三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

葦津珍彦『国家神道とは何だったか』(3)

2020年04月21日 | 天皇

明治4年、島地黙雷は教部省設立を求める建言を提出しました。
その論旨は、安丸良夫『神々の明治維新』によると、キリスト教に対抗するために、神道のみを宣教する官を廃し、神仏合同の教化体制をつくるようせよというものです。

神祇官が神祇省に格下げとなり、さらには神祇省が廃止されて教部省に改変されるなど、明治初年の神道政策は何度も変更しています。
これは葦津珍彦さんが主張する島地黙雷たち西本願寺僧侶の影響だけではないと、『神々の明治維新』を読むと思えます。

神道内部の対立、そして神道に有能な人材が乏しかったということがある。
神道の内部での守旧派と開明派の考えが違っていた。
国学者の中でも、津和野派の大国隆正や福羽美静は、時勢に敏速に反応して復古神道の内実を時代の必要に合致させようとする傾向が強かった。
それに対し、平田学派の人たちは時代離れした祭政一致を唱えた。
明治3年には、神祇官の中で急進派と目された玉松操や矢野玄道、角田忠行、丸山作楽たち平田派国学者は岩倉具視たち政府中枢と対立し、また官員削減のあおりを受けて、職を失った。
あまりにも神がかった人を岩倉具視たちは嫌ったのです。

神祇官は制度上、最高の位置を占めたが、神祇官の実態は「昼寝官」「因循官」と称されるありさまで、太政官にあごで使われることに甘んじ、宣教の実績をあげることができなかった。

教部省が設立され、教導職が定められた。
明治5年には神官が4204名、僧侶は3043名だったが、明治13年には神道21421名、仏教79014名に増えた。
神官教導職には学力のない修験からとりたてられた者も多かった。
そして、神官にはすぐれた説教家は少なく、説教が下手で人気がなかったが、僧侶には説教のうまい者が多かった。
神仏分離は民衆の支持を得ておらず、抗議行動が各地で起きたということもあります。

そもそも、僧侶が神職の上位に立っていたことに不満を持つ者たちが強引に神社と寺院を切り離したという面がある。

さらには、廃仏毀釈の動きは明治3年~明治4年には絶頂に達し、各地で寺院が破壊され、僧侶は還俗させられ、石塔、石仏まで壊されたり埋められたりした。
佐渡、富山、松本、苗木などの藩では寺院の廃止、併合が特に激しく、京都や奈良、伊勢などでは寺院が破壊され、仏像や仏具が破却されたり売り払われた。

路傍の地蔵等の石像もこわし、一ヵ所に集めて石材として利用した。農村部では、小学校の新築に、付近の石地蔵を集めて土台石や便所の踏み台に用いた。児童が罰をおそれて便所を使用しないので、教師がみずから石地蔵の上で用を足してみせ、仏罰が当たらないことを実地教育したという。(村上重良『国家神道』)


葦津珍彦さんは廃仏毀釈に触れていませんが、まるで文化大革命かタリバンみたいなことをしたわけです。

「神道的第一級人士」による神道国教化政策が続いていれば、薩摩藩や苗木藩のように、日本中の寺院が破壊され、真宗門徒を中心にした抵抗運動が全国で起きたかもしれません。
また、キリスト教への弾圧も続き、欧米諸国から抗議されたと思います。
岩倉具視たちはそうした状態に陥ることを危惧したのでしょう。

葦津珍彦『国家神道とは何だったか』に、「伊藤博文の憲法構想は、信教問題では自由主義に徹していた」とあります。
伊藤博文たちが神道国教化政策から政教分離へと舵を切ったのは、ヨーロッパの宗教事情を学ぶことで、近代国家として日本が認められるには神道国教化という時代錯誤の政策ではダメだと考えたからでしょう。

大貫恵美子『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』にこんなことが書かれています。

明治15年、ローレンツ・フォン・シュタイン(1815年~1890年)は講義を受けた伊藤博文に、日本が採用すべき立憲体制としてプロシア式の憲法を勧めた。
そして、近代日本における「宗教」の必要性を説いた。
日本にはキリスト教に匹敵する宗教が存在しないから、神代から皇室と親密な関係を持ってきた神道を「宗教の代用」にすべきである。
さらに、天皇に対する尊敬と崇拝の念を育てるため、あらゆる場合の皇室固有の儀式を創造し、国民をして気付かぬ間に新しい天皇制に帰依するようにすべきである。

フォン・シュタインのこうした助言を伊藤博文や井上毅たち明治の元勲は受け入れ、新しく構想される天皇の「全能性」を実体化させる方策として、キリスト教をモデルに、天皇を国「家」の父とし、天皇を頂く国家宗教を創立した。
そして、民間神道を国家神道に作り変えると同時に、仏教、キリスト教をはじめとする外来の宗教を排斥しようとした。

明治政府は信教の自由を無条件に認めたわけではありません。
神道は宗教ではないとして、天皇を国の中心に位置づける国家神道を作り上げました。

しかし、国家神道は宗教ではないというのは間違いです。
国家神道の本尊は天皇の御真影、教典は教育勅語、儀式は皇室祭祀であり、天皇への崇敬を説いています。

神道は教義がないと神職の人から聞いたことがあります。
神道非宗教論は今も神道では影響があるのかもしれません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葦津珍彦『国家神道とは何だったか』(2)

2020年04月10日 | 天皇

島薗進『国家神道と日本人』による葦津珍彦『国家神道とは何だったか』批判です。

神道学者の中には、明確な戦略的意図をもって、国家神道の狭い定義を掲げた論者が多い。
代表的な論者である葦津珍彦の『国家神道とは何だったか』は、国家神道の主体を神社神道と捉え、かつ国家神道が強大な力をもったという国家神道論を論駁しようという意図に基づくものだ。

国家神道とは行政官僚が神社を支配し、神社は宗教活動に制限を受けた時期の、厚遇されたとはいえない神社神道を指すのだという。
神社が神道本来の活動から遠ざけられていた時代のあり方を、神社界が権力と一体となって跋扈し、悪しき国運を招いたかのように描き出すのは妥当ではない。
このように、葦津珍彦さんの主張をまとめています。

この葦津珍彦さんの国家神道論に対し、島薗進さんは以下のように批判します。

この立場は、神社神道が宗教であることを認めるように見えて、実は皇室祭祀・皇室神道が宗教であることを否定し、国家神道の陣地を挽回しようとするものだ。
国家神道を狭く神社神道に限定して定義することは、神社界を中心とした神道は戦前の軍国主義・侵略主義や信仰強制に対してさほどの責任はないとする論点とも結びついている。
しかし、皇室祭祀・皇室神道を排除した国家神道理解は成り立ちえない。

国家神道は神社の国有化ではない。
神社神道は、皇室崇敬に資するような新たな神社を設立しつつ、全国の神社を組織化していく過程で形成されていった。
だから、神社神道組織を皇室祭祀と切り離して、それだけを独立した宗教組織として実体視するのは適切ではない。

そもそも、神社神道とよべるような統一的宗教組織は明治維新以前には存在しなかった。
皇室祭祀と連携して組織化されることにより、初めて神社神道とよびうる組織が形成され、次第に国家神道の重要な担い手となった。

国体の教義と皇室祭祀や神社神道を結びつけたのは、教育勅語であり、祝祭日システムやメディアだった。
明治維新後の祭祀は祝祭日に行われ、大多数の国民の日常生活に関わるものとなった。
学校行事やマスコミ報道などを通して、皇室祭祀が多くの国民の生活規律訓練の場や情緒の昂揚を共有する機会を提供し、人々の生活のハレとケのリズムに深く関わるものとなった。
天皇を神聖とし、天皇崇敬を鼓吹する行為が長期にわたり日常的に行われた。

ただし、天皇が現人神だという神格化は、教育勅語が発布された段階ではそれほどの強くなかった。
多くの人々が我が身を投げ出しても惜しくないと思うような信仰の対象に天皇がなったのは、1930年代以降の戦時中に限られる。

『尋常小学校修身書』(昭和2年)
三年生用「よい日本人」

よい日本人となるには、つねに天皇陛下・皇后陛下の御徳をあふぎ、又つねに皇大神宮をうやまって、ちゅうくんあいこく心をおこさなければなりません。


五年生用「我が国」

我が国は皇室を中心として、全国が一つの大きな家族のやうになって栄えて来ました。(略)世界に国は多うございますが、我が大日本帝国のやうに、万世一系の天皇をいたゞき、皇室と国民が一体になつてゐる国は外にはございません。(略)我等はかやうなありがたい国に生まれ、かやうな尊い皇室をいたゞいてゐて、又かやうな美風をのこした臣民の子孫でございますから、あつぱれよい日本人となつて我が帝国のために尽くさなければなりません。


天皇は民のことを常に気にかけて下さる。
だからこそ、民は大御代の弥栄のために命を捧げなくてはいけない。
そういう教育の基盤には国家神道がある。
このように島薗進さんは論じています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葦津珍彦『国家神道とは何だったか』(1)

2020年04月03日 | 天皇

明治維新前後の神道国教化政策により、神仏分離と廃仏毀釈が強行されました。
それに加えて、キリスト教の影響力についての不安と恐怖が既成仏教教団にあり、そのため既成教団は明治政府に媚びたのです。

たとえば明治4年(1871年)の東本願寺の上奏文案です。

我宗ニ崇ムル所ノ本尊ハ弥陀如来ト申テ、乍恐(おそれながら)皇国天祖ノ尊ト同体異名ニシテ、智慧ヨリ現レテハ天ノ御中主尊ト称シ奉リ、慈悲ヨリ現レテハ弥陀如来ト申シ候。(安丸良夫『神々の明治維新』)

こうした動きに危機感を持った島地黙雷が伊藤博文たちに働きかけ、神道を非宗教化し、祭祀のみを行うものにしたのが国家神道だと、葦津珍彦『国家神道とは何だったか』は主張しています。

国家神道とは神道の国教化ではない。
国家神道体制のもと、神社は保護され、仏教やキリスト教などが抑圧されたと考えるのは間違いであり、逆に神社は国からの保護、助成は削られ、淫祠邪教とされた。

国家神道をもって、明治日本の政治権力者と、熱烈な神道家とが相共謀して築き上げたものであるかのやうな虚像のイメーヂを拡散して俗説を通用させてゐる。


維新直後、熱烈な神道人が神道精神を国の基礎として固めようとして、政府を動かした。
慶応3年(1868年)12月、王政復古の大号令で「神武創業の始めに原つく」との宣言を発し、次いで「神仏分離令」が太政官から発せられた。
明治元年(1868年)3月、太政官布達で「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祗官に所属せしむべき件」が出された。

しかしまもなく、権力の主流の中に「神道的維新コースは、文明開化の妨げとなり、国際外交上も著しく不利となる」との思想が強大となる。
仏教、とくに真宗のブレーンは権力(長州系権力者のほとんどが真宗の盟友)との結合を固め、神道の無精神化、空洞化の政策を進めた。
そのために、新政府の開明実力派と対決した神道的第一級人士は、明治4年(1871年)には追放され、次々に検挙されて監禁された。

明治4年8月に神祇官が廃せられ、神祇省が設置された。
明治5年(1872年)3月、神祇省も廃止され、人事や教義講説、神社行政等は仏教ととも教部省に移る。
明治6年(1873年)、島地黙雷は海外視察から帰国すると、教部省、大教院の現状が神道偏重であると反対を表明した。

島地黙雷「建言 教導職治教、宗教混同改正ニツキ」を葦津珍彦さんはこのように要約しています。

神道の事については臣は悉く知るわけではないが、それが宗教でないことだけは確かである。神道とは朝廷の治教である。古くから天皇は神道の治教を保たれた。宗教として儒仏を用ゐ給ふことがあっても、制度としては漢洋の風を模せられても、歴代天皇は、天祖継承の道を奉じて国民に君臨し給うた。これが惟神の道であり、朝廷の百般の制度、法令、みなことごとく神道である。この皇室の神道こそが神の惟神の道である。ただ近世にいたって、私に神道者と称するものが、宗教まがひの説を立てて、勝手に自らの一私説をもって、それを皇室の「神道」であるかの如く曲解せしめようとする者があるが、それは皇室の神道を、王政を小さなものにしようとする誤りである。神道とは、本来、決して宗教に非ざる者であり、天祖いらいの治教の大道である。


島地黙雷は、皇室の神道と神社や神道信仰とを無縁のものとした。
皇室が神宮神社への官幣を供されるのは非宗教的礼典とすればいい。
民間人の排仏的神道説は皇室国家の神道とはまったく別の、一私人の偏見として対抗すればいい。
皇室と無縁の地方神社はアニミズム、シャーマニズムで、邪教迷信の類にすぎない。
「祭政一致」の尊重を力説しつつ、「政教分離」の理論を利用しながら、神道の祭典を「宗教に非ざるもの」だと理論づけした。

この「皇室の神道は宗教なる者に非ざるなり」との理論は、いはゆる後の「国家神道」「神社非宗教」の発端となるロジックであるが、その最初の有力な提唱者が、真宗の島地黙雷であるといふ事実、およびそのロジックの意図するところが、宗教的神道を封殺するための仏教との対神道政略であったといふ事実、これは、その後の「国家神道史」の推移発展を見て行く上で、もっとも重要な史実であることを明記しておくべきである。このロジックは、十年後には明治政府の公式見解となる。


明治8年(1875年)、真宗の大教院からの脱退を公認させる。
明治10年(1877年)、教部省そのものも廃止に追いこまれ、内務省社寺局内の一小課の行政下に移された。
明治12年(1879年)、府県社以下の神職の身分は寺の住職と同様とされた。
政府は神社の99.9%を政教分離によって国家と切り離した。
明治17年(1884年)、神仏の教導職という国の制度を廃した。
明治33年(1900年)、内務省の社寺局を廃して、神社局を創設し、神社を「国家の宗祀」として、一般諸宗教の行政と区別した。

この神社非宗教の法理が、主として島地黙雷以来の真宗の政治工作の成果であったことは明らかである。


政府は国家精神高揚の拠点として、新設の神社局の行政に力を入れていいはずであるが、政府はほとんどなにもしていない。
明治6年以降は、府県社以下の神社に対して一文の補助金もあたえられていたわけではなく、神社にとって経済的には少しもプラスではなかった。
逆に、戦後の国家神道の解消は、経済的には神社にとって有利になった。
しかも、政府の「神社非宗教」は伝統的な神主の宗教的活動を制約する必要を示している。

宗教真理を解しなかった明治以来の政府は西欧的合理科学主義を第一にし、非科学的な宗教を好まなかった。
「宗教による吉凶禍福の祈り」「病気治療」は、科学思想を妨げる邪教迷信として禁圧するのが当然だとの法思想が有力な情況下では、神社の大多数が淫祠邪教であると断定された。
戦前の諸宗教が国家神道の重圧下にあったかのように誤認しているが、それは真相に遠く、むしろ神道が、「国家の正しい合理的教義」に反する迷信として、重圧を加えられている。

国家神道は宗教ではなく、祭祀だとされることによって、生き生きとした宗教性を著しく制限された。
内務官僚の統制によって神社合祀などの変容を強いられ、仏教界からの圧力によって宗教活動を制限された。
国家の財政的支えも、とりわけ明治期にはたいへん薄弱なものだった。
宗教的生命を奪われた神社神道は、国民を侵略戦争に駆り立てるような力はとても持ち得なかった。

葦津珍彦さんは、まるで神社神道が国家神道政策の被害者であるかのように論じています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする