三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』3

2012年04月30日 | 

○自信の錯覚(2)

石原都知事や橋下大阪市長はけっこう失言しているのに、なぜかあまり問題にされない。
橋下市長のディベート能力の高さも人気の一因だとは思う。
自信ありげに話す人は会議をいつの間にか仕切っている。
『錯覚の科学』によれば、グループ討議では、能力がある人よりも支配的な性格の人がリーダーになりやすく、よりよい結論を出すとはかぎらない。
「支配的な人は、自信ある態度をとりがちである。そして自信の錯覚のせいで、ほかの人たちは自信をもって話す人を信頼し、従おうとする」
つまり、声の大きい者が討議をリードするわけです。

連合赤軍事件を描いた山本直樹『レッド』を読み、言葉の怖さをあらためて感じた。
支配的な幹部の自信ある言葉によって、総括を求められた人を追いつめ、身動きを取れなくさせる。
そして
、まわりの人たちは自信をもって話す幹部に従って攻撃し、そうして何人もを死に至らしめた。

『レッド』2巻に、山本直樹氏と押井守氏の対談が載っている。
押井守氏は「『レッド』に出てくる若者たちは、言葉で自分自身を追い込み、他人を追い込み、自分も破滅し他人も破滅させていく。そういう世界が、今の日本にまったく無縁だと本当にいいきれるのか」と言う。
山本直樹氏が「2ちゃんねるの言葉ってどう思います?」と尋ねると、押井守氏はこう答えている。
「あれは言葉になっていないよね。つまり、責任のない言葉は言葉じゃない。あそこにあるのは、人間性がどこまで堕落できるかという陳列にすぎない」

言葉ではないかもしれないが、力はある。
たとえば亀岡市の事故では、ネット上に「死刑だ」「少年法はいらない」という声が飛び交う。
こうして厳罰化が進んでいるわけだが、さらなる厳罰化要求がエスカレートしていく先は危険である。

討議に話は戻り、私の経験だと、討議を仕切る人はしばしば極論を言って相手をねじ伏せる。
「そうするんだったら、○○もしないといけないじゃないか」(誰もそこまでしろとは言っていないのに)
「もしも△△になったらどうするんだ」(どんなことでも可能性は否定できない)
「こないだは××と言ったじゃないか」(記憶にないが、言っていないという証拠もないので水掛け論)

私は頭の回転が鈍いし、話が下手だし、説得力がないしで、ディベートがダメなので、会議で自分の意見が否定されると、まあいいか、と思って黙ってしまう。
で、いつもあとから「こう言えばよかった」と後悔することになる。
これじゃ私が国会議員になったとしても何もできないわけで、国会議員の先生はえらいなと思います。

国の政策が決まる時にも自信の錯覚が関係している。
2008年、グルジアはロシアと武力衝突を起こし、あっさりと負けた。
「なぜグルジア政府が強い自信をもってロシアに戦争をしかけたのか」
個々人の自信度は低かったかもしれないが、「グループになったときに彼らの自信が膨張し、とても成功するとは思えない無謀な行動に走ったのだ」
「みんなで~すれば怖くない」です。

「みずから戦争をしかけて敗北した国が、ほとんど例外なく自信の錯覚に陥っていた」
日本もそうだったし、デイヴィッド・ハルバースタム 『ベスト&ブライテスト』を読むと、ベトナム戦争でのアメリカも同じ。
それ行けどんどんと景気のいいことを言う人間はみんなの受けがいいが、慎重な発言、悲観的な考えは敗北主義だとけなされる。
そうして同じことが繰り返される。

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クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』2

2012年04月27日 | 

○自信の錯覚(自信ありげな態度を、相手の知識や能力のあらわれとして受け入れてしまう)(1)

自信たっぷりに話す人がいて、どうしてこの人はこんなに自信があるのだろうか、不思議に感じることがしばしばある。

「自信に影響をあたえると思われる一つの要素が遺伝である」
自信は能力、知能、知識、実績などとは関係がない。

犯罪者には間抜けが多いそうだ。

・学校に嫌がらせしようと考え、カラースプレーで校舎の壁に自分のイニシャルを書いた高校生。
・スーパーで百万ドルの偽札を出した66歳。
・「紀元前300年」という日付が刻まれている古代ギリシアの偽造コインを売る人。

自信を持っているのは犯罪者だけではない。
アメリカ人の63%が自分の知能を平均より上だと考えている(男性は71%、女性は57%)。
自動車の運転能力については、アメリカの学生の93%が仲間の5割より自分のほうが上と考えている。
男子学生のおよそ15%が実際以上に自分を魅力的と評価しているが、女子学生は実際より自分の魅力をやや低く評価している。
ということは、男性は女性よりもうぬぼれが強いらしいらしい。

自分に対する評価が低すぎると考えるチェスプレイヤーの圧倒的多数は、対局成績が下位半分の人たち。

「強いプレイヤーはほどほどに強い自信をもっているが、弱いプレイヤーは極端に自信過剰だったのだ」

ここで法則が編み出される。
「能力のない者のほうが、自分の力を過信しがち」
「十分な能力を身につけないかぎり、自分の限界もわからない」

私は、自信がないことに自信がある、劣等感だけは誰にも負けない、と自負しているのだが、『錯覚の科学』を読み、私もまったく根拠のない自信をたくさん持っていることに気づいた。

たとえば、小学生の時になぜか長距離走に私は自信を持っていた。
私は運動神経が鈍くて運動会の徒競走では毎年ドベのくせして、長距離なら、と自負していたわけです。
でも6年生の時、体育の時間に校舎のまわりを走り、その自信はもろくも崩れてしまったのでした。
他にもいろいろあるけれど、恥ずかしいので。

「能力不足は自信過剰につながる」
なぜ能力のないのに自信を持てるのか。
「能力のない者は二つの大きなハードルを目の前にする。一つは、自分の能力が平均以下だということ。二つめは、自分が平均以下であるという自覚がないため、能力を向上させる努力をしないこと」
たしかにそのとおり。
自分が平均以下だということを認めるのはつらい。
だけど、何もしなかったら自分の事実を知らずにすむので、自分はこういう能力があるという夢を見ることができる。
努力しないのは、面倒だからということもあるが、現実の自分と向き合いたくないからだと思う。

この「能力不足と無自覚」効果は、ユーモア感覚、論理的な推理能力や文法の能力など、人間のあらゆる面に見出せるそうだ。

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クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』1

2012年04月24日 | 

○注意の錯覚(目は向けていても見落としてしまう)

バイクに乗ってて横断歩道を渡っている人にぶつけたことがある。

目の前の歩行者にどうして気づかなかったのかと、かなり落ち込んだ。
ところが『錯覚の科学』によると、見ていても見ていないことはめずらしくないそうだ。

「見えないゴリラ」という実験を著者たちはしている。

被験者はバスケットボールの試合のビデオを観て、白いユニフォームを着たチームがパスを何回したかを数えてもらうよう指示される。
ゴリラの着ぐるみが画面を横切る(9秒)のだが、約半数が気づかないそうだ。

著者のサイトでこのビデオを見ることができる。
妻にそのビデオを見せたら、妻もゴリラには気づかなかった。
「目の前に予期せぬものが登場しても、それに気づかない」

車の運転手はバイクに気づきにくい。
なぜなら「バイクはどちらかというと予想外のものなのだ。ドライバーは予想外のものを見落としがち」だから。

プールの監視員も溺れた人に気づかない。
「同様に私たちは、水泳プールの監視員なら、溺れかけた人にかならず気づくと考える。だが水泳場で広い水面に目をこらし、めったに起きない事故を監視する仕事は、不可能に近いほどむずかしい」

注意の錯覚で思い出したのが、地下鉄サリン事件での辺見庸氏の見聞についての某氏の話。

地下鉄出口で苦しんで倒れている人をまたいで行く人がいたと、辺見庸氏は書いているそうだ。
苦しんでいる人が目の前にいても、手を差し伸べずに見て見ないふりをするどころか、わざわざまたぐのである。
信じられない話だと思ったのだが、『錯覚の科学』を読み、会社に急ぐ人たちは倒れている人が目に入らなかったのではないかと思った。

『錯覚の科学』に、ヴァイオリニストのジョシュア・ベルが金曜の朝、ラッシュアワーにワシントン市の地下鉄駅で、バッハの『シャコンヌ』などを300万ドルのストラディヴァリウスで43分間、演奏したことが書かれている。
その間、1000人以上が通り過ぎたが、立ち止まって耳を傾けたのは7人、演奏で得た金額は32.17ドルだった。
このときの映像をネットで見ることができる。

『ワシントンポスト』の記者ジーン・ウェインガーテンはこの記事でピュリッツァー賞を受賞している。

ウェインガーテンは「世界最高の演奏家による珠玉の作品の演奏に、しばし足を止めて耳を傾けるゆとりもないとしたら、人びとが現代社会の大波に吞まれ、これほどの存在を前にしても耳は聞こえず、目も見えなくなっているとしたら――私たちは、ほかにどれほどのものを失っているだろう」と書いた。
辺見庸氏と同じような慨嘆をしている。

しかし、ジョシュア・ベルの演奏に気づかないのは注意の錯覚なのである。
「人びとは、ヴァイオリンの巨匠を見ようとして(あるいは聞こうとして)いなかった。彼らは、仕事場へいこうとしていたのだ」
そのあたりで靴磨きをしているエドナ・スーザは「みんなエスカレーターが上がるときは、前しか見てないのよ。前だけを見て、自分のことしか考えない」と語っている。

「実験で言えるのは、人は一つの作業(職場にいくこと)に、注意(視覚および聴覚)を集中させているとき、予期せぬものに出会っても、気づく可能性が薄い、ということだ」
地下鉄サリン事件の場合も、人情の希薄さではなくて注意の錯覚じゃなかろうかと思った次第です。

記憶の錯覚(自分が体験したことを鮮明かつ正確に記憶できると思っているが、記憶はゆがむことが多い)の紹介は省略。

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佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』

2012年04月20日 | 

某氏よりいただいた佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』を読み、私は保守だったと気づいた。

保守とは何か?
天皇バンザイとかアメリカ追従が保守なのではないし、体制派でもない。

保守=戦後体制(国民主権、基本的人権、平和主義)の批判=変革=反体制派

戦後体制はアメリカが作ったものである。
アメリカと良好な関係を保つ―戦略的親米(保守ではない)
アメリカと距離を置く―戦略的反米

逆に左翼が体制派なんだそうだ。
左翼=戦後体制の擁護=現状維持=体制派

佐伯啓思氏は左翼と保守の違いをこのように説明している。
「「左翼」は、人間の理性の万能を信じている。人間の理性能力によって、この社会を合理的に、人々が自由になるように作り直してゆくことができる、しかも、歴史はその方向に進歩している、と考える。
一方「保守」とは、人間の理性能力には限界があると考える。人間は過度に合理的であろうとすると、むしろ予期できない誤りを犯すものである。したがって、過去の経験や非合理的なものの中にある知恵を大切にし、急激な社会変化を避けよう、と考える」

社会が閉塞状態だと感じると、人は強力な指導力を持つリーダーによる急激な変革を待望しがちである。
それは保守の立場ではない。
伝統や慣習を無視して秩序を大変革しようとすれば、社会が大混乱に陥る。
佐伯啓思氏が小泉純一郎氏や橋下徹氏に批判的なのはこのためだったわけか。
社会を変えていくには漸進主義のほうがいいと私も思います。
凡人が集まって、ああでもない、こうでもないと頭をひねって考えるような。

「社会の変化は必要なものです。しかし、変えていく場合にも、常に歴史に学びながら、何を残せばいいかということを中心に考えていくべきである。これはイギリスの典型的な保守の考え方なのです」

イギリスの戦後を代表する思想家のマイケル・オークショットは「保守主義とは何か」という論説で次のように書いているという。

「保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むことであり、試みられたことがないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限のものよりも限度あるものを、遠いものよりも近くにあるものを、あり余るものよりも足るだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである」

ヨーロッパの保守とアメリカの保守とは考え方が大きく違うそうだ。

「レーガン大統領は、アメリカでは保守と称された。そこで、個人主義的な自己責任に基づく市場競争主義こそがアメリカの保守主義とみなされることとなりました。
しかしヨーロッパからすると、レーガンは決して本来の保守ではない。市場原理主義もピューリタンの原理主義も、決して保守ではありません。むしろそれは、自由主義や宗教的急進主義と言うべきものです」
日本が受け入れたのがアメリカの保守である。
ここまではなるほどと納得。

中東の春は欧米民主主義の押しつけだし、構造改革、グローバル化はアメリカの価値観の押しつけと言っていいと思う。

しかし、『自由と民主過ぎをもうやめる』の後半は賛成できない

というのが、佐伯啓思氏は「その国の歴史に即して社会を変えていくこと、その国の歴史的・文化的なコンテキストに即して問題を解決していくことが、保守の基本です」
と言う。
そのことはもっともだと思うが、後半に書かれている日本の歴史や文化には疑問符です。

追記
佐伯啓思氏は戦後の日本は「アメリカ的なもの」に従属し、「骨抜き」にされてしまっていると考えている。
そのため、日本がはぐくんできた価値、受け継がれてきた価値が何か、よくわからなくなってしまっている。
でも、価値とか伝統は時代社会とともに変わっていくのもだと思う。

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中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』3

2012年04月17日 | 死刑

大阪パチンコ店放火殺人事件で、弁護側は絞首刑は残虐だから違憲だという主張をしたが、地裁の判決は絞首刑は残虐ではないから合憲というものだった。
判決文の中で気になったのは次の五点です。

① 死刑は,そもそも受刑者の意に反して,その生命を奪うことによって罪を償わせる制度である。受刑者に精神的・肉体的苦痛を与え,ある程度のむごたらしさを伴うことは避けがたい

② 医療のように対象者の精神的・肉体的苦痛を極限まで和らげ,それを必要最小限のものにとどめることまで要求されない


③ 自殺する場合に比べて,安楽に死を迎えられるということになれば,弊害も考えられる


④ 死刑の執行方法が残虐と評価されるのは,それが非人間的・非人道的で,通常の人間的感情を有する者に衝撃を与える場合に限られるものというべきである


⑤ 死刑に処せられる者は,それに値する罪を犯した者である。執行に伴う多少の精神的・肉体的苦痛は当然甘受すべきである


①と②の、死刑とは「ある程度のむごたらしさを伴う」のは避けがたいし、「精神的・肉体的苦痛を極限まで和らげ」ることは憲法では要求されない、ということについて。

安田好弘氏の話だと、「むごたらしさ」と「残虐さ」を司法では分けているそうだ。
絞首刑は「むごたらしい」が、憲法で言う「残虐」には当たらないということらしい。
しかし、「残虐」を辞書で調べると、「人や生き物に対してする行為のむごたらしいこと」とあって、むごたらしければ残虐だということになるはずです。

③の「弊害」とは何か。

私の考えるに、苦しまずに処刑されるようになれば、自死する代わりに死刑になって死のうという人間が増えるということだと思う。
しかし、死刑になりたいからと無差別殺人を犯す事件はたびたびあるわけで、死刑制度そのものが弊害です。

④も意味不明で、絞首刑は「通常の人間的感情を有する者に衝撃を与え」ないということだろうか。

ということは、大阪地裁のこの裁判官は絞首刑に立会い、遺体の清拭をしても、特にどうとも感じないらしい。

そして⑤の、死刑囚は「多少の精神的・肉体的苦痛は当然甘受すべき」だということ。

2008年2月アメリカのネブラスカ州最高裁判所が、ある死刑囚の訴えに対して、死刑の方法として電気椅子を用いることを禁止した判決文が、中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』に引用されている。
その中に「われわれは(上訴人の)死刑囚が罪なき犠牲者を苦しめたと同じだけ、死刑囚を苦しめたという誘惑があることを認める。しかし、残虐な行為に対して残虐な行為を行うことなしに罰するのが文明の輝かしい証明である」とある。
大阪地裁の裁判官はどう思うかお聞きしたい。

ただし、絞首刑が残虐だから死刑は廃止すべきだということにはならない。
死刑賛成派の土本武司氏は、絞首刑は残虐だからやめて、その代わりに薬物注射を、という考えです。
産経新聞の「正論」で、土本武司氏は「絞首刑は限りなく「残虐」に近いものだと言わざるを得ない。憲法36条は残虐な刑罰を「絶対」に禁じている。例外のない、程度の差を問わない趣旨として理解しなければならない」と絞首刑に反対しているが、「私は死刑は存置すべきだとの立場である」と最初に断っている。

安田好弘氏によると、ウィリアム・ブレナンという人は、残虐かどうかは文化の問題であり、痛みがあるから残虐なのではない、仲間を殺すことが残虐なんだ、と言っているそうだ。

56~90年に最高裁判事だったウィリアム・ブレナンは死刑は憲法違反だという考えの持ち主で、最高裁が死刑を支持するたびに反対した人です。

「FORUM90」Vol.122に船山泰範氏の「法務大臣に死刑執行の義務はない」という講演録が載っている。
この中で船山泰範氏は「刑罰が一定の目的を持っている」と話している。
「一定の目的とは何か。それは、犯罪を行った人が2度と同じような過ちを繰り返さないための、そのきっかけとして刑罰はあるのだと、こう考えるべきだと思うのです。(略)私は、刑罰はすべて社会復帰に役立つものでなければいけないと思うのです」
死刑は社会復帰を考えていないし、終身刑に近い状態になっている無期懲役も社会復帰はほとんどない。
「当人が社会復帰しようとする意欲が持てない、あるいは社会復帰のしようがないようなそういう刑罰のあり方、私はそういうものこそ憲法が禁じている残虐な刑罰だと考えるべきではないか、と思います。(略)そういう、いわば絶望しかないような刑罰こそ残虐な刑罰であると思います」
「やり直せる社会に、賛成です。」ということです。

『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』には明治時代の新聞などから、104人の死刑執行の様子を紹介している中にこんな記事があった。

新垣亀 明治20年1月に死刑執行
沖縄は琉球国王尚氏の時代から死刑を行わなかった。殺人などの重大犯罪でも八重山島に放流するにとどめ、どのようなことがあっても人命を断つことは無かったが、沖縄県初めての死刑執行。
琉球が独立国だったら、世界最初の死刑廃止国になっていたかもしれない。

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中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』2

2012年04月13日 | 死刑

絞首刑は残虐だからこそ、法務省は隠そうとするし、マスコミも知ろうとしない。
2010年8月27日、千葉景子法相の時に法務省は東京拘置所の刑場を報道機関に公開した。

森達也氏は安田好弘氏との対談で次の指摘をしている。(「フォーラム90」Vol.115)
「そもそも法務大臣が公開しろと言ったから公開したという、とても情けない話ですね。本来はメディアが公開しろと要求するべきです。なぜなら死刑は行政が行っています。メディアはこれを監視する義務があり、行政はそれを開示する説明責任があるんだと。極めて、当たり前のことです」
「確かに、刑場は公開されました。でもあれはグラウンドです。グラウンドだけ見ても野球はわからない。野球を知るためには野球を見なければいけない。どんな競技なのか、どういうルールなのか、どういう選手たちがいるのか、そんな情報がなければ野球について語れるわけがない」

安田好弘氏はこう言っている。
「この前の刑場公開でも、私は絞縄と言われているあの縄が、最低限設置されている状況を公開しない限り、これは本尊のない寺を見せるようなもので、実感ともおよそかけ離れてしまう。あれだけ見せられると、むしろ、人が殺される場所ではなく、むしろ厳粛な場所という感想しか出てこないんじゃないでしょうか」

実際、新聞記事(中日新聞8月27日)には「「刑場は死者の魂のいる場所。無言でお願いします」。法務省の職員から事前に指示があったこともあり、誰も声を発しない。拘置所の職員に合わせて、合掌しながら各部屋に入る」とある。
なんかおかしいように思う。
広島平和記念資料館や長崎原爆資料館で、アメリカの軍人が職員となり、「死者の魂のいる場所だから無言でお願いします」と言ったとして、その迷える死者を生み出したのは自分たちだという責任を感じていないみたいな

死刑囚が苦しみながら死ぬとしても、それだけのことをしたんだから当然だという意見がある。
たとえば大阪パチンコ店放火殺人で絞首刑は合憲だとした裁判官である。
以下、判決文の一部です。

第2 絞首刑の憲法適合性

1(略)
2 裁判員の意見も聴いた(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律68条3項)上,弁護人の主張を検討したが,絞首刑は憲法に違反するものではないとの結論に至った。その理由は以下のとおりである。
(1)(略)
(2)ア このように,絞首刑は,多くの場合,意識喪失までに最低でも5ないし8秒,首の締まり方によっては,それが2分あるいはそれ以上かかるものとなり,その間,受刑者が苦痛を感じ続ける可能性がある。しかも,場合によっては,頭部離断,特に頸部内部組織の離断を伴うことがある。絞首刑には,受刑者が死亡するまでの経過を完全には予測できないといった問題点がある。
イ しかし,死刑は,そもそも受刑者の意に反して,その生命を奪うことによって罪を償わせる制度である。受刑者に精神的・肉体的苦痛を与え,ある程度のむごたらしさを伴うことは避けがたい。憲法も,死刑制度の存置を許容する以上,これらを不可避のやむを得ないものと考えていることは明らかである。そうすると,死刑の執行方法が,憲法36条で禁止する「残虐な刑罰」に当たるのは,考え得る執行方法の中でも,それが特にむごたらしい場合ということになる。殊更に受刑者に無用な苦痛を与え,その名誉を害し,辱めるような執行方法が許されないことは当然としても,医療のように対象者の精神的・肉体的苦痛を極限まで和らげ,それを必要最小限のものにとどめることまで要求されないことは明らかである。自殺する場合に比べて,安楽に死を迎えられるということになれば,弊害も考えられる。特にむごたらしいか否かといった評価は,歴史や宗教的背景,価値観の相違などによって,国や民族によっても異なり得るし,人によっても異なり得るものである。死刑の執行方法が残虐と評価されるのは,それが非人間的・非人道的で,通常の人間的感情を有する者に衝撃を与える場合に限られるものというべきである。そのようなものでない限り,どのような方法を選択するかは立法裁量の問題といえよう。
ウ 絞首刑が死刑の執行方法の中で最善のものといえるかは議論のあるところであろう。しかし,死刑に処せられる者は,それに値する罪を犯した者である。執行に伴う多少の精神的・肉体的苦痛は当然甘受すべきである。また,他の執行方法を採用したとしても,予想し得ない事態は生じ得るものである。確かに,絞首刑には,前近代的なところがあり,死亡するまでの経過において予測不可能な点がある。しかし,だからといって,既にみたところからすれば,残虐な刑罰に当たるとはいえず,憲法36条に反するものではない。
また,Jの証言や,弁護人が提出した証拠によっても,頭部離断は,例外的に事故として生じるものであると認められ,しかも,多くの場合,頸部内部組織の離断にとどまる。そうすると,たとえこれらの事態が生じたとしても,多くの場合,断頭とまではいえないし,極めてまれな例外的な場合を一般化し,絞首ではなく断頭であるとするのは相当ではない。したがって,憲法31条に反するものでもない。
 弁護人の主張は理由がない。

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中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』1

2012年04月09日 | 死刑

某氏から『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』をいただいた。
『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』はオウム真理教事件の中川智正死刑囚の裁判に弁護人が提出した書類がもとになっている。

絞首刑の具体的方法は、明治6年の太政官布告に定められている。
「上からつるしたロープを死刑囚の首にかけます。次に死刑囚が立っている床(踏板)を開き、死刑囚を下に約2.4メートル落とします。死刑囚はロープで床から約30センチの高さにつり下げられます」

絞首刑は首の骨が折れて一瞬のうちに死ぬものだと私は思っていたが、そうではないらしい。

「ときおり、過度に短い落下距離を与えられた者はゆっくり絞殺されて死亡し、また過度に長い落下距離を与えられた者は頭部が切り落とされた」(『死刑に関する英国審議会報告書』1953年)

オーストリア法医学会会長のヴァルテル・ラブル博士によると、ほぼ瞬間的な死はまれで、死刑囚は最低でも5~8秒程度、長ければ2~3分程度意識があり、その間に激しい痛みや苦痛を感じる。
「首が折れても意識はなくなりません。絞首刑で死刑囚の首の骨を意図的に骨折させるのは困難です。死刑囚の意識はすぐになくならず、一方で首はひどく傷付くので激しい痛みがあります。絞首刑で使うロープを皮でおおっても、首の切断やゆっくりとした窒息死を防ぐことはできません」

絞首刑で首が切断されることもあるという。
1942年アメリカのサン・クエンティン刑務所でメージャー・リゼンバーが死刑を執行された。
刑務所長のクリントン・ダフィは著作に次のように書いている。
「一人の記者が聞いた。
「わたしは、カリフォルニア中の人が、みな処刑の光景を見たらよかったと思う。リゼンバーの顔から、ロープのために肉がもぎ取られ、半ばちぎれた首や、飛び出した眼や、垂れ下がった舌を、みんなが見たらよかったと思う。宙ぶらりんに揺れ動く彼の脚を見たり、彼の小便や脱糞や、汗や固まった血の臭いを、みんなが嗅いだらよかったと思う」
だれかがあえぎ、一人の記者がつぶやいた。
「所長、そんなことは活字に出来ませんよ」
「出来ないのは分かっている。しかし出来たら、みんなのためになる。州民たちに、彼らの指令がいかに遂行されたか正確に知るのに役立つ。かつて死刑に票を投じた陪審員全部、かつて宣告を下した裁判官全部、私たち皆に、この苦しい試練を通り抜けることを余儀なくさせる法律の通過を助けた立法者全部は、今日、わたしと一緒にいるべきだった」」

死刑囚本人もさることながら、執行に立ち会う刑務官にとっても絞首刑は残虐である。
執行の際、刑務官たちが3つか5つあるボタンを押す。
どのボタンが床をはずすのかわからない仕組みになっている。
だが、2006年12月25日に執行された藤波芳夫死刑囚の時は、藤波死刑囚がリウマチであるけなかったため、通常とは違っていた。
青木理『絞首刑』には「藤波の車椅子を刑務官が再び押し、執行台まで近づけると二人の刑務官が両脇を抱えて藤波の身体を無理やり立たせた。そこまら執行台までのわずかな距離を、老いた藤波の身体は抵抗もできないまま二人の刑務官によって運ばれて行った。首に太いロープをかけられても藤波は自力で身体を支えることができない。合図とともに執行ボタンは押され、足元の床が「バタンッ!」という激しい音とともに開くと藤波は叫び声もあげることなく地階へと落ちて行った」とある。
刑務官は歩けない藤波芳夫死刑囚を抱きかかえて絞縄に首を吊るしたわけである。

首が切断されないようにちゃんと準備すればいいかというと、そうはいかない。
「絞首刑の対象は、生きた人間であるから、その受刑者の頭部が離断するか否かを事前に実験することは不可能である。個体差がある個々の受刑者全てについて同人の頭部が絶対に離断されず、しかも同人をすみやかに死に至らしめるような執行条件を合理的な根拠の下に決定し、その執行条件を全ての死刑執行について漏れなく反映することは、不可能か少なくとも著しく困難であろう」

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櫻井義秀、中西尋子『統一教会』4 韓国の日本人信者

2012年04月06日 | あやしい教え・考え

『統一教会』によると、正体を隠しての勧誘、霊感商法などの違法な伝道、物品販売活動、献金強要、そして女性を大量に韓国の農村に送り込むといった活動をし、信者の時間とお金と労力を搾り取るのは、世界中の統一教会の中でも日本だけとのこと。

統一教会は国別に機能を特化させている。
韓国―コングロマリット的経済活動や社会事業も行う「花形スター」
アメリカ―保守政治や信教の自由を擁護するロビィング活動を積極的に行う「問題児」
日本―「金のなる木」として利用する
「青年信者の多くは合同結婚式まで数年間ただ同然で使われ、壮婦と呼ばれる既婚婦人達は自己破産や家族崩壊の瀬戸際まで資産を献金するよう迫られている。信者であれ、一般市民であれ、統一教会に関わる人々は生活の基盤を失っていく」
これが金のなる木ということである。
「日本が統一教会にとって絞れば絞るだけの資金が出てくる財布だと韓国の統一教会幹部達に認識される」

では、韓国では統一教会はどのように受けとめられているのか。
「韓国でもキリスト教関係者による反統一教会の動きがないわけではない。しかし、日本における全国霊感商法対策弁護士連絡会のような損害賠償請求による問題の告発は皆無である。統一教会信者や元信者の親や家族で結成されている父母の会のような団体の消息も聞かない」

韓国では統一教会は被害者が出るような社会問題化する活動をしていないから、異端的宗教ではあっても、カルト視はされていない。
もう一つ、韓国の統一教会は「宗教団体というよりも傘下に多くの団体、会社を持つ事業体(ある種の財閥)と捉えられている」ということもある。

そして、韓国の農村部の独身男性やその親には統一教会は結婚相談所として受け入れられている。
韓国の農村男性の結婚難は深刻で、結婚できないことを悲観して自殺した農村男性は1980年代に入って300余名もいる。
外国人女性との国際結婚が増加し、1999年には国際結婚は結婚件数全体の1.2%だったが、2005年には13.6%に増えている。
特に全羅南道では22.68%にもなっている。
2007年、慶尚北道の農漁村男性の5割が国際結婚。

韓日祝福を受けて渡韓した女性信者は7000人になるとされる。
韓国で暮らす日本人男性信者は300人ほど。

日本人女性がわざわざ韓国の農村(言葉が通じない、習慣が違う、農業をしたことがない)まで行って、見知らぬ男性と結婚する気になるのはなぜか。
それは次のように教え込まれているからである。
「人間の堕落におけるアダムとエバが、韓国と日本の立場であるとされる。堕落エバはアダムに「負債」があるため、日本が韓国に「侍り」、人材と資金の供給を担うのは当然とされる。とりわけ、「エバ国家」のエバたる日本人女性が合同結婚式において、韓国男性と祝福を受け、韓国で生活することが好ましいとされ、韓日の国際結婚によって、両国の「恩讐が清算される」といわれている」

ところが、信仰のある夫や舅姑はほとんどいないし、信仰を持っていても熱心ではない。
韓国では「日本でのような体系化された教化プログラムで原理を学ぶこともなければ、献身することもない。献金や布教が強要されるわけでもない」からである。
「献金や家庭での信仰実践も厳密なものではなく、行わなかったとしても咎められることはない」
というわけで、韓国では日本でのように心身をすり減らすことはない。

しかし、「生活が楽でないことは自他共に認めるところである」
収入が不安定な中で、舅姑に仕え、問題ある夫には逆らわず、夫が失業したときには自分が働いて支える。
「韓日祝福家庭は、教義上は理想家庭とされながら、実際は日本人女性達が経済的・精神的にぎりぎりの生活を続けている。その暮らしを甘受させているのが、女性は人類を堕落させたエバという教説と、日本は朝鮮半島を植民地支配したという歴史である」

『本郷人』という韓国の日本人信者向けの新聞に出された「しあわせいっぱいになる本郷女性講座」にこんなことが書かれてあるそうだ。

夫が酒を飲む、殴る、教会に来ない、学歴が低いなどの問題点について「今のような事情を抱えるようになった背景をまず知らなければなりません」と説き、「お酒を飲むようになってしまった背景にも、私の国と私の先祖が関与していることは、はっきりと知らなければならないのです」と日本の植民地支配に原因があるとする。
「日本人は、かつて韓国を侵略し、植民地にした。従軍慰安婦や強制連行で、韓国の人々特に女性達にたくさんの苦しみを与えた。その従軍慰安婦や強制連行された女性の霊が日本人女性に乗り移っている。だから、日本にいる悪霊は、他の国の悪霊よりも恐ろしい」

日本人妻たちは「信仰があるから夫や生活に我慢してやっていける」と明言する。
その信仰とはどのような信仰か。
「一つは理想世界「地上天国」の実現であり、もう一つは罪の清算である」

罪の清算は統一教会の言葉でいえば「蕩減」である。
「罪とは何か。それは原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪という四つである。「堕落論」によれば、原罪はアダム、エバの堕落によって人類全てが受け継いだ罪、遺伝罪は先祖が犯した罪、連帯罪は国家や民俗などが犯した罪、自犯罪は自分が犯した罪である。このうち原罪は祝福を受けることによって清算される。残りの三つ、遺伝罪、連帯罪、自犯罪は善行の積み重ねによって清算しなければならない。日本人女性信者達の韓国での生活はこの三つの罪の清算のためにある」
これはオウム真理教の説くカルマの法則と同じ考えである。
つまり、統一教会で言う罪とはカルマ(業)である。

ただし、自分が作ったカルマだけが問題になるのではない。
日本人が作った罪(=カルマ)の報いが、韓国人の夫が仕事をせず、酒を飲んでは妻を殴ることなのだから、日本人妻にとってはそれに甘んじることが罪の清算(カルマ落とし)になる。
離婚や脱会して韓国の生活をやめることは蕩減が重くなるので、地獄で永遠に苦しむ。
どちらを選びますか、という話になり、女性信者は苦しくても韓国にとどまり、無原罪の子どもを産むほうを選ぶ。

「在韓の日本人信者は、苦労を地上天国のため、霊界で幸せに暮らすためには必要な宗教実践と受けとめて暮らしている」

米本和広『我らの不快な隣人』に、韓国の農村で暮らす日本人女性信者が紹介されているが、よほど恵まれた人たちだと思う。

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櫻井義秀、中西尋子『統一教会』3 霊感商法・祝福

2012年04月02日 | あやしい教え・考え

・霊感商法
『統一教会』によると、統一教会の霊能師に霊能はない。
「彼らは上司により、いかにも霊能師役がはまりそうな信者として各部門から選抜され、霊能師としていっぱしの口上をゲスト相手に操れるよう訓練された」

姓名判断や家系図診断によって印鑑を販売するマニュアルより一部引用
 アプローチ
断り文句「恐いから興味がない」
応酬話法「知らずに大きな石につまずくよりも、知っておけば大難が小難に、小難を無事に過ごすことができます」

 ニード・ストーリー

断り文句「何回も見てもらった。印鑑は作った」
応酬話法「易は何回見てもらっても、見てもらえば見てもらうほど運勢が良くなっていくものなんです」

 姓名判断

当たれば「今日初めての出会いですが、……が分かります。不思議でしょう」
外れれば「そうですか。しかし、将来、……していかなければならない宿命にあります」

 商品「三宝印」の紹介

「魂体(実印)、財体(銀行印)、霊体(認印)が必要です。用途別に使うことによって○○さんの運勢が彫り込まれており、三本揃って百パーセントの開運があるのです」

 値踏み

「○○さん、高島易断をご存じですか。実印一本が30万円もしますよ。あそこは鑑定料がかなり高いですからね」

 クロージング

「相談する」「もう少し先で」→「私が先ほど言いました運勢どおりになってから気が付く訳です。事が起こってから間に合わないものもあります」
「お金がない」→「この運勢を見るとあるとはいえませんね。しかし、卵が先か鶏が先かの議論ではないですが、まず、この運勢を変えないと」

統一教会の信者は霊能師に騙されて入信し、そうして今度は自分が霊能師になって人を騙す仕組みになっている。


霊能師たちは悪いことをしているとの自責の念はないのか。

(1)霊能師はラインの流れ作業に従事しているにすぎない。
(2)霊能師は感情移入しない。いちいちゲストに心が入ればやっていけない。
(3)霊能師はメシアの代理にすぎない。責任はメシアに委ねている。
「自分で判断も意志決定も行わず、組織的にあてがわれた役割を忠実に遂行する。ふだん人間的な感情は豊かなのだが、自分の思いと組織的指令が齟齬を来したときに、組織を優先する」

こうした自己正当化は悪徳セールスもそうだし、戦場における虐殺、掠奪などにも通じる心理状態のように思う。
高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』に、広島への原爆投下を前に、出撃する乗員に対し行なったミサでの牧師の言葉が引用されている。

私たちは祈ります
戦争の終わりがくることを
私たちは知っています
まもなく地球上に平和が訪れることを
出撃する爆撃機の乗組員たちに
神のご加護がありますように
そして彼らが無事に任務を終えることができますように
私たちは神を信じて出撃します
神が私たちを永遠に見守り続けてくださいますように
キリストの名のもとに長崎放送『神と原爆』より)

原爆を投下することで十万人もの市民を殺すことになるが、気がとがめることはない、神の御心にかなうことをするんだから、という理屈は、嘘をつき脅して大金を巻き上げることを正当化する霊感商法と同じである。

・祝福
統一教会における信仰の目的は祝福(合同結婚式)によって無原罪の子どもを産むことである。
祝福のあとすぐに一緒に生活するわけではない。
聖別期間(40日から3年)があり、それから三日行事という儀式がある。

三日行事式次第から一部引用
〈第一日〉
 (六)女性上位で愛の行為。[女性は白いネグリジェ]

〈第二日〉第一日と同様

〈第三日〉

 (六)男性上位で愛の行為。
三日行事失敗の対処法から一部引用。
体位 ①一日目、二日目、男性上位で行った。②三日目に女性上位で行った。
A.一日目、二日目は女性上位で行う。(一瞬でも逆転してはならない。)
愛の行為 挿入しなかった。
挿入して射精することが原則だが、それが困難な場合、最低挿入しなければならない。

「祝福の儀礼をつぶさに観察すれば、教祖が信者個々人と霊的な性関係を結び、夫婦もろともに性の根幹部分を握られたのではないかと推測する」

こういうこだわりはなんだかエロい。

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