三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

死刑について考える10 責任のはたし方

2008年01月31日 | 死刑

死刑を肯定する理由の一つとして、自らの命でもって償うべきだという意見がある。
しかし、死んだらそれで償いは終わりというのは変な話である。
被害者は加害者が死んだ後も生きていくのだから。

道義的責任のはたし方として、大沼保昭は『「慰安婦」問題とは何だったのか』で五点をあげている。

1,ことば
 被害者の心にどれだけ奥深く染み入るような、誠実さを示すことばで謝罪がなされているのか。
2,所作、謝罪のかたち
 真摯な償いの姿勢
3,物質的・金銭的補償
4,償いの姿勢が加害国でどれだけ共有されているか
5,謝罪した者が、どれだけ類似の加害行為の再発防止に真摯な努力を払うか

1から3までは被害者と加害者との間に何らかの関係が作られていないと成立しない。
で、菊池寛『恩讐の彼方に』のことを考えた。

というのが、娘に道徳の教科書「みんなのどうとく」をもらったのだが、その中にはマザーテレサや認知症、洪水から村を守った人といった、ちょっといい話、考えさせられる話がたくさん載っていて、『恩讐の彼方に』と有島武郎『一房の葡萄』をまとめたものも入っていた。
どちらの小説も罪と赦しがテーマである。

『恩讐の彼方に』は、主人を殺した市九郎(了海)が滅罪のために全国を行脚し、交通の難所である岩場に洞門を掘る、一方、父を殺された実之助は親の仇である了海を探し出すが、結局は了海を許すという物語。
「みんなのどうとく」には、
「1 洞くつの中で、しっかりと手をにぎりあった了海と実之助は、どんなことを考えていたでしょう」
という問題提起がされている。
二人はなぜ手をにぎりあったのか。
了海が21年間、村人のために岩を掘り続けたということもあるが、それだけではなく、実之助が了海と一緒に1年6ヵ月働いたことが大きいのではないかと思う。

私が被害者だったら、加害者に自分以上の苦しみを与えたいと思う。
しかし、加害者との関わりが全くなければ、仮に加害者が苦しみ悩んでいたとしても、それを私は知らないままでいることになる。
まずは加害者と被害者との関係が作られるということが、償いへの第一歩になるのではなかろうか。
死刑はその関係を断ち切ってしまうことになるわけで、その点でも死刑には賛成しがたい。

安田好弘弁護士は講演でこういうことを話している。
「加害者と被害者は従来全く回路がないままおかれてきました。その回路を切り結ぶことを被害者と加害者にだけにまかせて放置していること自体が大きな問題だと思います。この回路を作るのは誰か。それは宗教者だろうと思うんです」
うーん、難しいなと思うが、しかしシスター・プレジャンは実際に「回路を作る」仕事をやっているわけですからねえ。

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死刑について考える9 罪の償い

2008年01月28日 | 死刑

光市事件の被告は反省していないとよく言われる。
じゃ、どうすれば反省したと認められるのだろうか。

話は飛ぶが、お子さんを亡くされた方が言われていたのだが、ご主人や娘さんがテレビのお笑い番組に大笑いをしているのを見て、許せない気持ちになったそうだ。
ところが、ご主人や娘さんが非常に苦しんでいることを知り、二人を責めた自分の独りよがりに気づいたと言われた。

テレビを見て笑ったからといって悲しんでいないわけではない。
だけども、子供を亡くしたんだから笑ってはいけない、笑うことは子供に対する愛情が薄いからだという決めつけをしてしまいがちである。
悪いことをした人に対しても、同じような要求をしていると思う。

誰しも、ああ悪いことをしたなと自分を責めることがある。
だけど、人間、一日24時間、ずっと罪を悔いて反省することなどできない。
つまらぬ冗談に笑ったり、何でこんなことになったんだろうかと愚痴を言ったり、あいつのせいでこんな目にと責任逃れをしたりすることもある。
だからといって、罪を悔い、どのようにしたら償えるだろうかと悩んでいないことにはならない。
しかし、我々は犯罪者に対して厳しい目を向け、完全無欠な反省人間を求める。

被害者にも、あるべき被害者像みたいなものがあるように思う。
愛する家族が殺されたにもかかわらず、悲しみに耐え、自暴自棄にならず、ストイックに生きる被害者、というような。
そうした期待される被害者像とは違う行動をとる人、たとえば死刑廃止運動に関わる人、損害賠償を請求する人などは批判されることがある。

被害者の会に関わっている弁護士の講演を聴いたことがあって、その話が被害者の精神的ケアについてよりも、賠償金の問題が中心だったので、いささか驚いたものだ。
考えてみると、一家の稼ぎ手がいなくなったり、働けなくなったら、本人や家族はその日から生活に困ってしまう。
お金の問題は切実でなのある。
しかし、イジメ事件や医療ミスなどでも、被害者側が損害賠償請求をすると、金が目当てだという非難を受ける。
被害者の聖化をしてしまい、聖化することで逆に被害者を傷つけてしまう。


で、またまた話は飛ぶようなのだが、慰安婦問題でもそういうことがあるなということを、大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』を読んで思った。
著者は「日本政府が法的責任を免れるための隠れ蓑」といった批判がされていて評判の悪い、アジア女性基金に設立当初から関わってきた人である。

アジア女性基金は元「慰安婦」の人たちに償い金を払ったのだが、
「元「慰安婦」の思いは人間としての尊厳の回復であり、お金は問題ではない」
「日本政府に法的責任を認めさせない限り、自分たちの尊厳の回復はなく、問題の解決はない」

ということで批判された。
そして、償い金を受け取った人たちは肩身の狭い思いをすることになった。


女性基金への批判について大沼保昭はこう反論している。
「被害者の境遇も思いも多様であり、その主張も変化するのであって、ある元「慰安婦」がある時期に発したことばをもって「被害者の立場はかくかくのもの」と断定してはならない」
「被害者の声が、過剰に倫理主義的な支援団体、NGO、メディアによってつくられた世論によって抑圧されていたのである」
「彼女ら(元「慰安婦」)の「本心」にもさまざまな側面があり、それらはまた変化するものなのだろう」

そりゃ人間なんだから思いが変わるのは当然だし、貧しい生活をしている人にとってお金をもらえばうれしいに違いない。

ところが、
「大衆社会で読者に「読まれる」記事を求めるメディアの書き手は、意識的あるいは無意識的に、問題の渦中にヒーロー、ヒロインを求める」
このことは慰安婦問題でも当てはまる。

「元「慰安婦」は、ひたすら「尊厳の回復」を主張しており、「慰安婦」問題を「お金の問題に矮小化している」基金はけしからんと言っている。このように聖化され、ヒロイン化された被害者像がメディアを通して人々のイメージを支配したのである」
「彼女ら(元「慰安婦」)はお金のことを云々する俗物であってほしくないという被害者の「聖化」が生じることになる」

という指摘はするどいなと思う。
「慰安婦は売春婦だ」とか「金がほしいだけだ」などと誹謗する人も、やはり被害者はこうあるべきだというふうに被害者を聖化しているからこそ、中傷をしているわけだ。

では、どういう謝罪をすればいいかということだが、
「万一国家補償が実現したとしても、元「慰安婦」たちが完全に満足することは決してなかっただろう。彼女たちが完全に満足できるものは、もしあり得るとすれば、「慰安婦」にされる以前の自分に戻ることしかない」
「いかなる事後的な「補償」も「償い」も、「謝罪」も「処罰」も、十全の意味での償いにはなり得ないのである」

ということ、これはあらゆる犯罪被害者にも同じことが言えると思う。

ついでに大沼保昭の言い分をもう少し引用するなら、
「上野千鶴子氏は、韓国のNGOををアジア女性基金のわたしが批判することは、最初に殴った側が、殴られて怒った側に、怒り方が悪いというのと同じだから許されないと主張した」
「殴った側が言うべきではないという理由で反論が許されないといった主張はあまりにも無理の多い過剰な倫理主義であり、空疎である」

という指摘にもうなずかされる。
大沼保昭の主張が正しいかどうか、またアジア女性基金の功罪については何とも言えないが、何事も独善的で教条主義的ではなんにもならないと思う。

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死刑について考える8 罪の報い

2008年01月25日 | 死刑

ある研修会の時、「大谷派では死刑に反対しているが、どうしてなのか。人を殺したら死刑になるのは当然じゃないか」という意見があった。
人の命を奪ったのだから、その報いとして自分が殺されるのは当たり前だとか、自分の命でもって罪を償うべきだという意見は、説得力がそれなりにある。

「報い」と「償い」、どう考えたらいいのだろうか。
「報い」と「償い」とは違うので、まず「報い」から。

「世論には、人を殺した者は殺される―死刑になる―のが当たり前だという、古来の素朴な正義論がその根底にある」
(団藤重光『死刑廃止論』)
私も、この野郎、バチが当たればいいのに、と思うことはしばしばある。
罪の報いだとか、命でもって償えということは、復讐を正当化することにもなる。

しかし、団藤重光によると、応報刑とは復讐と違うそうだ。
「復讐は本来、同等者間の個体対個体の関係において認められるべき平均的正義の観念によって支配されるが、刑法における応報は国家と犯人との間の全体対個体の関係において認められるものであって、配分的正義によって支配される」

私には難しくてわからないが、ウィキペディアの「刑罰」の項に、応報刑とは
「一定の犯罪を犯したことに対して、それに見合うだけの刑罰が当然に科されるべき」
とある。
現在の日本では、応報としての犯罪に見合うだけの刑罰とは刑務所に閉じこめてさまざまな制約を科すことだと思う。
ところが、死刑という刑罰だけが自らの肉体でもって報いを受けなければならないのはなぜだろう。
だったら、たとえば人を殴って失明させた加害者は同じように殴って失明させる、あるいは福岡の飲酒運転で三人の子供が死んだ事件では、加害者を車ごと海に落として溺れさせる、というような刑罰にすべきだという理屈になる。
文字通りの「目には目を、歯には歯を」に賛成する人はあまりいないと思うのだが。

こういう場合はどうだろうか。
・酒に酔って冗談で相手を軽く突いたら、相手も酔ってたので転んでしまい、打ち所が悪くて死んでしまった。
・女性を強姦したあと殺そうと思い、ナイフでめった突きしたが、なんとか命は取り留めた、しかし被害者は一生寝たきりになってしまった。

人を殺したら必ず死刑というのなら、前者の場合は死刑になるのだが、いくら何でも厳しすぎるように思う。
情からすると後者のほうが罪が重いと感じる、被害者が死んでいないのだから死刑にはならないことになる。

罪の報いということもそりゃ大切ではあるが、それよりも犯罪者の教育、更生、そして赦しについて考えるべきだと思う。

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死刑について考える7 裁判の公正さ

2008年01月22日 | 死刑

被害者の声を聞くことは大切である。
そして、被害者の声は重い。
たとえば、
「殺人犯が生きている限り、犯人に関することを耳にし続けなければいけないという現実があり、そのため被害者遺族は、本当の「事件の終結」、つまり、悲しみに終止符を打つための最後の法的手段を繰り返し求めているのだ。破棄されることのない結末となりうるのは処刑だけだ、と彼らは主張する」(スコット・トゥロー『極刑』)
という主張に被害者ではない人間が反論するのは難しい。

だけど、ちょっと待てよ、とも思う。
どんな罪状であろうと、あるいは情状酌量の余地があろうとも、遺族が極刑を求めたら死刑判決が下されるということになっていいものだろうか。
それでは裁判所が復讐を認めることになり、仇討ちの場になってしまう。

さらには、遺族に判断をゆだねたら、被告が無実であっても、遺族が有罪だと信じ、極刑を強く望むことで、無実の人に死刑判決が言い渡されることも起きてくるだろう。
「無実の者が処刑されるという「犠牲」において、被害者側の感情を満足させることは、正義の見地から言っても、とうてい許されることではありません」(団藤重光『死刑廃止論』)

そして、公正さが欠けるという問題がある。
被害者遺族が強く極刑を望むなら、「遺族感情への配慮」によって死刑判決が下され、本来は死刑に相当しない事件でも死刑になってしまうこともある。
しかし、被害者や遺族の考えはさまざまで、生きて償ってほしいと考えている遺族もいる。
だから、被害者の意向を判決に反映させると、同じ罪を犯しても無期懲役になったり死刑になったりと、無原則にならざるを得ない。
それでは同様の犯罪では同様の判決を受けるという基本的な観念に反することになる、と団藤重光は言っている。

また、遺族の気持ちは時間の経過とともに変化する。
養父と妻を殺害したとして、一審と二審で死刑判決を受けた大山清隆被告の長男は一審では、「父さんはもし僕が父さんの犯行に気づいていたら母さんと同じように殺していたのか。許せない」と書いて、そのことが死刑選択の一理由とされたそうだが、二審では「僕の大切な父さんを死刑にしないでください」という上申書を提出している。
こうした場合はどうするのだろうか。

あるいは、遺族がいない場合、沈黙を保っている場合はどうなるのだろう。
「遺族に悲しみや損失を与えるのだから、そのことに対する責任はあるではないか、といわれるかもしれない。しかし、それならば悲しむ遺族がいない人は殺してもよいのだろうか。もしそうとすれば、今日しばしば起こるホームレス殺人は是認されてしまう」(末木文美士『仏教vs.倫理』)
被害者感情で裁くとしたら、こういう理屈になる。

それに、殺人事件の約半数は家族が加害者だから、被害者遺族と加害者家族が同一人物ということになるから、問題は複雑である。
というふうに、被害者が極刑を求めているから死刑、と単純にはいかないように思う。

被害者の意向は別にしても、死刑というの公正さを欠いていると思う。
日本では、殺人は年に約600件、すべての事件で死刑判決が下されるわけではない。
「(裁判所は)死刑か無期懲役かを選ぶことになるわけですが、その限界はきわめて微妙ですし、むしろ、はっきりとした限界はないというべきでしょう。ところが無期懲役と死刑との間には、生か死かという質的な断絶があります」(団藤重光『死刑廃止論』)
となると、
「裁判官は主観的には恣意的でなくても、客観的には恣意的といわれても仕方がないでしょう」(団藤重光『死刑廃止論』)
裁判官の主観で死刑になったのではたまらない。

シスター・プレジャンの話だと、アメリカでは、毎年15,000件の殺人事件があり、そのうち死刑になるケースは1%。
「犯人が死刑になるケースに含まれないのが、犠牲者がアフリカ系アメリカ人である場合や、貧しい人同士の殺人の場合などです。そして、犯人が死刑になるケースの8割が、犠牲者がヨーロッパ系の人である場合です。たとえば、ホームレスの人が殺されたとしても、犯人はなかなか死刑になりません。あるいは、貧しい人や名もない人が犠牲になっても、犯人は死刑になりません。それから、政治も絡んできます。政治的に注目されたり、メディアの関心を集めるような事件では、死刑になる可能性が高くなります」
これでは裁判が公正に行われているとは言えない。

それに加えて、裁判所の量刑基準は変化することも問題にしないといけない。
懲役1年が2年になるのならともかく、死刑の言い渡しの基準も変化しているわけで、以前なら無期だったのが死刑になったり、その逆だったりする。
生きるか死ぬかということで公正さが保てないのだから、やはり死刑はまずいと思う。

もう一つつけ加えると、世論が裁判に影響を与えてはまずい、ということである。
インターネットで知り合った3人が女性を殺した事件があったが、遺族が加害者に死刑を求める極刑陳情書への署名活動をされいる。
そのHPを見ると、活動を始めてわずか2ヵ月目の11月14日には20万筆もの署名が集まり、12月25日には235,100名、さらには1月24日には246,109名とさらに増えているそうだ。
もしも署名やコメンターの発言が裁判に影響を与えることになれば、裁判は法律や判例ではなく、多数決で決めることになってしまう。
それでは裁判を行う必要がなくなる。
私はこちらのほうが怖い。

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死刑について考える6 被害者感情

2008年01月19日 | 死刑

テレビの討論番組で、「被害者は厳罰を求めている」とか「どういう判決を下すかは被害者が決めればいい」といった意見を言う人がいた。
こういう番組では極端なことを言ったほうが受けるということはあるにしても、拍手をする人が多かったのには驚く。
被害者の気持ちといっても単純ではないだろうし、被害者感情で裁くのでは公正さを欠いてしまうのに。

家族を殺された遺族にとっては計画的な殺人であろうと、衝動的であろうと、傷害致死であろうと、愛する者を失った喪失感、怒りに違いはない。
しかし、心の傷は一人ひとり違うし、受け止め方もさまざまである。
また、人間の気持ち、考えは人との関わりや時間の経過などによって変化するものである。
だから、被害者のすべてが厳罰を求めているわけではないと思う。

そんなことを言うと、自分の家族が殺されても「死刑は反対だ」と言えるかと反論される。
しかし、妻と娘が殺されたにもかかわらず、死刑反対を主張した弁護士がいる。
磯部常治という人である。

1956年1月18日、銀座の磯部法律事務所に別府とし男(「とし」は人偏に府)が忍び込み、磯部常治弁護士の妻と次女を殺害、現金わずか800円と日本刀を奪って逃走し、2日後に自首。
磯部弁護士は熱心な死刑廃止論者で、「被疑者が望むならいつでも弁護に立つ」と語って大きな反響を呼んだ。
11月20日、東京地裁で死刑判決。
控訴せずに死刑が確定した。

事件後の1956年5月10日、死刑廃止の是非についての参議院の法務委員会公聴会で、磯部氏はこう語っている。
「抽象的に申しますならば、私はやはり死刑廃止に賛成なんであります。廃止論者なのであります。これは、先ほど委員長のおっしゃった一月の妻子の、私の被害者の立場、現実に被害者の立場になった、その身になっても、なお私は死刑は廃止すべきだという論なんであります」

正直なところ、こういう人は稀だと思う。
しかし、特別だというわけではない。
「私はここにわが国でのもう一つの例を挙げておかなければならない。それは、一九八〇年に富山県と長野県で起きた連続誘拐殺人事件の被害者の一人、陽子さん(当時一八歳)の母親長岡瑩子さんのことである。瑩子さんの悲憤はやるかたないものであったが、カトリック修道女ネリーナ・アンセルミさんの影響もあって、ついに犯人を憎み続けることに耐えられなくなり、犯人を赦したほうが子供も救われるのではないか、と思うようになったという」(団藤重光『死刑廃止論』)

弟さんを殺された原田正治さんも、一審では「極刑を」と証言したが、その後「死刑にしないでほしい」という上申書を最高裁に出されている。
このように、最初は死刑を求めていても、考えが変わってくる遺族もいるのである。

あるいは、2006年8月に福岡市で起きた飲酒運転で3児が死亡したお母さん。
検察の供述調書の中で、
「絶対に(同罪とひき逃げを併合した最高刑の懲役)25年の刑が下されることを確信しています。1年でも短ければ犯人を私が殺します」
と訴えた。(2007年9月4日 読売新聞)
しかし、危険運転致死傷罪が適用しないとされたため、懲役25年の刑になることはなくなった。
福岡地裁判決を前に、
「出た答えがその答えなら受け止めようと思う」とした上で「(懲役25年を)願っているが、その結果が出なくても、日々を恨みや憎しみの中で生活することはない」
と話されている。(毎日新聞2007年12月29日

人間というものは憎しみや怒りを持ち続けて生きることなどできないんだと思う。
また、私たち第三者は加害者に対して、罪の報いを受けるべきだ、被害者が感じた苦しみよりもたくさんの苦しみを与えるべきだ、文字通りに「目には目を、歯には歯を」を実行すべきだ、そのことで被害者は癒されると考えがちである。
しかし、そういう単純なものではないらしい。

スコット・トゥローは『極刑』でこう書いている。
「私が聞いた限りでは、殺人者に殺される恐怖を味わわせて、単なるおぞましい仕返しをするために、あるいは、だれか別の者の苦悩を目にすれば自分たちの悲しみはあがなわれるといった、生け贄の祭壇の論理から、遺族は犯人の処刑を待ち望んでいるのではない。彼らが追求する正義とは、損害賠償の考え方と似ている。つまり、犯人は被害者よりも幸せにその生涯を終えるべきではないという思いである。遺族にとっては、これほどの苦難をもたらしておいて、その犯人はいまだに実在の、多くの小さな幸せを味わっており、その意味では、犯人やその家族の暮らしが被害者や遺族の暮らしよりもましであることが、常識をはずれた、腹立たしいことに思えるのである」

本村洋さんにしても単に報復したいから死刑を願っているわけではないように思う。
本村洋さんは死刑を求める理由として次のように言われている。
「自分の犯した罪と向き合って人の心を取り戻し、本心から反省してほしい」
「自分の死刑をも受け入れられるようになってこそ、犯人が真人間になったといえる」
「ただ私は一度も反省をしていない被告人に死刑を課したいと言ったことはないと思います。彼が悔い改めて自ら犯した罪を反省して納得して胸を張って死刑を受け入れることに、私は意味があると思ってます」

本村さんとしては、被告が自分の罪を心から反省するようになり、真人間になったら死刑を執行してほしい、つまり死刑とはある種の教育刑だという考えだと思う(教育刑の理念からすると矛盾しているし、私は賛成できないが)。
だから、被告は反省しているようには見えないと感じた本村さんは
「(この1年で反省した形跡は見られたか、という質問に)いいえ。それが非常に残念。極刑を求めるが、今の状態で死刑判決が出ても意味がない」
と言っている。

ところが、検察が死刑を求刑し、裁判官が死刑判決を下す理由は「矯正は不可能」ということである。
光市事件の被告に死刑を求める人たちも、「被告は反省なんかしない。どうしようもない奴だから死刑にすべきだ」という矯正不可能説である。
しかし、本村さんは矯正が不可能とは考えていないからこそ、被告が心から反省してほしいと願っている。
「あんな奴はさっさと吊ってしまえ」という意見は本村さんの考えとはまるっきり違っていると思う。
となると、裁判所が「矯正は不可能である」として死刑判決を出すとしたら、本村さんにとっては不本意なのではないだろうか。

「被害者は厳罰を求めている」と主張する人たちは、では被害者が満足するにはどういう刑罰を科すべきだと考えているのだろうか。
そして、厳罰さえ科したらそれで問題は解決だと思っているのではないだろうか。
赤穂浪士の家族が討ち入りのあと、どういう生活をしたのか、そんな心配をする人はあまりいないし、吉良家の人たちがどんな気持ちになったかを考えたりなどしない。
加害者が処刑されて喝采し、そして過去のこととして忘れてしまうのが第三者であり、それは被害者感情から遠いものである。

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死刑について考える5 誤判

2008年01月15日 | 死刑

日本刑事法学の第一人者であり、東京大学名誉教授、元最高裁判所判事の団藤重光は死刑廃止論者である。
著書の『死刑廃止論』では、主に誤判について語られている。
「万が一にも誤判によって無実の人が処刑されるようなことがあれば、それは言語に絶する不正義であって、それはあらゆる死刑=正義論を根底からくつがえす。しかも、裁判が神ならぬ人間の営みである以上は、誤判を絶無にするということは性質上不可能である。死刑制度が存在する以上は、必然的に誤判による処刑の可能性が内在しているのである」

だったら、現行犯で逮捕されたような場合は死刑にして、冤罪の可能性がある時には無期懲役にすればいいではないか、という意見もあろう。
しかし、そうはいかないらしい。
「事実だとすれば死刑以外にないというような極度に悪い情状の場合に、事実認定に一抹の不安があるという理由で死刑を無期懲役にするという理屈は、現行法上では成立しません」

スコット・トゥロー(検事をやめて弁護士になったベストセラー作家)の『極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』でも冤罪について論じられている。
イリノイ州のライアン知事は2000年、死刑執行の一時停止を宣言し、イリノイ州の死刑制度を「誤りに満ちている」と評した。
その6週間後に、イリノイ州の死刑制度改革に関して知事に助言を与えるための14名からなる委員会にトゥローは任命された。
そのころのトゥローは死刑に関して確固たる信念を持っていたわけではなく、どちらの側に立つこともできず躊躇していた。

1999年、イリノイ州では死刑判決の49%が再審、あるいは差し戻されている。
差し戻しの5分の1以上が検察官の不当行為が原因。
1977年以降の270名を超える者の判決が上訴され、13名が無罪、約90名が死刑判決が取り消され、より軽い刑を言い渡されている。
3分の1以上の裁判で、罪のない者、あるいはより軽い刑が適当とされた者に死刑を科していたことになる。
こんなに誤って下された判決が多いとは驚きである。

冤罪とは無実の者が有罪になるだけではなく、たとえば傷害致死が殺人に、窃盗と殺人が強盗殺人とされるのも冤罪、誤判である。

なぜ冤罪が起こるのだろうか、その理由をスコット・トゥローはこう説明する。
「異常で大変不快な犯罪が、怒りや特に憤激といった、人々の最も高ぶった感情を引き出し、その結果、捜査官や検察官、裁判官、そして陪審員の理性的な考察を困難にしてしまっているのである」
「極悪事件が引き起こす怒りと悲しみの激しい熱情が、我々の判断を狂わせてしまうことは避けられず、それは常に無実の者に対する罠ともなる」

・警察の見込み捜査の問題
「こういった事件を解決しようとする途方もない重圧のために、警察はしばしば、最初に得た直観にとらわれてしまう」

・死刑回避のために罪を認める被告の問題
「死刑裁判において検察官は、被告人に対して大変有利な立場にいるのだ。死刑判決を免れようとする被告人は、有罪を認める場合がほとんどである。死刑に固有のリスクとは、生死に直面した無実の者が有罪を認めてしまう可能性にある」

・陪審員の選び方の問題
「裁判になった場合、法は、死刑判決を下すことを拒否すると述べた者を、陪審員から外すよう定めている」
「その結果として、陪審員候補者にはより多くの死刑賛成派がいる傾向になる」


・陪審員の問題
「法執行機関の専門家が、重大な犯罪に関してこのように情緒的に反応してしまうのであれば、陪審員席に連なる素人に、より適切な対応を期待するのは無謀といえよう」
「私は、恐ろしい犯罪で起訴された被告人に対する挙証責任を被告人に負わせてしまう、陪審員の好ましくない傾向を見て取った」
「陪審は極悪非道な人物をわれわれの社会に野放しにする危険は冒したくないため、常に合理的な疑いの余地のない証拠を求めるとは限らないのである」

そして、事実の解明よりも出世を第一に考える裁判官の存在。

ということで、
「被告人席に座っていればマザー・テレサでさえも有罪の危険にさらされていたかもしれない」
とトゥローは言う。

司法の専門家ですら誤るのだから、まして素人の裁判員とどうなることやらと心配になる。
まして裁判員制度では審理が三日間で終わってしまうというし、多数決で決めるのだから、誤判の可能性は高くなるのは目に見えている。

死刑相当の有罪の者が無罪になるのと、無実の者が死刑になるのと、どちらのあやまちのほうを選ぶか。
冤罪なのに処刑される人がいるとしても、社会秩序、道徳を守るためには仕方ないという意見もある。

それに対して亀井静香はこう反論している。
「人によっては、そんなことはほんの何万分の一の確率だから、社会防衛上しかたがないなどと言いますが、無実で処刑される人にとっては、何万分の一じゃなく100パーセントの話なのです。そういうことを同じ人間がやっていいなんて、ゆるされるべきことではありません。
そんな「何万分の一だから、社会防衛のためだから、いいじゃないか」というような感覚は、今、世の中を覆っている「自分さえよければいい」ということと共通する面があると思います。自分が安全であるために一つのリスクはやむをえないというような感覚です」
私は亀井静香が嫌いだったが、これを読んで好きになった。
無実の人が処刑されるという犠牲の上で成り立つ社会秩序なんてあり得ないし、道徳的に許されるはずもない。
ましで宗教家と名乗る人たちがそうしたことを認めることはおかしい。

で、中村元によると、
「インドの仏教徒は死刑を端的に否定していた」
「総じて仏教の盛んであった国家或いはその時代においては、刑罰は軽く課せられるのが常であった」
(『死刑廃止論』)
そうで、日本でも平安時代の810年~1156年、346年間も死刑の執行は行われなかった。
ところが、
「近世の日本においては仏教者は死刑を承認していた」
ということで、いささか赤面である。
大きな声では言えないが、真宗大谷派の中でも死刑廃止運動に関わっている人を批判する声があり、某師などは清沢満之は死刑賛成だったと書いているというのだから、何をいわんや、である。

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死刑について考える4 拷問と残酷な刑罰

2008年01月12日 | 死刑

憲法第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とある。
拷問を許容する人はいないだろう。
拷問は残酷であり、そして嘘の自白を強要することになるから。
死刑はどうだろうか。

EUは「死刑が残酷で非人間的な刑罰であり、生きる権利の侵害であると考えている」という声明を出している。
アメリカでも「致死薬による死刑が、絞首や銃殺、電気処刑よりも人道的であるとの理由で広まり、存置州38州のうち37州で採用されている」のだが、「このところ、致死薬注射による死刑が、合衆国憲法修正八条の残酷で異常な刑罰の禁止に違反するかどうかが議論されている」
(『年報・死刑廃止2007』)そうだ。

日本では、死刑は合憲とした判決が昭和23年が出ている。
60年も前の話であり、社会情勢は変化しているのだから、死刑は残酷な刑罰であり憲法違反だという議論がもっとなされてもいいと思うのだが。
それどころか、宮崎勤死刑囚が
「踏み板が外されて落下する最中は恐怖のどん底に陥れられる。人権の軽視になる」
「法律は残虐な刑罰を禁じている。薬で意識を失わせ、心臓を停止させる方法にしなければいけない」

と書いた手紙が公開されると、人を殺した奴が「死刑は残酷だ」と主張するのは自分勝手だという論調になってしまう。

さらには、少年法を廃止し、未成年も大人と同じ刑罰を科すべき、つまり18歳未満にも死刑を適用できるよう刑法が改正にしろ、という意見がある。
ちなみに、2006年に処刑された少年死刑囚(18歳未満)は、イランで4人、パキスタンで1人。
死刑は残虐な刑罰だと思わない人が日本では多いということか。

日本では取り調べの際に拷問はなされていないと思いたいが、はたしてどうなのだろうか。
警視庁に22年間勤務、二件の強盗殺人で死刑が確定、20年間、東京拘置所暮らしの澤地和夫によると、
「警視庁の現職にあった身での私の体験からして、「犯人の自白」が必ずしも信用できるものとは言えないことを感じています」
「警察部内のことを知る一人として正直なことを申せば、特に捜査関係でいえば、かなりいい加減な点が多々あったことだけは事実です。たとえば、調書の最後に本人の署名と指印を求めた、いわゆる「白紙調書」がまかりとおっていて、そこに担当刑事の意図する文面が、その「白紙調書」にうまっていくのです。
そして、警察の調書のことや後々の裁判のことについて何も知らない容疑者は、「悪いようにしない、オレを信用しろ…」などと優しげな刑事に言われると、ついそれを信じてしまうのです」
(『死刑囚物語』)
ということです。

袴田巌さんが昭和52年に提出した上申趣意補充書にはこう書かれている。
「調官等は私の肉体の弱点を突くことによって、精神を完全に破壊するばかりか、当時、私は鼻で息ができないのに口をちゃんと閉じろ、背を伸ばせといい、刑事の一人が後に居て頭や背中を殴ったり、拳で突くという拷問が連日連夜に渡って行われたのであります。この過酷な暴行を続けるに当り、警察官の体力にして三、四時間しか持たなかった程である。その為、警察は調官を三組から四組に構成して残忍な暴行を継続したのである。調官は四組に別れているのであるか、長い組でも五、六時間の暴行をすれば、後は休める。然し、被疑者は右の全ての時間を、いわば休みなしである」

45通の自白調書のうち、44通は任意ではなく強制されたとして証拠採用されなかったのだから、袴田さんの言っていることはウソではないだろう。

ジュゼッペ・トルナトーレ『題名のない子守唄』という映画の中で、検察の訊問の際に被疑者の横に弁護士が座っていた。
これが当たり前なんですな。
ところが日本はそうではない。
今だって代用監獄制度のもと、逮捕されてもすぐに弁護士がつくわけではないから、自白が強要されてしまいがちである。

林眞須美『死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら』は家族との書簡をまとめたものである。
夫への手紙で、警察での取り調べについてこう書いている。
「東警察では、13~15時間の取調べが毎日続き、私は座っているのが仕事だと思っていた。取調べは初日からとてもきつく、三畳もない狭い白い壁の中で男子三~四人に机と私で。あなたよりも私の方がはるかにきつかったと思うよ。
机はけるし、イスはけとばすし、大きな声でどなるし、一人の刑事は私の真横、一人はまん前、一~二人は書記と、換気扇も窓もないへやでタバコを一日三箱以上すうし、灰皿はひっくり返す。一人の刑事は、ぐうの手で殴ってくるし、実際取り調べを受けたものでないとわからないよ。私は、もう三日目には頭がへんになり、目に幻覚というものが見えてきて、気が狂いそうで三日目には調書も作りかけた。そしたら、一人の刑事が〝やりました〟の五文字を書けといって、座っている私の左腕を思いっきり殴ってきた。私は殴られた時目が覚め、立って右手をぐうにして、思いっきり刑事の左のほっぺたを殴り返してやりました。向いにいてた他の刑事は、殴り返したことにとても驚いていた。
私を殴った刑事は、私に殴られたことで刑事のプライドがとても傷ついたことを理由に、はげしくあばれて、そこらをけとばして出ていきました。私のことを「殺しちゃろか」というので、「根性あるなら、今ここで殺せ」といってやりました。他の二人の刑事は、私に〝ええ根性した女やなあ〟といってきたけれど、私は四人の子供がいたからとても強く三ヶ月おれました。最後の方にはむりやりボールペンで〝やりました〟と書かされそうになったことも何度も何度もあった。私に殴られた刑事は、大泣きで〝やりました〟と書いてくれと何度も頼んできました」

そして、こうも書いている。
「弁護士さんは有罪死刑と決め付けてるからスカンのよ。最初からね。私の家族六人以外にないというし。ケイサツでも私がしてないと言えば「ケンジというのか。ケンジは歩けやんのや。子供にさすんか」、子供にさすんなら私に早く認めろ。こればっかり。弁護士も林家の六人というのが裁判上、考えるのか当り前というんよ。腹立つやろ」

こうやって冤罪(事実誤認)が生じるわけである。
林眞須美被告のように根性が座っていればともかく、たいていの人は無実であっても、「自白」してしまうんだろうと思う。
富山の婦女暴行事件や鹿児島の選挙違反事件といった冤罪は氷山の一角ということだ。

拷問は自白を強要するためのものだが、「否認していると死刑になるぞ」と脅して自白させることが行われている。
拷問と死刑はセットのようなものである。
となると、死刑賛成の人が多い日本では、「場合によっては拷問もやむを得ない」と考える人が結構いるのではないだろうか。

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死刑について考える3 死刑犯罪抑止論

2008年01月09日 | 死刑

死刑は犯罪を抑止する効果があると考えている人が結構いるようだ。
政府による世論調査(2004年実施)ではこうなっている。

死刑がなくなった場合、凶悪な犯罪が増えるという意見と増えないという意見がありますが、あなたはどのようにお考えになりますか。
増える      (60.3%)
増えない     ( 6.0%)
一概には言えない (29.0%)
わからない    ( 4.8%)

アメリカ大統領も同じ誤解をしている。
2000年に行われた大統領選公開討論会で、「死刑に抑止効果があると信じるか」との質問にジョージ・W・ブッシュは「イエス」と答え、「抑止効果こそが死刑の唯一の存在理由だ」と語ったそうだ。
ブッシュの答えは誤りで、死刑制度が必要だとする理論的根拠は抑止効果だけではないし、そして死刑の抑止効果は確認されていない。

スコット・トゥロー『極刑』によると、犯罪学者の80%は死刑には抑止効果がないと考えているし、67%の警察署長は「死刑が明らかに殺人件数を減らす」とは言えないと感じている。
「私自身の印象でも、殺人は自己の行動が現実社会に与える影響を、しっかりと把握している人物によって行われる犯罪ではないように見受けられるのである」
とトゥローは言っている。

アムネスティのHPにはこのように書かれてある。
「1988年に国連(訳注:国連犯罪防止・犯罪統制委員会)のために行なわれ2002年に改訂された、死刑と殺人発生率の関係についての最新の調査結果報告書の出した結論は「死刑のもたらす脅威やその適用が、より軽いと思われる終身刑のもたらす脅威やその適用よりもわずかでも殺人に対する抑止力が大きいという仮説を受け入れるのは妥当ではない」というものだった」

死刑囚の澤地和夫は宅間守の死刑執行についてこう書いている。
「宅間守のような人間でも、いや、彼のような人間だからこそ死刑にしてはいけない、と強く思いました。
彼はなぜあのような反抗的態度に出たのでしょうか。それは、「俺はどうせ死刑なんだ。それなら徹底的に、どうしようもないと思われるよう悪人になってやれ…」などと思ったからだと思います。死刑判決を言い渡された者は、そういう思いに至ってしまうのです。私も同じで、死刑判決直後にそういう心理に至ったことを覚えています」
「要するに彼は、自分自身でも事の重大さに気づいておののき、今さら泣きごとなど言ってはあとに引けない気持になってしまったと見るべきでしょう」
「ですから、彼を反省させ、真人間に戻すには、厳しい判決であっても、行政上の措置として最後の一線で許す刑、つまり命を保障した終身刑に減刑し、その一生を刑務所において反省の日々を送らせるべきと考えます。なぜなら、そもそも日本の刑事行政は矯正教育を目的としているのであり、死刑はその刑事行政を国が放棄するものであるからです」
(『死刑囚物語』)

何を勝手なことを言っているんだという感想もあろうが、死刑囚の言葉だけに重みがあるように思う。

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死刑について考える2 死刑と世論

2008年01月06日 | 死刑

世論は死刑制度を支持していると言われている。
政府による世論調査(2004年実施)ではこうなっている。

死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか
 (ア) どんな場合でも死刑は廃止すべきである ( 6.0%)
 (イ) 場合によっては死刑もやむを得ない     (81.4%)
    わからない・一概に言えない           (12.5%)


この設問はあまりにおかしい。
「死刑はなんかいやだな」と漠然と感じている人は結構いる。
そんな人でも「どんな場合でも」と聞かれたら、「場合によってはやむを得ない」と答えるだろう。
そもそも、死刑制度の賛否などといった、生活に直接関係しない問題なんて、大多数の人は関心を持っていないから、どうするかと問われると、現状維持の答えをするものである。
せめてこういう設問にすべきである。

1,どんな場合でも死刑は廃止すべきである
2,終身刑が導入されるなどの場合には死刑は廃止すべきである
3,場合によっては死刑もやむを得ない
4,どんな場合でも死刑は存続すべきである
5,考えたことがないからわからない、もしくは関心がない

しかし、
将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思いますか。
(ア) 将来も死刑を廃止しない (61.7%)
(イ) 状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい(31.8%) 
   わからない( 6.5%)

ということだから、死刑賛成の意見が多いことはたしかである。

では、どうして死刑制度を存続すべきだとかんがえるのだろうか。
死刑廃止、あるいは賛成の理由はこういうことがあげられている。

「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」という意見に賛成の理由はどのようなことですか。この 中から、あなたの考えに近いものをいくつでもあげてください。
(ア) 人を殺すことは刑罰であっても人道に反し、野蛮である(28.5%)
(イ) 国家であっても人を殺すことは許されない(35.0%)
(ウ) 裁判に誤りがあったとき、死刑にしてしまうと取り返しがつかない (39.0%)
(エ) 凶悪な犯罪を犯した者でも、更生の可能性がある(25.2%)
(オ) 死刑を廃止しても、そのために凶悪な犯罪が増加するとは思わない(31.7%)
(カ) 生かしておいて罪の償いをさせた方がよい(50.4%)
   その他( 1.6%)

「場合によっては死刑もやむを得ない」という意見に賛成の理由はどのようなことですか。この中から、あなたの考えに近いものをいくつでもあげてください。
(ア) 凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ(54.7%)
(イ) 死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない(50.7%)
(ウ) 死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える(53.3%)
(エ) 凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある(45.0%)
   その他( 1.0%)

つまり、死刑反対の理由は、
1,死刑は野蛮であり、残酷である
2,国家であろうと殺人は許されない
3,冤罪、誤判のおそれ
4,更生の可能性
5,犯罪の抑止効果がない
6,生きて償うべきである

死刑賛成の理由は
1,応報
2,被害者感情、報復感情
3,犯罪の抑止効果
4,再犯防止

以上の理由がはたして正しいか、間違っているか、そこを確かめて判断しないといけないのだが、何となくのイメージで死刑は必要だと考えている人が多いだろうと思う。
たとえば、冤罪があるかもしれないから死刑は反対と考える人が意外と少ないのには驚くし、死刑を廃止したら凶悪犯罪が増えると誤解している人が結構いる。
死刑制度の実態、たとえば死刑囚の生活、死刑の執行などについて知るならば、死刑についての考えは変わるだろうと思う。

たとえば、冤罪まちがいなしと言われている袴田巌さんは20年以上前から精神を病んでいるし、三崎事件の荒井政男さんは目が見えず、足が不自由なので車椅子。
仮に本当に犯人だったとしても、こういう状態の人を死刑にしたり、拘置所に死ぬまで閉じこめておくのはどうかと思う。

死刑囚の処遇は拘置所によって違っている(死刑囚に限らず、未決や確定囚も同じ)のだが、そうじて厳しいらしい。
3畳程度の独房で一日中ずっと安座していないといけない。
横になるのはダメで、願箋を出さないと寝ころぶこともできない。
部屋の中で身体を動かして運動していいのは午前中15分、午後15分間だけ。
部屋から出るのは風呂と運動、そして面会(一日一組だけで、15分)があった時で、夏は風呂が週に三回、運動は二回、冬は風呂が週に二回、運動は三回。
拘置所によっては冷暖房どころか扇風機もないところがあるので、去年の夏は熱中症で死亡した人がいる(死刑囚ではないが)。

死刑の執行は当日の朝に突然告げられるのだから、毎日びくびくして暮らし、拘禁障害になる人もいる。
絞首刑は首の骨を折るから意識はすぐになくなるので痛みはない、と言われている。
とは言うものの、死刑囚の目は飛び出し、舌を出し、糞尿をもらし、心臓が止まるまで10数分かかる。
後始末は拘置所の受刑者が行う。

死刑囚の心臓が停止したかどうかを確認するのは医師の仕事である。
スコット・トゥロー『極刑』によると、
「イリノイ州医師会が死刑反対の立場、ヒポクラテスの誓いに反するという理由から、処刑を医師に手伝わせることに反対している」
そうだ。

団藤重光は
「わが国では死刑の実態については情報が極端に制限されていますので、それが世論形成に影響していることは、疑いありません」(『死刑廃止論』)
と言っている。
世論は情報と不可分である。
政府は死刑について情報を制約するから、死刑賛成の意見が多くなるんだと思う。
死刑についてももっと情報公開をしてもらいたいものだ。

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死刑について考える1 死刑廃止の動きと日本

2008年01月03日 | 死刑

米ニュージャージー州、死刑廃止法案可決 76年以降初
 米東部のニュージャージー州議会で13日、死刑を廃止する法案が可決された。米連邦最高裁が死刑を合憲と認めた76年以降で初めて死刑廃止を決定する州となる。今後米国内で死刑存廃の議論が高まりそうだ。
 死刑の代わりに仮釈放なしの終身刑を適用する。州知事の署名により年内に施行される見通し。民主党議員らが廃止論議をリードし、州の特別委員会は「死刑は終身刑より経費がかかり、殺人の抑止効果もない」との報告書を出していた。
 同州には現在、8人の死刑囚がいるが、同法によって終身刑に減刑される。その中には、性犯罪歴の公表を定めた「メーガン法」制定のきっかけとなった女児殺害犯も含まれている。
朝日新聞12月14日

国連総会、死刑執行停止求め決議 大差で採択
 国連総会は18日、死刑執行の停止を求める決議案を賛成多数で採択した。日本を含む死刑制度の存続国に対し国際世論の多数派が「深刻な懸念」を示した形だ。決議に法的拘束力はないが、存続国には死刑制度の状況を国連に報告するよう求めており、制度の見直しへ向けた国際圧力が高まるのは確実だ。
 国連加盟国192カ国のうち、欧州連合(EU)のほか、南米、アフリカ、アジア各地域の87カ国が決議の共同提案国になった。採決は、賛成104、反対54、棄権29。死刑制度を続けている日本、米国、中国、シンガポール、イランなどは反対した。
 決議は、人権尊重の意義や、死刑が犯罪を抑止する確証がないこと、誤審の場合は取り返しがつかないことなどを指摘。存続国に対し、執行の現状や死刑囚の権利保護を国連事務総長に報告▽死刑を適用する罪名の段階的な削減▽死刑制度の廃止を視野にした執行停止――などを求めている。
朝日新聞12月19日

日本では、今年の死刑判決は47人、死刑が確定したのは23人。
「死刑判決を受けた被告数は80年以降、年間5~23人だったが、01年に30人に達してからは▽02年24人▽03年30人▽04年42人▽05年38人▽06年44人――と増え続けている」毎日新聞12月29日
死刑の執行も増加していて、今年は9人が処刑された。

先進国で死刑制度があるのはアメリカと日本だけである。
だが、アメリカでは1972年に連邦最高裁が「死刑は憲法違反」との判断を示し、各州が死刑を廃止したことがある。
1976年に最高裁が先の判断を覆したため、死刑を復活させる州が相次いだ。
現在、州法で死刑を規定しているのは全米50州のうち37州、うち21州では行政が死刑を凍結し、執行していない。
つまり、死刑大国のアメリカでも、死刑が執行されている州は少数派だということになる。
ところが、日本ではなぜか死刑判決も死刑の確定も増え続けている。
死刑問題については世界の最末端を独走しているわけである。

そんな日本でも明治33年、明治34年、明治35年と死刑廃止法案が数次にわたって提出された。
昭和31年の死刑廃止法案の提出理由はこうである。
「現在のわが国においては、過去の戦争の影響により人命尊重の観念が甚しく低下し、これが殺人などの犯罪の増加の原因となっていると考えられる。ここにおいて国は進んで人命尊重の観念を昂揚すべきである」(団藤重光『死刑廃止論』)
今、こんな主張をしたら、人の命を奪うような奴の人命なんか尊重する必要はない、という声が聞こえてきそうである。

現在の状況では日本政府が死刑制度を廃止することはないだろう。
だが、アメリカの動き次第では、右にならえということになるかもしれない。
「致死注射の合法性に関する連邦最高裁の判決が出るまでの間」、テキサス州などでは死刑執行を停止しているが、連邦最高裁がひょっとして違憲判決を出したら、一挙に死刑廃止するかもしれない。
外圧に期待したいと思う。

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