三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

橋本毅彦・栗山茂久編著『遅刻の誕生』

2017年01月31日 | 

1857年から2年間、長崎海軍伝習所に滞在したオランダ人のウィレム・カッテンディーケは、『滞在日記抄』の「日本人の性癖」という一節で「日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ」と書いている。

修理のために満潮時に届くよう注文したのに一向に届かない材木、工場に一度顔を出したきり二度と戻ってこない職人、正月の挨拶まわりだけで二日を費やす馬丁など。
カッテンディーケの悩みは幕末から明治初年に日本に到来した外国人技術者にとっての共通の悩みだった。
日本人労働者の勤務ぶりにしばしば業を煮やしたが、その主たる原因は、日本人が時間を守らないこと、まるで時計の時間とは無関係に物事が進行する日本人の仕事ぶりだった。
現在の日本人が当然のこととしている時間厳守の行動様式が、明治初期にはほど遠い状態だった。

『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』は、いつごろから、どういう経緯を経て時間規律を身につけるようになったのか、様々な論点から12人の方たちが論じています。


まずは不定時法と定時法について。

定時法とは、時計の進み方に合わせて一日を等分する。
不定時法では、昼間の時間と夜間の時間をそれぞれ等分して時間を計測した。
日の出時を明け六つ、日没を暮れ六つとし、昼と夜をそれぞれ六等分する。
季節によって昼間・夜間の長さが異なるので、一刻の長さも昼と夜とでは違ってくる。
時間の認識は、一刻、すなわち2時間を分割した30分程度がいいところだった。

ヨーロッパの広場の時計が文字盤の針の連続的な動きを見せて、民衆はいつでも時刻を知ることができたのに、日本では日に数回鳴る鐘や太鼓の音によって間欠的に知らされるだけだった。
明治以前の「刻」は、切れ目のはっきりしない、漠然とした幅のある「時間帯」として意識されていた。
だから明治の職人たちは、時計が指す7時に集合するようにと指示されても、ピンと来なかった。

日本では季節による昼夜時間差はそれほど大きくないが、ヨーロッパでは冬至と夏至には昼夜の時間差が10時間にもなるので、自然の昼夜と労働や社会活動の時間を一致させることができなくて、年中同じ時刻を用いる定時法が適していた。

西洋では機械時計が14世紀に登場し、15世紀には定時法が普及した。

18世紀には労働における時間規律が励行されるようになった。
産業革命とともに、機械の指導時間に合わせて、作業者も工場に来て仕事を開始することが強制されるようになり、さぼることや遅刻が厳しく罰せられるようになっていく。
19世紀における鉄道の普及も、定時運行のために時間規律を励行させ、各地の時間を同期させた標準時の制度を誕生させた。

では、いつから日本人は時間規律を身につけるようになったのか。

鉄道、工場、学校、軍隊において時間規律が定着した。

海軍兵器局の工場では、1875(明治8)年、午前7時30分が始業だったが、労働者は6時30分までに工場に到着することを要求されていた。

季節によって変化する一刻単位の時の鐘でしか時間を知ることができない時間感覚になれた労働者に分単位での時間厳守を期待することはできず、定時始業は労働者を待たせるということで解決された。
官の工場では、労働者が官員に迷惑をかけないように待つのが当然とされた。

1883(明治16)年には、起業時間が冬期だけ30分繰り下げられ、朝の待ち時間がなくなった。

汽笛によって時間を知らせるようになった。
しかし、起業時間までに門を通ればいいから、作業開始時間が確定できない。

1886(明治19)年には、7時の入門報鐘と同時に閉門することになったため、7時10分の起業時間に一斉に作業を開始することができた。
このころから、定刻に遅れることはいけない、という認識が生まれたということでしょうか。

一連の変化を通じて言えることは、労働者側の時刻認識の深化である。1875(明治8)年には、せいぜい「6時の鐘を聞いて家を出てくる」程度の時刻認識しか要求していない一方で、6時半から起業30分前の7時までを遅刻許容時間帯として、この間の遅刻者の賃金を減額する。これによって、工場の操業には影響のない形で出勤時刻厳守の教育を行っていたと評せよう。1883(明治16)年には15分前の汽笛を報時手段として工場の時刻体系によって出勤を促すが、15分までの遅刻を想定し、賃金減額で対応する。そして1886(明治19)年には、報時体制は前同様でありながら、門を閉じることで遅刻者を排除する。排除できるということは、それが工場の操業に支障をきたさない程度に少なかったことを意味しよう。明らかに、労働者たちは時刻を守るようになってきたのである。


1888(明治21)年に柱時計の生産が始まり、明治30年代以後はアメリカ製柱時計の輸入はほとんどなくなり、ドイツ製置時計の輸入も明治40年代には激減した。
掛時計・置時計は、1897(明治30)年には全国所帯の3分の1弱が、1907(明治40)年には7割以上の所帯に普及した。
腕時計・懐中時計は、明治末には全国民の1割、成人男子のみでは4人に1人が所有するまで普及した。
時計の普及が時間規律の定着にはたした影響は大きいでしょう。

とはいっても、庶民レベルでは時間規律の定着は遅れたそうで、鉄道は定時に運行されるはずだが、1900(明治33)年前後になっても、従業員の間で10分から20分の遅延は「一向平気」という認識が存在した。

驚いたのが、官員と労働者とでは就業時間の長さが違うということ。
1872(明治5)年、海軍省では夏季は8時から12時までの4時間勤務だった。
1873(明治6)年、海軍造船局は夏季短縮体制はとらないことになったが、それでも勤務時間は9時から15時までの6時間。
6時間は当時の中央官庁や県庁で一般的な勤務時間だった。
9時から17時までの8時間勤務になるのは、1886(明治19)年のことと思われる。

1922(大正11)年の閣令で定められた官公庁の勤務時間の規定。

4月1日から7月20日までは、午前8時から午後4時、
7月21日から8月31日までは、午前8時から正午まで、
9月1日から10月31日までは、午前8時から午後4時まで、
11月1日から3月1日までは、午前9時から午後4時まで。
土曜日は正午までの半ドン。
官庁での夏季の勤務時間短縮は昭和期までおよぶ。
公務員は遊んでいると誤解されているのはこういうところから生じたんでしょうか。

伍堂卓雄は1924(大正13)年の講演会で、よく働く者、中位の者、あまり働かない者の実働時間を調査すると、10時間制の職場において、優良者の平均実働時間は8時間14分、中位者は7時間40分、劣者の平均は6時間24分、もっとも悪かった者は3時間49分だったと披露している。


明治から大正にかけての調査によると、紡績工場での欠勤率は、4月は多くの職工が出勤し、8月が休みが多い。

その差は20~30%にもおよぶ。
工場の長時間労働が、職工が時間の規律を守らない、就業前の身支度に時間がかかる、マイペースで作業をこなす、作業中に雑談をするといった悪循環の関係になっている。

もう一つ、国民の実生活では、西欧化は遅々としていたということ。

明治・大正時代までは、和食・和装・そして日本家屋が生活の基本だった。
昼間、西洋館の中で洋服を着て働いていた役人や会社員も、家庭に帰ると着物に着替えて畳に座って、米のご飯を食べていた。

1900(明治33)年ごろまでは、都会の男子の外出着の一部が洋服になったに過ぎず、1930(昭和5)年ごろにも農村は全部和服で、都会でも洋服が優勢になったのは男と子供の外出着のみで、女は基本的に和服の生活をしていた。
では、女性の洋装化はいつごろからなのか、興味のある問題です。

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高い自己評価 否定には反論

2017年01月28日 | 日記

リチャード ・リンクレイター『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』は、大学の野球部の寮での馬鹿騒ぎを描いた映画。
みんな極端なほど負けず嫌いで、卓球で負けると怒り出し、ラケットを投げつける。
自分がいかにすぐれているかを得々と語る。
自分の非を認めず、相手を攻撃し続ける。
映画だから笑ってみてるけど、そういう人が周りにいたら、あまりつき合いたくない。
プロ野球を目指す選手たちだからなのか、それともアメリカ人はそういう人が多いのか。

知人の話だと、日米の違いは言葉も影響するらしいです。
英語は主語の次に述語が続くが、日本語は、述語が一番最後になる。
日本語では、人の顔色を見ながら最後の述語で全く反対のことが言えてしまう。
たとえば、「今日私は花火に行きたい/行きたくない」という文章。
周りの人がどうも行きたくなさそうだったら、自分は本当は行きたいのに、「行きたくない」って言えてしまえる。
でも、英語の場合は、「私は」の後にすぐ意思表示しないといけないので、人の顔色なんて見る余裕はない。
英語と日本語の構造から来る国民性の違いということで、知人の説明になるほどと納得しました。

では、何を自己主張するか。
自己正当化と自己優越性だと思います。
自分がいかにすぐれているか、『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』では子供のように自慢してますが、その点ではトランプ大統領も伝統的なアメリカ人といえそうです。

米大統領就任1週間 トランプ発言、理屈無視
高い自己評価 否定には反論
「数日で過去にないほどのことをやり遂げた」。トランプ大統領は26日、共和党の会合で就任7日間で着手した政策を紹介し、拍手に対し満足そうにうなずいた。こうした自画自賛も「トランプ・スタイル」の特徴だ。その高い自己評価が傷つけられたと感じると、攻撃性が強まる傾向が浮かぶ。最近顕著なのが、20日の就任式の参加者数と、昨年11月の大統領選での得票数で示す「こだわり」だ。
米メディアは過去最多の180万人を集めたとされる8年前のオバマ前大統領の就任式の写真と比較して、今回の参加者数は大幅に少なかったと報じた。トランプ氏は21日、「150万人ぐらいに見えた」と人気を強調。スパイサー報道官に「報道は間違い」と強弁させた。トランプ氏は25日のABCテレビのインタビューでも「テレビなどを含めた合計は史上最大だ」と「1番」を主張し続けた。
得票数では、民主党のクリントン候補に約280万票の差をつけられた。選挙からは2カ月以上が経過したが、今月23日の議会指導部との非公開の会合で改めて「300万から500万票」の違法な投票があったと根拠なしに主張。ABCにも「違法な投票をした人たちは全員、ヒラリー(クリントン氏)に投票した」などと話した。25日には「不正投票について大がかりな調査を依頼する」とツイート。近く大統領権限で調査を命じる見通しだ。
トランプ氏が10代に通った「ニューヨーク軍事アカデミー」の恩師は「何でも1番になりたいと思う生徒だった」と振り返る。ニューヨーク市立大学のサンフォード・シュラム教授(政治学)は、「幼稚で、人々が自分を偉大だと思ってくれないとうそをつき、攻撃する。気質的に大統領に向いていない」と指摘している。(毎日新聞1月28日)


別の知人と話をしてて、日本人はすぐに「すいません」と言うが、アメリカ人は謝ることをまずしないから疲れると言ってました。
その知人が知っている日本在住のイギリス人は、電話をするとまず「sorry」と言うそうで、そのためか日本になじんでいるいるそうです。
たしかに「すいません」と「どうも」で会話は成立するというのは楽です。

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青木理『抵抗の拠点から』

2017年01月20日 | 

青木理『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』は、朝日新聞の慰安婦報道へのバッシングをめぐる考察や、朝日新聞記者へのインタビューをまとめたもの。

「週刊文春」2014年2月6日号に植村隆氏は慰安婦問題について捏造記事を書いたという記事が載り、バッシングが始まった。
朝日新聞は8月5日6日に慰安婦問題報道に関する検証記事を掲載し、9月には社長が記者会見したが、朝日新聞や植村隆氏への攻撃は収まらなかった。

植村隆氏は1991年8月と12月に、はじめて名乗り出た元慰安婦の証言を最初に報道している。
しかし、続けて報道した北海道新聞や読売新聞など他のメディアは問題にされず、2本の記事を書いただけの植村隆氏だけが常軌を逸した攻撃を受けた。

新聞や週刊誌では、「国賊」「反日」「国益を損なった」「日本人をおとしめた」などの言葉が使われたし、ネットではもっともっとひどい。

なぜか。

狙いは朝日叩きにこそあるのであって、それを表象する者の筆頭格として、または分かりやすい物語の持ち主として、植村氏に低劣な攻撃が押し寄せてきた。


ウィキペディアの「植村隆」の項に、植村隆氏が文藝春秋社と西岡力氏に損害賠償を求めたとあります。

植村は自身が関わった記事を「捏造」と決めつけたとし週刊文春の発行元である文芸春秋社と記事を執筆した西岡力(東京基督教大学教授)に対し1650万円の損害賠償などを求める訴えを東京地裁に起こし、司法記者クラブ 東京都内で記者会見した。植村は、23年前に自分が書いた2本の記事が「捏造」と批判され続け、その結果、家族や周辺まで攻撃が及ぶとし「私の人権、家族の人権、勤務先の安全を守る」と訴えた。
(略)
裁判で被告である西岡力と文芸春秋社側は、「捏造」と書いたことについてそれを「事実である」と主張せず、「意見ないしは論評である」と答弁書で主張した。原告側弁護士の神原元は、「「捏造だ」は「事実の摘示」ではなく意見ないしは論評である」という第2回口頭弁論の被告側の答弁は、「捏造論が事実でないと認めた」に等しく、真実性を主張できない以上、「植村はすでに勝利したに等しい」と主張している。


植村隆氏の娘への中傷に対しても訴訟を起こしています。

Twitter上に植村の娘の名前と写真を晒し、中傷する内容の投稿をした事件では、Twitter社、プロバイダに対し、発信元の情報を開示するよう求める訴訟などで投稿者を特定し、2016年2月に提訴。同年8月、東京地方裁判所は関東在住の40代男性に対し、「父の仕事上の行為に対する反感から未成年の娘を人格攻撃しており、悪質で違法性が高い」と指摘し、請求どおり170万円の賠償を命じた。慰謝料請求額100万円に対し、裁判長は200万円が相当だとも述べた。


松本サリン事件でマスコミから犯人扱いされた河野義行さんは、「週刊新潮」だけが謝罪しなかったと講演で話されていたのを思い出しました。

植村隆氏へのバッシングは個人の問題にとどまりません。
これによって慰安婦問題などなかったとされかねないし、メディアは非難・攻撃を怖れて萎縮するようになります。

吉田清治氏の証言が嘘だからといって、日本軍の関与による不当な募集や、強制的な管理・運営があったことは事実
ところが否定派は、吉田証言はでっち上げだ、だから強制連行もなく、慰安婦問題は作られたものだと主張する。

そして、日本の負の遺産を伝えようとすると、猛烈な罵詈雑言の対象となってしまう。

メディアが自国の負の歴史や戦争責任を追及するのは当たり前のことだし、かつては当たり前のように行われてきたのに、最近はまるで異常なことのように認識され、批判の対象とされてしまっています。


小田嶋隆「表現の自殺」(「アンジャリ」32号)にこのように書かれています。

戦前の最も言論弾圧の厳しかった時代でも、当局が新聞社や出版社に直接的に介入する形で表現の改変を求める事例は、ごく少数に過ぎなかった。(略)
実態としての言論弾圧は、媒体や著者が当局や政府の意図を「忖度」して、あらかじめ自らに課したもので、その意味で、ほとんどの例は、形の上では「弾圧」というようりは「自粛」だった。

読売新聞や産経新聞は朝日新聞を叩くことで、メディア全体を叩き、自分で自分の首を絞めているわけです。

「週刊現代」2014年10月11月号のトップ記事《世界が見た「安倍政権」と「朝日新聞問題」》に、日本では大半のメディアが朝日叩きに狂奔しているが、〈世界の潮流〉は違うと書かれ、各国のメディア人や知識人らの声を紹介している。

『フィガロ』の東京特派員
安倍首相を始めとする日本の右傾化した政治家たちは、「朝日新聞は国際社会における日本のイメージを損ねた」と声高に叫んでいますが、事実は正反対です。仮に、日本の全メディアが産経新聞のように報道してきたなら、今頃日本は国際社会において、世界のどの国からも相手にされなくなっていたでしょう。


後藤正治『天人 深代惇郎と新聞の時代』深代惇郎がロンドン特派員時代に書いた文章が引用されています。

英国国営放送BBCの社長の言葉
BBCも体制の一翼だ。しかし、われわれの体制とは、自分に敵対する意見を、常に人びとに伝え続けねばならないことだ。それが民主社会だと思っている。


青木理氏は「現在の日本では「政治が右と言うものを左と言うわけにはいかない」と言い放つ人物が公共放送のトップに座っている」と皮肉っています。

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高島幸次『奇想天外だから史実』

2017年01月15日 | 

高島幸次『奇想天外だから史実』は、菅原道真と天神信仰についてあれこれと書かれています。

全国に神社は約8万社ある。
1位が八幡信仰系で7817社、2位の伊勢信仰系が4425社、3位が天神(菅原道真)を祀る天神信仰系で3953社。

八幡神と天神は、成立期には神仏習合のもとに生まれた反国家的な祟り神だった。
八幡神は天応元年(781)に朝廷から宇佐八幡宮に八幡大菩薩という神号が贈られて全国に展開し、9世紀中ごろに八幡大菩薩は応神天皇の神霊だと理解されるようになる。

天神信仰の祭神は菅原道真で、菅原道真の没後半世紀たって天神信仰は成立した。
本来の神祇信仰には、没後の人間が神々に並んで神になるという発想はない。
仏教が伝来すると、人間である釈尊が仏陀になるという発想が伝えられた。
人間である菅原道真を神として祀ることは、仏教の影響なくして絶対になかった。

平安時代の御霊信仰が天神信仰を生む土壌だった。
御霊信仰は実体の明らかではない怨霊に対する畏怖である。

折口信夫は、不完全な死、中絶した生(事故死・自殺・他殺、横死・不慮の死・呪われた死・志半ばでの死・この世に思いを残した死・怨みの残した死など、水子・子供)の場合は不成仏霊となると書いています。
だから、御霊信仰とは菅原道真や平将門のように恨みを残して死んだ霊魂を祟り神として祀ることだと、私は思ってましたし、このブログでも書きました。

ところが、本来、御霊信仰の神は人間ではないわけです。
特定の歴史的人格に結晶した怨霊に対する畏怖が一般的になったのは、道真の神格化を契機としてだというのですから、いやはや。

政争の犠牲になった者の霊が災いをもたらすという怨霊思想によって、病(特に疱瘡)の流行を怨霊の仕業だとする風潮があった。
天変地異をもたらす怨霊への畏怖は鎮まることはなく、菅原道真の怨霊が天変地異から救ってくれる新しい神への希求と結びつき、菅原道真を神とする天神信仰が成立した。
疱瘡を代表とする様々な不安に応える新しい信仰の形成過程で道真を祭神にすえた。

・道真の怨霊を鎮める
・道真を神として祀る
この2つによって天変地異を避けようとしたのが、そもそもの天神信仰だそうです。

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郷原信郎・森炎『虚構の法治国家』

2017年01月10日 | 死刑

『虚構の法治国家』は元特捜検事の郷原信郎氏と元裁判官の森炎氏の対談。
検察と裁判所を批判しています。

日本の刑事司法の主役は検察で、検察が刑事司法を完全に仕切り、裁判所は検察に大きく依存している。
事実上、有罪・無罪も検察が決め、刑事司法のすべてを実質的に支配する。

○なぜ有罪率が99・957%(1997年度)、勾留決定率が99・9%(1997年度)と高いのか

郷原「検察には、99・9パーセント有罪が異常だという認識はないでしょうね。むしろ、検察から見れば、それは検察の起訴の判断の的中率ですから、高ければ高いほど良い」

有罪率99・9パーセントは捜査の優秀さを示すものとは必ずしも言えず、人質司法、虚偽自白、裁判官の有罪判決へのモチベーションなどの矛盾と仕組みがある。

① 人質司法

郷原「日本の場合、犯行を認めていないと罪証隠滅のおそれがあるという理由でいつまでたっても保釈が認められない。犯行を認めない限り身柄を拘束し続けるということになります」
森「そして、認めれば、それが有罪方向の証拠になるのですからね。「犯行を認めない限り勾留する、認めれば保釈する」というやり方は、一種のパラドックスを含んでいます」
郷原「長期の身柄拘束に耐えきれず、身柄を解放してもらおうと思って認めたら、それが有罪方向の証拠になってしまう」
森「人質司法は、容疑を認めない限り身柄を拘束して、潔白を主張し続けるだけの気力を奪おうとするものです。有罪率99・9パーセントは、それがもたらした結果ではないかと疑われるわけです」
郷原「そもそも、そういう人質司法というやり方が、日本で、なぜさしたる批判もなくまかり通ってきたのかと言えば、そこには先ほど言った「犯罪者の烙印」との関係があると思います。起訴されても裁判で有罪が確定するまでは「無罪の推定」が働いているはずなのに、実際には、99・9パーセントの有罪率の下で、検察官の判断が、事実上、裁判所の司法判断と重なり合っているため、社会的には、起訴によって被告人は事実上「犯罪者」として取り扱われます。(略)人質司法というやり方が許容されてきたのも、起訴によって「犯罪者としての烙印」が押されているのに反省悔悟することもなく犯罪事実を否認する被告人は、社会から隔離しておくのが当然だという考え方があるからだと思います」


以前、交通事故を起こしたことがあります。
幸いにも相手の方は軽傷だったのですが、その場で取調、調書の作成がありました。
私としては、この場からとにかく早く立ち去りたい気持ちでいっぱいでした。
警察に逮捕され、留置場や拘置所に勾留されていたら、ここから出るためだったら嘘でもなんでもつくと思いました。

② 虚偽自白
否認していたらいつまでも保釈が認められないため、保釈をもらうために虚偽の自白をすることがある。

森「市民の自由にとって深刻な病理が法権力によって生み出されています。重罪の虚偽自白にまつわる問題です。冤罪の最も大きな原因に、無実の者がしてしまう自白、つまり「虚偽自白」があると言われています。なぜ、虚偽自白が生ずるのか。無実の者が自白してしまうというような事態がどうして生ずるのかと言うと、それは、いま出てきた人質司法が関わっているわけです」
森「取り調べの具体的な現象としても、見過ごせない問題があります。自白しない被疑者の取り調べでは、必ずと言ってよいほど、「いつまでも争っているより、認めて刑を軽くしてもらったほうがいいぞ」という説得をするでしょう。そして、日本の刑事裁判では、争って有罪と判断された場合より、罪を認めていた場合ほうが判決で刑が軽くなるのは事実ですよね。だから、いま述べたような捜査官の説得は、虚言を弄して自白させようとしているわけではないから、取り調べとして当然のように適法とされています」


以上は比較的軽い罪の場合によくみられることで、死刑も予想されるような重罪の場合にはあまり効果がない。

森「死刑などが予想される重罪の場合には、冤罪を主張する者に対して「言い分は、公判になってから裁判所で言えばよい」と、あたかも裁判所では、その言い分が十分に取り上げられるかのように説得して、調書に署名させる。そういうやり方を取ることもあるでしょう」
森「おまけに裁判所は、「死刑になるかもしれないような重大事件について、実際にはやってもいないのに自白するはずがない」という論法を平気で使います」



③ 裁判官のモチベーション

郷原「検察の主張よりも、もっと精密で巧妙な論理構成で有罪判決を書くということですね」
森「証拠は不十分な場合にも、「証拠は十分ではない。しかし、それをうまく有罪構成できないか」という意識が必ずと言ってよいほど働くのですね」


○なぜ冤罪事件が起きるのか
無実だから否認しているのに、否認しているから反省していないと見なされるというのも怖い話ですが、もっと話は怖くなります。

森「日本の冤罪事件の特徴として、私がとくに取り上げたいのは、日本の冤罪は、誤判というより、冤罪性をわかったうえで有罪にされている疑いがあることです」
郷原「日本の冤罪事件は、過失ではなく故意だと。裁判官は冤罪だとわかっていて有罪判決を下しているということですか」
森「明確な無実を有罪にしているというのではなく、もしかしたら無実かもしれないと思いながらもそうしている司法の現実を言っているのです」


森炎氏は冤罪は作られるということを、帝銀事件、財田川事件、袴田事件などから説明しますが、それは省略。

「FORUM90」VOL.150に、袴田事件の弁護人である小川秀世弁護士のこういう話が載っています。

静岡県警は袴田巌さんにトイレにも行かせないで取調べをし、どうしてもトイレに行きたくなったら、取調室に便器を持ってこさせた。
取り調べた警察官は法廷で「あれは、マスコミがたくさん来ているから、ここで用を足したいと、袴田さんから要望があった」と話している。
ところが、袴田巌さんの取調べテープが出てきて、それには松本という警察官が「ここでやらせろ」と指示をしている場面が録音されている。
法廷で警察官は偽証したのである。

味噌樽から発見された5点の衣類によって袴田巌さんは犯人とされたが、このズボンを袴田巌さんははけなかった。

このことについて裁判所は「B体の太めのズボンだから、もともとははけたけれど、味噌で縮んだ」とした。
ところが、この「B」とはメーカーがつけた色の記号だったことが、証拠開示でわかった。
検察は今までずっと隠し、「B」はサイズの記号だと嘘をついていた。
死刑事件なのに、警察や検察は証拠を隠し、嘘をついてきたのである。

最高裁で袴田事件の調査官をした渡部保夫氏に、小川秀世弁護士が5点の衣類はこういう意味で捏造ではないかと話したら、「小川君、警察はたまには証拠を偽造することはあるけれども、こんなに大がかりな捏造をすることがありますか」と反論した。


一次再審請求の東京高裁の裁判官は、再審について書いた論文の中で、記録を検討したら誤判であることがわかった、しかし新証拠がない、そういう時にどうするか、という問題提起をし、「これまた人間の営為としてはいかんともしがたいものである」と書いている。


袴田巌さんは無実だと知っていながら放置したわけです。
これで袴田巌さんの死刑が執行されていても、仕方ないですますのでしょうか。

郷原「なぜ、そういうことになってしまうのか。森さんはどう思いますか」
森「どうして裁判官がそこまで冤罪性を軽視することになったのかと言えば、戦前の治安維持法で思想弾圧に加担したことが影響していると思います」
裁判所は片っ端から有罪にしていったわけで、冤罪性に無感覚になる。
森「私は、日本の裁判所の基本姿勢は、社会一般から批判を受けるような事態になるまでは冤罪にはぎりぎりまで目をつぶる。そして、裁判所までが批判の矢面に立たされそうになったら、捜査機関のせいにして冤罪を認めるというものだと考えています」


このように森炎氏は言うわけですが、裁判所が再審を認めることはほとんどありません。
無実の罪を着せられるのは他人事ではないし、無実だと証明することは難しい。
ため息の出るような対談でした。

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