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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

元局長、無罪の公算…部下の供述調書不採用 2

2010年05月31日 | 厳罰化

尾形英紀死刑囚の供述調書が警察と検事の作文だということ、共犯に無理矢理サイン、指印をさせたということ、尾形死刑囚の調書は最後のページのサインがあるところ以外を差し換えたということなど、ほんまかいなという話ではあるが、青木理氏が尾形英紀死刑囚に出した手紙への返事には、そこらのことが詳しく説明されている。

「俺の調書には、サインした時の内容と全く違う事(否定した所が認めていたり)が書いてありました。それは何でかと言えば、俺が事実と違うから認めなかったので、それでは都合が悪いから、サインのある最後のページ以外は俺のいない所で差し換えたのです。共犯の2人については、事実と違うけど、しつこくサインしろと言われたり、もう作られてしまったからサインしなければいけないものだと思ったと裁判で証言しています。
 しかし、裁判では被告人の言う事より検察の言うことの方を無条件で信用されるのだから、警察・検察はいくらデタラメな事をやっても平気なのです。所詮、裁判官も役人、役人どおし助け合うのです。
 俺の調書で、検事調べをやっていない日の調書がありました。調書を差し換えた時のミスが日付に出たのです。まともな裁判なら、どっちの言い分が正しいのか調べるのではないですか。まったく不公平で司法の無能さがよく分かり、検事の犬になり下がった裁判官どもは人を裁く権利はありません。
 俺は死刑になりたくないとは1度も思った事はないので、自分が不利になるのを承知で殺意をもった時点を証言しました。それを、調べた刑事が証人尋問で認めました。刑事が俺の供述と調書の内容が違うと証言したのです」
(青木理『絞首刑』)

厚労省郵便不正事件でも、村木厚子被告の部下である上村勉被告が村木被告は無関係だと裁判で証言し、上村被告のノートが証拠採用されているわけで、尾形英紀死刑囚の言ってることがでたらめとは言えないと思う。

冤罪はこう作られる」 元係長、被疑者ノートに…郵便不正公判
 郵便不正事件に絡み、偽の障害者団体証明書を発行したとして虚偽有印公文書作成などの罪に問われた厚生労働省元局長・村木厚子被告(54)の公判は25日午後も引き続き大阪地裁で行われ、弁護側が、元係長・上村勉被告(40)の被疑者ノートに基づいて証人尋問を行った。ノートには「調書の修正はあきらめた」「冤罪はこうして作られるのかな」などと取り調べに対する不満が記されており、法廷で上村被告は「(村木被告の指示を認めないと)死ぬまで拘置所から出られないのではと思い、怖かった」と当時の心境を証言した。
 上村被告は、捜査段階で「村木被告に指示され、証明書を作成して村木被告に渡した」と供述したが、24日の証人尋問で「独断で証明書を偽造し、自称障害者団体『凛の会』元会員・河野克史被告(69)に渡した」などと覆した。
 被疑者ノートは、弁護側が上村被告の弁護人から入手したもので、上村被告の逮捕2日後の昨年5月28日からほぼ毎日記載があった。調書で訂正が認められなかったことを書き込む欄には、「〈1〉村木被告の指示〈2〉村木被告に(証明書を)渡したこと」と記され、検事の取り調べについて「(調書が)かなり作文された」「もうあきらめた。何も言わない」などと書かれていた。
 弁護側は、ノートを法廷内のモニターに映し出して質問。逮捕数日後の「多数決に乗ってもいいかと思っている」という記述の真意をただすと、上村被告は「検事から『(村木被告の関与を認めないのは)あなただけだ』と言われ、自信をなくしていた。よくないことだが、『上司に言われてやった』という方が、世間が『仕方がない』と思ってくれるのではないかと考えた」などと答えた。
読売新聞2月26日

こんなすぐにばれるようなことを検察がするとは、あまりにもアホな話ではある。
まるっきり無実の村木厚子被告ですら、検察はでっち上げをして逮捕、起訴するのだから、殺人犯の尾形英紀死刑囚の供述調書を作文することなど不思議でも何でもない。
なぜ検察がそんなことをするのかというと、もしも尾形死刑囚が酒に酔った勢いで暴行し、衝動的に殺してしまった、しかもその間の記憶を失っているということになると、死刑判決が出ない可能性がある。
最初から殺してやろうと計画して実行したとなると、死刑は間違いない。

死刑について尾形英紀死刑囚はこう書いている。
「俺だって家族が殺されたら犯人を許す事はないし、殺したいと思うのがあたり前です。
 しかし、それでは、やられたらやり返すという俺が生きてきた世界と同じです。
 俺は、ただでさえ東拘には人権など全くないし、24時間カメラで監視され独房にいて、執行されるのを待っている中で事件や遺族・自分の家族の事を考えていたのでは気がおかしくなるし、ストレスだらけで、そんな余裕すら1秒もありません。
 俺のように反省する気がない死刑囚もいる中で、ほとんどの死刑囚は日々反省し、被害者の事も真剣に考えていると思います。そういう人達を抵抗できないように縛りつけて殺すのは死刑囚がやった殺人と同等か、それ以上に残酷な行為なのではないですか?
 俺が執行されたくないのではありませんが、その様な事などを考えれば死刑制度は廃止すべきです」

尾形英紀死刑囚の青木理氏への手紙には、なぜ反省する気がないかをこのように説明している。
「死刑を下すにあたり、検事も裁判官も反省の様子がうかがえないとか、更生の可能性がないとよく言います。そして、命をもって償うべきだと言います。それは俺にとって、反省する必要も更生する必要もない死ねと言っているとしか聞こえません」
「俺が心から反省し、自分のやった事に対して後悔し、二度と同じ過ちを犯さないと心にちかっていたとしても、俺の言う事を始めから聞く気のない奴らには反省しているようには聞こえるはずがありません。しかも無知な俺には言葉も知りませんから、申し訳ないとしか言葉も出ません。
 何が何でも死刑にしようとしている検事が反省しているのかどうかと様子を見たり、俺に話に耳を傾けますか?
 これは俺の事ではなく他の死刑囚の裁判のことですが、その人が裁判の時に頭をかいたらしいのですが、その仕草を見て「全く反省していない」と検事は批判し、新聞でも「反省の色がない」などと書いてありました」
「はじめのうちは心から反省していました。しかし裁判の中で被害者に対しての気持ちを言う機会は限られています。事件当時の尋問が多いからですが、自分の気持ちを言う機会があったので、申し訳ない気持ちと反省の気持ちを言い、席に戻る時に傍聴席にいる遺族に頭を下げました。しかし、その後の裁判の時に「死刑になりたくないためのパフォーマンス」と言われたので、何を言っても聞く気はないなと感じました。
 遺族にしてみれば当然の事だとは思いますし、何を言われても仕方のないことをしたのだとも思います。でも、検事に言われるのはやはり気に入りません。だから弁護人に何を言われても二度と頭を下げませんでした」

尾形英紀死刑囚の言っていることは自己弁護や責任逃れではないように感じる。
犯罪を犯したのには違いないが、事実を歪められて刑が重くなった受刑者、死刑囚はかなりいるんだろうなと思う。

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元局長、無罪の公算…部下の供述調書不採用 1

2010年05月27日 | 厳罰化

元局長、無罪の公算…部下の供述調書不採用
 郵便不正に絡み、自称障害者団体に偽の証明書を発行したとして、虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた厚生労働省元局長・村木厚子被告(54)の公判で、大阪地裁は26日、村木被告の指示を認めた厚労省元係長らの捜査段階の供述調書について、検察側の証拠請求を却下した。
 横田信之裁判長は「検事の誘導を受けた可能性が高く、(調書に)元係長の意思に反する内容が書かれた疑いがある」などと決定理由を述べ、取り調べに問題があったことを指摘した。
 検察側が「有罪立証の柱」と位置付けてきた調書が証拠採用されなかったことで、村木被告に無罪が言い渡される公算が大きくなった。(略)
 上村被告は今年2月の公判で、捜査段階の供述を翻し、「証明書発行は独断だった」と証言。「検事が調書の訂正に応じてくれない」などと上村被告が記したノートが証拠採用されていた。
 この日の公判で、横田裁判長は、ノートの記載が公判証言と一致することなどを挙げ、「調書は検事が想定したストーリーを基に作成した可能性が否定できない」とし、公判証言の方が信用性が高いと判断した。
 また、村木被告と共謀したとする倉沢被告の供述についても、「検事から厚労省関係者らの供述を聞かされた後に変遷しており、誘導を受けた可能性が高い」などと指摘した。
読売新聞5月26日

検察の取調がいかに無茶だったかを裁判所が認めたということである。
中国人2人が殺された福岡事件では、実行犯の石井健治郎さんが主犯とされた西武雄さんは無関係だと言っているのに、西武雄さんは死刑になった。
今回は無罪判決が出そうだが、それにしても
警察や検事の、無実だろうと何だろうと犯人にしてしまう強引さは、昔も今も変わっていないわけである。

それで思ったのが、青木理『絞首刑』にある尾形英紀死刑囚の手紙のこと。
尾形英紀死刑囚は2人を殺害、2人に重傷を負わせて、一審で死刑判決、控訴せずに確定した。

「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」が全国の死刑囚に出したアンケートの尾形英紀死刑囚の返信にはこうある。

「事件当時の俺は、かなりの酒を飲んでいたためと、あまりにも興奮していたので、ほとんど記憶がありません。ただ、あまりにも強烈な印象がある部分だけが、はっきりと記憶に残っています。
 しかし、それでは警察も検事も都合が悪いので、事件当日の行動のおおまかな所は、共犯の記憶などを総合して作り、もっとも大事な部分は刑事と検事が作りあげたストーリーが裁判で認められてしまいました。
 それは最初から殺害の話し合いをしてから殺しに行ったというのですが、全くのウソなのです。
 裁判では不利になるのは分かっていましたが殺意を持った事を認め、いつの時点で殺意を持ったかも証言しました。
 実際には暴行している時に被害者が死にそうになった時に始めて「それなら殺してしまえ」と思ったのです。(その時の精神状態では、そのようにしか考えられなかったのです。)
 それ以前は殺意はもちろん、死ぬ可能性すら考えもしませんでした。
 しかし、検事と刑事の調書には始めから殺意を持って行動したとなっていました。
 何でその様な調書になったのかと言うと共犯も証言していますが、共犯2人が事実と違うのは分かっていたけど無理やりにサイン・指印をされ、俺の調書は最後のページのサインがある所以外を差し換えられました。
 警察と検事はあたり前の様に不正をしているのが現状で、不正をかくすためには裁判の証人尋問で平気でウソをついています。しかも、裁判も全くの茶番で検事の言う事をすべて認定してしまいました。
 殺意についての証人尋問で刑事と検事の言っている事がくい違い、苦しまぎれに少しだけ、俺の言っている事が正しいと刑事が証言したにも関わらず、俺の言っている真実は都合が悪いから始めから聞く気がありませんでした。
 完全に結果ありきの裁判です」

精神鑑定についてはこのように書いている。
「一審で2度にわたり精神鑑定を受けました。一度目は裁判所が認定した先生でした。
 その先生はよく調べてくれ、調書よりも俺の証言の方が信用できると証言してくれました。それは俺の言っている方が精神学上もふくめて自然であり、しかも俺の証言は自分にとって不利になる事まですべてを言っているからです。その結果、部分的にではあるが(1人目殺害)責任能力が、いちじるしく低下していたと判断されました。
 その為に検事が納得せず2度目の鑑定となったのです。
 2度目の先生は検事の推薦した人であり、検事の犬になり下がった人でした。
 当時の俺の考えなどは1度も聞く事もなく、ただ事件の経過を聞いただけで、すべて検事や刑事の調書を参考に鑑定書を作ったのです。
 始めからやる気のない鑑定士を採用し、驚くことに裁判では、1度目の真面目にやった先生の鑑定を棄却し、やる気のない検事の犬の鑑定を採用したのです。
 俺は責任を逃れたいのではなく、今の日本の裁判や刑事や検事のやっている事が許せないのです。一般の人は信じないと思うけど、今の刑事は事件のでっちあげも日常的にやっているし、ましては調書の改ざんなんてあたり前にやっているのです。
 だけど無実を訴えても今の裁判では無罪になる事はないし、たとえ無罪を勝ち取っても年月がかかりすぎるから、懲役に行った方が早く出れるので、皆、我慢しているのです。
 俺の殺人などは事実は変わりませんが、事件の内容はかなりでっち上げなのです。だから俺は100%無罪の死刑囚は何人もいると思っています」

4人を殺傷した奴が何を勝手なことを言ってるんだという話になるが、しかし「事件当時の俺は、かなりの酒を飲んでいたためと、あまりにも興奮していたので、ほとんど記憶がありません」ということは嘘ではないように思う。
というのも、ブラックアウトといって、酒を飲んで記憶をなくす人は珍しくない。
尾形英紀死刑囚はアルコール依存症気味で、犯行の直前に酒を飲んでおり、あり得ない話ではない。
ネットで検索したら、共犯の「無理やりにサイン・指印」をさせられたという証言も作り話ではないように感じる。

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井上晴樹『旅順虐殺事件』

2010年05月24日 | 戦争

日清戦争の際、日本軍の旅順陥落のあと、日本軍による虐殺が数日間続いた。
この旅順虐殺事件を私はまったく知らなかった。

1894年(明治27年)11月21日、旅順が陥落した。
外国人記者の報道によって虐殺が世界中に知られ、日本政府は弁明を迫られる。
日本側の主張は何点かあるが、次の二点が主である。
・清国兵は軍服を脱ぎ、平服姿で市民にまぎれて抵抗した。
・日本兵捕虜の何名かが生きたまま火炙りにされたり、残酷に殺され、切り刻まれた死体を見て、日本軍は激昂した。
「(旅順)市街に突入した兵士は、三日前の十八日に土城子付近の戦闘で生け捕りにされた三人の日本兵の生首が、道路わきの柳の樹に吊されているのに、まず出合う。鼻はそがれ、耳もなくなっていた。さらに進むと、家屋の軒先に針金で吊された二つの生首があった。土城子付近での戦闘後、清国兵は残虐を極めて方法で傷をつけた第二軍兵士の死体を放置した。死者、あるいは負傷者に対して、首を刎ね、腹部を切り裂き石を詰め、右腕を切り取り、さらに睾丸などまで切り取り、その死体を路傍に放置したのであった」

報復したい気持ちはわかる。
しかし、日本軍は清国兵だけでなく、老人、女子どもを含む一般人も惨殺している。
井上晴樹氏は、大規模な虐殺が行われたのは上からの命令があったとしか思えないと推察している。
第一師団司令部付き翻訳官の向野堅一はこう語っている。
「騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口カラ石ヲ入レ或ハ睾丸ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪除セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨又惨、旅順港内恰モ血河ノ感ヲ致シマシタ」
山地元治第一師団長の命令によって一般人をも殺したわけだが、「婦女老幼ヲ除ク」ことはしなかった。
大山巌第二軍司令官も住民が殺戮に遭ったことを認めている。

11月22日の状態。
「積屍山の如く、郊の内外死軀累々として腥風鼻を衝き、碧血靴を滑らして歩行自由ならず、已むを得ず死人の上を歩めり」
法律顧問として従軍した有賀長雄は「死体ノ総数ハ無慮二千ニシテ其ノ中五百ハ非闘戦者ナリ」と書いている。
「そこには、至る所に死体があり、ことごとく、まるで獣に噛まれたように損なわれていた。商店の屋並みには、そこの店主たちの死体が道端に積み上げられていた。(略)首を刎ねられている死体もあった。首は二、三ヤード先にころがっていて、一匹の犬がその首を囓っていた。その様を歩哨が見て笑っていた。歯のない白髪の老人が、自分の店の入口のところで、腹を切られ、腸を溢れさせて死んでいた。男たちの死体の山の下には、苦悶と嘆願のないまぜになったような格好で、女が死んでいた。女や子どもの死体があった。(略)白い髭の皺だらけの老人が喉を切られ、また目と舌を抉り取られていた」
そういう状況なのに、ある軍曹は父親への手紙に「市街には敵の死屍山をなし居る様痛快の極に御座候」と書いている。

それでも、占領直後の虐殺ならまだ言いわけもできる。
しかし、虐殺は25日まで続けられたのである。
11月23日に旅順に入ったある士官の手紙によれば、
「市内は日本兵士を以て充満し支那人は死骸の外更に見当たらず此地方支那人の種子は殆んど断絶せしか」という状態だった。
ある上等兵が友人に出した手紙の一節。
「予は生来初めて斬り味を試みたることゝて、初めの一回は気味悪しき様なりしも、両三回にて非常に上達し二回目の斬首の如きは秋水一下首身忽ち所を異にし、首三尺余の前方に飛び去り、間一髪鮮血天に向て斜めに迸騰し」
捕まえた清国兵は捕虜にせず、殺している。
有賀長雄は外国人記者たちと会話の中で「私どもは、平壌で数百名を捕虜にしましたが、彼らに食わせたり、監視したりするのは、とても高くつき、わずらわしいとわかったのです。実際、ここでは捕虜にしてはいません」と言っている。
掠奪もなされた。
旅順陥落より前の平壌の戦いでも「平壌分捕の金銀十六函を大本営に廻致し」ているとのことで、軍をあげて組織的に強奪していたわけだ。

「タイムス」のコ-ウェン記者は「清国兵によって戦友を切り刻まれた兵士たちの激しい憤りに対しては、ある程度許容がなされるべきであろう。憤りは、完全に正当化される。つまり、日本人が憤激を感じたのは、しごくまともなことだ。しかし、何故、彼らは全く同じ方法で、憤りを表さなければならなかったのだろうか。それは、日本人の心が、清国人のように野蛮であるからなのだろうか」
と書いている。
野蛮なのではなく、戦争とはそういうものなんだと思う。
南京大虐殺肯定派の藤原彰氏は『中国戦線従軍記』に自分の戦争体験を書いている。
藤原彰氏は1941年に陸軍士官学校を卒業して、中国へ。
1945年1月、「小さなのはずれで、一人の若い中国兵に大声で話しかけられた。彼は部隊が後退するときに取り残されたらしく、寝呆けていたのかもしれない。何を言っているのかわからないが、私のすぐそばまで近寄ってきた。私は無言で、軍刀を抜いて、彼の肩に斬りつけた。しかしあわてていたのか刃が立たず、彼が厚い綿入れの服を着ていたこともあって、恥ずかしいことに軍刀は跳ねかえってしまった。結局彼の肩を殴りつけたことになった」
南京でも、あるいはイラクでもどこでもそうだが、戦争というものは人間性を失わせる。
ごく普通の庶民だったはずの兵士たちはいつの間にか死体を見ること、人を殺すことに慣れて、何とも思わなくなったのだろう。
また、殺人や死体に対して不感症にならなかったら、いくら戦争だとはいっても人を殺せるものではないと思う。

もちろん日本だけが虐殺をしたわけではない。
ヨーロッパ諸国だってアジアやアフリカで大規模な虐殺を行なっているし、日清戦争と同じ年にトルコはアルメニア人を虐殺している。
問題はそのあと、事件にどう対処し、同種の事件を防ぐかだと思う。

旅順虐殺の責任者を処分すれば、軍司令官を更迭しなければならないが、それでは軍の士気沮喪をまねくし、政府に対する軍の反撃があるかもしれない。
伊藤博文首相は「この儘不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なし」と、責任逃れの弁明に終始した。
当時の新聞は、旅順虐殺に関する欧米の報道に猛反発し、逆に清を非難している。
ところが台湾出兵の時でも、台湾の住民が「日本兵士による姦淫、惨酷、暴虐は天も日もなし」と訴えている。
1898年から1902年までの5年間に、台湾で叛徒1万2000人を処刑もしくは殺害したと、日本は公式に認めた。

佐谷眞木人『日清戦争』に
「旅順虐殺事件は、事実関係の糾明がなされないまま不問に付されて闇に葬られた。国際社会もまた、この事件を忘れていった。
このとき、きちんとした事実解明と関係者の処分がなされていれば、事件はこの後の日本にとって有益な教訓になったことと思う」
とある。
結局のところ、政府、軍、マスコミは以後も同じことを繰り返すことになったわけである。

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桃源郷

2010年05月21日 | 日記

ユートピア国に住みたいとは思わないが、でもユートピアや桃源郷にあこがれる気持ちは誰にでもあると思う。
どの民族もその民族特有の楽園を語り継いできたが、それは楽園願望が遺伝子にインプットされているからじゃないだろうか。

『桃花源とユートピア』は、平凡社東洋文庫に収められている本の中から桃源郷に関わる文章を選んだアンソロジー。
江戸時代の旅行家の文章も収録されている。
鈴木牧之や菅江真澄は秋山郷、東北地方の山村の素晴らしさを表現するのに、「桃源に迷ふかと怪み」だとか、「桃源郷を訪れたような心地になっている」と、「桃源郷」という言葉を使っている。
日本に来たヨーロッパ人たちも日本の風景に桃源郷を見いだしている。
たとえば、イザベラ・バード『日本奥地紀行』のこんな文章。
「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である」
私も山間の小盆地を旅して、こんなとこで暮らせたらと思うことがある。
桃源郷のどこがいいのかというと、郷愁を誘う地(既知)であると同時に、あこがれの地(未知)だということだろう。
科学技術の発展や文明の進歩もいいけれども、人間は本来はこんなふうに暮らしていたんだろうなと思わせる。

だけど、旅行者として素通りするだけなら、桃源郷を彷彿とさせて、いいなあと思えても、そこで実際に生活するとなると話は別である。
現実はそんな甘いもんじゃない。
いかに桃源郷であろうとも、そこに住んでいるのは人間である。
食べていくためには日々の労働は厳しいだろう。
仮に自給自足できるだけの生産性があり、食べ物が十分で、腹つづみを打っても、それだけで人間は満足できるものではない。
それに、人間関係の難しさは古今東西変わらないわけで、近所づきあいでの苦労もある。

ラフカディオ・ハーンは日本人が照れるぐらい日本及び日本人を絶賛しているが、B・H・チェンバレンは「彼が見たと思っている想像の日本の姿を描いた」と批判している。
W・E・グリフィス『明治日本体験記』にも、「日本の住民や国土のひどい貧乏とみじめな生活に私は気がつき始めた。日本はその国について書かれた本の読者が想像していたような東洋の楽園ではなかった」とある。
そりゃそうだ。

どんな地形で広さや人口がどれくらいなのか、どのような産物を産するのかなどを細部にわたって具体的に描いていけば、桃源郷といえどもぼろが出てくるに違いない。
プラトン『国家』に「国家そのものを、輸入品の必要がまったくないような地域に建設するということは、ほとんど不可能である」とあるように、外部と全く交流のない閉ざされた小空間の桃源郷で自給自足できるわけはない。

桃花源がいつの時代にも魅力を保っているのはファンタジーだからだ。
秦末の争乱を避けて山中に隠れ住んだのが桃花源に住む人々だが、それから五百年がたっているにもかかわらず、「俎豆は猶お古法にして、衣裳には新製なし」と陶淵明は書いている。
桃花源では時間は停止しているわけで、つまりは不老不死の世界なのである。
桃は女性器であり、洞穴の奥に開けた別天地は胎内である。

だからといって、桃花源が夢物語というわけではない。
陶淵明が『桃花源記』を書いた動機は、政治批判、理想の追求、現実からの逃避がからみあっている。
『桃花源記』は『老子』の小国寡民の章を物語化したものである。
『老子』の解説で小川環樹氏は、政治の書だと言っている。
ということは、『桃花源記』は政治に対する批判の側面があることになる。
『中国詩人選集』の一海知義氏の解説によると、そもそも陶淵明が士大夫であるからには、その行動は政治への言及を避けることはできない。
陶淵明は政治を志す士大夫の常として、若いころから経国済民の志を抱いていた。
しかし、このようにありたいという思いはあっても、現実はそうはならないし、下級官吏である陶淵明には力もない。
かといって、現実に妥協して権力者に迎合することは潔しとしない。
そこで陶淵明は職を辞して田舎に帰り、自ら農業を営んだ。
隠遁とはこの世をわずらわしい厭うべきところとし、それとは没交渉の生活をすること、つまり日常生活から脱却することを意味するものと理解され、逃避と見られかねないが、小尾郊一『中国の隠遁思想』によれば、中国の隠遁はそうしたものではなく、士大夫が職を辞して仕えないことが隠遁であり、それは政治批判的な行動なんだそうだ。
一海知義氏は「おのれの抱いている信念の実現が現実の社会の中ではばまれていることへのいらだち」と書いている。
すなわち、政治への不満、反発が『桃花源詩』を生み出したわけである。

さらには、廖仲安『陶淵明』によると、「戦乱の災禍をのがれるために深山絶境に逃げこんで生活する者もあった。(略)集団で険要の地に逃避するやりかたはのちにはかなり一般化し、十六国の分裂割拠の時代には、この種のとりでからなる半独立的な小王国が数多く出現した」とあって、陶淵明はこうした事実に基づいて山中に理想社会を設定したのかもしれない。
となると、当時の人々にとって桃花源は空想上の場所ではなく、現実にある反社会的な共同体として受け取られていたのかもしれない。

そして、一海知義氏は「田園は彼にとっておのれにからみついてくる社会のきずなをふりほどき、人間本来の姿にたちかえりうる世界であった」と言うように、『桃花源記』には理想化された田園生活、すなわち働くことが喜びである楽園へのあこがれが表現されている。

しかし、陶淵明の実際の生活は厳しいものだったそうだ。
生活の貧苦、飢えという不如意、理想をいくら求めても得られないことの無力感、子供に未来を託す希望を持てぬ不本意さ。
陶淵明が『老子』の信奉者だとしても、施政者が何もせずにほっとけば自然にうまく治まるなんてことはあり得ない。
ままならぬ現実から目をそらして、桃花源という幻想の中に逃避する気持ちも陶淵明にあったことだろう。
せめて自らの理想を空想の中で実現しようと、自らの生活を美化する多くの田園詩を残し、桃花源郷を創造したと、一海知義氏は指摘する。
理想と現実との格差への無力感から見た白日夢が桃花源かもしれない。

政治や社会に対する不満、その上に立って人間は本来このように生きるべきだという理想を掲げたが、現実の厳しさに苦しんだ陶淵明は、こうありたいという生き方を『桃花源記』に描いた。
ということで、桃源郷もユートピア小説と同じように、現実社会の批判、理想の追求、現実からの批判という要素がある。
ただ単に、こんなだったらいいなという夢の国ではないのである。
読者としては、そんな難しい小理屈よりも、妄想にふけるほうが楽しいことは事実だけど。

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エルンスト・ブロッホ『希望の原理』

2010年05月18日 | 仏教

以前、エルンスト・ブロッホ『希望の原理』をパラパラととばし読みしたことがある。
読みにくい文章のうえに、やたらと分厚い本なので途中で投げ出した。
私の頭では理解できなかったが、好村富士彦『ブロッホの生涯』を読んで、こういうことかとわかった気になった。

エルンスト・ブロッホは「どんな理想的な条件のもとで達成された目標においても、必ず当初の目標の不一致が残る」
(好村富士彦『ブロッホの生涯』)と問題提起している。
願望を実現しても理想の達成にはならず、必ず幻滅、失望、不足感を感じる。
つまり、「この人と結婚できなかったら死ぬ」と言っていたのに、結婚すると「こんな人とは思わなかった」というあれですね。
ブロッホが問題にしていることは、『論註』の「かの無碍光如来の名号、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう。称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん」という問いと同じだと思う。
これは小説や映画によくあるパターンの話で、たとえば優勝を目指してがんばっていた高校生が優勝したとたんに、これから何をしていいかわからなくなってスランプに陥るとか、自分は何を望んでいたんだろうかと悩んだりする。
最近見た映画だと『武士道シックスティーン』がそれで、この話どこかで見たなと思ったのも、主人公の磯山の悩みがまさにこれだからである。
磯山は勝つことがすべてだったのに、じゃあ勝ってどうするのかと考えるようになって、剣道をやめようかと悩む。(映画はイマイチだったけど、小説はうふふとオジサン笑いをしながら読んでしまった)

曇鸞は「無明なお存して所願を満てざる」のはどうしてか、それは「実のごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり」と答える。
私にはなんのこっちゃであるが、エルンスト・ブロッホの答えは明快である。
エルンスト・ブロッホによれば、理想を求めることは遠くに目をやることであり、足元を見ていない、だから目標が近づくにつれて、目標は自己の闇の中にはいってしまい、明瞭だったはずの願望がはっきりしなくなる。
そのために、願望そのものとそれが実現したはずの現実との間にズレを感じる。
「実現者自身のなかにまだ自己を実現していないなにかが残っているからである」
だから、磯山は勝っても何か物足りなさを感じるのである。

しかし、願望実現に伴う違和感は、自己満足や日常に堕すことを批判し、そこに安住させない、とエルンスト・ブロッホは言う。
このズレによる心の痛みがなければ、そこにとどまってしまい、しかもそれに気づかずにいる。
不足感は新たな希望に向けて推進させる力となる。
「どの願望充足にも希望という固有の一要素が実現されずに残る」
「希望は歴史の推進力」

「〈さらにこの上に〉は理想実現の矛先を弱めるどころか、かえって目標に向かって矛先をいっそう鋭くする」
このようにエルンスト・ブロッホは『希望の原理』で言っている。

ユートピアは今の私を自己満足に陥らせることなく未来に向けて促していく。
理想が実現することは常に未来であって現在ではない。
「われわれのなかに何かになりうる可能性がかくされている」
その何かが現れ出る未来を確信する者にとって、ユートピアはそこに安住してしまう場所ではなく、常に前へと進ませるはたらきである。
このようなエルンスト・ブロッホのユートピア観を高柳俊一『ユートピア学事始』では、
「人間のなかにある未来への原動力としてのユートピア」「人間がまだ訪れていない未来、つまりユートピアの実現へ決定づけられている。(略)人間はこうしたユートピアを自分のなかに含んでいる存在である」と説明されている。

ユートピアの英語訳はno where(どこでもない国)だが、この言葉はnow here(いまここに)とすることもできる。
ユートピアは今ここではない場所であるが、同時に今ここに内在しているのである。
ユートピアはいつか実現する理想社会ではなく、内面化されて理想へ向かわせるエネルギーなのである。
そのことはまた、私の思いとしてのユートピアが破られつづけていくことでもある。
トマス・モア『ユートピア』は
「ユートピアの社会には、われわれの諸都市においてもそうあることを期待したいというよりも、正しくいうならば希望したいようなものがたくさんあるということである」という言葉で終わる。

エルンスト・ブロッホの、願望の実現の際に残されたものが批判のトゲとなって先へ駆り立てる推進力となるということを『論註』に置き換えてみると、いくら称名しても所願が満たされないということがトゲであり、未来への原動力が願生心かなと。

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浄土とユートピア

2010年05月15日 | 仏教

平川宗信『憲法と真宗』に、浄土は批判原理だとある。
「私は、仏法は世法に対する批判原理であると考えております。和田先生も、浄土は理想ではない。浄土というのは、それを地上に実現しようとするような理想ではなく、あくまでも批判原理なのだ、ということを言っておられます」
「仏教、あるいは真宗は、あくまでも批判である。浄土の本願に照らされて、この現実世界が穢土であるということが明らかにされていく」

私も同じことを考えていたのでうれしくなった。
で、ユートピアも現実批判、社会批判によって作られたものであり、批判原理だと思う。

ユートピアとは現実離れした夢物語ではなく、理想社会を通して現実社会を批判し、理想の実現に向けて歩ませることが目的である。
ユートピアというとトマス・モア『ユートピア』だが、この小説を読んだなら、こんな国のどこがいいのかと誰もが思うだろう。
『ユートピア』はトマス・モアたちがユートピア国から帰ってきたヒュトロダエウスの話を聞くという構成になっている。
二部に分かれていて、第一部では当時のヨーロッパやイギリスの社会批判がなされ、それを受けて第二部でユートピア国という理想社会が語られる。
現実社会を批判し、その上であるべき社会が構想されているわけである。
と同時に、理想を通して現実社会の問題点が明らかにされる。
そして、物語の最後にトマス・モアは「彼が語ったことのすべてについて同意することは私にはどうしてもできない」と書いて、次の点を指摘する。
「あの民族の生活風習、法律のなかでずいぶん不条理にできているように思われた少なからぬ事例が私の心に浮かんできた。(略)なによりも共同生活制と貨幣を少しも用いない生活物資共有制においてである」
トマス・モアはヨーロッパ、特にイギリスの社会を批判してユートピア国という理想社会を描いたわけだが、それだけではなく、自ら作り上げたユートピアすら批判の対象としている。
つまり、現実を批判して生まれたユートピアが逆に現実によって批判されるのが、『ユートピア』という小説なのである。
作者としてのトマス・モアはユートピア国をどういう社会だと本音では考えていたのだろうか。

『ユートピア』のあとに書かれた優れたユートピア小説は、理想社会を描くことによって現実を批判していると同時に、そこで描かれている理想社会にも批判の目を向けている。
現実と理想との相互批判がなされているのである。
そういう自己批判がないユートピア小説、たとえばカンパネッラ『太陽の都』やベラミー『顧みれば』のように、作者が自らの作った理想社会の自画自賛に終始するものはただ凡庸なだけである。

どのようなユートピアも理想社会ではなかったことを歴史の実験によって我々は知っている。
ユートピア国で行われていた私有財産の否定、貨幣の廃止などが実際になされ、そして失敗した。
経済の発達、技術の進歩、制度の改革といったことでは理想社会にはならないことを我々は歴史から学んでいる。
ユートピアの歴史は、現実を批判して生まれたユートピアが現実から批判され、その批判に答えて新たに時代社会に即したユートピアが生まれて現実を批判するが、それもやはり現実によって批判されるという、現実と理想の相互批判の歴史である。
どのような社会が人間にとって幸せなのかがユートピアによって常に問い直されてきたわけである。

では、ユートピアと現実社会が相互批判の関係なら、浄土と穢土とはどういう関係にあるのか。
平川宗信氏は「本願に照らされて、この現実世界が穢土であるということが明らかにされていく」と言っている。
だったら、穢土は浄土を批判するのか。
浄土は人間の願いが成就された世界ではないから、人間の考える理想であるユートピアとは違うはずだ。
批判される浄土が方便化土だと考えたらどうだろうか。
胎生、辺地、七宝の宮殿、金鎖などのたとえで示される、自分の思いの世界である。
『教行信証』の「(方便応化の身は)これ生老病死、長短黒白、是此是彼、是学無学と言うことを得べし」という文章を、山辺修学、赤沼智善『教行信証講義』では「この応化身の如きは(略)批判せられる仏である」と訳している。
方便化土が批判されるべき浄土だというのは、そんな的外れでもないと思う。


で、ユートピアに話は戻って、もはやユートピア小説は書かれなくなった。
代わりに、理想社会が実はアンチユートピアだったというアンチユートピア小説が書かれるようになる。
アンチユートピア小説であるハックスレー『すばらしい新世界』のエピグラフは、ニコラ・ビィェルディヤーィェフの「理想国(ユートピア)は、これまで信じられなかったほどたやすく実現しそうにみえる。それで、見方を変えれば、われわれはまことに困った問題に直面している。つまり、理想国(ユートピア)の窮極的な実現をどうして避けるか、ということだ」という言葉である。
科学技術や文明の発展はユートピアを現実化した。
だからといって現実がユートピアになったわけではない。
ということは、我々の願う世界は我々を幸せにするわけではないらしい。
では、理想や希望はゴミ箱行きなのかというと、そうでもないことを教えてくれるのがエルンスト・ブロッホ『希望の原理』である。

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平川宗信『憲法と真宗』

2010年05月12日 | 仏教

平川宗信『憲法と真宗』という冊子をいただいた。
講師プロフィールに「真宗者として仏教に基づく刑法学の再構成を目指す」とある。
平川宗信氏が真宗者と名乗るのは、平川氏のおじいさんが西本願寺寺院の出身ということもあるが、和田稠先生の教えを受けたことが大きいそうだ。
平川宗信氏の話は、真宗の教えを生きようとする者が社会とどのように関わって生きていくか、そのことを教えてくれているように思う。
以下、長文無断引用。

「今の時代社会の中で真宗者としてどう生きていくのかというようなことについて話してくださる先生というのは、なかなか見つからないということがございました。
例えば、ある著名な先生の講演会に行きまして、後の質問の時間に、真宗者としてこの社会の中でどのように生きていったら良いのかと、色々な社会問題をどう考えたら良いんですかということを聞いたときに、それは自力だと言われたんですね」
「しかし、私は刑法を研究しているのでありまして、例えば、死刑というような社会問題について、これを廃しせよというのか、存置せよというのか、答えを迫られているわけです。そのときに、廃止すべきか存置すべきかというようなことを考えるのは自力だと言われてしまうと、考えようがないわけですね」
「真宗から離れて、そのことはこうだよということはできるわけでありますけれども、そうすると、真宗者としての自分と、刑法研究者としての自分が完全に分裂してしまうわけですね」
「そうなっていけば、結局、真宗とは違う流れに身を任せてしまうことになってしまって、真宗者としての自分というのはどこに行ってしまうのかということになるわけであります」
「真宗の信心というものは、いわゆる個の自覚、「自己とは何ぞや」という、そういう問題なのだと考えた場合には、社会問題は真宗の問題ではないということになっていくのかもしれません。しかし、私は、そういう社会の問題、政治の問題、あるいは憲法問題というようなものが、信心の問題にならないと考える方が不思議であります。私という一人の個人をとった場合でも、これは今の時代社会の中に生きているわけでありまして、自分というものを今の時代社会と切り離して考えることはできない。時代社会が、私自身に様々なかたちで働きかけている、影響を与えています。と同時に、私がどう働くかということが、時代社会に影響を及ぼしていくのでありまして、そういう時代社会から切り離された自己というものは、およそ考えられないわけであります。そういうところで、一体自分自身がどのように考え、どのように行動するのかということが、まさに自分の生き方の問題になるわけでありまして、それは、やはり、信心の問題である。自分が真宗に生きると言うのであれば、社会の中における自分の生き方は、やはり真宗者としての生き方になるはずであるし、それは真宗の教えから考えていかなければならないことなのだと、私は考えてきたわけです」
「往相回向とか、念仏の信の確立とかいうのは、それ自体が目的、ゴールであるのではなくて、それはむしろ出発点であるのではないか。念仏に生きる、本願に生きるという生活が始まる、そのスタートラインが往相回向であり、信の確立ということになるのではないかと思います」
「浄土の慈悲というのは一切衆生でありますから、世界中の人々、すべての生きとし生けるものに対する慈悲でなければならない。浄土の慈悲というのは、そういうものであると思います。
そうしますと、目を全世界に向けなければならない。そういうことになるわけで、世界全体に目を向けて、世界全体の人々、生きとし生けるものの苦を抜き楽を与える。それが真宗者の行動だ、ということになっていかざるを得ない」

まったくその通りだと思う。
どう生きるか、その方向を示すのが宗教である。
生きるということは社会の中で生活することであり、そこではさまざまな関わりが生じる。
その中で、どうしたらいいのか、どの道を選べばいいのか、宗教はその判断基準でもある。
宗教は単に心の安らぎということではないと思う。

追記
ゆうこさんのコメントをいただいて、ある神父さんのお話を思いだした。
この神父さんは、救世主としてのイエス・キリストよりも、自分がどのように生きるか、生き方のモデルとしてのイエスだと話された。
「神格化された救い主として拝む対象としてのイエス・キリストではなくて、一番中心になるのは実際に生きて、人々に語りかけた、そのイエスの教えと生き方、それがキリスト教の核になると思います。組織や教団ということではなくて、イエスという人がどんな教えを説かれたのか、どういう生き方をされたかということです。イエスは自分が語ったとおりに生きた人です。その結果が十字架での死と受けとめています。僕にとってはそこが中心かなと思うんです。
そこに焦点を絞って極端なことを言えば、キリスト教という組織とか宗教とかでなくても、イエスの教えに従い、自分の生き方のモデルとして生きようとする生き方もあるわけですよね。
救い主としてのイエスではなくて、イエスという人がどういう教えを説かれて、どんな生き方をしたのか、それを二千年後の私が受けいれて、その生き方を自分の生き方としてキリスト教徒として生きるということ。
組織とか宗教ということあとからついてくることであって、ナザレのイエスという一人の人間がこの地上にいて、その教えと生き方を自分の生き方と受けとめるということがまず第一です」

このお話は平川宗信氏の話されたことと通じると思う。
イエスのように自分も生きたいと願う、それがキリスト教徒だ、ということならば、仏教徒とは何かというと、釈尊のように生きたいと願う人のことだということになる。
そして、自分の一歩前を歩いている人としての親鸞を大切にすのが真宗門徒である。

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『作家の酒』

2010年05月09日 | 

作家たち(漫画家やデザイナーもいる)のなじみの店と酒の肴の写真を見てると、よだれが出てきそうになる。
東京に住んでたら早速行ってみるのに。

彼ら酒飲みたちは何歳まで生きたのか、ちょっと気になる。
『作家の酒』に出てくる26人(物故者ばかり)の中で、井伏鱒二の95歳は別格として、草野心平85歳、埴谷雄高87歳と80代の人もいるが、山口瞳68歳、吉田健一65歳、池波正太郎67歳、星新一71歳、山田風太郎79歳と、70歳前後が多い。
中上健次46歳、立原正秋54歳、大藪春彦61歳。
酒飲みが平均寿命まで生きるのは難しいのだろうか。

田村隆一は目覚めるとワインを飲み始め、午後はウイスキーの水割り、晩酌は冷や酒。
そして、75歳でなくなる最後の日、
「もうだめだから好きなものをあげてとお医者様に言われたの。冷や酒を吸い飲みに入れてあげると、一合飲んで『うまい』と喜び、数時間後、眠るように逝きました」(悦子夫人談)とのことで、うらやましいかぎりである。

稲垣足穂はアルコール依存症だったらしく、
「晩年は作品を書き上げると、倒れるまでウイスキーを飲むようになった」そうだ。
それでも76歳まで生きたのだから大したものである。
娘の都さんの話では「父が酒を飲んだのは、登山家が山に登るように、そこに酒があるからだ、という感じだったのかなあ、と思うのです」とのこと。

田中小実昌の次女田中りえさんは「父は、インシュリンの注射を打ちながら、七四歳まで、大酒を飲んだ」と書いている。
これまたすさまじいが、
「お父さん、好きなお酒をたのしく飲めて、ハッピーだったね」と娘から言われるいい人生だったんだろうなと思う。

で、気になるのが、『作家の酒』で紹介されている人たちは優雅な生活をして、金回りがよさそうだということ。
吉田健一や三島由紀夫は働かなくてもお金がありそうだし、赤塚不二夫や黒澤明は本業で稼いでいるのだろうけど、純文学作家ではそうはいかないのではないだろうか。

ベストセラー作家は別として、たいていの本は初版の発行部数が数千冊だという。
一冊1500円の本が5000冊売れたとしても、印税が1割なら75万円の収入しかない。

純文学作家なら年に一冊ぐらいのペースだろうから、印税だけではとてもじゃないけど食べていけない。
講演や雑文で稼ぐとしても、名前が売れてなければ声はかからないだろう。

出版関係の某氏に、阿刀田高が小説だけで生活している小説家は日本ではせいぜい200人だと書いていると話したら、某氏は200人もいないんじゃないかと言ってた。
飲み代はいったいどこから出てくるのだろうか、人の懐が気になるのでした。

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機の深信とヒューマニズム

2010年05月06日 | 仏教

某氏よりいただいた「なごやごぼう」2009年6月号に、大桑斉先生の「人を殺してはいけないの? 2」という寄稿があり、こんなことが書かれてあった。
「自分を罪悪深重の悪人と思い詰める「機の深信」に人間の条件を見る真宗から、「かわいそう」と思う心、他人の痛みが分かる心が生まれるでしょうか。
江戸の末期、尾張一宮近郊の浮野村の豪農であった原稲城という一人の門徒が、『心に掟置く言葉』という自省録を残しています。我身を悪しき者と思い詰めるだけで、他者への情けをかけることもなく生きることが正しいかと自問して、我身を正直と思う心こそ身を滅ぼす剣である、我身を悪しき者と思い詰めるところに、慈悲も情けもこもっている、と述懐しました。みごとに、「機の深信」が「かわいそう」を生み出しています。(略)
いま真宗から「かわいそう」と言う言葉が聞こえないように思います。我身を悪しき者と思い詰めても、それが内へ内へと折れ込むばかりで他者へ向かう気配が感じられません。(略)
「かわいそう」と言う言葉が聞こえないのは、他者のいない世界を生きているからでしょう」

有元正雄『近世日本の宗教社会史』にも、原稲城の名前が出てきた。
「原稲城は庄屋を勤め国学の教養をもつ者であるが、酒癖に苦しみ、病気を克服しつつ真宗信仰を深めていった人物である」
有元正雄氏の論考によるならば、原稲城は「厳しいまでに自己の悪人であることを凝視」すると同時に、
「村民の模範となる村長になりうるために酒癖を克服しようと反省し続けている」人である。
機の深信(「罪悪深重の悪人と思い詰める」)が「他者への情け」に結びついたり、「村民の模範となる」動機だということ、これをどう考えるか。
有元正雄氏が近世真宗を「自力と他力の統合物」とするのは、悪人の自覚が善人(模範的村長)にならなければという促しになっている点を問題にするからだろう。
半自力半他力と言うべき道徳的あり方は、『資料清沢満之』に収められている清沢満之の弟子たちの文章にもうかがえる。
もちろん原稲城が「村民の模範」となろうとしたことが悪いというわけではない。
これまたいただきものの藤田庄市『「世俗の尊さ」と「宗教的理想」』(『現代と親鸞』第16号抜刷)を読み、世俗の中でまっとうに生きていくことの大切さをあらためて教えられた。
このことはまたいつか。

で、大桑斉先生の「かわいそう」論に、それはヒューマニズムだ、と批判する人もいるだろう。
「かわいそう」は人情だ、人情では救われない、というふうに。
暁烏敏「浩々洞と「精神界」」(『資料清沢満之』)に清沢満之のこんな言葉が引用されている。
「清沢先生曰く、人情は迷情なり、人情に拘泥せざる所に仏教あり」
「清沢先生曰く、慈善事業の如きは政府のなすべき事業にして、私人がなすべき事業にあらず。今の宗教家たるものは之を為さざる可からずといふが如きは以ての外なり」

どういう文脈での発言なのかということはあるし、人情では行きづまるのはそのとおりだけれども、ちょっとがっかり。

ヒューマニズムを辞書で調べると、「非常に広い範囲の思想傾向、精神態度、世界観をさしていうことば」とある。
つまり多義的なわけである。
ある講演の際に講師が、ヒューマニズムとは人間中心主義という意味だ、人間中心ですよ、ということを言われた。
人間中心主義は、教会の権威に人々が押しつぶされていた時代にあって、人間解放の意味を持ったわけで、自分さえよければいいとか、今が楽しければいいというのとは違う。
ヒューマニズムの根底にあるのは人間性の尊重とのことで、ヒューマニズム嫌いの人でもそれまでは否定しないだろう。
ヒューマニズム批判の是非はともかくとして、人道主義と人間中心主義とは違うのに、それをごっちゃにしてヒューマニズム批判するのはおかしい、ヒューマニズムという言葉はなるべく使わないほうがいいなと、講演を聞きながら思ったことでした。

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『資料清沢満之』2

2010年05月03日 | 仏教

『資料清沢満之』所収の清沢満之の弟子たちの文章を読むと、明治という時代のせいかもしれないが、どうも違和感を感じる文章が散見する。
たとえば安藤州一「浩々洞の懐旧」に
は、戦争や軍人を肯定的に使ったたとえが多く見られる。
安藤州一はこんな思い出も書いている。
「近角常観師は嘗つて清沢師の人物を評して曰く、清沢師は流石に武士の家に生れた人物で或る、議論にも負けぬが、いかなる患難にも負け嫌ひであると。この言は実に当を得て居る。後来は武士の家から宗門の子弟を養成したいものである」
人を殺すのが仕事の武士がそんなにいいのか、と思ってしまう。

それとか、清沢満之が天台宗の高貫上人と会った時の話。
高貫上人は足を折って臥せっていたので、清沢満之が一言見舞いの言葉を述べると、上人は「是位にて業を果たすを得て、先づ/\仕合わせなり」と答えた。
同行者に、高閣から落ちて足を折ったのに「先づ/\仕合わせ」とはどういう意味かと聞かれた清沢満之はこう説明する。
「仏教は因果の道理を信ず。故に今世に於て遭遇すること、多くは前業の所感に基づくものとす。若し前世の罪業深かヽりしならんには、高閣より落ちて、一命をも失ふ可かりしに、僅かに一脚を折るに止まる、是れ上人が、「是位にて業を果たすを得て、先づ/\仕合わせなり」と喜び給ひし所以なり」
物事をいいほうに受け取るようにしましょうということだと思うが、でも怪我をしたことで業を果たしたというのは、これはカルマ落としである。
オウム真理教信者の話。
「たとえばなにか悪いことが起こっても「あ、カルマが落ちた。よかったね」って言って、みんなで喜んだりします。失敗しても叱られても、なんでも「これで私の汚れが落ちたんだ」になってしまう」
(村上春樹『約束された場所で』)
いさかかがっかりしました。

『資料清沢満之』の編者は「彼(清沢満之)を「今親鸞」とするような見解にみられる手ばなしの高い評価がまかり通っているのである。そこには、かかる評価を生みだす親鸞―真宗理解が前提とされているとみなければならないが、その自覚されることなどありそうもない前提が、前代からひきつがれ、天皇制下の近代化の過程で再編され定着した、その限りで近代的な、しかし基本的には伝統的な信仰理解であることは間違いあるまい」と手厳しい。
親鸞聖人七百五十回忌御遠忌ということで両堂の修復が行われ、それに合わせて明治の再建が美談として語られている。
しかし、当時、キリスト教や西洋近代科学が日本に入ってきて危機感を持ちながらも旧態依然とした教学、そして寄付金集めしか頭にないかのような本山のあり方は今も通じる問題である。
なのに、再建の裏にごたごたがあったことはあまり語られないように思う。
臭いものに蓋ということかと邪推したくなる。

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