広瀬健一『悔悟』にこんな説法が書かれてあります。
「じゃあ、広瀬いこうか」
麻原からの予期せぬ指名に、私はとまどいました。「数百人の商人を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいた。釈迦牟尼の前生はどう対処したか」――この難問への回答を求められたのです。(略)
暴力は、信徒が最も恐れる地獄に転生する因になります。(略)
ためらいつつも私は口を開きました。
「何とかだまして捕えようとすると思います」
その後、同じような問答を数人と繰り返してから、麻原は説き始めました。
「例えば、ここに悪業をなしている人がいたとしよう。そうするとこの人は生き続けることによって、どうだ善業をなすと思うか、悪業をなすと思うか。そして、この人がもし悪業をなし続けるとしたら、この人の転生はいい転生をすると思うか悪い転生をすると思うか。だとしたらここで、彼の生命をトランスフォームさせてあげること、それによって彼はいったん苦しみの世界に生まれ変わるかもしれないけど、その苦しみの世界が彼にとってはプラスになるかマイナスになるか。プラスになるよね、当然。これがタントラの教えなんだよ。」
つまり釈迦牟尼の前生は、悪党を殺していたのです。その行為について麻原は、悪党がより厳しい苦界により長い期間にわたって転生するのを防ぐためだったと解釈しました。悪党は、悪業を犯し続けるのを放置されれば、地獄転生は必定です。地獄に転生する責め苦は、殺される苦痛の比ではない。これがオウムの教義であり、信徒の感覚でした。常識とは相反するこの見地に立脚すると、教団においては、殺人も救済になり得たのです。
同じ話をダライ・ラマ14世がしています。
殺人が許容される唯一の場合というものもある。
仏陀みずからが語った話を聞いたことがあるだろう。599人の生命を救うため、一人を殺すような場合である。そんな場合、殺人はまったく例外的にではあっても不可避なものとなる。599人が殺されることを防げるなら、その命を救うため、599人を殺す者が積む悪しきカルマを避けるため、一人を殺すことが絶対に悪だとは言い切れない。(『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』)
このたとえ話は『大宝積経』や『大方便仏報恩経』をもとにしたのでしょう。
辻村優英「苦しみという名の贈りもの - ダライ・ラマ14世における思いやりと普遍的責任」(2009年)で、ダライ・ラマ14世の説く非暴力について論じられています。
http://urx.red/5v14
「菩薩のための4つの賢明な行動の様式というものがある。第一の様式は、なだめることである。言葉や理性、慰めによって状況を落ち着かせることである。もしこれがうまくいかなければ、第二の少々強い様式、何かを与えるということにまで推し進めるべきである。事態を落ち着かせる何かを与えるのである。知識や状況を調整し問題を解決するのに確実なものを与えることも考えられる。それもうまくいかなければ、支配や権力といった第三の様式に移る。相手が人であれ、国であれ、それらを抑え込むために大きな権力を行使する。それすらも効果がないという場合に、最後の様式は蛮行や憤怒)になる。そこでは暴力でさえも可能性のうちに含まれる。菩薩の46軽戒の一つに、利他的な動機にもとづいた力が必要とされる状況では力強い対応をすべきであるという誓約がある。怒りに満ちた思いやり(共苦)を伴っていれば、暴力もありうるのである。理論的には、思いやり(共苦)から生じる暴力は許されることになる」[Dalai Lama 2004(2003): 288]
菩薩が取ることのできる暴力の例として、ダライ・ラマは釈迦の前世の物語に言及している。釈迦は前世において「大悲のある船長」として生まれた。彼の船には 500 人の人々が乗っていた。その中の一人が、残りの 499 人を殺害し財産を奪おうと考えていた。そのような悪行をやめるよう船長は何度も説得しようとしたが無駄だった。船長は 499 人の命を救おうと思うと同時に、殺人を犯そうとしている者にも思いやり(共苦)の心を抱いた。499 人を殺すという悪いカルマをその者に積ませるくらいなら、自分が一人分の殺人のカルマを背負うことにしようと船長は考えた。そうして船長は殺人を犯そうとしている者を殺害した。[Dalai Lama 2005(1996): 175]
ダライ・ラマは理論上では、このような暴力の行使を認めはするが、しかし以下のように暴力の行使に対して慎重な姿勢を崩すことはない。
「しかし、実際にこれは非常に難しいことであって、傷つけようとする人間の態度を改めさせる方法が他に何一つない場合にかぎられる。一度暴力を行使してしまえば、状況は予測できないものとなり、さらなる暴力を生み出してしまう。多くの望まないことが生じることになる。じっと待ちながら状況を観察するほうがより安全である」[Dalai Lama 2004(2003): 288-289]。
ダライ・ラマがチベット問題解決に向けてあえて非暴力を貫いているのは、暴力を無批判に否定しているからではない。むしろ暴力をふるうの可能性を吟味した上での選択だったと考えられよう。力の行使を認めるか否かは、あくまでも「思いやり(共苦)」に従属する問題なのである。
ダライ・ラマ14世は菩薩の暴力を否定していません。
ダライ・ラマは観音菩薩の化身ですから、ダライ・ラマが行う暴力や殺人は許容されることになります。
釈迦国がコーサラ国によって滅ぼされることを止めなかった釈尊は、アヒンサー(不害)に徹しており、いかなる理由があろうとも、他者を傷つけることは認めていないと思います。
文献表を見ると、ダライ・ラマ14世の発言は『Destructive Emotions、 How can we overcome them?』(破壊的な感情 いかに克服するか)からの引用だと思います。
『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』は1994年刊に訂正加筆し、2008年に文庫化されたものです。
ダライ・ラマ14世や辻村優英さんはオウム真理教の事件やポアを知っていると思いますが、二人とも一言も触れていません。
どうしてなのかと思います。