三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

蓮池透『拉致』2

2010年07月31日 | 日記
森達也氏の言う「被害者側の聖域化」ということだが、蓮池透氏は『拉致』でこんなことを言っている。
「もっと経済制裁を強めてほしいというのは、もともと「家族会」や「救う会」が要求してきたことです。したがって、政府が制裁路線でやってきたのは、良く言えば、政府が「家族会」や「救う会」を大切にしてきたということです。一方、悪く言えば、家族の言うことだけをやっていればいいのだと、安易に考えてきたのではないかとも思うのです。
政府の方々と話していると、家族の意向と違った言動をとると、世論からバッシングがくるのではないか、それはまずいぞという雰囲気を感じます。しかし、「家族会」の意向が、そのまま日本の世論ではありません。たとえ、日本の世論だったとしても、それにしばられていたら、国として独自の外交戦略を持てないことは明白です」

どうやって交渉するのかという戦略がない日本政府はアメリカ頼みでやってきたが、アメリカが路線を変えたら打つ手がなくなってしまう。
「もしかしたら、家族の意向に逆らってでもやることが、問題の解決にとって必要な場合だってあるでしょう。家族は、やはり当事者ですから、ある意味で感情的、情緒的なアピールをするのは当然なのです。政府が、それと同じ水準ではいけません。
ところが、いまの政府のスタンスは、家族の言う通りにしているのだから、批判してもらっては困るという程度のように感じます」

政府が拉致被害者の顔色ばかり伺っているという批判を蓮池透氏マスコミにも向けている。
「被害者を気にしすぎるという点では、マスコミも同じでしょう。被害者家族が怒るようなことを報道したら、世論を敵に回してしまうので、タブーにしているような感じがします。つまり、被害者家族の言動は、サンクチュアリになってしまっているのです。
ある放送局も、結局は、家族の言っていることを、ただ延々とたれ流しするだけです」
「政府が家族の顔色をうかがうようになったからといって、何のポリシーもなく、「家族会」や、「救う会」がやっていることやその主張を、何の論評もなしに延々と流すというのは、言論機関としてはどうなのでしょうか」

この「被害者の聖域化」という問題は、拉致被害者だけでなく、犯罪被害者全般についても言えることだと思う。
被害者遺族が涙ながらに死刑を求めたなら、それには何も言えない。
ところが、それに乗っかって「被害者の気持ちを考えたら厳罰は当然だ」という意見が出てくる。
しかし、被害者感情に基づく施策が本当に犯罪を減らし、再犯を防ぐことにつながるかどうかをきちんと検証すべきである。
ところが、感情論で法律が改正され(たとえば少年法改正とか、刑事裁判被害者参加制度など)、厳罰化が進んでいる。

毎日新聞の「記者の目」に世論(せろん)と輿論(よろん)は違うとあった。
「「世論<せろん>」は「戦時中、『世論に惑わず』などと流言飛語か俗論のような言葉として」使われていた。これに対して「輿論」は「『輿論に基づく民主政治』など建設的なニュアンスがあった」という。建設的で責任を伴う「輿論」を集約するはずの世論調査だが、最近は俗論や無責任な「世論<せろん>」を誘導しているのでは、との指摘を受けるようになった」
「被害者の聖域化」は輿論ではなく世論(せろん)だと思う。

そして、蓮池透氏はこう言う。
「これまで日本の世論は、拉致問題に怒りを感じて、北朝鮮に対する憎しみの気持ちから、「制裁せよ」とか、極端な場合には「打倒しろ」と言ってきました。それによって、私に言わせれば、偏狭なナショナリズムのような雰囲気が日本社会に醸成されていきます。
一方、北朝鮮の側は、過去、植民地支配している間に、日本も何万、何十万の朝鮮人を拉致したではないかと思っています」
「そういう感情を持っている彼らに対して、日本側がただ怒りをぶつける。彼らがそれに応酬する。結局、この間の日朝関係というのは、「お前が悪い」「いや、悪いのはお前だ」として、憎しみを増幅させていただけではないでしょうか」

日本人の拉致と朝鮮人の強制連行を並べて発言したら、反日だとか、北朝鮮から金をもらっているんだとかボロクソに言われそうである。

しかし蓮池透氏は、父親がソ連に抑留され、そのあと平壌の病院で死んだという人が、「国交が正常化されたら、私は、その病院に行ってみたいと思っているのです」と語るのを聞いて、逆に朝鮮人が日本で亡くなって遺骨が日本に残されたままというケースもあると考える。
こういう複眼的思考というか、いろんな視点から物事を見ることが大切だと思う。

で、話は飛ぶようだが、石原慎太郎都知事がオリンピックを東京に招致するためにIOC会長に宛てた書簡に、次のような文章があると『拉致』に引用してある。
「私の祖国日本は、第二次大戦の後、自ら招いた戦争への反省のもと、戦争放棄をうたった憲法を採択し、世界の中で唯一、今日までいかなる大きな惨禍にまきこまれることなく過ごしてきました」
そして、2月13日の記者会見では「憲法の効果もあって平和でこられたのは歴史の事実としてたいしたもの」と語っている。
私は石原都知事を誤解していたのかもしれない。
それとも石原都知事はカメレオン的思考の持ち主なのだろうか。
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蓮池透『拉致』1

2010年07月28日 | 日記
森達也「ブルーにこんがらがって」にこんなことが書いてある。
「家族会や救う会が、強硬な制裁を主張して、世相をリードし続けている」
「運動の方向に違和感を持ち、北朝鮮への制裁に反対し始めた蓮池(透)さんは、家族会からパージ(追放)され、メディアの表舞台から姿を消した」

蓮池透氏は北朝鮮への経済制裁に反対しているそうだ。
「蓮池さんは、「政府やメディアは家族会の顔色を見ないでほしい」と何度も訴えた。要するに被害者側の聖域化だ。その帰結として、自由な言論が機能しなくなった。違う視点から語られることがないから、北朝鮮への不安と憎悪ばかりが高揚する」
それで蓮池透『拉致』を読む気になった。

蓮池透氏は1997年から2005年まで「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(「家族会」)の事務局長をしていたが、現在は「家族会」の運動と少し距離を置くようになったと言う。

「「家族会」の運動には参加していませんし、会議等への出席を求められることもありません。なぜかといえば、その運動のありように疑問をもったからです」
以前からついていけない部分があったそうだ。
「集会参加者の中には、日章旗を持っている方が大勢います。そうして、誰かがしゃべるごとに、そういう方々が、旗を振りながら、「そうだ!」とか「けしからん!」とか、「『朝日新聞』出て来い!」「NHKはいるのか」とか、激高するのです。
よく見ると、ゲートルをまいた旧日本陸軍人そのままのような、変わった衣装の方もいます。「怖いなあ」と思って外へ出たら、右翼の街宣車の隊列があり、がなり立てているのです。そして、その街宣車から流れている演説と、私たちが主張していることと、内容がまったく同じだということに気づき、愕然としたこともあります」

こうした支援者の目的は何かということだが、蓮池透氏によると、「右翼的な人たちの中には、被害者がかわいそうだとか、人情や家族愛といった善意を前面に出して家族を支援しながら、実際には、彼らの目的である北朝鮮の体制打倒に利用しようとするもくろみがあったのではないかと、いまになって感じています」とのことである。

拉致問題は動きがとまっており、日朝交渉は行き詰まっている。
その理由として蓮池透氏は、日本政府が大きな間違いを犯してきたので、北朝鮮が日本は信用できないとかたくなになり、問題の解決を遠ざけた面もあると言う。
たとえば、信じられない話だが、拉致被害者五人が日本に帰国したとき、政府の作ったスケジュール表に「お土産購入」というのがあったそうだ。
「ということは、日本は旅行先で、北朝鮮が帰るべき国だということですから、政府はほんとうに弟たちを北朝鮮に戻すつもりだと思いました」
政府は、自分の意志で北朝鮮に渡ったのではなく、無理矢理誘拐された人たちを日本に連れ戻そうという気がなかったわけだ。
「やはり政府が、重大な国家犯罪の被害者なのですから、子どもも含めて取り戻すという立場に立たなければならなかったのです。ところが、そういう認識はなく、努力もしませんでした」
ところが、「北朝鮮に戻すべきでないという結論が出たら、それまでは一時帰国は約束なのだと言っていた人たちが、そんな約束はしていないと言い出しました。北朝鮮には「約束だ」と言っておきながら、国民には「約束していない」というのですから、二枚舌そのものです」

あるいは、横田めぐみさんの火葬された遺骨が本当に横田めぐみさんのものなのか、科学警察研究所ではDNA鑑定不能という結果だったが、帝京大学の鑑定では横田めぐみさんのものではないという結果が出た。
帝京大学のDNA鑑定については『ネイチャー』が疑問を呈している。
鑑定した帝京大学の先生はその後、警察に引き抜かれて警視庁科学捜査研究所の法医科長になっているそうで、あやしいじゃないですか。

そうして事態が膠着し、世論が過激化し、過激になった世論が目的を見失い、さらに過激化するという悪循環となっている。
「拉致問題をめぐる日朝間の四回の政治決着は、ことごとく失敗に終わりました」
「結局、すべて日本側が裏切る形で終わったのです」
このように厳しく日本政府を批判する蓮池透氏は「やみくもな制裁路線は効果がない」
「制裁路線の見直しが必要だ」と言う。
日本がいくら経済制裁しても、中国や韓国がその分を補って援助するのだから効果はない。
北朝鮮の一般市民は苦しむだろうが、体制には何の影響もない。
まして、政権が崩壊するとしたら、真っ先に不利な証拠を隠滅するから、拉致被害者の救出などできなくなる。
「ただただ経済制裁を主張するのは、一種の思考停止です。膠着状態が続いて主張が過激化し、「被害者救出」というほんらいの目的が、「北朝鮮打倒」のイデオロギーに取って代わると、こういう無茶な主張が力をもってしまうのです」
説得力あると思う。
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金賢姫元死刑囚帰国

2010年07月25日 | 日記
金賢姫元死刑囚が日本に来たが、「拉致に関する新情報は得られなかった」ことや、特別待遇だったことへの批判がある。
VIP待遇の是非はとにかくとして、拉致被害者に関する新たな情報が仮にあったにしても、金賢姫元死刑囚にはそれを公表することなんてできなかったと思う。
なぜそう思うかというと、「同朋」2009年9月号の森達也「ブルーにこんがらがって」という文章を読んだからである。
そこに蓮池透氏のことが書いてあった。

北朝鮮に拉致された蓮池薫氏の兄である蓮池透氏は「強硬な経済制裁に効果はない」と主張している。
「僕もまったく同意見。当たり前のことだと思う。
だってもしも拉致被害者がまだ北朝鮮にいるのなら、拉致被害者はもういないと宣言してしまった北朝鮮は、(制裁が強化されれば)都合の悪い彼らの存在を消してしまうかもしれない」
と森達也氏は言っているが、なるほど、その通りである。
もしも金賢姫元死刑囚が「○○さんが死んだというのはウソだ。その証拠に……」というようなことを話したとして、そして○○さんが本当に生きているとしたら、死亡していると公式に説明している北朝鮮政府が「実は○○さんは元気です。嘘をついてごめんなさい」と謝罪するなんてことはあり得ない。
金賢姫元死刑囚が拉致被害者の生死を知っていたら黙っているだろうし、知らなかったら話せない。
一体何を金賢姫元死刑囚に期待していたのだろうかと思う。
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日清戦争 2

2010年07月22日 | 戦争
日清戦争後の三国干渉で、今は臥薪嘗胆だと軍備が拡張された。
藤村道生『日清戦争』によると、「三国干渉は日本人に、さらなる軍備増強の必要を痛感させた。それだけではない。この戦争の結果、東洋には日本に対抗しうる国はもはや存在しない、今後は西洋の列強に対抗しうる国家にならなくてはいけないという観念を強固に植えつけた」
だけども、清からの賠償金のほとんどは軍備拡張に使われ、増税、物価騰貴により国民にとっては負担増となった。

そのころの貧困層の生活について、紀田順一郎『東京の下層社会』から引用。
残飯を食べる人たちが多くいたので、残飯屋という職業が成り立った。
明治24、5年ごろは、「上等の残飯が120匁(約450g)一銭、焦げ飯が170匁(約637g)一銭、残菜が一人前一厘だった。当時の米価相場は120匁三銭であるから、そのざっと三分の一である。残飯屋は仕入価格の五割増しで売るのであるが、細民にとっては何が何でもこれを入手しなければ生きていけないので、飯どきになると残飯屋の前に群れをなし、荷車から降ろすのをも待ちきれず、先を争うようにして二銭、三銭と買い求めていく」
深海豊二『無産階級の生活百態』(大正八年刊)という本によると、残飯屋が生まれたのは日清戦争のころだという。
「当時は兵隊の気が荒立って居て、真面目に七分三分の麦飯を喰って居る者はなく、毎日酒浸しになって居たので、炊いた飯は悉く残飯を造るようなものであったそうだ。そしてその残飯が無銭であるから、丸儲けをしたと云うは、其当時からの残飯屋の話である」
軍隊からただで残飯を仕入れていたわけだが、昭和に入ると近衛歩兵一聯隊は一貫目23銭という高値で払い下げていた。
大不況下の昭和初期、四谷鮫ヶ橋小学校児童398人のうち残飯を主食にしている者が104人。
ところが、残飯を食べることができるだけでもまだましらしい。
「大正時代に大阪の私立小学校では、残飯さえも買えない家庭の子供が」いて、「学校給食導入の端緒となっている」という。
溥儀が満州国皇帝に即位した昭和9年は大凶作で、岩手県では昭和9年10月時点で欠食児童が2万4000人、日本にそれほど余力があったわけではない。

藤村道生『日清戦争』には、労働者の置かれた状況の悲惨さが数字をあげて説明されている。
愛知県の繊維工場は労働者の拘束時間が長く、織物工場で12時間から16時間、製糸工場で11時間から17時間、旧式の紡績工場で15時間から17時間である。
通勤は不可能なので寮に寄宿することになるが、寄宿費がかかるので、見習い工の場合は賃銀が無給のものがかなり多い。
これでは『あゝ野麦峠』のほうがましである。
名古屋市とその近郊では三工場がマッチを生産していたが、470人の労働者のうち、10歳未満が87人、男工の83.1%は15歳未満、女工の42.3%は13歳未満だった。
彼らの賃金は出来高払いで、一日1銭5厘から3銭、熟練してもせいぜい5銭。
ということは、東京の残飯屋一食分である。

「政府は低賃銀を維持するために低米価を必要とした」が、そのためには安価な外米を輸入しなければならず、「朝鮮の支配と占領は、外米の安定的な供給のためにも」不可欠だったと、藤村道生氏は言う。
つまり、何のために日清戦争をしたのかの答えがこれである。
朝鮮の独立を進め、近代化を助けるというのがタテマエだが、ホンネは朝鮮の植民地化を進めて勢力を拡大したいということである。

日本の圧勝だったためか、正義の戦争と領土拡大の欲望という矛盾を自覚しなかった。
佐谷眞木人『日清戦争』では次のように指摘する。
「日清戦争は巨大な祝祭だった。このときの異様な高揚感は、その後もたびたび日本社会を包みこみ、国家を狂気の戦争へと導いた。日本がのちに太平洋戦争にいたるまで戦争を繰り返したのは、一般大衆が日清戦争を熱烈に支持したことを、起爆力としている」
日本の権益獲得というホンネと、大東亜共栄圏、五族共栄というタテマエで侵略を続けたわけである。
「日露戦争までの日本は健全なナショナリズムをもっていたが、その後におかしくなった」という司馬史観によって「隠蔽あるいは抑圧され、私たちが忘却している重大な事実があるのではないか」と佐谷眞木人氏は言う。
石光真人『ある明治人の記録』は、「武士によるクーデターの形式をとった強引な明治維新は、いわば未熟児ともいうべき、ひ弱な新政体を生んだ」と厳しい見方をしているが、明治という時代は坂の上の雲だけを見ていたわけではないのである。
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日清戦争 1

2010年07月19日 | 戦争

新聞の書評で面白そうだと思うと、図書館でその本を借りるのだが、佐谷眞木人『日清戦争』もその一つ。
日清戦争は日露戦争と比べると、何となく影が薄いように思う。
しかし、佐谷眞木人『日清戦争』によると、「この戦争を境にして日本社会のありかたが大きく変化した」そうだ。
明治維新によって江戸時代とそれ以降の社会、文化などが断絶したのではなく、日清戦争から日本人の意識は大きく変化した。

佐谷眞木人『日清戦争』の副題は「「国民」の誕生」である。
日清戦争は「国民によって支えられ」「「日本人」という意識を広く社会に浸透させた」のである。
つまり、自分は日本という国の国民だと民衆が意識するようになったのは明治維新ではなく、日清戦争がきっかけだったわけである。
「日清戦争を経験することによって、日本は近代的な国家になった。それは日本人の誰もが「日本国民」という意識をもち、国家のために奉仕することを誇りと思い、国家と運命をともにする政治体制だった」

日清戦争は開戦の原因がよくわからない戦争である。
で、藤村道生『日清戦争』も読んでみたのだが、「戦争の原因がきわめて複雑なうえ、直接の開戦理由が、朝鮮の内政改革というきわめて説得力の薄いものだった」とある。
もともと朝鮮の宗主権、属国化をめぐる日本と清のつばぜり合いがあったのだが、「まず開戦を決定しのちに開戦の口実を探したということがことの真相」だそうだ。
東学党の乱が起きると、朝鮮政府は清に派兵を求め、日本も天津条約を根拠として軍隊を送りこんだ。
ところが、日本軍が到着したころには乱は下火になっており、日本軍は撤兵することになりかねなかった。
しかし何もせずに撤兵したのでは、朝鮮における清の影響力が強化するし、野党や世論を抑えられないと考えた陸奥宗光外相がなかば強引に清との戦争状態に持ち込んだ。
驚いたことに、伊藤首相をはじめとする政府首脳や明治天皇は開戦には消極的だったという。
日本は清に勝てないという予測が支配的だったからである。

ところが、自由民権派、尾崎行雄や犬養毅といった野党指導者、福沢諭吉、新聞などは軍備の拡張を求め、清との戦争を煽った。
戦争が起きるのは当事国間に紛争があるからだが、まずは戦争したい人が策動し、煽り立てる言論人がいて、国民が煽られて、開戦は当然だという雰囲気が作られていくわけで、これは現在も変わらないように思う。
日露戦争では非戦論を主張した内村鑑三も開戦に積極的で、『代表的日本人』で西郷隆盛についてこう書いている。
「国はいわゆる文明開化一色となりました。それとともに、真のサムライの嘆く状況、すなわち、手のつけられない柔弱、優柔不断、明らかな正義を犠牲にして恥じない平和への執着、などがもたらされました」(佐谷眞木人『日清戦争』)
今も、戦後日本は云々、平和ボケ云々、武士道云々と言う人がいるわけで、この点もあまり変わっていない。
戦さ呆けよりいいでしょ平和呆け 永広鴨平

「日清戦争当時の日本社会は、明らかに熱狂的な興奮のなかにあって異常だった」
佐谷眞木人氏はその例をいくつか紹介しているが、それは省略。
田山花袋『東京の三十年』に、「維新の変遷、階級の打破、士族の零落、どうにもこうにも出来ないような沈滞した空気が長くつづいて、そこから湧き出したように漲りあがった日清の役の排外的気分は見事であった」とあるそうだ。
貧困層に戦争待望論があるそうだが、ちょっと怖い。

「日清戦争は全面的に正しく、また、完璧に成功した戦争だと、当時の大多数の日本人にイメージされていた」
そして、日清戦争に勝利することにより、「日本はアジアにおける唯一の先進国であり、遅れた無智な周辺の国々を指導し、正しい世界観を与え、近代化の方向に導いていく責務があるという意識」、指導者としての使命感を日本人は持つようになった。
子どものころ、父に「日本の、乃木さんが、凱旋す」というしりとりを教えてもらったが、「李鴻章のハゲ頭、負けて逃げるはチャンチャン坊、棒で叩くは犬殺し」と続く。
日清戦争から庶民が中国人をバカにするようになったわけである。

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選挙の御利益

2010年07月16日 | 日記
2009年衆議院選比例代表区での幸福実現党の得票は45万9387票だった。
今回の参議院選比例代表区では22万9026票である。
私は幸福の科学の信者はせいぜい30万人だろうと考えていたが、多くとも20万人もいないだろうということか。
幸福実現党が議席を獲得する可能性はほとんどないにもかかわらず、どうして再度、国政選挙に挑戦したのだろうか。

『右翼の掟 公安警察の真実』で鈴木邦男氏は、生長の家や野村秋介氏の風の会の選挙経験をふまえ、幸福の科学の参議院選への立候補をこのように説明している。
「幸福実現党のように全国の小選挙区や比例から候補を出すとすれば、その供託金だけでも巨額になるはずだ。そこまでして宗教団体が政治参加をするのはなぜか? それは信者の士気を高めるためであろう。右翼団体もそうではあるが、ともに戦うということは重要だ。政治運動をやると組織に活気が出ることは事実だ」
「公認候補を出して選挙運動をする、みんなでビラ貼りをするだけでも、戦っているという気分が高揚してくる。選挙活動の中で人間も育つ。選挙は人間を鍛えるだけでなく、組織として一致団結するには、ものすごく便利なものだ」

私の選挙経験というと、中学校の生徒会に同級生が立候補したので推薦人になったぐらいのことだが、想田和弘『選挙』という、市会議員の補欠選挙に出馬した自民党候補を追ったドキュメンタリーを見ると、選挙には人を興奮させる麻薬のようなものがあることがわかる。
お祭りというのはハイになるもので、たとえば講演会を計画するにしても、最初は面倒くさいなと思いながらも、会合をくり返していくうちに、一人でも多くの人に来てもらおうと張り切るようになる。
結局は知り合いだけしか集まらなくても、打ち上げでビールを飲みながら、今度はこういうふうにしたらどうか、ということで盛り上がる。
でも、何回かやってもやっぱり人が来ないとなるとやる気が失せ、何となくつき合いも薄れていく。

鈴木邦男氏は、オウム真理教が衆議院選に大勢を立候補させ、一人も当選できなかったことについて、「もしも、オウム真理教が選挙に出ていなかったら、今でも普通の宗教だったかもしれない。選挙に出て自分たちの実態を世間に晒し、それが暴走に繋がったのだ」と言っている。
これは間違い。
オウム真理教は選挙に出馬する三ヵ月前に坂本弁護士一家を殺害している。
ただし、選挙での惨敗が暴走を加速させたことは事実だろうけど。
それまで張り切ってただけに虚しさがつのり、それが世の中への怒りとなったのかもしれない。
幸福の科学にしても、得票数が少しでも増えたらやる気が出たところだけど、半分に激減したわけで、次回はどうするつもりなんだろうか。
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タコのパウル君

2010年07月13日 | 日記
ワールドカップで8回連続、勝者を当てたタコのパウル君の超能力をどうやって発見したのだろうか。
パウル君の秘密を知りたいものだ。

松田道弘『超能力のトリック』の序に、次の十項目のうち、どれが純粋の超能力で、どれが人工的な手段で行いうるにせの超能力かを推理してください、とある。
1 ふたをした懐中時計のなかの時刻を透視する
2 目かくしをして指先の感触で、色をみわける
3 封筒の封を切らずになかの手紙の文字をよみとる
4 ひとりが手に持った品物を、目かくしをして遠くはなれた位置にいるもうひとりが言いあてる
5 部屋の外で選ばれた数字をあてる
6 ふたりが一組ずつトランプをもち、それぞれ一枚のカードを覚える。ふたりのカードが一致する
7 数日後のスポーツ新聞の見出しを予告する
8 後ろ向きのまま黒板に書かれた数字をよみとる
9 釘を念力で曲げる
10サイコロをふって出る目を百発百中予言する

残念ながら、タコがサッカーの勝者を予想するという項目はない。
答えは、いずれも「トリックを使って表現できるものばかり」である。
「ちょっとみたところ人間わざでは不可能だと思われるような「超常現象」が、ごく単純で人工的な欺瞞手段(トリック)で簡単に演出できるものであることを、いくつかの実例で紹介してみたい」
で、その説明なのだが、手品の種明かしをされると、あっけなくてがっかりすることになる。
「ふたをした懐中時計のなかの時刻を透視する」は、気づかれないようにこっそりとふたを開けて見るというもの。
「数日後のスポーツ新聞の見出しを予告する」方法の一つは、たとえば巨人―阪神戦を予想するのであれば、「巨人1―阪神0」「阪神1―巨人0」というふうに、何枚もの葉書に書いて、別々の人物に郵送する。
たまたまスコアと一致した葉書を受け取った人は予言が的中したことに驚く。

これは株の予想にも使える。
前にも書いたかもしれないが、あちこちで紹介されている有名なサギの方法です。
まず、64人の人には「明日、A社の株は上がる」と言い、別の64人には逆に「明日、A社の株は下がる」と告げる。
どちらか一方の群は、予言が当たったことになる。
そして次の日、当たったほうの64人を、さらに32人づつの二群に分け、同じようにそれぞれに「明日株は上がる」「下がる」と教え、それを一週間繰り返す。
そうすると、128人中一人は「一週間続けて株の変動を当てたすごい占い師がいる!」と、サギ師をすっかり信用するようになってしまう。
ひょっとしたらタコのパウル君は256匹いるのだろうか。

菊池聡編『不思議現象なぜ信じるか』、志水一夫『大予言の嘘』に、よく当たる占いや予言の方法が書いてあって、下手くそにまとめてみました。
1,誰にでも当てはまることを言う
バーナム効果といって、誰にでも当てはまる記述なのに、自分に当てはまると思い込む文章がある。
・あなたは他人から好かれ、賞賛されたいと願っています。
・あなたは自分自身に対して批判的な傾向があります。
・あなたにはまだ利用されていない能力があります。
・あなたには性格的に弱点もありますが、たいていそれを補うことができます。
・あなたは現在、性的な適応に関する問題を抱えています。
・あなたは外面は自律的で、自己管理しているように見えますが、内面的には心配性で、不安定な傾向もあります。
・時々、あなたは自分の決断や行動が正しかったのかどうか深刻に悩むことがあります。
・あなたはある程度の変化と多様性を好み、禁止や限定を加えられると不満を覚えます。
・あなたは、自分自身の頭で物事を考え、証拠不十分な他人の発言をそのまま受け入れたりしないという自信があります。

つまり、「明日の天気は晴れか曇りか雨か雪です」という天気予報みたいなものである。
誰にでも当てはまる言い方というのは他にもあって、「あなたは男の人で悩んでますね」と女性に言えばいい。
「男の人」とは恋人、夫、父親、上司、近所の人、ストーカーかもしれないし、悩みとは片思いから浮気、人間関係のもつれなどさまざま。
だから、ほとんどの女性は男の人で悩んでいる。
それとか「水子が苦しんでいる」というのもそうで、20代の女性のほぼ十数人に一人が中絶しているそうだし、妊娠10回に1回は流産する。
自分が中絶してなくても先祖や親戚がしているだろうから、となると、これまた誰にでも当てはまる。
岡村絵里「答えずにヒントをききだす霊能者」

2,当てはまる例だけを覚える
曖昧な言葉や漠然とした言い方だと、自分に当てはまると解釈した部分は印象が強いので記憶に残る。
はずれているところは忘れてしまう。
たとえば、夢は毎晩見るが、朝になると忘れてしまう。
だけど、たまたま夢に出てきた人から電話をもらうと、予知夢かと思うのも同じ理屈である。
福田定良「占いとは、当たるのではなく、思い当たるものである」

3,権威に弱い
テレビや新聞でこう言っていたとか、博士や大学教授の肩書きを持つ人の話だと、変なことであってもそうなのかと思う。
占い師でもテレビで紹介されたり、有名人がほめていたりすると信用する。

4,そう思ってしまうとそうなる
占星術や血液型性格判断で、「あなたは○○を好みます」とか「あなたの性格は○○です」などと言われと、自分でもそうなんだと思ってしまう。
たとえば、「日常生活ではものすごくおおざっぱなんです。B型ですから」と言ったりする。
タコのパウル君はこうしたテクニックは使えないだろうと思う。


そういえば、カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』には株の売買で世界一の大金持ちになった男が出てくる。
順番に買った株がなぜか上がるのだが、それはすべてトラルファマドール星人によって操作されていた、というお話である。
タコのパウル君の超能力は未知の宇宙人からのメッセージかもしれない。
それを解く鍵はパウル君の予想がはずれた二試合にあるように思う。
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井上ひさし『父と暮せば』の広島弁

2010年07月10日 | 
井上ひさし『父と暮せば』の舞台は広島、時は昭和23年7月。
父娘が広島弁でやりとりするんじゃが、そんとな言葉は使わんがのうと思うセリフがえっと出てくる。
私は昭和23年にゃあまだ生まれとらんし、巻末の参考資料を見ると、多くの書物が参考にされとって、監修者もおる。
私の間違いなんか思うて、福吉美津江と同年配のオバ(大正15年生まれ)に聞いたら、「そうな物言いはせんよう」と言よった。
以下、いなげなと思うたとこ。

父親のことを「おとったん」言うんは、親の呼び方は家それぞれじゃけ、まあ、そういうもんかと思うんじゃが、聞かんよのう。
じゃんけんで「ちゃんぽんげ」言うんもほうじゃ。

「太い」のふりがなが「ふてー」、「ばかばかり」のふりがなが「ばかばー」、「甘い」のふりがなが「あまー」、「聞き耳」のふりがなが「ききみみゆー」で、「押入れにはなんでもありようた」「たのしいかった」ゆうように長音になっとる。
「ふてー」じゃあ「あまー」たあ言よりゃあせん。
たしかに「太くない」は「ふとうない」、「聞き耳を」が「ききみみー」と延ばすんじゃが、そりゃあ「苦しゅうない。もっと近う寄れ」ゆうんとおなしで、音便じゃと思う。
「ちょんだい」も音便なんじゃろうけど、初めて聞いた。

「なひて」(「なして」)、「失礼」のふりがな「ひつれい」いうふうに、「し」が「ひ」になっとって、「七条」を「ひちじょう」言うけ、そうなこともあるんかしらんが、「なひて」とか「ひつれい」たあ言わん。

それとか、「占領軍の目が光っとってです」「晩の支度が待っとってです」と言うのんは、「しとって」は敬語じゃけ使い方がおかしい。
「うちの身体に生きとってです」はええけどの。

「いけない」のふりがなは「いけめん」となっとって、タウン誌に「ありめん」ゆうて書いてあったけ、そうな言い方もするんじゃろうが、「いけまへん」「ありまへん」が普通じゃと思う。

「ほたえる」いう言葉が何度が出てくるんじゃが、「ほたえる」は古語で、ふざけることを意味し、関西じゃあ「ふざけて騒ぐ」ゆう意味らしい。
じゃけど、文脈からしたら「ふざけて騒ぐ」より「大声を出す」じゃけ、ほれじゃったら「おらぶ」じゃ。
ネットで
「ほたえる」を調べたら、京都じゃ「あばれる・さわぐ」ゆう意味じゃそうな。

それでネットであれこれ調べると、『父と暮せば』にゃあ、よその地方の方言が使われとるように思う。
広島じゃあ「こげえ」は「こがあに」か「こうに」、「そがん」は「そがあな」か「そんとな」じゃが、「こげえ」は奥豊後なんじゃ。
「おとろしゅうてならんのよ」は大阪と高松、「非常に」のふりがなの「じょうに」は高松。
それとか、座布団を「だぶとん」とふりがながしてあるんじゃが、「全然」を「でんでん」と言うようにザ行とダ行が混同するのは近畿じゃ。

ほかにも、「非道い」のふりがなの「どえりゃー」は名古屋弁、「ごっつ気の利く」は大阪弁じゃし、「一番」のふりがなの「ずんど」は出雲弁。
「きれいかったです」が九州の言葉みたいじゃ。

じゃけど、「大きな」のふりがなが「いかい」になっとって、調べたら「いかい」は古語で、茨城から広島、山口までの広い範囲で「大きい」ゆう意味で使われとるそうじゃ。
「そいが」(「それが」)、「こいから」(「これから」)みたいにrが省略される言い方にしても全国的じゃ。
県北や島嶼部では広島市内とはちごうた物言いするし、広島じゃあ使わんたあ思うても、ひょっとしたらそうな言い方するとこがあるかもしれん。
『父と暮せば』の広島弁が間違いとはいちがいに言えんのんかのう。
じゃが、不自然な感じはやっぱりするようの。
こうの史代『夕凪の街 桜の国』を立ち読みしたら、普通につこうとる広島弁じゃったけほっとする。
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篠崎晃一、毎日新聞社『出身地がわかる! 気づかない方言』

2010年07月07日 | 

大学のころ、徳島出身の女の子のあだ名が「はめちゃん」で、どうしてかというと「お茶を入れる」を「お茶をはめる」と徳島では言うらしく、それで「はめちゃん」という、何だか深読みしたくなるあだ名がついた子がいた。

自分じゃ標準語だと思っていたのに、実は方言だったということはよくある。
私も大学に入って、「かたす」「なおす」がどういう意味かわからなかったし、「たう」「みやすい」が通じなかったことにびっくりしたものです。
その方言も均質化してだんだんと廃れていくのかと思ってたら、新しい方言が作られているそうだ。

以前、毎日新聞の「呼び名で分かる」シリーズというのがあり、地域でものの呼び名が違う特集をしていた。
その記事をもとに作られたのが『出身地がわかる! 気づかない方言』である。
「気づかない方言」とは「方言であるのに、話し手が共通語だと思い込んで使っている言葉を、方言研究者は「気づかない方言」と呼んでいる」のことである。
気づかない方言には、古くからある言葉だが方言だと気づかれにくかったものと、現代において新しく地域差が発生した言葉とがある。

たとえば、東日本では「画鋲」と言うが、西日本は「押しピン」、最下位のことを東日本は「ビリ」、西日本は「ドベ」というようなものである。

東西で言い方が違うものは他にもいろいろあって、「パーマをかける」と「パーマをあてる」、「ご飯をよそう」と「ご飯をつぐ」、「蚊にくわれる」と「蚊にかまれる」、「ささくれ」と「ささむけ」、「肉まん」と「ぶたまん」、「チャーハン」と「焼きめし」、「鶏肉」と「かしわ」、「マック」と「マクド」などなど、当たり前のように使っている言葉なので、ええっと思う。

他にもへえーというのがたくさんあって、補助輪付き自転車は、愛知が「ワッカ付き」、近畿は「コマ付き」、広島と山口が「コロ付き」、鹿児島は「ハマ付き」で、東日本では「補助輪付き」又は「補助付き」と呼んでいるというのにもびっくり。

車がすれ違うのを「離合する」と言うのは福岡、大分、山口。
「離合する」を標準語だと私は思っていた。

目のできものの呼び名は全国で250以上あり、「ものもらい」「めばちこ」「めいぼ」「ばか」「おひめさん」など。
「めぼ」は三重、香川、広島で使われていて、離れた地域で同じ方言を使うのはどうしてなのか不思議です。

北海道で使っている「角食」が何か(食パンです)わかる人は北海道以外にはいないだろうし、山形では「①」を「いちまる」、「(1)」を「いちかっこ」と言うそうで、これで山形出身者はすぐわかる。

学校関係の用語に地域特有の呼び名を持つものが多い。
模造紙の呼び方は全国ばらばらで、岐阜と愛知は「ビーシ」、新潟は「タイヨーシ」、山形は「オーバンシ」、富山は「ガンピ」、香川と愛媛と沖縄は「トリノコヨーシ」、熊本は「ヒロヨーシ」と、地方によってまるっきり違っている。
私は「西洋紙」だと思っていた。

通学区域を東日本は「学区」、北陸は「校下(こうか)」、西日本は「校区」と言う。
体操服は、宮城が「ジャス」、山梨が「ジャッシー」。
膝を抱える座り方を「体育座り」と言うそうだが、大阪では「三角座り」、愛媛は「おちょっぽ」。
ものさしを大阪、岡山、広島、徳島、高知では「さし」と言う。
黒板消しを「ラーフル」と言うのは、鹿児島、宮崎、愛媛。
授業と授業の間の休憩時間を愛知では「ほーか」と言うそうだ。
「漢字ドリル」「計算ドリル」を「カド」「ケド」と略すのは岐阜特有。
群馬、長野、新潟では「水やり当番」を「水くれ当番」。
宮崎では家での予習復習を「宅習」。
いやはや。

「どちらにしようかな。神様の言うとおり」のあとに続く言葉は千差万別。
「柿の種」という言葉が使われる県は32県と一番多い。
私も「かっかのかっかの柿の種、スイカの種」と言っていた。
「鉄砲撃ってバンバンバン」が26県、「なのなのな」は21県、「あべべのべ」は18県、「あぶらむし」が13県などなど。

じゃんけんも地域によってぜんぜん違っていて、愛知では「チョキ」を「ピー」と言う。                                         
「じゃんけんぽん」は「いんじゃんほい」「ちっけった」「じっけった」「ほーらいき」「じゃんへんへーのはっさんし」などなどあって、ほんとにそんなことを言ってじゃんけんをしてるのかと思う。
あいこの場合、「いーやーほい」と私は言っていたが、約8割が「あいこでしょ」で、他には「あいこんです」「あいこっち」「どっこいほい」「勝負でしょ」など。

「とても」も全国ではいろんな言葉が使われている。
広島、山口では「ぶち」なのだが、約40年前から若者を中心にはやった新しい方言なんだそうで、そういえばそのころから私も使い出したような気がする。

新方言では、福岡では「ああなるほどね」を中高生は「あーね」と言うそうで、こういった新しく生まれた方言が全国に広がって共通語になることもある。
「じゃん」はもとは横須賀の方言だし、「あおあざ」のことを北海道では「あおたん」と言っていたがの全国に広まり、今や共通語となりつつあるそうだ。
娘が「がっつり食べる」と言うので、どういう意味か調べたら、「がっつり」も北海道の方言とある。

『出身地がわかる! 気づかない方言』の最後に「こんな方言は使っていない」という投稿が載ってて、有名な方言だが、実際には使われていないものが紹介されてある。
北海道の「なまら」、岩手の「しばれる」、長野の「ずら」、名古屋の「エビフリャー」「おみゃーさん」、大阪の「あきまへん」、宮崎の「どげんか」などなどは使わないそうで、これまたへえーです。

広島では「じゃけん」とは言わないとあって、高校生の娘に聞くと、「じゃけえ」は言うが「じゃけん」は使わんと言う。
たぶんこれは、「じゃけぇ」と言ってるのが「じゃけん」と聞こえるんじゃないかと思う。

『出身地がわかる! 気づかない方言』には、女性器の呼び名は書かれていない。
大学には行ったとき、女性器をどう呼ぶか、それで話が盛り上がったものだが、ハ ・バ・パ行、マ行、チョ、ンが使われる頻度が高いように思う。
「みっちゃんみちみち」も地方によってさまざまで、これも紹介してほしかったです。

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五位

2010年07月04日 | 仏教

芥川龍之介に『芋粥』という小説がある。
主人公は摂政藤原基経に仕える侍の「某と云ふ五位」で、名前はない。
「五位は、風采の甚(はなはだ)揚らない男であつた」
「余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎々した烏帽子をかけて」
「侍所にゐる連中は、五位に対して、殆ど蠅程の注意も払はない」

とあるように、まことに冴えない、同僚や下役にからかわれ、さらには物売りや子供にまで馬鹿にされている男である。
金もないらしくて、「彼には着物らしい着物が一つもない。青鈍の水干と、同じ色の指貫とが一つづつあるのが、今ではそれが上白んで、藍とも紺とも、つかないやうな色に、なつてゐる。水干はそれでも、肩が少し落ちて、丸組の緒や菊綴の色が怪しくなつてゐるだけだが、指貫になると、裾のあたりのいたみ方が一通りでない。その指貫の中から、下の袴もはかない」
この五位の夢は芋粥を飽きるほど飲んでみたいということだった、そして…、という話である。
だもんで、親鸞の生家日野家は五位の家柄ということを知った時、『芋粥』の五位を連想して、あの程度か、と思った。

親鸞の祖父は従五位下どまり、父有範の官職は皇太后権大進で従六位ぐらいだそうだ。
平松令三『親鸞』を読んでいたら、『枕草子』にこんなことを書いているとあった。
「みるにことなることなき物の文字にかきてことごとしき物 覆盆子(いちご)。鴨 頭草(つゆくさ)。水芡(みふぶき)。蜘蛛(くも)。胡桃(くるみ)。文章博士(もんじょうはかせ)。得業(とくごう)の生(しょう)。皇太后宮権大夫。楊梅(やまもも)」
清少納言が言う「見た目には平凡だが、漢字で書くと仰山なもの」の一つが「皇太后宮権大夫」である。
「有範がついていた大進はそれから二段階下の下級官吏にすぎない。大夫でさえ清少納言には馬鹿にされているのだから、大進など清少納言のようなポストにいる人から見たら、まったくはした役人でしかなかったのではないだろうか」というのが、平松令三師の意見である。

ところがウィキペディアによると、律令制下において五位はいわゆる貴族の位階とされ、国司や鎮守府将軍、諸大夫に相当する位である。
清少納言の父親である清原元輔は河内、肥後の国守を歴任して、72歳の時にやっと従五位下になっている。

上横手雅敬『日本史の快楽』に、慶滋保胤という、文名をうたわれ、天皇の詔勅の草案を作成したりした人物のことが書かれてある。
慶滋保胤の官位は従五位下にとどまった。
「豊かでもない保胤は、五十歳近くになって、かなり広い土地を求め、思うままに設計した。邸内に池を掘り、池の西にはお堂を建てて阿弥陀仏を安置し、東の書斎には書物を収め、北には妻子を住まわせた。地所に占める割合は、建物が十分の四、池が九分の三、セリの生えた田が七分の一、ほかに緑松の島、白砂の汀、紅色の鯉、白鷺とカラフルで、橋や船もあって、好きなものはすべて邸内に収めた」
豊かではないのに、現代では考えられないほどの豪邸なのである。
どうやら『芋粥』の五位というあだ名はその人物の位階とは関係ないらしい。

で思いだしたのが、親鸞が比叡山を下りたのは性の悩みからだという説があるが、某先生が性欲だけではなく権力欲もあったのではないかと話されたこと。
ところが、松尾剛次『山をおりた親鸞 都をすてた道元』には、
「親鸞はいちおう日野氏という貴族の出であり、二十年の間に堂僧から僧位・僧官を有する僧として出世した可能性も大いにあります。それゆえ、
去年(建久八年〈1197〉、25歳)夏のころ、範宴聖光院に拝任あり、(『親鸞聖人正明伝』)
とあるので、聖光院の院主となった可能性も捨てきれないのです」

とある。
五位の家柄では天台座主になることは無理としても、そこそこの地位は望めるはずだ。
親鸞が比叡山を下りたときは29歳、出世をあきらめるのは早い。
となると、権力欲はさほど大きな要因ではない気がする。

で、性欲のほうだが、親鸞は9歳で慈円の房に入室した。
松尾剛次氏は、「慈円に仕える童子の一人となったはずです」と言う。
童子はどういうことをしていたかというと、「夜には添い寝をして、師匠の男色相手となっていたようです」ということなんですね。
醍醐寺が所蔵する『稚児草子』という絵巻物には、「男性性器が露骨に表現されているばかりか、僧侶と稚児との性交の様子が赤裸々に表現されており、見る者は、そのリアルさに圧倒されます」とあり、ネットで調べると、その絵はほんとリアルです。
第一話は「師僧に仕える稚児の美談です。師僧は老人で、勃起力が弱まっているために、稚児は昼間から、自分に仕える男に命じて、張形や薬などを使って肛門を広げさせたり柔らかくさせて、夜の性交の準備をするという話です」
それとか、「稚児に横恋慕した若い僧が、留守をねらって塗籠(壁で周囲を囲った室で、寝室や納戸に使われた)に隠れ、入って来た稚児を後ろから犯しました。ところが、稚児は、動揺することなく、それに応じたという美談」もあって、この絵もネットで見ることができる。
比叡山でも同じような状況だったとすると、親鸞の性欲の悩みとは、セックスしたいということよりも、男色がいやだという悩みなのかもしれないなと思ったようなことでした。

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