三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

裁判員制度を考える2 問題点

2008年10月29日 | 日記

現行の裁判にはどういう問題があるのだろうか、裁判員制度になればどのように変わるのだろうか。
アムネスティのニュースレターVol.400とVol.401に、小池振一郎弁護士と寺中誠アムネスティ・インターナショナル日本事務局長の対談「取り調べという名の拷問 日本の司法制度を問う」が載っている。
小池弁護士は裁判員制度に賛成のようだが、アムネスティも賛成の立場なのだろうか。

小池振一郎氏の主張は、裁判員制度が刑事裁判を変える、調書裁判から公判中心主義へと転換されるだろう、ということである。
そして、裁判員制度をきっかけとして捜査方法も改革せざるを得ないと、小池振一郎氏は言う。
具体的にどう改革すべきかというと、取調べの全面可視化、証拠の事前・全面開示、DNA鑑定などである。

小池振一郎氏はこう言う。
「裁判員制度になると、裁判前に弁護人と被疑者の綿密な打ち合わせが必要です。たとえばアメリカは陪審員制度ですが、弁護準備のために公判まで1年以上かけるなんてざらだそうです。被告人の身柄が拘束されていると密接な打ち合わせが難しいので、裁判員制度がうまく機能するためには、できるだけ身柄を解放する必要があります」

調書主義の裁判も変わる。
「証人や被告を実際に尋問して判断するという近代的な裁判に近づくと思います。従来は膨大な供述調書の矛盾や変遷を細かく検討することだけで時間を費やし、供述調書を追認するだけの場でした」

裁判は口頭主義になるだろう。
「供述調書も、裁判員制度で変化せざるを得ないでしょう。いまの裁判では供述調書のごく簡単な要旨を読むだけで、後は自宅ででも読んでくださいというやり方です。しかし裁判員制度になると、法廷の中ですべて済ませなければならない。しかし、全文朗読も時間がかかる。それなら直接本人を呼んで聞いた方が早いわけです。そこで、相対的に供述調書の比重が低下します」

そうなると、自白よりも証拠が重視される。
「自白中心主義から直接主義(公判廷に直接提出された証拠にのみ基づいて判断するという考え方)へ、推定有罪から推定無罪に変わる大きなチャンスだとも思います」

無罪推定の原則が守られるようになる。
「裁判員制度になれば、裁判官が裁判員に推定無罪について説明するので、自ら実践してもらわないと困る。裁判員は素直に受け取りますから、推定無罪という意味を理解すれば、裁判の中で実践していくと期待しています」

今までの取調べや裁判はひどい、よりよいものにするためには国民の参加が必要だ、そのために裁判員制度に期待する、ということである。
しかし、そんなにうまくいくものだろうかと思う。

寺中誠氏が推定無罪について
「一方で、裁判官ですら推定有罪の感覚を持つんだから、裁判員は簡単に有罪と思ってしまうかも」
と質問すると、小池振一郎氏は、
「それも否定しません。また、今犯罪報道が極端なほど被害者の立場に立っており、この影響を裁判員が受ける心配もあります。しかし、報道による影響は、裁判官も同じです。裁判官もメディアに弱いですよ、ものすごく。ただ、裁判員になれば、被告人や証人、証拠に直接接します。そこで、報道ではなく目で見て聞いたことから自ら判断するという健全な方向に行くと期待しています」

さらに寺中誠氏は量刑判断について、
「裁判員制度は重大事件が対象なのに量刑判断をするという点が問題です。日本の裁判員制度は、死刑も含めすべて多数決という世界に類を見ない恣意的な制度だと思います」
と尋ねると、小池振一郎氏は
「確かにその点は非常に問題です。ただ擁護する訳じゃないんですが、裁判員制度を前に、国民が自らの問題として刑事裁判や死刑について考え始めました。これは従来なかった変化です。ぜひ健全な方向で世論が形成されて、制度変革につながればと期待しています」
と、「期待しています」の連発である。

小池振一郎氏たち裁判員制度賛成派は、裁判員制度になれば調書主義ではなく口頭、証拠中心主義に変わるだろう、そうなると代用監獄で自白を強要することもなくなるはずだ、だから冤罪が減る、という考えらしい。

『それでもボクはやってない』の試写会を「弁護士たちが大絶賛!」という記事があり、そこに川副正敏日弁連副会長の感想が載っている。
「この映画には何度も「有罪率99.9%」という言葉が出てくるんですが、裁判員制度というものはこの「99.9%」から解放するためのものだと思っています」

起訴され、裁判になると、無罪になるのは0.1%、つまり1000件に1件である。
有罪率の高さがどういうことを意味しているのか、安田好弘弁護士によるとこういうことである。
「無罪ということは検察が間違っていたということですから、つまり、今の裁判は1000件に1件しか不当なものはないということになります。ところが、きちんと生産管理、品質管理がなされている工場の生産ラインでさえ、500件に1件は規格外の不良品が出てくるんです。となりますと、裁判では工場で不良品が作られるよりも少ない率でしか間違いを犯さないというわけです。しかし、そんなことは人間の社会ではあり得ない。あり得ないことが日本では司法という名の下に行われているわけです」

「裁判所は検察の主張を審査するチェック機能としてほとんど意味をなしていない。よほどひどい規格外品でないかぎり、裁判所は無罪判決を出さないというのが裁判の実情です」
つまり、かなりの誤判があるから有罪率が99.9%になるのである。

では、裁判員制度になったら誤判が減るのだろうか。
アメリカでは陪審員制度だが、冤罪が少なくない。
伊藤和子『誤判を生まない裁判員制度への課題』によると、1973年から2005年までに122人の死刑囚が無実と判明し釈放されている。
2003年には1年間に12人の死刑囚が釈放された。
どうしてこのように多くの死刑囚が無実と判明したかというと、その多くはDNA鑑定によってである。
DNA鑑定によって冤罪が発覚した事件は2006年10月までに184人。
しかし、DNA鑑定によって無実が証明された死刑囚は、すべての生還者の12%にすぎない。

10月28日に執行された久間三千年死刑囚は一貫して犯行を否認、DNA鑑定の結果、警察庁科学捜査班は「ほぼ一致」するとの結果を出した。
ところが、第三者に委託した大学の研究室では「毛髪と体液が一致する確立が低い」との結果が出たという。
再鑑定したら無実だったということもあり得たと思う。

アメリカでは冤罪事件が次々と判明し、司法に対する市民の不信が高まったため、司法の改革を進める州が増えた。
しかし日本ではどうかというと、富山連続婦女暴行冤罪事件、志布志選挙違反事件といった冤罪事件によって、警察の取調べがいかに無茶苦茶かということが明らかになっても、司法の改革を求める市民の声が大きくなっているわけではないと思う。
「国民のあいだから、刑事裁判はぜひとも参審制、裁判員制でやりたいという大々的な声が起こって、それにもとづいて裁判員制度が議論、採用されたというのであれば、その実施は成功するでしょう。しかし国民からそういう声が出たことはまったくありません」(西野喜一『裁判員制度の正体』)

裁判員制度になり、国民が裁判に参加すれば冤罪がなくなるわけではない。
伊藤和子氏(賛成派)はこう言う。
「司法制度改革実現本部には「裁判員制度・刑事検討会」も設置された。しかし、同検討会は、裁判員制度下における制度設計の論議に終始し、冤罪の根本原因を分析して、その防止のために刑事司法改革を実現するという取り組みはほとんどなされなかった。
確かに、刑事裁判に市民参加を導入する意義は大きい。しかし、それだけでわが国の刑事裁判の抱える問題が解決するわけではない」

高山俊吉氏(反対派)はこう言う。
「被疑者や被告人の人権を無視し侵害する刑事捜査の現状を多くの弁護士は憂えている。また、それを批判せず、ともすれば助け船を出しがちな裁判所のあり方に常々疑問を感じている。現状を何とかしなければと歯ぎしりする思いの弁護士たちにとっては、裁判員制度はひとつのきっかけと考えたいところだ。誠実に刑事弁護を行っている弁護士ほど方思いがちだとも言える。でも、捜査の現状も裁判所の姿勢も変わらないところで「市民」が参加して何ができるか」(『裁判員制度はいらない』)
裁判員制度に賛成する弁護士も反対する弁護士も、裁判員制度になっただけで裁判が変わるわけではないと、同じことを言っているのである。

現在の裁判には問題がないとか、とにかく裁判員制度を始めようというのではなく、まずは日本の裁判ではどういう問題があり、捜査の現状はどうなのか、そして問題があるとすればどう解決していくかを考えることが先決だと思う。
で、どういう問題があるかというと、
1,取調べ(代用監獄制度)
2,公判前整理手続
3,調書主義、自白偏重、なれ合い裁判
そして、裁判員制度での課題は
1,無罪推定の徹底
2,事実認定、量刑判断
3,裁判の拙速化
といったことではないかと思う。

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裁判員制度を考える 1

2008年10月26日 | 日記

いよいよ来年5月21日以降に起訴された事件について裁判員による裁判が行われる。
候補者名簿に記載された29万5036人に、今年11月から12月にかけて記載通知と辞退希望の有無などを尋ねる調査票が送付されるとのこと。
名簿に記載される全国平均の確率は352人に1人。
裁判員(補充裁判員を含む)に選任される確率は4915人に1人
生涯を通じて裁判員になる確率は67人に1人とか、84人に1人という試算があるそうで、私も裁判員になる可能性はあるわけだから、裁判員制度について勉強しようと、何冊か本を読んだ。

どうして裁判員制度が作られたのだろうか。
平成11年、司法制度の見直しのため、司法制度改革審議会ができた。
13名の委員のうち、法律専門家は6名(法学者3名、民事裁判官OB、検察官OB、弁護士各1名)、経済学者、会計学者各1名、実業家2名、労働団体役員1名、主婦団体役員1名、小説家1名。
以下は安田好弘弁護士の司法改革に関する講演のまとめ。

司法改革は「より自由かつ公正な社会の形成に資する」のが目的である。
実際にどういう司法改革がなされるかというと、司法試験を変える、裁判の迅速化、裁判員制度、法テラスを作る、ということである。

司法試験の改正とは何かというと、法曹(裁判官、弁護士、検察官)の人口を2万人から5万人に増やそうというものだ。
これは司法試験の合格者の研修会で講師をしたというある弁護士の講演での話だが、試験に上位で合格した人は優秀だが、裾野のほうがちょっとで、判決文を書きなさいという問題に白紙で出した人がいた。
なぜ白紙なのかというと、どうやって書いたらいいかわからなかったと答えたそうだ。
これには笑ったが、だけどこんな裁判官にあたったら悲劇である。
数を増やせばいいというものではないわけだ。
話は戻って、なぜ弁護士を増やすのかというと、これは企業の要請らしい。
企業は従来と同じコストで多人数の弁護士を雇うことが可能になる。

裁判の迅速化も企業のためである。
たとえば、特許権が侵害されているという裁判に5年も10年もかかると、その間に新しい特許が生まれるわけで、企業の権益を守ることができない。
だから迅速に民事裁判が終わらないと困るわけである。
民事裁判はともかく、刑事裁判での迅速化は拙速化になりかねず、冤罪が増える可能性が高くなる。

で、裁判員制度である。
なぜ裁判員制度が導入されたのか。
最高裁のHPの「裁判員制度Q&A」にはこう説明してある。
「これまでの裁判は,検察官や弁護士,裁判官という法律の専門家が中心となって行われてきました。丁寧で慎重な検討がされ,またその結果詳しい判決が書かれることによって高い評価を受けてきたと思っています」

問題がないのなら、どうして制度を変えないといけないのか。
最高裁が出した『よくわかる!裁判員制度Q&A』というマンガにはこうある。
「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」

戦前の一時期、日本でも陪審員制度が行われた。
高山俊吉『裁判員制度はいらない』に、なぜ陪審員制度が行われるかを説明した『陪審手引』が引用されている。
「決して民衆から要求されたものでもなく、また従来の裁判に弊害があった訳でもありません。従来行われて来た日本の裁判は、その厳正公平なることに於ては、今く(まったく)世界にその比を見ない程、立派なものでありまして、国民もまた絶対にこれを信頼していたのであります」
では、どうして陪審員制度が行われることになったのか。
「国民をして国政の一部に参与せしめられましたのは、全く天皇のおお御心の発露に外ならないのであります。素人である一般国民にも、裁判手続きの一部に参与せしめたならば、一層裁判に対する国民の信頼も高まり、同時に法律智識の涵養や、裁判に対する理解を増し、裁判制度の運用を一層円滑ならしめようとする精神から、採用されることになったのであります」
裁判員制度導入と全く同じ理由なわけである。
しかし、陪審裁判を受けるかどうか被告にまかせたので、ほとんどの被告は裁判官による裁判を選んだという。

現状に本当に問題がないのか、国民が司法に関心を持ってもらいたいというが、裁判員制度を導入する理由はそれだけのなのだろうか。
高山俊吉氏はこう言う。
「最高裁は、裁判所や裁判官をめぐる状況に原則と現実のずれがあるなどとは決して言わない。現状に問題はないと言いながら裁判員制度を導入すると言うのである」

西野喜一『裁判員制度の正体』に、司法制度改革審議会で裁判員制度の導入が決められた経緯がこのように書かれている。
「陪審員制度導入を主張する委員は、裁判官だけの審理では誤判があるから陪審制が必要であると力説し、これに反対する委員は、逆に、英米の陪審審理こそ誤判が多いから陪審制の導入は危険だと主張」
陪審制導入派の委員が反陪審派の委員に口汚い罵声を浴びせることがあったという。
審議会の意見は到底まとまりそうにもない状況だった。
「そこで審議会の会長が、陪審でも参審でもない独自のもっとよい制度を考えようじゃないか、と言って、いったん双方をなだめてその場を収めました。そして、こんな制度はどうだろう、というたたき台として出てきたのが後の裁判員制度のアイデアだったのです」
裁判員制度はまったくの妥協の産物だったわけである。
「それ以降の審議会の議論では、委員である法学者のリードでだんだん参審制に近づいていき、最終意見書ではもうこれははっきり参審制と見るべきものであるという状況になっていたのでした」

陪審員、参審員、裁判員の違いは省略。

裁判官と裁判員の人数でも意見が一致せず、これも妥協の結果、裁判官3名、裁判員6名と決まった。

「特に誤判、冤罪防止のために陪審制を導入すべきであるという声も高まったのでした。司法制度改革審議会で熱心に陪審制導入を唱えたのもこのような発想の人たちです」
西野喜一氏は言う。
つまり、現行の制度に問題がないのではなく、誤判が多いなどの問題がたくさんあり、何とかしなければというので国民が裁判に参加するように制度を変えるべきだということらしい。

船山泰範・平野節子『図解雑学 裁判員法』は現行の制度の問題点とこう指摘している。
「現行憲法では国民が主権者であり、全体としては間接民主主義制をとりながら、できる範囲で国民参加を進めていこうとするのが、基本的な考え方です。立法、行政については相当広範囲に国民参加が進んでいる中で、遅れていたのが司法の分野なのです。公判を軽視し、調書裁判主義に陥るなど弊害が出てきていたり、公判における裁判官と検察官の癒着も見受けられる司法の現場に新しい風を吹き込む手段の1つが裁判員制度なのです」

こういう問題があり、解決のためにはどうすればいいか話し合われたかというと、そうではないらしい。
西野喜一氏によると、
「さて、審議会での議論をふりかえってあらためて驚くのは」「現行の刑事裁判の問題点、その原因、その対策をそもそも議論していないことです」
「さらに、審議会では、裁判員制度を採用すると、刑事裁判のどこが、なぜ、どうよくなるのか、という議論もなされておりません」
「裁判員制はまったく妥協の産物としてやむなく採用されたのであって、これにメリットがあるという理由で採用されたわけではありません」


これでは裁判員制度になったからといって、司法制度が改革されるのか疑問である。
西野喜一氏はさらにこう言う。
「いま、最高裁判所は各種のメディアを使い、膨大な国費を使って、裁判員制度の広報に努めています。しかし、この最高裁は、じつは司法制度改革審議会での会議のころは、その審議会に係官を派遣して、裁判に参加する国民が直接被告人の処分を決める権限を持つような制度は憲法違反の疑いがある、と言わせていたのです」
最初、最高裁は裁判員制度に反対しており、譲っても裁判員に意見はできても表決権を与えない、なぜなら裁判員では真実が解明できず誤判が生じると主張していたのに、なぜか裁判員制度に賛成するようになった。
どうして豹変したのか。

高山俊吉氏によるとこういうことである。
「市民参加、国民主権、民主主義を表看板に掲げられれば、「現実の裁判は有罪推定に陥っている」とか「人権無視が横行している」とか「民衆無視の官製裁判だ」とかの批判をかわす格好の衝立になる。その判決は、何と言おうが国民が参加して到達した「皆さんの結論」だからだ」
裁判員制度は改善ではなくて改悪になるような気がする。

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瀧本智行『イキガミ』

2008年10月23日 | 映画

昨年のことだが、『恋空』という映画を次女(中1)が見に行ったので、感想を聞くと、「テレビで充分だと思った」とのこと。
この映画、原作はケイタイ小説なのだが、私はケイタイを持っていない。
長女(高1)にケイタイ小説をどう思うか聞いたら、「みんな同じ。最後に死ぬ」んだそうだ。
どうやら『愛と死を見つめて』と同じパターンの小説が大量生産されて、なぜか売れているらしい。

この手のお話は、観客や読者がこの人は必ず死ぬと知っているのだから、それまでどう生きるか、どういうふうに死んでいくのか、それによっていかに泣かせるかが腕の見せどころである。
瀧本智行『イキガミ』は、あと24時間で必ず死ぬことがわかった人がその時間をどう過ごすかという映画である。
瀧本監督の第1作『樹の海』は、富士の樹海で自殺しようとする人たちを描いたもので、これも生と死がテーマである。
『樹の海』では4つのエピソードが語られるが、『イキガミ』は3人と1人のエピソードというふうに構成も似ている。

もっとも話の中身は全然違う。
『イキガミ』は若い国民の命を奪うことによって命の尊さを教え、そうして国家を繁栄させるという「国家繁栄維持法」が作られている国の話である。
小学校入学時に予防注射が義務づけられている。
その予防接種の中には、1000人に1人の割合でナノカプセルが入っており、18歳から24歳までのあらかじめ設定された日時に命を奪われる。
本人には死亡予告通知書である「イキガミ」が死の24時間前に届けられ、その時刻に必ず死ぬ。
「イキガミ」を配達する役人と、「イキガミ」を手にした3人のお話である。

極限状態に陥った人がどう行動するかということがテーマということでは、深作欣二『バトル・ロワイアル』も同じ。
もっとも『バトル・ロワイアル』では殺し合いをさせる社会についてはほとんど触れておらず、どうやって生き延びるかだけが描かれていた。
しかし、『イキガミ』はこうした制度を作った管理国家(アンチユートピア)への批判がなされている。

その批判は戦争や死刑制度への批判とつながる。
「国家繁栄法」ではなく「治安維持法」を連想させる「国家繁栄維持法」、死亡予告書が「赤紙」ならぬ「イキガミ(逝紙)」、「国家の繁栄の礎となって名誉の死を遂げられた方」というセリフなど、イキガミによって死ぬ人たちは戦死者を連想させる。

しかし、戦争の場合、生きて帰る可能性がある。
だが、イキガミをもらった人は100%死ぬ。
つまり、ある種の死刑である。
日本では、「人の命をもっとも大事だと思って尊ぶからこそ死刑という制度があった」という発言をした人が称賛され、社会の秩序を守るために死刑は必要だという主張がなされる。
死刑は命の尊さを教え、社会秩序を守っているという考えは、「国家繁栄維持法」と同じ発想である。

原作者の狙いが、死を目の前にした人が最後をどう生きるかということにあるのか、それとも国家のために国民の命を奪う社会(アンチユートピア)を批判することにあるのか、原作を読んでないのでそこらはわからない。
ブログをあれこれ見てみると、前者の感想を書いているものがほとんどのようである。
戦死とか死刑を連想しないのだろうかと思う。

日本の死刑・代用監獄に批判相次ぐ 国連規約人権委審査
ジュネーブの国連欧州本部で開かれていた国連規約人権委員会の日本に対する人権状況審査は16日、2日間の日程を終えた。質疑では死刑や代用監獄制度などをめぐり、委員から「10年前(前回審査)の問題提起に十分対応していない」などといった批判が相次いだ。
(朝日新聞10月17日)
日本は人権保護状況に問題がある、と考える日本人はあまりいないのではないか。
ネットでは「内政干渉だ」という意見もあるが、その人たちは冤罪の温床である代用監獄制度がどういうものか知っているのだろうか。
「国家繁栄維持法」のような法律が作られても、それを当然のこととして疑問を持たず、国連や外国から批判されたら怒る人が結構いるんじゃないかと思う。

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嫌われるのが怖い

2008年10月20日 | 日記

「外づらを使い果たして父帰る」林道雄
お笑い芸人は普段は愛想がすごく悪く、下っ端ほど態度がでかいと、どこかで読んだことがある。
考えてみると私も似たり寄ったりで、外では頭をぺこぺこ下げていい人ぶって、その代わりに妻や子どもには当たり散らす日々である。

キャバクラから始めて、ヘルス、SM、ストリップ、イメクラ、ソープで働いた菜摘ひかる氏『菜摘ひかるの私はカメになりたい』にこんなことが書いてある。

「恋愛感情を持っていない男の人に迫られ、肉体関係を求められたらたいがいは困ると思う。困るがわたしはわりと簡単に受け入れてしまう方だ」
「八方美人体質ってこういうののことか。いい子になりたい願望、そんなに捨てきれないのか?」
「男の性の対象にされることでしか自分の価値を計れないわたしにとって、この身に性欲を感じてくれる人がいるというのは、なによりも嬉しく、感謝して止まないことだからだ」
「そんなにまでして私は人に、特に男性に嫌われるのが怖い」
「いままでの人生、仕事も含めて、わたしは好きだからするセックスではなく嫌われないためにするセックスばかりしてきた気がする」
私は性の対象にされたことがないけれども、嫌われるのが恐い、人の評価が気になるという気持ちはわかる。

藤岡淳子(大阪大学大学院教授)は
「女の子でも、厳しいことを言ってくれるちゃんとした人にはついていかずに、お前可愛いよ、愛しているよと言っているヤクザな男について行ってしまう。よくあるケースですね。
基本的な信頼関係が出来ていなくて、自己評価がものすごく低いと、優しくて無責任な人を信じてしまうのです。人と自分を信じる、というのは、その辺の相手の見極め方も入ってくると思うのです」
(『少年犯罪厳罰化私はこう考える』)
と言っているが、菜摘ひかる氏もこのタイプなのかもしれない。

アルコール依存症になった人の話だが、仕事のことで頼まれたら、できないとわかっていてもイヤとは言えず、何でも引き受けていたが、できないものはできないので、結局はウツ病になったそうだ。
菜摘ひかる氏は29歳で亡くなっている。
つぶれてしまったのだろうか。

平木典子『アサーショントレーニング』非合理的思い込みということが書かれてある。
a 人は誰からも愛され、常に受け入れられるようであらねばならぬ
b 人は完全を期すべきで、失敗をしてはならない
c 思い通りに事が運ばないのは致命的なことだ
d 人を傷つけるのはよくない。だから人を傷つけるような人は責められるべきである
e 危険で、恐怖を起こさせるようなものに向かうと、不安になり、何もできなくなる

なるほど、これまたわかります。
非合理的思い込みを持って、自縄自縛状態になっている人はけっこう多いと思う。
非合理的思い込みのどこがおかしいのか。

a「人に好かれるにこしたことはないが、必ず好かれるとは限らないし、まして、好かれなければならないことはない」
c「過去と他人は変えられない」
d「傷つけまいと必死になるよりも、傷つけてしまうことがあり得ることをいつも心にかけ、その時の後始末の方法を身につけることが大切です」
e「不安は、そもそも非現実的な心配から起こります」

たしかにその通りだとは思うのだが、わかっちゃいるけどやめられないわけで、非合理的思い込みから自由になれそうにない。
というのも非合理的思い込みか。

平木典子氏の名言録。
「非主張的な言動をしていると、自分のことを分かってもらえない欲求不満がたまります。たまった欲求不満は、相手への恨みとなり、こんなに譲っているのに、相手は鈍感だとか、思いやりがないとか、自分が自己表現していないことを棚に上げて相手を非難する気持がつのります」

「一生懸命に結果や周囲を気にして動いているはずの人が、気にしすぎの果てに、結局、周囲に配慮が届かず、理解されず、誰区別なくあたりちらすはた迷惑な人になってしまうのです」

笑ってしまうぐらいの真実である。
些細なことで落ちこみ、ひきこもったら楽になると思うのだが、ひきこもったらひきこもったで、わかってもらえないとか、いい加減な奴ばかりだとか、文句ばかり言っては老害をまき散らすことになりそうな気がする。

「失敗をしてはならないという前提でものごとを進めると、責任を取ることが義務になります。義務として責任がともなうことはしたくないのは当然です。失敗してもいい、そしてそのことに責任をもってもいい、という人権があるから、私たちは、逆に成功するまで試行錯誤ができるのではないでしょうか」

で、アルコール依存症の人だが、「アル中になってよかった」と言う。
楽に生きる生き方をAAから教えてもらったからだそうだ。
菜摘ひかる氏もどこかの自助グループとつながっていたら、と思った。

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『私は障害者向けのデリヘル嬢』と『セックスボランティア』

2008年10月17日 | 

大森みゆき『私は障害者向けのデリヘル嬢』がおもしろかったので、某氏に話したら、河合香織『セックスボランティア』を勧められた。
『セックスボランティア』は障害者の性について書かれた本である。
手を動かすことができないのでマスターベーションができないとか、介助をしてもらわないと夫婦なのにセックスができないといったことには、何らかの手助けをすべきだと思うし、異性に触れたいとか、童貞のままで死にたくないという気持ちはよくわかる。

河合氏香織は、オランダではSARというセックスボランティア(有料)をしている団体があり、20年も活動していると聞き、オランダまで取材に行く。
オランダは売春が合法で、ドラッグも合法で、同性愛者の結婚も認められている。
受刑者は刑務所内でパートナーと会ってセックスするための個室を利用でき、驚いたことに売春婦を呼ぶこともできるそうだ。

それはさておき、SARの利用者は年間で延べ2000人、そのうち女性は1割にも満たない。
サービスの提供者は女性が13人、男性が3人。
1時間半で73ユーロ、そのうち4ユーロがSARの運営資金になり、残りがサービス提供者の収入となる。
この仕事で生計を立てている人もおり、障害者向けデリヘルとどう違うのかと思う。
36の自治体が障害者に対してセックスの助成金を出しており、SARでも売春婦でも新聞広告で募集しても自由だという。(もっとも助成金を出していることを公にしていないらしい)

こうした制度があることの背景として、通訳の山本清子氏は、オランダではキリスト教カルバン派が主流で、人を助ける慈悲の心に溢れていること、労働党内閣が続いたことがあり、社会保障に積極的な面があること、さらに、オランダ人の元来のヒューマンな国民性があるのだと説明した」と説明している。

カルバン派が「人を助ける慈悲の心に溢れている」とはといささか驚いた。
というのも、渡辺一夫氏「カルヴァンは現実の人間の取り扱い方において、冷厳すぎるところがあったのではないかと思います」と書いているからである。
カルバンはジュネーブで神政政治を行い、独裁者として市民生活の細かいことまで宗教法を適用し、邪魔者は除き去り、多くの人を投獄、斬首、破門、追放、そして弟子を生きながら火刑に処している。
渡辺一夫氏は、「カルヴァンの粛正行為には厳格にすぎたところがあり、犯罪として告発された事件のなかには、次のようなものもあったくらいです」として、放浪者に占いをしてもらった事件、ダンスをした事件、25歳の男と結婚しようとした70歳の女性の事件、ローマ教皇は立派な人だと言った事件、説教中に笑った事件などをあげている。
生殖以外のセックスに関してもさぞかし厳しかっただろう。
もっともカルバンが厳格な人であっても、プロテスタントの主流である現代のカルバン派は寛容なのかもしれないが。

話は戻って、SARの会長(女性、障害者)もかつては障害者のマスターベーションの手伝いをしていたが、「今は障害者のためを思っても、できません」と言い、夫が障害者とセックスをするのは「絶対に嫌ですね」と答える。
河合香織氏はセックスボランティアを自分もできるものなのだろうかと自問し、「性行為をともなうボランティアに関しては、今の私には難しいというのが正直な気持ちだ」と記す。
私にしてもセックスボランティアの必要性は感じるが、娘がセックスボランティアをすると言ったら反対するだろう。
なぜいやなのだろうか。
娘ではなく他の女性だったらかまわないというのもいい加減な話だとは思う。

で、また話は飛ぶが、大森みゆき『私は障害者向けのデリヘル嬢』を読むと、大森みゆき氏はお客さん(障害者)に喜んでもらうためにすごく尽くす。
風俗で働いていた菜摘ひかる氏も『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』によると、やはり仕事熱心。

風俗嬢がみんなそうなのかは不勉強で知らないが、金のためだけではないと思う。
カルバン派は禁欲的職業倫理を持っているそうだが、宗教におそらく関心のなさそうな大森みゆき氏や菜摘ひかる氏もお客さんを喜ばせなくてはならないという職業倫理を持っており、仕事をきちんとこなすことで自分の存在価値を感じるというか。
日本人はまじめなのかもしれない。

大森みゆき氏はいい人みたいだが、生きるのが上手とはいえない人だという気がする。
今はどういう生活を送っているのかと、本を読んだあと気になった。

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パメラ・ドラッカーマン『不倫の惑星』

2008年10月13日 | 

マイケル・パトリック・キング『セックス・アンド・ザ・シティ』はシモネタで笑いをとるご都合主義映画で、どこがおもしろいのかと思う。
不思議なのが、4人の女性たちはそれぞれ男性経験が豊富だし、きわどいことを平気でしゃべっているのに、なぜかパートナーに対して妙に倫理的なのである。
ひとりは夫から浮気したという告白を聞いて、すぐさま別居する。
出来心で一度だけ浮気しただけだし(妻が拒むので何ヵ月もセックスしていない)、妻にはばれていないのだから黙っていればいいのにと思う。
おまけに、わざわざ謝罪した夫に妻がどうしてそこまでかたくなになるのだろうか。
性に関すること以外でも、アメリカ映画を見ていると変なところできまじめなとこがあり、そこらに文化の違いを感じる。

ところが、パメラ・ドラッカーマン『不倫の惑星』を読むと、これは伴侶が浮気をしたアメリカ人カップルの普通の反応らしい。
たとえば、こういう相談がある。
つき合っている男性がいるのに、酔って別の男性とキスをした女性はこう打ち明ける。
「いまはすごく落ちこんでて、自分にうんざりしてる。カレに打ち明けるべき? どうすればいい? わたしみたいな女は、あのひとにふさわしくないような気がする」
酔ってキスをしただけでこれである。

アメリカでは、不倫している人間はどこかが破綻しているとみなされるそうだ。
「不倫をする人々は道をあやまった普通の人間ではなく、ほかの人間とはまったく異なった犯罪者ということになる」

もしも不倫をしたら罪の意識に悩まされることになる。
そこで伴侶に率直に告白して許しを請う。
アメリカ人は夫婦の間では隠し事があってはならない、嘘があってはならない、何でも正直に話すのがよいことだと信じているらしい。
「セックスをしたことが問題なんじゃない、嘘をついたことが問題なのだ」

不倫したと打ち明けられると、当然のことながら傷ついてしまう。
心に傷を受けて悲しむだけではなく、「これまでの人生観が崩壊してしまった」「なにが本当で、なにが嘘なのか、わからなくなった」と言う人がいるし、中には「子どもが亡くなったときよりもつらかった」とまで言う人がいる。

だったら黙っていればいいと思うのだが、子どもにまで告白する人がいるのだから驚きである。
教会でカウンセリングしている夫婦は自分の子どもたちに、ママはほかの男性とセックスをしたんだ。パパはすごく頭にきたから、この問題を解決するまでしばらく時間がかかったよ」と伝えたという。
そんなことを親から告げられたら、子どものトラウマになるのではないだろうか。
『セックス・アンド・ザ・シティ』で浮気の告白した夫なんてまだかわいいほうなのである。

パメラ・ドラッカーマンは、アメリカでは結婚産業複合体が巨大化していると指摘する。
「この複合体はテレビ番組、自己啓発本、夫婦関係が悪化した原因を解明する無数のカップルカウンセラーから成り立っている」
アメリカ人は何か問題が起きると、自分たちだけで解決しようとせず、専門家(と称する人たち)を頼るわけである。
1970年、夫婦や家族問題のセラピストはアメリカに3000人いた。
2004年、アメリカで開業している家族問題のセラピストは5万人以上。

「結婚産業複合体が勧めるやり方はいたるところに浸透しているが、その効果のほどはほとんど検証されていない。情事の一部始終を語れば伴侶の心の傷は癒される、夫婦はなにもかもつつみかくさず話しあえばそれだけ幸せになるといった通説は、実際には証明されていないのである」

では、アメリカでは実際に不倫する人はどれくらいいるのだろうか。
結婚もしくは同棲している人々のなかで1年以内に複数の性交渉の相手をもったひとのパーセンテージ
 アメリカ 男3.9% 女3.1%
 フランス 男3.8% 女2.0%
 イタリア  男3.5% 女0.9%

フランス人は大人の恋愛を楽しみ、イタリア男は女好きの種馬といったイメージがあるが、実際は伴侶に忠実な人が多いらしい。
ただ、不倫をした時、ばれた時の対応の仕方が違っているそうだ。
浮気したからというので伴侶に告白して許しを請うなんてことはほとんどの国ではしないだろうと思う。

アメリカ人は不倫に対してどうしてそこまでの罪の意識を持つのだろうか。
「アメリカ人は不倫がだれかにばれなくても罪の意識をもつことが多い」
「信心深いひとたちは、密会場所のモーテルの一室に神がいるように感じる。無宗教のひとでさえ、宗教的な罪の意識に似た良心の呵責を覚える」

アメリカ人のこうしたあり方はキリスト教の影響という気がする。
信仰が自分にとってとても大切と答えるフランス人は11%、アメリカでは59%だそうだ。
アメリカは清教徒の国であり、禁欲的だから、より罪の意識を持つのだろうか。

ところが、パメラ・ドラッカーマンによると、信仰と不倫とはあまり関係がないらしい。
「世界のどこに目を向けても、信仰心の深さと不倫の相関関係を見いだすことはむずかしい。フランス人とイギリス人はアメリカ人にくらべて格段に信仰心が薄いが、この三国の不倫率はほぼおなじである」
仏教だって在家信者の戒律の中に不邪淫戒があるし、浮気しても無条件にOKという宗教はないだろうと思う。
利己的遺伝子説を信じるならば、自分の遺伝子を残すために男は多くの女に子供を産ませようとし、女はより強い男の子どもを産もうとする。
しかし、一夫一妻制の呪縛にからみとられている現代人はそのあたりで悩んでしまうのかもしれない。

「人間の行動を決定づけるのは宗教というよりも土地柄だ。アメリカの敬虔なキリスト教徒の行動様式は、ほかの国のキリスト教徒というよりも、無宗教のアメリカ人のそれに近い」
無宗教であっても、アメリカ人はキリスト教の規範が血となり肉となっているということか。
どうしてそこまで宗教的なのだろうか、やはり不思議である。

フランス人だって不倫がいいことだとは思っていない。
「フランス人の不倫にたいする考え方は、パートナーへの忠誠を守ることは神によって定められた掟ではなく、単なるいい心がけにすぎない」

アメリカ式は誠実かもしれないが、なんだか話をややこしくしているだけのような気がする。
正しくあることの脅迫的観念がアメリカ人は強いのかもしれない。
で、こじつけだが、アメリカ的価値観をよしとして世界中に押しつけようとするアメリカの世界戦略と、不倫に対する罪の意識と根っこはつながっていると思う。

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マインドコントロールと政教分離と

2008年10月10日 | あやしい教え・考え

睡眠不足でなんだか頭が痛い。
研修会があったのだが、先生のお話もとぎれとぎれにしか頭に入らなかった。
ま、これはいつものことではあるが。
晩ご飯を食べ、ビールを飲んで元気が出たから、ブログでも書いてみようという気も起きたが、夜に会合でもあったら、何でもハイハイと言ってたかもしれない。

睡眠時間を短くして思考能力を低下させるのは、マインドコントロールや警察の取り調べの基本テクニックである。
えらそげなことを言ってる私ではあるが、簡単にころんでしまうだろうなと思う。

ある人(門徒ではない)に、某新興宗教に入っていろんなものをもらった、やめたいのだがそれらをどうしたらいいのか、と聞かれた。
ゴミとして捨てたら何かあるのでは、と気になったわけである。
いらないものは何で持ってきてくださいと答えたのだが、某新興宗教に尋ねたら、何とかという儀式をしなければいけないので○万円がいる、と言われたそうだ。
その宗教から離れるためには、解約料というかゴミの処理代がいるわけだ。

で、この某新興宗教、立派な神殿(一応、仏教系だから、仏殿と言うべきか)でわりと有名である。
ローカル宗教だから信者数はそれほどでもないとは思うのだが、それにもかかわらずこれだけのものがよくできたものだと感心する。
そのある人もかなりの金額を突っ込んだと言っていたけれども。

話は飛ぶが、民主党は公明党=創価学会に攻勢をかけているようで、国会で
「税法上優遇されている宗教法人が選挙対策の中心拠点となって、政党以上の選挙を行っていると言われている」
と、公明党の支持母体である創価学会を念頭に、憲法が定める政教分離について麻生首相の見解をただした、とのことである。
もっともな質問ではあるが、しかし新進党の時代には公明党と一緒にやっていたわけで、何だかなあとは思う。

で、また話は飛ぶが、総裁選に立候補した石原伸晃氏や民主党の鳩山由紀夫氏は崇教真光の組み手だそうだ。
信仰の自由は憲法で保障されているから、あれこれと言うつもりはないが、石原伸晃氏の父親である石原慎太郎氏は霊友会の信者で、そこらへんで親子の葛藤はないのだろうかと気になるのだが、石原慎太郎氏と崇教真光の教祖である岡田光玉氏とは親しい友人とのことで、いらぬ心配をしてしまった。

それはさておき、崇教真光の大祭には自民党、民主党の人たちが来賓として祝辞を述べているそうだ。
信者でもない政治家がどうしてそこまで尽くすのだろうか。
個人の自由ではあるが、票がほしいのではないかと邪推したくなる。
李下に冠を正さずということわざがあるように、政治家はそのあたりを清く正しくしてほしい。

で、今日の教訓。
『イソップ寓話集』「鍬をなくした農夫」
農夫が葡萄畑に溝を掘っているうちに鍬がなくなったので、一緒にいた作男の誰かが盗んだのではないかと、調べてみた。誰も取ったと言わないので、どうしてよいか分からず、誓約して言わせるため、全員を町へ連れて行くことにした。田舎に住む神々はぼんやりだが、城壁の中の神々は誤ることなく、すべてお見通しだ、と言われていたからである。
城門をくぐり、小物袋は横に置いて、泉で足を洗っていると、町の触れ役が大声で、神殿から盗まれたもののありかを教えたら、賞金千ドラクメ出すぞ、と叫んでいる。農夫はこれを聞いて言うには、
「やって来たのも無駄だったわい。自分のものを盗み出した犯人が分からず、知っている者はないかと賞金を出して探すような神様に、どうしてよその家の泥棒が分かるもんか」

ちなみに、崇教真光は世界真光文明教団の分かれで、世界真光文明教団は世界救世教からの分かれで、世界救世教は生長の家からの分かれで、生長の家は大本からの分かれで、大本は金光教の分かれで、金光教は祟り神を祀ればご利益があるという御霊信仰である。
神様も混乱しているのではないかと思う。

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合田士郎『そして、死刑は執行された』

2008年10月07日 | 死刑

百聞は一見にしかずというが、知ることによって自分が知らなかったことに気づかされる。
たとえば、ハンセン病療養所に行って、それまで私はハンセン病元患者さんへの偏見はないと思っていたのが、実は根深い差別の心があることを思い知らされた。
そのことを某氏に話したら、某氏も自分もそうだったと言い、最初に療養所に行ったとき、家に帰って針で腕を刺して、痛いので安心したと話してくれた。
ハンセン病は知覚麻痺を起こすので痛みを感じなくなることがある。
それで針を刺してみたというわけである。

それとか、少年院に見学に行き、少年たちがいわゆる非行少年のようには見えなかったことに驚いたことがある。
職員から少年たちの多くは劣悪な環境に育ったことを聞き、そのことは知っていたけれども、少年たちがもとからのワルではないのだ、たまたまなんだとあらためて思った。

ハンセン病と非行少年や死刑とを一緒くたにしたら怒られるかもしれないが、我々は死刑や死刑囚について知らないことが多い。
合田士郎『続そして、死刑は執行された』という本に「読者の声」(正編を読んだ読者からのお便り)が載っていて、その中に高校生のこういう声があった。

「僕は今まで、死刑存続論に傾いていた。というのは、その殺された被害者の家族だった場合、死刑でも軽いという感情を持つからである。そして無期懲役でも十年静かにしていれば、仮出所できるからである。しかし、冤罪と獄中での生活を知って、これは死刑は廃止すべきであると悟った。安っぽい人権問題でなく、明日は我が身だということで死刑廃止を考えていきたい。 長野県 18歳 男 高校生」

「死刑囚たちへの見方が変わった。今までは、極悪人には死刑をやってしかるべきだと思っていたが、この本を読んでなんとも言えなくなってしまった。 神奈川県 17歳 男 高校生」

『そして、死刑は執行された』正・続の著者である合田士郎氏は強盗殺人で死刑を求刑され、無期懲役の判決を受けた人である。
千葉刑務所から宮城刑務所へ移り、そして1級(1000名いる懲役囚の中で20名しかいない模範囚)になって、死刑囚監房掃夫になる。
死刑囚の世話をし、執行があれば遺体を洗い清めて棺に納め、処刑場を掃除するという仕事である。
帝銀事件の平沢貞通、島田事件の赤堀政夫、小松川女子高生事件の死刑囚などといった人のなまの姿が語られる。

どうして死刑囚は脱獄しないのか。
それは心の中にある高塀のせいだと合田氏は言う。
「事件を起こして親兄弟、妻子に迷惑をかけたのに、脱獄などして、再びこれ以上の迷惑をかけたくない」
日本人はあきらめがいいから脱獄が少ないと言われているが、そればかりではないらしい。
「罪を後悔していない死刑確定囚など一人もいない。だが、彼等は〝塀の中で懲りても、もう遅い面々〟なのだ。それだけに後悔の念や反省の気持ちは人一倍強い」

また平沢貞道、佐藤誠などのように、冤罪だということを刑務所も承知していると思われる死刑囚が何人もいる。
合田氏はそうした死刑囚と身近に接しているからこそ、死刑に反対する気持ちが起きてくる。
「いかに死刑に相当する罪を犯したとはいえ、犯した罪を悔い、反省し、すっかり改悛し、故人の冥福を祈り、再び社会に出て立派にやり直せる人間を、殺してしまうなんて死刑とは残酷なものだ」

「つくづく「なんでやねん?」と思う。平静な気持で罪を悔い、深く反省している健康な者に、何年間も死の恐怖を与えた末、「死ぬのは嫌だ、まだ死にたくない、助けてくれ!」と泣き叫ぶ者を、刑場に引きずって行き殺してしまう」

死刑囚は執行の際にどういう状態になるのだろうか。
「静かに処刑されて逝った者などは殆どいないというのが実情なのだ。死刑執行は、そんな甘く切なく悲しいものではない。まさにこの世の地獄なのだ」

「よほど悟りきった者か、虚脱して痴呆になった死刑囚でない限り、死出の儀式がスムーズに進行することはあまりない。泣き喚き、腰が抜け、暴れまくって手がつけられないまま死んで逝った。多くの死刑囚の事実は、まず官側から表に出ることはない。出るのはほんの一握りの、手がかからなかった例だけだ」

村野薫『死刑はこうして執行される』には執行の場面がこのように書かれている。
「落下した死刑囚はガクンと一度S字状に突っ伏すと、今度は縄がねじれるがままにギーギーと滑車をきしませて、きりきりまいしつづけるそうだ。落下時の頸部にかかる力は相当なもので、喉頭軟骨・舌骨、ひどい場合は頸部脊椎の骨折をもきたす。首まわりの筋肉も広範囲にわたって断裂、放っておくと肉がそがれたりするので、下で待ちかまえていた刑務官二人が適当なところでその揺れを止める。
しかし、それでも吊り落とされてから一分から一分半ぐらいは烈しい痙攣が「ウーウー」という呻き声とともにつづく。顔はひどい渋面、蒼白。首は半ば胴体から裂きはなたれて異常に長くみえる。舌は変形して目は重圧のため突出。口、鼻、耳などからも出血―と、正常な神経の持ち主ならまずは直視しかねる執行風景である。
が、死刑はこれで終わったというわけではない。意識はないものの、まだ死に絶えていないからである。この間、頸骨が折れておらず、手当さえよければ、人間はまだ十分生き返るはずだともいうが、もちろんそんなことがなされるわけもない。死刑囚は死んでこそ死刑囚なのだ。
やがて身体の引きつりも間遠になりだしたころ、死刑囚は手錠・目隠しをはじめて解かれる。医師によって最後の生命を計測されんがためである。地階に降りた医師はまず顔を検しながら脈搏を計る。そして脈搏が弱くなると今度は胸を開き、聴診器で心音を聴く。こうした動作が一分、二分、三分……と、沈黙のなかで続くが、医師が「ステルベン」と告げたときが、すべてが終わりを告げる合図である」

1959年の宮城刑務所で執行された7人が死ぬまでの平均は13分58秒、最低4分35秒から最高37分であったと報告されている。

執行後の遺体はどうなるか。
「刑務官の指導のもと、服役中の受刑者たちで編成された〝処理班〟の手ですぐさま処置される。
まず、首に食い込んだ絞縄をはずし、鼻血や糞や小便もきれいにふいて、飛び出した舌は口のなかに納める。そして着衣を着せ替え、首に残る縄目の痕を包帯で隠して―と書けば簡単な作業のようだが、いってみれば殺害死体、非業の死であることに変わりはない。絞縄のかかりぐあいひとつで耳がちぎれることもあれば、眼球もこぼれ落ちる。とりわけ最後まで騒ぎ、喚き、暴れまくりつつ逝った遺体ほど醜い損傷を残しているという」

死刑囚といえどもごく普通の人間であるということ、死刑囚の中には冤罪の人が少なからずいるということ、死刑囚がどういう日々を過ごしているかということ、死刑がどのように行われるかということ、執行は残酷であるということ、遺体はどのように処理されるかということ、執行に関わる人もつらい思いをするということ、そうした事実を知るならば死刑や死刑囚について知っていなかったことに気づかされるに違いない。

『そして、死刑は執行された』を読んで驚いたことは、合田氏が殺した被害者のお姉さんから手紙が来たということである。
「合田さん、お手紙を拝見させて頂きました。早いもので、あれから十年以上も経ってしまったんですね。弟が死んで三年めに母が亡くなり、四十四年五月に父が亡くなりました。歳月が経つにつれ、あの出来事もだんだんと薄らいできております。お手紙によりますとずいぶんと苦労してきたのですね。まじめになんとか早く刑を終えて、お父さんを安心させてあげて下さい。死んだ弟にもできますれば朝夕に南無妙法蓮華経のお題目を唱えてやって下さい。きっと、草葉の陰で喜んでくれると思います。お体を大切に。さようなら」

「俺は、泣けて泣けて仕方がなかった。ただただ心から頭を下げた。何もできない自分が歯がゆく、今さらながら、いかに大それたことをしたかを思い知らされた」

さらに驚いたことに、お姉さんから小包も送られてくる。
白長袖シャツ、白ズボン下、白いブリーフ、靴下二足、タオル二本、それにアメ玉二袋。
「俺は小包を抱き、荷札の名を凝視したまま、口もきけなかった。担当も事情を聞いてびっくりしていた。
弟を殺された姉から、殺した俺への差し入れだなんて、どこの世界に、身内を理不尽に殺されながら赦してやろう、堪忍してやろうと言える人間がいるだろうか」

「俺はただ、涙が止めどもなく流れるばかりだった。このときほど己れのしたことが悔やまれたことはなかった。このときほど自分が嫌になったことはなかった」

合田氏は出所してから被害者のお姉さんに会いに行き、仏壇に線香をあげ、墓参りをする。
さらにもっと驚いたことに、
「創価学会の支部長をしていた」お姉さんとは、その後も「姉と弟のようにお付き合いしてもらい、折りあらば訪ねて冥福を祈り、姉さんからも訪ねてこられ、何かと相談にものってもらえたことは、俺にとってなによりの幸せだった」
こういうことがあるとは。

もう一つ、合田氏はこう書いている。
「俺のことはなにを書かれてもいい。事件の張本人だし言われるとおりの殺人犯だ。鬼でも蛇でもなんでもいい。だけど、その犯人の親だ兄弟だと引け目を感じ、肩身が狭く小さくなって世間を生きている者のことまで勝手に書きまくる必要がどこにあるのだろうか。同じように書き立てられてとうとう自殺した家族もあった」

東野圭吾氏が主張する加害者の家族を差別しろということ、新たな被害者を生み出す極めて残酷なものである。
東野氏は『手紙』で加害者家族の置かれている状況を描いているのだから、いくら知識はあっても、人の痛みを知らないままでいるのだろう。

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橋下弁護士への賠償命令とダイオキシン

2008年10月04日 | 日記

橋下弁護士に800万賠償命令 光市懲戒請求訴訟で広島地裁判決
山口県光市の母子殺害事件(99年)を巡り、橋下徹弁護士(現・大阪府知事)のテレビ番組での発言で懲戒請求が殺到し業務に支障が出たなどとして、被告の元少年の弁護士4人(広島弁護士会)が計1200万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が2日、広島地裁であった。橋本良成裁判長は「発言と懲戒請求との間に因果関係があることは明らか」として橋下氏に原告1人当たり200万円、計800万円の支払いを命じた。橋下氏は控訴する方針。
視聴者の行為を促した発言が違法と認定されたことで、今後の番組制作や出演者のコメントに影響を与える可能性もある。
 判決によると、橋下氏は昨年5月放送の情報バラエティー番組「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ)で光市事件の弁護団を批判。事件の動機が「失った母への恋しさからくる母胎回帰によるもの」などとした弁護活動に対して、「許せないって思うんだったら一斉に弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい」などと発言し、4人に計2500件以上の懲戒請求が届いた。
 原告側は「発言は名誉棄損に当たり、裏付けのない理由で不特定多数の視聴者に対して懲戒請求を煽動する行為は違法」などと主張。橋下氏側は「懲戒請求は(請求者の)自発的意志に基づくもの」として発言との因果関係を否定していた。
 判決は、名誉棄損について「原告の客観的評価を低下させる」などと認定。発言と損害の因果関係については「番組放送前に0件だった原告への懲戒請求が放送後に急増したのは、発言が視聴者に懲戒請求を勧めたためと認定できる」と指摘。「弁護団が元少年の主張を創作したとする証拠はなく、橋下氏の憶測に過ぎない」などと発言は違法と断じた。
 また、弁護士の役割について「被告のため最善の弁護活動をする使命がある」とし、「弁護団が非難を受ける筋合いではない。橋下氏は弁護士として当然これを知るべきだった」と批判した。
毎日新聞10月2日

橋下徹氏は会見の冒頭、「地裁の判断は重く受け止める。表現の自由の範囲を逸脱していた」と頭を下げ、
「大変申し訳ございません。私の法解釈が誤っていた。裁判の当事者のみなさん、被告人、ご遺族に多大な迷惑をおかけした」
「表現の自由の範囲を逸脱していたという裁判所の判断。判決内容を見ていないが、私の考え方が間違っていたものと重く受け止めている」
「懲戒請求したことまで違法なら、一般の方にも責任を持って謝らないといけない」

と謝罪している。
「被告人」とは光市事件の被告のことだろう。

ネットではこの判決にどういう反応しているかというと、橋下氏が自ら「間違っていた」と認めているにもかかわらず、なぜか不当判決だという意見が多い。
ブログにはこういう感想があった。
「えー!あれで橋下が敗訴になんのか?弁護士の懲戒請求ってのは国民に認められた権利じゃねーのかよ?弁護士様は、一度なってしまえばどんなに非道い事をしても良いんですか?」

「今回の判決は、さらに「言葉狩り」に拍車をかけそうだ。「言論の自由」ってヤツがある。特にテレビなんかではある程度常識的な範囲で制限を与えず発言させることで、番組が面白くなったりするのだが。。。」

「世の中の常識と異なる判事の世界  なんせこの世界はお高く止まっている人が裁くので庶民感覚とは程遠い、法の世界は何とも冷たくて悪に味方するように作られているようですわ」

「請求を認めることは裁判官が「悪に加担」したことにならないか。裁判官にも、国民からの「懲戒請求」制度を作ろうよ、と呼びかけたい」

報道記事のコメント欄からいくつか拾ってみました。
「国民の意見を代弁したほうが、名誉毀損で賠償しなくてはならないとは世も末ですね。「業務に支障」って、暇でやることないから、こんな売名行為にしかならない裁判に出てきてるくせに、よくも平然と言えたものだ。広島「弁護士会」が広島「地裁」に訴えた裁判・・・。身内でやったようなものか」

「広島地裁・・・アホですか?」

「要はエリート集団に楯突いた連中への脅しですね。エリート様のファシズムへの道へ一歩前進ですね」

うーん、まるで戦時中に「戦争はよくない」とか「日本は負ける」と言ったら、「非国民だ」とののしられるような状態である。
橋下氏自身が謝罪しているのにどうして判決を非難するのか、ほんと不思議である。
弁護士や判事に対する劣等感を感じさせるコメントも散見するのだが、「エリート集団」の中に弁護士であり大阪府知事である橋下氏は含まれないのだろうか。

橋下氏自身は「時間と労力がかかる」から懲戒請求をしていない。
これだけで橋下氏に不信感を持ってもおかしくないと思うのだが、裁判で橋下氏側は「弁護団に対して懲戒を申し立てるかどうかについては視聴者の自由意思にゆだねており(略)各発言によって扇動されたものではない」と主張している。
懲戒請求した本人に責任がある、わしゃ関係ない、という責任逃れの仕方は、悪徳商法やインチキ健康食品などの広告塔をしている俳優や歌手が「広告を見た人の自由意思であり、私は関係ない」と開き直っているようなものである。
俳優や歌手がそんなことを言ったらすごい非難攻撃を受けると思う。
いや、俳優や歌手は悪徳商法だとは知らなかったかもしれないが、橋下氏は弁護士だから懲戒請求とはどういうことかを熟知しているはずである。


そして、懲戒請求するについてはその根拠を調査・検討する義務があることを最高裁判決で示しているのだが、橋下氏はその対象は実際に請求した者であって、呼びかけただけの被告(つまり橋下氏)に義務はない、とこれまた責任逃れを言っている。

懲戒請求した人は怒ってもいいはずなのに、あるブログでは
「やっぱり、納得いかない。懲戒請求を出した人は皆そう思うでしょう。自分の意思で出したものを煽動された結果である、と認定されるわけですから」
と、どこまでも橋下氏を擁護している。

あるブログにこう書いてあった。
「そーいう、自分らの思い込みがどんどん否定されていって、世の中の全てを否定しなきゃならなくなる状態ってすっごくカルト信者的だよね(笑)」
「まるで救世主であるかのように祭り上げてる(嘲)カルト信者よりたちが悪いわ(笑)」

カルトの信者と一緒にされたのでは腹を立てるとは思うが、しかし事実を見ようとしない傾向は似ていると思う。
オウム真理教の元信者たちはこう言っている。
「例えば、裁判で教祖の言動を見て、自分では情けないと思っても、「何か深いお考えがあるはず」って〝オウムを信じている自分〟を肯定してしまうんです」

「全然信じられませんでした。ただ、その当時は、「ああ、尊師はこんなウソまでついて私たちの志気を高めようとしているのか。それじゃあ、この芝居に乗っかかってやるしかないな」ってわざと信じるふりをしていたんです。
その後、(略)事件はオウムが起こしたものってほぼ確信したんです。でも私はやめなかったんですよ。一年くらい残っていたんです。
まだ残っている人もそうだと思うけれど、グルの真の意図を確かめたかったからですね。「私には理解できない、何か深い考えがあるのではないか」。それがありましたね」

「事件はポアで、グルの深いお考えがあってやったことに違いないって自分を納得させていたんです。具体的な事実を突き付けられても、信はゆるがなかったんです」
(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)
麻原彰晃を信じる私は間違っていたのかもしれないとは考えようとしない信者たちと、あくまでも橋下氏を擁護する人たちとはだぶる気がする。

一度信じたことは、それがいくら否定されても信じ続けるということは多い。
武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』に、ダイオキシンをめぐるウソについて書いてある。
平成14年に厚生省はダイオキシンの規制値を決めたのだが、その報告書にはこう書かれているそうだ。
「ダイオキシンは人間ではほとんど毒性が認められていない。急性毒性としてはニキビが最も重い症状であり、それ以外には認められていない」
もしもダイオキシンが猛毒なら、焼却炉で働いていた人、1日6本以上煙草を吸う人、焼鳥屋のオヤジさんはとっくの昔に何らかの症状が出ているいるはずだが、被害を受けたという話は聞いたことがないと言われると、なるほどと思う。

「毒物についてほとんど知らない人たちが専門家の言うことがおかしいと言っているわけだから奇妙である。
ダイオキシンが猛毒だとなぜ信じているのかと理由を訊くと、口を揃えて「新聞にそう書いてあったから、テレビでそう報道しているから」と答える」

毒物を懲戒請求その他諸々に置き換えてもいい。
ダイオキシン騒動や懲戒請求騒動は、煽り立てる人(そのことで得する人)がいて、マスコミがそれに同調し、そしてだまされる人がいる、というよくあるパターンなわけである。
(もっとも『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』に書かれてあることは「意図的な誤読やデータの捏造、論点すり替えなどに満ちている」そうだ)

正直なところ、ペットボトルや紙のリサイクル、分別収集は意味がないと書いてあるのを読むと、それが正しいかどうかは別として、ゴミの分別をこまめにしている私としては何やらむかっとする。
魚の焦げや合成甘味料のチクロには発ガン性があるとされていたが、実はどちらも発ガン性がない、と今さら言われても信じたくない気分である。
自分の間違いを認めることは本当に難しい。

「時の為政者や利益団体が事実と異なるうわさを流し、それでずいぶん儲ける、もしくは多くの人が死ぬというケースは歴史上も数多く見られる。例えば、中世ヨーロッパでは「魔女狩り」が行われた」
と武田邦彦氏は書いているが、毎日新聞に判決について
「専門家は「弁護団の主張に違和感があっても、『気に入らないから懲らしめろ』では魔女狩りと変わらない。冷静な議論をすべきだった」と警鐘を鳴らす」
とある。
で、橋下氏の話に戻って、判決文には「刑事弁護人の役割は刑事被告人の基本的人権の擁護」「被告のため最善の弁護活動をする使命がある」とあるそうだ。
そこをちゃんと理解しない人が裁判員になったら、弁護人が被告を弁護したら弁護人を非難する魔女狩り裁判になるんじゃなかろうとか心配になる。

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信田さよ子『依存症』

2008年10月02日 | 

アルコール依存症者はほどほどに飲むということができない。
飲酒のコントロールを失った人は、酒をやめるか、死ぬしか道はない。
信田さよ子氏のカウンセリングセンターを訪れる人はそこまでひどくはなく、社会生活をおくれているが、飲酒のために家族との関係がうまくいかなくなったり、量が多くなってきたという人がほとんどで、入院歴のある人はいない。
その人たちには断酒を正面にはうちださず、量や回数を減らしていくと、だんだんと飲まなくなってくるそうだ。

「私が断酒を強制せず、相手の希望に沿った援助を続けるとアルコールをやめてしまうという不思議な現象は何を意味しているのだろうか。
一方で断酒をしなくてはと意気ごんでいたのに、飲んでしまったことで果てしない罪悪感を感じ立ち直れなくなってしまう人もいる」
信田さよ子『依存症』


この違いを解くキーワードは「自責」だと信田氏は言う。
「禁止は他者からはもちろん、自分で自分に対する禁止もある。「いけないと思うけどやってしまう」ほうが、許容された行動よりも快感は強いのである」
「つまり自分を責めることは次の嗜癖行動の快をより高めていくのだ。周囲が本人を「意志が弱い」と責めることは、嗜癖行動を起こすエネルギーを補給しているようなものなのだ。
したがって我々の援助は相手の自責感を増すことはない。その人を責めたりしないのだ。その人が困って援助を求めたこと、そのことを何より素晴らしいこととして肯定するのだ。そこで語られることを決して責めず否定せず、すべて肯定してかかわる」

これを読んで思い出したのが、薬物中毒だった人の話である。
人を傷つけたことで自分を責めていた罪悪感をものすごく持つようになった。
自助グループの仲間にその話をしたら、「あなたがクスリを使ってやったことに、あなたの責任はほとんどない。それはクスリがさせたことだ」と言われた。
「仮にあなたが人を殺したとしても、それは法律的な罪はあるけど、でもあなたの責任ではない。あなたの責任はこれから薬物依存を治療していくことです。自分を責めることはとにかくやめなさい」
その人はこの言葉を聞いて、初めて許される気持ちを持ったと言う。
それまで、クスリに誘い込んで迷惑をかけ、傷つけてきたことで、ずっと自分を責めてきたけど、そのことをきちっと見るんじゃなく、自分を責めることをクスリを使う理由づけにしていた。
罪の意識を捨てないかぎりまたクスリを使うことになり、そしてクスリを使うことでさらに自分を責めてしまう、そういう悪循環を指摘されたわけである。

この話を聞いて、ええっと思った。
というのが、阿闍世の回心のことを考えたからである。
父王を殺したことで阿闍世は罪の意識にさいなまれ、身体中に瘡ができて苦しむ。
大臣たちはいろんな慰め(仕方なかったとか、みんな同じことをしてるとか)を言うが、阿闍世はそれを受け入れることができない。
ところが耆婆は、苦しむのは当然だ、恥じることがないのは畜生だと言う。
阿闍世は耆婆の勧めに従って釈尊に会いに行く。
薬物中毒の人に「あなたには責任がない」と言うのと、阿闍世に「罪がある」と言うのとでは全く逆である。

家族を亡くした方が死者に対して罪の意識を持つことは珍しくない(たとえ老衰であっても)。
罪の意識に苦しんでいる人にどう対処すればいいのかと頭を悩ます時がある。
どうしたものやら。

「依存症者は、このように周囲からのコントロール(叱責、罵倒、非難、説教)が撤去され、その行動そのものが容認されることで、その行動が止まるということなのだ」
「本人の生きることそのものに組み込まれた嗜癖行動が止まるのは、それこそ生きることの転換によって初めて可能なのだ。そしてそのような生の転換のドラマをコントロールせず肯定して見守ることが、周囲の人間にとって唯一の許された行動なのかもしれない」
(信田さよ子『依存症』)
自分を責めるというのも一種の嗜癖行動かもしれない。

善知識(善い友)は畢竟軟語、畢竟呵責、軟語呵責を使うそうだが、たぶんツボにはまる言葉というのがあるんだろうと思う。
耆婆が厳しいことを言ったから、じゃ、自分も、というわけにはいかない。
難しいもんです。


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