三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

松本史朗『縁起と空 如来蔵思想批判』 2 無我

2005年01月26日 | 仏教

インド思想では、すべてのものには本質があると考える。
それが我(アートマン)である。
我は常住不変である。
なぜなら、もし私の中で一貫し続けるものが変化したり、なくなったりするんだったら、私が同じ人間であり続けているとは言えない。
ということで、肉体が死んでも常住不変である我は存続するわけで、我は再び肉体に宿る、すなわち輪廻する。
つまり、我は輪廻の主体であるから、霊魂と同じと言っていい。

もっとも生まれ変わるのは人間の肉体とは限らない。
六道輪廻、何に生まれ変わるかわからない、だからこそ輪廻は苦なのである。
この点が、人間から人間の生まれ変わりを説く神智学・ニューエイジとインド思想との違いである。

それに対して、仏教では無我を説く。

ところが無我には、非我説と無我説とがある。

非我説とは、「我ではない」ということである。

我々は身体・心・こころのはたらき(五蘊)を我だと思い、執着して苦しんでいる、しかし五蘊はいずれも我ではない。
我ではないものを我だと思い込んで執着しているということが、非我である。
非我説の立場だと、我の実在を認めるらしい。
私はずっと「仏教は我を否定している」とばかり思っていたので、非我説は我を肯定していると言われるとびっくりしてしまう。

無我説とは「我(アートマン)はない」ということである。

我の実在を否定する。
このことは水野広元氏によると、

無我とは「我がない」「我ではない」となるが、我とは生滅変化を離れた永遠不滅の存在とされる実体や本体といわれるものである。このような実体や本体は仏教ではこれを経験し認識することができないから、それが存在するか否かは不明であり、無記であるとして、これを問題とすることを禁じた。この意味で仏教では「実体的な我がない」とはいえないが、我々の世界における一切法(すべての存在)が「我ではない」ということはできる。

ということで、我が実在するかどうかは無記、わからない。

非我説(我の実在を肯定)に立つならば、釈尊の教えは我の実在を説くインド思想の伝統の中にある。

つまり、ヒンズー教も仏教も同じことを言っているということになる。

無我説(我の否定)に立つならば、釈尊の教えはインド思想の異端ということになる。
桜部建『仏教とは何か』に、次のことが書かれている。

仏教は一切妥協しない。アートマンがあるとは決して言わない。常にアートマンはないという立場を保持している。(略)
古いパーリ語の韻文の経には、しばしば「アッタン(サンスクリット語形のアートマン)」の語が現れ「無我」の語はかえって現れない。


松本史朗氏によると『スッタニパータ』には「アートマン(我)」という言葉がやたらと出てくるという。
たとえば「自灯明、法灯明」という言葉がある。
釈尊はこの言葉を遺言として残したということになっている。

それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

「灯明」というのは実は誤訳で、本当は「川の中洲」という意味だが、いずれにせよ、「自らをよりどころにしなさい」とはどういう意味か、私にはわからなかった。
仏法はともかく、自分なんて全然頼りになりませんからね。
ところが、「自灯明」の「自」とはなんとアートマン(我)なんだそうで、ああそうかと納得。

我(アートマン)を否定すると、では何が輪廻するのかということになる。
無我説は輪廻の主体である我を否定するから、輪廻説とは矛盾する。
宮元啓一氏は『インド思想七つの難問』で、

無我説は理論として立てるべき代物ではないのではなかろうか。

と、極端なことを言っている。

無我をどう考えるべきなのか。

1,釈尊の教えはバラモン教やジャイナ教と同じく我の実在を説く
中村元氏は、非我説=我実在論=仏教インド思想伝統論、さらにいうと、すべての宗教は結局のところ同じことを説いているという考えなんだそうだ。

2,アートマンを説く「スッタニパータ」は非仏説である

これは松本史朗説。

3,アッタンとは自己だという説

桜部建説は以下の通り。

(古いパーリ語の韻文の経に現れる)アッタン(アートマン)は、常住不変のアートマンの意味でなく、ただ「自己」を意味する。経典は、自己(アッタン)を確立せよ、と教えるが、その自己とは自心である。自己の確立は自己調整・自己制御による、と説かれる。それは自己との戦いに勝つことである。


はてさて、どれが正しいのでしょう。

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五来重『宗教歳時記』

2005年01月22日 | 

節分について五来重氏の本に書いてあったと思い、調べてみると『宗教歳時記』に「節分の豆塚」という文章があった。
・節分の豆は鬼を追うためのものではなくて、厄を豆にうつして外に捨てるものだった。
・豆を投げることがどうしておこったかというと、厄落としからきている。体をなでて厄をうつした豆を、初め道の辻や特定の塚などに捨てていたのが、直接戸外に捨てるようになった。
・節分は立春を元日とする暦では大晦日にあたる。
・節分の鬼は大晦日に帰ってくる先祖の霊である。
・祖霊を鬼として表象することは一般的であった。それが仏教や陰陽道の影響で邪悪な鬼となった。
などなど、へえ~と驚くことばかり。

昔は4月3日に必ず花見をしたそうだ。
病院に勤めていた方の話だと、昭和40年ぐらいまでは4月3日は病院が休みになって、職員や家族みんなで花見に行ったとのこと。
近年は暖かいので、4月上旬には満開となり、年によっては散り始めるが、以前だったら花見には早い時期である。
どうして4月3日なのかと思っていたのだが、ある方から旧暦の雛祭りだと教えられた。
そうか、先祖は山に住んでいるわけだから、花見に野や山に行くのは、先祖と子孫が交流するという意味があるんだと思ったわけです。

ところが、『宗教歳時記』を読むと、それは間違いでした。

古来から3月3日には、山遊び、川遊び、磯遊びをしていたのだが、これは成女式である。
少女が一人前の大人になるための通過儀礼なんだそうだ。
4月3日に花見をするのは、女だけが山に行って食事をする習慣が、いつの間にか花見が目的になったということだと思う。

13歳になると、少女の罪穢をはらって清浄な成女として生まれかわるために、川で水浴をしていたのが、水浴をやめて、身代わりの人形を流すようになった。

これが流し雛である。
紙で作った人形が流し雛であり、それが土や木で人形が作られるようになると、神体として保存されるようになった。
これが雛人形である。
というぐあいに、五来重氏の本を読むと必ず目からウロコなのだが、悲しいかなすぐに忘れてしまう。

大学時代、五来重氏の民俗学の講義を受けたことがある。

最初の授業では民俗学とは何かみたいなことから始まるのかと思っていたら、前日の続きを話すような感じで一番前に座っている院生を相手にしていて、私には何の話やらちんぷんかんぷんだった。
おまけに前期試験はレポート用紙10枚以上。
それで授業に出るのをやめました。

五来重氏の本を読むようになったのは、年末に長野県上村に行ったことがきっかけである。

ほんとたまたまだったのだが、奥三河から南信濃にかけての新年を迎える祭りが有名で、見物に来る人も多い。
宿で一緒になった人が駒沢大学の先生で、こうした庶民信仰の大切さを説明してくれて、五来重氏の本を薦められたのだった。

五来重氏は、

仏教の教団化と教理化のなかで、宗派をこえた庶民信仰としての仏教が無視され、疎外されている。

と批判している。
正直なところ、多くの人は仏教の教理なんてものよりも、葬式や法事をどうすればいいのか、庶民信仰、習俗としての仏教にしか関心はない。
宗教的なもの(庶民信仰、習俗)を切り捨てることなく、しかしそこにとどまることなく、宗教へつなげることができればいいのだが。

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松本史朗『縁起と空 如来蔵思想批判』 1 釈尊のさとり

2005年01月16日 | 仏教

松本史朗『縁起と空』を読んでいろいろ考えた。
といっても、この本は論文を一冊にまとめたものなので、正直なところちんぷんかんぷんなページが大半なのですが。

松本史朗氏の基本的立場は
1,仏教は縁起の教えである
2,縁起とは十二支縁起である
3,仏教は我(アートマン)の実在を否定する
ということだと思う。

このこと自体はもっともだと思うが、しかし松本史朗氏の過激な点は、これ以外の教えは仏教ではないと、あっさり切り捨ててしまうことである。

仏教思想から“ヨーガ”と“禅定”に関わる思想をとり除きさえすれば、“正しい仏教”は自ずから明らかになると考えている。

駒沢大学の先生がこんなことを断言していいのかしらと心配したくなる。

釈尊は菩提樹の下で何をさとったか?

縁起だという説と、言葉では表現できない真理を直接に体験、真理と一体化したという説があるそうだ。
後者の立場に立つ玉城康四郎氏は、

法(真理)は、言葉を越えて直接に経験されなければならない。

と言っているとのことで、玉城康四郎氏の考えだと、釈尊のさとりとは一種の神秘体験だということになる。

それに対して、松本史朗氏は神秘体験を否定する。

釈尊の悟りは、決して不可説の、言語表現を絶した神秘体験ではなく、言葉と概念による一定の論理的構造をもち、従って、言葉というものから決して切り離すことのできない、明確で知的な認識であった。


では、釈尊は何をさとったのか。
縁起、それも十二支縁起である、というのが松本史朗説である。
縁起とは相依相関、つまりすべての存在はお互い関係し合って存在している、他と無関係に存在しているものはない、ということだと私は思っていた。
しかし松本史朗氏は、縁起とは十二支縁起だと言う。

十二支とは
無明(無知・愚)→行(行為)→識(認識)→名色(認識の対象)→六処(感覚器官)→触(接触)→受→愛(渇愛、欲望)→取(執着)→有(存在)→生→老死(苦)

老死(苦)は何によって生じるのか、それは無明(無知、愚か)によってだ、というのが十二支縁起ということだ。(かなり省略した説明であるが)

無明とは、「縁起の道理を知らないこと、無知」という意味である。
しかし「根本的生存欲(渇愛)」だという説もある。

釈尊が最初に説法したのは四諦だとされているが、四諦説によると、渇愛(欲望・執着)が苦の原因である。

だが、常に定説を否定する松本史朗氏は、四諦説は通俗的だとして排するわけですよ。
たしかに、欲望・執着を捨て去れば苦しみを滅することができるんだ、という教えは当たり前の発想であり、事実どの宗教でも説いていて、仏教独自とは言えない。

それと、欲望、執着が苦の原因だということに松本史朗氏がひっかかるのは、我(アートマン)の問題が関係しているからである。

我については後で考えるとして、釈尊自身は無明を滅したのか。

釈尊にとって“無明”は滅したとはいえない、と解するのが自然であろう。

と松本史朗氏は言っている。
つまり、釈尊は仏ではあっても、無明も煩悩も執着も、したがって苦も滅していないということになる。
なにやらホッとしました。

そしてさらに、松本史朗氏は、

人は、“渇愛の滅尽”を求めて、“只管打座”したり、“念仏”したりするわけではないのである。

とも言う。
行によって悟るわけではないということだとしたら、賛成です。

(追記)
竹村牧男駒澤大学学長の『唯識の構造』に、こんなことが書いてあった。

釈尊は縁起の理法を悟ったという。その縁起が十二支であったかどうかは、それほど問題のことであろうか。肝心なことはただ一つ、我々の迷いの根源は無明である、縁起の始源は無明にある、という発見である。無明というものをつきとめたことこそが悟りなのであり、縁起をいかに辿るかが悟りなのではあるまい。

松本史朗氏の主張を念頭において書かれたのではないかと思いました。

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根岸吉太郎『透光の樹』

2005年01月14日 | 映画

キネマ旬報のベストテンに『ハウルの動く城』『深呼吸の必要』『茶の味』などが入っていないのに、なぜか根岸吉太郎『透光の樹』が10位に入賞している。
なぜだ~。

かつて秋吉久美子の大ファンだった。
すねたような表情は我々のつかみきれない感情を表しているようであり、焦点のずれたような目つきには我々の見えない何かが見えているような気がした。

ずっと以前、秋吉久美子がまだ魅力を維持していたころ、「オールナイトニッポン」のDJをしていて、聴取者からの手紙に「秋吉さんには何もかも見抜かれているようで、何も書けません」というのがあり、「そんなのわかるわけないじゃない。私はそんな人間じゃない」と秋吉久美子が言っていた。
けど、そういう雰囲気があったわけですよ。

だけど、『透光の樹』での秋吉久美子、ふてくされているというか、「はぶて面」になってしまった。
あの表情の中に何かあると思っていた私がアホだったのか。

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神の怒りは不公平

2005年01月12日 | 日記

地球を一つの生命体と考えるガイア理論というのがある。
人間、動植物、環境、地球、お互い関係しながら存続しているわけだから、たとえというか、ものの考え方としては真っ当だと思う。
しかし、地球全体が一つの意識、意志を持った生命体であると言われたら、ちょっとねえと思ってしまう。

阪神大震災の時、小田実氏が乱開発に対して大地が怒ったんだということを新聞に書いていて、「???」と思ったのだが、おまけに野田正彰『災害救援』に、この文章に一番共感したなどとほめていたのには、うーむと思った。
地震の原因は大地の意志だということは、ガイア理論から導き出されたのだろうか、それともレトリックの一種なのか。
インド洋沿岸の大津波でも、人間の身勝手さがこのような災害を引き起こしたんだと言い出す人がいるんでしょうね。
しかし、どういう基準で被災者が選ばれるのだろうか。

先日の毎日新聞によると、自然災害で亡くなる人は毎年平均6万人、被災者は2億人以上。

その8割は発展途上国に集中している。
発展途上国の多くは財政難のため、災害が発生すると予算を応急対応策に投入するため、財政をさらに圧迫、貧困社会を拡大させている。
今回の津波でも、被害者の多くが老人、子供だそうだ。
大地にしろ、超越的存在にしろ、人類に対して怒るのはいいけど、それじゃ弱い者いじめにすぎないじゃないかと思って、納得できません。

(追記)

石原慎太郎氏が、東日本大震災の津波被害について「日本人のアイデンティティーは我欲になった。政治もポピュリズムでやっている。津波をうまく利用してだね、我欲を1回洗い落とす必要があるね。積年たまった日本人の心のアカをね。これはやっぱり天罰だと思う」と発言した。
インドネシア沖の地震による津波も「天罰」だと、石原慎太郎氏は考えていたのだろうか。

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池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』

2005年01月10日 | 

池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』は題名のとおり、西太平洋の人口7万人の島国の大統領であるマシアス・ギリが失脚する物語である。
なぜ失脚するかというと、島の神=先祖の意志が働いたからである。
つまり、マシアス・ギリが大統領になり、そして失脚したのも、すべて見えない意志の力によるものであり、マシアス・ギリはそのことを安んじて受け入れる。

こういう我々は芝居の登場人物みたいなもので、与えられた役割を果たして退場するんだ、という考え方は、私は嫌いである。
神話的な物語に文句をつけるのはなんだが、その一点でいやになった。

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ニューエイジと島薗進氏

2005年01月08日 | あやしい教え・考え

ニューエイジとは何か、精神世界とどう違うのか。
ニューエイジや精神世界ということは、非常に幅広い概念であり、人によって定義が異なるそうで、私も大体こういうものだというイメージしか持っていない。
精神世界のブックカタログには以下のものがある。 これで何となくイメージがつかめると思う。

エコロジー、菜食主義、イルカ、超能力、占星術、UFO、水晶、超古代文明、神秘主義、心霊主義、神智学、死後の世界、シャーマニズム、道教、ヨーガ、マンダラ、禅、瞑想、気功、東洋医学、臨死体験、チャネリング、トランスパーソナル心理学、自己実現、無意識、ユング、セラピー、ヒーリング

なんでもごっちゃにあるわけだが、この中に「親鸞」「浄土真宗」がないことに要注意。

島薗進氏は、霊性(spirituality)追求の運動をアメリカではニューエイジ、日本では精神世界だとし、それらを含みつつ、より広い範囲の個人的霊性追求運動をとして新霊性運動という語を使う。
そして、今では「宗教」が「スピリチュアリティ」にとって代わられようとしていると言う。

新霊性運動は「自己変容」を追求すると述べたが、多くの場合、それは「意識変容」と結びつけられている。個々人が瞑想やその他の修行、技術を用いて日常の醒めた意識とは異なるレベルの意識や心のレベルに気づき、そこに接近していくことに高い価値を置くのである。異なるレベルの意識や心とは、本来的な自己であり、魂とよばれるものに通じている。それは自分が生まれる前の世界や死んだ後の世界とつながっている可能性がある。また、個人の心や身体を超えて、宇宙や自然の力とつながっているにちがいない。意識や心の変化を進めることは、環境との調和的関係を促進することである。それによって自己の運命が変わるだけでなく、さらには世界や宇宙の変容にも寄与していくことになる。このように個人の醒めた合理的意識を超えて新しい考え方、感じ方を広めていくことによって、近代文明のゆきづまりを超えていくことができ、人類の進化の新しい段階を切り開くことになる。」(島薗進「新霊性運動・ニューエイジ・精神世界」『新宗教時代』5)

さらに島薗進氏はニューエイジャーの主張をABCの三つに分けている。
一番トンデモなCブロックをご紹介しましょう。

12,輪廻転生とカルマの法則
13,地球外知的生命との接触
14,過去の文明の周期と埋もれた文明の実在
15,人体におけるチャクラや霊的諸次元の存在
16,水晶・音・香・場所などが持つ神秘力
17,指導霊の実在
18,体外離脱や誕生前記憶の体験による霊魂の存在の確認
19,チャネラーやシャーマンの真正性(島薗進『精神世界のゆくえ』)

東大教授である島薗進氏は大川隆法氏をヨイショする文章を毎日新聞に書いている。

大川主宰に会ったことがあり、内外の新しい宗教動向にくわしい東大宗教学研究室、島薗進助教授。霊的な神秘体験もさることながら、この宗教の教えが①現代的な霊界観にもとづく体系的宇宙観を持ち②新宗教の重要な要素だった『心なおし』の面もまた体系的に整理されている―の二点に着目し、こう言う。
『幸福の科学が相当大きな宇宙観、普遍倫理的な生き方を説いているのが魅力になっているように思える』」(米本和広『大川隆法の霊言』)

ということで、島薗進氏はCブロックの事柄を信じているんでしょうね。

 そしてですね、島薗進氏は、梅原猛氏と湯浅泰雄氏の仕事を紹介し、

日本の知的エスタブリッシュメントの相当部分が、新霊性運動に共鳴する方向に進んできているといってよい。

と書き、そのことを示す例として、気の研究をめぐる動きをあげている。

日本人体科学会が結成された。この会は気や東洋医学の研究を中心に、心身能力開発法、深層心理学や心身医学や超心理学など、心身相関に関わる諸問題を討究しようという学会である。

多くの新聞が好意的な記事で紹介し、数多くの著名な学者や知識人らが発起人に名前を連ねているそうだが、もしもそれが本当なら、日本の将来はどうなるんだろうかと心配になる。

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トランスパーソナルと親鸞仏教

2005年01月06日 | あやしい教え・考え

親鸞仏教センターから出ている「アンジャリ」に、諸富祥彦氏(明治大学文学部助教授)が「個とつながり トランスパーソナルをめぐって」という文章を書いている。
うーん、トランスパーソナルかあ、とまず思った。
トランスパーソナル心理学はグロフのようにトンデモと紙一重というのもあるので。
ということで、諸富祥彦氏の文章も用心しながら読まないといけない。

前半はニューエイジを知らない人が読むと、もっともだと感心するのではないか。
「感覚の変容」とか「私たちの内なる変容」といった言葉が気になり、裏を読みたくなるが、まあよしとしよう。

ところが、後半になると、「自らの意識水準をさまざまに変容させながら……」というくだりから、親鸞仏教からどんどこどんと離れていく。

私たちが意識水準を深め、より深い立脚点に置き、そこから世界を眺めたとするならば、すべては違った様相を見せてくる。

 

意識の水準が極限まで深められたその地点においては、もはやすべてのいのちは本来一つであるという、という“いのちのつながり”の相がありありと浮かび上がってくる。

瞑想などによって得られる神秘体験によって、意識が変容し、他者の意識とつながるようになると、諸富祥彦氏は言っているのである。
意識が表層から深層へと変化していく過程の中で世界が違って見え、さらには他の存在の意識と一体化し、もっと言えば過去や未来の存在ともつながりを持つということは、ニューエイジお得意の論理である。
このあたりのことは河合隼雄『宗教と科学の接点』や井筒俊彦『意識と本質』(井筒俊彦氏は神秘主義者だと思う)に書かれていて(内容はもう忘れてしまいました)、私自身も引き込まれたのだから、人のことは言えないけれども。

この世界の万物は、そのそもそものはじめから、常に、すでに、したがってまさにいま、ここにおいてもおなじように、“一つの同じいのちのはたらき”の異なるあらわれでしかなかったのだ。

という諸富祥彦氏の文章を読み、やはりニューエイジは梵我一如思想だと納得した。

トランスパーソナルの考え方はどうしても神秘思想と結びつきやすい。

そして、オウム真理教や幸福の科学といったニューエイジ系の宗教も同じ主張をしている。
そこを親鸞仏教センターの人たちは知っているとは思えない。
親鸞仏教はそんなのとは違うということをはっきりさせるのが親鸞仏教センターの仕事であるべきなのに。

「アンジャリ」第8号には、青木新門「光と言葉」という文章もある。
『納棺夫日記』に感動した私としては、青木新門さんの悪口を言いたくないのだが、どうも青木新門さんは「光」を実体的に考えているように感じる。

(追記)
諸富祥彦氏については『人生に意味はあるか』を読んで、その感想を書いています。
『納棺夫日記』についも後日書きました。

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大島弓子『ロスト・ハウス』

2005年01月04日 | 

どうしようもなく落ち込んだ時に読もうと、岡本鉄二『カムイ伝 第二部』の20~22巻(98年~2000年発行)と、大島弓子『ロスト・ハウス』(93年発行)をツン読にしておいた。
だが、読むよりも私が死ぬほうが先になるのではと思い、本をひもといた。

『カムイ伝 第二部』は22巻以降は発行されていないようなので、未完ということになる。
いろんなエピソードがそのままにされており、続きが読めないのが残念。

大島弓子ももうマンガはほとんど描いていないようだ。
寂しいことです。
それにしても、やはり大島弓子はいい。
私は感性の鈍ったじいさんになってしまったが、いいものはいい。

大島弓子のマンガは何度か映画化されているが、チャン・ツィイー主演のものを見たい。
『グリーン・ディスティニー』のはぶて面ではなく、『初恋の来た道』のニッコリ笑顔のチャン・ツィイーを、である。

大島弓子のマンガの魅力は、なにやら軽やかな感じがするところである。
地面よりも10センチぐらい上に浮いているような。
話の中身は結構重たくて、まわりの人の悪意や無理解に主人公は悩み、怒り、悲しむのだが、しかしさらっとしている。
それはイラスト風の絵柄もあるが、大島弓子自身のあり方がそこにあらわれているのかもしれない。

『人生の大晦日』という、大島弓子が卵巣ガンになり、入院し、手術し、退院した経緯をマンガにしたものを読むと、痛みに苦しみ、その間ドタバタし、かなりあせって、大変なことは大変ではあるにしても、ガンになったことに対して、そして自分の死ということに対して、大島弓子は特にこだわっているようには感じない。
おそらく大島弓子のマンガの主人公のさらっとした感じは、大島弓子自身の投影なんだと思う。

大島弓子は入院の際に、飼っているネコを世話する人のことを心配している。
大島弓子の人生の荷物はネコだけということか。

一切の重荷を卸して楽になりたいのです。兄さんはその重荷を預かって貰う神を有っていないのです。 夏目漱石『行人』

 

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青草民人「キャッシュレス」

2005年01月02日 | 青草民人のコラム

最近、財布の中味が賑やかになった。といっても、お札が厚くなったということではなく、持ち歩くカードが増えたということだ。キャッシュレスで、カードで支払うことが多くなったからだ。

確かに現金を持ち歩かないということは、いざというときにはありがたいこともある。以前に、銀行のキャッシュコーナーでお金を引き出すのを忘れて、連休に入ってしまったことがあったが、スーパーでもカードが使えたおかげで助かった。


しかし、お金を払わないでものを買うという感覚は、慣れると怖いものがある。現金で買おうと思えば、やはりよほど品定めをして、買える範囲でいいものをゲットしようとする。カードになると分割あり、リボ払いあり、しかも、つぎの給料日にはお金が入るだろうという、ない袖まで当てにするので、つい買い物が衝動的になる。一つ一つの買い物は額が大したことなくても、積み重なってくると、明細を見て愕然と
することがある。

近ごろは、キャッシュバックのカードがあるし、レンタルのカードにクレジットがついてくるものが多い。何とか貯金の金を吐き出させようと懸命なのだろう。

しかも、キャッシュレスにつづいて、カードレスにもなってきており、携帯電話がカードに代わって、航空券の予約や支払い、商品の購入などを可能にしている。


現金にせよキャッシュレスにせよ、いずれにしても庶民のお金は出ていくばかりだが、災害にあわれた人のことを思うと、使い道をよくよく考えないとと反省させられる。義援金もキャッシュレスでできるんですよ。問題は出すか出さないかですが。

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