三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

東学農民戦争での日本軍の虐殺

2017年12月04日 | 戦争

伊藤智永『忘却された支配』は、東学農民戦争での日本軍の虐殺について触れています。
日清戦争では日本と清が朝鮮で戦い、朝鮮国民はひどい目に遭ったと世界史で習った記憶がありますが、それは正確ではありませんでした。
また、東学党の乱とは東学党という新興宗教の信者が起した反乱かと思ってたら、現在は「東学農民戦争」「甲午農民戦争」と呼ばれており、第一次と第二次蜂起があったことも知りませんでした。

そこで、中塚明、井上勝生、朴孟洙『東学農民戦争と日本』を読みました。
「東学党」という党はないし、「東学党の乱」という呼び方は、農民の決起を反乱だと見なした政府や役人の呼び方である。
第一次蜂起は朝鮮政府への蜂起だったが、第二次蜂起は日本軍と朝鮮の傀儡政権を相手にした戦争だった。
1894年(明治27年)春、圧政に反対する農民の反乱があった。
この第一次蜂起は農民軍が27か条の要求を提出して政府と和解した。

7月23日、日本軍は王宮の景福宮を襲って国王をとりこにし、ソウル城内の軍事施設を占領して朝鮮軍を武装解除、日本の言いなりになる政府に入れ換えた。
清とは、25日に豊島沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ、8月1日に日清両国が宣戦布告をした。
清と戦争をする前に、まず国王を押さえたわけです。

戦史には、王宮から朝鮮兵に撃たれたので、やむを得ず応戦し、国王を保護したとなっています。
しかし、日清戦争開始直前の朝鮮王宮占領について、陸軍参謀本部の記録が残されています。
このことは公刊されている陸軍の日清戦史には書かれてないのです。
なぜなら、「清国が朝鮮の独立をないがしろにしている。日本は朝鮮の独立のために戦う」というのが日本の大義名分だったのに、まず最初に王宮を占領しているのはまずいからです。

そもそも日清戦争は、伊藤博文たちが反対していたにもかかわらず、陸奥宗光の策略によって起きました。
朝鮮政府を「狡猾手段」で脅し、清国兵の撤退を日本に依頼させるよう仕向けたのです。

10月、日本軍の王宮占領と国王の拘束に、全土の半分で農民が再び一斉蜂起した。
しかし、火縄銃とライフル銃、農民ばかりの軍と近代的な訓練を受けた軍隊との戦いのため、農民軍は敗退し、日本政府・朝鮮政府軍の方針で皆殺しの目に遭った。

朝鮮全体では約4千名の日本軍が動員された。
農民軍の参加者は数十万人、死者は3万~5万人と推定される。
日清戦争の死者は、日本が約1万3千人、清が約3万5千人だから、もっとも犠牲が大きかったのが朝鮮人で、その大半は日本軍に殺された。

1894年10月27日、参謀次長兼兵站総監だった川上操六少将は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後悉く殺戮すべし」という命令電報を現地司令部に送っていると、仁川兵站監部の日誌「南部兵站監部陣中日誌」に記録されている。
現地では川上操六の「悉く殺戮」という命令が実行された。

農民軍の死者は戦闘中だけでなく、捕まった後に殺されている者も多い。
朝鮮は日本の交戦国ではなかったし、仮に交戦国であったとしても、敵国の捕虜は国際法の捕虜取り扱いの慣行によって、将校であっても殺害されることはない。
しかし、東学農民軍に対して、日本政府と日本軍は国際法を意に介さなかった。

東学農民軍討滅専門部隊は後備第十九大隊三中隊で、大隊長は南小四郎少佐。
3つの街道を三中隊が南下し、「党類を撃破し、その禍根を剿滅し、もって再興、後患を遺さしめざるを要す」と命令された。
後備第十九大隊は全軍約600名は数十万名の農民軍を追い詰めて殺傷した。

南小四郎大隊長は「東学党征討略記」という記録に「長興、康津付近の戦い以後は、多く匪徒を殺すの方針を取れり」、「真の東学党は、捕ふるにしたがってこれを殺したり」と、農民兵を殺害する方針をとっている。
そして、「これ小官(南大隊長)の考案のみならず、他日、再起のおそれを除くためには、多少、殺伐の策を取るべしとは、公使(井上馨)ならびに指揮官(仁川兵站監)の命令なりしなり」と補足している。

徳島県出身の後備第十九大隊上等兵の陣中日誌が保存されている。

12月3日「六里間、民家に人無く、また数百戸を焼き失せり、かつ死体多く路傍に斃れ、犬鳥の喰ふ所となる」
1月9日「我が隊は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕拾名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり」
1月31日「東徒(東学農民軍)の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを殺せり、見物せし韓人及び統営兵等、驚愕最も甚し」
2月4日「南門より四丁計(ばか)り去る所に小き山有り、人骸累重、実に山を為せり……彼の民兵、或は、我が隊兵に捕獲せられ、責門の上、重罪人を殺し、日々拾二名以上、百三名に登り、依てこの所に屍を捨てし者、六百八十名に達せり。近方臭気強く、土地は白銀の如く、人油結氷せり」


第十九大隊の戦死者は杉野虎吉1人。
12月10日に戦死しているのに、『靖国神社忠魂史』(1935年)には7月19日に清国軍との成歓の戦いで戦死したと記載されている。
どうしてかというと、朝鮮農民兵の殲滅作戦が隠蔽されたからです。

日清戦争では旅順でも日本軍は虐殺を行なっています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E6%97%85%E9%A0%86

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政治の宗教利用

2017年11月26日 | 戦争

大昔になりますが、2004年4月7日、小泉首相の靖国参拝は違憲であるという福岡地裁の判決について、「産経抄」には次のように書かれていました。

裁判官に対する不信を強く感じた。一体、死者の慰霊や鎮魂ということへの日本の伝統文化をどう考えているのか、常識を疑ったからである。
国のために死んだ人々は英霊となり、靖国神社にまつられて“神”となる。おまいりすることはいわゆる宗教活動ではない。先祖をうやまう人間的で自然な儀礼なのだ。

毎日新聞でも岩見隆夫「粗雑すぎる靖国・違憲判決」と題したコラムに、「首相参拝がなぜ宗教的意義を持つかわからない」とありました。
神道は宗教ではないという国家神道の亡霊が今も生きているわけです。

慰霊や鎮魂、そして死者を神として祀ること、そして宗教法人に参ることが伝統文化であり、宗教とは別物だという主張に、神道関係者は抗議したのでしょうか。
靖国神社に参拝することは「宗教活動」ではなく、「宗教的意義」がないという新聞記者の無知は、宗教教育をおろそかにした戦後教育のせいかもしれません。

戦死者が靖国神社や護国神社に神として祀られることによって遺族が安心するという心情を政治が利用し、国のために死ぬ人を再生産する役割を靖国神社ははたしてきました。

島薗進氏は中島岳志氏との対談でこういうことを話しています。

大正デモクラシーの時代というのは立憲政治が整っていく一方で、社会史的に見ると結局天皇と一体感を持つ臣民を育てて、いわば下からの国家神道がどんどん育っている時代でもあった。(略)
とくに戦争が始まると、我が身を犠牲にするような軍人・兵士をマスコミは褒め称え、さらに民衆が喝采を送り、軍人・兵士も帰隊されたように振る舞うという循環構造になっていったわけですよね。(『愛国と信仰の構造』)

宗教を利用して国民の心を支配してきたわけです。
英霊は靖国に祀られると言って特攻に送り出すことと、殉教者は天国に生まれると教えられて自爆テロをする人とどう違うのか。

井上亮『天皇の戦争宝庫』は、皇居にある御府(ぎょふ)について書かれた本です。
日清戦争、北清事変(義和団の乱)、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、済南事件・満州事変・上海事変・太平洋戦争の戦利品や戦死・戦病死者の写真・名簿を収蔵した5つの建物が皇居内にあり、天皇が英霊に祈りを捧げていると伝えられていました。

井上亮氏は小川勇『全国大社詣』(1944年)から引用しています。

苟しくも殉国した者に対しては其(その)霊は神として靖国神社へ合祀せらるゝのみならず、一々生前の写真を一室に保存し随時陛下に親しく玉歩を其(その)室に御運び遊されて、写真の傍に附記してある説明と引合はせて其(その)者の勲功を嘉し給ふと云ふ真に勿体ない事実を拝聞し、此でこそ吾々日本国民は国に殉ぜんとする際、必ず天皇陛下万歳を絶叫して死ぬ事が出来わけであると実感した。

御府は明治天皇の思し召しによって作られました。
天皇は臣民のことを常に考えている、ありがたいことだ、だから天皇のために尽くさなければならないという宣伝をしていたわけです。

一身を大君に捧げまつることは、もとより私ども臣民の本分である。更に、武人として戦場の華と散ることは、この上ない栄誉といはなければならない。しかも皇恩のありがたさ臣下の霊を神として靖国神社にまつらせたまひ、その遺影をさへ、高く御府に掲げたまうてゐるのである。この事を思ふ時、私どもは、たゞ感涙にむせぶほか、全く言ふべきすべを知らない。(1944年の高等科修身教科書)

戦没者が靖国神社に合祀された後、遺族は御府を拝観していました。
御府は「皇居の靖国」だったのです。

井上亮氏はこのように書いています。

天皇のために死ぬことが栄誉であるとかつてないほど強調されたアジア・太平洋戦争期、戦没者の霊は靖国神社に祀られ、遺影は御府に納められることがその栄誉の裏付けだと教育されていた。御府は靖国神社とセットで国民を戦争へ動員する装置になった。

敗戦になると、写真や戦利品は処分され、御府は廃止されました。
現存している建物は倉庫として利用されているそうですが、御府地区には立ち入ることはできません。

「戦争犠牲者は戦後の平和と繁栄の礎だ」という考えを、一ノ瀬俊也氏は「礎論」と名づけて批判しています(伊藤智永『忘却された支配』)。
戦争で命を落とした人たちは、自分がこの業苦を受忍すれば、日本は平和に栄えるはずと信じて死んだのか。
「礎論」は、生き残った者たちがやましさを取り繕い、因果をすり替えて唱和しているのではないか。
そこには、罪と責任から逃げたい心理が潜んでいる。
これは靖国神社に対する心情と同じだと思います。

追悼と謝罪は、折り合いが良くない。純粋に死者を悼む、その気持ちだけでは、謝らねば、という心境までたどり着かない。祈るなら、まず謝るべきだ、という主張は、往々にして素朴に悼む人たちを遠ざける。追悼は大衆の俗情で、謝罪は思想が陥る過剰な倫理なのか。どちらも和解への手順なのに、互いの道筋が交わらず、日本の中で分裂している。さらに和解の相手が、どちらが「正しい」かを言い出すと、反発が起き、分裂は過熱する。


村山富市首相は戦後五十年談話を出す前、文案を橋本龍太郎通産相に届けると、橋本龍太郎氏は「これでいい」と即答し、一つだけ、文中に「敗戦」と「終戦」が交じっていたのを、「潔く敗戦に統一したほうがいい」と注文したそうです。

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パトリック・キングズレー『シリア難民』

2017年09月12日 | 戦争

パトリック・キングズレー『シリア難民』の原題は「The New Odyssey」。
題名から、シリアからの難民だけかと思ったら、サハラ砂漠以南やエリトリア、アフガニスタン、イラクなど他の国からの難民も取り上げています。
難民は、リビアやエジプトから密航船でイタリアへ、あるいはトルコからギリシア、バルカン半島を経由してドイツ、スウェーデンへ。

2015年に取材して書かれた本なので、現在は状況が違っていると思います。
2014年にリビアやエジプトから密航船でイタリアに到着した人は約17万人。
2015年には85万人以上がトルコ経由でギリシアの島を目指した。

難民危機はEUに亀裂をもたらした。

ヨーロッパの人口は約5億人だから、85万人は0.2%なので、適切に対処すれば吸収できる数だし、移民の流れを管理するシステムを立ち上げれば、危険な海の旅に出ずにすみ、難民流入を秩序立てて管理できたはずだ。

西アフリカ、あるいはエリトリアやスーダン、ソマリアからリビアに行くには、サハラ砂漠を1週間かけて越えなければいけない。

ピックアップトラックに押し込められた人たちの中には、荷台から転げ落ちたり、熱中症になって死ぬ人がいるし、道に迷って死ぬこともある。
運び屋に身代金を請求され、家族や知人が支払うまで監禁されて拷問を受けることもある。

リビアに着いても、待機所に監禁され、家族に代金が請求され、支払われるまで監禁と拷問が続く。

食事は1日1回で、女性は強姦される。
口絵の写真に、船にあふれるばかりに大勢の人が乗っている写真があります。
横になることもできず、糞尿や嘔吐のにおいが満ちている。

パトリック・キングズレー自身もトルコからギリシア、バルカン半島を歩いています。

ギリシャへのゴムボートが転覆することもあるが、トルコではニセモノの救命胴衣が売られている。
途中で逮捕されて送還されたり、盗賊に金品を奪われるかもしれない。
運び屋を頼むと、冷凍車の中で窒息死するかもしれない。

そこまでしてヨーロッパ-に行こうとするのはなぜか。

社会福祉制度に寄生し、安楽な生活を求めているからだと考える人がいる。
そして、政府の閣僚やメディアは不安感を煽る。
日本でも、「何の苦労もなく 生きたいように生きていたい 他人の金で。 そうだ 難民しよう!」と書かれたイラストを描いた人がいます。
シリア難民は「なりすまし難民」だというわけです。

だけど
、イギリスのメイ内相(現在は首相)は「彼らは難民だという声があるけれど、地中海を渡ってくる人たちをよく見ると、大部分はナイジェリアやソマリア、エリトリアから来た経済移民だ」と語っているそうで、考えていることはこのイラストレイターと同じでしょう。

しかし、『シリア難民』によると、海を渡ってヨーロッパに来る人の84%が、難民発生国トップ10に入る国の出身。

ナイジェリアの北部はボコ・ハラムによって100万人以上が、ソマリアはアル・シャバブによって100万人以上が避難を強いられている。

アフリカで最多の難民を生み出しているのはエリトリア。

世界最悪の人権弾圧国と言われており、検閲国家ワースト10の第1位、世界報道自由ランキングでも最下位。
総人口に対する難民発生率では世界一で、毎月5千人の難民を生み出し、人口の約9%が難民になっている。(エリトリアの人口は511万人から630万人)
国連によると、2014年半ばまでに約35万7千人が国外脱出している。

エリトリアには憲法がなく、一党独裁で、選挙もない。

警察は裁判を経ずに人々を刑務所に送りこみ、処刑されることもある。
そして、ナショナル・サービスといって、男女を問わず16~17歳以上の国民を政府が無期限に管理する制度がある。
政府は、対象者の住む場所、従事する仕事、家族と会う頻度などをすべて決める。
国民は奴隷の状態に置かれている。
しかし、スパイ網を構築しているので、人々は家族や友達とも政治を話題にできない。
リビアからヨーロッパを目指すのがどんなに危険か知っていても、エリトリアの状況のほうがもっと悲惨だから、エリトリア人はリビアを目指す。

ヨーロッパが難民を保護しないから、命の危険を冒しても密航業者に頼らざるを得ない。

これはエリトリアだけではありません。
パトリック・キングズレーが何百人もの難民に「なぜ命の危険をおかしてでもヨーロッパに行こうとするのか」と聞くと、最も多かった答えは「ほかに選択肢がないから」だった。
ヨーロッパを目指して失敗しても、失うものは何もない。

道理にかなった長期的な対策は、莫大な数の難民が安全にヨーロッパに到達できる法的メカニズムを整備することだ。

第二次世界大戦後、そしてベトナム戦争後、ヨーロッパは大勢の難民を定住させているからできないはずはない。

だったら日本はどうでしょうか。

約1億2千万人の人口の0.5%、60万人の難民を日本国民は受け入れるかどうか。

「アムネスティ・ニュースレター」vol.471に「南スータンからの難民を受け入れているウガンダ」という記事があります。


2013年に紛争が始まって以来、これまでに180人超の人たちが南スータンを逃れ、近隣諸国で避難生活をしている。

その半数を受け入れているのがウガンダで、今も日に千人がやって来る。
難民には居住と農耕用の土地が与えられ、医療や教育などの公共サービスをウガンダ国民と同じように受けられる。
しかし、ウガンダは豊かな国ではなく、巨額の負担がのしかかっている。
国際社会に支援を求めているが、2017年に必要な20億ドルには遠く及ばない。

ウガンダだけでなく、2015年の時点で約120万人ものシリア難民を受け入れているレバノン(人口450万人)などの国に必要な援助金を国際社会は拠出すべきでしょう。
日本もせめてそれくらいはしないといけないと思いました。

(追記)
国連UNHCR協会「With You」第38号

「地中海を渡り、ヨーロッパに上陸した人の数の推移」
東ルート(トルコからギリシャ)
2015年 856,723人
2016年 173,450人

中央ルート(リビアからイタリア)
2015年 153,842人
2016年 181,436人

西ルート(モロッコからスペイン)
2015年 3,592人
2016年 4,971人


 

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特攻からの生還と振武寮(2)

2017年07月06日 | 戦争

林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』によると、沖縄作戦で特攻基地を飛び立った者は、飛び立った日付で戦死公報が作成され、軍籍から抹消され、二階級特進の手続きを取っていた。
それなのに、敵艦に突っこんだはずの軍神が生きて帰ってきては、世間に説明がつかない。
軍司令部にしてみれば、いまさら生きて帰ってこられても扱いに困った。

倉澤清忠「こんなにたくさん帰ってくるとはゆめゆめ考えなかったんですが、30人、50人とだんだん増えていきました」


出撃意欲をなくした特攻隊員の処置をどうするか、第六航空軍司令部は頭を痛めた。

倉澤「最初は軍専用旅館として大盛館を指定して待機させたが、すぐ満杯になってしまったんだ。引き返してきた特攻隊員を宿泊させると、一般の目につき易い。特攻隊の性格からして、死んでいるはずの人間が、途中で帰ってきたと噂が立つと軍神に傷がつく。それを第六航空軍としては最も恐れた。大盛館には出撃前の隊員も宿泊していたし、彼らの情けない姿を見ると心理的に悪い影響を与えかねないんだ」

生還した特攻隊員の扱いに苦慮した陸軍司令部は、福岡にあった第六航空軍指令部横に造った施設に収容し、一般人や他の特攻隊員に知られないように隔離した。
およそ80名ほどの特攻隊員が収容されていたといわれるその施設は、「振武寮」と呼ばれた。
行動は制限され、外出や外部との連絡(手紙・電話)は禁じられ、再び特攻隊員として出撃するための厳しい精神教育が施された。

倉澤参謀は毎朝6時半にやってくると、酒の匂いをぷんぷんさせながら「生きて帰ったお前たちには、飯を食べる資格がない」とわめき散らして、竹刀で殴りつけた。
「貴様ら、逃げ帰ってくるのは修養が足りないからだ」
「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」
「卑怯者、死んだ連中に申し訳ないと思わないか」
「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」

倉澤参謀は1944年9月に飛行機が墜落して頭蓋骨骨折をし、20日間も意識不明の重体になった。
命は助かったが、頭は割れるような痛みが走り、酒を飲んでは暴れた。
普通なら除隊するが、航士第五十期はほとんどが戦死していたため復帰した。
こういう人が参謀でいること自体がおかしいです。

林えいだい氏は倉澤清忠氏から次の言葉を引き出しています。

倉澤「要するに(特攻は)あまり世間を知らないうちにやんないとダメなんですよ。法律とか政治を知っちゃって、いまの言葉でいえば、人の命は地球より思いなんてこと知っちゃうと死ぬのは怖くなる。(略)
(少年飛行兵は)12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、そのかわり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ」

自爆テロとかいったことと通じる、重たい述懐です。

フィリピン特攻作戦以来、航空機による特攻の犠牲者はおよそ6千人といわれる。
目的を達することができずに引き返した隊員はほかにもかなりいるはずだ。

倉澤「出撃する特攻隊員たちの心情を汲み取ってやる思いやりがなかった。引き返せば国賊のようにののしった自分が恥ずかしい」


大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』によると、アメリカは日本軍の暗号を解読しており、日本軍の動きは米軍に掌握されていた。
日本軍がどこに、どれだけの数の戦闘機を保有しているか、正確に把握している。
特攻についても、攻撃の時間、規模、さらには機材が不足し、練習機が特攻に使われようとしていることまでが事前に調べつくされていた。
しかも、沖縄戦では、米軍は160km先の動体を確認できるレーダーによって、沖縄に防空警戒網を張り巡らせ、約30分前に特攻機の来襲を察知した。

沖縄作戦での特攻はほとんど無駄死というか、使い捨てにだったわけです。
戦争で多くの人が無駄に死んでいったことによって、日本人は平和主義を選んだことを肝に銘じておく必要があります。

大貫健一郎さんはこのように語っています。

喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘。特攻隊の精神こそが戦後日本の隆盛の原動力だ、なんて言う馬鹿なやつがいますが、そういう発言を聞くとはらわたがちぎれる思いがします。陸海軍あわせておよろ4000人の特攻パイロットが死んでいますが、私に言わせれば無駄死にです。(略)
いまの若者も不幸にして戦争に直面すればやむを得ず特攻隊員になってしまうかもしれない。そんな時代が二度とやってこないようにするためにも、私は自分が見た悲惨をしっかりと後世に語り継ぎたいのです。
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特攻からの生還と振武寮(1)

2017年07月02日 | 戦争

伊藤智永『忘却された支配』に、陸軍第六航空軍は特攻から生還した者を振武寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てたことが書いてあります。
振武寮とは何かと思い、林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』と大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』を読みました。
林えいだい氏は第六航空軍編成参謀の倉澤清忠少佐(86歳)に2003年3月から7月にかけてインタビューし、それから数日後に倉澤清忠氏は亡くなっています。
大貫健一郎氏は特攻から帰還した方です。

林えいだい氏は倉澤清忠氏に、最初にまず「失礼ですが正直いってあなたのことをよくいう隊員は一人もいません。早くいえば鬼参謀と恨んでいます」と、ズケズケと言っています。
こんなんで倉澤清忠氏がよく話をしてくれたものだと思いますが、倉澤清忠氏はいつ報復されるか分からないからと、80歳までは自己防衛のためにピストルに実弾を入れて持ち歩き、家では軍刀を手放さなかったと、率直に語っています。

1944年12月26日、連合軍の日本本土上陸が目前に迫り、陸軍は沖縄戦に備えて、新しく第六航空軍を創設した。
1945年4月6日、沖縄への特攻作戦が始まると、出撃した特攻機が機体のトラブルや不時着などで引き返してくることが非常に多くなった。
菅原道大第六航空軍司令官の日記には、特攻隊の5分の1が引き返したり不出発だったとある。

代替機受領のために、福岡の第六航空軍司令部の倉澤参謀のところに行った特攻隊員に対して、倉澤少佐は引き返した理由を厳しく追及した。
・目標地点まで行ったが、敵艦を発見できなかった
・天候が悪くて引き返した
・機体が故障した、など
開聞岳を通過してまもなく海岸に不時着することもあった。
古い飛行機を寄せ集めた特攻機だから、エンジントラブルとか故障が多い。
しかし、機体には全く損傷がないものもある。
海岸か島に不時着したり、海に沈めると、証拠がないから調べようがない。

倉澤「沖縄戦の特攻では最高四回引き返した隊員がいることを、私は記憶している。知覧を飛び立つが必ず引き返してくるんだ。エンジンの調子が悪いとか、オイルが洩れて飛行不能になったとか、いろいろと理由を述べるんだ。それが一人や二人ではなく、フィリピンの特攻の時には考えられないほど多くなった。第六航空軍としてはその対策に頭を痛めて、再び出撃させることに決めたんだ。そのためには徹底した精神教育しかない。ところがだ、一度引き返した者は絶対といっていいほど出撃の意欲をなくし、また次も引き返してくるんだ。娑婆の空気を吸うと、この世に未練がでてくるのか、死ぬことが怖くなっておじけつくもんだ。いくら気合いを入れて教育しても、無駄だということが分かった」


そもそも、やっと編成することができた特攻隊は、古い機体と技術を伴わない操縦士によるというのが実情だった。

倉澤「沖縄の特攻作戦が始まるというのに、第六航空軍には手持ちの特攻機が僅かしかなかった。急遽、各戦隊や教導飛行師団から特攻用の飛行機を寄せ集めたが、これまで練習用に使用していた故障機ばかりよこした。(略)修理させたが、部品が底をついていつ終わるか目途が立たないというんだ。それじゃ特攻編成はできたもんじゃない。知覧と万世で250キロ爆弾を搭載するので、操縦者はその重さに面喰らって、機体に浮力がつかないまま墜落してしまった。
航空本部に新部品を支給するように要請した。すると敵機の東海地方の爆撃で部品工場が全滅して、再開の目途が立たないから現有部品で間に合わせて修理せよというんだ。おんぼろ飛行機に爆弾を搭載するとどうなるかを、操縦経験のない陸軍上層部は全く考えていなかったんだ」

特攻機を航空本部に請求しても、新鋭機はどの戦隊も手放さなず、ノモンハン戦に使用し、訓練で使い古したおんぼろ機を提供してきた。
そのため、航空廠で修理して、特攻機に改修しなければならなかった。

ところが小月文廠では、エンジンの修理、組み立てを、基本教育も受けていない女学校の生徒にさせている。
エンジンを分解して破損部分を発見しても、新しい部品がないために交換できない。
機体のナットがゆるんで締まらず、手でも簡単に外れる。
完全に修理したと自信を持った戦闘機が、離陸中や着陸中に墜落して、操縦士が死ぬこともあった。

知覧飛行場に集結した特攻機のうち、出撃直前になって機体の故障で中止になる特攻機もあった。
最新鋭の一式戦闘機Ⅲ型隼はエンジンが不調で、知覧航空分廠で修理することになったが、一式戦闘機Ⅲ型隼を修理できる整備係が1人もいなかった。
陸軍の最新鋭の飛行機でもこのありさまだった。

当時の戦闘機は250キロ爆弾を爆装するようには設計されていないので、改修するためには時間がかかる。
隊員は十分な編隊訓練をする時間もないまま、前進基地へ集合を命じられ、知覧基地ではじめて250キロの爆弾を爆装した隊員が大部分で、離陸中に浮力がつかず、墜落事故も起こった。
若い操縦士は技術が低く、特攻隊訓練を担当していた東郷八郎氏は「特攻の任務を果たせるか、非常に疑問を抱かせるレベルの操縦士が多かったのは事実です」と語っている。

こんなひどい状態で特攻に送り出していたとは知りませんでした。
いったい何のための特攻だったのかと、あらためて思いました。

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清水潔『「南京事件」を調査せよ』

2016年10月29日 | 戦争

清水潔『「南京事件」を調査せよ』は、NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」という放送をもとにして書かれた本。
番組を製作するにあたり、虐殺された捕虜の写真はどこで撮られたのか、日記を書いた兵士が中国へ渡るのに神戸から乗った船が上海に着いた日時など、そうした細部を一つひとつ検証したとあります。

番組への意見は9割が肯定、否定は1割だったそうです。
産経新聞は「「虐殺」写真に裏付けなし 同士討ちの可能性は触れず 日テレ系番組「南京事件」検証」という記事で、番組を批判しています。

清水潔氏によると、否定派の論理は一点突破型です。
たとえば、
・被害者の人数30万人などあり得ない、と数字を否定する。
だから「虐殺は捏造だ」と主張するわけだが、30万人虐殺という数字を嘘だと言ってるだけで、虐殺そのものをなかったと証明したわけではない。
30万人という数字の否定にも論拠はない。

・南京市街には当時20万人しかいなかったから、30万人も虐殺できない。
南京事件は南京城内や中心部だけで起きたわけではない。
南京周辺の人口は100万人前後で、時期も6週間から数か月だった。
南京事件は、南京陥落の前後に南京周辺の広範囲の地域で起こった捕虜や民間人の虐殺、強姦、放火などを総称している。

ちなみに、「南京虐殺」「南京事件」など呼び名がいろいろありますが、清水潔氏によると、「南京事件」という場合、「大虐殺という程のひどいことはなかった」という意図と、「虐殺だけではない。強姦、放火、略奪など野蛮の限りを尽くしたのだから総合して〝事件〟と呼ぶべきである」という肯定の意味もあるとのことです。


・虐殺を伝える本や記事の中から何かのミスを見つけ出し、「だから全部嘘だ」になる。

何でもない写真が南京虐殺の写真として誤用されると、捏造したことになり、さらには「南京虐殺はなかった」となる。

・多くの従軍記者がいたのだから、虐殺や数多くの死体などがあれば記事になったはずだ。

当時は厳しい報道統制が敷かれており、検閲を受けなければならなかったので、日本では報道できなかった。
しかし、海外の新聞には南京での虐殺に関する記事が出ていた。
たとえば、「ニューヨーク・タイムズ」1937年12月18日に、「無差別に略奪し、女性を凌辱し、市民を殺戮し、中国人市民を家から立ち退かせ、戦争捕虜を大量処刑し、成年男子を強制連行した」とある。

・番組への批判として「あれは南京虐殺ではない。幕府山事件だ」というものがある。

事件を分断し否定することで、「南京事件はなかった」とする。
兵士の日記や証言によると、揚子江岸の捕虜虐殺は数か所で行われたらしい。

・幕府山事件について両角聯隊長は「あれは銃殺ではない。自衛発砲だった」と言っている。

山田支隊が捕虜にした15000人のうち、非戦闘員を釈放、収容所に入れたのは8000人。
収容所での火事のどさくさで半数が逃げ、司令部からは「皆殺セ」という命令が下るが、捕虜の解放を決意し、捕虜を解放するために、揚子江岸に連行したが、暴動を起こされたのでやむなく銃撃した。
このように両角聯隊長は説明しているそうです。

しかし、第66聯隊第一大隊の戦闘詳報には、聯隊長の命令として「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ、其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ遂次銃殺シテハ如何」とあり、虐殺は軍の組織的命令だったことがわかります。

両角聯隊長の説明には疑問が残ります。

清水潔氏が初めて中国に行った時のこと、水の入ったペットボトルを手に席を廻っていた客室乗務員が隣に座っていた中国人男性に水を注いでたら、機体が揺れて、水が清水潔氏のズボンにこぼれた。

客室乗務員の女は男性客に面罵し、さらには男性が膝に載せていた毛布で清水潔氏のズボンを拭くと、「毛布で拭くな」と怒った。
清水潔氏は「どうしようもない国だ」と感じた。

清水潔氏は大学院で教えることがあるが、あるとき、授業のあとに教授や学生とレストランでランチを取った。

そしたら、ウエイトレスが中国からの女子留学生にコーヒーをこぼし、白いブラウスにかかった。
それなのに、ウエイトレスはテーブルだけを拭いたあと、何ごともなかったかのようにスマホを操作していた。
後日、その女子留学生にウエイトレスに対して腹は立たなかったかと聞くと、「あの人もわざとじゃないから、ミスをした本人も悔しいんですよ。私が怒ったら気持ちが重くなって落ち込むんじゃないでしょうか」と答えた。

どうしてそういうことに清水潔氏がこだわるかというと、清水氏の父はシベリアの抑留者だったが、「中国人ってやつは、どうしようもない」と言っていたからです。

私たちには「中国人は・・・」という先入観が正直なところあります。
南京事件や慰安婦問題を否定するのは、そういう差別偏見があるからではないかと思いました。

中国政府によって南京大虐殺の資料をユネスコの世界記憶遺産登録申請されたことに対し、原田義昭元文部科学副大臣は「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている時にもかかわらず、申請しようとするのは承服できない」と記者団に語った。
慰安婦問題とは日本軍による強制連行だと、私は思ってましたが、慰安婦の存在自体をも否定しようとする人もいるんですね。

「「虐殺」写真に裏付けなし 同士討ちの可能性は触れず 日テレ系番組「南京事件」検証」を書いた人は、一般人や捕虜への虐殺等はなかったと全否定しているのでしょうか、それとも虐殺はあったことは認めているのでしょうか。
すべては中国の嘘だと否定することは無理だと思います。

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伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう』(1)

2016年09月09日 | 戦争

伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る』は、伊勢崎賢治氏が福島高校の2年生に5日間、話をしたものをまとめた本です。
戦争をなくすこと、止めることはほんと難しいと思いました。
ほお~と思ったことはたくさんありますが、テロについて。

1975年、インドネシアは、「共産主義者に侵略された東ティモールの人民から支援を要請された」と口実をでっちあげ、東ティモールに軍事侵攻し、1976年、併合した。

独立派は反撃し、ゲリラ戦が始まる。
国連総会ではインドネシアによる軍事侵略と占領を非難する決議がなされたが、アメリカ、ヨーロッパ諸国、オーストラリアなど西側陣営はインドネシアを支持した。
24年間の占領で、約24万人の東ティモール人が殺され、世界の人権団体は、住民に対するテロ行為だとしてインドネシア政府を非難した。
しかし、インドネシア政府の側から見れば、独立派ゲリラこそがテロリストになる。

1999年、インドネシアへの併合か、完全独立かの住民投票が実施され、8割の有権者が完全独立を支持した。
インドネシア併合派民兵は破壊と殺戮を行なったため、多国籍軍が併合派民兵を鎮圧した。

東ティモール独立前の2000年から2001年にかけて、伊勢崎賢治氏は西ティモールとの国境地域にあるコバリマの県知事に任命される。
ある日、ニュージーランド軍の小部隊が国境付近をパトロール中、併合派民兵グループの待ち伏せ攻撃を受け、1人のニュージーランド軍兵士が殺された。
いきりたったニュージーランド軍と伊勢崎賢治氏は10名ぐらいの併合派民兵を全員射殺した。

この僕自身の経験から、明確に言えることがあります。「テロリスト」の人権は、考慮されないということです。別の言葉で言うと、人間を、その人権を考えずに殺すには、「テロリスト」と呼べばいいのです。


無人爆撃機による空爆で、多くの民間人が巻き添えになりますが、一説によると、テロリスト1人殺すのに、50~60人の何の罪もない民間人が犠牲になるといわれているそうです。
民間人にとって、空爆はテロそのものだと思います。

「Sein」vol.4に古市憲寿氏のこんな話が載っています。
今日語られる戦争のイメージは、現在世界中で起こっている戦争ではなく、太平洋戦争などの国と国との総力戦だと思われている。
しかし、21世紀は戦争で命を落としている人の数は少ないし、戦争の起こる数も減っている。
つまり、戦争のあり方が変わってきている。
実際に世界で起こっている戦争は、内戦や局地的なテロ行為が主流になっている。
安保法制で、政府は国を守るためだと言っているが、本当の意味で国を守ることになっているか。
4月に首相官邸にドローンが落ちたが、10日間以上、誰も気づかなかった。
これからの危機は、どこかの国が大挙して攻めてくるような危機ではなく、爆弾を仕掛けたドローンを東京ドームとかに落とすテロだとか、そういうものだと思う。

なるほどと思いました。
核軍備の縮小・撤廃に向けた国連作業部会で、国連総会に対し核兵器禁止条約の2017年の交渉開始を求めた報告の採択に日本は棄権しました。
アメリカの核の傘が日本を守ってくれているからということでしょう。
でも、そんな時代ではないわけです。

自分の国を自分で守らない日本は世界からバカにされているという人がいます。
しかし伊勢崎賢治氏によると、日本のイメージは決して悪いものではないそうです。

中東全体では、アメリカは嫌われているのに対し、中立と思われている日本のイメージはダントツにいい。
アフガニスタンを国益追求の道具にしないし、そのために武力を使わない日本の立ち位置が認められている。
日本国内がテロの被害にあっていないというのは、テロリストから、まだ、それほど敵に思われていないということでもある。

日本人は人畜無害とバカにされているのでは決してなく、自分たちのような犠牲者のマインドも理解する勇猛果敢な民族と捉えられているようだった。
どうも、僕たちは、アメリカと一緒に行動しているが、アメリカに対する不信感を共有できる同胞と見られているみたい。

でも、これからアメリカと一緒になって軍事行動をするようになったらどうなるのか、いささか心配です。

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3分の2とEU

2016年08月11日 | 戦争

いささか古くなってしまいましたが、先月行われた参議院選挙前の高知新聞(7月5日)の記事です。

【参院選 土佐から】改憲への「3分の2」 高知で83%意味知らず
■争点が見事に隠れる■
 今選挙注目の「3分の2」とは? 今回の参議院選挙は、憲法改正に前向きな勢力が「3分の2」の議席を確保できるか否かが一大焦点となっている。結果いかんでは戦後政治、人々の暮らしの大きな転換となる。が、この「3分の2」の意味や存在、有権者はどの程度知っているのだろうか。高知新聞記者が2~4日に高知市内で100人に聞くと、全く知らない人は5分の4に当たる83人、知る人17人という結果が出た。(略)
「今回の参院選は『3分の2』という数字が注目されています。さて何のことでしょうか?」
 記者がこの質問を携えて街を歩いた。
 返った答えのほとんどが「?」。「知らない」「さっぱり」「見当もつかない」の声が続いた。
 「合区のこと?」(21歳男性)、「えっ憲法改正のことって? そんな大事なことは新聞が大見出しで書かなきゃだめでしょ。全然知らなかった」(74歳男性)の声も。
 「3分の2」の争点や意味を、ほぼ分かっていたのは17人。(略)
 「自民党の憲法改正草案を読んだことがありますか?」
 読んだことがあると答えた人は10人。「家族は協力し合わねばならないとの条文があった気がする」(44歳女性)、「新聞で読んだ。すごい量が多くて、何となく読んだくらい」(56歳男性)。新聞や自民党が配布した冊子で読んだ人のほか、テレビニュースで概要を聞いた人も含めたが、内容を熟読した人はいなかった。(略)


毎日新聞(7月13日)です。

熱血!与良政談 「3分の2って何?」の衝撃
(略)毎日新聞が投票日の10日に全国の有権者150人に聞いたアンケートでも6割近くに当たる83人が、このキーワード(3分の2のこと)を知らなかった。「それって雇用関係の数字じゃない?」と答えた人もいたという(略)

「3分の2」がどういう意味か知らない人がそんなにいるとは驚きです。

こちらは京都新聞の記事(7月11日)です。


国会発議「急ぐべきでない」半数 憲法改正テーマに緊急調査
 参院選の投開票結果を受け、京都新聞社は11日、憲法改正をテーマに京滋の有権者100人に緊急アンケートを実施した。改憲勢力が改憲発議に必要な3分の2以上の議席を占めたことについて、評価する声は22人にとどまった。憲法改正の国会発議についても「急ぐべきではない」が半数近くを占め、慎重な姿勢が浮かび上がった。
 与党の圧勝を評価した22人の中でも改憲の内容については意見が分かれた。自民党が憲法改正草案に明記した「国防軍の保持」について、「賛成」は10人だったのに対し、「反対」は5人で、「どちらとも言えない」も7人いた。同草案の「家族は、互いに助け合わなければならない」とする規定は「賛成」(10人)と「どちらとも言えない」(11人)に分かれ、反対は1人だった。
 一方で、自民の改憲草案に「目を通したことがない」が75%で、改憲勢力3分の2を「よかった」と評価する人では、さらに目を通していない割合が高かった。(略)


憲法を改正すべきだと考える人でも、どこをどう変えるか、それは人それぞれのはずで、自民党の憲法改正草案に100%賛成という人は少ないと思います。
草案のここは賛成だが、ここは反対とか、そういうものでしょう。
憲法が改正されるかもしれないのに、それを知らないで投票する。
あるいは、改正されたらどうなるかを考えずに、とにかく改憲すべきだと考える。
これでは、イギリスのEU離脱に賛成票を投じた人と変わりません。

イギリスのEU離脱決定から数時間後、イギリスでグーグルで検索数が多かったのは、「EU離脱の意味は?」、2番目が「EUって何?」だそうです。

坂野正明「TUP速報999号 英国のEU離脱キャンペーンに見る市民の政治誘導と参院選」(7月98日)からの無断引用です。

離脱が決まった後になって、離脱に票を投じた人の少なからずが真剣に青ざめている様子が、報道からもまた筆者の周囲でもうかがえる。たとえば、外資の工場で働く労働者が大量解雇の可能性におびえたり、欧州大陸でビジネスを繰り広げる(英国)人が、自分の仕事の将来に不安を覚えている様子だ。投票前に、自分の投票行動とその結果が自分の生計に与える影響との関係に考えが至らなかった、ということだ。

3分の2の意味を知らずに自民党やおおさか維新に投票した人は、国民投票のあとに後悔したEU離脱派を笑えません。

坂野正明氏によると、EU残留を説く知識人が理詰めで主張したのに対し、EU離脱キャンペーンの多くは単純なスローガンを繰り返したそうです。

有名なのが次の3つ。

・「コントロール」を取り戻せ
・英国をふたたび偉大な国にしよう
・国を取り戻したい。

こうした感情に訴える単純なスローガンは受けます。
しかし、どうとでも受け取れるし、具体的に何を、どうするのかはわかりません。
そのあたりも都合がいい。

安倍首相は「戦後レジームからの脱却」と唱えていて、しかし戦後の日本はアメリカ追随で一貫しており、安倍首相も同じ路線のはずなのに、何を脱却するつもりかと思ってましたが、「戦後レジームからの脱却」とはアメリカの「押しつけ憲法」を廃止して「自主憲法」を制定するということだと、最近納得しました。
もっとも、その自主憲法と称するものもアメリカの意向に沿うものとなることは容易に予想されます。

山田優、石井勇人『亡国の密約 TPPはなぜ歪められたのか』という本を、新潮社のHPではこのように紹介しています。

1990年代、コメの市場開放要求をかわすため、日本は米国とある密約を結んだ。「聖域」を守る代償として、米国に大きな実利を差し出すスキームは、その後20年余りの間に、農業のみならず金融、保険、医療分野にも拡大。その結果、TPPでも日本は大幅な譲歩を余儀なくされた。


毎日新聞の書評(7月17日)によると、

〝密約〟とは、日本が義務づけられている米の輸入量のうち、ほぼ半分を、アメリカから輸入するというものである。国会で質されても、大臣も、農水書も否定する。(略)
こうした密約が、TPPではさらに拡大してアメリカ代表が大丈夫かと事務方に聞くほど、甘利代表(当時)は譲歩したらしい。

とあります

伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう』は、福島高校の生徒への講義をまとめた者です。
アメリカの特殊部隊がパキスタンでビンラディンを暗殺した。
パキスタン国民は主権侵害だと怒り、反米感情は高まった。
歌舞伎町でビンラディンが殺害され、日本政府が「知らなかった」と言ったとして、日本人はどうするだろうか、と伊勢崎賢治氏は問います。
日本政府は主権が侵害されたとアメリカに抗議するか、国民は怒るか。
「へえ-」で終わるのではないか。

そして伊勢崎賢治氏は、2004年、沖縄でアメリカ軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落したときの話をします。
日本の消防車も警察も現場に近づくことはできなかった。
アメリカ軍が日本の私有地にバリケードを作って封鎖し、日本人を誰も立ち入らせなかったのである。
こうしたアメリカの言いなりという体制こそ脱却してほしいものです。

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加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

2016年05月03日 | 戦争

それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、加藤陽子東大教授が栄光学園の中高生に5日間講義したものです。
知らんかったと思ったことをいくつかご紹介します。

国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を擬似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らない。

政治システムの機能不全とは、たとえば現在の選挙制度から来る桎梏。
小選挙区制下では、投票に熱意を持ち、かつ人口的に多数を占める高齢者世代は確実な票をはじきだしてくれるので、為政者は絶対に無視できないが、投票に行かない子育て世代や若者の声が政治に反映されにくい。
そのために、義務教育期間のすべての子供に対する健康保険への援助や、母子家庭への生活保護加算は優先されるべき制度だが、こちらには予算がまわらない。

「人民の、人民による、人民のための政治」で有名なリンカーンのゲティスバーグでの演説は、南北戦争の最中である1863年に行われた。
戦意昂揚のためと北部の連邦政府の正当性をリンカーンは訴えた。

演説の中にこんな文章があるそうです。

これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽くして身命を捧げた、偉大な主義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれがいっそうの献身を決意するため、これら戦死者の死をむだに終わらしめないように。

これは国のために死んでくれる人を再生産する靖国の論理と同じだと思いました。

リンカーンの演説は、戦死者への追悼であるとともに、国を再統合し、国家目標、国家の正当性を新たに掲げるためにされた。
日本国憲法も同じ構造である。

巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となる。


憲法は、国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方を明らかにしたものといえる。

国民を国家につなぎとめるためには、国家は新たな国家目標の設定が不可欠となってくる。その際、大量動員される国民が、戦争遂行を命ずる国家の正当性に疑念を抱くことがないように、戦争目的がまずは明確にされることが多いのです。

たとえば、ファシズムに対する戦争、国家存亡のための戦争、戦争をなくすための戦争など。

ルソーによると、戦争の最終的な目的は、相手国の土地を奪ったりといった次元のものではない。

相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(広い意味での憲法)に変容を迫るものこそが戦争だ。
第二次世界大戦で敗北したドイツや日本の憲法=基本的な社会秩序は、英米流の議会制民主主義に書きかえられた。

ここまでが序論です。
日清戦争、日露戦争について。


日清戦争は帝国主義戦争の代理戦争だというところでは不可避だったそうです。
日本―イギリス
清―ロシア

日露戦争も代理戦争だった。
日本―イギリス・アメリカ
ロシア―ドイツ・フランス

日露戦争は満州の門戸開放よりも、朝鮮半島(韓半島)をめぐる争いで、ロシアのほうが戦争には積極的だった。
1897年、朝鮮は大朝鮮国だった国号を大韓帝国に変え、朝鮮半島も韓半島と改めたそうで、これからは韓半島という言葉を使うべきでしょうか。

第一次世界大戦について。
第一次世界大戦が終わり、パリ講和会議で戦勝国が熱中していたのは、ドイツからいかに効率的に賠償金を奪えるかだった。

戦争中、イギリスは42億ドル、フランスは68億ドル、イタリアは29億ドルも、アメリカから借金をしていたので、ドイツの賠償金によって借りた金を返さなければならない。
経済学者のケインズは、アメリカに対して英仏が負っている戦債の支払い条件を緩和するよう求めたが、アメリカは英仏からの戦債返済を主張した。

ケインズの言うとおりに、寛容な賠償額をドイツに課していれば、あるいは29年の世界恐慌はなかったのではないか、このように予想したい誘惑にかられてしまいます。そうであれば、第二次世界大戦も起こらなかったかもしれません。


満州事変について。
満州事変の2か月前に、東京帝国大学の学生に意識調査をした。

「満蒙のための武力行使は正当か」という質問に88%が「正当だ」と答えた。
「直ちに武力行使すべき」と答えたのは52%。
「いいえ」と答えたのは12%。
満州事変の後にも意識調査が行われているが、前と後では調査結果があまり変わっていない。
満蒙問題について武力行使に賛成だったのは、日本の主権を脅かされた、あるいは社会を成り立たせている基本原理に対する挑戦だと考える雰囲気が広がっていたことを意味していた。
大多数が「はい」と答えたからといって、正しいとは限らないという例になります。

日中戦争について。

日中戦争については、日本人はこの戦いを「戦争」と思っていなかった。
中支那派遣軍司令部は、日中戦争は戦争ではなく「報償」だ、相手国が不法行為をしたので、不法行為をやめさせるために実力行使をしたと発言している。
なぜ国際連盟を脱退したかというと、強硬に見せておいて、相手が妥協してくるのを待ち、脱退せずにうまくやろうとしたが、熱河侵攻計画によって日本は新しい戦争を起こしたと国際連盟から認定されてしまいそうになり、除名や経済制裁を受けるよりは、先に脱退したほうがいいということになった。

満州に移民した人数が一番多いのは長野県で3万3741人、そのうち約1万5000人が死んでいます。
飯田市歴史研究所編『満州移民』からこういった事実が紹介されています。
1932年ごろから試験的な移民が始まっていたが、国の宣伝は間違いで、厳寒の生活は日本人に向いていないという実情が知られると、移民に応募する人は減ってしまった。
そこで国や県は、村ぐるみで満州に移民すれば助成金を出すことになった。
助成金をもらわなければ経営が苦しい村が積極的に満州分村移民に応募させられ、結果的に引揚げの過程で多くの犠牲者を出した。
助成金で言うことを聞かせる政府のやり方は今も昔も変わらないということです。

見識のあった指導者もいて、大下条村の佐々木村長は、助成金で村人の生命に関わる問題を安易に扱おうとする国や県のやり方を批判し、分村移民に反対した。
賢明な開拓団長に率いられた千代村では、元の土地所有者である中国農民と良好な関係を築いており、敗戦になると中国農民の代表と話をつけ、開拓団の農場や建物を譲り、安全な地点までの護衛を依頼して、最も低い死亡率で日本に引揚げた。

第二次世界大戦について。

ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%だが、日本軍の捕虜になったアメリカ兵の死亡率は37.3%。
『大脱走』と『戦場にかける橋』での捕虜の扱いの違いは作り話ではないわけです。

日本は捕虜に対してだけでなく、国民にも同じ扱いをしています。

ドイツは1945年3月までのエネルギー消費量は1933年の1~2割増だった。
それに対し、戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つで、敗戦間近の国民の摂取カロリーは1933年時点の6割だった。
なぜかというと、工場の熟練労働者には徴兵猶予があったのに、農民には猶予がほとんどなく、肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちも全部兵隊にしてしまったので、技術も知識もない人たちによって農業が担われたから、1944年、45年と農業生産は落ちた。
スターリンが知識人や軍人たちを大量粛清したために生産力が落ちたり、ドイツの侵攻を許したのと似てます。

本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と誤らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句のものが少なくありません。
しかし、このような本を読み一時的に溜飲を下げても、結局のところ、「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。これでは、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も何度も読むことになるのです。このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません。

新聞の広告を見ると、日本礼讃本が目につきます。
同じような本を何度も読むから、よく売れているということでしょうか。

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『卜部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』と『「昭和天皇実録」を読む』

2016年02月19日 | 戦争

半藤一利、御厨貴、原武史『卜部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』が天皇フリークである私にはおもしろく、それで原武史『「昭和天皇実録」を読む』も読みました。

『「昭和天皇実録」を読む』によると、「実録」の最大の問題は、天皇には戦争責任がないというスタンスで一貫させようとしており、昭和天皇は退位について考えたことがなかったという点です。
『木戸幸一日記』下巻や木下道雄『側近日誌』では、退位についてより踏み込んだ発言を昭和天皇はしている。
「実録」では、そのあたりの史料が引用されつつも、しかしかなり改竄されている。

昭和天皇は立憲君主であると意識し、自分の意見を言うことはなかったとされますが、そんなことはありません。

裕仁は天皇になると、かなり露骨に政治に対する関心を表明しています。


田中義一首相に、小選挙区制が導入されることによって無産政党が議会に進出できないような体制になると、逆に直接の行動をとるなどかえって不安定になる、合法的に議会に進出させておくほうがかえって安心ではないかと問うています。

戦後も昭和天皇は自分の意見を述べています。
天皇は「人間宣言」の修正案に対して、「天皇を以て神の裔なりとし」と訂正されたことに不満を漏らしており、現人神であることは否定しても、神の子孫であることまでは否定していない。
大日本帝国憲法の改正にあたり、松本試案に対し、松本烝治に意見を述べている。
「万世一系」自体には信念を持っていた昭和天皇は、大日本帝国憲法を根本的に変える必要性を認めておらず、天皇の憲法認識は日本国憲法とはほど遠かった。

また天皇は、木下道雄に自らの信条(「物事を改革するに当たっては反動が起きないよう緩やかに改革すべきこと」「宮内府改革の一環である人員削減については緩やかに行う方が良い」)を片山哲首相に伝えるよう依頼をしている。
首相や閣僚が天皇に対して国政の報告を行う内奏は、戦後も続き、芦田均外相は、新憲法になり、天皇が政治に立ち入るような印象を与えるのはよくないと書いている。

警察官が射殺された白鳥事件に共産党が関与していると疑われた事件に対しては、国家地方警察本部長官に進講させている。
昭和天皇は革命を恐れていたのです。

半藤「昭和天皇という方は、お気の毒なくらい、自分の地位がおびやかされるんじゃないかと、いつも不安に思っておられました」

戦争責任を取って退位する可能性もありました。

昭和天皇が戦争を終わらせようとしたのはいつなのかはわかりません。
1944年6月、高松宮は軍令部の作戦会議の席上、次のようなと発言をしている。

既に絶対国防線たるニューギニアからサイパン、小笠原を結ぶ線が破れたる以上、従来の様な東亜共栄圏建設の理想を捨て、戦争目的を、極端に云つて、如何にしてよく敗けるか、と云ふ点に置くべきものだと思ふ。(『細川日記』)


ところが昭和天皇は1945年に入っても、米軍を叩いて有利な条件で戦争を終結させるという一撃講和論に固執し続け、4月には、米軍が沖縄本島に上陸する前に日本軍が先手を打って上陸し、迎え撃ってはどうかと提案しており、戦争を止めようとする気配は感じられないと、原武史氏は言います。

5月、空襲で宮殿がほぼ全焼、大宮御所も全焼する。
6月、東郷外相に戦争の早期終結を希望している。
ところが、貞明皇太后にとって戦争終結という選択肢はなく、あくまでも戦争を継続し、本土決戦をする意志を持っていた。
昭和天皇が戦争の早期終結を願う一方で、戦い抜くという選択を捨てていないことには皇太后の意向が反映している。

昭和天皇と母親である貞明皇后との関係はうまくいっていなかったそうです。
1945年5月25日の深夜、空襲で大宮御所が焼けた直後、高松宮は「大宮様(皇太后)ト御所トノ御仲ヨクスル絶好ノ機会」と、『高松宮日記』に書いている。

原「昭和天皇は、思い込んだら母親に対してだろうが、ずばずばストレートにものを言う。一方、秩父宮は如才なくて、母親に反発することはなく、むしろ母親が喜ぶことを言えるようなところがあって、母親との関係を見る限り、秩父宮のほうがはるかにいいということを1922年の段階で言っているんです。そんな秩父宮を貞明皇后が溺愛したのは有名な話です」


敗戦後、皇族が積極的に天皇の退位について発言をしているし、皇太后も退位すべきだと考えていた。
もしも退位したら皇太后が摂政になるかもしれないことに、昭和天皇は恐れを抱いた。

御厨「兄弟や皇族との関係も含めて、昭和天皇は何度もそういう修羅場をくぐってきた。しかもそのたびに勝ち残っているんだから、そのサバイバルな強さって、なまはんかはものではないですよ。なかなかの策士です」


終戦直後、昭和天皇はキリスト教、それもカトリックへの改宗を考えていたというのですから驚きです。

原「ローマ教皇庁のガスコイン駐日代表が天皇のカトリック改宗の可能性につき本国に報告しているとか、あるいは、次期のローマ教皇と目されていたスペルマン枢機卿が来日して、天皇に実際に会っている」
御厨「たしかに改宗計画はあったと思いますよ。この時期の天皇は、ある意味でのサバイバル戦略から、生き抜く可能性のあるものは何でも触ったと思う」


戦前から天皇、皇后とキリスト教(特にカトリック)の関わりがあったが、戦後は関わりが深まり、多くのキリスト教徒と会って話を聞いたり、聖書の講義を受けている。
皇太子の家庭教師としてヴァイニング夫人が来日したのは、天皇自身の決定によるものだった。

聖園テレジア(ドイツ出身の修道女で、1927年に日本に帰化している)は「日本が戦争に負けたのは、国民に信仰が足りなかったことに原因すると思います」と語り、天皇も

こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ。(徳川義寛『侍従長の遺言』)

と言っていますが、責任逃れという感じを受けます。

我が国の国民性に付いて思うことは付和雷同性が多いことで、(略)将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、又宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う。(木下道雄『側近日誌』)

神道には宗教としての資格がなかったということだと、原武司氏は言います。

原武史氏は、昭和天皇の退位問題とキリスト教への改宗問題はセットで考えられるべきものだと説明しています。
退位をしないでどのように責任をとるか、それを考えたとき、神道を個人的に捨てて改宗するという可能性が出てきた。

原「だけどここは僕の深読みですが、やっぱりここでもまた皇太后との確執があるように思えるんです。

大正天皇が死去する2年前あたりから、貞明皇后が急速に神がかっていき、筧克彦の講義を受け、筧が唱えた「神ながらの道」の熱心な信者となる。

天皇がカトリックに接近したのには思惑があった。

皇太后の呪縛から逃れることができず、最後の最後まで敵国撃破を祈ってしまった天皇は、神道を捨てることで深い反省の念を示して自らの戦争責任に決着をつけると同時に、ローマ法王庁を中心とするカトリックに身をゆだねることで、表向きはアメリカと協調しつつ、その実アメリカに対抗できる別のチャンネルを確保しておきたかったのではないでしょうか。


東京裁判が結審し、自らは免訴となる。
1950年まではカトリック教徒との密接な関係が続いているが、サンフランシスコ講和条約が締結された1951年以降は少なくなる。
日米安保保障条約が結ばれることで、ローマ法王へと接近し、別の枠組を模索する道も途絶えた。

昭和天皇と母親との確執を中心として、戦争終結、そして改宗問題を映画にしてら、すごくおもしろいものになりそうです。

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