三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

最近見た広島と関係のある映画

2007年09月29日 | 映画

スティーブン・オカザキ『ヒロシマナガサキ』
広島と長崎の被爆者14人へのインタビューを中心としたドキュメンタリー。
被爆者の一人が上半身裸になり、傷跡を見せる。
そして、60年前にその方がやけどで治療を受けているフィルムが映し出される。
あれは衝撃だった。
背中全体がやけどで赤剥けになって、うつぶせに寝ている少年がこの人なのだ。
どこかの誰かではなく、目の前で話している人があんなひどい目に遭ったのかと思うと、いたたまれない気持ちになった。
私の祖母は一階にいて家の下敷きになったが、二階にいた伯母は助かった。
井上ひさし『父と暮らせば』と同じ状況である。
その時のことを伯母はどう考えているか聞けずにいる。
映画館から出ると、ヒロシマではなく広島だった。
なんか不思議な感じがした。

佐々部清『夕凪の街 桜の国』
原爆映画の主人公たちはなぜかたいてい基町に住んでいる。
で、皆実が仕事から家に帰る途中、川沿いの道を歩く。
ああいう風景は広島にないみたいなどうでもいいことが気になる。
平野家の人たちの名前はすべて広島市の町名なのだが、父親の名前は「天満」、名前向きの町名がないから仕方ないけど。
被爆二世の結婚差別が出てくる。
母親は原爆小頭症なのだろうか。
そこは曖昧にせず、はっきりさせたほうがよかったと思う。

リンダ・ハッテンドーフ『ミリキタニの猫』
「ミリキタニ」とは三力谷、人名である。
ミリキタニさんは1920年アメリカ生まれ、3歳の時に広島に帰り、1937年に渡米、強制収容所に3年半、という人物。
2001年、ニューヨークの路上で絵を描くホームレスであるミリキタニさんをビデオに撮ってるうちに親しくなったハッテンドーフ監督は、9・11のあと、ミリキタニさんを自宅に誘い、一緒に生活する。
ハッテンドーフ監督は社会保障を受けられるよう尽力し、高齢者アパートを探す。
福祉事務所の職員もみなやさしい。
アメリカ人はホームレスの老人にこんなに親切なのか、ほんまかいなと思うほどである。
こうした寛容さの一方で、第二次世界大戦中は日系人を強制収容所に入れ、9・11後にはアラブ人を差別、迫害しているアメリカ人。
どちらもアメリカなのだろう。

広島とは関係ないが
山下敦弘『天然コケッコー』
広島が舞台かあ思うた。
それくらい石見弁と広島弁は似とる。
「はぶてる」ゆうて島根でも言うたあ思わんかった。
子供らがみなうまい。
さっちゃんなんかええよのう。
地元の子か思うとったら、ちごうとった。

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自動的に死刑を執行

2007年09月26日 | 死刑

鳩山邦夫法相は25日の閣議後会見で、死刑執行に関して「法務大臣が絡まなくても自動的に(執行が)進むような方法を考えたらどうかと思うことがある」と述べ、死刑執行に必要な法相のサインがなくても自動的に執行が行われるようなシステムをつくるべきとする考えを明らかにした。問題提起としたうえの発言で、法務省に検討は命じていないという。
死刑執行については、刑事訴訟法475条で「法務大臣の命令による」と規定。さらに同法475条第2項は、執行は死刑判決の確定後6カ月以内に行わなければならないと定めているものの、実際は確定から執行まで数年かかるのが通例となっている。
鳩山法相は法律の規定と死刑執行の現状との乖離を指摘したうえで、「法務大臣に責任をおっかぶせるような形ではなく、半年以内に死刑執行されなければならないと自動的に進むような方法がないのかなと思う」と述べた。(
2007年9月25日 産経新聞)

鳩山法相の発言は責任逃れとしか思えない。
結局のところ、法務大臣も死刑執行のサインをするのが嫌なんだと思う。
何だかんだ言っても、人を殺すわけだから。

じゃ、誰が執行の責任を負うのか。
拘置所所長や現場の刑務官だって、本音では死刑なんて関わりたくないだろう。
まして彼らは自分の責任で死刑の執行はしたくないはず。
仕事だから仕方ない、ということで自分を無理矢理納得させているのではないかと思う。

それと、気になること。
「半年以内に死刑執行されなければならないと自動的に進む」
と鳩山法相は言うが、再審請求があった場合はどうするのか考えているのだろうか。
「自動的」というからには、再審請求があろうがなかろうが、とにかく執行するシステムにしたいということなのか。
あるいは、精神に異常をきたしている人も自動的に執行されるのだろうか。
おそらく鳩山法相はそんなことは考えていないと思う。
ただ単に、ハンコを押すのが嫌なだけに違いない。

こういうことかもしれない。
厳罰化で死刑判決がどんどん増えている。
確定囚も増える一方である。
いちいちハンコを押すという手続きは面倒だから、自動的にさっさと処分するシステムにしたら楽だという、効率優先の考えもあるだろう。

私の考えでは、死刑執行には法務大臣、判決を出した裁判官、求刑した検察官も立ち会い、できれば彼らにボタンを押してもらいたい。

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ハドン・クリングバーグ・ジュニア『人生があなたを待っている』

2007年09月24日 | 

ハドン・クリングバーグ・ジュニア『人生があなたを待っている』にこういうことが書いてあった。

「立証に際してのバイアス(自分の信念を裏づけてくれる情報を探し、これに反する情報は無視する)と信念への固執(反証にあっても自分の信念にしがみつく―対立する視点を考慮すらしない者もいる)」

その通りだなと思う。
自力の問題とも関係しますね。
だけど、バイアスと固執を防ぐにはどうしたらいいのだろうか。
防ぐことはできないと思う。
だから、私の考え、ものの見方にはバイアスと固執は必ずあるということを、頭のすみっこに置いておくということぐらいしかできないかもしれない。


で、『人生があなたを待っている』はフランクル(『夜と霧』の著者)の伝記である。
著者によると、フランクルは「ときとして厳しく、気短で、討論ではせっかちで辛辣な態度をとる。公開講演や私的な会話の場でも威圧感を感じさせることがあったし、自慢好きで自己満足にひたっているような印象を与えた」そうだ。
フランクルは人格円満な人だとばかり思っていたが、フランクルにもこういうとこがあると知り、ホッとしたというか、がっかりというか。

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検察側の証人

2007年09月21日 | 日記

 山口県光市で99年、母子を殺害したとして殺人や強姦致死罪などに問われた当時18歳の元少年の差し戻し控訴審は20日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で3日目の集中審理が始まった。検察側の依頼で遺体の法医鑑定をした川崎医療福祉大学の石津日出雄教授の証人尋問があり、石津教授は、元少年が右手の逆手で首を締めたとする弁護側主張について、「逆手だと力が入らず、簡単に払いのけられ、現実的にはあり得ない」と否定した。(略)
 石津教授は、弥生さんの殺害方法について「被害者は必死に抵抗するので押さえるための力が必要で、逆手では力が入らない」と指摘。夕夏ちゃんについては、弁護側が頭にあった皮下出血は打撲程度で、たたきつけるなどはしていないと主張している点について、「乳児の頭の骨は薄くかわら状になっているので弾力があり、衝撃を吸収して骨折は起こりにくい」と話した。(9月20日12時25分 毎日新聞

山口県光市の母子殺害事件で、殺人などの罪に問われ、最高裁が1、2審の無期懲役判決を破棄した元会社員の男性被告に対する差し戻し控審の第10回公判が20日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開かれ、検察側が申請した法医鑑定人の証人尋問が行われた。
 尋問で鑑定人は、被告が被害者の本村弥生さんを死亡させた際、「右手を逆手にして、あごの下付近を押さえているうちに死亡した」と供述していることについて、「逆手では力が入らず簡単に払いのけられるため、現実的にはありえない」と否定する証言を行った。
 また、弁護側は「上告審判決が認定した殺害方法と遺体の首に残った跡は整合しない」と主張しているが、「順手で絞めた場合は親指と小指に力が入り、手のひらの側面が跡として残っても不思議でない」と、検察側の主張を裏付ける証言も行った。
 長女の夕夏ちゃんについては、「ひもで絞められた際にできる首の表皮剥奪がない」とする弁護側の主張に対し、鑑定人は「首を絞めるのにはひもを引っ張る力の一部が作用するため、接触部分に剥奪がなくても不思議ではない」と疑問を示した。(9月20日11時52分 産経新聞

光市事件の裁判で一番の要となるのが、法医学者の遺体鑑定だと思う。
昨日おこなわれた検察側の鑑定人の証人尋問は5時間もかかったというのだから、かなり突っ込んだやりとりがなされただろう。
ところが、弁護側、検察側両方の鑑定人の証言については、なぜかニュースではあまり取り上げられない。

弁護側、検察側の鑑定結果はまったく異なっているのだから、別の法医学者にこの鑑定結果についてどう考えるか聞いてみるべきだと思う。
テレビはどうしてそれくらいのことをしないのか不思議である。

で、素人の感想だが、石津証人のお話は説得力がないように思う。
片手では簡単に払いのけられるから、両手で首を絞めたと言われる。
しかし、被告は次のように供述している
「僕は今度は、僕の左手の親指と人さし指を開いてMさんの喉仏の辺りに置き、その左手の上に僕の右手の親指と人さし指を開いた状態で右手のひらを重ね、全体重をかけて思い切りMさんの首を絞めました。僕はMさんを殺すために、全体重をかけて、かなり長い時間Mさんの首を思い切り絞めました」
「Mさんの首を絞めて殺した直後、僕の手がまるで接着剤でMさんの首にくっ ついて離れず、僕の指も、Mさんの手を締めたままで固まってしまったことでした。(略)僕がUちゃんの首を絞めた時には、Uちゃんの首をいくら絞めようとしてもMさんの首を絞めたままの形で指が固まってしまい、Uちゃんの首をうまく絞められませんでした」
このように首を絞めつけたのなら、首の左右と喉仏のところに指の跡のあってもいいのではないだろうか。

また、幼児の頭の骨は弾力性があるから骨折は起きにくいということだが、同じく次のように供述している
「両手でUちゃんの脇の下を持って抱き上げ、そのままコタツの脇のカーペットの上にUちゃんを後頭部から仰向けに思い切り叩き付けました」
思い切り叩きつけたのならそれなりの傷があってもいいのではないか。
そうして、
「Uちゃんの首に巻いた紐の先端を僕の左右の小指と薬指紐がはずれないように一回巻き付け、手を左右に力一杯引っ張って首を絞めた」
と、紐を力一杯絞めてもこれまた痕跡がないというもどうかと思う。

今枝仁弁護士は、
「(遺体の)解剖医は、現在東京大学の法医学教授にまで出世しているようですが、検察側がなぜこの人を証人とせず、ほかの証人を立ててきたのか、疑問を感じます。
弁護人は、「実際に遺体の解剖を担当した解剖医に聴くのが一番いいじゃないか。」と考えていますが」
と書いているが、もっともな疑問である。
何かまずいことでもあるのだろうか。

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手紙の謎

2007年09月19日 | 日記

光市の事件の被告が拘置所から「友人」に出したという手紙が相変わらず取り上げられ、被告が反省していない証拠だと言う人がいる。
手紙を証拠として取り上げた二審の判決文には、
「被告人の上記手紙の内容には、相手から来た手紙のふざけた内容に触発されて、殊更に不謹慎な表現がとられている面もみられる」
「本件各犯行に対する被告人なりの悔悟の気持ちをつづる文面もあり」
とある。
テレビ局は「ま、しゃーないですわ今更」ばかりではなく、「悔悟の気持ちをつづる文面」も紹介してほしいものだ。
それに、7年以上も前のことを持ち出して、今も反省していないと決めつけるのはどうかと思う。

で、この手紙だが、実はかなりアヤシイものらしい。
弁護団の一人、今枝仁弁護士は次のように書いている
「これは私は、手紙の相手が酷いと思います。仮に相手をA君とします。
A君は、検察に「こういう手紙をもらっている」として被告人の手紙を提出しながら、並行して、被告人に手紙を書き、その中で被告人を挑発し、誘惑してことさら不謹慎な手紙を書かせています。
『天国からのラブレター』を差入れ、「こんなん書いてるけど、どう思う?」と感想を求めたのもA君です。ほとんど「おとり捜査」です。
一方被告人は、自分の認識している事実とは異なる事実に反省を求められ、親からも見捨てられ、親しく話や手紙ができるのはA君でした。A君とは拘置所の部屋が隣りだっただけの関係なのに、A君を「親友」と呼びます。
A君には分かってもらいたい、A君に離れていってほしくない、そういう寂しい状態の被告人が、A君が手紙の中でふざけた手紙や本村さんへの非難に迎合して、書いたものに過ぎません。少年記録にも、「その場ごとの期待に合わせて振る舞う順応性を見せる」「周囲の顔色をうかがいながら行動することが習性になっている」等と評価されています」

「A君は、検察に「こういう手紙をもらっている」として被告人の手紙を提出しながら、並行して、被告人に手紙を書き」ということだが、今枝弁護士はこうも書いている
「その「友人」は、検察庁に被告人からの手紙を提出しながら、並行して、被告人にふざけた手紙を出して煽り、また返事を検察庁に出すということを9ヶ月間続けていました。
また「天国からのラブレター」を被告人に差し入れたのもその「友人」で、それを揶揄して被告人に本村さんの悪口を書かせています。
検察庁に提出を始めた後で」

これには驚いた。
『天国からのラブレター』に感動した「友人」が手紙をまとめて検察に提出したのかと思っていたら、そうではなかったわけだ。
検察に何度も手紙を提出しながら、被告と文通していたのなら、「友人」に対して検察が何らかの指示をしたのでは、と邪推したくなる。

そもそも「友人」はどうして手紙を出そうと思ったのか。
被告がその拘置所にいること、そして被告の名前をどうして知っていたのだろうか。
また、拘置所から拘置所へ手紙を出すことができると知っていたのはなぜだろうか。
そのあたりをテレビ局は「友人」にインタビューしてもらいたいと思う。

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女魔法使

2007年09月17日 | あやしい教え・考え

ときどき

ある人から、「細木数子が、先祖供養をきちんとしないと何らかの因果が来ると言っているのだが」という相談を受けた。
こういうふうに人を脅しつけて不安にさせる人に詐欺罪が適用できないのはおかしいと思うし、そんなたわごとを流しているテレビ局は許せんなと思う。

昔から細木数子のような類はいるわけで、『イソップ寓話集』にはこんな話が載っている。

 女魔法使
魔法使の女が神様の怒りを解く呪文やお祓いを売り物にして、またそれがよく当たり、それで相当なお金をためこんでいた。ところが、人々はこの女を宗教の改革を企てる者だとして告発し、裁判を受けさせ、罪状を挙げて死刑判決を下した。女が裁判所から引き出されるのを見た者が言うには、
「おい、お前は神様の怒りを遠ざけると公言するくせに、どうして人間の説得ができなかったんだ」
大それたことを約束しながら、普通のことが出来ずに襤褸を出す詐欺女にこの話は適用できる。

 占い師
占い師が広場に陣取って、見料を稼いでいた。突然一人の男がやって来て、占い師の家の戸が破られ、中のものがみな持ち出されていた、と告げたので、大いに慌てて、跳び上がり嘆き声を発すると、事件を確かめるために駆けて行った。居合わせた一人がこれを見て言うには、
「やい、お前は他人のことはとうから分かると吹聴するくせに、自分のことは占ってみなかったのか」
自分の生活を満足に律せないくせに、赤の他人のことで気をまわす連中に、この話は適用できる。

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L・フェスティンガー他『予言がはずれるとき』2

2007年09月14日 | あやしい教え・考え

L・フェスティンガーという人は、「認知的不協和の理論」を提唱した著名な社会心理学者だそうだ。
「認知的不協和の理論」とはどういう理論か、訳者の解説によると
、二つの認知要素AとBが不協和な関係にある時、調和のとれた状態に近づけようとする動機づけが生み出されるということである。

たとえば、「タバコを吸っている」(認知要素A)と「タバコが有害であることを知っている」(認知要素B)とは不協和を生じている。
タバコをやめれば不協和は解消される。
しかし、タバコをやめられない場合、Bを変える、つまり「タバコは有害ではない」というふうに認知を変えなければならない。
そこで、タバコ有害説を論じる情報を避けるなどする。
しかし、タバコ有害説は広く認められているから、Bを変えるのは難しい。
そうなると、不協和を低減する別の戦略を考え出さなければならない。
たとえば、タバコを吸おうと吸うまいと、人間は必ず死ぬものだと考えたりする。
たとえば、喫煙はリラックスさせる効果があるといった、タバコの効用を付け加える。

キーチ夫人のグループの場合。
A 予言を含む教えを確信している
B 予言は完全にはずれ、否定しようがない
不協和な状態だが、信念に深くコミットしている人(仕事を辞める、家財を売り払うなど)ほど信念を捨てることが難しいから、どちらも変えるわけにはいかない。
では、どうするか。
予言がはずれても、なおも信念を信奉する人がいることが、信念にとって協和的要素になる。
だから、同じ信念を抱く人を増やし、協和的要素をより多く得るために布教活動が活発化するわけである。
その結果として信者が増えれば、予言失敗の正当化を含めて、自分のまわりには現実を同じように見る人ばかりになり、信念が客観的現実に転じる。
こうして、予言のはずれによっては、もはや信念が揺らぐことがなくなるわけである。
多くの人々によって非合理的信念が信じられ、客観的には誤った現実が受け入れられるのは、こういう心理が働くからである。

で思うのが、橋下弁護士が光市事件の弁護団に懲戒請求を煽り立てたことである。
「懲戒請求を1万,2万とか10万人とか、この番組見てる人が、一斉に弁護士会に行って懲戒請求かけてくださったらですね、弁護士会のほうとしても処分出さないわけにはいかないですよ」
弁護団が懲戒処分されるという橋下弁護士の予言が当たるかはずれるか、今のところまだわからない。
私は「光市の事件の弁護団は懲戒処分されるだろう」という橋下弁護士の予言ははずれるだろうと思う。

懲戒請求した人は橋下弁護士が、
「ぜひね、全国の人ね、あの弁護団に対してもし許せないって思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求かけてもらいたいんですよ」
と言うのをテレビで見て、その通りだ、弁護団が荒唐無稽なことを突然言いだし、被害者を傷つけ、裁判をバカにしたから許せない、というので懲戒請求をしたのではないだろうか。

ところが、橋下弁護士は自分のブログで、
「今回の弁護団の主張が荒唐無稽であること、あまりにもふざけた内容であること、この点については批判はしません」
と書いている。
えっと思いましたね。
弁護団の主張を批判しないなんて、テレビで言ったことと違うじゃないか。
では、弁護団はなにゆえ懲戒事由にあたると言っているのだろうか。
「一言で言えば、説明義務違反、被害者に対して、国民に対してのね。
一審・二審で全く主張していなかった、新たな主張をなぜ差し戻し審で主張することになったのか。
第一に被害者への、そして第二に裁判制度という制度の享受者である国民への説明を怠っている」
と説明している。

しかしながら、橋下弁護士を提訴した弁護士の広報担当をしている弁護士によると、
「『懲戒請求』は刑事事件で言えば、告訴・告発に当たるものです。だから、数の問題ではないし、しかも報道を根拠にして、署名活動のように懲戒請求することを扇動することは理解に苦しみます」
ということである。
多くの人は懲戒請求とは署名運動のようなものと理解しているのではないだろうか。

おまけに橋下弁護士は、
「自身は懲戒処分請求していないことを問われると「時間と労力がかかる。弁護士である僕というより大多数の国民がどう思うかが非常に重要」と述べた」
と、自分は懲戒請求していないのだから、そのいい加減さには驚いてしまう。
懲戒請求するのに「時間と労力がかかる」と、橋下弁護士はテレビで説明したのだろうか。
「説明を怠ってる」のは橋下弁護士ではないか。

ところが、橋下弁護士を擁護する声のほうをよく耳にする。
少なくとも橋下弁護士自身が懲戒請求をしていないことについてもっと怒ってもいいと思うのだが。

橋下弁護士の主張はおかしいと、江川紹子はこのように言っている
「現弁護団が弁護人として活動を始めたのは最高裁の段階からで、彼らが「主張を変えた」わけではない。会見を見ればわかるように、弁護団は1、2審の弁護人について「被告人から十分に事実を聞き出していない」として、批判をしている。
 刑事事件では、弁護人が代わって新たな視点で証拠を見直した結果、主張が変わったり、まったく違う弁護方針をとる、ということは決して珍しくない。以前の弁護人とは違う主張をしてはならない、というのでは、裁判を三審制にしている意味も半減してしまう」

「弁護団は差し戻し審で新しい主張を始めた」わけではないと、弁護団は記者会見で説明しているし、今枝仁弁護士はあるブログにコメントを書いている。

しかし、弁護団を許せないと思い込んでいる人たちにとって、橋下弁護士の予言が誤りだと認めることは困難だろう。
「認知的不協和の理論」に従うならば、橋下信者は橋下弁護士は正しいと主張することで同じ信念を持つ人を増やそうとするだろう。
懲戒請求は3日の段階で3900件、それがさらに「7日昼までに10弁護士会、4022件に達した」そうだ。
懲戒請求をする人はまだ増えるだろうと私は予言します。
こんなことを書くと、「お前の信念のほうが間違っている」と言われそうだが。

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L・フェスティンガー他『予言がはずれるとき』1

2007年09月11日 | あやしい教え・考え

この世の終わりが来るという終末思想は昔からある。
キリスト教はイエスの再臨を説くから、今でも終末を待ち望む人もいるぐらいである。
そもそも予言とは日時をはっきりと断言しない。

ノストラダムスもその一人。
『トンデモ超常現象99の真相』ノストラダムスについてこう書かれている。
「ノストラダムスは決して無能な人間ではなかった。彼は確かに天才であり、自分の予言がはずれないよう巧妙に計算し、工夫をこらしていた。(略)
第三のテクニックは、「期限を明確にしないこと」である。彼の予言には、その事件が起きる年をちゃんと記載したものはほとんどないのだ。「○○年に起きる」とはっきり書いてしまうと、その年が過ぎてしまったら、はずれたことが誰の目にも明らかになってしまう。逆にいえば、期限を指定しない予言はいつまでたってもはずれないわけで、はずれないかぎりは予言者としての名声に傷がつくこともない」

ところが、終末の予言の場合は、「○年○月○日にこの世の終わりが来る」とはっきり日時を明言することもある。
予言者の言葉を信じる信者の中には、終末に備えて財産を処分したり、仕事を辞める、畑を耕さないといった人がいる。
言うまでもないことだが、終末の予言は当然のことながらすべてはずれている。
ところがL・フェスティンガー他『予言がはずれるとき』によると、予言がはずれても信者はかえって熱狂し、活発に布教活動するようになるそうだ。
「予言がはずれた後、かえって布教活動が活発になり、結果として信者が増大して大きな教団となっていくという現象は、これまでの宗教史上でも数多く観察されてきたのであり、キリスト教でさえもその事例に数えられる、と著者たちは考えている」

イエスがメシアと信じた人たちが、イエスのはりつけ後に布教活動に出かけて行ったことも、同じパターンかもしれない。
なぜなら、「ユダヤ教のどの部族も、苦悩するメシアというものをかつて考えたことがなかった」からである。
イエスの十字架上の死は予言の失敗か、それとも予言の成就か。

『予言がはずれるとき』は1956年出版。
「明確になされた予言が実際にはずれた後、このグループの布教活動が全体的に以前より活発化するという、理論的に予測された逆説的な現象を実証しようという研究の報告」である。
キーチ夫人という女性が12月21日に大洪水が起きてアメリカの大部分が水没するという予言をする。
この予言を取り上げた新聞記事を読んだ著者たちは、先の理論が実際に当てはまるかどうか、予言がはずれた時の信者たちの心理状況はどうか、といったことを観察するために、キーチ夫人のグループに接触する。

キーチ夫人(というか宇宙人)の教えはニューエイジそのもので、目新しいものはない。
キーチ夫人はある日、自動書記をするようになる。
最初は死んだ父の霊だったのだが、次第に高次の霊(宇宙人)が現れてくる。
そして、大洪水が起き、少数の人が空飛ぶ円盤によって他の惑星(高次の世界)に連れて行かれる、という予言するのである。
自動書記ということは珍しいことではなく、天理教の中山みき、大本の出口なお、幸福の科学の大川隆法たちも最初は自動書記をしている。

予言がはずれてしまい、洪水は起きないし、宇宙人はやって来ない。
洪水の前に空飛ぶ円盤がやってくると大まじめに信じて、寒さにふるえながら空飛ぶ円盤を待ついたキーチ夫人たちは何か哀れを催す。
それにもくじけず、その後、彼らは活発に活動し始めるのである。
そして、キーチ夫人の教団はこの本が出版されてから30年以上たっても活動を続け、数千名の会員がいるという。
ということで、著者たちの予言に関する理論は証明されたわけである。

エホバの証人は1843年、1874年、1878年、1881年、1910年、1914年、1918年、1920年、1925年、そして1975年と、何度も終末の予言をしては、見事にはずれている。
にもかかわらず、いまだに活発な活動をしているのだから大したものだ。

セブンズデー・アドヴェンティストは1840年代に創設され、ウィリアム・ミラーが1843年3月21日に世界の終末がやってくると予言したことが、この宗派の結成のきっかけ。
終末が来ないので、ミラーは計算をやりなおし、1844年10月22日に修正した。

ま、オウム真理教などそんな宗教はあれこれとあるのだが。
年代の計算ミス、信仰を試した、祈りが届いて危機が回避された、などという言いわけを信じるわけだから不思議な話である。

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草の根暴力

2007年09月08日 | 厳罰化

 電車マナーの悪い男子高校生(16)を殴ったとして現行犯逮捕された神奈川県警大和署の巡査長(33)(釈放)を擁護する意見が、県内外から県警に約1000件寄せられ、県警は6日、事件についての説明が足りなかったと異例の追加の記者会見を行った。
 県警は「寄せられた意見は、『高校生が言うことを聞かないから殴った』という誤解に基づいている」と困惑している。
 意見のほとんどは「殴ったのは悪いが逮捕する必要はない」「マナーの悪い若者を注意できなくなる」「厳しい処分をしないで」などと巡査長を擁護する内容。数件だけ「暴力は絶対にいけない」と非難する意見があった。
 再会見は、巡査長が逮捕された翌日の5日に続くもので、西村昇監察官室長が行った。西村室長は「高校生は駅員らに注意を受けて素直に従っていた。巡査長はいきなり高校生の髪の毛をつかんで殴った」と説明。高校生の母親からも「事実関係が間違って伝えられている」と苦情が寄せられているとした。
 県警によると、高校生は4日夜、横浜市旭区の相鉄線二俣川駅で、普通電車の中からホームに向けて拳銃型のライターを撃つまねをした。車掌らが注意し、高校生は「分かりました」と従い、ライターをカバンにしまった。隣の車両からその様子を見ていた巡査長は、高校生が友人と談笑しているのを「反省していない」と思い込み、次の駅で降りた高校生を呼び止め、髪の毛とカバンをいきなりつかみ、「カバンの中のものを出せ」と顔を殴った。この間、高校生は反論しないで黙っていた。
 県警は「巡査長の行為は警察官として許されない行為。注意したというより、因縁をつけて殴った状況で、巡査長の行動を正当化する見方に戸惑いを感じる」としている。(2007年9月6日23時33分  読売新聞)

この事件の最初の報道がどういうものだったか知らないが、巡査長を擁護する人の気持ちは私にもわかる。
近ごろの若い者は口で言って聞かせただけじゃわからん、言ってもわからない奴には身体でわからせるしかない、という思いを常日頃持っているからこそ、巡査長の暴力を正当化したのだと思う。
つまりは暴力による教育ということだから、戸塚ヨットスクールを賛美するのと同じ心性である。
我々の心にはこうした独善的正義感を振りかざした暴力衝動がある。
テレビニュースを見ながら、あれはなんだ、さっさと死刑にしてしまえとか、あんな奴は死んだほうがいいとか思ってしまう私がいる。
ホンネでは暴力を正当化したいのである。

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報道には慎重さを

2007年09月06日 | 厳罰化

のち時々

福岡市で昨年8月、幼児3人が犠牲になった飲酒運転追突事故で、危険運転致死傷罪などに問われている元市職員今林大被告(23)の第6回公判が4日、福岡地裁=川口宰護裁判長=で開かれた。
 検察側は、3人の両親の大上哲央さん(34)、かおりさん(30)の供述調書を証拠として申請、採用された。調書の中で、かおりさんは「絶対に(同罪とひき逃げを併合した最高刑の懲役)25年の刑が下されることを確信しています。1年でも短ければ犯人を私が殺します」と訴えた。(2007年9月4日14時8分  読売新聞

三人のお子さんを亡くされたお母さんが「殺します」と言ってしまうのは当然のことだと思う。
しかし、こう言っちゃなんだが、これは一種の殺人予告である。
検察が裁判で朗読し、マスコミが報道していいものだろうか。
たぶん検察としては、「1年でも短ければ犯人を私が殺します」という言葉が出るほど被害者の心の傷は深いんだ、ということを訴えようとしたんだと思う。
しかし、裁判官が「裁判の結果次第では覚悟しとけよ」という脅しに受け取らないかと心配にもなる。
この報道を知った人の中に、復讐のような場合には殺人を認めるべきだと主張し、ひょっとしたら実行に移す人間が出てくるかもしれない。
その時にはどうするのか。
また、大上さんの思いも時間がたつにつれて変わってくることもある。
その時に「私が殺します」という発言が公になったことがマイナスになるかもしれない。
殺人予告を平気で流すメディアは何を考えているのだろうかと思う。

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