三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

信田さよ子『アダルト・チルドレン完全理解』

2008年09月29日 | 

信田さよ子『アダルト・チルドレン完全理解』を読んで、親として内心忸怩たるものを感じた。
たとえば、
「アルコール依存症の家庭に育った子どもたちがいちばん傷ついているのは、夫婦のいさかいなのです」
「こちらのほうが、直接殴られるより子どもにとってははるかに苦痛です」

ということ。
私はアル中ではないし、妻や子どもを殴ったこともないが、妻とはしょっちゅう言い合いしている。
子供たちはさぞかしいやだったんだろうなと思う。

アダルト・チルドレン(AC)を概念規定すれば「自分の生きづらさが親との関係に起因すると思う人」ということになるそうだ。
親からの期待、圧力により、生き方が方向づけられ、その結果、生きるのが苦しくなる。
「周囲から見て、いい子を演じる、いい人を演じてしまうわけです」
「いい人と見られたいと行動しているわけで、そう見られなければ、自分の存在感を失ってしまいます。嫌われたり、疎まれたりすることが何より怖いのです」

そういう生きづらさというのはすごくわかる。
実際、生きづらいと感じている人は多いと思う。
人からよく思われたい、嫌われたくないと思っている人がそうだ。
某氏は以前、「明日までこの仕事をやってくれ」と言われ、できるはずがないとは思いつつ、「はい、わかりました」と答えてしまっていたそうだ。
当然のことながらできない、だけど仕事に行かないといけない、というので出社拒否となり、ウツ病となったそうだ。

とはいえ、そうした生きづらさのすべてが親との関係が原因というのは言い過ぎではないかと思う。

もともとACとはアルコール依存症の親を持つ家庭に生まれて成長し、アダルトになった人という意味であったのが、機能不全の家族のことになり、さらに普遍化して、「どこにでもある家族の問題となっている」と信田氏は言う。
そこらあたりまではわかるのだが、「自分がACだと思えばACなんだ」と自己申告になり、さらには「親に目立った問題がなくても苦しむ人がいるのです」ということになってくると、ちょっとねえと思う。
セクハラの自己申告みたいである。
親をいたずらに責めることにならないのだろうか。

春日武彦『不幸になりたがる人たち』にこうあった。
「ひところ流行したトラウマとかアダルト・チルドレンといった言葉も、都合の良い敵(幼少時の惨めな出来事とか、愛情の欠如した親とか)を記憶の彼方から掘り出して、それにすべてを責任転嫁するための方便として大いに利用されたものであった」
「幼い頃に心ない人物によって負わされた(と称する)トラウマを自ら開陳し、雄弁に自己の悲惨さについて語りたがる患者がいる。まるでテレビドラマの脚本のような、明快で説得力に満ちたストーリーなのである。おそらくその人にとっては、もはやそのストーリーこそが真実であり、大抵は悪役として親だとか教師といった人びとが登場して恨みの対象となっている」
春日武彦氏の本はあまりオススメではないが、この部分だけは笑った。

親が暴力をふるっていたとか、酒を飲んでは暴れていたとかならわかる。
しかし、「うちはごく普通の家族だったからこうなったんだ」とか「親がまじめすぎて息苦しかった」ということで苦しむ人だっているかもしれない。
まじめだからと責められたのではたまらない。

そのことに対して信田氏は、
「原因を除けばすべてが解決するのでしょうか。私は〝親が原因〟と言いたいのではありません。親を抹殺すれば解決するのではないのです。親との関係で苦しんできたのですから、親との関係を変えればいいのです」
「親との関係が自分のドラマのストーリーの中に整然と収まる。そしてそのドラマが平穏にあるということです。自分の人生と親の人生の間に線が引けるようになることです」

と言う。
わかったようなわからないような。

「親との関係で苦しんできた」というのは自己申告であり、実際に親のせいだったかどうかとは別問題なわけである。
ACというのはいわば方便というか、自分の苦しみ、生きづらさをとりあえず説明してくれる物語だという意味だと思う。
方便とは、川を渡るための舟のようなもので、川を渡ってしまえば舟はもはや必要ではなくなる。
同じように、ACという物語の枠組みが与えられることで自分の物語を作り直し、自分の苦しみを受け入れていくということができるようになれば、ACは必要なくなる、そういったものなのかもしれない。

「自分が悪いと思っていた物語を話し、自分はACなんだと、もう一度遡っていって、私はこの世の中に生まれてもよかったんだと、物語を書き換えていくわけです」
でも、物語を書き替えた結果、親との関係がいっそうまずくなったらどうなるんだろうか。

信田さよ子『依存症』にはこう書かれてある。
「現代における、~せねばならない、こうあるべきといった望ましさを徹底し、その結果が自らを危うくするようなパラドックスに陥った人たちが依存症者である」
「自分で自分を思いどおりにして日々よりよい自分を形成していくという命題の忠実な実行者が依存症の人たちだったとすれば、その逆をやればいいのではないだろうか。つまりがんばらずに、争わずに、昨日と同じ今日を、今日と同じ明日を生きること…」
楽に生きるための手段としてACがあるのかもしれない。

「問題が全部解決するのが「ACの回復のゴール」ではないと思います。それでは一生ずっと回復をつづけても足りません。ある時期、自分に「AC」と名前をつけることで楽になれば、それでいいのです」

でも、ACの人と話してて、
「回復ってなんだろうねえ、本当に」
「分かりませんねえ」

という会話になるのが現状だそうで、ずいぶんいい加減なもんだと思う。
となると、自分はACだというということに依存することにならないのだろうか。

どうもすっきりしなかったのだが、
ACの人には子供の心のまま大人になった人が珍しくないらしいということにはうなずけた。
40代、子供が3人いるのに少女のような女性は、15歳の時に母親がガンでなくなり、父親は彼女より6歳上の人と2ヵ月後に再婚する。
「彼女のなかで、時は十五歳で止まったままです」
「十五歳の時に死んだお母さんの幻想をずっと持っていました」

生きている実感がなく、子供のままストップしてしまった人たちというと、光市事件の被告を連想する。
光市事件の被告は父親の暴力と母親の自殺で精神の発達が12歳でストップしたと弁護団は言っている。
甘えようとして抱きついたとか、ドラえもんが何とかしてくれるとか、18歳の人間がそういうことを考えるのも十分あり得る話だと思う。



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サラ・ポーリー『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』

2008年09月26日 | 映画

サラ・ポーリー『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』は、妻がアルツハイマーになって、という映画。
ジュリー・クリスティは1941年生まれだから、映画の18歳の時に知り合って44年の結婚生活という設定は実年齢に近い。
オリンピア・デュカキスの笑みがすごくいやらやしいのだが、1931年生まれとは。
この二人とベッドシーンを演じるグラント役のゴードン・ピンセントは1930年生まれ……。

いつものように以下ネタバレ。
施設に入った妻フィオーナは夫グラントのことを忘れてしまい、患者の一人であるオーブリーと親しくなる。
まわりからは夫婦と思われるほどフィオーナはオーブリーの世話を焼く。
グラントはまるで寝取られ夫であるが、何も言えない。

オーブリーは施設から家に帰ることになり、ショックでフィオーナは寝てばかりいるので、このままでは歩けなくなるかもしれない。
それでグラントはオーブリーの家に行き、オーブリーの妻マリアンに二人が会えるようにできないものかと提案する。
オーブリーがまた施設に入るにはお金がかかり、そのためには家を売らないといけない。
それからグラントとマリアンは親しくなり、たぶんマリアンは家を売ってグラントと一緒に住むことにして、オーブリーを施設に入れることになる。

グラントはフィオーナにオーブリーが施設に戻ったことを伝えると、フィオーナはオーブリーのことを覚えていない。
そして、グラントに「家に帰ろう」と言い、そうして「私を捨ててもいいのよ」と言って終わり。

原作のアリス・マンロー「クマが山を越えてきた」(『イラクサ』所収)では、その後にフィオーナはこう言う。
「来てくれてうれしい。車で逃げちゃえばよかったのに。気楽に逃げちゃえば。わたしのことなんかほっぽらかして。ほっぽらかし。ほっぽらかして」

アルツハイマーの妻を世話する夫の愛情なんて話じゃなく、罪についての話ではないかと思う。
というのが、施設に行く車の中でフィオーナは、元大学教授であるグラントが女子学生とやり放題だったことを責める。
だけども、フィオーナは他の教授たちのように妻を捨てなかったことを感謝する。
だからグラントは、フィオーナが他の男と親しくするのは演技であって、自分への当てつけではないかと思ったりもする。

マリアンの家に行った時は、夫としてのプライドを捨て、フィオーナのためにオーブリーを施設に連れていこうとしたのだろう。
だけども、オーブリーとフィオーナをくっつけて自分はマリアンと一緒に暮らすことにしたわけである。
結果的には妻を捨てようとしたことになる。
それを見透かされたように、妻から「私を捨ててもいいのよ」と言われるのである。

最後に流れるのがニール・ヤングの「Helpless」
グラントにとって、まさに「自分ではどうすることもできない」「助けを得られない」「無力」な状況である。

妻を裏切っていたグラントが、妻のためにと思ってしたことが妻を捨てることになってしまう。
そういう二重三重の罪。
アリス・マンロー『イラクサ』の訳者あとがきにこうある。
「不実な夫の身勝手な独りよがりがあからさまに描かれている。だが、この夫は不実だけれど、妻を純粋に愛してもいるのだ。裏切りながら誠を尽くす、人間とはそんなものなのかもしれない」

原作者、監督、ともに女性である。
男性の身勝手さに対する女性から強烈なしっぺ返し。
となると、オリンピア・デュカキスの笑みは単にいい男を見つけたというだけのものではないのかもしれない。
 

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格差社会と貧困層

2008年09月23日 | 日記

アメリカでは医療保険未加入者が約5000万人、保険に入っていても保険会社は保険金を払おうとしないという唖然とする実態をマイケル・ムーアは『シッコ』で告発している(というような深刻な重さはないが)。
なのに、国民皆保険制度を実施しようとするヒラリー・クリントン氏がどうして民主党大統領候補になれなかったのか不思議である。
保険に加入していない人は医療を受けることができないことをどう思っているのだろう。
たぶんあきらめているんじゃないかと思う。

時給6ドルや7ドルで働く400万ともいわれる女性たちに混じって、ウェイトレス・掃除婦・老人介護・ウォルマートの店員として働いたバーバラ・エーレンライクは、掃除婦の同僚に「客たちのことをどう思っているのか」と尋ねると、こういう答えが返ってきたという。
「私は全然気にならないわ。きっと人間が単純なのね。あの人たちが持っているものを欲しいとは思わない。私にはどうでもいいことだわ。ただ、ときどき、どうしても休まなきゃならないときは一日仕事を休むことができたらいいなと思うだけ。休んでも、明日の食べ物が買えればいいなと思うだけ」
『ニッケル・アンド・ダイムド』
アメリカン・ドリームなんて夢のまた夢なわけである。

日本でも事情は同じだと思う。
「ビッグ・イシュー」102号に今野晴貴氏(NPO法人代表)のインタビューが載っているが、見出しは
「自己責任じゃない、責めるべきは失業者を救わない社会構造
不利な労働条件で働く若者の多くは、「こんな職場を選んだ自分が悪い」と自分を責める。しかし、今野晴貴さんは「責められるべきは法令違反している企業側、労働者ひとりの力は微弱でも、仲間となら見えてくる解決法もある」と語る」

「日本は欧米に比べて、〝自己責任〟という考え方が浸透している」そうだ。
これは同時に、国民には最低限の生活をする権利があると考えている人が少ないことを指す。
「(憲法で保障された)最低限の生活を保障すべき国家は何もしてくれない」のにもかかわらず、声をあげることをしない。

「ワーキングプア 人間らしい生活を求めて」という講演会で、もやい(ホームレス・生活困窮者への相談、ワーキングプア状態についての相談、生活保護についての相談などを指定るNPO)事務局長の湯浅誠氏「反貧困 私たちにできること」という講演を聞いた。
貧困は社会の問題、社会のありようを問う、と湯浅氏は言われた。

湯浅氏は、まずもやいに来た相談のメールを紹介された。
派遣会社が給与を支払ってくれず、生活ができなくなって退職した20代の人。
日払い派遣の仕事を選ぶしかないのだが、働くとこが遠い場所だと交通費がないので働けない。
資金は底をつき、ライフラインも停まってしまい、家賃は払えそうもない。
「このまま追い出されてホームレスになるか、自殺しか方法は残されていないのでしょうか」
27歳のホームレス、「自殺なんか」も考えたが未遂に終わったり、「生きていても死ぬか悪いことして刑務所暮らしするしかないのかとか考えたり」

もやいに相談する人は20代ばかりではない。
全国のあらゆる世代から相談を受けるそうだ。
彼らに共通するのは役所に相談するということをまるっきり考えもしていないことである。
自己責任論に縛られていると湯浅氏は言う。
働けるなら働く。
ところが、月給をもらえるまでの一ヵ月間の生活費(食費、職場までの交通費、家賃など)がないために、日雇い労働をせざるを得ない。
2千円でもあれば、お金があれば、人に頼ってはいけないと思う。
手持ちの金が100円とか20円になり、仕事探しもできなくなり、とことんどうしようもなくなって、やっともやいに相談するのである。

生活保護からももれて、最低ラインより以下の人が600万人から850万人いるそうだが、この人たちの多くを家族が支え、家族が社会保障を肩代わりしている。
では、家族が支えない場合はどうなるのか。
それが先ほどのメールの人たちである。
この人たちも労働市場に戻り、どんな低賃金、どんな労働条件でも働く。
風邪をひいてバイトを休んだらクビになったと、雨宮処凛氏が同朋新聞のインタビューで話しているが、食っていかないといけないから、文句を言えない。
労働力の安売りを本人がするわけである。
そうして労働市場の質の悪化という悪循環。

よく、若い人は今さえ楽しければいいと思っているとか、自分の権利ばかり主張しているとか非難される。
そういう人もいるだろうが、多くは自己責任の呪縛にとらわれ、生きていくのに精一杯なのである。

大津和夫氏(読売新聞社はこう言っている。
「この取材をしていると1週間ぐらい取材できなくなっちゃうんですよ。重たくて。あまりにも重たいんです。彼らは異口同音に『自分は無視されている』と語る。それは『自分がいてもいなくても、世の中には関係がないんだ』という意味です。まるで最後の言葉みたいですよね。僕の感覚からいうと、こういう状況って、いまだ多くの人に『見えていない』」(「ビッグ・イシュー」102号)

うーん、マザー・テレサの言葉に
「この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。むしろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じること」
というのがあるが、「誰からも必要とされていない」人がいるのはカルカッタだけの話ではない。
疎外という言葉が一時はやったが、まさに疎外されているわけである。

正社員だって似たり寄ったり。
そもそも、正社員、パートなど、働き方の違いを問わず、雇用主が最低限支払わなければならない賃金が日本はとても低いそうだ。
正社員の3割が年収300万円以下で、貧困ラインに正規社員も入っている。
残業代をもらえない「名ばかり管理職」も多い。

某氏からマスコミ業界は給与が高く、社員の平均年収1千万円以上という会社が普通だと聞いた。
新聞記者をしている人にそのことを尋ねたら、その通りだがそれだけ働いていると言ってた。
しかし、時給800円で一日20時間、365日働いて、年収は584万円。時給1000円だと年収730万円である。
とてもじゃないが、パートで年収1千万円を稼ぐのは難しい。
「長時間労働は古くて新しい問題ですが、今の日本には目安があっても上限規制がないんです。つまり、企業側がずっと働かせ続けられる法体系になっているんですね」
(ビッグ・イシュー」102号)

7年間ネットカフェで寝泊まりしていた34歳男性が、友だちに連れられてもやいにやって来た。
彼は最初「ほっといてくれ」と言ったそうだ。
どうにもならないと自分に言い聞かせて生きてきた、こんなもんだと思わないと生きていけない、だから変な夢を見させて失望したくない、ということなのだろう。
社会から排除された人は、自分の尊厳が守れなくなり自分自身からも排除するようになる。
でも、この34歳の男性、生活保護を受けてアパートに住み、2ヵ月で仕事を見つけたそうだ。
やり直しはできるのである。
お金をたくさん持っている麻生太郎氏にそこら(セイフティネットや居場所作り、派遣労働や最低賃金の法整備など)を何とかしてもらうようお願いしたいです。

     
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アメリカの増税と日本の選挙

2008年09月20日 | 日記

アメリカの選択:08年大統領選 バイデン氏とペイリン氏、増税巡り火花
◇バイデン氏「愛国心示せ」/ペイリン氏「仕事失わせる」
 米大統領選の焦点の一つの税制問題をめぐり、民主党のバイデン上院議員と共和党のペイリン・アラスカ州知事の両副大統領候補が18日、火花を散らせた。バイデン氏が富裕層への増税政策について「(富裕層は)愛国心を示せ」と訴えたのに対し、ペイリン氏が「愛国心の問題ではない」とかみついた。
 バイデン氏は18日、ABCテレビで、税制問題では中間層を重視する考えを強調。富裕層に対して「愛国心を示すときだ。米国を救うときだ」と述べ、増税に理解を求めた。民主党はブッシュ政権が実施している年収25万ドル超世帯への減税を廃止し、所得税の最高税率を35%から約40%に引き上げるよう提案している。
 これに対しペイリン氏は遊説で「増税は仕事を失わせ、中小企業に影響を与える。愛国心の問題ではない」と反論。民主党大統領候補のオバマ上院議員について「稚拙な判断が問題だ」と批判。「オバマ氏は増税路線」と主張する共和党大統領候補のマケイン氏を後押しした。
 バイデン氏は「税金を払うことは愛国心だと言っているだけだ」と反論したが、論争にマケイン氏も参戦。バイデン氏の発言を「あぜんとする」と痛烈に批判し、富裕層への減税継続を強調した。
毎日新聞9月20日

共和党は金持ちの味方だという話だが、なるほどと納得したニュースだった。
で、不思議なのが貧困層がどうして大統領選で共和党候補に投票するのかということである。
だからといって民主党が貧者の味方というわけでもないらしい。

07年末までに1億ドル(約120億円)の大台に乗せないと戦えないと言われてきた。大統領選全体では1人あたり5億ドル規模が必要との見方もある」
とのことだったのが、
各候補の資金総額は初めて10億ドルを超えると予想されている
と倍に増えている。

民主党候補のオバマ上院議員は8月に獲得した選挙資金が6600万ドル(約70億円)、50万人が新たに献金し、献金者の総数は250万人以上、1ヵ月の資金獲得では史上最高額だそうだ。
共和党候補のマケイン上院議員は4700万ドル(約50億円)で、こちらも負けていない。
となると、金持ちに損になるようなことは両候補ともできないだろうと思う。

アメリカ合衆国の貧困率は12.7%で、人数にするとおよそ3700万人が貧困ライン以下の生活をしている。
医療保険未加入者が約5000万人、人口は約3億だから、6人に1人が保険に入っていない。
格差の是正をという声が上がってもいいように思うのだが、実際のところはどうなのだろうか。

日本だって他人事ではないと思う。
日本のジニ係数(所得分配不平等度)はOECD20ヵ国のうち下から6番目。
日本より下は、イギリス、ニュージーランド、アメリカ、イタリア、ポルトガルである。

相対的貧困率だと、日本はOECD17ヵ国のうち下から2番目(最下位はアメリカ)
自民党の総裁選、そして衆議院選での一番問題にしてもらいたいのは格差の拡大、そして貧困層を減らすことである。

だけども、そういう意識は政治家や官僚にはないのではなかろうか。
「ビッグイシュー」102号に大津和夫氏(読売新聞社)のインタビュー記事が載っていた。
大津氏はこう言う。「日本の場合、貧困の基準は実際ないも同然で、政府は貧困がないというとらえ方をしています」

「最近の話だ。大津和夫さんの耳にある官僚の言葉が飛びこんできた。
「若者問題ってもう終わったよね。景気も回復してきたし、失業率も下がった。仕事のチャンスなんかいくらでもあるでしょう?」
聞き捨てならなかった。
いや違う。それは違うと、大津さんは反論した。
「その仕事はどんな仕事ですか? いくら稼げますか? 彼らがどういう働き方をさせられているか、あなたは知っているんですか?」
そこまで問いつめていくと、相手も黙ってしまい、もう何も答えられなかったという」

で、話は最初に戻って、日本の貧困層は600万人以上いると言われている。
20人に1人である。
誰に投票するか、貴重な一票なのだが、投票したい人が私の選挙区にはいないというのが悲しい現実である。

そんな面倒な話より巨人が逆転優勝するんじゃなかろうか、というほうが気になるということもあります。

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滝田洋二郎『おくりびと』

2008年09月17日 | 映画

滝田洋二郎『おくりびと』を見るまでは納棺師という職業があると知らなかった。
『おくりびと』の舞台は山形県庄内地方、主人公が面接に行くと、月給50万円とまず言われる。
庄内で納棺の仕事をして月に50万円ももらえるのだろうか、そもそも庄内でこの仕事が成り立つのかと思った。
で、ネットであれこれ調べてみた。

「納棺師」で検索すると出てくるのが、株式会社札幌納棺協会、そのグループがNKグループである。
『おくりびと』の主人公が勤める会社はNKエイジェンシー。
NKとは納棺のことだそうで、札幌納棺協会がまずはモデルなのかもしれない。

葬儀社に勤める人のブログにこうあった。
「私が業界に足を踏み入れた15年前には、料金が高い浴槽を使用する「湯灌」が年に何回かありましたが、浴槽を使わず、故人をマジックのように丁寧に着せ替えをする納棺師など無く基本的に都内では葬儀社が白の経帷子を上からのせて旅支度だけをご家族の方々とするのが通例でした。
しかし8年ほど前に、北海道から「納棺協会」という会社が東京へ進出してきました。私は、基本的にどんな営業でも話は一応聞いてみる人間なので納棺協会さんが来社されたときにその仕事の意味、内容、価格、アフターなどお話を聞かせていただきました」


山形県鶴岡市の葬儀社のHPには
「最近では「納棺師」という、遺族、親族に代わってご遺体を清め、死化粧を施してお棺に収める納棺の専門職がおりますので、葬儀社にお尋ねください」
とある。
庄内地方にも納棺師がいるのだ。

では、納棺師はどういう仕事をし、料金はいくらなのだろうか。
「葬儀社から依頼されて納棺師を派遣している「ケアサービス」(本社・東京都大田区 大証のヘラクレスに上場)の富澤政信取締役はこう説明する。
「納棺師になるための特別な資格はありません。当社の納棺師は社内研修を3カ月から6カ月受けた約120人で、すべて社員。20代の女性が多い。故人への主な仕事は(1)シリコーン注射などによるやすらかな死に顔づくり(2)消臭効果のある薬品を口の中に入れる防臭処置(3)口、鼻、お尻の穴に綿花を入れる詰め物(4)白装束などを着せる着衣(5)納棺(6)遺体の髪や体を洗う湯灌です。湯灌を行わない場合、納棺師1人で切り盛りします」
納棺前に行われる湯灌は、ペアの男女の納棺師が手がける。大型バンを改造した車に軽量プラスチック製浴槽(1畳サイズで深さ30センチ)を積んで葬儀会場や自宅に出向く。改造車に差し込んだ湯が出るホースと排水用ホース(車にタンクが内蔵)をつないだ浴槽にバスタオルで包んだ遺体を横たえる。納棺師と遺族が一緒に髪や体を“清める”のだ。
納棺師の仕事は、湯灌を含め1時間30分ほどで終了する。納棺師を兼ねる社員は多少手当が付く。
料金はどうなっているのか。
「葬儀社のセット料金に含まれているケースとオプションのケースがあります。いずれにしろ湯灌まで行えば8万円から10万円が首都圏の相場。湯灌を除くと、5万円くらいです」(前出の富澤取締役)」


葬儀社が社員に納棺その他をさせるほうが葬儀社としては安くつくと思うのだが、そこらはどうだろうか。
葬礼に関する業界で活躍し続けている人はこう説明している。
「映画(『おくりびと』)では、葬儀社スタッフの役割と、納棺師の役割が区別されて描かれていますが、多くの葬儀社は納棺の儀式を自社スタッフで行っています。「葬儀社は病院のお迎えから通夜、葬儀・告別式、アフターフォローまで一連の流れをトータルで統括するのが仕事、ご遺体の扱いは納棺専門業者に委託したほうが良い。」という考え方もありますが、納棺は通夜、葬儀・告別式への流れにつながる儀式のひとつであると同時に、遺族が故人との別れを認識する大切な場面でもありますから、葬儀社の担当者が場の空気を感じながら行うべきという意見が多いからです。
それでも、湯灌やメイクが伴う場合は専門業者に依頼するケースが多いようです。納棺業者の中には湯灌やメイクだけでなくエンバーミングを付帯して行っているところもあります」

では、納棺師はいくらもらっているのだろうか。
納棺師のブログにこうあった。
「アルバイト情報誌を開くと載ってたので記載します。
【ゆかん】・・・死後間もないご遺体を洗うこと
葬儀前(御通夜前)に働くとするとはたしてHOWマッチ???
男性が日給7500円
女性が日給6500円
歩合は一件3500円
つまり一体洗うと3500円貰えるわけです
この仕事は冬場が稼ぎ時
だいたい4月から9月ぐらいまでは暇なのです。
暇な時期に募集をするみたいですから興味のある人は調べてみて
で9月半ばから3月下旬ぐらいまでは
月平均60件 出勤日数22日として
60×3500円=21万
22×7500円=16万5千円
合計・・・・・・・37万5千円」
なるほど、湯灌(ATOKでは変換できなかった)だけでこれだけの収入なら、化粧や着替えを含めたら月収50万円はそうびっくりする金額ではないわけだ。

映画では納棺のシーンが美しく描写されていたが、洗体レディーという人のブログによると実際はそうでもないらしい。
「お着せ替えをしようと故人の体を傾けたらカケられました。私の太ももから下半身にかけて“真っ黒い血”吐血というのか通称“腹水”とも言いますが・・・ものすごい臭いでした。大ショックでしたが自己のあさはかさを思い知りました」

私の映画を見た感想は、納棺師の所作はあまりにも儀式張っているということ。
いかにも丁寧に仕事していますという納棺師の所作が大げさで、作り物めいてしっくりこなかった。
しかし考えてみると、死から納棺、通夜、葬式、そして納骨までの一連の流れはすべて儀式である(死亡届を出すことなども)。
小此木啓吾氏は『対象喪失』で「喪の仕事」という言葉を使っている。
儀式という喪の仕事を一つずつ行うことで、遺族は身近な人の死を受け入れていくのである。

『対象喪失』に、フロイトが父親を亡くした後に見た夢の話が出てくる。
「いまだ大便がつまっていた父親の死体は、絶命の瞬間あるいは死後まもなく、脱糞するに違いない。(略)そこでフロイトは父親の死体を前にして、大便で汚された死体を浄めねばと思う」
フロイトは自己分析をし、父親の遺体を浄めようとする意味がこう説明されている。
「息子は看病しているあいだ、幾度か父が死ねばいいのにと思った。(略)そして、息子は自責の念に苦しめられる」
遺体を浄めるということは「自責の念に発する面をもっている」と解釈される。

人は身近な人に対して愛情と憎しみという相反する感情を持つ。
その人が亡くなると恨み、憎しみの感情は消え、それが死者に対する罪の意識に変わるそうだ。
遺体をきれいにして送らなければと思うのは、遺体を清拭することで自分の罪を償うという意味もあるのかもしれない。

『おくりびと』の中で、「この人みたいな仕事をして償うつもりか」というセリフがあった。
二人乗りバイクが転倒して娘が死に、ケガですんだ男に遺族がこの言葉を言う。
「この人みたいな」遺体を浄めるという穢れた仕事をすることで、死なせてしまったという罪を償うことになる、そういうふうにこの遺族は無意識の中で思っていたのかもしれない。

『おくりびと』が作られたのは、主演の本木雅弘氏が青木新門『納棺夫日記』を読んで感動したからだそうだ。
青木氏は妻から「穢らわしい、近づかないで!」と言われたという。

クリント・イーストウッド『父親たちの星条旗』の主人公は、葬儀屋になるのが夢だというので、仲間から変わり者と見られている。
アリス・マンロー『イラクサ』「なぐさめ」にはエドという葬儀屋が出てくる。
「エドとキティーは見栄えのいい夫婦だった。あんな職業でさえなければエドはなかなか興味をかきたてられる男だ」
カナダでも「あんな職業」なのである。

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ニューエイジの霊魂観 3

2008年09月14日 | あやしい教え・考え

よく「つながりを生きる」とか「見えない世界があるんだ」と言われる。
これは「つながり」や「見えない世界」が実体的にあるということではない。
「見えない世界」とは、私たちはさまざまなつながりや関わり(つまり縁起)の中で生きているのに、そのつながりや関わりに気づかず自分の力だけで生きていると思い込んでいる、しかし多くの人の支えやはたらきがあって生きていくことができるんだということを指摘しているわけである。

あるいは、金子みすゞの「大漁」という詩。
    大漁
   朝焼小焼だ 大漁だ
   大羽鰮の 大漁だ
   浜は祭りの ようだけど
   海のなかでは 何万の
   鰮のとむらい するだろう
大漁を喜んでいる私たちにはいわしの悲しみが見えていない。
「見えない世界」とはそういうことである。

ところがニューエイジのように、見えない世界を実体化し、見えない世界こそが本当の世界、真実の世界なんだと考えると、現実の世界、現実の私を軽視することになる。
というのも、私という存在は誰とも代わることのできないかけがえのない存在のはずである。
しかし、実体的いのち・こころの世界では、私が死んでも存在の根底に一体化し、そして別の人として生まれ変わるのだから、私の死は悲しむべきことではなくなるから、今の生をおろそかに考えてしまうことになる。

伊東良徳弁護士は、死刑とポアは、生きていてもどうせ悪いことをするんだからさっさと殺せ、ということでは同じ理屈だと言ってる。
「特別予防、すなわちその個人が再犯の恐れがあるということで社会から隔離するんだというのがいわゆる近代学派の刑罰の根拠です。そうなってくると、特別予防の立場からの死刑の考え方は、まさにこれから悪いことをする恐れのあるやつだから先に殺してしまえという考え方になるわけです。それはむしろ行政が現にやっていることであり、オウム真理教の考え方と共通している部分があるわけです」(パトリシア・G・スタインホフ、伊東良徳『連合赤軍とオウム真理教』)

ポアとは生まれ変わりが前提である。
ある人がこれから悪いことをするのがわかっていて、悪いことをする前にその人を殺すことで罪を作るのを防ぐ、だからその人のためには慈悲になる、そして殺された人は生まれ変わってやり直しをすればいい、という考えである。
オウム真理教の元信者たちはこう語っている。
「論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんです。だからそのへん(の道筋)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力のない人がそんなことをやってはいけないと、私は思います」(村上春樹『約束された場所で』)

「サリンの犠牲者たちは、高度に進化した霊的存在のために殺されたのだから、彼らは功徳を施されるでしょう。(略)霊的に低いレベルの人びとは、価値のない生活を送っていて、他の人びとに迷惑をかけるような生活を続けます。ある点で、彼らはとても苦しんだかもしれませんが、しかし、彼らは苦しみの彼方に行ってしまい、霊性を高めて、彼ら自身が経験した苦しみの代わりに、(来世で)他の人びとにより大きな徳をもたらすことができるでしょう」(ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想』)

死刑賛成論の中には死後の生を前提にしたものがある。
私がブログに書いた死刑反対論に対し、あるブログがこういう批判をしている。
「お坊さんでしたら"死刑回避"っていう"現世利益"にこだわらず、むしろ来世での救い、死を受け入れて浄土への往生を諭すのがお仕事なんじゃないのかしら?っと思うわけで。現世利益にこだわるのは学会さんだと思っていました。むしろ罪を悔いて刑に服し救済を願う。そのときに"南無阿弥陀仏"と唱えることで、阿弥陀様が浄土に連れていってくださるのではって。そう諭すことが真宗の僧侶の仕事であって、死刑・・・厳罰化に反対するのが本来の仕事ではないと、感じたりとか。なんか、ちょっと・・・ずれてる気がして」

死んでも死なないのだから、おとなしく死ぬように説得するのが坊主の仕事というわけだ。
これも実体的な死後の生を前提にして死刑廃止論に反対しているわけで、その点ではポアと同じように現実の生を軽視している。
でも、ひょっとしたら真宗門徒でもこの意見に同意する人がいるかもしれない。
死刑囚の教誨で「死んだら浄土に生まれるんだから、おとなしく死んでいきなさい」なんてことを言ってきたらしい。

無実にもかかわらず死刑囚とされた免田栄さんは、浄土真宗の教誨師がこういうことを言ったと書いている。
「毎週、教誨師が来て説かれる説法は因果律で、前世において死刑囚になる因を持っていたから現世において死刑囚になっている、故にそのままの姿で処刑されねば救われない、とまことしやかに説かれては、宗教に弱い臆病な者は確定判決に不服があっても再審をあきらめるしかない」(免田栄『免田栄 獄中ノート』)」

ハンセン病の方にも同じ法話をしてきた。
元患者の方はこう話されている。
「昔のお説教の時に、「病気になったのは業病なんだ、前世に悪いことをしたからその祟りだ」とか、「あなたたちはこういう病気になったのだからあきらめなさい」というような話を聞いたことがある」

前世の報いだというわけで、これはカルマの法則である。
カルマの法則は前世の私と現世の私とが実体的につながっているという前提で成り立つ論理である。

前世のカルマなんて誰もわからないのだから、いくらでも勝手なことが言える。
たとえば、江原啓之氏は佐藤愛子氏との対談でこんなことを言っている。
「例えば、自分は殺されたとします。自分が殺されることができるというのは、人がいるからだと。
殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる」
(佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』)

江原啓之氏は強姦された人に対して、「強姦してくれた人に感謝しなさい」とか、「カルマがなくなったのだから喜びなさい」と諭すのだろうか。
こういう発言をする人が女性に人気があるというのは信じられない。

死刑やポアや殺人を肯定する論理は実体的な死後の世界や浄土、生まれ変わり、ニューエイジやスピリチュアル的な考えと結びついているわけである。

よく「今の人は死んだらおしまいだと思っている。だから、今が楽しければいいと考えている」と言う人がいる。
でも、死んだらおしまいだからと好き勝手に生きている人はほとんどいないのではないだろうか。
ワーキングプアが問題になっているのは、劣悪な労働条件、低賃金であるにもかかわらず真面目に働く人がいるからこそ問題になっているのである。
この人たちは「いいところに行けますよ」というアメや、「悪いカルマを作ることになるぞ」という脅しのせいで真面目に働いているわけでもなかろう。
死んだらおしまいだと考えている人は今さえ楽しければいいと思っている、死後の世界や生まれ変わりがあると信じたら今を大切に生きるようになる、という決めつけは浅薄だと思う。

そもそも、死んだらおしまい、何もかもなくなると思っている人がどれくらいいるのだろうか。
「宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査
 読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
 ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
 多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
 死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%――がこれに続いた」
読売新聞5月29日

死んだらおしまいだと思っている人よりも、生まれ変わるとか死後の世界に生まれると思っている人のほうが断然多いわけだ。
生まれ変わりや死後の世界を信じているからといって、ポアを肯定する人はまずいないだろう。
しかし、江原啓之氏の前世云々のたわごとをもっともな話だと信じる人は結構いると思うとため息が出ます。

「いつまでも自分が存在し続けるかのごとくに固執している見方の中には、ほんとうに生を愛するということは、生まれてこないのです」(宮城『正信念仏偈講義』)



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ニューエイジの霊魂観 2

2008年09月11日 | あやしい教え・考え

ニューエイジ・スピリチュアルの実体的いのち・こころ観はグノーシス主義やインド思想の梵我一如と通じると思う。
また、手塚治虫『火の鳥』の最後、火の鳥にすべての生命が一体化するのも同じである。
あるいは日本の宗教観では、死んだら霊魂となり、霊魂が次第に清まってやがて先祖霊と一体化し、さらに清まると氏神になるのだが、これも同じ発想ではないだろうか。

仏教は梵や我といった実体を否定する。
だから、いのち・こころを実体化したら仏教ではなくなるはずである。
しかし、こうした実体的いのち・こころ観を説く宗派もある。
浄土真宗もひょっとしたらそうかもしれない。

教化冊子「お盆」2008年版に載っている写真に、
「大気のなかでトンボも草も、光と出会って願っている」
「西からの気配のような夕の光が、ただ、語りかけてくる」

という言葉がついている。
「心のノート」的でどうも気に入らない。

そして、「お盆」という文章にこうある。
「「臍の緒」、それは自分のいのちがしっかりと親のいのちにつながっていることの証でしょう。そしてその「臍の緒」は、限りなく長い歴史を次々とつないでいるのです。その始まりも、行きつく先も見通せないほどに長いいのちの歴史と、広い世界を内容として、私は今、このいのちを身に賜っているのです」

「臍の緒」という言葉、すべての存在は関係し合っている(縁起)ことのたとえなのか、それとも実体的な実在、梵のようなものを念頭に置いているのか、そんなことが気になる。
それは考えすぎではないかと自分でも思うのだが、どうもひっかっかってしまう。

弓山達也「現代人の生命観とスピリチュアリティ」(「親鸞仏教センター通信」26号)にこういうことが書かれてある。
「『心のノート』(文部科学省)は、国によるスピリチュアル教育の典型例であると考えています。文科省の言う、「目に見えないものを大事にする」とか「あらゆる宗教に共通する普遍的な宗教心」という文言こそ、まさにスピリチュアリティと呼べるわけです。(略)そこでの「いのち」観とは、生命は自分のものであるが、与えられたという意味で、自分のものだけでないという「与えられたいのち」観、人間の生命とは、宇宙や自然や人間を超えた大いなるものと「通じ合ういのち」観、そこでの「いのち」は、輝かせることが使命・目的とされる「輝くいのち」観です」

弓山氏の言う「人間の生命とは、宇宙や自然や人間を超えた大いなるものと「通じ合ういのち」観」は「臍の緒」と同じ意味だろうが、これまたすべての存在が根底では実体的につながっているということか、あるいは関係性なのか。
どうも私には実体的なもののように思える。

というのも、弓山氏や樫尾直樹氏といったスピリチュアル研究家は大川法氏をよいしょしている島薗進氏の弟子なので、ニューエイジ・スピリチュアルに親近性を持っていると思われるからである。
こうした人たちや諸富祥彦氏に原稿を頼んだり、講演を依頼するということは、彼らスピリチュアル信者の考えを好意的に思う人(しかもそれなりに力のある人)が教団内に少なからずいるということである。
ということで、私としては真宗のスピリチュアル化を危惧せずにはおれないのである。

「心のノート」は河合隼雄氏が中心となって作った道徳の副読本で、河合氏らしいスピリチュアル的な内容である。
河合氏は「たましい」という言葉をよく使っていたが、スピリチュアリティのことだろう。
スピリチュアル(霊性)とか「たましい」というのは霊魂のおしゃれな言い方だと考えれば間違いない。
スピリチュアルという霊魂とは、個人の霊魂でると同時に、すべての存在と通じ合う霊魂でもある。

日蓮宗に霊断師会というのがある。
霊断師に相談するとすべての悩み事に答えが与えられるそうだ。
どうしてそういうことができるのかというと、九識霊断によってである。

「我が日蓮宗霊断師会には創祖・高佐日煌聖人の創始による、九識霊断法という秘法があります。
 これは日蓮大聖人の遺された有り難い秘法で、法華経の信仰を具現化したものです。
レーダーが霧や雲を透して物の位置を正確に捉えるように、我々の運命が手にとるようにわかります。
 九識霊断法とは、南無妙法蓮華経のお題目の神秘と、人間が誰でも持っている九識によって我々の運命を予知する秘法です。この霊断により、困ったとき、迷ったとき、決めかねているときなど、人生のいろいろな場面で遭遇する運命の真相を知り、その運命を好転させることができるのです」

唯識では六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)、そして深層に末那識、阿頼耶識の八識を立てるが、天台宗や日蓮宗ではそのさらに下に阿摩羅識(仏性)を加えて九識とする。
九識は心の一番奥にあってすべての人に通じているから、九識に至れば他の人の心を知ることができるし、過去や未来もすべて明らかになるという理屈だと思う。
自分が死ぬ日時までわかるそうである。

浄土真宗に霊断師会のようなものができるとはさすがに思わないが、しかし神秘主義的傾向を持つ人、ユング心理学やトランス・パーソナル心理学に親近感を持つ人が増えていることは間違いないだろうと思う。
「臍の緒」が実体的な実在のたとえだとすると、真宗のスピリチュアル化まであと一歩。
私の考えすぎと言われたらそうかもしれないけれども、でも不安です。


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ニューエイジの霊魂観 1

2008年09月08日 | あやしい教え・考え

ニューエイジの霊魂観の第2の特徴は、実体的いのち・こころ観ということである。

  2,実体的いのち・こころ観

ニューエイジ、スピリチュアルは、いのち・こころを実体的なものとし、実体的いのち・こころの深層ではあらゆる存在とつながっていると考える。(「いのち・こころ」としているのは、いのちとこころが同じ意味として使われていると思うからです)

「私たちが意識水準を深め、より深い立脚点に置き、そこから世界を眺めたとするならば、すべては違った様相を見せてくる」
「意識の水準が極限まで深められたその地点においては、もはやすべてのいのちは本来一つであるという、という“いのちのつながり”の相がありありと浮かび上がってくる」
(諸富祥彦「個とつながり トランスパーソナルをめぐって」「アンジャリ」8号)

図で説明しましょう。

意識の部分ではAさんとBさん、Cさん……と、一人ひとりはバラバラである。
自分と他者は別の存在である。
しかし、無意識の奥深い領域ではあらゆる存在はつながっている。
だから、AさんとBさん、Cさん……は一つにつながっているわけである。
あらゆる存在は根底でつながっており、本来一つなのである。

そして、存在の根底にあって、あらゆる存在がつながっている世界が本当の世界、リアルな世界と言われるものである。
集団的無意識、梵、九識、道(タオ) 阿弥陀のいのちなどはこの本当の世界のことだとニューエイジでは説明する。

いのち・こころがつながっている領域に至るには、臨死体験や瞑想、ドラッグなどによって意識が変容する必要がある。
意識が表層から深層へと変化していく過程の中で世界が違って見え、以前は見えなかったり感じられなかったいろんなものが見えたり感じられたりするようになる

そうして、他の存在の意識と一体化する。
そこで体験した世界こそリアルな世界であり、本当の世界なわけである。
それに気づけば、楽に安心しておだやかに生きることができるようになるそうです。

いのち・こころの根底ですべての存在がつながって、他者の意識と一体化しているわけだから、その領域に至れば他人が何をし、何を考えているかがわかることになる。

オウム真理教の元信者は薬物によってトランス状態に入った時のことをこう言っている。
「私と麻原とのつながり―オウムではそれをパイプというのですが―がこのヴィジョンでは具体化されました。そこには他のさまざまな人びとがいて、その中心に明るく輝く麻原がいました。……私は底にいましたが、底の人びとは引き上げられていましたので、私も引き上げられました。それは抗しがたい力でした。私が引き上げられるにつれて、周りが少しずつ明るくなっていきました。「私はだれですか」と、私は麻原に問いました。引き上げられるにつれて、私は麻原と一つになりました。すると、彼と私をつないでいたすべての連鎖やきずなが突然消え失せて、私は光に取り巻かれていました。すべては明るい白になっていきました。
最後には幻覚が消えて何もなくなっていました。そこには無があったのです。私は肉体感覚を失い、意識だけがありました。すばらしい感覚でした。それから、奇妙なことに、私が麻原に聞きたかったことがありました。そして、問いのことを思い浮かべると、すぐに答えが返ってきました。そのとき、私は麻原だったんです」
(ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想』)

さらに言うと、今、生きている人たちとだけつながっているわけではない。
「この世界の万物は、そのそもそものはじめから、常に、すでに、したがってまさにいま、ここにおいてもおなじように、“一つの同じいのちのはたらき”の異なるあらわれでしかなかったのだ」(諸富祥彦「個とつながり トランスパーソナルをめぐって」)

現在生きている人たちばかりでなく、過去や未来の存在、すでに死んだ人、これから生まれる人ともつながっている。
だから、過去にどういうことがあり、未来がどうなるかまでわかることになる。

丹波哲郎氏も同じようなことを言っています。
「霊界では、過去・現在・未来というのが全部現在だから。未来に起こることは全部現在として現れてくるんだ。過去も現在。だから予言ていうのが成立するんだよ。だからノストラダムスなんか当たり前の話なんだ」(『大俳優丹波哲郎』)

生まれ変わり、そして過去世を知ることも同じ理屈である。
死後の世界とは本当の世界のことである。
死後の世界に生まれるとは、いのち・こころがつながっている本当の世界と一体化したということである。
そうして、本当の世界から再びこの世界に生まれてくるわけである。

Aさんが死んでBさんとして生まれ変わったとして、AさんとBさんは実体的につながっているのだから、Bさんが前世であるAさんのことを思いだしても不思議でも何でもないということになる。

だったら、歴史の謎はすぐに解けるし、未解決の殺人事件はあり得ず、冤罪は起こりようがないことになると思うのだが。

そして、超能力。
本当の世界では、本来すべての存在が共有し、与えられていながら、知ることがなく、使うことのできなかった根源的エネルギーを実感できるようになる。
それは無限のエネルギーということにニューエイジではなっている。
超能力はそこから得られるということらしいです。

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ニューエイジの階層的霊界観 2

2008年09月05日 | あやしい教え・考え

階層的霊界観は個人の霊的成長と人類の進化とが結びついている。
人類の進化にも段階があり、人類の進化は個人の霊的成長と関係があるというわけである。

臨死体験を経験したキルデ医師が立花隆とのインタビューでこういうことを言っている。
「人類はいま新しい進化の段階に入ったのです。(略)いずれ全人類が、新しい次元へ、新しい世界へ移行していくことになるでしょう。臨死体験者は、この新しい人類進化の先がけなのです。臨死体験において、人はこの三次元世界を超越して、時間にも空間にも縛られない高次元の世界に入っていきました。死というものが存在するのはこの三次元世界だけで、その次元を抜けると死はないのです。肉体が存在するのは三次元世界だけです。人はそこを抜けると、肉体の束縛を脱して本来のエネルギー体に戻り、時間に縛られた世界から時間がない永遠の世界に入っていきます。その世界は、全て愛に満ち、調和しています。そこでは全ての真理が一瞬にして把握できます。究極の真理は、全ては一つであるということです。全ての存在が本当は一つの存在なのです。この全宇宙が一つなのです。そういう全一的な宇宙意識をみんな獲得するようになるのが進化の新しい段階なのです」(立花隆『臨死体験』)
そして、「(宇宙人は)高次の意識世界の住人」だとキルデ医師は言っている。

ある寺院のHPを見ると、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天、人、菩薩、仏というふうに生物は進化していくんだと説かれている。
これも同じ発想。

霊性に段階があるという霊界観は大川隆法氏やキルデ医師の独創ではない。
どうやらブラヴァツキー夫人(1831~1891)が創設した神智学協会が言い出しっぺのようである。
「人類の進化の過程は七つの根幹人類に区分され、それぞれの根幹人類は特定の意識のパラダイム、あるいは意識のレヴェルを表わしている。現在の私たちは第五根幹人類のアーリア人であり、この時代に人間の意識が霊的な性質を獲得するに至る。第七根幹人類に至ると、現在の人間には想像もできないような至福を体験する」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

ニューエイジで言う「進化」とは通常の進化の概念とは違う。
人類の霊的成長という意味で進化という言葉が使われる。
ニューエイジでは個人、そして人類の霊的完成が究極の目的だから、人間中心の進化観なわけである。
しかし、進化には一定の方向性はないし、個人の記憶、経験、獲得形質は遺伝しない。
このように根拠のない理論にもとづく世界観はニューエイジの特徴の一つである。

では、どのようにして進化するのか。
アセンションという言葉がはやっているそうだ。
アセンションとはWikipediaによると、
「ニューエイジ、新興宗教などにおいて、人間もしくは世界そのものが高次元の存在へと変化すること」
とある。
「...But I wouldn't mind!!!」というブログの「アセンションは麻原彰晃のいないオウム真理教となるか」という記事にアセンションについての説明がある。

・地球は「アセンション」に向かっていて、2012年にピークを迎える。
・「アセンション」とは、次元上昇である。
・地球がアセンションすると、人類も肉体的・精神的に高次元(四次元説、五次元説あり)へとレベルアップする。
・人間が高次元へ進むと、テレポートできたり、テレパシー送ったり、思い描いたものを目の前に出したり、思考したことが即座に現実になったりする。
・人間がアセンションするためにはチャクラを高め、想念(物事の尺度を測る感覚らしい)を解放し、自らを浄化する必要がある。
・瞑想するとチャクラが上がりやすい。
・他の惑星は既にアセンションを完了して、高次元の世界に突入している。地球のアセンションは利己的な意識を持った人間のせいで遅れをとっている。
・チャクラの低い人間はアセンションの時に高次元に昇れず、地球を出て他の星で暮らすことになる。
・2000~2005年は「混乱の時」、2006~2010年は「浄化の時」であり、世界で起きている様々な社会現象は全てアセンションへのプロセスである(イラク戦争は「混乱の時」に始まったらしい)。
・地球はアセンションしないともう既に滅びる一歩手前。こんな感じ。マヤ暦の日付が2012年の12月22日で終わってるのは、12月23日にアセンションが起こるかららしい。

なるほど、新しい時代の到来ということだから、まさにニューエイジ。
でも、1960年代に、アクエリアス(水瓶座)の時代が始まると言われた。
魚座の時代に終わりを告げ、水瓶座という新しい時代(ニューエイジ)に入ろうとしているということだった。
つまりはアセンションはその二番煎じなわけである。

つけ加えると、なぜ2012年に人類が高次元に進化するのか、それはフォトン・ベルトによってだそうだ。
Wikipediaによると、
「地球が次に完全突入するのは2012年12月23日で、その時には強力なフォトン(光子)によって、人類の遺伝子構造が変化し人類が進化するとも言われている」
「フォトン・ベルトとは、銀河系にあるとされている高エネルギーフォトン(光子)のドーナッツ状の帯。一部の疑似科学信仰者やオカルティストが存在と影響を主張するが、科学的根拠は皆無であり、フォトンベルト実在の証拠として上げられたデータや写真も捏造又は誤りが明らかである」

ということである。

はなはだ楽観的な未来像だが、「チャクラの低い人間はアセンションの時に高次元に昇れず、地球を出て他の星で暮らすことになる」とか「地球はアセンションしないともう既に滅びる一歩手前」というところがミソ。
アセンションしなかった時の言いわけをちゃんと考えているわけだ。
しかも脅し付きの言いわけ。

amazonで「アセンション」や「2012」で検索したら、やたらめったら関連本があるのに驚いた。
こういう嘘を垂れ流すことで儲けている人が大勢いるということである。

人類の進化ということでは「百匹目のサル」ということも言われている。
ニューエイジでは個人の意識レベルが向上し、レベルの向上した人間が一定数を超えると、人類全体が一挙に進化すると説く。
現在、スピリチュアルブームと言われ、多くの人がスピリチュアルなものに関心を持つようになったのは人類の意識が進化していく表れの一つだとされたりもする。
「超能力や神秘体験を経験することによって自分を、心のレベルつまり霊的なステージを高い地平へ持っていく、その結果として世の中は変わっていくんだという考え」(芹沢俊介『オウム現象の解読』)

意識レベルが向上する者が一定数誕生することで、人類全体が進化するということは、「百匹目のサル」という事実によって証明されていると主張される。
宮崎県の幸島に棲息するサルの一匹がイモを海で洗って食べるようになり、やがて他のサルたちもその行動を真似するようになった。同じ行動を取るサルの数がある数(百匹とは比喩的表現)を越えた時、その行動が群れ全体に広がり、さらには他の群れや幸島から遠く離れている大分県高崎山にいたサルの群れでも自然発生するようになった。(『トンデモ超常現象99の真相』)

百匹目のサルとは、このように「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、接触のない同類の仲間にも伝播する」という現象を指すわけである。
しかし、これは残念ながらライアル・ワトソンが創作し、船井幸雄が広めた全くのでたらめ、作り話である。
つい信じたくなる魅力的な物語ではあるが。

オウム真理教でも、悟りを得る者が誕生することで世の中が変わると説いていた。
「オウムの場合は、精神を変えれば社会が変わるという発想なんですよ」
「結局、僕が麻原さんについていけば大丈夫なんだって感じたのが、壮大な救済ドラマだったわけ。三万人の成就者が出れば、世の中の人たちを救済できるって言ってたけど、そこなんですよ」
(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)

TM瞑想(超越瞑想)のマハリシ・マヘーシュもマハリシ効果なんてことを言っているが、百匹目のサルと同じ理屈である。
「人口の一%が同時に超越瞑想を実践すれば、それによって生じた脳波が重なり合って干渉し合い、残りの九十九%の意識を変化させる」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

このように、個人の変革が世界の変革をもたらすというのがニューエイジの信念である。
ということで、ニューエイジのキャッチフレーズは次のようなものである。
「自分が変われば世界は変わる」
「意識が変われば世界も変わる」
「意識の進化が世界を変える」

この階層的霊界観は、霊性のレベルによって人をランク付けし、霊性の高いエリートが一般大衆を導くというエリートの発想である。
霊性を上昇することによって人類を進化させようという利他的な願いだったはずなのに、高い霊性を持つ少数のエリートが人類全体を引き上げるんだ、目覚めている私は世界を変えるエリートなんだ、というように特権意識になっている。(中には、少数のエリートのみが終末を生き残ると説く教えもある)

「自己は、個を超えて、超人間的な全体に達する。はじめは少数の選ばれた人にのみ与えられる。つまり、エリートなのである。彼らは一般の人々を導かなければならない」(海野弘『世紀末シンドローム』)

オウム真理教の元信者はこう語っている。
「一般の人をすごくバカにしていた」
「私も、一般の人に対して、自分は修行をしているから、あなたたちよりも上なんだって感じるようになってしまったし、みんなそうでした」
「「こーんな素晴らしい体験できた私というものは実は特別な使命を持って生まれてきた選ばれた民なんだ」という気持ちにさせてくれるのです」
(以上『オウムをやめた私たち』)

        
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ニューエイジの階層的霊界観 1

2008年09月02日 | あやしい教え・考え

ニューエイジの霊魂観の特徴は、階層的霊界観と実体的いのち・こころ観だと思う。

  1,階層的霊界観
ニューエイジでは、人間は生まれ変わりをくり返しながら霊的に成長し、霊性を完成させるのが生まれてきた目的だ説く

しかし、試練に耐えられない場合は下の階層に落ちてしまうとも説く。
つまり、霊性のレベルが階層となっているわけである。
これを階層的霊界観とよぶことにする。

幸福の科学の霊界観を例にして説明しましょう。(幸福の科学やオウム真理教といったニューエイジ系の新宗教は、教義にニューエイジの考えを取り入れており、格別目新しいことを言っているわけではない)

「あの世とは、天国と地獄というような簡単なものではなくて、実はピラミッドみたいな階層構造になっているのです。いま私たちが住んでいるこの世界は三次元の世界。あの世は四次元から九次元まであって、九次元が最高で、最低は四次元。この四次元の一部が幽界といって、地獄があるのです」


                        (米本和広『大川隆法の霊言』

十次元惑星意識は地球神。
九次元宇宙界には大川隆法、キリスト、高橋信次らがいる。
八次元如来界は三つに分かれていて、最上段階・太陽界(谷口雅春、老子、ヘーゲルら)、金剛界(アインシュタイン、福沢諭吉、ナポレオンら)、荒神(出口王仁三郎)。
七次元菩薩界は四つに分かれていて、というふうになっているそうだ。
五次元霊界は精神界・善人界で、毛沢東、レーニン、清少納言がいて、地獄界にはマルクス、佐々木小次郎、ダーウィン、ニーチェらがいるとのこと。

この段階は将棋や囲碁で初段の人と九段の人と違っているというようなことではない。
それぞれの霊界は実体的に実在するそうである。
霊性が上位の人は身体がこの世界にあっても、霊性のレベルによっていろんな世界に行くことができる。
しかし、低位の人は自分が今いる世界しか知らない。

この霊界観について、島薗進氏は毎日新聞に次のようなコメントを述べている。
「大川主宰に会ったことがあり、内外の新しい宗教動向にくわしい東大宗教学研究室、島薗進助教授。霊的な神秘体験もさることながら、この宗教の教えが①現代的な霊界観にもとづく体系的宇宙観を持ち②新宗教の重要な要素だった『心なおし』の面もまた体系的に整理されている―の二点に着目し、こう言う。
『幸福の科学が相当大きな宇宙観、普遍倫理的な生き方を説いているのが魅力になっているように思える』」
米本和広『大川隆法の霊言』

東大の先生が幸福の科学をほめているから、私も幸福の科学はまともなことを説いているのかと思ってしまった。
もっとも、大川隆法氏の本を一冊(『太陽の法』)読んで、ええっと驚き、大川氏の本を読もうという気は失せたが。

ニューエイジ系の新宗教では、信者の霊性がどの段階にあるかによって信者のランク付けをする。
ある人がどの段階にいるか、そのモノサシの一つが神秘体験である。
どういう神秘体験をしたかによってその人のレベルが判断される。
オウム真理教ではこういうふうだった。

「体験したビジョンについても自己申請なのね。こういう色が見えました、こんな光でしたって」
「それも教祖に言うんじゃないもんね。僕なんか村井秀夫さんに言ったからね「赤いのが、まだ見えないんですが…。あっ、見えてきました。見えました!」。そうしたら、「おお、そうか、そうか」ってメモして「ハイ、キミ成就だよ」だって」
「自動車の免許みたいに、「こういう体験をしたから成就。解脱だ」ってヘンな意味づけを行った。そこに致命的な過ちがあると思います」
(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)

      
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