三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

伊藤実『アイシテル―絆―』

2012年11月27日 | 厳罰化

『アーミッシュの赦し』を読んで、あれれと思ったのが加害者家族への赦しについての戸惑い。
「アーミッシュは殺人犯本人だけでなく、その家族にも、事件後数日内に赦しを与えた。当時、そのことを批評した人たちと同様、我々もこれには戸惑いを感じた。家族は事件に責任がないし、むしろ彼らもロバーツがとった行為の被害者といえる」
銀行にはロバーツ家への義援金の口座が開設され、義援金が集まったそうです。
『アーミッシュの赦し』の著者たちは、近隣のアーミッシュがロバーツの家族を赦したことには〈あなた方の身内は私たちの子供に悪事を働きましたが、私たちはあなた方を恨まないよう最善を尽くします〉というメッセージがこめられていると書いています。

加害者の家族が誹謗される日本では、加害者家族に責任がないとか、家族も被害者だという発想自体がないように思います。
伊藤実『アイシテル―海容―』の続編『アイシテル―絆―』は、小学生を殺した加害者の弟がさまざまな非難中傷に苦しむという話で、東野圭吾『手紙』と似たような設定、展開なのが残念。
もっとも「(加害者家族への)差別はね、当然なんだよ」なんてアホなセリフはありませんが。
事件から20~30年経っても、多くの人が事件や犯人を覚えているは思えませんが、日本では犯罪者の家族が肩身の狭い思いをして暮らしているのは事実です。

犯罪者や家族を社会から排除すればいいのか。

寮美千子氏は『年報・死刑廃止2012』のインタビューの中で「私は宅間守に殺された池田小の子供の側なんですよ」と語っています。
「私は親が教育熱心だったから千葉大の付属小に入れてくれたんです。そうしたら金持ちの子しか来てない。千葉高校行って外務省に入って東京でずっと暮らしてきて、ともかく私、奈良に来るまで生活保護を受けてる人も在日の人も身近にいなくて会ったことがなかった。50過ぎるまでですよ」
私は寮美千子氏のように頭がいいわけではありませんが、社会的弱者と接することがほとんどなかったという点では寮美千子氏と同じです。
「だけど、貧しい人、困難な状況にある人がいるという事実を見ないですましている社会に加担していること自体が、私も誰かを、たとえば宅間のような立場の人を苦しめてる側の一員ではないかということを考えないといけないと思いました。わたしが、宅間のような人を創ってしまったのかもしれない」
そして、寮美千子氏はこのように語っています。
「汚いものとか、怖いものとか、悪いものとかを世の中から排除して押し出してそこにクリーンな社会が出来ると思ったら大間違いで、それは出来ないんです。そう思う気持が排除された人々を創り出すわけじゃないですか。それで追いつめて追いつめて大変な思いをさせて結果的に犯罪者を創りだしてしまう。そういう人たちは排除して、そんなものは見ないで暮らしたいと思う心自体がこの世の中を犯罪のある世の中にしているんだと思います。
自分は善人で自分は何にも悪いことはしていない、罪もないと思ってる人たちはほんとうはそこに気づかなくちゃいけないと思う。「道を外れた人々は排除すればいい、自分と関係ない」と思わないで、本当に同じ仲間として世界で同じ地平で生きてるんだと思わないと犯罪はなくならないと思います」

高田章子「罪を犯した少年は、更生できないのか?」にも同じ趣旨のことが書かれています。
「死刑廃止運動にたいする抗議の電話には、「自分が強かったから、つらい環境も乗り越えて今まで立派に生きてきたのに、つらい境遇だったから人を殺してしまったなどという言い訳は許さない」という人がいるし、「自分は絶対に人など殺さないから、そんな野蛮な奴は危険だから厳罰に処して社会から隔離すべきだ」と言う人もいるが、私にはどれも傲慢な言い分に聞こえてならない。罪を犯さずに生きて来られたことは、自分を褒めるのではなく、そう生きさせてくれた、今まで出会った周りの多くの人たちに、感謝すべきことなのではないかと思っている」
全面的に賛成です。

経済的、社会的に困難な状況にあるのならともかく、そういう状況でなければ精神的に余裕があるのだから、他者に対してちょっとでも寛容になれると思うし、そうすることが犯罪を減らすことにもつながると思うのですが、なかなかそうはいかないようです。

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伊藤実『アイシテル―海容―』

2012年11月23日 | 厳罰化

アーミッシュが犯罪被害に遭っても加害者を赦すのは、神への信仰と共同体の力があるからできることだと思います。
そうした信仰がなく、共同体の力が弱まっている日本でも赦しはあり得るのでしょうか。
伊藤実『アイシテル―海容―』は一つの答えになるかもしれません。

小1の息子が11歳の子供に殺される事件をめぐり、被害者の家族、加害者の両親の苦しみを描いた漫画です。

まず被害者遺族の悲痛、憤怒、そしてマスコミの過熱報道や匿名の嫌がらせなどの二次被害が描かれます。

『年報・死刑廃止2012 少年事件と死刑』の座談会「少年に死刑を科すとはどういうことか」で、青木理氏は被害者の抱える問題点について言及しています。
「被害者や遺族に社会はどう向き合うか、どうフォローしていくか。この点はさらに考えなくてはいけないと思います。木曽川・長良川事件の被害者遺族の一人も、初公判の日取りすら知らされず、メディアを通じて初めて知ったと憤っていました。別の死刑事件の遺族ですが、メディアの猛烈な取材攻勢に悩まされ、ショックと疲労で精神的に病を抱えてしまった人にも会いました。今はだいぶ増えているけれど、犯罪被害給付金も非常に少なかったころ、金銭的に困窮して借金に頼って暮らしている人もいました。金銭的なケア、心のケア、メディア取材への対応など、本来ならばそういった面での社会的フォローをもっと考えるべきです」
以前、犯罪被害者への賠償が支援の一つだと書いたら、「金で済まそうとするのか。ひどいな」とコメントされたことがありますが、お金は大切です。

「海容」とは「海のように広い寛容な心で、相手の過ちや無礼などを許すこと」という意味です。
『アイシテル』の被害児童の母親は加害者を許したわけではありません。
しかし、他人事とは思えなくなり、不安や自責の念を持つようになります。
そのきっかけは、加害児童が母親を嫌っていて「ババア」と言っていたと知ったことです。
「(加害者の母親は)自分の子が恐ろしいことをして、どんな思いかしら」

ニルス・クリスティ教授「人を殺すことができる背後には、その人を人間でないと考えてしまうことがあるのではないか。それが、死刑問題の根底にある」(『年報・死刑廃止2012』)
加害児童の親も苦しんでいるのでは、と想像することは、加害者やその家族を一人の人間として認めることです。
しかし、そのことは自分や家族が加害者になる可能性を想像することでもあります。

私たちは犯罪者の世界と自分の世界を分け、犯罪者を自分の世界から排除することで安心しようとします。
たとえば、姉を刺殺したとして殺人罪に問われた男性の裁判員裁判で、裁判長は「母や次姉が被告人との同居を明確に断り、社会内でアスペルガー症候群(広汎性発達障害の一種)という精神障害に対応できる受け皿が何ら用意されていない」「許される限り、長期間刑務所に収容することが、社会秩序の維持にも資する」などとして、検察側の懲役16年の求刑を上回る懲役20年の判決を言い渡したというのは、排除の一例です。

裁判所が発達障害を持つ人の基本的人権を否定したひどい判決ですが、裁判官と裁判員のどちらが主導したのでしょうか。
本当なら社会に受け皿のないことを問題にすべきです。
アスペルガー症候群の犯罪者なんてどうしようもない奴は刑務所に放りこんでおけ、ということですから、本音では抹殺すべきだと思っているのでしょう。
こんな判決を出した裁判官・裁判員は被告が20年後に社会復帰した時にどうすべきだとと考えているんでしょうね。

さらに困ったことには、安田好弘弁護士が「こういうことがあると検察の求刑が上がってきますね。検察にとって、判決が求刑を上回ったのは恥になるから。(略)
感情が先行すれば重くなりますね。いずれにしても求刑を超える判決というのは、裁判が裁判の役割を果たしていないということだと思います。だって、検察は、公益を代表しているんですから」(『年報・死刑廃止2012』)と言っているように、厳罰に処することが社会のためなんだという前例になってしまうということです。
犯罪者を社会から排除すれば安心できるかというと、そんなことはありません。

体感治安の悪化は自分が被害者になるかもしれないという不安によって作られたものです。
この不安は厳罰化への圧力や加害者家族への非難につながります。

『アイシテル』でも、被害児童の母親は「不安」という言葉を何度か口にします。
息子の写真に向かって「ママはいいママだった? 少年の親が特別悪い親だったの? それならなぜ皆こんなに不安なの……」
夫に「そうよ、わからないのよ。本音なのよ。子供の心の奥底なんてなにもわからない。みてんなそうなのよ。みんな不安でたまらないのよ」

加害者の家族になるかもしれないという不安をごまかすためには、加害者や加害者の親はモンスターにして、自分の世界と関係がないものにするのが普通だと思います。
しかし、『アイシテル』では加害者の親への共感が語られます。

中2の娘との間がギクシャクしたということもあり、
「私はいい母親だったのかしら。私だってののしられてもしようがない親だったんじゃないかしら」と夫に尋ねます。
そして娘と言い争いをし、夫に「私だって……いいお母さんじゃない。「いいお母さん」なんてそんなのどこにもいやしないのよ。子供を平気で深く傷つけて、そのくせなにも気がつかなくて。私も加害者の子のお母さんもみんな一緒よ」と言います。
そうして母親は加害児童の親に手紙を出し、加害児童の母と会います。
「私は思うのです。あなたと私は同じ姿を鏡に映しているのではないかと」

自分のあり方への疑問、自分の弱さの自覚が、他者(加害者)への共感に結びついたのではないかと思います。
『アイシテル』の母親のような人が実際にいるかはわかりませんが、許しと救いへの道を示しているように感じました。

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『アーミッシュの赦し』5

2012年11月19日 | 厳罰化

乱射事件の加害者をアーミッシュが赦したことに、多くの人が感動しました。
それは、こうありたい、しかしできない、と思っていることをアーミッシュは簡単にやってにいると感じたからでしょう。

しかし『アーミッシュの赦し』は、アーミッシュを過度に美化するのも間違いだし、アーミッシュも過ちを犯しやすい人間であることには変わりないと指摘しています。
アーミッシュとは文化や伝統が異なっている私たちが、アーミッシュをそのまま真似できるものではありません。

とはいっても、見習う点は多いと思います。

木嶋佳苗被告の裁判員裁判で死刑判決が下されました。
裁判員の一人(27歳・男性)は判決後の会見で「考えさせられる部分がたくさんあったが、達成感がある」と話したそうです。
「達成感」をどういう意味で使ったのでしょうか。

『年報・死刑廃止2012 少年事件と死刑』に載っている「魔女裁判を超えて 死刑法廷とジェンダー」という座談会には、こういう感想が述べられています。
北原みのり「裁判員の若い二七歳の男性が、死刑判決という重い判決をして、あなたはどう感じたのかということを質問された時に、裁判長に導かれるようにみんなで一体感を持って、結束してやりましたと答えました。スポーツ選手みたいな記者会見だったんですよね。とても充足感のある、達成感があるみたいなことを言う。私は本当に違和感があった。それはみんなで悪い女を団結してやっつけました、被害者の仇取りましたって、そういうふうに聞こえたんです」
裁判は被害者の復讐の場であり、死刑は国が被害者の代わりに復讐することだと言う人がいます。
この男性は北原みのり氏の言うように仇討ちのつもりで裁判員になったのでしょうか。

角田由紀子「さっき裁判員の人が達成感とかミッションとか感じるというのは困ったもんだというのはいけないかもしれないけど、達成感ってこの場合は人を殺すということじゃないですか、死刑にするということだから。その結論に加わって達成感を感じるって恐ろしいことだと思うの。(略)裁判員にとって死刑というのは抽象的なものなのよ。具体的な生きた人間が殺されるという話じゃない。だから一票入れた、達成感という言葉で表現できると思うの」
木嶋佳苗被告は否認しているし、状況証拠しかありません。
ですから、死刑の判決を出すことにためらいを感じた裁判員がいたでしょう。
そうした難題を克服して死刑判決に持っていったので達成感を感じたのかもしれません。
この男性が死刑の執行ボタンを押すことになっても達成感を感じるでしょうか。

忠臣蔵のような復讐劇に喝采し、復讐を美化する文化よりも、「許しなさい」とまでは言いませんが、恨みや怒りを手放すことに価値を見出し、育てていく文化を作っていくべきだと思います。

青木理「刑事司法の厳罰化で応えるというのは、一見すると分かりやすいけれど、実は一番安易で無責任な方法でしょう。メディアにしても、社会にしても、「厳罰に処せ」「死刑にしろ」などと一時的に盛り上がっても、すぐに次の血祭り対象を見つけ、事件や被害者のことなんて忘れていってしまうわけですから。そうじゃなくて、残念ながら一定の割合で発生してしまう犯罪の被害者や遺族を社会的にフォローし、一方で加害者に贖罪の念を抱かせ、できる限り更生の道を探っていくことが本来の道であり、僕たちはそういう社会システムをこそ目指していくべきです。厳罰化し、死刑で加害者を葬ることこそが正義だ、というような昨今の風潮は、極めて表層的で、こちらの方がよほど社会の病を表象しているように思います」
(『年報・死刑廃止2012』)

世の中をよりよいものにしていくのは、怒りや恨みではありません。
『アーミッシュの赦し』に、「人間の〈真の〉欲求は、癒しと希望によって悲劇を乗り越えることなのだ」とあります。

「アーミッシュにとって、意味と希望ある生を送るには、赦す、それも速やかに赦すことが望ましいやり方である。赦しには、復讐を進んで断念することを含むが、出来事を帳消しにしたり、罪を赦免することは含まない。それでも、赦さずに恨みを抱えているよりも希望をもって、暴力の少ない未来へ踏み出す最初の一歩になるのである」

オスロ大学のニルス・クリスティ教授も講演で「2011年のオスロ連続テロ事件に触れ、「77人を殺した犯人に適切な応報を考えることは不可能であり、犯人は移民の排斥や死刑の復活などを求め社会を変えようとしたが、それに応えるのは厳罰ではなく「赦し」ではないか」と話したと、小川原優之「日本弁護士連合会の死刑廃止についての全社会的議論を呼びかける活動」(『年報・死刑廃止2012』)にあります。

あるアーミッシュはこう語っています。
「恨みを一日抱えているのは、悪いことだ。二日抱えているのは、もっと悪いことだ。一年も抱えていたら、あいつ[ロバーツ](加害者)が僕の人生をコントロールしていることになる。それくらいなら、今すぐ恨みを捨てたほうがいいだろう?」

怒りや恨みが自分自身を蝕むことは、私たちも日常の中で経験することです。
「赦し」だと宗教的ですが、「怒りや恨みに振りまわされない」ということなら我々にとっても身近な課題だと思います。

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『アーミッシュの赦し』4

2012年11月16日 | 厳罰化

そもそも、赦しとは何か?
どうすることが赦しなのか?
「あなたを赦します」と言えば赦したことになるのか?
怒りを〈捨てた〉状態を言うのか?
怒りを忘れようと〈努める〉だけでいいのか?

『アーミッシュの赦し』にはそこらについて論じられているので、一部ご紹介します。

・赦しとは?

1,復讐しない
2,怒らない
3,恨まない
4,憤らない

被害者が怒ってはいけないというわけではありません。
「害を受けたときの怒り、その他の否定的感情を抜きにして赦しを語ることには、ほとんど意味がない」

復讐・怒り・恨み・憤りは似ているようですが、ちょっと違うそうです。
アーミッシュは「怒るのはよくないですが、避けられるものでもない。大切なのは、恨みを抱えないことですよ」と言っています。
また、害を受けたときの最初の反応である〈怒り〉と、最初の怒りを感じ続ける〈憤り〉は区別されるそうです。
「もし、赦しとは復讐する権利を放棄することである、という定義をとるなら、彼ら(アーミッシュ)は明らかにロバーツ(加害者)を即座に赦したといえる。もし、赦しとは憤りを克服し、愛に置き換えることだとするなら、答えは定まらない。先ほど見たように、恨みが完全に解消されてはいないからだ」

・「決意された赦し」と「心からの赦し」
「決意された赦し」とは、否定的感情が残っていても、否定的行動はコントロールするという誓約。
「心からの赦し」とは、否定的感情―憤り、恨み、あるいは憎悪―が、肯定的感情に置き換えられている。
「要は、赦しには短期的な行為と長期的なプロセスの両方がある」
まずは赦すことを決意し、それが心からの赦しに変わっていくということでしょうか。

・赦しの条件として加害者の悔悛は必要か?
加害者が深く悔いている姿を見れば、怒りは次第にほどけてくることもありますが、平然としていたら、とてもじゃないけど赦す気にはなれません。
ところが、「赦しの研究者のなかには、赦しは無条件に与えられるべきで、加害者の悔悛の念には左右されないと考える人々もいる。彼らの見解では、赦しは完全に被害者の選択だ」とあります。
赦しとは自分のための行為ということかもしれません。
「怒りは誰のためにもならず、怒りを抱え続ける者を一層みじめな気持ちにするだけだ」

・赦しの効用
「赦しを研究する心理学者によれば、一般に、赦す人は赦さない人よりも幸福で健康な生活を送れるという」
心理学者のロバート・D・エンライト、エヴェレット・L・ワージントン・ジュニアによると、「赦しは与える側の「怒り、抑鬱、不安、恐怖」を軽減し、「心血管系と免疫系に好ましい影響」を与える」そうです。

・赦しと区別すべきこと
赦しと似ているようでも違っていることがあります。

赦しと和解の違い

「赦しと和解の間には明瞭な一線が引かれる。和解は、犠牲者と加害者、双方からの誠実な努力を必要とするものだからである」

赦しと赦免の違い

「赦しが与えられたからといって、加害者が自らの行為が招く懲罰(法的な処罰その他)を免れることにはならない」

次のことも赦しとは違います。
1,悪行がなされなかったかのように振る舞うこと
2,出来事を忘れること
「赦しとは、赦して忘れることではなく、むしろ赦したことがいかに癒しをもたらしたかを記憶にとどめておくことなのだ。記憶するとは、悲劇と不正に寸断された生のかけらを拾い集め、何かしら完全なものに再び組み入れることである」
3,容認や弁護
犯人のロバーツが女の子たちと教室に閉じこもると、教師はすぐさま警察に電話しています。
4,無関心
「赦しとは、そのような不当な行為は間違っていると認め、再び繰り返すべきでないとすること」

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『アーミッシュの赦し』3

2012年11月12日 | 厳罰化

アーミッシュの赦しはすぐに報道され、大きな反響を呼んだそうです。
多くは赦しに驚愕し、称賛しているが、疑問を持つ声もありました。
「その場に相応しい感情の欠落」
「健全な情緒が抑圧される」
「赦すのは犯罪を真摯に受け止めないことだ」
「赦すのが早すぎる」
「悪への運命論者的な態度」
「悔悛しない罪人も進んで赦してしまうこと」
「他者に代わって赦しを与えてしまうこと」など

オドーネ(カトリックのコラムニスト)「彼らは無垢な者の大量殺戮を前にしても、主は与えたもう、主は与えたもう、と繰り返すばかりだ」

殺された姉妹の祖父とテレビのレポーターとのやりとり。
「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか?」
「いいえ」
「もう赦している?」
「ええ、心のなかでは」
「どうしたら赦せるんですか?」
「神のお導きです」
正直なところ、こりゃなんだと私も思います。

時間の経過ともに怒りや恨みがほどけてくることはあるにしても、事件発生直後にも加害者に対して怒りを持たないのはなにやら不自然で、感情を抑えつけて信仰に逃れているように感じます。
しかし、アーミッシュは赦したからといって悲しまないのではないし、悪行を大目に見たり、加害者を司法によって罰することを否定しているわけでもありません。
アーミッシュにとっても赦すのは簡単なことではないらしいです。

「事件に対してアーミッシュが抱いた感情は、とてもこんなふうに言い切れるものでなく、もっとずっと複雑なものだった。同じように、彼らが与えた赦しの贈り物は、一部の評者が思ったほど、迅速でも容易でもなかった」

また、信仰があるからといって子供たちの死が軽くなるわけではありません。
「アーミッシュの親たちも、外の人間と同じように我が子の死を嘆くのである」

アーミッシュは「赦しとは終わりのないハードワークだ」と言っています。
乱射事件で娘を失った母親「時間が経てば自然と赦せるようになる。でも、最初は意志が必要なんです。だから、赦したつもりでいても、後で恨みが蘇ることもあります。また初めから赦し直すしかありません」

「現在進行中の罪を赦すことのほうが複雑で難しいのだ。些細な罪でもそれはいえることで、たとえばの話、くる日もくる日も上司から侮辱され続けているような者は、なかなか上司を赦せないものである」
我々も日常生活でのもめごとを赦すほうが意味難しいわけですが、そのことはアーミッシュにとっても同じだそうです。

アーミッシュもこんなことを語っています。

「悩ましいのは仲間うちの恨みつらみです。ロバーツのような外の人間[を赦す]より、仲間を赦すほうが難しいことがあります。私たちにも不満の種はありますから」
「大きな罪は簡単に赦せるけれど、些細な出来事がどうしても駄目、ということもあるよ」
「アーミッシュにも、赦すのに難儀する連中はいる。赦しは闘いだよ。人を赦すというのは難しいことだ」

乱射事件はアーミッシュにとっても特別なケースでした。
犯罪規模が大きかったために、コミュニティ全体が相互扶助の精神で支えあうことができたということがありますし、加害者を赦すことができたのかもしれません。

「殺された少女の一人の親にとって、いくつかの意味で、殺人犯より赦し難いのは、マスコミに情報を漏らした身内だった。赦しがうまくいかない例として、ほかに家族間の対立、夫婦の不和、遺産相続のケースなどが挙げられた」
相手を赦せないという気持ちがしずまっていくとは限らないし、怒りが湧くことはあるので、何度でも赦し直さなければいけないわけです。
その中で赦しの生活が習慣となっていくのではないかと思います。

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『アーミッシュの赦し』2

2012年11月08日 | 厳罰化

アーミッシュの学校で乱射事件が起き、5人の女の子が死亡、5人が重傷を負ったにもかかわらず、被害者家族を含めたアーミッシュは加害者をすぐに赦しています。
どうしてなのでしょうか。
それはアーミッシュにとって赦しは日常生活の一部であり、生活の大事な部分を占めているからです。

「赦しは、アーミッシュの生活のなかにしっかりと織り込まれている。その糸は、神への信仰、聖書の教え、殉教の歴史が固くより合わさってできている」
アーミッシュは「人生は短く来世は長い、天国と地獄は存在すると考える人たち」なのである。

「私たちの赦しに大きな影響を与えているのは、主の祈りです。赦さなければ、私たちも赦されません」
「天にまします我らの父よ」で始まる主の祈りの中に「我らが人に許す如く我らの罪を許し給え(わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします)」とあり、主の祈りの直後には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないんさら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とある。

この言葉をどう解釈するか。
一般的なプロテスタントの教義「神は罪を犯した者もお赦し下さるのだから、不当な仕打ちを受けた者も相手を赦すべきなのだ」
アーミッシュ「神は他者を赦した者〈しか〉お赦し下さらない」

「アーミッシュは、赦されるためには、赦さなければならない、と信じている。それがアーミッシュの信仰の核心、救いの概念の核心なのだ。神の赦しは、他者を進んで赦せるかどうかにかかっている」

あるアーミッシュは問い合わせにこう回答している。

「私たちが赦さないとしたら、私たち自身も赦しを期待できません。赦しを与えないのは、悪事を働いた者以上に、私たち自身を損なうことになります」

では、殺人犯がまだ生きていて、しかも悔悛の念を示さなくてもアーミッシュは赦したか?
答えは「はい」です。
「アーミッシュが乱射事件でとった対応は驚くべきものであったが、彼らの間では、例外的でもなければ、珍しくもなかった」
『アーミッシュの赦し』には実際に起きたさまざまな事件への対応が紹介されています。

1957年、強盗が妻を暴行し、夫を射殺した事件があった。
アーミッシュが「逃亡した犯人への憎しみをまったく示さず」、しかも「殺された男の家族の誰も、犯人に復讐したいという気持ちをもっていない」ことに報道陣は困惑した。
夫の父親は刑務所で犯人と面会し、「神があなたをお赦しになりますように」と言った。
死刑判決が出ると、アーミッシュから知事に寛大な処置を求める手紙が殺到した。

1979年、10代4人が、よくやっていたように嫌がらせでアーミッシュの馬車に石やタイルを投げたので七カ月の娘が死んだ。
犯人たちは罰金を課されたが、懲役は執行猶予が付き、保護観察ですんだ。
死んだ娘の両親は「四人の少年は罪を犯したことで苦しんでいます。大変に苦しんでいます。彼らはしたこと以上の報いをすでに受けているのです。被告を刑務所に入れても何もよいことはないと思われますので、どうか彼らに寛大な処置をおとり下さいますようお願いします」と書かれた文書を提出している。

1992年、5歳の息子が交通事故で失った母親は、捜査官が車の運転手にアルコールテストを受けさせているときに、警官に「私たちは彼を赦します」と言った。

1995年、15歳の少女が強姦されたが、地方検事は「普通は犯人への怒りで逆上するものだが、この事件ではそうではなかった」と述懐している。

どうやらアーミッシュは被害に遭うと、すぐに加害者に赦しの言葉を言うようです。
以上の事例は加害者側に触れていませんが、次の事例は加害者の対応が書かれています。

1991年、ハネムーン中だったストルツファス夫婦が馬車で帰宅する途中、17歳の少年カイムが運転する車と衝突し、新妻は死亡した。
事故の翌日、カイムの両親が夫婦の家を訪問したら、夫の祖母や父、妻の両親から「あなたを赦しますよ。あの子が死んだのは神の思し召しです」と赦しを与えられ、夕食に招待された。
夫にも面会う。
カイム「彼も両親と同じように、腕を広げて近づいてきた。どうすれば償いができるでしょう、と聞くと、彼はただ僕を赦すと言った。僕たちは抱きあった。赦されたことで解放感が体中に広がっていった」
カイムとストルツファス家との付き合いはその後も続き、後にカイム夫妻は海外で宣教師の仕事に就いたが、ストルツファス家は経済的支援までしてくれた。
カイム「彼らが教えてくれた赦しは、その場限りのものではなかったのである」

いつも被害者と加害者の美しい物語になるわけではありません。
1982年、50歳の女性ナオミ・フヤードは男性二人組から性的暴行を受けた末、惨殺された。
犯人の一人は被害者の隣人だった。
「殺人の性質や、長期におよぶ裁判で、フヤードの最後の数分がどんなものだったかが少しずつ明らかになるにつれ、家族の煩悶はいっそう深まっていく。ナオミの名の一人が、犯人を赦すことがどれほど苦悩を伴うことだったか、事件の二年後に率直に語っている。それによると、被害者一家は、隣家の人と何を話すべきか思い悩んだという。事件直後から、彼らは顔を合わせ、一緒に泣いた。彼らは隣家の家族に「あなたたちが悪いのではないのだから、責めたりしませんよ」と伝えたという。しかしその後、犯人の両親が、証拠が山ほど揃い、裁判でも結局、有罪判決が出たのに息子の潔白を主張したため、フヤード家の人たちは、怒りと狼狽から夫妻と絶交同然になってしまう」

「(ナオミの姪が十年後に出版した本に)犯人への怒りを放棄するのは本当に難しかった、ということも打ち明けている。彼女は、犯人は二人とも「病んでいる」と信じていたが、同情を引こうとしたり、アリバイを捏造したりする悪巧みにはとてもついていけなかった」
加害者が罪を悔いて謝罪しないと、アーミッシュだって何か後味の悪さが残るらしいです。
アーミッシュも怒りを持つと知ると、何だかホッとします。

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『アーミッシュの赦し』1

2012年11月05日 | 厳罰化

ピーター・ウィアー『刑事ジョン・ブック 目撃者』にアーミッシュの生活が描かれていて、それがウィリアム・モリス『ユートピアだより』を思わせていい感じなのである。
それで、D・B・グレイビル『アーミッシュの謎』、池田智『アーミッシュの人々』を読んだのははるか昔の話です。

宗教改革の時代に迫害を受けてアメリカに移住したアーミッシュは、17世紀の生活を基本的に守っている閉鎖的集団である。
神への信仰が生活の中心であり、教えに沿ったきまりが遵守される。
彼らは教区単位で生活するが、一つの教区に平均して25家族、大人75人。
個人主義を嫌う彼らは同じ服装をするなど、個人が目立つことがないようにし、個性を押し殺す。
アーミッシュは外の世界と分離した自給自足の独立した農業社会であろうとして、距離を置いて生活している。
しかし、どうしても外の世界と関わりを持たざるをえない。
そこで、簡素な生活、同一の服装、ドイツ語の方言などを守ることで独自の文化を構築し、現実社会との間に際だった差異を強調することで独自性を保っている。
何を受け入れるか慎重に検討され、急速な変化を生じることは避ける。
たとえば、自動車の運転をしないが、自動車には乗る。
電話を所有しないが、公衆電話は使う。
そんなアーミッシュの生き方は窮屈かもしれないが、歴史のある時点にとどまることによってなつかしさを感じさせ、現代文明を批判する鏡ともなっている。

ドナルド・B・クレイビル、デヴィッド・L・ウィーバー‐ザーカー、スティーブン・M・ノルト『アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか』は、アーミッシュの社会で起きた乱射事件とアーミッシュの赦しについて書かれている。

2006年10月、ペンシルベニア州ニッケル・マインズのアーミッシュ学校で乱射事件があり、7歳から13歳の少女5人が死亡、5人が重傷を負い、犯人のチャールズ・カール・ロバーツ四世は自殺した。
ロバーツは32歳、農場を回って牛乳を回収する仕事をしており、アーミッシュとも顔なじみだった。
どうやら少女たちに悪戯し、そうして全員を殺して自殺するつもりだったらしい。

被害者の家族を含むアーミッシュはロバーツと彼の家族を赦した。
「世界を驚かせたのは、ニッケル・マインズのアーミッシュが、その直後に殺人犯を赦し、その家族に思いやりあふれる対応をとったことだった」

事件の当日に、アーミッシュはロバーツの妻エイミーや両親のもとを訪れ、赦しの言葉と慰めの言葉を伝えている。
そして、「ロバーツの葬儀の前日か前々日、我が子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちも何人か墓地へ出向いて、エイミーにお悔やみを言い、抱擁している」
さらには、「殺された何人かの子の親たちは、ロバーツ家の人たちを娘の葬儀に招待した。さらに人々を驚かせたのは、土曜日にジョージタウン統一メソジスト教会で行われたロバーツの埋葬では、七五人の参列者の半分以上がアーミッシュだったことである」

ロバーツの家族はこう述懐している。
「三五人から四〇人ぐらいのアーミッシュが来て、私たちの手を握りしめ、涙を流しました。それからエイミーと子供たちを抱きしめ、恨みも憎しみもないと言って、赦してくれた。どうしたらあんなふうになれるんでしょう」

事件から数週間後、ロバーツ家の人たちと子供を失ったアーミッシュの家族たちが面会し、悲しみを分かち合った。
その場の雰囲気をアーミッシュの指導者はこう語っている。
「私たちは輪になって座り、順番に自己紹介しあいました。エイミーはただもう泣きじゃくるばかり。ほかの者も話しては泣き、話しては泣きしていました。私はエイミーのそばにいたので、彼女の肩に手をかけ、立ち上がって慰めようとしたんですが、自分も泣いてしまいました。本当に心が震えるような経験でした」

ニッケル・マインズで起きた乱射事件が報道されると、世界中からさまざまな支援の手が差し伸べられた。
銀行に義援金の口座が開設されたのだが、ニッケル・マインズ子供基金とロバーツ家基金の二つで、加害者家族への義援金も集まっている。
事件発生から数カ月の間に世界中から寄せられた義援金は400万ドル。
アーミッシュは基金の一部をエイミーに渡すことに決めた。
なぜこんなに早く赦せるのか、指導者の指示か、すべては偽装で自己宣伝なのか。

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『空が青いから白をえらんだのです』

2012年11月01日 | 厳罰化

 くも
空が青いから白をえらんだのです

Aくんは、普段はあまりものを言わない子でした。そんなAくんが、この詩を朗読したとたん、堰を切ったように語りだしたのです。

「今年でおかあさんの七回忌です。お母さんは病院で
『つらいことがあったら、空を見て。そこにわたしがいるから』
とぼくにいってくれました。それが、最期の言葉でした。
おとうさんは、体の弱いおかあさんをいつも殴っていた。
ぼく、小さかったから、何もできなくて……」
Aくんがそう言うと、教室の仲間たちが手を挙げ、次々に語りだしました。
「この詩を書いたことが、Aくんの親孝行やと思いました」
「Aくんのおかあさんは、まっ白でふわふわなんやと思いました。
「ぼくは、おかあさんを知りません。でも、この詩を読んで、空を見たら、ぼくもおかあさんに会えるような気がしました」
と言った子は、そのままおいおい泣きだしました。

「FORUM90」Vol.125に「京都女子大学公開講座 死刑廃止への道」の案内が載っていて、講師は寮美千子氏である。
たまたま知人からもらった寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』を読んでいたので、ちょっとびっくり。
『空が青いから白をえらんだのです』の最初に、Aくんの「くも」という詩が紹介されている。

この詩集は奈良少年刑務所の「社会性涵養プログラム」で作られた詩を集めている。
書いたのは奈良少年刑務所の受刑者である。
少年刑務所は少年院よりも刑の重い人が入るというわけではない。
奈良少年刑務所には入所時の年齢が17歳以上26歳未満の受刑者がいる。

寮美千子氏は「奈良少年刑務所で、受刑者相手に童話や詩を使った情操教育の授業をしたいんですが、講師をしてもらえませんか」と依頼され、躊躇した。
「受刑者と聞いて、即座に「凶悪」「乱暴」というイメージが浮かんだ。一体、どんな罪を犯して刑務所に入ってきたのだろう」
受講予定者には強盗、殺人、レイプなどで刑を受けている人もいる。
「怖い、と思った」
しかし、教育統括の受刑者の更生を願う愛情を感じ、そして受刑者は社会の被害者かもしれないと思って、引き受けることになる。

「社会性涵養プログラム」の対象は、
「みんなと歩調を合わせるのがむずかしく、ともすればいじめの対象にもなりかねない人々。極端に内気で自己表現が苦手だったり、動作がゆっくりだったり、虐待された経験があって、心を閉ざしがちな人々」である。

このプログラムはSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)、絵画、童話と詩の三つの要素で構成されている。
それぞれ月1回、一時間半の授業があり、月3回の授業を6か月、合計18回だから、童話と詩の授業は全6回。
受講者は10人前後。

1回目は絵本を朗読して、みんなで演じる。
2回目も絵本を読み、3回目は詩を声を出して読み、感想を聞く
そして、受講者に詩を書いてもらい、その詩を本人が朗読し、みんなで感想を述べる。

「たったそれだけのことで、目の前の彼らが、魔法のようにみるみる変わっていくのだ」
寮美千子氏はたまたまうまくいったのだと、最初は思ったが、そうではなかった。
「五期目が終了したが、効果が上がらなかったクラスは一つとしてない。ほとんどの受講者が、明るい、いい表情になってきて、工場の人間関係もスムーズになる」

「彼らの大きな変貌ぶりを思うと、わたしはなんだか泣けてきてしまうのだ」


「こんな可能性があったのに、いままで世間は、彼らをどう扱ってきたのだろう。このような教育を、もっとずっと前に受けることができていたら、彼らだって、ここに来ないですんだのかもしれない。被害者を出さずにすんだのかもしれない。「弱者」を加害者にも被害者にもする社会というものの歪みを、無念に思わずにはいられない」


何が効果を上げたのか、その要因を寮美千子氏はいくつかあげている。

その一つがグループワークという場の力
「自分が発表しているときは、残り全員が、自分に耳を傾けてくれる。朗読を終えたときも、みんなが拍手をくれる。十数名からの拍手を得られるということの大きさ、誇らしさ。もしかしたらそれは、彼らにとって、生まれて初めての体験かもしれない」

「ぞうさん」を歌いながら踊ろうと言うと、一人が「いやだ」と断った。

「どうして? この歌、知ってるでしょう。一度でいいから、歌ってみよう」
「知らないっ」
「え。幼稚園とか小学校で歌わなかった?」
「幼稚園も、小学校も行ってない」

寮美千子氏は言葉を失う。
「生まれてからずうっと日本に住んできたのに「ぞうさん」の歌ひとつ歌わないまま、育ってしまう子がいるのだ。どんなにかきびしい環境だっただろう。想像もつかない」

『空が青いから白をえらんだのです』を読むと、彼らが今まで置かれてきた環境の悲惨さ、そしてどんな罪を犯した人間であっても更生する可能性があることを教えられる。
だからこそ、死刑によって命を断つことに疑問に感じざるを得ない。

「心の扉が開いてこそ、人は罪と向き合うことができる。詩は、彼らの心の扉を開いた。罪を悔い、償いの心を忘れず、社会が温かく迎え入れてくれれば、彼らはしっかりと社会復帰への道を歩むことができるはずだ」
「死刑廃止への道」での寮美千子氏の話を聞いてみたいものです。

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