらやってもフォルダの中にファイルが見つからず一苦労。
筆まめはイラストがいまだにインストールできない。

おまけにプリンタをパソコンにつなごうと思ったら、パソコンにピンのコネクタ(正式にはどういう名前なのだろうか)がついていない。
パソコンを買った某電気店に行くと、「今のパソコンはUSBコネクタになっているので、USBプリンタコンバータケーブルでつながないといけない。しかしケーブルがプリンタと対応しているかどうかわからない。対応してないとそのプリンタは使えない」と言う。
げげっと思ったが、とりあえずコンバータケーブルを買い、プリンタドライバをダウンロードして印刷を試みるも、悲しいかな印刷できない。
ケーブルが私のプリンタと対応していないことがわかった。
というわけで、まだ使えるプリンタを捨てて新しいのを買わなければいけないはめになったわけです。
仕方ないので、新しいプリンタを買って、ついでに古いのを処分してもらうために、またまた某電気店に出かけることになった。
ところが、今度応対した店員は「USBケーブルでつなげば使えますよ」と教えてくれた。
ということでプリンタを買い換えなくてすんだ。
めでたしめでたし。
それにしても、プリンタ(LBP1620)はすごく重くて、我が家から某電気店、そして再び我が家に持って帰るのはしんどかったし、とにかく時間の無駄。


キーボードもキーの配置が違うので使いにくいし、新製品が出ると「より便利に、より快適に」と宣伝するが、オジサンにとって「より不便に、より不快に」にしかならない。
次にパソコンを買い換えるころは、パソコンは今よりさらに日進月歩しているだろうし、私はといえば日退月衰なわけで、どうなることやらと気が重い。


で、快適便利が生み出す無駄について。
某先生のお話の中に、地球上で飢え死にする人は3秒に1人、日本の自給率は39パーセントだが、食糧のうち3分の1が捨てられている、ということがあった。
年間2400万人の人が餓死しているとどこかで読んだ記憶があり、3秒に1人だと約1000万人である。
どうなのだろうか、ネットで確認してみた。

国連世界食糧計画に、
「飢えを原因として毎日、5歳未満の子ども18000人を含む、25000人が命を落としています」
「6秒に1人、子どもが飢えのために命を落としています」

ということである。
1日25000人ということは、年間約900万人ということになる。
ネットワーク『地球村』には、
「飢餓が原因で1日に4~5万人(1年間に1500万人以上)の人が亡くなっており」
とある。

では、日本ではどれだけの食糧が捨てられているのだろうか。
ネットワーク『地球村』によると、
「日本の食品の約7割は、世界から輸入したものです。私たちは年間5800万トンの食糧を輸入しながら、その3分の1(1940万トン)を捨てています。
食糧の廃棄率では世界一の消費大国アメリカを上回り、廃棄量は世界の食料援助総量740万トンをはるかに上回り、3000万人分(途上国の5000万人分)の年間食料に匹敵しています。
日本の食品廃棄の実に半分以上にあたる1000万トンが家庭から捨てられています」

ということは、日本で捨てられている食糧が有効に使われるなら、餓死する人はいなくなるわけである。
もっとも、その食糧をどのようにして飢えている人たちのところまで届けるかとか、いろんな問題があるだろうから、そう簡単にはいかないのはわかるが、それにしてももったいない話である。

で、驚いたことに日本でも餓死者が少なからずいるのである。
しんぶん赤旗
「厚生労働省の直近の調査で、2005年には82人(男性70人、女性12人)が餓死していました。04年には、71人(男性57人、女性14人)、03年には97人(男性77人、女性20人)となっています。
 厚労省によると、調査は死亡診断書に「餓死」と記されたものを集計したもの。餓死状態で発見されたさい、死亡診断者に別の病名がつけられる場合もあり、実態はさらに多いとみられ、「厚労省調査の数字は氷山の一角」と研究者は指摘します」

日本では食べるものがなくて困っている人はいない、なんてことを言ったりするが、それは大間違いだとは。

食糧にかぎらず、我々はさまざまな無駄遣いをすることによって便利で快適な生活をしているのだが、それは多くの人が苦しみ、死んでいく上に成り立っているわけで、恥じるしかない。

     
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「死に神」表現に猛抗議 死刑執行で鳩山法相

2008年06月22日 | 死刑

「死に神」表現に猛抗議  死刑執行で鳩山法相
 「苦しんだ揚げ句に死刑を執行した。彼らは『死に神』に連れて行かれたのか」。鳩山邦夫法相は20日の閣議後会見で、13人の死刑執行を命令したことを朝日新聞が「死に神」と表現したことに対し「軽率な文章には心から抗議したい」と怒りをあらわにした。
 朝日新聞18日付夕刊の「素粒子」欄は、鳩山法相について「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」などと記載した。
 これに対して鳩山法相は「極刑を実施するんだから、心境は穏やかでないが、どんなにつらくても社会正義のためにやむを得ないと思ってきた」と語り、「(死刑囚にも)人権も人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。彼らは死に神に連れて行かれたのか」とマイクが置かれた台をたたいて声を荒らげた。
 さらに「私に対する侮辱は一向に構わないが、執行された人への侮辱でもあると思う。軽率な文章が世の中を悪くしていると思う」と語った。
(共同通信6月20日)

2002年、欧州評議会が死刑廃止を求めて日本の国会議員向けにセミナーを開いた時、当時の森山真弓法務大臣はスピーチで、
「我が国では大きな過ちを犯した人が大変申し訳ないと言う強い謝罪の気持ちを表す時に、「死んでお詫びをする」という表現をよく使うのです。この慣用句には我が国独特の、罪悪に対する感覚が現れているのではないかと思われます」
と言っているそうだ。
だったら、死刑囚が死んでお詫びをしようと自殺してもいいようなものだが、そうはいかない。

1975年、福岡拘置所で死刑囚が執行当日に自殺した。
当時は処刑の前日夕刻に言い渡しをしていたのだが、翌朝5時に隠し持っていた安全カミソリで手首を切って自殺したのである。
それからは執行当日の朝に通告するようになり、書信や面会が制限され、処遇が厳しくなったそうだ。

「法務省通達 法務省矯正甲第96号 昭和38年3月15日」にこうある。
「死刑確定者が罪を自覚し、精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるよう配慮さるべきことは刑政上当然の要請である」
森達也氏のインタビューに元刑務官の坂本敏夫氏が
「刑務官に課せられる仕事は、いつ執行命令が来ても執行できるようにしておくことです。要するに自殺させないこと、病気にさせないこと、狂わせないこと」
と言っているように、死刑囚が執行を受け入れて、反抗せずにおとなしく死んでいくよう拘置所は心がけているのである。
永山則夫のように執行を拒んで力を振り絞って刑務官を振りきろうとし、全身に打撲傷と擦過傷をおい、無理矢理に縄をかけられるようなことになっては困るのである。

苦痛がなるべく少ないよう人道的に執行するとか、自殺しないように配慮するというのも変な話である。
そんなことをかんがえるのだったら、死刑を廃止すればいいと玉井策郎『死と壁』という本を読んで思った。
この本は昭和28年発行の復刊である。
玉井策郎氏は昭和24年8月に大阪拘置所に所長として着任している。

東京拘置所で医官をしていた加賀乙彦氏は死刑囚の拘禁ノイローゼの実態を調べるために各地の拘置所を訪れ、死刑囚に会った。
実に半数以上の者が何らの拘禁ノイローゼに陥っている。
ところが玉井所長の大阪拘置所では、死刑囚同士を自由に交流させ、運動や宗教の教誨はもちろん、趣味の会合、俳句・短歌・お茶などもみんな一緒にさせていた。
これは他の拘置所が、死刑囚を独居房に入れ、なるべくおたがい同士の接触をさせない方針を取っているのと正反対だった。

加賀氏がびっくりしたのは、いよいよ刑の執行命令が出たとき、ほかの拘置所の多くでは執行当日か前日に予告するのに、大阪では、二、三日前に教え、心の準備をさせていた。
会いたい人があれば、何とかして面会させる。
そして、当日には死刑囚が全員集ってお別れの会まで開かせていたことである。

教育課の職員の一人は加賀氏にこう言っている。
「玉井さんは、犯罪者を罪をおかした悪人として差別するのではなく、罪をおかさざるをえなかった弱い人間として、つまり人間として、広い心で見ることを私たちに教えてくださった」

玉井策郎氏は
「死刑囚と呼ばれる見捨てられた人達も、決して生まれながらの極悪人ではなかったのです。そのことは、私達が毎日彼等に接していて初めて身に滲みて感じられてまいります」
「死刑囚の取扱いが余り寛大過ぎる、もっと因果応報ということを知らしめて、自分の犯した罪の報いというものの苦しさを味わわすべきだという意見があります。しかし、これは人間としての彼等に接していない人の、誤った考えだと思っています。人間は決して肉体の苦しみによって、自分の行為を反省するものではありません。
厳し過ぎず、甘やかさず、彼等の立場を、自ら認識させるには、どうしても彼等を理解する上に立った愛情が必要なのです」

今の死刑確定囚の処遇はこんなものではなく、もっと厳しい。
そこまでしておとなしくさせた死刑囚を「苦しんだ揚げ句に執行」しなければならないのか、ため息である。

   
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宮崎勤死刑囚ら刑執行

2008年06月19日 | 死刑

宮崎勤死刑囚ら刑執行「自信持って」と鳩山法相
 鳩山邦夫法相は17日、東京、大阪両拘置所で幼女4人連続誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚(45)ら3人の死刑を執行したと発表した。宮崎死刑囚の裁判は刑事責任能力が争われ、約16年に及んだが、執行は確定から約2年4カ月後だった。
 発表会見で鳩山法相は「慎重の上にも慎重に検討した結果、絶対に誤りがないと自信を持って執行できる人を選んだ。数日前に執行を命令した。正義の実現のためには粛々とやるのが正しいと信じている」と述べた。
(岩手日報6月17日)

鳩山法相は自信たっぷりである。
しかし、
「再審請求準備、事情熟知して死刑執行」 宮崎死刑囚弁護人が抗議コメント
 宮崎勤死刑囚の死刑が執行されたことを受け、弁護人の田鎖麻衣子弁護士は「再審請求を準備し、(宮崎死刑囚が)精神科治療を受けている状況にあるという事実を明記し、死刑の執行を行わないよう、鳩山邦夫法相に要請していた。こうした事情を熟知したうえで行われた今回の死刑の執行に対して、強く抗議する」などとしたコメントを発表した。
産経新聞6月17日

鳩山法相は、弁護士が再審の準備をし、宮崎勤が精神科の治療を受けているのを知っていたわけだ。
本当に「慎重に検討した」のかいなと思う。
秋葉原通り魔事件を受けて、有名死刑囚を処刑しようという狙いがあったのではないだろうか。

「(宮崎死刑囚が)精神科治療を受けている」ということだが、「刑事訴訟法」によると
「第四百七十九条  死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」
とある。
宮崎勤死刑囚は統合失調症だったそうだ。
統合失調症の知り合いが「自分と同じ薬を飲んでいる。間違いない」と言っていた。
少なくとも、拘置所では統合失調症だと認識していたことになる。

大濱松三という死刑囚は拘禁症か精神病か知らないが、そのために確定して30年たっているのに執行されていない。
ところが、宮崎勤は統合失調症にもかかわらず処刑されたということは、統合失調症では心神喪失にはならないということなのだろうか。
宮崎勤が○で、大濱松三が×なのはなぜだろう。

車椅子の生活だった75歳の藤波芳夫は車椅子ごと執行されたそうだ。
頭がはっきりしていれば、寝たきりだろうが、歩けなかろうが、頭がはっきりしてたらOKということか。

ということは、自分は処刑されるんだということがわかっていない人には執行しないということになる。
しかし、
「(宮崎死刑囚は)自分が置かれている状況を最後まで認識していなかったのではないか」
篠田博之氏は語っている。
少なくとも宮崎勤の場合、死刑によって更生はしなかったらしい。

   
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片山杜秀『近代日本の右翼思想』

2008年06月17日 | 

右翼と保守と左翼とどう違うのか、片山杜秀『近代日本の右翼思想』によるとこうなる。

現在を否定─┬─右翼―過去                                                  
                   └─左翼―未来                                                 
現在を肯定───保守

右翼も左翼も現状を否定する。
違いは、右翼は失われた過去(事実そうではなくイメージにすぎないかもしれない)を志向し、左翼は未来の理想を追う、ということである。

「失われた過去に立脚して現在に異議を申し立てるのが右翼」
「過去や現在よりも必ず桁違いによくなると信じられる未来の理想図に賭ける。そういう空中楼閣のような、まだつかめていないものに立脚して、現在を変えようとする勢力が、左翼である」
「保守をより具体的に定義し直せば、それは、現在を尊重しながら、過去から汲めるものを汲み、未来のイメージから貰えるものを貰って、急進的に乱暴にならずに着実に動いて行くもののことになるだろう」

保守を美化しすぎという気もする。
「保守と中道には大した違いはない」
と定義上ではなるそうだ。

したがって右翼や左翼は、過去の事実、あるいは過去のイメージ、もしくは未来への理想によって現在を変革しようとする。
「反動勢力と左翼とは、現在に不満を持って現在を変えてしまいたいと考えることでは共通する面がある」

で、これからが面白いのだが、右翼が美化する過去は天皇と結びつけられるのだが、否定され、改革されるべき現在にも天皇が存在する。
右翼としては天皇を否定するわけにはいかない。
「「好ましからざる現在」の代表者である天皇が、「好ましい過去」の代表者でもあるという、現在と過去が癒着した迷宮に必ず迷い込み、失われた過去と現在ありのままとがまぜこぜになり、分かちがたくなってしまう」

そこでこうなってしまう。
「日本近代の右翼の思想史には、まず現在をいやだと思って過去に惹かれ、過去に分け入ってその果てに天皇を見いだし、その天皇が相変わらずちゃんといる現在が悪いはずがないのではないか思い直し、ついには天皇がいつも現前している今このときはつねに素晴らしいと感じるようになり、現在ありのままを絶対化し、常識的な漸進主義すら現在を変改しようとするものだからと認められなくなり、現在に密着して、そこで思考が停止するという道筋が、うかがえるように思われる」
そして、現在を礼賛して終わるということになってしまってるそうだ。

たとえば三井甲之という人は、
「万世一系の天皇がいつもいることで日本が存立し、神である天皇がつねに国を支えているのだから、日本はいつも安心であり、国民は神を礼拝していればよい」
「天皇のもとでの日本は誕生のときから今この瞬間までいつも素晴らしいのである」

という、天皇におまかせする考えで、阿弥陀の本願と天皇の本願云々まであと一歩である。

安岡正篤氏は
「北一輝や大川周明のように、いきなり社会制度の具体的変革・修正を考えるのは邪道である。まずは人間なのだ。精神を立派にすることだ。社会の上に立つ者が、ひいては社会を構成する者すべてが、教学に目覚めて人格を陶冶し、君子の域へと達してゆけば、もしかして制度など何もいじらなくても、すべては平らかになり、うまくゆくかもしれない」
という考えを一貫して持っていたそうで、つまりはみんなが心を入れ替えれば平和な社会が生まれるという考えと通じる。
「企業経営者や中間管理職のための人生の指南書の著者」としてもてはやされるのも納得である。

で、思いだしたのがクロード・ガニオン『keiko』という映画。
つき合っていた男が妻子持ちだと知り、それを主人公(keiko)が責めると、「今この時のおれしかないんや。今のおれが好きなら他のことはどうでもいいやろう」みたいな言い逃れを言う。
この男も、現実の問題に目をつむって「現在ありのままを絶対化」してくれと言っているわけだ。

片山氏は日露戦争後から「大東亜戦争」期に至る右翼的な思想とは
「今の日本は気に入らないから変えてしまいたいと思い、正しく変える力は天皇に代表される日本の伝統にあると思い、その天皇は今まさにこの国に現前しているのだからじつはすでに立派な美しい国ではないかと思い、それなら変えようなどと余計なことは考えないほうがいいのではないかと思い、考えないなら脳は要らないから見てくれだけ美しくしようと思い、それで様を美しくしても死ぬときは死ぬのだと思い、それならば美しい様の国を守るために潔く死のうと思う」
という流れだと言う。

こうした右翼のねじれた思いは李纓『靖国』を見ていても感じる。
8月15日、軍服に身を包み、ラッパの音に合わせて行進してくる一団、「天皇陛下万歳」と万歳三唱する人たちがいる。
コスプレじゃないかというのが第一印象。
そして、英霊に感謝し、二度と戦争をしないと誓うのならば、彼らは過去の負の遺物である軍服やラッパを捨て去るべきだが、そうしない。

戦後日本を否定し、目指すところは過去にある、それなのに戦後の天皇を批判はしないという点では、彼らはまさに右翼である。
さらには、2・26事件での青年将校の決起が反乱とされたのは昭和天皇が激怒したからだが、彼らは反乱軍将校を逆賊だとは考えないどころが美化している。
天皇無謬論であるはずの三島由紀夫が『英霊の声』で昭和天皇を批判しているのとは大いに違っている。
ねじれがさらにもうひとひねりされている。

右翼と保守とは定義上は異なっているはずなのに日本では似た存在なのは、本来、現在を否定するはずの右翼が天皇の呪縛の中で現在を肯定せざるを得なくなっているからかもしれない。

で、保守派と言われる人の中に、GHQの政策が日本の伝統を壊したとか、日教組が戦後の日本をだめにしたと言う人がいるが、この人たちは現状を否定しているわけだから、保守ではなく右翼ということになる。

   
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「開かれた新聞」委員会・座談会「光・母子殺害事件」2

2008年06月14日 | 厳罰化

毎日新聞の「開かれた新聞委員会・座談会」で、吉永みち子委員はこう語っている。
「本村さんが苦しみの中で到達した境地に、弁護団やマスコミなどが群がった格好にも見えました。その構図が私たちにも分かってきたところで判決が出ました。本村さん自身、非常に複雑な思いで今はいるのではないか。メディアを含めてさまざまな力により、加害者の更生、反省の機会が奪われたのです」

加害者の更生、反省ということだが、光市事件の被告に対して最高裁の判決では、「本件の罪の深刻さと向き合って内省を深め得ていると認めることは困難」と決めつけている。
裁判官はどうして内省が足りないと思ったのだろうか。
そもそも被告は拘置所の独房にいて、刑務官と弁護人以外にはほとんど接することがないまま過ごしていた。
それなのに「内省が足りない」と言うのは無茶な注文だと思う。
拘置所に入れっぱなしにして「反省していない」と非難するぐらいだったら、家裁が逆送せず、少年院で処遇を受けさせるべきだったと思う。

では、反省を促すためにはどうしたらいいのだろうか。
村瀬学氏はこう言う。
「多くの犯罪を犯す少年たちは、親に「評価」されず、「関係の相互性」を体験しないで生きてきていることが多い。そこで、罪を犯し、それを償うことをきっかけに、はじめて「家族」と向き合い、家族も少年と向き合うことになる。そこから「関係の取り戻し」がはじまるのだが、その「関係の取り戻し」に長い時間を費やすのが厚生施設の職員たちなのである。(略)
「それが成功するかどうかは、「親」の変化にもかかっている。「少年」が単独で「心の可塑性」を体験するなんていうことはできないのだ。そこで「親」が自分たちの「非」も認め、もう一度子どもとやり直す態度を見せてくれてはじめて、子どもは自分の「非」を認めるようになり、「反省」することができる。(略)
施設での「反省」とか「更生」とかいうことの中身は、実はそういうことなのである。「犯罪を犯した少年」が「施設」に入り、一人で黙々と自分の罪と向かい合って反省する、などという構図は絵空事である。「反省」や「更生」は、「一人」でできるものではない。それは「関係」の中でしか生まれない」
(『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』)

少年院では刑務所と違って〝揺さぶり〟をかけると、藤岡淳子大阪大学大学院教授は言う。
〝揺さぶり〟について佐藤幹夫氏はこう説明する。
「少年院では、たえず生活に揺さぶりをかけられる。〝揺さぶり〟とは、自分が何をしたのか、そのことにどう感じているのか、被害者に対してはどんな気持になっているのか、たえず問われるというような、たえまない教育的関与のなかに置かれるということだろう。こちらの方が、むしろ少年にとっては辛いはずである」

藤原正範鈴鹿医療科学大学助教授もこう言っている。
「保護処分というのはあくまでも教育ですので、本人に変わってもらわないといけないということです。本人自身がそこを意識して変わるというのは、とても辛い作業だと思います」

まず罰することが先で、矯正はそれからだという人がいるが、刑務所に入れたり、死刑に処したりすることが本当に罰することになるのだろうか。
自分の罪と真向かいになることがないと意味がないように思う。
そして、反省を促す教育的処遇は加害者を甘やかすことではないということを理解すべきだ。

秋葉原通り魔事件の加害者のように、死んでもいい、死にたいと思って事件を起こした人間をあっさりと死刑にするよりも、彼らが生を選ぶような人間関係を作っていくことのほうが、再犯や新たな事件の発生を防ぐことになるのではないかと思う。
それにしても、こうした事件を起こすことで初めて、親との関係が作り直されたり、共感してくれる人ができるというのは皮肉である。



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秋葉原通り魔事件

2008年06月11日 | 厳罰化

テレビで秋葉原通り魔事件のニュースを見てたら、通行人が何人も携帯で写真を撮っている映像が流れた。
この人たちは一体何を考えているのだろうかとあきれてしまった。

秋葉原通り魔:容疑者の逮捕・連行を携帯で撮影
大勢の通行人らが刺された通り魔事件で、現場で警察官に取り押さえられる加藤智大容疑者=読者提供 今回の通り魔事件では、容疑者の逮捕・連行写真を携帯電話で撮影した人の周りに人だかりができ、自分の携帯に赤外線送受信でコピーする人たちが目立った。
 目撃情報を集めていた記者は、通行人の女性から赤外線受信で写真を入手。この女性も、逮捕現場にいた別の女性から赤外線受信でコピーしていた。2人は他人同士だった。
 女性によると、現場で直接写真を撮影した男性が「捕まったぞ」と叫ぶと、周囲には携帯電話を差し出し、「コピー」を求める人だかりができたという。
(毎日新聞6月8日)

インドのベナレスに行った時、ガンジス川の川岸での火葬していて、それを写真やビデオを撮っていて注意されていた人がいた。
何だかんだ言いながら、人の死を面白がっているのだと思う。

「治安の悪さに危機感」「派遣制度転換の時期」閣僚ら
 東京・秋葉原の無差別殺傷事件をめぐり、10日午前の閣議後の記者会見などで閣僚からは発言が相次いだ。
 鳩山法相は「ああいう無差別大量、虐殺といってもいいような事件が起きる日本の治安の悪さに大変な危機感を覚える」と発言。「教育の問題とか社会全体の問題というのが背景にあることは想像できる」と指摘し、法務省としては「とにかく犯罪に対して厳しく対処すること」と述べ、厳罰化がこうした事件の対処法になるとの見解を示した。
 泉国家公安委員長はナイフの規制強化について「今回の事件を考えてどうするか、これから詰めたい。一般的に利用される包丁とかもあるので、もし取り組むとしても慎重に考えないといけない」と述べた。
 舛添厚生労働相は派遣労働制度について触れ、「大きく政策を転換しないといけない時期にきている。働き方の柔軟性があっていいという意見もあるが、なんでも競争社会でやるのがいいのかどうか。安心して希望を持って働ける社会にかじを切る必要がある」と語った。
(朝日新聞6月10日)

鳩山法相の発言がトンデモなのはわかっているつもりでも、「日本の治安の悪さ」で秋葉原の事件を片付けてしまう神経にはやはり驚く。
日本の治安は世界的に見ても、戦後の歴史から見てもはなはだ良好なのを法相はご存じないらしい。

事件の一時間前、加害者は
「午前6時05分 全員一斉送信でメールをくれる そのメンバーの中にまだ入っていることが、少し嬉しかった」
携帯の掲示板に書き込んでいる。
自分個人宛ではなく、全員一斉メールであってもうれしいという孤独。

生きることに絶望し、命が大切と思えなくなっている人に対して、「とにかく犯罪に対して厳しく対処」し、厳罰化することでは問題はまったく解決しないことが、鳩山法相はわかっていない。
鳩山法相のように考える人は結構いるようで、佐々淳行氏も産経新聞の「正論」で、
「刑罰が軽すぎるのである。刑法第39条の「心神喪失又は耗弱は、免刑又は減軽」という、加害者の人権を擁護するあまり被害者のそれを軽視する、誤れる「教育刑主義」に通り魔の再発を促す要因がある。今回も、恐らく数日を出ずして人権派・死刑廃止派の弁護士たちが、この容疑者は刑法39条該当者だとして無罪を申し立てることだろう。
 この際「人を殺せば死刑」という人類古来の自然法に則る「応報主義」でこの殺人に臨み、早く裁判にかけ、「模倣犯」の悪い連鎖を今度こそ断ち切らなくてはいけない」

と書いているが、佐々氏は死刑に犯罪抑止効果があると思っているのだろうか。
死にたくてああいった事件を起こしているのだから、死刑にしたらさらなる「悪い連鎖」が生じるだろうに。
厳罰や死刑が犯罪防止になると信じていることが信じられない。

  
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「開かれた新聞」委員会・座談会「光・母子殺害事件」1

2008年06月10日 | 厳罰化

6月7日の毎日新聞に「開かれた新聞委員会・座談会」というのが載っていて、「光・母子殺害事件」の報道について各委員が語っている。

玉木明委員 マスコミ全体の印象で言うと、事件報道の一番悪い面が出ていたように思う。被害者の言い分を報道の視点に置き換えて、被害者に添い寝するような報道が目立った。例えば、弁護団から新証言が出た時、被害者は「弁護団と作り上げたストーリーだ」と言い、その論法に沿って弁護団をバッシングするような報道が主流となってしまった。そういう論調を背景に、無期懲役から死刑にという流れが出てきた。だが、事件の背景、被告の内面など事件の真相がこれまでの裁判で明らかにされたとは言えず、裁判のあり方としては疑問点が多すぎる。

柳田邦男委員 当時少年だった被告を死刑にする論拠を判決の原文で読むと、いかに被告の成育歴、人格形成がゆがんでいたかについて、裁判官が情状酌量をするほどのものではないと非常に短絡した文脈で結論を出しています。裁判官は成育歴に関する精神鑑定や生い立ちの調査などを読んだのかと思いたくなる。(略)前科を起こした際、少年法による更生矯正の機会があったのに、受けた対応はゼロに等しかった。報道全体のトーンは、テレビや週刊誌を中心に死刑を望む大合唱となりました。社会が学ぶべきものは何も提示されなかった。

玉木明委員 特にテレビの影響が大きかったのではないか。死刑を求める被害者の生の声をそのまま繰り返し流した。弁護団批判もリピートされた。

二人の報道批判、判決批判、ともにまことにもっともな意見である。
でも、BPOの意見書が出ているのだから、当然の意見ではあるが。
しかし、小川一毎日新聞社会部長は弁護団の対応に問題があったと、相変わらずの批判をしている。
「被告の少年の弁護団が、メディアや裁判所を敵のように扱うのが気になりました。ソフトに取材に応じていただければ、テレビの作り方に違った部分もあったと思います」

2年前に最高裁の弁論に欠席したことでメディアが一斉にバッシングしたことを忘れたのだろうか。
そして、そのバッシングは安田、足立弁護士がテレビに出演したことで過熱したことを覚えていないのだろうか。
そして、BPOが意見書で裁判の報道について、
「多くが極めて感情的に制作されていた。広範な視聴者の知る権利に応えなかった」
「被告弁護団対被害者遺族という対立構図を描き、前者の異様さに反発し、後者に共感する内容だった」
「公平性の原則を十分に満たさない番組は、視聴者の認識、思考や行動にストレートに影響する」

と指摘したことをどう思っているのだろうか。
そして、弁護団は公判のたびに記者会見をしたことを知らないのだろうか。
そして、メディアによる弁護団非難が積み重なって、鬼畜弁護団という世論が作り上げられたことに対して、メディアの一員としての責任をどう考えているのだろう。

東海テレビの報道陣が光市事件弁護団に1年近く取材し、弁護団会議にもカメラを入れたのが
「光と影 ~光市母子殺害事件 弁護団の300日~」というドキュメンタリーである。
ナレーターをつとめた寺島しのぶ氏はこう語っている。
「番組を通じて、被害者家族、弁護団、裁判官など、色々な人が、この事件に関わっていて、様々な見方があることが分かりました。特に「鬼畜」と非難された弁護団の人たちが、何をしていたのかは、初めて知ったという感じです」

毎日新聞を含めたメディア報道によって、弁護団は鬼畜だというイメージが与えられたわけだ。
もしも一人でも多くのマスコミ人が東海テレビのディレクターのように「悪い奴を弁護するのはけしからん、という世論に、違和感」を感じ、そしてまともな報道をしていたら、弁護団憎しという世論は変わっていっただろうと思う。

小川一毎日新聞社会部長は内省が足りないようである。

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若松孝二『実録・連合赤軍』

2008年06月07日 | 厳罰化

あさま山荘事件よりもリンチ事件のほうが私にはショックだった。
どうして次々と仲間をリンチして殺したのか、何冊か本を読み、そして『実録・連合赤軍』を見てもやはりわからない。

リンチのシーンは凄惨に描かれているが、植垣康博や坂口弘の手記を読むと実際はこの程度のものではない。
なぜあんなことができたのか。
彼らがアジトを移動する際にバスに乗った時、ひどい悪臭のために運転手や乗客に気づかれ、あとで通報されたというが、臭いにマヒしてくさく感じなくなるように、暴力をふるうことや他者の痛みにマヒしただけではない気がする。

そして、ささいなことで総括を求め、追い詰めていく残酷さ。
突然やり玉にあがり、「総括しろ」と責められ、自分はこう思いますと自己批判しても、「それじゃ総括になっていない」と否定され、「どう総括すればいいんですか」と尋ねると、「自分で考えなきゃ意味がない」と怒鳴られる。
どう言おうと、何をしようと許されることはない。
殴られ、縛られ、柱にくくりつけられ、食事を与えられず、寒さの中、結局は死んでしまう。
これは魔女裁判の論理に似ている。

魔女裁判では、「お前は魔女だろう」と問い詰められ、「魔女じゃない」と否定すれば、「嘘をついている」と決めつけられて拷問にかけられる。
拷問に耐えきれずに「魔女です」と認めれば、「やはりそうだったのか」というので火あぶりに。
あくまでも否定すると、「これだけの拷問に耐えるのは魔女の証拠だ」というので、さらに厳しい拷問を受ける。
以下、同じことの繰り返し。

光市事件の被告は反省していないと言われる。
面会はしないし、謝罪の手紙を読まないのだったら、反省したかどうかわからない。
つまりは何を言っても無駄で、私は魔女ですと認めて胸を張って死刑台に登れば、そこで反省しているということになるという魔女裁判の論理である。

じゃ、
どうすることが反省なのか。
寝屋川市小学校少子殺傷事件の加害者(広汎性発達障害の17歳)の母親は、
「言葉で言えるものではないのですが、ご家族の幸福を一瞬にして奪ってしまい、償うという言葉では済まないと思います。一度謝罪の手紙を書かせてもらいましたが、その後は何もしていません。何をしたらよいか、自分でも分かりません」(佐藤幹夫『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』)
と言っているそうだが、下手なことをしてかえって傷つけてしまわないだろうかと危惧して、何をしたらいいかわからないという気持ちになるのはわかる。
ところが、ある掲示板に「どうしたらいいのか」と聞くこと自体が反省していない証拠だと書いている人がいて、これまた魔女裁判みたいなものである。

「反省していない」と決めつけられ、「私はこのように反省しています」と答えたり、謝罪の手紙を書けば、「死刑になりたくないから反省しているふりをしてるんだ」と見なされる。
「じゃ、どうすれば反省することになるのか」と尋ねたら、「やっぱり反省していない」と言われる。

村瀬学同志社女子大教授が、
「テレビの中で、乱暴な発言をするタレントの中に、再犯を犯す者を例にあげて、「少年院で本当に更生なんてできるのか」と発言する者がいる。こういう「不信感」は、多分にその人自身の内面の不信に対応している。自分自身が反省することがないものだから、人もきっと「本当の反省」なんかしないだろうと考えている」
と、『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』にきついことを書いている。

森恒夫は一度逃亡したあとに復帰している。
だからこそ、森恒夫は「自身の内面の不信」があり、人は裏切るものなんだと思っていて、それで総括を求めながら、「きっと「本当の反省」なんかしない」と決めつけていたのかもしれない。
そして、逃げたことがあるという弱みがあるものだから、余計に他者に攻撃的になり、死ぬまで許すことができなかったのかもしれない。

リンチ事件の怖さは、そうした状況に置かれたら自分も同じことをするんじゃないかという、自分自身の闇を見せられるからということがあると思う。

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犯罪者への処罰感情と教育的処遇

2008年06月04日 | 厳罰化

少年法改正へ 審判傍聴可能に 被害者尊重、残る懸念
非公開で行われる少年審判について、殺人や傷害など被害者の生命にかかわる事件に限って被害者や遺族の傍聴を認める少年法改正案が3日に衆院本会議で可決され、今国会中に成立する見通しとなった。被害者の申し立てを受けた裁判官が、加害者側の弁護士の意見を参考に傍聴の可否を判断する。被害者の権利を尊重する流れに沿った改正だが、少年の更生や教育的側面を重視する立場からは懸念の声も上がる。
「これまで(審判で)裁判官は『君も大変だったんだね』などとソフトな言葉で少年の内省を促してきたが、傍聴する被害者を意識せざるをえない。少年の立場に配慮した審理が難しくなる」。あるべテラン裁判官は、被害者の傍聴が少年の処分や審判のあり方そのものにも影響を与えかねないとの懸念を示す。
少年審判は、殺人などの重大事件で家庭裁判所が「検察官関与」を決めたケースを除いて裁判官、家裁調査官と少年、付添人(弁護士)らで進められる。少年法は非行少年の健全育成や更生が目的で、刑罰を科すことを主眼とする刑事裁判とは異なる。審判についても「なごやかに行う」と定め、非公開のうえに被害者側の傍聴も認めていなかった。
毎日新聞6月3日

犯罪を犯した人間に刑罰を科すことは当然のことだが、同時に更生して社会復帰できるような教育的処遇も欠かせない。
本村洋氏が6月1日に行われた講演で、
「少年法については「理念は正しい」としながらも、「罪を軽くして早く社会に戻すのが必ずしもいいわけではない。最初に軽い罪を犯したときにきっちり更生教育をし、再犯防止を」と訴えた」
と語っている。
主旨がもう一つわからないが、
犯罪者自身にとっても社会にとっても、厳罰よりもきっちり更生教育をすることのほうが重要だと思う。
ところが少年法がさらに改正されるなど、犯罪者の教育よりも被害者の処罰感情を重視する流れにある。

浜井浩一龍谷大学法科大学院教授が
「重大事件を犯した少年のケースの場合、家庭裁判所の決定書や判決において、重い刑罰を科すことによって規範意識を喚起させることで再犯を防止させるといった、科学的に見て何の根拠もない空虚な規範的レトリックを使って自らの決定を正当化しようとしがちである」
「重い刑罰を科せば、それだけ少年が罪の重大性を理解するがごとき記述があるが、少しでも少年矯正の現場を知っていれば、そのようなことが机上の空論以外の何ものでもないことは容易に理解できるはずである」
(『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』)
と書いているのを読むと、私なんかはなるほどもっともと思う。
こうした意見に対して、教育したら再犯しないという保障はあるのか、という反論が出るだろう。

満期出所の場合は再犯率は65%らしい。
しかし、その実態はというと、山本譲司氏の話によると、府中刑務所には約2700人の日本人受刑者がいて、知的・精神障害者が約15%、身体障害者が27%、知的・精神に障害があり、かつ身体にも障害がある人が15%、つまり全部で6割くらいがなんらかの障害がある。
それに加えて高齢者がたくさんいて、福祉的支援の対象者となる受刑者は全体の8割ぐらいではないだろうか、ということである。
この人たちは刑務所を出ても行くところがないので、また戻ってくる。
つまり再犯するわけである。
再犯率が高いか低いかというより、その中身を考えないといけないわけだ。

藤岡淳子氏によると、日本の少年院の再犯率は3割くらいである。
これが高い数字かどうか。
「家庭裁判所で扱う大変な数の非行少年の、そのごく一部が少年鑑別所に入り、さらにその一部が少年院に来る。全体からすると、(再犯率は)4から5%です」
「半年から一年間生活して、それで3割しか再入しないというのは、ある意味ではみんな結構よくなるんだな、と私は思っています」
(『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』)
そして、
「事件の責任を認めているか認めていないかの再犯率の違いは、認めていない場合で75%の再犯率、認めている場合で25%の再犯率となる」
と藤岡淳子氏は言う。
ただ処罰するのではなく、事実と真向かいになり、自分のしたことを認めていくことが、再犯を防ぐ上でも大切だということである。
そのためにも教育的処遇は必要である。

では、犯罪者への再犯防止プログラムは効果があるのだろうか。
アルコール依存症の自助グループであるAAの最初の刑務所内でのミーティングが行われたのは1942年で、ミーティングに出ているアルコール依存症者の再収容率が80%から20%に減少したそうだ。

藤岡淳子氏によると、
「アメリカなどの治療プログラムの再犯防止率は、平均して12%くらいではなかったでしょうか。多くて15%、すごくいいプログラムで3割ですね。それもまた低いといえば低いかもしれませんが、やらないよりはそれだけ再犯率が減るわけです」
ということだから、犯罪を犯した人に対して何らかの処遇をすることは無駄ではない。
ただし、お金と手間ひまがかかる。

結局のところ、被害者の処罰感情と犯罪者の更生教育、そのどちらを選ぶかということになっている。
被害者感情に配慮して厳しく処罰することを第一に考えるのか、それとも社会復帰のための処遇を優先すべきか、である。
処罰感情だけでは再犯を増やすことになりかねないし、再犯を防ぐために処遇を充実させれば経済的な負担がかかる。
どちらかを我々は選択するのかということになる。

2006年に東京の板橋で15歳の少年が社員寮の管理人をしていた両親を殺害し、管理人室をガス爆破した事件で、東京地裁は懲役14年(求刑は15年)の判決をくだした。
「この判決は、少年の教育や更生よりも、社会の処罰感情が優先されなくてはならないことをはっきりと打ち出した判決である」
と佐藤幹夫氏は『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』に書いているが、つまりはそういう流れということである。

となると、
「社会復帰したときにどんな受け皿が用意されているのか、その重要性である。更生とは犯行を犯した少年自身の問題であることは当然であるが、もう一方に、社会が受け皿への通路をどう開いているかという、社会の側の問題が存在している」
と佐藤幹夫氏の言うような、社会の受け皿作りもあまり期待できないのではという気がする。

AAがなぜ再犯防止に効果があるかというと、刑務所を出てからAAにつながることができるからだと思う。
受け入れてくれる場所があるかないかの違いは大きい。
再犯を防止したいのなら、一時の処罰感情に流されるべきではないと思う。

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