三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

冤罪と謝罪

2007年01月31日 | 死刑

 

強姦事件で逮捕され、有罪判決を受け、服役した男性の無実が判明し、富山県警と富山地検、そして法相も男性に謝罪、さらには県警本部長が直接謝罪し、「就職先の紹介など生活支援をする意向を伝えた」という記事が、先日の新聞に載っていた。
死刑が執行された後、無実が判明した場合でも、警察や検察はやはり謝罪するのだろうか。
というのが、この記事を見て福岡事件のことを思ったからである。

1947年に、福岡で闇商人二人が射殺された。
西、石井の両名が主犯として逮捕。
西さんは無罪、二人を射殺したことを認めた石井さんは正当防衛を主張したが、どちらも死刑判決を受けた。
ところが、実行犯の石井さんが、西さんは事件とは無関係だと主張しているにもかかわらず、75年、なぜか西さんが処刑され、石井さんは無期に減刑された

イギリスで死刑が廃止されたのはエヴァンス事件がきっかけである。
エヴァンズという人が1949年にロンドンで起こった殺人事件の犯人とされ、1950年に絞首刑に処せられたのだが、1953年、真犯人が逮捕された。
国民がこの事件にショックを受けたため、イギリスの死刑制度は廃止されている。

福岡事件にしても、実行犯が西さんは無実だとはっきり言っているんだから、間違いなく冤罪である。
教誨師をされていた故古川泰龍師は二人の無罪を確信し、再審請求運動を長年されてきたが、いまだ再審は行われていない。
そもそも福岡事件を知っている人は少ないだろうと思う。
私にしたって昨年知ったばかりである。

周防正行「それでもボクはやってない」は冤罪裁判をテーマにしている。
この映画を見て、冤罪なのにこれじゃ問題だ、だけど有罪の場合は別だ、と思われたのでは困る。
罪を認めている者であろうとなかろうと、初めから犯人扱いで取り調べる警察・検察、検察の作文をうのみにし、無罪判決を出すことを躊躇する裁判所、そして警察・警察からの情報を垂れ流しにするマスコミ、そして我々が冤罪を生み出しているのである。

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斎藤貴男「教育からみるこの国の未来」を聴いて

2007年01月28日 | 日記

のち 

斎藤貴男氏の「教育からみるこの国の未来」という講演を聴いての思いつきをあれこれと。

江崎玲於奈の、遺伝子でその子の将来を決めればいいという話を聞き、ハックスリー「すばらしい新世界」というアンチユートピア小説を思い出した。

「すばらしい新世界」で描かれる社会では、社会階級や職業を前もって決めて人工受精がなされる。
ベルトコンベヤーに乗ったビンの中で成長する胎児は、出産までの間、条件反射教育を施される。誕生後も階級や職業に見合った睡眠教育などが繰り返される。
その結果、社会に順応し、自分の階級や職業に満足して他を羨むことのない人間となる。

つまりは、生まれる前から死ぬまでマインドコントロールを行い続ける社会なわけである。
これも一種の愚民化政策と言えようか。

憲法が改正され、自衛隊が軍隊になれば、次は靖国神社の国家護持である。
中曽根元首相が「戦没者を祀る靖国神社を国の手で維持しないで、これから先、誰が国のために死ねるか」と言ったが、国のために喜んで死んでいく人間を作り出す装置として、靖国神社は今でも有効である。

「すばらしい新世界」の登場人物がこういうことを言っている。
「あらかじめ階級を決めて人工受精がなされる。階級に応じて職業が決定する。階級や職業に応じた条件反射教育が、胎児の時から死ぬまでなされている。こうして自分の階級に満足し、他人を羨むことがなく、自分の務めを果たす。「幸福と美徳の秘訣なのです―自分の務めを好きになるということが、一切の条件反射教育の目的とするものが、それなのです。つまり、人々に逃れられない自分の社会的運命が気に入るようにしてやるということなのです」

この考え、飯田史彦福島大学助教授の
「もともと私は、「人間の価値観」をキーワードとして、企業の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインドコントロール」としてとらえようとしたのです」
という研究と似通っている。
そして飯田史彦を有名にしたのが船井幸雄だから、うさんくささが臭いたっている。

もう一つ思ったのが、こういう格差もあるな、ということ。
知り合いの方が言っていたが、まわりにいる女性(30歳前後)の多くが独身で、結婚したくないわけではないが、「出会いがない」ので何となく独身を続けているそうだ。
素敵な人ばかりなのになぜだろう、と知り合いは不思議がっていた。
その話を聞いて、繁華街に行くと、カップルがあちらにもこちらにもいて、うらやましいかぎりだと感じていたが、楽しい日々を過ごしている人ばかりではないことを知り、何やらホッとした。

40歳で童貞の人が1割とのこと。
ほんとかどうか知らないが、もてない人がそれだけいるとは、もてない歴50年の私には、なんだかうれしくなる話ではある。
以前なら、世話好きのおばさんが見合いをすすめたのだが、今は見合いをする人はごく少数である。
世話好きが減り、私のようなもてない人間が底上げされないまま、もてる人との格差が拡大しているということなのか。
やはり格差が広がることは望ましくないと、知り合いと話をしていて、しみじみ思った。

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斎藤貴男「教育からみるこの国の未来」

2007年01月25日 | 日記

斎藤貴男氏の「教育からみるこの国の未来」という講演を聞いた。
憲法改正、教育基本法改正、格差の拡大、自己責任論など、今までもやもやとしていたことが、お話を聞いて、それらが関係しあっているとわかり、頭の中がすっきり。
以下、私のメモ書き。

小泉内閣の構造改革は、競争によって消費者にメリットが生じたと言っているが、格差を広げた。
世の中を動かす立場にある人、政治家、企業のトップ、大学教授といった人たちが、立場を利用して、自分や自分のまわりに都合の良い社会を作ろうとしている。
福井日銀総裁は村上ファンドに投資して大金をもうけているし、規制改革・民間開放推進会議の議長である宮内義彦オリックス会長は公共サービスを壊してはもうけている。
インサイダーの、インサイダーによる、インサイダーのための構造改革だ。


国家が何かしようとする時、まず手をつけるのは教育である。
ゆとり教育が非難されたが、理念としては教育基本法改正と同じある。
できない子は切り捨て、できる子だけ相手にしようということだ。
教育の機会の均等を否定しているわけである。
そうなると、親の経済力で差がついてしまい、将来が決まってしまう。

今までの教育は平等、悪く言えば画一化と言われていたが、勉強のできない子が少しでもできるように手助けすることで、全体の底上げをしていた。
ところが、ゆとり教育を導入した教育課程審議会会長の三浦朱門は、落ちこぼれを勉強できるよう底上げしていたのでは手間暇がかかる、それではエリートが育たない、落ちこぼれに費やす労力をエリートのために使おう、と語っている。
教育改革国民会議座長だった江崎玲於奈はさらに過激で、「就学期に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」という優生学丸出しの発言をしている。
江崎の話を聞いた三浦朱門は「さすが江崎さんだ」とほめている。
文部科学省は江崎玲於奈の考えを知っていた上で座長にしたのである。


改正された教育基本法もゆとり教育の理念が受け継がれている。
「能力に応ずる教育」とあるように、能力のある子だけ教育したいという発想が見える。

多くの反対があるにも関わらず、全国一斉学力テストが行われることになった。
イギリスでは全国一斉学力テストを実施して、公教育が崩壊した。
なぜかというと、学校の成績が公表されるので、教師は学校の成績を上げるために、勉強のできない子には試験当日に欠席させて、テストを受けさせないようにした。
テストを受けさせてもらえない子供たちは学校に行かなくなる。
それがわかっていて、なおかつ日本では全国一斉学力テストを実施しようとしている。
ところが、市場原理、競争原理が教育にも導入され、伸びる子には手助けするが、できない子、勉強しようとしない子はそれなりにしか扱わないということである。

競争と言いながら、生まれによってスタートラインが違っているのだから、最初から競争にならない。
それなのに、負けた者は自己責任だと言われ、切り捨てられてしまう。
教育ばかりではない。
人件費を下げ、残業代は払わず、しかし消費税が上がれば、貧しい者の負担が増えるばかりである。
貧しい者が増えるといいことがあるのか。

防衛庁が防衛省になり、憲法が改正されたら、自衛隊は自衛軍になり、在日米軍と共同作戦をとるようになる。
多国籍企業が自由にふるまえる状態、グローバル化が平和だというのがアメリカの考えであり、日本も同じ。
自衛隊が軍隊になっても徴兵制は行われないだろう。
というのも、アメリカも徴兵制は廃止したが、志願者が多い。
なぜなら貧しい者は仕事がないし、金もないので、軍隊に志願し、戦場で死んでいく。
死ぬのは貧乏人、戦争が起きれば景気はよくなる、だったらいいじゃないか、というのが今の日本の空気である。

教育基本法改正が問題になった時、一番の問題が愛国心だった。
「愛国心」ではなく、「国を愛する態度の涵養」という表現に変えられたが、かえって問題がある。
「国を愛する態度」を評価され、「国を愛する態度」の成績が内申書に書かれるようになるかもしれない。

戦争で死にたくない、被害者になりたくない、ということだけが平和論ではない。
加害者にもなりたくない、というが平和論である。

先行きは暗いかというと、そうでもない。
多くの人はこうしたことに無自覚だし、知っていない。
ちょっとでも「これはおかしい」ということを知れば力になる。
ということで、私もこのメモ書きをあちこちで話しているわけです。

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「年報・死刑廃止2006 光市裁判」7

2007年01月22日 | 厳罰化

安田好弘弁護士は光市母子殺人事件について、
「これは「作られた凶悪事件」なんですね。殺害の様態とか、あるいは故意の問題にしても、被疑者が少年だったものですから、検察官によって、思うがままに事件が作り上げられたんですね」
と言う。
検察側の意図は何か。

まず少年法改正がある。
「この事件は一九九九年に起こりましたが、二〇〇〇年に少年法は戦後最大の改正をやっています。(略)従来、少年に対しては「処罰」ではなく「保護・援助・教育」であるとしていたのを、大きく転換したのです。そして、この事件は、その改正の真っ只中であったわけです。検察はこの事件を凶悪な事件とすることによって、少年法の改正を後押ししようとしたんです。それを一、二審とも全く見破れないまま、ここまできてしまったんです」

少年犯罪が増えている、しかも凶悪化している、だから少年でも成人と同じように扱うべきだという意見がある。
しかし、暴走族を考えてみても、成人するとほとんどの者は落ち着き、暴力団に入るなどするのはごく少数である。
つまり、少年の場合、たんに厳しく罰するよりも、矯正教育をきちんと行い、そして社会が受け入れることが、社会秩序のためにも、本人のためにも大切
である。

そして、重罰化という狙いがある。
「最高裁はこの判決を通して、重罰化に向けて大きく一歩踏み出そうとしている。検察とマスコミ、世間の風潮、そして被害者遺族の感情と同値させようとしているんですね」

考えてみると、社会が不安定で治安が悪いのならともかく、日本は世界的にも珍しいくらい安心して暮らせる国なのに、にもかかわらず厳罰化を求める声が高いのは不思議なことである。
我々が、犯罪が増加している、治安が悪化している、という間違ったマスコミ報道に乗せられているということもある。
それにしても、厳罰化は国による管理を強化することにつながるのだが。
ということは、我々は権力に服従したがる心性があるということなのだろうか。
そうして、死刑廃止は世界の趨勢にもかかわらず、ネットではみんなが権力の代弁者となって「殺せ」「リンチしろ」の大合唱、18歳未満にも死刑を認めろという声があるくらい異様な状況なのである。

安田弁護士によると、検察の権力拡大という狙いもあるという。
「検察官は被害者の気持ちを前面に打ち出して被告人を死刑にするという政治目的を実現しようとしているだけです。なぜなら、彼らは死刑を積極的に適用させて犯罪に対して厳しく処断することによって秩序維持を図ろうとしていますし、そうすることが世論やマスメディアの期待に応え、また支持され、検察の威信を高め、検察の勢力を拡大させることだと考えているのです。ところが、今回は、裁判所もそうしようというのです」

「政治が検察に支配される形になりましたね。その結果としてバブルの崩壊を契機として大蔵省が検察によって解体されて省庁の再編までいく。検察がどんどんいわゆる治安機関や監督機関である独立行政法人のトップを占めていくという流れが続いていますよね。(略)今までは治安関係の監視だけだったんですけれど、今はもうどんどん拡大して、経済までが監視の対象になってきているわけですね。もう一つは、たとえば大手の貿易商社や銀行にはやっぱり検事長クラスが顧問としてちゃんと就任する。そういう利権構造があって、そういうものがどんどん拡大していっているという印象をうけます」

日本では検察の力が強いそうだが、こうしたことを我々は知らないでいる。
こうしたこともマスコミは報道してほしいものである。

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「年報・死刑廃止2006 光市裁判」6

2007年01月19日 | 厳罰化

なぜ検察は光市母子殺人事件の加害者を死刑にしようとするのだろうか。
「年報・死刑廃止2006 光市裁判」の中で、安田好弘弁護士は次のように言っている。

「今回の光市の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います」

司法がおかしくなっている原因の一つは裁判員制度にあるらしい。
裁判員制度になったらどうなるのだろうか。
イギリスの陪審員制度がどのようなものなのか、緑ゆうこ「イギリス人は「建前」がお得意」にはこのように書かれている。

イギリスの陪審員は有権者名簿からクジ引きで選ばれる。
「運悪く陪審員に当たってしまうと、自分の仕事は放っぽりだして毎日裁判所へ通わなければならない。期間は担当にあてられた裁判によるから、待合室で待つばかりで何も仕事がない場合もあれば、大きなケースにぶつかって何ヵ月もかかる場合もある」
そういうわけで、多くの人はなんとか言い訳をして、陪審員を逃れてしまう。


「実際、国からわずかばかりの日給をもらっても陪審員なんかやるのは損だと思う」知識階級やホワイト・カラーは召集を逃れ、「逆に「働くよりは陪審員でもやったほうがまし」と思うワーキング・クラスばかりが集まる」とのこと。
「日雇い暮らしをしている人なら陪審員席に座って一日いくらかもらえれば悪くはないし、毎日低賃金でつまらない仕事をしている人なら堂々と仕事を休んで日給をもらえるグッド・チャンスだ」

驚くことに「陪審員を務めさせるには、せめて知能テストや読み書きテストくらいは課すべきだという声さえある」そうだし、人種偏見的な発言も多い。
実際、こういう事例があるというんですからねえ。
「有名なケースでは、1993年、陪審員がOuija board(占い盤、コックリさんのようなもの)を使って殺人の犠牲者の魂を呼び出し、被告人を有罪と決めたことが明るみに出て、裁判がやり直しになったことがある。
2002年1月、陪審員が法廷を退いて別室での審議中にテレビを見ていたことがばれてしまって、裁判はやり直しになった。
他にも報告されている例では、あるアジア人の被告に対し陪審員の何人かは最初から有罪と決めつけ、審議の最中に居眠りをしている人もいたし、また活発な議論をたたかわせているはずの十二人の中には難聴の人も混じっていたという。また別の事件では、二人の容疑者のうちどちらが真犯人か決められないので、大事をとって二人とも有罪にしておいた、という例もある」

うーん、イギリスで被告になったら、英語がしゃべれないアジア人である私は有罪間違いなし。

裁判員制度は裁判官と一緒に審理するわけだから、コックリさんで判決を決めたり、審議の最中にテレビを見たりしないだろうとは思う。
しかし、ウィキペディアによると、裁判員制度の問題点にはイギリスの陪審員制度と共通している問題もあるようである。

しかも、「裁判員制度が適用される事件は地方裁判所で行われる刑事裁判のうち傷害致死、殺人事件など」である。
法律に関して全くの素人が、場合によっては人の生死を決めることになるのである。
平川宗信中京大教授は、
「裁判員制度になれば、一般の人たちの処罰感情が量刑にもろに反映していく可能性があるわけです」
と言うが、その通りだと思いますね。
光市母子殺人事件のように、マスコミが大々的に騒いだなら、裁判の始まる前に先入観が与えられてしまうことは避けられない。

安田好弘弁護士は、
「検察官がこれほどまでに被害者遺族に配慮したのを私は見たことがありません。少なくとも検察官は公益の代表者なわけでして、彼らは曲がりなりにも法の公正な適用を、つまり訴追者という視点から裁判所に求めるというのが検察官の立場です。被害者遺族がどうだというのを全面的に打ち出していくというのは今までなかったことです」
と言うが、検察はこれからも被害者を利用し、マスコミが世論操作をするだろうことは予想される。

「裁判の迅速化、あるいは裁判員制度と言われながらも、実は根底のところで、刑事司法は変えられてしまったんです。弁護人が被告人の権利を守ろうとしても守れないシステムがすでに出来てしまったんです。これが今の刑事司法です」
ということです。

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「年報・死刑廃止2006 光市裁判」5

2007年01月16日 | 厳罰化

ときどき

被害者の人権がないがしろにされているのに、加害者の人権ばかりが大切にされている、とか、被害者遺族の気持ちを思えば、加害者の人権を奪い、加害者家族も差別すべきだと主張する人たちがいるが、兄が妹を殺すというような事件のように、被害者遺族であると同時に加害者家族でもある場合、こうした人たちはどうすればお気に召すのだろうか。
マスコミ報道なんて、好奇心、のぞき趣味を満足させるだけのことである。
そうして、我々は眉をひそめつつ、よだれを垂らしながら人の不幸を楽しんでいる。
被害者感情を声高に言い、加害者を攻撃する人は、被害者の気持ちを実のところわかっていないのではないかと思う。
本音のところは興味本位で事件の報道を楽しんでいる我々に、被害者の感情云々と立派なことは言えない。

そういう感情的な世論の声にマスコミは同調し、扇情的な報道を垂れ流ししている。
「年報・死刑廃止2006 光市裁判」で、安田好弘弁護士はマスコミについてこう言っている。

「いわば、忠臣蔵の仇討ちを見て楽しむレベルを超えて、もっと激しく仇討ちをさせようとしているような情勢にあるわけですね」

社会が復讐を認めなくなってきたというのが人間の歴史なのに、どうしてマスコミは復讐心を美化するのだろうか。

「暴走するマスメディア、あるいは暴走する世論を止める力というのはまったくなくなってしまった」

問題は、裁判所がマスコミや世論に流されてしまっているという現状である。

「マスコミも市民も、司法に厳罰を求めるんですね。「殺せ」、「吊せ」とガーッと騒げば司法は簡単に動くものだと、実際動いてしまうんですけどね、そういう全体としての同化現象というか軟弱現象が起こっているという気がします」

マスコミが作り上げた世論に裁判所も流されてしまっては大変である。
本来、司法とはどうあるべきなのか。

「感情とか政治的な要求あるいは世論の動向には一切影響されることなく、法に忠実に、事実に忠実に、公正・公平に法を適用するのが司法だとされてきたわけです」
「世の中全部が「殺せ、殺せ」と言っているときに、ほんとうに被告人の権利を守るシステムがシステムとして機能しているかどうかという問題だと思うんです」

ところが、現実にはちゃんと機能していないらしい。
「抗議ないし脅迫というような電話がありました。そのなかで共通に見られるのは、弁護人の弁護は不要である、ということです。あの被告人に対して弁護する必要はない、死刑にすべきだ、ということです。つまり被告人が弁護を受けるということ、弁護を受けて死刑からまぬがれることを否定するということは、司法そのものを否定していると言っていいだろうと思います。それは、最高裁がやったことの反映であるといっていいだろうと思うんです」

「司法の誕生は、政治的思惑や私的制裁あるいは被害者感情からの分化の歴史だったと思うんですよ。ところが司法の側にこれを守りきるだけの力がないから、その垣根が総崩れになっている。司法は時の政権におもねり、世論や感情に同調し、もう手がつけられない状態になっている」

そういう状況の中で、我々はどうあるべきか。
メディアリテラシーという言葉があるそうだ。
小笠原喜康「議論のウソ」によると、
「これは、マスコミの論調に踊らされず、報道や宣伝のウソや誇張に惑わされない、批判的態度を養おうという広汎な運動である」
ということである。
小笠原喜康は、たんにマスコミを批判するのではなく、「必要なのは、自分自身の受け止め方、自分への反省的視点である。自分はどういうニュースなり情報に関心があり、それをどう受け止める傾向があるのか、そうしたことに自覚的になる必要がある」と言う。
なるほど、もっとも。
私もバイアスがかかっていることは否定できません。

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「年報・死刑廃止2006 光市裁判」4

2007年01月13日 | 厳罰化

安田好弘弁護士は最高裁の弁論に欠席したことで、抗議や脅迫の電話がかなりあったそうだ。

「僕はこの間、光市の事件でかなりの脅迫電話を受けたわけですが、そういうのと対応しているんですね。私は、凶悪だと批判し、死刑にすることを求める彼らの底意に、凶暴性、凶悪性というものをものすごく感じるんですよ」
「あんな悪い奴はすぐ殺してしまえ、あんな奴を弁護するお前も殺しちゃえ、司法なんて全く必要ないという話が、何のためらいもなく湧き上がるんですね」

犯罪者を非難する人たちが、「裁判なんかする必要ない」と裁判制度を否定し、平気で「殺してしまえ」「リンチしろ」と言い放つのはどういうことなのだろうか。
悪人を弁護するヤツも悪人に違いないという思い込みがあるのだろうが、それにしても極論すぎる。

先日、兄が妹を殺すという事件があったが、いつものようにのぞき見的な報道がなされている。
「メディアは、私たちの期待に合わせて情報を送ってくるという傾向がある」(小笠原喜康「議論のウソ」
結局のところ、我々は他人の不幸をタネにして楽しんでいるのだ。
だから、マスコミはとにかく受ければいいと、あることないこと垂れ流している。
我々は「どのチャンネルも朝から晩まで同じことばかりやっている」と文句を言いながらも、報道をうのみにする。
そうして、殺人犯を弁護する人を誹謗中傷することが正義なんだと思い込んでしまう。

テレビで言ってることは正しいと信じてしまいがちな我々の愚かさ(権威に弱いということか)は、細木数子の妄言をなんだかんだ言いながら盲信させてしまうことになる。
テレビで細木数子が「墓参りは30日までに行かないといけない。正月に墓参りをしてはいけない。は神社にお参りしなさい」と言ったとかで、うちでも年内にお参りになる人が多かった。
よそのお寺で聞いても正月は少なかったとのこと。
アホな話ではあるが、「安田弁護士を殺せ」という単純さと五十歩百歩だと思う。

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「年報・死刑廃止2006 光市裁判」3

2007年01月10日 | 厳罰化

光市母子殺人事件の一審での弁護人も、二審での弁護人も、どちらも検察の主張にほとんど反論していない。
それなのに、最高裁での弁護人が検察の主張に異義をとなえたのはなぜだろうか。
安田好弘弁護士は「年報・死刑廃止2006 光市裁判」の中でこう言っている。

「一審、二審の弁護人は犯罪事実についてはほとんど関心がなかった。つまり彼に対して事実を聞いていないんです」
「驚くことに、第一審も控訴審も、何の躊躇もなく、検察官の主張通りの事実を認めたんです。もちろん弁護人も争いもしませんでした」

弁護士が依頼人に事件について聞かないとはね。
安田好弘弁護士は被告に徹底して尋ね、そうして事件の様相が検察の主張とはまったく違うことに驚くのである。
とはいっても、それまでに被告は「実はこうだったんだ」と言っていないわけではない。

「彼が法廷で事実について聞かれたのは、一審の一〇分間くらいのことです。その中で、彼は、奥さんに対しても子どもさんに対しても殺すつもりはなかったんだ、わけのわからないうちに相手の人が亡くなっちゃったんだというような言い方をして、殺意を否認しているんです。しかし、被告人がそのように供述しているにもかかわらず、検察官も弁護人も裁判官も、全員が、彼の供述に反応しなかったんです。その鈍感さは一体何なのでしょうね」

「検察官の杜撰な捜査とねつ造がはっきりしているにもかかわらず、弁護人も裁判所も見落としてきた、というのが現実です。弁護人も裁判所もまったくあてにならない、というのが今の司法の現実です」

弁護士がまともに働いてくれない、裁判所もなあなあでやっているとしたら、もし自分が被告になった時を考えると、ぞっとする状況である。
さらに、ほんまかいなとびっくりしたのだが、光市の事件の被告は自分の判決文や供述調書さえ見たことがないのである。

「自分に対する判決書を得るだけでも、A4一枚につき六〇円のお金がかかるんです。それは他の記録でも同じです。弁護人もそれを無料で手に入れることはできなくて、一枚四〇円の謄写費用をかけてようやく手に入れる」

市の事件の訴訟記録は1万ページぐらいあるとのことだから、全部コピーしようとすると、60万円かかるということだ。
「お金のない人は裁判は闘えないのです」

うーん。
アメリカでは死刑になるのは貧乏人だけで、金持ちは優秀な弁護士をつけるから死刑になることはないそうだ。
日本でも、殺人事件はともかく、金持ちなら実刑判決になるはずが、執行猶予がつくとかして、うまく逃げることができるのかもしれないなと思った。


「自分が裁判で何をしゃべったか、あるいはあの証人はいったい何をしゃべったか、あるいは自分が捜査段階でいったいどういう調書を取られたか、あるいは参考人が何と供述しているかということさえ確認することができないのが今の刑事司法の状況です。被告人は徹底して不利な状態に置かれており、裁判そのものからも疎外されているのです」

高橋秀実「TOKYO外国人裁判」を読むと、東南アジアなどから来た人の裁判はすごくいい加減で、日本語があまりしゃべれない被告の場合、よくわからないまま有罪の判決がおりてしまう。(1992年の出版だから、現在は少しは改善されているだろうが)
日本人だって、お金がなくて、裁判のことをよく知らなかったら、あれよあれよという間に有罪、実刑判決になってしまうかもしれないわけです。

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「年報・死刑廃止2006 光市裁判」2

2007年01月07日 | 厳罰化

 

最高裁での光市母子殺人事件の弁論は、結局4月14日に行われ、そして裁判所は一方的に6月20日の判決期日を指定してきた。
こうした流れについて、安田好弘弁護士は次のように言う。

「この経過を見ると、たとえば、私たちの主張を認めて、事実関係について根本的に見直す、つまり鑑定とかあるいは本人の供述をもういっぺん捉え直してみるというような作業をやるとすれば、四月十八日の弁論のあと、こんな僅かな期間で判決が書けるはずがないわけです。この訴訟記録は、一万ページくらいあり、その中で写真が約八〇〇枚ぐらいあるわけです。その写真を一つ一つつぶさに見て、あるいは被告人の二〇数通ある自白調書を一つ一ついったいどこでどういう形で変遷し相互に違いがあるかということを吟味していくならば、こんな僅かな期間で記録を見て結論を出し、判決が書けるはずがないわけです」

それなのに、どうして弁論から二ヵ月で判決が下されたのだろうか。

「最高裁は旧弁護人に対して昨年十一月の末、弁論を入れたいと打診してきました。(略)一方的に三月一四日の弁論期日を指定してきたわけです。そのときにはもうすでに、最高裁はどういう判決を出すかを実は決めていたわけです」

最高裁は弁護側の主張を取り上げる気が最初からなかったということである。
安田弁護士はどのような判決が下されるか、次のように予測する。

「弁論を開き判決を出すということは、一、二審の無期という判決を見直すということですから、検察官の上告理由を認める、すなわちあまりにも刑が軽すぎる、この子については死刑しかないんだという検察官の主張を認めて、原審の見直しをさせるということになるわけです。その判決をそのまま明日言うのだろうと思うんです」

まさにそのとおり、最高裁の判決は検察側の主張を全面的に認めて、高裁に差し戻した。

「年報・死刑廃止2006 光市裁判」には、弁護側の弁論が載っている。
そりゃ、死刑を逃れようとして適当なことを言っているんだと、多くの人は思うだろう。
しかし、ひょっとしてそうなのかもしれない、と思わせることもある。
たとえば、加害者は被害者に馬乗りになって力一杯首を絞めたとなっているが、検死調書によると、首を絞めた跡がない。
また、赤ちゃんを頭上から思いきり床にたたきつけたとなっているが、これまた検死調書には赤ちゃんに大きな損傷はない。
検察の主張と検死の鑑定書とが食い違っているのである。
また、検察は無期懲役では軽すぎる、量刑不当だと主張しているが、光市の事件よりももっと悪質な事件なのに無期懲役になっている判例が16例ほどあげられている。
加害者が拘置所から友人に出したというあの手紙にしても、安田弁護士の話だとこういうことである。

「ともかく死刑にしなければならないというので検察がやったのが、彼の例の手紙です。ひどい内容の手紙であることは確かです。しかし、それは隣の房にいた子どもが、小説家になりたいという希望を持っていて、彼からすれば、死刑を求刑されるような事件をやった被告人は関心の的であったわけです。文通の相手は被告人を偽悪的にもてはやします。そして、そのもてはやし、挑発といってもいいのですが、それに乗せられて書いたのが例の手紙であったわけです」

なぜか相手の手紙の内容はまったく報道されないし、裁判でも取り上げられていないようだ。
その他、マスコミ報道=検察・警察の主張よりも弁護側の主張のほうが説得力があるように感じる。

ところが、判決文を見ると、「その指摘は、その動かし難い証拠との整合性を無視したもの」であり、「指摘のような事実誤認等の違法は認められない」となっている。
検察調書と検死調書の食い違いについて、何の言及もないのはどうしてなのだろうか。
判決文とはこういうものなのか。
最高裁の判事はたくさんある記録をどれだけ吟味し、弁護側の主張を検討したのか、私も疑問に思う。

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「年報・死刑廃止2006 光市裁判」1

2007年01月04日 | 厳罰化

 

光市母子殺人事件の差し戻し審の初公判が5月24日に開かれ、第2~4回公判は6月26日から3日間の集中審理となるそうだ。
裁判員制度のための裁判の迅速化、というより拙速化である。

「年報・死刑廃止2006 光市裁判」という本に、安田好弘「光市最高裁判決と弁護人バッシング報道」という講演録が載っている。
昨年6月20日の最高裁判決の前夜に行われた講演に手を入れたものである。
事件について知らなかったことが書かれてあるし、そして光市母子殺人事件が単なる一事件ではなく、司法の問題と関わりがあることがわかる。

3月14日の最高裁での弁論に安田弁護士が欠席したことで、ずいぶんひどいバッシングがあった。
なぜ弁護人は欠席したのか。

「過去においては、とりあえずは弁護人が交代した場合はもちろん、とりわけ本人がいままでとは違ったことを言っているという場合には、必ず、弁護を準備するに足る十分な準備期間を弁護人に認めていたわけです」
「今回、最高裁はまったくそれを認めませんでした。まして、私どもが延期申請を出したけれども、その延期申請に書かれた中身について事情聴取さえしないで、いきなり延期申請を却下してくる。被告人の権利を認めようとしない。」

3月14日の直前に欠席届を出したのはなぜか。
「昨年の十一月から新刑事訴訟法が施行されました。(略)裁判所は、弁護人が出廷しないおそれのあるときには、別に弁護人を選任できるという規定があるんです。さらに、出廷しても退廷してしまうおそれがある場合には、つまり勝手に帰ってしまうおそれがあるときにも、別に弁護人を選ぶことができる。別の弁護人というのは国選弁護人で、当然、裁判所の意向に従う弁護人ということになります。(略)つまり実質的に弁護人の存在しない裁判がすでに用意されてしまっているんです。これが実は被告人・弁護人にとって致命的な制度なんです。弁護人が被告人の権利の擁護をめぐって裁判所と対立し、その権利を何としてでも守ろうとする姿勢を示したとたんに、裁判所の言うことを聞く弁護人に変えられてしまうシステムを作り上げられてしまったのです。」

「被告人の十分な弁護を受ける権利、十分に弁護を準備する時間が与えられなければならないという原則はどこに行ってしまったのでしょうか。たとえば今回のように、わずか二週間しかなく、しかも本人は事実と違うと言っている、証拠を見直さなければいけないというときに、二週間で準備できるはずがありません。それでも、裁判所は弁論を強行し、結審し、判決を出そうというのです。こういうときに、私たちは、準備なしに裁判所に出かけていって、まともな弁護もできないまま裁判を結審させざるをえないのでしょうか。
私たちは、弁論期日の延期を求めましたが、裁判所は即座にこれを拒否しました。しかし、一四日ではとても準備ができませんし、すでに他の変更できない重要な仕事も入っています。それで、一四日は欠席せざるを得ないと判断したのですが、そのことについて、事前に欠席届を出すことなく、前日の一三日の午後になるのを待って欠席届を出しました。それは、前から出しておけば、出ないおそれがなるということで違う弁護人を選ばれるおそれがあったからです。
ですから、今度は、翌月の一八日だと一方的に指定してきたときに、再度、意義を言おうか思ったのですが、出ていかざるをえないと決断したわけです。もしそうすれば、別の弁護人が選ばれることになって、結局、被告人の弁護を受ける機会が実質的に奪われてしまうからです」

弁論に欠席したのはこういう事情があった、ということを知っている人はほとんどいないと思う。

周防正行監督の裁判を題材にした映画がもうじき上映されるが、予告編を聞いていると、被告人はまるっきりの四面楚歌のようである。
我々もいつどんな事件で被告となるかわからない。
弁護士が依頼人のために最善を尽くすのはごく当たり前のことのはずだし、できるだけのことはしてもらいたい。
ところが、弁護人が十分な弁護ができないとなると、これは大問題である。
そういう司法の問題をマスコミは取り上げず、一方的に断罪した。
マスコミがいかに権力に追随しているかよくわかる。

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