三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

今年のベストテン予想

2008年12月29日 | 映画

キネマ旬報のベストテンを予想してみた。(私好みのベストテンではない)
まずは邦画から。
『闇の子供たち』
『実録連合赤軍事件』
『おくりびと』(モントリオール映画祭グランプリだから)
『ぐるりのこと。』
『トウキョウソナタ』(カンヌ映画祭で受賞したので)
『歩いても歩いても』
『アフタースクール』
『歓喜の歌』
『ハッピーフライト』
『ブタがいた教室』

当落線上の作品がたくさんある。
『母べえ』
『明日への遺言』
『三本木農業高校、馬術部』
『クライマーズ・ハイ』
『アキレスと亀』
『崖の上のポニョ』
などベストテン常連監督の作品や
『きみの友だち』
『人のセックスを笑うな』
『百万円と苦虫女』
なども悪くない。
監督が95歳ということで『花は散れども』も上位にくるのではないか。
なかなかの充実ぶりで、今年の日本映画は豊作だった。

洋画の予想は難しい。
『イントゥ・ザ・ ワイルド』
『ノーカントリー』
『この自由な世界で』
『潜水服は蝶の夢を見るか』
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』
『ラスト、コーション』
『ヒトラーの贋札』(アカデミー外国語映画賞なので)
『4月の3週の2日』(カンヌ映画祭パルムドールなので)
『JUNO/ジュノ』
12月に上映された映画が1本はベストテンに入るだろうから、ベスト9にしてみた。
半分当たればいいほうだと思う。

『ウォーリー』
『ダークナイト』
『告発のとき』
『トゥアーの結婚』
『ホット・ファズ』
『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』
もベストテン候補。

私の好みは
『ブロードウェイ♪ブロードウェイ』
『アクロス・ザ・ユニバース』
『その土曜日、7時58分』
『ぜんぶ、フィデルのせい』

『ブロードウェイ♪ブロードウェイ』は、『コーラスライン』のオーディションが行われた、そのドキュメンタリー映画。
映画『コーラスライン』よりの百倍面白い。
ほんとすごいと思うのが、ダンス、歌、演技の三拍子がそろっていないとダメ。
そして美人でないと。
映画『コーラスライン』でもそうだったが、大勢集まった応募者(3000人)をどんどんと落としていく有様を短いカットの積み重ねで省略している。
でも、そのテストシーンをたっぷり見たかった。

いい音楽は七難を隠す、ましてビートルズならなおさらだ、というのが『アクロス・ザ・ユニバース』。
といっても、音楽だけがよくて、あとはちょっと、という映画ではない。

『ぜんぶ、フィデルのせい』の女の子が高校生になったらどうなるのか、続編を作ってくれないものだろうか。

『その土曜日、7時58分』はオリジナル脚本というのがすごいというか、暗さもすごい。

そして今年最後に見た『この自由な世界で』は、さすがケン・ローチ。
移民労働者という窓から世界を見せ、
そして主人公が普遍的人間の姿をあぶり出している。
キネ旬のベストワンになるべき作品だが、夕方の1回、1週間だけの上映なんだから悲しくなる。

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門井肇『休暇』

2008年12月22日 | 映画

『休暇』という映画は、拘置所の刑務官が死刑の執行に立ち会うことで一週間の休暇をもらい、新婚旅行に行くという話。
主人公は支え役といって、落下して縄からぶら下がって揺れ、痙攣し、動いている死刑囚の身体を支える役である。
ボタンを押すなどの他の役目は休みが一日だけなのに、支え役はなぜか一週間も休みがもらえる。
どうして支え役だけがそんなに休みが長いのか、映画を見ただけではわからないし、吉村昭の原作に書いてあるかと思って読んだのだが、原作にもそのことは説明されていない。
おそらく支え役は遺体の後始末や刑場の掃除をするから、他の人よりも長い休みがもらえるのだと思う。

村野薫『死刑はこうして執行される』にはこう書かれている。
「刑務官の指導のもと、服役中の受刑者たちで編成された〝処理班〟の手ですぐさま処置される。まず、首に食い込んだ絞縄をはずし、鼻血や糞や小便もきれいにふいて、飛び出した舌は口のなかに納める。そして着衣を着せ替え、首に残る縄目の痕を包帯で隠して―と書けば簡単な作業のようだが、いってみれば殺害死体、非業の死であることに変わりはない。絞縄のかかりぐあいひとつで耳がちぎれることもあれば、眼球もこぼれ落ちる。とりわけ最後まで騒ぎ、喚き、暴れまくりつつ逝った遺体ほど醜い損傷を残しているという」

映画では、執行に立ち会った検事がハンカチで鼻と口を押さえていた。
糞尿の臭いがしていることを暗示しているのだろう。
遺体の後始末をするのは大変だけど、執行のボタンを押すのも負担が大きいと思う。
どちらも楽ではない。

で、執行があると知らされるのが結婚式の前々日で、執行は前日である。
主人公は誰もがいやがる支え役をどうして志願したのか。
原作では「ふと、一週間の休暇があたえられたら女と旅をしたい、と思った」となっている。
そして旅行に出かけ、女の肉体の感触を思い起こした主人公は「女との生活はうまくゆきそうだ」と思う。
このあたり、何だかなあと思った。
ということで、小説の映画化だとたいていは原作のほうがすぐれているものだが、『休暇』の場合は映画のほうがいい。

毎日新聞の映画評に「ただ、気になるのは、作り手が死刑制度を道具立てとして利用し、立場を示さないことだ」とある。
映画では主人公が執行を思いだして嘔吐するシーンがあるのだが、原作にはそういった描写はないように、この批判は映画よりも原作に当てはまる。
戦争映画に戦意高揚映画、反戦映画、厭戦映画があるが、映画『休暇』は厭死刑映画とでも言うべき映画だと思う。

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アンチ・アンチエイジングとローリング・ストーンズ

2008年12月22日 | 映画

スティーヴン・ウォーカー『ヤング@ハート』を見る。
平均年齢80歳のコーラス隊「ヤング@ハート」のドキュメンタリー映画である。
なにせみんな年が年だから、コンサートを目の前にしてメンバーの2人が死んでしまう、そういうグループなのである。
だけど、コンサートを目指してロックやR&Bを生き生きと歌う老人たちを見てると、何やらうれしくなって元気が出てくる。

マーティン・スコセッシ『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』は2006年に行われたニューヨーク公演のライブ映画。
みんなシワだらけなのには驚いた。
ミック・ジャガーとキース・リチャーズは1943年生まれ、63歳なんだから仕方ないけど。
そうか、ヤング@ハートに入ってもおかしくない年なのである。
ちなみにマーティン・スコセッシは1942年生まれ。
だけど、ミック・ジャガーはセクシーである。
60をすぎたオジサンがシャツのボタンをはずして肌を見せながら腰をくねらす姿なんか見たくないけど、ミック・ジャガーは別。

アンチエイジングという言葉がある。
抗老化、年をとらないよういつまでも若い気分でいて、健康でいつまでも若々しく、快適な生活を、ということである。
「四十五十は鼻たれ小僧、六十七十は花ならつぼみ」(バリエーションはいろいろあり)というのが嫌いなへそ曲がりとしては、アンチエイジングなんてうさんくさいと思ってしまう。

『ヤング@ハート』はいい映画だと思うのだが、その時に「あんなお年寄りでも元気に頑張ってて若々しいのだから、私もあやからなくては」という気持ちがある。
純粋に歌を楽しんでいるのではなく、アンチエイジング的な面でほめているわけである。
でも、『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』を見て、「60すぎてるのにあんなに頑張っている。みんなも見習いましょう」なんてことは誰も言わないだろう。
「年齢を意識させない」というのも妙なほめ方ではあるが、ローリング・ストーンズは意識させないことをも意識させない。

それにしても、腰痛や五十肩に悩まされないのだろうか。
髪が薄くなったり、腹が出たりしないのはどうしてなのだろうか。
うらやましいかぎりである。

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『貧魂社会ニッポンへ』2

2008年12月19日 | 

『貧魂社会ニッポンへ』に載っている本田哲郎神父と島薗進氏の対談は「宗教を超えて 釜ヶ崎のスピリチュアル」と題されている。
二人の会話がかみ合っていないのは、たぶんスピリチュアルの意味が共有されていないからだと思う。

本田神父はこういうことを話されている。
「あなたは、何にもできなくていいよ、いてくれるだけでありがとう」と言うのは簡単なんです。(略)「いていいよ」と言うだけでは、無視しているのとあまり変わりない。共生の論理の怖さはそこにあるんですよ。(略)偏見を脱却することは、ものすごく大事なことなんですけど、共生で何を満足するのか。公園で野宿している仲間たち、あるいは、アーケードの下に段ボールで寝ているせんぱいたち、あるいは河川敷に小屋立てしている仲間たち、それでみんな良しと思っていると思うのか。彼らの願いに連帯してこそ、正しい繋がりでしょ。私は「いていいよ」というのは少し怖いところを感じてしまうんです」

「仕事がなくて、あるいは生活保護も適用してもらえなくて野宿している状態の大勢の人たちを目の前にしてね、「一人ひとり、かすみ草みたいな小さな花だけど咲いてるじゃない、それでいいよ」って言われても、何の解決にもならない、何の進展もないんです。「オンリーワンなんだから」と言われても、「それではなんの答えにもなっていないじゃない」ってね。(略)けれども、「ナンバーワンでなくてもいいんだ、オンリーワンデイ因だよ」と言われると、なんとなくフニャーっと安心してしまって、「そうだなあ」とそれで終わってしまう。けれども、その次の一歩が絶対必要だし、痛み、苦しみ、寂しさ、悔しさ、怒りを体験しているその仲間たちがそこからどうやって解放されていくのか、そこにどんな協力ができるのか、どういう役割を果たせるのか」

これはいろんな問題点を指摘していると思うが、たとえばスピリチュアリティの、すべてを心の問題に矮小化する中身のなさ、結局は自分の問題だという自己責任論に堕する怖さなどが批判されているように思うし、と同時に、「まずあなたの信心を確立しなさい」と言って何もしないことの言い訳とする信心至上主義への批判でもある。

本田神父は聞くことの大切を言うが、橘安純氏から
「当事者の声なんて絶対聞けるわけないですよ。あなたも野宿者の話をよく聞くようだけど、当事者のほうは相手に合わせて、相手の期待される言葉をしゃべるんですからね。批判的なことはなかなかしゃべらないですよね。……」
と言われると、じゃあどうすればいいのかと途方にくれるし、永原健二氏は
「この生活はきついよ、やっぱし。それはホームレスしてみな、分からへんな」
と言われると、他者の傷みを共にするのは不可能ということになる。

でも、入作明美氏の
「この世の中で、たった一人でいいから、本音で喋れる相手がいる。それさえあれば何とか生きて行ける」
ということ、すごくいい言葉である。
ほんとそうだなと思う。

話は飛ぶが、AA(アルコール依存症の自助グループ)のテーマミーティングに参加して、ふと「これは話し方教室と一緒だな」と思った
というのが、20年ぐらい前、話が下手な私は話し方教室に1年間通ったことがある。
話し方教室ではどういうことをするかというと、先生が題(学校時代の思い出とか)を出し、その題に沿って1人3分間ずつスピーチをする。
そして、その話を録音したテープを聴き、みんなで話しあう。
これが結構楽しかった。
もっとも、いまだに発音不明瞭、意味不明瞭ではあるが。

AAのミーティングも考えてみれば同じことをしている。
テーマミーティングでは、テーマ(怒りと憎しみとか)に従って1人ずつ話をする。
もっとも、AAでは言いっぱなし、聞きっぱなしだから、話し方教室みたいに質問や意見はしないし、感想も言わない。
それに話をする時間が決まっているわけではない。
もっと大きな違いは、本音を言って自分のありのままをさらけ出すかどうかだと思う。

AAでは分かち合いというのだが、入作明美氏の
「お互いが自分の持っているものを差し出して、お互いを生かしあえるような関係が本当は大切だったということに気づかされました」
ということがまさに分かち合いだと思う。
蓮如は「物をいえいえ」と注意しているが、昔は寺が分かち合いの場だったのに、今はどうかというと……、です。

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『貧魂社会ニッポンへ』1

2008年12月16日 | 

路上生活者支援をされている神父さん(ホームレスという言葉は使いたくないそうだ)の話を聞く。
路上で生活している人に食べ物や着る物をあげたり、支援するということ、考えてみればマザー・テレサがしていたことと同じである。
マザー・テレサならみんな尊敬するのに、日本で同じことをすると、物好きだという目で見がちではないかと思う。
で、その神父さんは路上生活者の問題は人権問題だと言われていた。

人権とは何か。
今年は世界人権宣言60周年。
第一条は「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」
路上生活者には具体的にどういう権利が損なわれているのか。
「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」
「生命、自由及び身体の安全に対する権利」
「法の下において平等」
「衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利」
etc

で、人権がさも悪いことのように言う人は、まずこうした権利を自ら放棄すべきだと思う。
もっとも「思想、良心及び宗教の自由に対する権利」「意見及び表現の自由に対する権利」をも認めないのだったら、「人権派は」云々と言えなくなるのだが。

それはともかく、『貧魂社会ニッポンへ』に本田哲郎神父と島薗進氏との対談が載っている。
あまりかみ合っているようには思えない対談だが、本田神父の言葉にはなるほどとうなずかされる。

「誰かを愛そうと努力しない方がいいよ」というのが釜ヶ崎で生活する本田神父の結論だと言われる。
「愛する相手というのは、自分の連れ合い、フィアンセ、家族であるとか、限定されるべきものなんです。それをキリスト教がよく言うように、博愛主義とか、互いに愛し合いなさいとか、隣人を自分と同じように愛しなさいとか、ひいては敵をも愛しなさいとか、愛する努力をするからこそ偽善者の山が築き上げられる」
きついお言葉で、バチカンからお叱りを受けるのではないかと心配になるが、よくわかる。

愛はエロスとアガペーとがある。
エロスとは、家族とか、連れ合いとか、恋人同士に対する愛情だそうだ。
「エログロと悪い意味では捉えないで、もっと種の保存のための大事なエネルギーとしてのエロス。このエロスはその役割を果たし終えたら、だんだん薄らいで行く方がいい。薄らいでいって当たり前。ご夫婦のアツアツのときの愛と、十年、二十年、三十年経ってからの愛。これが同じであったら気持ちが悪い、怖い感じがします。だんだんと薄らいでいって、なにも疚しいことはないんです。親の子どもに対する愛もそうです。「愛は永遠です」なんて教会ではいうんですが、そうではない」
結婚していない神父さんだからこそ言える言葉かもしれない。

では、アガペーとは。
「聖書に出てくるアガペー、これをずっと愛と訳してきてしまった。アガペーは愛ではなかったんですね。相手の人を尊重して、大切に関わる。好きとか、愛情ってことは全く出てこない」
日本で最初に聖書が翻訳されたとき、愛という言葉は「お大切」と表現されたそうだ。

「人が人として大切にする」ことが人権だと本田神父は言う。
「目の前の野宿を強いられている人の前に立って、「この人は自分の親兄弟のように自分を愛しているだろうか」ってね…。もう最初からお手上げですよ。「自分の親友のように好きになれるだろうか」、これも大抵はノーです。あまり知らないですしね。だから、「愛せるか」とか、「好きになれるか」というところで考える必要はなかったんだとようやく気がついた。「大切にしなくちゃ」、これだけだった。大切にしようとしたときに、相手は何を望んでいるだろうか、そこに気持ちが行くんです。「愛さなくちゃ」と思っていたら、相手の本当の願いなんてどこかに吹っ飛んじゃっているんですよ」

路上生活をしている橘安純氏は
「ぼく自身は、野宿している人の中でも、真っ黒に汚れている人、匂いのする人たちには差別意識っていうか、あの人たちと自分は違うっていう感覚があります」
と率直に語っているし、永原健二氏も
「たぶん俺がふつうの生活していて、ホームレスが周りに来たら嫌やと思う。だから、ホームレス好きな人間なんかおらんと思う。でも、優しさから、「頑張って」って、してくれるんやと思う」
と言っている。
嫌いな人間や嫌なやつを愛するのは不可能だが、大切にすることならできると思う。

でも、橘安純氏が
「野宿者襲撃があって、学校で人権教育をしているけど、一部の先生はね、一生懸命に問題をやっていても、本気でやっていないと、生徒は分かると思う。結局、へたな人権教育をやったら、建前と本音を使い分けるのが大人なんだって言ってるようなもので。……今のやっている教育委員会とか、行政のやっている人権教育っていうのは、建前と本音を使い分けろって言ってると思うんですよね。
だって小学校中学校のその散水装置(釜ヶ崎周辺の小学校では、学校の周囲のフェンスに穴の開いたホースがつけられ、定期的に水が出る。学校周辺で野宿できないための装置)を見ればね、あれ見ただけで、これは完全に野宿者排除の装置だと思うし。あんなのを堂々といつまでもつけていられる先生っていうのが……」

と語っているように、現実の場となると自信がない……。

「大切に」ということだが、
「自分が自分として大切にされたいというのはみんな共通して持っている、ほとんど失われない本能みたいなものだと思います。自己保存、自分を大切にしたい、誰でも持っているものだと思います。素直に自分が大切にされたい分、その人も大切にするためには、こっちの押しつけでは話にならないわけですよね。だとしたら、愛せるように努力することは無意味。好きになる努力、これも無駄なこと。大切にしたい、だったら聞くしかないじゃない。だったら謙虚に本当はどうなりたいかと、そこで真剣に関わる」
という本田神父の話は、阿弥陀如来の本願の説明だと言ってもいいように思う。

本願とは「すべての衆生を救う」という願いなのだが、じゃ「救いとは何か」ということが問題となる。
「あらゆる衆生(人間に限らない)を大切にしたい」と解釈すれば、すっと受け取れるように思う。
それと、供養とは仏に供物を捧げるのが本来の意味だが、竹中智秀師は「供養とは、そのものを大切にし、尊敬し、礼拝する心」と話されていた。
本田神父の言うことと通じているように思う。

釜ヶ崎でケースワーカーをしている入作明美氏が、
「本当に大切なことは、誰かに自分の話を聴いてもらえた、自分のことを分かってもらえた、自分の気持ちに心から共感してもらえたという、満たされた経験を自らが持っているかどうか、ということだと思うのです」
と言っていること、これが救いと言っていいなと思った。

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布施勇如『アメリカで、死刑をみた』2

2008年12月13日 | 死刑

交通事故でお子さんを亡くされた方が「法律は冷たい」と、テレビニュースで言われていた。
子供が殺されたのに加害者が懲役○年では軽すぎる、ということである。
親としては当然の気持ちだが、被害者感情と被害者のケアと裁判とは分けて考えるべきだと思う。
裁判が感情に支配されたら公正さを失ってしまうから。

で、話は飛ぶようだが、裁判における公正さということでアメリカの死刑を考えると、多くは黒人である。
冤罪の死刑囚も黒人が多い。
人種差別という感情によって裁かれているわけである。

ジョセフ・アムライン氏(黒人)は、懲役15年の判決を受けて刑務所に服役していた。
刑務所内の刺殺事件が起き、3人の受刑者の目撃証言でアムライン氏は犯人とされ、死刑判決が言い渡される。
後にこの3人は証言を撤回するが、それでも申し立ては認められない。
死刑評決を受けて17年後にようやく釈放される。
虚偽の証言をした3人のうち、1人が真犯人、2人は取調官に強要されて嘘を言っている。
黒人で、しかも犯罪を犯して刑務所に入っているような奴が冤罪で死刑になっても、だからどうしたんだという感じなんだろう。

リンチと死刑執行には相関があるそうだ。
布施勇如『アメリカで、死刑をみた』にフランクリン・ジムリング氏の著書が紹介されている。
ジムリング氏によると、1977年から2000年までに行われた死刑執行数の比率は、南部がテキサスを筆頭に81%で、中西部10%、西部8%、北東部が0.05%。
一方、統計上、リンチは総数の約9割が1889年から1918年に集中し、この間、南部で88%、中西部7%、西部5%、北東部は0.3%と、死刑執行とほぼ同様の比率となっている。
リンチが少なかった下位の14州中、11州では1977年から2000年までの死刑執行はゼロ。

そして、1976年以降、北東部で執行された死刑は国全体の1%未満だが、北東部の殺人発生率は4地域の中で最低。
死刑の執行が多いのはテキサス州、バージニア州、ジョージア州、オクラホマ州、フロリダ州など南部の州だが、南部は殺人発生率が高く、全国平均の殺人発生率を上回ったのは南部だけ。
つまりは死刑は犯罪の抑止効果がないということである。

この人は死刑で、あの人は死刑にすべきじゃないとどうやって決めるのか。
テキサス州の中でもハリス郡の執行が飛び抜けて多く、州全体の25%、全米の9%を占める。
シスター・プレジャンは布施勇如氏にこう言う。
「あるところでは死刑を選ぶ検事がいて、別のところではそうじゃない。だから、平等に、公正に死刑を適用する方法はない」(布施勇如『アメリカで、死刑をみた』)
公正な線引きなど不可能である。
「「だって、人を殺したヤツらを殺すっていうのは、正義の要求だろう」という人がいる。その論理的に言わんとするところに従えば、じゃあ、そういうヤツらが子どもに性的暴行をしたら、毎週金曜の夜、「当局によるレイプ隊」が現れるの? 刑務所の中でレイプした人はどうなるの? 同じ理屈でしょ。そんな原理では、実践する人たちが堕落してしまう」

とはいえ、アメリカも変化しているそうだ。
2005年、連邦最高裁は犯行当時18歳未満の少年に対する死刑が憲法の禁じる残酷で異常な刑罰に当たるとの判断を示した。
執行数が飛び抜けて多いテキサス州では、死刑に問える事件において、仮釈放なしの終身刑も選択できるようにした。
アメリカにおける2007年の総執行数は42人と、1995年以降で最低となっており、1999年をピークに確実に減少傾向にある。
ところが、日本では逆に確実に増加傾向にある。
どうしてなのか不思議である。

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布施勇如『アメリカで、死刑をみた』1

2008年12月10日 | 死刑

布施勇如氏は読売新聞の記者、『アメリカで、死刑をみた』は2002年から2004年までアメリカ留学した際の見聞録である。
冤罪の元死刑囚、死刑反対論者の被害者遺族と賛成論者の被害者遺族、検事、90回近く執行に立ち会った元刑務所長、弁護士たちにインタビューをし、そして布施氏自身が死刑の執行に立ち会う。

死刑賛成派の人が「自分の家族が殺されたとしても死刑反対と言えるか」とよく言う。
この問いに対して、布施氏がアメリカ矯正協会の大会で会った男性が次のように言ったことは答えにならないだろうか。
「もしも、僕の妻が、あるいは子どもが射殺されたら……。迷わず、犯人を射殺するだろうね。だけど、死刑という制度には反対だ。我々は制度について論じる時、個人的感情というものを脇に置いて冷静に考えないとね」
感情と制度とは分けていかないと、それこそ社会がぐちゃぐたになってしまう。

クリークモア・ウォレス弁護士は死刑に問える事件で26件、弁護を引き受け、死刑になった被告人は1人だけ。
ウォレス弁護士はベトナムに出征し大勢を殺したという。

「もし、あなたが僕の妻を殺したとする。あなたは法廷に立つ前に、僕の中にある怒りというものに気づくでしょう。僕が殺してしまう可能性も十分にある。被害者や家族が感じうるあらゆる危険とか、怒りというものは理解できます。僕も同じような感情を抱き、同じようなことをしたかもしれない。
でも、我々が議論しているのは、復讐や特定の部族の倫理観ではなく、文明化ということなんです。人間が原始的な部族(の制度)を乗りこえて、進歩できるかということを議論しているのです」

ウォレス弁護士が問題にするのも感情ということである。
物事を感情で判断するか、理性で選び取るか。
人間は復讐という感情を乗りこえようとしてきたのに、今の日本は復讐心を肯定し、美化する声が大きくなっているように思う。

ウォレス弁護士はさらにこう言っている。
「でも、殺害という行為が、あまり美化されすぎていますね。CNNをつければ、人びとイラクで殺されるシーンを目にする。首を刎ねられるところを映すなんて、許されるべきじゃない。それは美化にほかならない。僕は戦争で人を殺しました。いろんな方法でね。爆弾も落とした。も、そういうのを見たくないんだ。エンターテインメントじゃないんだからね。大衆はそういうものにさらされるべきじゃないんです。でも、我々は殺害をエンターテインメントの具にしている」

ちょうど12月と言えば、忠臣蔵、老人を大勢でなぶり殺しにすることに喝采する季節である。
人が殺されるのを見て楽しむことを我々は毎年しているわけだ。

布施氏は自分自身のこういうエピソードを紹介している。
処刑を記者として立ち会うことになった布施氏に、処刑が延期されるという電話がかかってきた。
「電話を切り、呆然とする私の顔をのぞき込むようにして、「どうしたの」と友人が訊ねた。
「来週の死刑、中止になったんだってさ。最後のチャンスだったのに」。あーあ。私はため息までついた」
「自分が発した言葉の恐ろしさに気づいたのは、あくる日、地元紙でトレス(処刑される予定だった死刑囚)に対する恩赦の記事を読んでからだった。拘禁中の手続きに誤りがあった。だから、知事はトレスを終身刑とした。死刑の執行は延期ではなく、取り止めとなった。
1人の死刑囚の命が、とにもかくにも救われた。
そのことを、何と私は悔しがったのだ。
それまで、死刑を見ることが記者の使命だなどと考えていた私は、その動機を疑い、自問した。街なかで行われていた公開処刑を、興味本位や怖いもの見たさで見に行った大衆とまるで変わりがないのではないか、と」

正直なところ、怖いもの見たさで処刑を見たいという気持ちはたぶん私にもある。
死刑や戦争にかぎらず、人の死をいつの間にかエンターテインメントにしてしまっていることの危険性に自覚的でいたいと思う。

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ニート自立支援

2008年12月07日 | 日記

ニートの自立支援に関わっている方の話を聞いた。
ニートというと怠け者というイメージがあるが、80%は働きたいという気持ちを持っているそうだ。
なのになぜ働かないのか、仕事を探せばいいじゃないかということになるが、それができないという。

働けない原因をあえて大きくまとめると、4つになると言われる。
①対人不安(人間関係にしりごみ)
②社会的ブランクへの評価を恐れている
③自己有用感、自己肯定感が低い
④狭い考え方に固執している。

②の「社会的ブランクへの評価」ということ、こういうことである。
履歴書に学歴や職歴を書かないといけない。
最終学歴やどういう仕事をしたかは書ける。
しかしニートの場合、卒業した時や仕事を辞めた時から今日までの間がブランクになっている。
ブランクがある履歴書を提出すると、この期間はどうしていたのかと聞かれる。
答えようがない。
「こいつはどうにもならん」と思われるんじゃないだろうかと思ったら、履歴書を書けない。
となると、ますますブランクの期間が長くなるわけで、ますます就職できなくなるという悪循環。

それとお金の問題。
職を探すにしても、履歴書代、履歴書に貼る写真代、面接に行く前の散髪代、交通費その他のお金がいる。
1回や2回の面接で就職は決まらないし、面接の結果がわかるまで2週間かかることもあるから、その間の生活費がかかる。
働かないでいるから親との関係がこじれていることがあり、そうした金銭的なことを親に相談できない人が多いそうだ。
定額給付金12,000円をもらっても、職探しでなくなってしまうのではないかと思う。

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広島・小1女児殺害:事件から3年 揺れる被害者父の思い 「死刑でも喜べぬ」

2008年12月04日 | 死刑

広島・小1女児殺害:事件から3年 揺れる被害者父の思い 「死刑でも喜べぬ」
 広島市安芸区で小学校1年、木下あいりちゃん(当時7歳)が殺害された事件から、22日で3年。自衛官の父建一さんが毎日新聞の取材に応じ、「もう3年たったのか、という気持ち。いろんなことにあいりの意思を感じます」と話した。
 また、ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ被告に対しては、「被告のように人を殺すの(を求めるの)は本意ではないが、無期懲役だと納得できないと思う」と複雑な心境を語った。
 建一さんはこれまで、一貫してトレス・ヤギ被告の死刑を求めてきたが、取材には「時がたつにつれ、被告の生命も、あいりの命も、私の命も、一人一人大切なものではないかと考えるようになった」「控訴審で死刑が出ても、単純に喜べない。もし死刑が出なかったらホッとするかもしれない」と述べた。
 その一方で、無期懲役について「もし彼が出所して誰かを傷付けたら、誰が責任をとるのか。一生、中にいてほしい」とし、「同じように被害に遭った人や支援者のためにも、無抵抗な女の子が性犯罪で殺されるという事件を許してはいけない」と話した。
毎日新聞11月21日

この記事には驚いた。
木下氏は死刑判決を待ち望んでいると思っていたからである。
事件が起きたのは2005年11月、そして木下氏は2007年11月、控訴審初公判を前に死刑判決を求める7022人分の署名を広島高検に提出している。
ところが、「無期懲役だと納得できないと思う」と言いながらも、「もし死刑が出なかったらホッとするかもしれない」と複雑な心境を述べている。
死刑を求めていた木下氏の心境がこの1年間で変化したのはどうしてだろうか。

あれこれと検索してみるとこういうことらしい。
「最近、今までなかった感情が芽生え始めた。きっかけの一つは、意見陳述した公判で、被告がペルーで女児にわいせつ行為をしたとされる現地検察庁作成の記録が証拠採用されたことだ。1審では採用されなかった。「死刑判決に近づいた」と思うと同時に「世界に1つだけだったあいりの命と同じように、被告の命にも何か意味があるのではないか」と思い始めた」朝日新聞11月22日

では、どうして死刑の可能性が高くなったら死刑判決を喜べないという気持ちになったのだろうかと思う。

遺族の気持ちは時間とともに変わっていくことがある。
連邦ビル爆破事件で娘のジュリーさんが殺されながら死刑廃止を訴えるバド・ウェルチ氏に、布施勇如氏は池田小事件の概要を紹介し、「死刑を望んでいる子供たちの家族には、どんな助言を?」と尋ねた。
バド・ウェルチ氏は「私が言えるのはただ、『時』が最も大切だということ。愛する家族を失った怒りをまずは自分自身に向ける時間が必要です。私の場合は、ジュリーに外国語を学ばせたことを後悔した」と答えた。
ジュリーさんはスペイン語を学び、連邦ビルの社会保障局で働いていなければテロに巻き込まれなかった。
そのことをウェルチ氏は悔い、自らを責めたのである。
そして、「時間をかけてこそ、その責めは義認される。私がその状態にたどり着くまで、1年かかったが、ほかの人は4年、5年とかかるかもしれない」と言っている。(布施勇如『アメリカで、死刑をみた』)

どういうことをウェルチ氏が言っているかというと、「義認」とは「キリスト教で、罪ある人間がキリストの贖罪によって正しい人として神に認められること。罪のゆるし」ということだから、ウェルチ氏の罪(もちろん娘さんの死はウェルチ氏の責任ではないが)が許され、正しい人として認められる、という意味だと思う。

このことはキリスト教徒ではない私にはよくわからないが、私なりに解釈すると、死者への罪の意識が怒りに結びつくことがある、しかし自らを責めていたのが時間がたつとともに自分を受け入れるようになる、それにつれて怒りが別の感情に変わっていく、ということではないだろうか。

この点でも、裁判に被害者が参加する(公判への出席、情状に関する事項についての証人に対する尋問、自ら被告人に対して行う質問、証拠調べ終了後の弁論としての意見陳述(求刑を含む)を認める)被害者参加制度には反対である。

被害者の思いが変化するなら、一審での求刑が二審では変わるかもしれないからである。

たしかに時は重要だが、ウェルチ氏や木下氏の心境が変化したのは時間が経過したということだけではないと思う。
というのも、すべての遺族が死刑に疑問を持つとは限らないからだ。

19歳の娘さんを殺されたパトリシア・ブラードさんは死刑に賛成である。
ブラードさんは布施勇如氏にこう言っている。
「人の命を奪った罰として、死刑は用意されている。罪悪を抑止するために死刑を用いる。そういう国に暮らしている私たちは、幸せね。二度とそんな罪を犯すことができないよう、こういう人間の命を奪うことは正しいことだもの」

ブラードさんは死刑の執行に立ち会っている。
薬物注射による執行は「とても速く終わった。何の苦痛もなくね」とブラードさんは言う。
あまりに安らかな死刑囚の最期に不満を表す関係者は多いそうだ。

ウェルチ氏が死刑に反対するのはキリスト教の信仰からだが、ブラードさんもキリスト教徒であり、死刑に賛成な理由として聖書を引用している。

木下氏はおそらくいろんな思いがからみあい、言葉では言い表せないものがあると思う。
それにしても、「被告の生命も、あいりの命も、私の命も、一人一人大切なものではないかと考えるようになった」と木下氏は言われているが、殺された子どもの命と殺した人間の命がともに大切だとはなかなか言えるもんじゃない。
頭が下がる。

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裁判員制度を考える13 おしまい

2008年12月01日 | 日記

高山俊吉『裁判員制度はいらない』に、司法制度改革推進本部の意見公募に寄せられた意見(2003年7月)が紹介されている。
「刑事裁判を雑にやっていいのか」
「裁判官が常識外れだからといって市民が良識を備えていることにはならない」
「間違った判断をして判決後に真実がわかったら一生悔やむ」
「少しぐらい休んでも生活に困らない人の考え」
「国民常識の現状は推定無罪ではない」
「あなたは法律知識のない人に裁かれたいか」
「被害者、犯罪者、その家族、国民みんなの人生を簡単に考え過ぎている」
「拒否できないというのは国家の強制力に国民を慣れさせたいからだろう」
「マスコミの意見に左右され、死刑だと繰り返し報道されれば死刑だと思い、こんなに悪いことをしていると繰り返し放送されれば有罪だと思うものだ」
etc

なるほど、もっとも。
きわめて常識ある意見ばかりである。
裁判員制度の問題点を的確に指摘しているこうした意見に対して、最高裁、法務省、日弁連はどう答えるのだろうか。

2005年8月に行われた模擬裁判での裁判員たちの感想は、
「もうやりたくない」
「専門知識がないので、これで良いのかと後悔が残りそう」
「何を基準に(量刑を)決めればいいかわからない」

その時の裁判員は、裁判所職員2人、日弁連職員2人、その他2人。
身内でもこういう感想なわけである。

渡辺えり子氏はこう言っている。
「みんな裁判員になるのをいやがっているのは、裁判を軽視しているからじゃなく、裁判は重要なことだと思うからこそ自分たちがやるべきじゃないと考える。命がかかっていることを素人感覚でやっちゃいけないと思っているのです」(高山俊吉『裁判員制度はいらない』)

これまたそのとおり。
餅は餅屋にまかせるべきだと思う。
大相撲で不祥事が続くから、日本相撲協会の役員に外部の人が入いることは当然だと思う。
医療ミスを検証するために病院が委員会(外部の人も含む)を設置するとしたら、反対する人はあまりいないと思う。
だけど、医療ミスが多いから医療制度を改革すべきだというので、診察には国民から選ばれた一般人が立ち会い、選ばれた診断員と医者の多数決で決めるようにしようなんてことを主張する人はいないだろう。

司法を変えるためには、裁判員制度ではない、違ったやり方があるはずだ。
裁判員制度で裁判を行いながら、問題点があれば変えていこう、というのは順序が逆で、まずは代用監獄制度の廃止、取調べの全面可視化、証拠の事前・全面開示、公判までの準備期間の保障、国選弁護人の質と報酬を高める、推定無罪の周知などを行い、そのうえで裁判に国民が参加するかどうかを国民に問うべきではないかと思う。
細かなところまで考えずに、とにかくやってしまおう、まずいところがあればその時に考えればいい、というので裁判員制度が始まる。

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