三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

「オウム真理教元信徒広瀬健一の手記」2 カルマの法則

2012年05月31日 | あやしい教え・考え

広瀬健一氏によると、オウム真理教の教義は次のとおり。
「教義では、修行の究極の目的は「最終解脱」でした。オウムでは七段階の解脱のステージが定められており、最終解脱はその最高峰でした。
 最終解脱は、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜といわれる境地でした。
 ここで絶対自由とは、カルマ(業(ごう)。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味です。(略)
 なぜ解脱しなければならないのか――それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、善業(幸福になる原因)が尽きてしまえば悪業(苦しみが生じる原因)が優位になり、必ず苦界に転生する運命にあるということです。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は「三悪趣」と呼ばれ、信徒が最も恐れる苦界でした。(略)
 私たちは、自己が存在するだけで完全な状態にあったのにもかかわらず、外界の存在に対して欲望を抱きました。その結果、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地から離脱し、輪廻転生を始めたのです。それ以来、私たちは欲望を充足するために、様ざまな行為(思念することも含む)をするようになりました。
 その行為は情報として、私たちの内部に蓄積されていきました。この蓄積された情報を「カルマ(業)」といいます。カルマのうち、苦しみが生じる原因が「悪業」です(カルマは善業も含みますが、教団では通常、悪業の意味で使われていました)。教義では、世俗的な欲望を満たすための行為は悪業になるとされていました」

カルマの法則とはバチが当たるということである。
自業自得は仏教の基本的な考えだが、自業自得とバチが当たるとは意味が違う。

バチが当たったということは、
 先祖を粗末にしたから(因)→病気になる(果)
自業自得は
 
酒を飲み過ぎて(因)→二日酔いになる(果)

カルマとは行為という意味だが、それだけではない。
何か行為をすれば、それが実体となって残る。
その実体がカルマである。
カルマは自分自身の来世だけではなく、他者にも影響を与える。

「たとえば、嫌悪の念や殺生は地獄に、貪りの心や盗みは餓鬼に、真理を知らないことや快楽を味わうことは動物に、それぞれ転生する因になるとされていました。このように自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これは中心的な教義でした」

悪業(カルマ)を作れば、来世では地獄、餓鬼、畜生(動物)に墜ちるというわけである。

カルマの法則はオウム真理教独自の考えではない。

中村元『仏教語大辞典』の「業」の項には、
「3 行為の残す潜在的な余力(業力)。身・口・意によってなす善悪の行為が、後になんらかの報いをまねくことをいう。身・口・意の行ない、およびその行ないの結果をもたらす潜在的能力。特に前世の善悪の所業によって現世に受ける報い。ある結果を生ずる原因としての行為。業因。過去から未来へ存続してはたらく一種の力とみなされた。
4 悪業または惑業の意で、罪をいう」
とある。

悪業による報い(三悪趣に堕ちること)を防ぎ、輪廻から解脱するためにはカルマを浄化しなければいけない。
「カルマの法則に基づいて考えると、解脱、つまり輪廻からの解放に必要なのは、転生の原因である煩悩・カルマを減少・消滅すること――オウムではカルマの浄化といいました――です。煩悩・カルマを滅尽すると、最終解脱に至るとされていました。ですからオウムにおいては、カルマの(特に悪業の)浄化が至上命令でした」

カルマの法則やカルマの浄化を説く人は珍しくない。

その一人である江原啓之氏の本『日本のオーラ――天国からの視点』の視点を、櫻井義秀『霊と金』は次のようにまとめてある。

①同性愛者には人を差別してきたカルマが見える。だから差別を受けることでカルマの法則を学ぶのではないか。
②アメリカの9・11テロも広島の原爆もカルマの法則で捉えられる。奪ってきたものがあるから、奪われる。戦争という形で魂の浄化が果たされる悲劇がある。
③社会貢献や慈善事業はカルマ落としになる。国税も稼いだ人に国がカルマ落としをさせるようなもの。

江原啓之氏は差別や戦争をカルマの浄化のために意義あるものと肯定しているのである。
しかし、現在の苦(災難、障害、貧困、差別など)は前世の業の結果だとするカルマの法則はおかしい。
というのも、前世で五戒を保つなどの善業を積んだ功徳で人間として生まれたのだから、前世で悪業を作ったら人間に生まれては来ないはずである。
人を殺したら三悪道に堕ちると脅し、その一方で、前世で悪業を作ったからこんな苦しい目に遭ってるんだと非難するのは矛盾である。

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「オウム真理教元信徒広瀬健一の手記」1 神の啓示と宗教的経験

2012年05月28日 | あやしい教え・考え

オウム真理教の事件はどうして起きたのか?
二つの説があるように思う。

1,事件は麻原彰晃が指示したものではなく、弟子たちが麻原の考えを推測し、麻原に気に入られるために勝手に起こした。(弟子の暴走説)
2,麻原と弟子たちの相互作用。(麻原=弟子の相互作用論)

私もそのように考えていたが、オウム真理教の元信徒広瀬健一氏は「学生の皆さまへ」という手記と、新たに書かれた「オウム真理教元信徒広瀬健一の手記」を読み、それは間違いだと知った。

5月26日、27日に放映されたNHKスペシャル「オウム真理教」を見ても、すべては麻原彰晃の指示だったことが明らかである。

衆院選落選後に武装化したと考えている人がいるが、そうではない。
麻原彰晃は教団を設立した当初から、教団の武装化によって社会を支配しようと意図していた。
そして、弟子たちにそうせざるを得ないと信じ込ませている。
NHKスペシャルでは「暴走」という言葉を使っているが、麻原彰晃は最初から計画していたわけだから、暴走したわけではない。

なぜ麻原彰晃は事件を起こしたのか。

広瀬健一氏は手記の冒頭にこのように書いている。
「「アビラケツノミコトになれ――」
 突如、麻原彰晃に訪れた啓示が、オウム真理教による破壊的活動の原点になりました。
 1985年5月、神奈川県三浦海岸。
 麻原は解脱・悟りの成就を発願し、頭陀(ずだ)を行じていました。頭陀とは、この世に対する執着を、禁欲的生活によって絶つ仏道です。恐らくは粗衣をまとい、野宿をしながら、修行に勤(いそ)しむ毎日だったことでしょう。
 そのようなある日、麻原は神を礼拝していました。立位の姿勢から五体を大地に投げ出しての礼拝を繰り返す、仏教の伝統的な修行です。そのとき麻原は、天から降りてきた神の声を聞いたのです。
 言葉の意味を調べたところ、「アビラケツ」はサンスクリット語であり、アビラケツノミコトは「神軍を率いる光の命(みこと)――戦いの中心となる者」のことでした。神は麻原に、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが地上に興ることを告げ、その実現のためにアビラケツノミコトとして戦うように命じたのです。
 そのときでした。シャンバラ建国の意志が、麻原の脳裏に刻印されたのは。そして、その意志の実現こそが、麻原が信徒に対して破壊的活動を指示した目的だったのです。
 この破壊的活動について麻原は、ヴァジラヤーナの教義に基づく現代人の救済、すなわち「ヴァジラヤーナの救済」として説きました。現代人は悪業をなしているために必ず、来世は三悪趣に転生する。かかる現代人を救済するには、武力を用いて地球上にオウムの国家を樹立し、真理の実践をさせる以外の道はない。あるいは、「ポア」しかないと。
 そして、麻原は1994年6月頃、自動小銃の製造に関する指示の際、私どもに述懐しました。
 ヴァジラヤーナは、「アビラケツノミコトになれ」という啓示が始まりだった――」
神の啓示を聞くという神秘体験がオウム真理教事件の発端だというのである。

1990年4月10日ごろ、麻原彰晃は幹部たちにこんな説法をしている。

「現代人が悪業を積んでいるために、地球が三悪趣化し、宇宙の秩序が乱れている。それを我々が正さなければならない。
 これから上九で培養するのは、ボツリヌス菌である。この菌が生産するボツリヌス・トキシンは、少量でも吸い込むと呼吸中枢に作用し、呼吸が停止する。そしてサマディーに至り、ポアされる。
 このボツリヌス・トキシンを気球に載せ、世界中に撒く。これは、第二次世界大戦中に日本軍が行った「風船爆弾」の方法である。中世ヨーロッパでペストが流行したときは黒死病といわれたが、今回の病は白死病といわれるだろう」
広瀬健一氏は「ここで麻原は、ボツリヌス・トキシンを世界中に散布することによって、「アビラケツノミコトになれ――シャンバラの実現のために戦え――」との啓示を行動に移そうと意思したといえるでしょう」と書いている。

麻原彰晃はシヴァ神の啓示も受けている。
「「『ヨハネの黙示録』の封印を解いてしまいなさい――」
 麻原は1988年秋、シヴァ神から示唆を受けたといいます。そして側近の出家者と共に、『ヨハネの黙示録』の解読作業に取りかかりました。その作業の様子が、『滅亡の日』に描写されています。
 オウムはヴァジラヤーナの救済によって、世界を統治する――。
 そのように、麻原は『ヨハネの黙示録』を解釈したのです。「彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう」という記述は、麻原が武力をもって諸国民を支配することを示すと」

弟子が麻原彰晃の考えを忖度して勝手に行動したわけではない。

「後に麻原は、ノストラダムスの予言書も解読し、その内容に従って教団の武装化を試みました。たとえば一九九三年、予言書の「剣」・「鮭」との記述をそれぞれレーザー兵器・大陸間弾道弾と解釈し、私ども広報技術(当時の科学班の名称)にその製造を指示しました。
 このように預・予言書に従って実際に行動するほど、麻原はその内容に現実感を抱いていたのです。ですから、麻原は預・予言書の解読によって、ヴァジラヤーナの救済についての現実感を深め、そして鼓舞され、教団の武装化を推進していったのでしょう。言い換えると麻原において、実現不可能といえるこの救済のモチベーションが、預・予言書の解読によって強化されたのかもしれません」

神の啓示を聞いた教祖は、モーセ、イエス、パウロ、ムハンマド、そして中山みき、出口なおなど大勢いる。

ネットで検索すると「神の啓示を聞いた」というので旅客機をハイジャックした牧師連続殺人犯もいる。
神の啓示が暴力的行為をうながすこともあるわけだ。
ある意味、麻原彰晃も神秘体験の犠牲者と言える。

だけど、「アビラケツノミコトになれ」という神の啓示は、武装化による社会の支配という麻原の主張を正当化するための作り話という可能性もあるように思うが、どうなんでしょう。

「神の言葉を聞くなどという夢のような体験が、麻原のあの途轍もない行動の動機となり得るのか?」と広瀬健一氏は手記の中で問題提起をしている。
広瀬健一氏は自分の体験から、「宗教的経験は、その経験者にとってはあくまでも現実として知覚され、場合によっては、経験者の人生をも一変させるほどの影響力を秘めているのです」と説明する。

宗教的経験とは「宗教的な意味合いを包含する幻覚的な経験」、つまり神秘体験や超越体験のことである。
麻原彰晃の命令に信徒がためらうことなく従ったのは、「信徒もまた、幻覚的な宗教的経験が豊富だったから」である。
「現代人が三悪趣に転生することも、それを救済する能力を麻原が具有することも、麻原の説く教えは一切が現実でした」
だからこそ信徒たちは麻原彰晃の指示に従って「破壊的活動」を行なったのである。

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野町和嘉『地球巡礼』

2012年05月25日 | あやしい教え・考え

植島啓司氏は『宗教と現代がわかる本2010』での野町和嘉氏との対談で、こういう話をしている。
「二、三日前、広島の厳島神社に入りました。厳島神社そのものは別にどうってことないけれど、あの裏の弥山はやはり特別な場所だなっていう印象を受けました。宇佐八幡宮の場合も、奥宮の御許神社に行くと、ああ、ここに神様が降りたんだなあって感じが残っている」
私は不感症のせいか、宮島に行ってもそういう感じはしない。
しかし、野町和嘉氏は「神道のほうはもっと、そういうミステリアスな、スピリチュアルな要素のが強いのかもしれませんね」と応じる。
そして、野町和嘉氏の「どの聖地も、1000年、2000という時間の中で、何かある種の「気」に近いものが受け継がれていったんじゃないかと思います」という話でこの対談は終わる。
こういう神秘主義的な考えは好きではない。

野町和嘉の写真集『地球巡礼』を見た。

サハラ、チベット、インド、エチオピア、メッカ、ナイル、アンデスなどの写真には圧倒された。
しかし、文句たれの私にはひっかかることがある。
それは「カルマの法則」「罪の浄化」という言葉が出てくることである。

「人っ子ひとりいない東チベットの極限高地に延びた一直線の道を、聖地ラサをめざし、五体投地で巡礼する2人の女性にはじめて出会ったとき、この人たちにとっては、信仰こそが生涯をかけた仕事であることを思い知らされた。生命から生命へと輪廻してゆく魂が解脱の境地に到達するには、苦行を重ね、何代にもわたって人間として生まれ変わって徳を積むことでしか達成されないと信じられている。悪行を重ねて餓鬼やけだものに転生してしまえば、徳を積むことは出来なくなるのだ。苦行を重ねれば重ねるほど、心はより浄化されてゆくものとチベットの人たちは信じている」
これは苦行によるカルマの浄化である。

チベット人はカイラス山の一周52キロの巡礼路を何度もまわる。
「こうして苦行を重ねることで現世で犯した罪を清め、来世でも再び人間として生まれ変わり、解脱を目標に功徳を積んでゆくことを願っているのだ」
「彼ら(チベット人)の心を深く捉えているのは、カルマの法則である。永遠の輪廻転生を繰り返しているあらゆる生きものは、前世の因果によって様々な姿に生まれ変わると信じられている」

チベットには千人以上の活仏がいる。
「儀式を主催した高位の活仏が退席したあとの椅子に殺到する信者たち。活仏の痕跡に触れることで御利益が得られると信じられている」

ベナレスで。
「人生を、前世の因果を背負った輪廻の宿業と捉えたインド人にとって、この苦痛からの解脱を明快に説いたヒンズーの教えはもっともわかりやすい道筋であった。
それは、
――ガンガーの聖なる水で沐浴すればあらゆる罪は清められ、バナーラスで死んで遺灰を流せば、輪廻の苦海から解脱できる――
というものだった」

業(カルマ)思想、六道思想、輪廻思想はインド思想の中心思想である。
これらを実体視するのは神秘体験(宗教的経験)によってである。
「オウム真理教元信徒広瀬健一の手記」を読むと、こうした考えの危険性を感じる。

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青木由美子編『オウムを生きて』2

2012年05月22日 | あやしい教え・考え

オウム真理教を脱会した元信者たちは麻原彰晃をどう思っているのか。
「オウム真理教が阿含宗に勝っている部分、劣っている部分を読み比べると、オウム真理教のほうが上だとわかりました。実態が伴うといえばいいのでしょうか。松本さんが語っている体験は、非常にリアリティがありました。臨場感を伴っていて、嘘を言っていないのがわかります。また、チャクラやクンダリニー・ヨーガなどの説明もわかりやすく、細部にわたっていました。
一方の阿含宗の桐山さんのほうは、そこまでのリアルさがないように思えます。(略)
電話に出た支部の人に、カルマの法則や気の流れについて疑問をいくつかぶつけてみたところ、非常に明確で納得できる答えがスパッ、スパッと返ってきます。曖昧さがなく、いかにもよく知っているふうだったので、その後、一人で道場に行ってみました。(略)
道場には、松本さんの写真や、いろんなポスターが飾ってありました。私はそれを見て、「あ、すばらしい人だ」と思いました。以前から、ひと目見て相手がどういうタイプかを判断していた部分があったので、松本さんの写真を見たときは「この人は人間が持っている良い要素をすべて持っている。そうとうすばらしい方だろうな」と私なりに直感しました。(略)
初めて会った松本さんは、異常に存在感がありました。付き添いの人もステージが高くて穢れのない顔をしているのですが比べものにならず、普通の人ではないと感じました」

「(松本さんは)完璧に超越した存在のように映ったのです。(略)
松本さんにとっては自分の欲求などどうでもよく、どうしたら私のためになるか、それだけしか考えていないようでした」

「(尊師は)これまで会ったどんな人とも違い、絶対的で、次元が違うような感覚です。(略)
今もあまり整理がついていませんが、事件後数年間は恨めるような状態ではなかったし、むしろ慕いたいという気持ちのほうが大きかったと思います。
現在では、前より冷めてはいますが、魅力的なところは魅力的だし、大事なものをくれていた相手だと思っています。非常に個人的で霊的な体験をさせてくれた人です。(略)
自分が理解できる範囲では、尊師の教えをまだ信じています。(略)自分に理解できない範囲とは、事件についてのことなどです」
宗教的指導者としては麻原彰晃を現在も高く評価している。

地下鉄サリン事件をどう思ったのか。
「私は多くの神秘体験をし、完全にオウム真理教を信じていました。事件はオウムがやったのかもしれないが、そのことを考えると狂いそうになる……。
私はできる限り事件のことを頭から締め出し、考えないことにしました」

「教団をやめようと思わなかったのは、ヴァジラヤーナの教義のためもありますが、何より松本さんが説いてきた教えに、そうとう引かれていたからです」
ヴァジラヤーナの教義とは「救済であれば殺人であっても正当化される」という教えである。

「まあ、うちがやったんだけれども、松本さんは救済のつもりだったのだろう」

「いくら事件が明らかになり、さまざまな情報が入ってきても、自分の中では直接知っている尊師の情報と、外部の情報とでは、まるで重みが違うのです。
そんなに多くはありませんが、実際に接していた頃の会話、説法、そしてなんと言っていいのかわかりませんが、感覚的な波動のようなものといった情報のほうが、自分にとっては比重が高いということです」
Eは教団の運営について意見が合わなくなり、09年に自分からアーレフを脱会している。
彼らはオウム真理教が起こした事件を今も否定しているとは思えない。

信者同士の横の関係がないということ。
「共同生活をしているのに意外かもしれませんが、サマナはある意味、孤独です。オウム真理教の教義は、グルと弟子の一対一の関係が根本にあります。弟子同士のつながりが生まれると、グルとの一対一の関係が崩れることにもなり、横の関係は生まれにくいのです」

「オウムにあるつながりは基本的に麻原と弟子の一対一の関係のみで、組織はワークと修行によって動いています。自分がどういう悩みを抱えているかを弟子同士で打ち明けあうことは滅多にありませんでした」
統一教会でも信者が横のつながりを持つことを「横的」と言って禁止する。
縦のつながりしかないから、疑問を感じても仲間と話し合うことができない。
そういう組織は問題があると考えてもいいと思う。

神秘体験について。
Aの入信のきっかけは、繰り返し夢に尊師が現れるという神秘体験。
「説法会の手伝いで麻原の話がちゃんと聞けず、残念に思っていた時のことです。会が終わって人がまばらになってきた頃、ふと気づくと、麻原が10メートルほど離れたところから、私をじっと見ているように思いました。次の瞬間、光のようなエネルギーが頭頂に流れ込み、体があたたかくなったように感じ、涙があふれてきました。気の流れを感じ、「ああ、グルと弟子は離れていてもつながっている。こんな体験が起こるのは、前世でもグルと弟子だったからだ」と考えました」
AやF以外の人も神秘体験がオウム真理教の教義を信じさせ、事件後も影響を与え続ける大きな原因となっているように思う。
神秘体験を教義の中心に置く宗教も要注意。

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青木由美子編『オウムを生きて』1

2012年05月19日 | あやしい教え・考え

青木由美子編『オウムを生きて』は、地下鉄サリン事件後もオウム真理教にとどまり、後に脱会した元信者7人へのインタビュー。

A 1965年生まれ・女性
B 40代・男性(ひかりの輪信者)
C 40代・女性(Bの妻)
D 80代・女性(Cの母)
E 1959年生まれ・男性
F 1968年生まれ・女性(ひかりの輪信者)
G 1989年生まれ・女性(麻原彰晃の四女)

それぞれの話になにやら違和感をおぼえた。

女性の場合、もともと精神的に不安定で、入信後にもっと悪くなっているからかもしれない。
「元オウムということを隠して生活し、トラウマを抱えている人もいます。私の知り合いが心身症になり、精神科の先生に「元オウムなんです」と相談にいったところ、元信者はたくさん来ているとの答えだったと聞きました。修行によって麻原が自分の意識に入り込んでくる幻覚にとらわれ、現実に精神を病んでしまった人もいるのです」
神秘体験のことは後で。

Aはお祭り大好き、お酒大好きだが、性格的にもろいところがあり、楽しいことが終わると悲しさを感じ、不安や孤独で不眠症だった。

1994年、飲み会の帰りに難波駅のホームで、目の前にいた女性に「この電車は、堺筋本町に行きますか?」と尋ねた。
「彼女の笑顔は、とてもさわやかでした」
好印象を受けたので、再び「あのー、さっき電車の方向を尋ねたときのあなたの答え方、すごくさわやかで、気持ちよかったです。電車が来るまで、ちょっとお話ししませんか?」と話しかける。
これ、釈尊の四門出遊の話と似ている。
話がはずみ、「ちょっと飲んでいきませんか」と誘うと、「ヨーガ道場に行こう」と言われ、ついて行ったらオウムの大阪道場だった。

越川真一正悟師の「どんなに君が乱れても、全力でぶつかってきても、僕は君を、全身で支えてあげるよ」という言葉で決めた。
出家したのはなんと地下鉄サリン事件の直後の4月1日。
01年ごろ統合失調症と診断され、05年には結核で入院する。
08年、アーレフの幹部から「あなたをご両親のもとに帰したい。これから教団の解散も考えているし、病気のサマナを介護する人もいないから」と告げられる。
断ると、みんなから無視されるようになり、追われるかたちでオウム真理教を去る。

Cはかわいくて頭のいい子だった。
父親は生長の家の講師、母親は真光。
Cは真光、生長の家、桐山靖雄、高橋佳子、心霊科学などの本を読み、「生長の家が一番いいな」と考えて、高校3年の春休みに錬成会という合宿に参加する。
「宗教がなんで好きかといえば、いろんな悩みに対して「こうすればよくなりますよ」という教えがあり、実際の体験談があるからです」
早稲田大学に進学してからも生長の家で活動した。

「私が10代で宗教を求めた気持ちは、かなり切実で自発的なものでした。
「みんながあたりまえにできることが、わたしはできていない、できていない……」
あたりまえのこととは、みんなと普通に楽しくしゃべること。私にはこれができませんでした。精神病一歩手前まで追い詰められ、人間関係で悩まないようになりたいという思いがありました」

大学の授業で知り合った人がオウム真理教の信者で、話を聞いていると非常に説得力があり、生長の家よりオウム真理教のほうがずっと上のように思えてきたので、オウムの道場に行く。
「オウムの教えはすばらしく、厳しい修行によってさまざまな煩悩を克服していく過程は実践的であり、確かな効果が感じられました」

アーレフがいやではなかったし、麻原彰晃を全否定したくなかったが、Bと一緒にアーレフを脱会して結婚する。


Dは出家した娘のCと会えるというので在家信者になる。


Fは中学校のころから霊のようなものを見たり感じたりするようになった。

「たとえば、夜寝ていると半透明な子どもが空中にいて微笑んでいたり、何かが体に乗って苦しかったり、毎晩のように、金縛りにあったりするようになってしまいました」
心身とも疲れ果て、激しく悩み、心の余裕を失っていった。
高校では成績はトップクラスで、かわいいと言われていたが、極度に緊張し、まわりに合わせ、一生懸命演技していた。
だんだんと相手に合わせることができなくなり、体調不良になる。
心身の切迫感や不安感、孤立感が強くなり、自殺を考えるようになった。

オウム真理教の講演会に行き、入信する。
「これまで奇異に見られて信じてもらえなかった霊のような体験に、理解を示してもらえたこと、自分を理解してもらえたこと、自殺を考えていたほどの問題の理由と、その解決方法を初めて具体的に説明されたと感じ、私は感激しました」

弟子の解脱のために麻原が与える試練をマハームドラーという。
Fはあらゆることをマハームドラーだと受け止めるようになった。
たとえば、衆議院選にオウム真理教が立候補した際の選挙活動で、ゾウの形の帽子をかぶり、サマナ服を着て、通勤者に大声で「麻原彰晃をよろしくお願いします」と言うことも、「恥ずかしさを超えてマハームドラーを成就せよ」という課題だと解釈した。
あるいは、薬物人体実験のため二、三か月ほど毎日、薬物を注射された時も。
「何をされても「マハームドラーの修行」と思い込み、それがつらく過酷であればあるほど「高度な修行」だと自分を納得させてしまう蟻地獄、私は深く深くはまり込んでいました」

そして精神的に不安定になる。
「たとえ理解できなくてもすべてをマハームドラーだととらえ、できる限り麻原に従おうとしたために、私は気づけば支離滅裂な言動をとるようになっていました。笑ったと思えば泣き出したり、すっかり不安定な精神状態になっていたのです」
Fは07年、上祐らとともにアーレフを集団脱会する。

麻原彰晃の四女であるGの話は虐待としか思えない。

男性のBとEはあっさりして、こだわりを持たない人らしい。
「たぶん自分は前世から財産や家族に対するとらわれが、かなり少ないのだと思います」
07年、アーレフを脱会して、ひかりの輪の会員になる。
脱会後、Cと結婚するが肉体関係はない。

Bは子どものころから真理の探究に興味を持っていた。
有機農業で成功し、地方全体の青年団のトップになり、有機農業の生産グループの代表にならないかと誘われる。
ところが、有機農業が一生にわたって真理の探究をする道かという疑念が出てきて、その申し出を断る。

Bは自分自身やオウム真理教、麻原彰晃のことなどを客観視して語っている。
しかし、ひかりの輪の在家信者でいる理由の一つが日月神示だという。
日月神示とは、1897年に岡本天明に神が降りてきていろいろな予言をし、それを岡本天明が自動書記で書き留めたもの。
中矢伸一日月神示を現代向けに書いた本を読み、これは真理だと思い、再び農業をすることになるというんですからね、私には「れれれのれ」です。

Eは幼なじみにオウム真理教の本をもらったのがきっかけ。
妻が両親ともめるということもあり、夫婦で入信、そして出家。
妻とは別々に暮らすことになる。
事件後、逮捕された妻から離婚届が送られてきて、離婚した。
妻と暮らすには下向(在家に戻る)しなければならず、それはお互いのためにならないので離婚を選ぶ。
その後、妻とは連絡を取ることもない。

家族への愛情は煩悩だから解脱の妨げになる。
そりゃそうだけれども、執着がではなくて感情がなくなるという感じ。
執着を離れるとBやEのようになるとしたら、私は凡夫のままがいい。

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江戸時代の結婚、離婚、養子

2012年05月16日 | 日記

江戸時代は早婚かと思っていたら、そうではないらしい。
速水暢氏の研究によると、近世後半は晩婚化だったそうだ。(太田素子『江戸の親子』)
近世前期と後期では男性の結婚年齢が平均25歳から35歳と、約十年遅くなっている。

ところが女性の結婚年齢はそれほど変わっていない。

近世後半の農村では年齢差が15歳以上という夫婦が珍しくない。
人生50年として、夫が50歳の時に妻が35歳。
夫に先立たれると、妻は子どもを抱えて収入を断たれてしまう。

また、出産は命がけだったし、妻は出産後に体調を崩すことがある。

「姑の助力が期待できないときにはとりわけ、若妻にとって子育ては体力と気力を使い尽くす大事業になっている」
妻の具合が悪くなると、夫は子どもの世話で疲れきる。
子守りを雇うか、親戚や近所の人に頼むしかない。

太田素子氏は『柏崎日記』を紹介して、「お菊(妻)が髪を結うあいだ、勝之助(夫)は子守がてらおろく(娘)を抱いてお向いの親戚に遊びに行ったとか、お菊が味噌を仕込むあいだ、おろくをお向いに預けたとか、あるいは子守がまだ復帰しないので」と、勝之助口癖の「困り入り候」が連発されると書いている。

江戸時代は離婚が珍しくない。
岡山藩では、婚姻届356件のうち、36件は離婚。
宇和島藩では、32人の宇和島藩士のうち、13人が離婚経験者で、そのうち5人は二回離婚している。
しかも、離縁された妻はさっさと再婚している。
宇和島藩士の夫婦56組のうち、20年も継続した結婚は四分の一で、他は離婚か死別している。
「貞女は二夫をならべず」というのはタテマエらしい。
離婚率が高かったのは明治時代で、明治16年の離婚率は3.38だが、平成21年は2.01。

江戸時代は養子が多かった。
磯田道史『武士の家計簿』に、「江戸時代は、武家にかぎらず養子のさかんな社会であった。しかも、婿養子が多い。婿養子はすこぶる日本的な制度である。中国や朝鮮には婿養子は少ない。「祖霊は男系子孫の供物しかうけつけない」とする厳密な儒教社会からみれば、日本の婿養子制度はおよそ考えられない「乱倫」の風習である」とある。

加賀藩士の場合、実子が家を継ぐ割合は57.6%、弟・甥などが家を継ぐ場合が7%、養子・婿養子が継ぐ場合が35%。
猪山家の御算用者のように専門技術で仕える「家芸人」は「相続原則がゆるやかで、必ずしも長子相続が絶対ではない。家芸に優れた末子が家を継ぐ例はめずらしくなかった。実子がいても、養子に継がせることさえあった」とある。

『新書・江戸時代2 身分差別社会の真実』に大石慎三郎氏が次のように書いている。
「商家では息子を後継ぎにすることはあまりなく、娘に後を継がせるのが一般的であった。この娘に、家の番頭や手代の中から最も有能な者をめあわせ、経営を委ねるのである。もし、婿養子に迎えたこの番頭・手代の働きが悪い場合は離縁させることもあるので、家の財産権は娘につけて婿養子には渡さないのが普通だった。
商家の息子はたいてい別な職につかせたり、一定の財産を与えて好きな生活をさせることが多かった」

太田素子『江戸の親子』によると、娘に継がせるのは商家だけではない。
「世田谷の代官大場家の場合、近世初頭には家長としての統率力や政治力を重視して、息子でなくわざわざ娘に有能な婿を迎えて跡をつがせる女系家族であったという」
つまりは伝統というのはフィクションで、作られていくものだと思う。

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磯田道史『武士の家計簿』2

2012年05月13日 | 

磯田道史『武士の家計簿』によると、加賀藩士猪山家の年収は1230万円と、裕福なように思える。
これは父子で働いているからであって、通常なら一家に1人しか知行取りになれないのだから、本来ならこの半分の収入で生活しないといけない。
それでも年に600万円ならいいじゃないかと思うかもしれない。

二馬力で働いているにもかかわらず、猪山家の負債総額は銀6260匁(年収の2倍)である。
猪山家では町人からの借入が負債総額の半分近くで、親類からも多額の借金をしている。
「武士の世界で、家柄・格式に見合った縁組が志向されるのは、何も身分意識のせいばかりではなかった。縁組みをすれば、同時に金融の相手になるわけだから、経済的地位が同じであるほうが、お互いにとって都合がよかったのである」

鳥取藩士の場合、年収の二倍の借金は平均的だそうだ。
借金だらけだったのは江戸詰に金かかるということもあった。
猪山家も加賀屋敷の赤門を建てた祖父の代に借金が増えている。

現代でも25年ローンで家を買うのだから、収入の二倍の借金でも何とかなりそうなものだが、江戸時代の武士の家庭ではそうはいかない。


猪山家の支出のうち、銀800匁は身分費用(猪山家が武士身分としての格式を保つために支出を強いられる費用)に使われた。

召使いを雇う費用、親戚や同僚と交際する費用、武家らしい儀礼行事を行う費用、先祖・神仏を祭る費用など。
天保14年は親類との祝儀交際費の支出が114回もある。
江戸時代の武家は数日おきに親類縁者が訪問する。
親戚や同僚が訪問したとき、お供に連れてきた家来や下女に祝儀を15文ほど渡す(年に75回)。
葬儀は11回、病気見舞いは8回。
菩提寺には45.9匁(約18万円)を納めている。

    葬儀費用        自己負担

信之 809.50匁  43%(四十九日まで)
祖母 751.86匁  27%
母   647.82匁  79%
直之  39.85円  75%

武家の娘は嫁いでも、実家とのつながりが深かった。

出産費用(産婆や医者への謝礼、薬代、産着代など)の半分以上は妻の実家が支払う。
通夜の夜食代は妻の実家が負担することがよくある。
祖母の葬儀では、会葬料理を出されたのは、通夜が47人、初七日が70人。
年に4回の棒禄支給日には、他家に嫁いだ娘にも小遣い(5匁)を与えている。
ということは、娘が多ければ支出もかさむことになる。

家来への給料は83匁、下女は34.75匁だが、毎月の小遣銭は50文、正月と盆暮れの祝儀を合わせて、年に145.51匁。
衣食住が保証されているにしても、この収入では結婚もできない。
もっとも、直之の小遣いは年に19匁だけ。

借金に話は戻り、利子は年利15~18%なので、年に1000匁(400万円、年収の三分の一)を超える利子を払わないといけない。


河上肇の自叙伝(『河上肇全集 続5』には、いかに武家がお金に窮していたか、数字をあげて説明している。

河上家は岩国藩で20石の禄を食んでいた。
河上肇の祖父の実家栗林家は名義上の給米高は20石3斗(実際の禄高が10石、追加分が10石3斗)だが、実際の収入は10石7斗あまりで、約半分である。

河上肇によると、禄高とは実際の収入ではなく、その土地で生産する米穀の総量を指す。

実際の収入は百姓の取り分を除いたものなので、4~5割減だった。
家臣の禄高も給領地の生産高なので、現実には禄高の半分ぐらいの収入になる。

それからさらに、催相米(家臣が催し合って現産地から米穀の取立を行うについての手数料)、川送り米(取り立てた米穀を現産地から城下まで運ぶ運賃)、朱役米(禄高に応じて賦課される所得税のようなもの)、火伏料(厳島神社などに依頼する火除けの祈祷料)などが差し引かれる。

幕末には御馳走料(黒船到来の防備費用のための特別税)が差し引かれた。

給米から食料とするものの残りを売って生活費とするわけである。

岩国藩の家老は千石だが、実際の収入が400石、あれやこれやと差し引かれて300石に満たない。
おまけに、家老ともなると陪臣がいるので、家臣の給料を自分が払わないといけない。

嘉永元年(1848年)に書かれた栗原信充という人の本から河上肇は引用している。

それによると、300石の家では侍2人、具足持1人、槍持1人、挟箱1人、馬取2人、草履取1人、小荷駄2人の計10人を雇わないといけないと、寛永10年の御定にある。10人の給金が28両、扶持が50俵、馬の秣代9両かかるので、残りは139俵。
139俵を売ると46両余り。
家来の塩味噌薪代、武具家具普請代、妻子下女の費用が50両余りかかるので、3両余りが不足となる。
「寛永十年より弘化二年まで二百十三年の間、三両余の不足積りて六百三十六両の借金となれり」

600両の借金だと、年に利息が30両。

300石は約100両だから、年収は実質70両ということになる。
利息を払うだけで精一杯というわけである。

知行高二千石の志水伯耆は、寛永2年(1625)分の収入は本年貢1257石余、支出総額1972石余と、700石もの赤字。(『逃げる百姓、追う大名』)
これでは借金が増えるばかりである。

このように武士は家格、禄高に関係なく、家内は火の車だった。

「外見からすれば、武家は立派にみえるけれども、経済的には泣いていたのである」

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磯田道史『武士の家計簿』1

2012年05月10日 | 

おそまきながら磯田道史『武士の家計簿』を読む。
映画『武士の家計簿』はつまらなかったが、本のほうは面白い。
具体的な数字が出てくるので、その時代の人の生活がわかる気がする。

武士には、主君から領地(知行地)を分与された「知行取」と、領地を分け与えられず、米俵や金銀で棒禄を支給される「無足」の二種類ある。
領地といっても、その土地に住むわけでもなければ、経営するわけでもない。
知行石高に相応した年貢米を藩からもらうだけである。
もともとは家臣が領地を経営していた。

宮崎克則『逃げる百姓、追う大名』によると、年貢は米にだけにかかり、野菜や商品作物(煙草や藍玉など)には年貢はかからない。

年貢率は一律ではなく、村ごとに、あるいは村内部でも知行地ごとに違っていた。
慶長17年(1612)の調査によると、熊本の細川領の知行地は、年貢率50%の上知行地、45%の中知行地、35%の下知行地という三段階に分かれていた。
家臣が自分の知行地の経営をしていたが、経営ができないと知行地の放棄する家臣や、経営を藩に依頼する家臣が増え、延宝8年(1680)、家臣へは藩の蔵米から支給するようになった。

磯田道史氏によると、
「江戸時代は士農工商の厳しい身分制社会のように言われるが、文字通りそうであったら、社会はまわっていかない。近世も終わりに近づくにつれ、元来百姓であったはずの庄屋は幕府や藩の役人のようになっていく。彼らはソロバンも帳簿付けも得意であり実務にたけていた。猪山家のような陪臣身分や上層農民が実務能力を武器にして藩の行政機構に入り込み、間接的ながら、次第に政策決定にまで影響をおよぼすようになるのである」
仕事・役職が階級によって100%決まっていたわけではない。
たとえば、五代将軍綱吉の勘定奉行荻原重秀。
勘定奉行は三千石相当の旗本がつく役職だが、荻原重秀は御家人すれすれの最下級旗本の出身。
他にも御家人出身で勘定奉行や町奉行になった人がいる。

『武士の家計簿』の前田藩猪山家はそんな高給取りではないが、息子の出来がいいため、親子で禄を食んでいた。
天保14年の猪山家の収入は以下のごとし。

父(信之)知行70石=玄米22石=銀1287匁+夫銀34.3匁
息子(直之)切米40俵=玄米20石=銀1230.89匁+拝領金8両(=銀524匁)
計 米に換算すると51.388石(約7.7t)、銀に換算すると約三貫目(=3000匁=11.25kg)

今のお金に換算するといくらぐらいなのか。
米1俵は現在は4斗(0.4石)
江戸時代は地方によって違い、幕府の制度では1俵=3斗5升、加賀藩は1俵=5斗。
1両は1.111石。
玄米7.7tは現在200~250万円。
腕のいい大工の日当は江戸で一日銀5~6匁、地方都市では大工見習いの日当が銀2~3匁。

米1石=金0.9両=銀67.5匁=27万円
金1両=銀75匁=30万円。
銀1匁=銭84文=4000円
銭1文=47.6円。

ということで、猪山家の年収は
信之 530万円
直之 700万円
計 1230万円
とはいっても、玄米42石のうち、食用に8石(家来や下女をいれて8人家族)いるので、実収入はもう少し少ない。

猪山家は明治になると、成之(直之の息子)がお役人になって裕福になる。
明治6年、猪山成之は海軍省七等出仕(奏任官)。
明治7年、海軍省出納課長、年収は1235円(現在の3600万円)。
金沢製紙会社雑務懸りのイトコは年俸48円(現在の150万円)。
成之の家来二人の給料は18円。
明治初年の1円は今の約3万円らしい。
生活費(食費、光熱費等、医療費、人件費、家賃など)は416円、それに建築費等を合わせると支出は633円。
土地を購入し、金沢に仕送りもできる。
「新政府を樹立した人々は、お手盛りで超高給をもらう仕組みをつくって、さんざんに利を得たのである」

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クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』5

2012年05月06日 | 

○可能性の錯覚(自分の中に眠っている大きな能力を簡単な方法で解き放つことができると思い込む)

「可能性の錯覚は、まだ開発されていない認知能力の大きな貯蔵庫が、脳の中に眠っているという思い込みである。自分がそこへ到達する方法を知らないだけで、貯蔵庫は開けられるのを待っている」
「この錯覚には、二つの思い込みが重なっている。一つは、人間の心と頭脳の奥に、幅広い状況に対応する高度な能力が隠れている、という思い込み。もう一つは、この能力は簡単な方法で解き放つことができる、という思い込みだ」
人には隠された能力があるというのはニューエイジ・スピリチュアルの考えの一つ。
そして、お手軽さも特徴の一つ。

可能性の錯覚の例が「胎児や乳幼児にモーツァルトを聞かせると頭がよくなる」ということ。
効果がないと科学的に実証されたのに、4割の人が信じているそうだ(私も4割の一人です)。
逆に、子どもをDVDの前に座らせてクラシック音楽を聞かせることで、親との直接のふれあいが少なくなりかねない。

他には
・催眠術を使うと、証人が事件の細部を正確に思い出せる 61%がイエス
・ふつうの人は、脳の潜在能力を10パーセントしか使っていない 72%
・誰かに頭の後ろをじっと見つめられると、人は見られているのがわかる 65%
・サブリミナル効果のあるメッセージが隠された広告は、人の購買欲をかきたてる 76%

脳トレはボケ防止にはならない。
「脳を直接鍛える方法よりも体を鍛える方法(とくに有酸素運動)のほうが、効果がありそうだ」
週に数回、適度な速さで30分以上歩くだけで健康な脳が維持されるとのこと。

○おわり

人間は自分の能力や可能性を過大評価する。
そして、実際以上に世界のことがわかっていると思っている。
「この日常的な錯覚は、私たちの思考パターンに、広く深く浸透している」
ところが「自分の見落としやもの忘れ、頭の悪さや知識のなさを過大に評価することはない」

妻に「見えないゴリラ」のビデオを見せたあと、ゴリラは見なかったかと聞いたら、「ボールをパスする回数を数えていたからね」とあっさりしたものである。
「私たちは好成績を収めれば自分が優秀だからだと思い、失敗すれば「調子が悪かった」「ついていなかった」と考え、条件が悪すぎたと自分に言いきかせ、これらの言い訳を打ち消す証拠を無視しようとする」

以下の錯覚に要注意。
・自分は十分注意を行き届かせることができる。
・自分の記憶は詳細で正確だ。
・自分はものごとをよく知っている。
・自信にあふれる人は能力がある。
・偶然や相関関係には因果関係がある。
・自分の脳には大きな可能性が眠っていて簡単に解き放つことができる。
そして、直感は当てにならない。

知人は軽いウツのほうが物事がよく見えると言ってた。
「うつに苦しむ人たちは、自分を楽観視せず、マイナスに評価しがちである。そのため、自分と周囲との関係を、より正確に捉えている可能性もある」
私の経験からも、躁の時は用心したほうがいいと思います。

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クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』4

2012年05月03日 | 

○知識の錯覚(自分の知識の限界を自覚せず、見慣れたものについては十分知識を持っていると錯覚する)

「実際以上に自分は知識があると思い込んでいる専門家のほうが、もてはやされる」
自分の知識の限界を知らない人は確信を前面に出すから、まわりの人は本当かと思ってしまう。
テレビのコメンテーターがこれにぴったり当てはまるように思う。

○原因の錯覚(偶然同時に起きた二つのことに因果関係があると思い込む)


『錯覚の科学』を読んで、原因の錯覚が迷信を作るんだと気づいた。
迷信の特徴の一つは、無関係なものをひっつけて、いいとか悪いとか言うことである。

たとえば、友引に葬式をすると続けて誰かが死ぬという迷信。
友引に葬式をすることと人が死ぬことは無関係なのに因果関係があると思うわけだから、原因の錯覚。

原因の錯覚につながる三つの傾向
1、偶然のものにパターンを見いだし、そのパターンで将来を予測すること。
2、二つのものの相互関係を、因果関係と思い込むこと。
3、前後して起きたことに、因果関係があると思い込むこと。

私たちは実際にはないパターンがあると思い込むと、パターンに因果関係を読み取りたがる。
記憶の錯覚がその手助けをして記憶を変形させ、注意の錯覚がパターンに合わないものに気づかせない。
「自分が期待するパターン通りにものごとを見たがる」

陰謀論も「結果から原因を推理しようとする」ということで、原因の錯覚。
疑似科学や超常現象肯定論の多くも原因の錯覚をしている。
脅す宗教は原因の錯覚を利用している。(先祖が迷っているからこうなったんだ、というように)
我々は「無作為なものに意味を求め、偶発的なものに因果関係を求める方向で、ゆがむことが多い。そしてたいてい、自分ではそのゆがみにまったく気づかない」

気をつけないといけないのは、「相関関係と因果関係はちがう」ということ。
関係があるからといって、そこに因果関係があるかどうかはわからない。
たとえば、リウマチの痛みと天候(寒さや雨)は関係ないそうだ。

アメリカでは「蚊の多い地域ほど結核患者が多い」という相関関係がある。
蚊が結核の原因になっているからではなく(因果関係はない)、「暖かい地域ほど蚊が多く、結核の療養所も暖かい地域に多く設置されている」というのが理由。(藻谷浩介『デフレの正体』)

アイスクリームの消費量と水難の割合にも関係がある。
アイスクリームを食べると水難事故が起きるわけではないし、水難のニュースを聞くとアイスクリームを食べたくなるわけでもない。
答えは、暑さが原因。
暑いとアイスクリームを食べたくなるし、泳ぎたくなる、という相関関係はあるが、因果関係はない。

我々は統計や調査結果よりも、知人の実体験(苦労話)を信じがちである。
たとえば、知人から岡崎公彦『がんの特効薬は発見済みだ!』という本を教えてもらったのだが、たま出版の本なので、こりゃダメだと思って読む気をなくした。(7章は「エドガー・ケイシー」の夢予知!)
でも、アマゾンでは星5つのレビューが多い。
その多くは、自分や身近な人に効果があったからというもの。
では、それほど効果があり、安価な特効薬なのに、なぜ広まらないのか。
著者は製薬会社の陰謀だと言ってるそうだ。
仮にガンが治ったとして、その特効薬の効果なのか、別の原因があるのか、一時的によくなっているだけなのか、そこらを検証しないといけない。
私には無関係なものに因果関係があると考える原因の錯覚だと思えるのだけど。

「手っとり早い治療法や、なんにでも効く万能薬を求める消費者の気持ちをくすぐる」
どのガンにも効くというお話に人は弱い。

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