三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』(1)

2020年10月18日 | 

神奈川の津久井やまゆり園で、元職員が19人の障害者を殺し、26人に重軽傷を負わせたという事件がありました。
なぜ障害者を殺したのか。

月刊『創』編集部編『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』を読み、この事件はさまざまな問題を提起していることを教えられました。

植松聖死刑囚の手紙(2017年7月21日付)

私は意思疎通が取れない人間を安楽死させるべきだと考えております。私の考える「意思疎通がとれる」とは、正確には自己紹介(名前・年齢・住所)を示すことです。(略)
私の考えるおおまかな幸せとは〝お金〟と〝時間〟です。人生は全てに金が必要ですし、人間の命は時間であり、命には限りがあります。重度・重複障害者を養うことは、莫大なお金と時間が奪われます。(略)
3年間勤務することで、彼らが不幸の元である確信をもつことができました。


本人の同意なしの安楽死(殺人)、社会の負担となる障害者の抹殺(優生思想)という問題がここに示されています。
こうした考えは植松聖死刑囚だけが持っているのではありません。

『開けられたパンドラの箱』で、最首悟さんが松村外志張さんの「与死」、そしてヨゼフ(ジョセフ)・フレッチャーに触れているので、ネットで調べました。

大谷いづみ「J.フレッチャーとバイオエシックスの交錯 フレッチャーのanti-dysthanasia概念」(2009年)と「「尊厳死」思想の淵源 J・フレッチャーのanti-dysthanasia概念とバイオエシックスの交錯」(2010年)の要旨を読むことができます。
http://devita-etmorte.com/archives/oi091115-1.htm
http://www.arsvi.com/b2010/1003oi.htm

ジョセフ・フレッチャー(1905年~1991年)は中絶、産児制限、安楽死、優生学、およびクローン作成の支持者であり、アメリカ安楽死協会の会長を務め、アメリカ優生学協会と産児調節協会の会員。

euthanasia(安楽死)との対比でdysthanasia(悪しき死)という概念を創出し、のちにdysthanasiaに対する否定の意をこめ、anti-dysthanasiaという概念が創出された。
従来の安楽死とanti-dysthanasiaとの相違は、患者の同意を必要としない点にある。
同意するに足る能力がない場合には、憐れみによって死がもたらされる(慈悲殺 mercy killing)べきであると考える。

人間性を自己意識をもって決定し、理性的な一貫性のある行動をなす能力のある人格的存在であることを最重視する。
自己意識をもたず、理性的な能力のない者は、新生児であれ病み老い衰えた病者であれ、人間ではない「怪物」であり、また「植物」であるにすぎない。
フレッチャーはこれを「人格主義の倫理」と呼ぶ。

優生主義と「人格主義の倫理」を基本とするフレッチャーの論理構成と、産児調節運動を牽引し、日本安楽死協会を設立した太田典礼の論理構成は酷似している。

太田典礼について、大谷いづみ「太田典礼小論 安楽死思想の彼岸と此岸」(2005年)を要約します。
http://www.arsvi.com/2000/0503oi.htm

太田典礼(1900~1985)は、戦前から産児調節運動を行い、衆議院議員として旧優生保護法の施行(1948年)に寄与した。
1969年、太田典礼は「老人の孤独」(『思想の科学』)で以下の指摘している。

社会にめいわくをかけて長生きしているのも少なくない。ただ長生きしているから、めでたい、うやまえとする敬老会主義には賛成しかねる。(略)
ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。(略)
老人孤独の最高の解決策として自殺をすすめたい。(略)
老人はなおる見込みのない一種の業病である。まだ、自覚できる脳力のある間に、お遍路に出るがよい。老人ぼけしてからでは、その考えも気力もなくなってしまい、いつまでもめいわくをかけていながら死にたくないようなことをいうからである。


1972年の立法化提案では、延命処置を中止・軽減する消極的安楽死を適用行為に加え、これに付随して適用条件に「死期の遠い不治」を挙げ、しかもその範囲を「中風、半身不随、脳軟化症、慢性病の寝たきり病人、老衰、広い意味の不具、精薄、植物的人間」に拡大している。

太田典礼の安楽死運動はしばしば心身障害者と真っ向から対立した。

障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。(『死はタブーか』)

安楽死の対象にはならないはずの障害者が安楽死と関連して語られる。

人格の疑わしい人間存在に対する合法的な処置を提案する。

ひどい老人ボケなど明らかに意志能力を失っているものも少なくないが、どの程度ボケたら人間扱いしなくてよいか、線をひくのがむずかしいし、これは精神薄弱者やひどい精神病者にもいえることですが、むずかしいからといって放っておいてよいものでしょうか。(略)
人権審査委員会のようなものをつくって、公民権の一時停止処分などを規定すべきではないか、と考えます。(『死はタブーか』)

「社会の負担」となる「半人間」の排除の論理が貫かれている。

中絶、産児制限、安楽死、優生思想はそれぞれつながっていることがわかります。

稲子俊男『産む、死ぬは自分で決める』によると、太田典礼は安楽死を希望するというリビング・ウィルをしていませんでした。
晩年に脳梗塞(脳血栓?)で倒れ、さらに糖尿病が悪化した。
昭和60年、昼食にそうめんを食べている最中に気分が悪いと訴え、そうめんをのどに詰まらせての急性心不全で亡くなる。

「見事な死に際である」と稲子俊男さんは書いています。
太田典礼の老人についての発言との齟齬を稲子俊男さんはどう考えているのでしょうか。

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安楽死と仏教(5)

2020年10月05日 | 仏教

小池清廉さんは「初期仏典における痛悩者への対応」で「死ぬ権利」の主張を批判します。

律の殺戒に凝縮された不殺生、慈悲の思想は、現代の「死ぬ権利」を容認する西欧社会の思想とは異なり、むしろこれに相反するものというべきであろう。
現代の、とりわけ米国を中心とした生命倫理学派は、功利主義ならびに自律の思想に基づいて、終末期の病人の「生命の価値」評価を行っている。この思想は、西欧諸国の一部に、自発的安楽死・医師幇助自殺の是認とその合法化を齎している。このような思想傾向には、歯止めをかける必要があると筆者はかねてより考えている。

http://ur2.link/S7UQ

「死ぬ権利」を論じる前に、まずは「生きる権利」が大切にされていないことを問題にすべきです。
たとえば、障害者施設や老人施設などでの入居者への虐待事件は珍しくありません。

やまゆり園で「長期にわたる虐待の疑い」 神奈川県検証委が中間報告
入所者19人が殺害される事件が起きた相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」について、入所者への支援の実態を調査する神奈川県の検証委員会の中間報告が18日、公表された。要件を満たさないままの身体拘束や、長時間の居室施錠などの実態を挙げ、長期にわたる「虐待」の疑いを指摘した。事件を起こした植松聖死刑囚(30)への判決では、職員による入所者への不適切なふるまいなどが「重度障害者は不要な存在」と考えることにつながったと認定しており、園の支援のあり方が改めて注目される。(略)
事件を起こした植松死刑囚の横浜地裁判決の「証拠上認められる前提事実」によると、植松死刑囚は、津久井やまゆり園に勤務し始めたころは障害者を「かわいい」と言うことがあった。しかし、「職員が利用者に暴力を振るい、食事を与えるというよりも流し込むような感じで利用者を人として扱っていないように感じたことなどから、重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった」などとしている。(毎日新聞2020年5月27日)

https://mainichi.jp/articles/20200526/k00/00m/040/146000c

渡辺一史・篠田博之・ダースレイダー「相模原事件 死刑確定でなにが失われてしまったのか」(「FORUM90」VOL.173)という鼎談で、渡辺一史さんはやまゆり園での虐待についてこのように語っています。

植松氏は被告人質問で、こんなことを証言しているんですね。ある時、やまゆり園の職員が入所者に暴力をふるうところをみて、「暴力はよくない」と植松氏が言うと、その職員が「お前も2~3年いたらわかるよ」と。(略)
彼がやまゆり園で目にしたものをポエム風に描いた文章ですが、初めて園に入所してきた利用者が、親が帰ったあとで鍵をかけられた部屋に閉じ込められて、「ここで何をするの?」と職員に尋ねると、「何もしないよ。この車いすに縛られるだけ。考えるから辛いんだよ」と言われて絶望していく。植松氏との面会時に、これはやまゆり園で目にしたことをモチーフにして書いたの?って聞いたら、「そうです」と彼は言ってました。そういう光景をたくさん目にしているんですね。

生きる権利がないがしろにされるなら、一人ひとりの命が大切にされるはずがありません。
そんな中で、植松聖死刑囚は「意思疎通の取れない障害者は安楽死させるべきだ」という考えを持つようになったのでしょう。

もっとも、植松聖死刑囚は安楽死を間違った意味で使っています。
本人の承諾なしで死なせることは安楽死ではなく、慈悲殺とよばれます。

渡辺一史さんはこのように続けます。

どこの国でも「安楽死」とは、本人の明確な意思表示があるときに限ってできるものです。要するに、自分は安楽死したいという人に限って許されるのが安楽死であって、「意思疎通のとれない人を安楽死させる」などということは、安楽死が合法化されている国であっても不可能です。
ところが、植松氏の考え方に同調して、「日本でも安楽死を合法化するべきだ」などと言っている人がたくさんいて、そういう人は「安楽死」という言葉の正確な意味をわかって言っているのか。おそらくそうではないでしょう。要するに、自分にとって不要だと思える人を葬りたいという思いがまず先にあって、その思いを「安楽死」という言葉にすり替えているだけでしょう。過去にナチ・ドイツが「安楽死」という言葉で、8万人とも20万人とも言われる障害者をガス室に送り、それがユダヤ人を虐殺したホロコーストへとつながっていくわけですが、それは今では「安楽死」ではなく、「虐殺」と呼ばれているわけでしょう。(略)
裁判でも、こういう場面があったんです。被告人質問の時、裁判員の一人が植松氏に対して、「もし日本で安楽死が合法化されていたら、あなたはこの事件を起こしませんでしたか?」と聞くと、植松氏は「はい」と答えたんですよ。おいおい、違うだろって、私は挙手して発言したいほどだったんですけれども。

本人の承諾なしに命を奪うことは、障害者だったら問題ないと思う人は少なくないのでしょう。

釈尊の時代にはなかった点滴や胃瘻による栄養補給、人工呼吸器などがある現代は、安楽死問題をどう考えるか、釈尊のころより難しくなっていると思います。
小池清廉「臨死問答と重病人看護」には、このようにも書かれています。

いうまでもなく、現代の末期の病人看護・介護や認知症や精神障害や知的障害などの看護・介護にも共通する問題である。もちろんここでは、現代の先端医療や末期の過剰延命医療を指しているのではなく、看護や介護について述べているのである。

http://ur2.link/SzYq

では、過剰延命医療とは何か。
ALSや障害者の中には胃瘻や人工呼吸器の使用、24時間介助によって生活している人が大勢います。
過剰な医療かどうかの判断は誰がするのでしょうか。
延命治療や脳死による臓器移植について、釈尊はどのように律を定めたかと思います。

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