三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』

2018年06月28日 | キリスト教

クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』は、2015年、アムステルダムからパリ行きの列車に乗った幼なじみ3人が、銃を乱射しようとしたテロリストを取り押さえたという事件を描いた映画。
本人たちが自分自身の役で出演しています。

3人は子供のころからの友達で、サバイバルゲームという戦場ごっこが好きな戦争オタク。
スペンサーとアレクは軍隊に入ります。
アレクはアフガニスタンに駐留しましたが、友人への電話で「退屈だ」と言ってるのにはいささか驚きました。

テロリストが銃を構えるのを見たスペンサーはテロリストに向かって突進します。
アメリカの高校で起きた銃の乱射事件で、ホワイトハウスを訪れて銃規制を求めた高校生に、トランプ大統領は「銃に熟練した教師がいれば攻撃されてもすぐに解決できる」と述べています。
http://www.news24.jp/articles/2018/02/22/10386263.html
同じ論法で、軍隊で訓練を受けたからテロリストに立ち向かえたんだ、テロを防ぐためには民間人も軍隊で訓練を積むことが必要だということになります。

リチャード・リンクレイター『30年後の同窓会』は、2003年、バグダッドで21歳の息子が戦死した男が、ベトナムで一緒に戦った元海兵隊員2人と再会して、という話です。
3人とも戦争で戦ったこと、そしてアメリカという国に誇りを持っています。
以前だったら、反戦、厭戦映画になるような題材ですが、戦争や国家に対する考えが大きく変わっていることの表れでしょう。

もう一つ、『15時17分、パリ行き』を見てて、あれっと思ったのが、スペンサーとアレクが中学の校長から「ADDだから薬を飲みなさい」と言われ、怒った母親が転校させたということです。
転校先の私立中学はキリスト教福音派のようです。

『ワンダー 君は太陽』では、自宅で母親から教育を受けてた主人公は5年生の時に私立中学校に入ります。
学校の門には「pro school」とありましたが、どういう学校なんでしょうか。
主人公をいじめてた子が停学になると、怒ったいじめっ子の母親が「寄付をたくさんしているのに」などと文句を言って、息子を転校させます。
アメリカでは、こんなふうに簡単に転校するのは珍しくないのでしょうか。

『15時17分、パリ行き』ですが、3人とも熱心なキリスト教徒の家庭で育ちました。

彼らは単に自分たちがいるべき場所にいたのだと感じているようだね。3人の中には違う捉え方をしている青年もいる。例えばアンソニーの父親はサクラメントの教会で牧師をしている。だから彼には宗教的な背景があって、今回の出来事を神が見守っ力を貸してくれたのだと考えているんだ。3人とも少しずつ捉え方が異なっている。でも基本は同じで運が良かったと思っている。運命が味方してくれたとね。

 

しかし、スペンサーやアレクもインタビューでは、アレックスのように神について語っています。

アレク「衝動的な行動だったし、神の見守りで生き延びられた」
アレク「テロに遭遇する確率は低い。しかも命も落とさずテロに立ち向かい、あの時あの場にいたことは単なる偶然とは思えない。
スペンサー「キリスト教の家庭で育ったから、神は常に身近な存在だ。神は乗り越えられる試練しか与えないと考えてる。あの瞬間それを思い出したよ」
アレックス「運命が僕らを導いた。僕らは使命を与えられたんだ。今はあの時の冷静さが理解できる。神が守ってくれたんだよ」
スペンサー「あの時の僕らはまさに神の使いだったんだ。善き行いができて光栄だね」



映画の中でも、アレックスが「自分が動かされると感じたことは?」とスペンサーに尋ねると、「生きるっていうことは大きな目的に向かっているんじゃないかと思う。自分でもわからないけど、運命に押されている気がする」(たぶん)と答えていたり、アフガニスタンに向かうアレクに母親が「いつか大きなことをするような予感がする」(たぶん)と声をかけます。
クリント・イーストウッドもこのように語っています。

「その時、何を考えた?と尋ねると彼は『何も』と答えた。何も考えずに、高性能ライフルを持った男に突っ込んだんだ。理論的には勝ち目のない賭けだが、テロリストが引き金を引くとライフルは不発だった。それは奇跡じゃないのかって? わからないね。でも、スペンサーはきっと自分は神に愛されていると思ったんじゃないかな。幼い頃からキリスト教学校で学んできたから。聖フランシスコの平和の祈りを暗誦するしね」
それは「主よ、私をあなたの平和の道具にしてください」という祈りだ。
「運命がスペンサーの人生をそこに導いたんだと私は解釈する」

http://bunshun.jp/articles/-/6389

学校では思うにまかせなかったし、軍隊に入っても望んだ部署には配属されなかった。
けれど、すべては神が「他者を救う」という私の使命を果たすためにちゃんと計画されていたことなんだ。
そういう感じではないかと思います。
だったら、『アメリカン・スナイパー』の主人公のように、戦争で心を病み、殺された人はどうなんだと思ってしまいます。

クリント・イーストウッドの監督作品は傑作ぞろいで、『15時17分、パリ行き』もいい作品ですが、キリスト教福音派が喜ぶような内容であることも事実です。

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マーガレット・ミラーとロス・マクドナルド

2018年06月23日 | 

ミステリー作家のマーガレット・ミラー(1915~1994)とロス・マクドナルド(1915~1983)は夫婦です。
マーガレット・ミラーの小説を何冊か読みました。

『狙った獣』(1955年)の解説に宮脇孝雄氏はこう書いています。

概してアメリカのミステリには現代文明の不安な部分を敏感に反映するようなところがあり、50年代の作品群にもその傾向が見受けられる。単純化すれば、戦争の余燼をひきずる男たちはハードボイルドを書き、戦後の繁栄を目の当たりにした女たちはサスペンス小説を書いた、といえなくもないだろう。(略)
50年代は「家庭の時代」であったといわれている。TVにはホーム・ドラマが登場し、頼りになる父親と、賢い主婦と、利発な子供という、今ではいくぶん脳天気にも見える理想のアメリカン・ファミリー像が定着した。60年代に一世を風靡したホーム・ドラマ『奥様は魔女』のように、家庭の主婦は、最新式の電化製品を駆使する魔法使いの役割を期待されていた。

そうか、魔女の奥様とは電化製品を自在に操る主婦の暗喩なのか。

では、マーガレット・ミラーが描いた「繁栄の陰の部分」とは何か。
『悪意の糸』(1950年)の解説に川出正樹氏がこう書いています。

マーガレット・ミラーが訴えたかったものは、当時理想とされた女性像がいかに欺瞞に満ちたものであるか、ということでした。第二次世界大戦後の好景気に沸き、大量消費と郊外住宅地での家庭生活こそがアメリカを代表する生活様式と慫慂された「家庭の時代」はまた、「主婦の時代」とも言われ、妻であり母でもある女性のあるべき姿がマスメディアを通じて喧伝された時代でした。そんな世相にあってミラーは、女性たちの抱える不安や不満、懊悩や鬱憤を摘出し、悪が為され、報いが還ってくるミステリを生涯書き続けたのです。


マイケル・ムーアは自身の作品『シッコ』だったか『キャピタリズム』で、自動車の組み立て工だった父は自分の月給で家族を養い、母は専業主婦だったと言ってます。
トランプを支持した人たちは50年代のアメリカに戻りたいのでしょう。

しかし、実際の50年代は理想的な社会だったかどうか。
マイケル・モス『フードトラップ』に、1955年には女性の38%近くが働いていたとあります。
1980年には51%です。

マーガレット・ミラーとロス・マクドナルドの私生活は不幸に見舞われ続けだったそうです。
「出版・読書メモランダム」というサイトと、ロス・マクドナルド『動く標的』の柿沼瑛子による解説に、トム・ノーラン『ロス・マクドナルド』という評伝によって2人の一人娘リンダについて書かれています。
http://odamitsuo.hatenablog.com/entries/2010/08/16
http://www.webmysteries.jp/translated/kakinuma1803.html
ロス・マクドナルドが4歳のときに父親が家族を捨てたため、看護師の母親が生計を支え、親戚を頼ってカナダ中を転々とした(ロス・マクドナルドによれば高校卒業までの16年間に50回)。
市会議員の娘だったマーガレットは同じ高校の出身。
2人は1938年に結婚する。

娘のリンダは車好きで、フォードに乗り、次第にスピード違反の常習者になっていた。
それだけでなく、不良少年たちと性的体験も重ね、服装、髪型、化粧もはすっぱな感じになり、酒やドラッグにまで手を出すようにもなっていた。
しかし、マクドナルドはリンダを理想化していたこともあって、その一面しか見ておらず、常に彼女をかばい続けていた。

ところが、16歳のときの1956年2月、リンダは飲酒運転で2人の少年をひき逃げし(1人は死亡)、さらに別の車と衝突するという交通事故を起こした。
両親が著名な作家だったため、マスコミは連日、報道する。
リンダは8年間の保護観察処分に付されることになる。

リンダを診た心理学者によれば、分裂症的パーソナリティ体質だった。
事故前後の記憶がはっきりと戻らず、別の男が運転していて逃げたという目撃証言もあり、真相は不明のまま。

『殺す風』(1957年)にこんな文章があります。

なんとまあハリーは分別なしの馬鹿だったのだろう。夫というよりも、いきすぎた自由放任主義の父親みたいなもの、やっきになって子供のあやまちをかばいたがり、いちばん心休まる説明をとびつくように受け入れる。

夫と娘のことを皮肉って書いているように思えます。

リンダはカリフォルニア大学ディヴィス校に入学するが、街に出て酔っ払い、門限を破って外出禁止処分。
1958年になって、またも学内で酒を飲み、大学からの公式譴責処分を受けた。
1959年5月、寄宿舎の階段の吹き抜けでの飲酒を舎監に目撃され、懲戒委員会の審査事項に加えられた。

1959年5月30日、顔見知りの2人の男にネバダ州との境にあるカジノへのドライブに誘われて出かけ、翌朝になっても戻らなかった。
大学側は両親に連絡し、リンダの事件担当判事は保護観察違反だとして、彼女を州全域に指名手配するように指示した。
マクドナルドは失踪したリンダの捜索に乗り出し、キャンバスでリンダの女友達から事情を聞き出す一方で、近郊の警察、精神病院とも連絡をとり、本物の私立探偵を雇い、テレビ局や新聞社に働きかける。
6月9日、リンダから自宅にいるマーガレットに電話がかかってきた。
ただちに私立探偵がリンダを迎えに行き、11日に精神病院に入院する。

その2年後から、失踪した娘を探すリュー・アーチャー物の『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』が書かれますし、マーガレット・ミラーも代表作を続けて書いています。
小説家というのは大したものです。

リンダは30歳のとき、薬物の多量摂取で死にました。
『心憑かれて』に載っている1989年のインタビューで、マーガレット・ミラーはリンダの一人息子が先月亡くなったと語っています。
マクドナルド一家は「家庭の時代」「繁栄の時代」の闇を表しているといえるでしょう。

ロス・マクドナルドは62歳の1977年に入ってアルツハイマー病の兆候が顕著になり、67歳で死亡。
マーガレット・ミラーは晩年、ほとんど目が見えなくなっています。
1968年のマーガレット・ミラーの自叙伝に、夫や娘についてどんなことを書いているのか読んでみたいです。

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ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』と旧約聖書(2)

2018年06月18日 | キリスト教

加藤隆『集中講義 旧約聖書』を読むと、ユダヤ人もフロレンスと同じ疑問を持っていたようです。

紀元前13世紀、エジプトで奴隷状態にあった人々が集団で逃亡した「出エジプト」において、ヤーヴェを神とする集団が成立して、イスラエル民族、ユダヤ民族の核となった。
エジプトを脱走した集団はカナンと呼ばれる地域に侵入し、仲間になった先住民と定住生活をすることになる。

旧約聖書は、紀元前13世紀から紀元後1世紀くらいまでの時代について書かれた文書を集めたもので、紀元前5~4世紀に編纂され始め、一応完結するまで500年くらいかかっている。
いくつかの文書を集め、それをいわば「切り貼り細工」のようにしてつくられているので、矛盾や難点がある。

6日間の天地創造とエデンの園の物語という2つの創造物語が創世記に書かれてあり、この2つには矛盾がある。
最初の物語ではさまざまなものがつくられ、最後に人がつくられるが、第二の物語では人がつくられた後で植物がつくられる。
最初の物語では男女が同時につくられたようになっているが、第二の物語ではまず男(アダム)がつくられ、それから女(イブ)がつくられる。
「聖書に書かれていることはすべて真実だ」といった単純な立場を否定するべきだということが、聖書の冒頭に記されていることになる。

神はモーセに名前を名乗ることを2度にわたって行う。
2度目には「わたしは、有るところの者だ」「私は、有るように有る者」と訳すべき名を述べる。
つまり、「神は、自分が動きたいように動く者」ということ。神がどのような存在なのかは人間には理解できない。
「神は全知全能だ」と言うが、全知全能ではない人間が想定しているにすぎない。
少なくとも分かるのは、「神は全知全能だ」と主張する者は、神について「実は分かっていないのに、分かったようなことを言おうとしている者だ」ということくらいだ。
「全知全能だ」「恵み深い」などというのは、人間の側の勝手なレッテル貼りである。

紀元前10世紀後半に、南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂し、約200年後に北王国がアッシリアに滅ぼされる。
北王国の滅亡によって、「ヤーヴェは民を必ずしも守らない神だ」ということが事実として示される。
ヤーヴェを「頼りにならない神」と否定しないために、南王国の者たちは、民がダメなのだ、罪の状態にあると考えることにした。

加藤隆氏はこういうたとえで説明します。

ヤーヴェが何もしてくれないという状態は、結婚している夫婦において、夫がどこかに消えてしまったような状態です。強盗がきて家の半分を破壊しても(北王国の滅亡)、夫は姿を現しません。そうこうするうちに家の残り半分も破壊されます(南王国の滅亡)。しかし妻は、夫と離婚せず、結婚関係を存続させます。夫は消えてしまい、何もしてくれないけれども、彼は正式には夫であり続けます。ひとりの男性だけが夫です(一神教)。
夫が消えてしまったこと、夫が何もしてくれないことについて、妻は、「不適切な女だからだ」と考えます(罪)。自分が「不適切」であり、夫は「正しい」ので、彼女が夫を責めることはありません。彼女が夫に何か要求することもあり得ません。夫がいないのだから、他の男性と彼女が関係をもつ可能性があるかのようですが、彼女は「不適切な女」なので、他の男性と新たな関係をもつための条件が整っていません(多神教的傾向の消滅)。


民にどんな不幸が生じても、それは「神のせい」でなく、「民が罪の状態にある」という立場が、「神の沈黙」を正当化する構造をつくり出している。
そのため、何が起こっても、民が神を見捨てることはない。

しかし、神の行動に理由をつけ、「民の罪」が「神の沈黙」の理由だということは、ユダヤ民族の思い込みかもしれない。
民が罪の状態にあるから、神は沈黙したということなら、人間の側の態度によって、人間が神を動かすことができることになる。
この考えは、神を操ることができるという前提が隠されている。
しかし、「民は罪の状態にあるという考え方」はユダヤ教において支配的な立場になっていく。

神はかつて「希望のメッセージ」を述べるが、状況の改善は生じておらず、神は実質的なことはしていないので、いつまでも希望にとどまっている。
聖書全体を読むと、神はほとんど何もしないということが書かれてあると言ってもいいくらい。
人間の側が罪の状態にあるのでは、「救われていない」という状態にいつまでも留まっているということになる。
「罪」の状態にあるということは、人間の判断や行為は、神との関係を修復する上で何の価値もない。
人間の側にどんな変化があったにしても、その者が「正しい」となる余地はない。

しかし、その者の状態を正しいものにすればよいという考えが生じ、「神の前での正当化」を行う人がいる。
何が正しいかを知っていて、しかも実践できる、それが救いの道だという態度が、「信仰」や「敬虔」の態度である。
「敬虔主義」は、自分の態度によって神を左右できるという人間中心的態度に依拠している。
「自分は正しい」と思い込んで安心したいので、自分と同じようにしない者たちは救われないのだと自分に言い聞かせることで、安心を補強する。
「信仰」は神への信仰であり、神に忠実であることだが、「神に忠実であるとはどのようなことか」を自分の人間的判断で決定している。
だから、絶えず「信仰」が強調されねばならない。

ギリシアの支配(紀元前4世紀~前1世紀)以降、「律法」が絶対的な権威をもつ「律法主義」が支配的になる。
「律法」の掟を完璧に守るなら、神の前の義が実現して救われることになるとされる。
しかし「律法」を完璧に理解し、完璧に遵守することは不可能で、誰も救われないことになる。
「律法主義」においては、「人が罪の状態であること」、「神が動かないままであること」が前提となっており、「律法」を介しての救いは実現しない。

紀元前3世紀~前2世紀になると、黙示思想が目立ってくる。
人間の試みはすべて無駄で、神が一方的に「この世」を滅ぼすとされる「終末」が考えられた。
しかし、「終末」は実現しない。
「救い」に関してユダヤ教は八方塞がりの状態になっている。

旧約聖書では、「人が何をしても救われない」「神の介入を待つしかない」ということが確認されている。
イエスの立場は、「罪」の状態にあるはずの者に対して、神が一方的に介入して、神とその者の間に生き生きした関係が生じるようになったと考える。

この説明ではフロレンスが納得しないでしょう。
もっとも、ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』はキリスト教を否定しているわけではないように思います。

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ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』と旧約聖書(1)

2018年06月06日 | キリスト教

『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』はメキシコ系アメリカ人のルドルフォ・アナヤが1972年に書いた小説です。

1945年ごろのニューメキシコ州を舞台に、7歳の少年アントニオのまわりに起きる出来事をめぐる物語。
父親の家系はヤノ(大草原)で馬に乗って牛飼いをしていた。
農家に生まれた母親はアントニオが神父になるのが夢。
家族はスペイン語を話す。
町の人たちはほとんどがカトリックで、子供たちもカトリックでなければ地獄に堕ちると信じている。

年老いた呪術師のウルティマはアントニオ一家と一緒に住むようになる。
母方の伯父たちは、呪いをかけられて死にかけた弟を助けてもらったのに、ウルティマが襲われた時に助けようとしない。
人々を救うにもかかわらず非難されるウルティマはイエスを連想させます。

アントニオは黄金の鯉を見に行き、友達からこんな話を聞く。
大地がまだ若いころ、鯉を食べることが禁じられていたのに、飢えに襲われた人々は鯉をつかまえて食べた。
神々は罪を犯した人間達をすべて殺そうとしたが、人間を愛していた神が反対し、人間達を鯉に変え、川の中で暮らすように決めた。
人間を愛していた神はとても大きく金色の鯉に姿を変え、人間達の世話をすることにした。

唯一神のキリスト教とは違う神様です。
もし古い宗教が、その信者の疑問に答えられなくなったら、それはその宗教が変わるべき時がきたということなのかもしれない、とアントニオは考えます。

同級生のフロレンスは神を信じていない。
フロレンス「母さんが死んだとき、ぼくは三歳だった。父さんは飲み過ぎて死んで、それで。姉さん達は売春をやってて、ロージーの店で働いているんだ……。
それで自分で考えたんだ。幼い子供にこんなつらい思いをさせて、神様は平気なんだろうかって。ぼくはこの世に生んで下さいなんて頼んだわけじゃない。神様が勝手にこの世に送りだし、魂を吹きこみ、ぼくを罰する。なんでだ? ぼくが神様に何をした。なんでこんな目に合わなくちゃいけないんだ、ええ?」
ぼく「もしかしたら、神父様のいったとおりなのかも。神様はぼくたちの前に、乗り越えるべき障害をお置きになったのかもしれない。そしてぼく達が、そのつらくて苦しい障害を乗り越えたとき、良きカトリック教徒になり、天国で神様とともにいる権利を与えられるのかも」
フロレンス「それも考えてみたんだ。だけどやっぱり、こうなるんじゃないかなあ。つまり、もし神父様のいうように神様が賢いのなら、ぼく達が良きカトリックかどうかなんて試す必要はないはずだ。それにさあ、まだ何も知らない三歳の子供を試してどうするんだよ。神様は全知全能だということになってる。それはそれでいい。だけど、じゃあなんで、悪いものやいやなものなしでこの地球を作らなかったんだろう? なんでたがいにいつも親切でいられるようにぼく達を作らなかったんだろう?(略)泳ぎにいくと何人かは小児麻痺になって、死ぬまで体が自由に動かなくなってしまう! それって正しいことなのか?」
ぼく「わからないよ。昔はすべてがうまくいっていたんだ。エデンの園では罪もなく、人間は幸せだった。だけど、ぼく達人間が罪を犯してしまったから……」
フロレンス「ぼく達が罪を犯したって? ばかばかしい。罪を犯したのはイヴだろ。イヴが掟を破ったからって、なぜぼく達が苦しまなくちゃいけないんだよ、ええ?」
ぼく「ただ掟を破っただけじゃないんだ。ふたりは神様のようになろうと思ったんだ! 覚えてないかい、ほら、神父様がいってたじゃないか。あのリンゴには知恵が詰まっていて、それを食べると、いろんなことがわかってしまうって。そして神様みたいに、善と悪について知ってしまったんだよ。だから神様はふたりを罰した。それはふたりが知恵を欲したからなんだ」
フロレンス「それもおかしくないか? なぜ知恵を求めることが人を苦しめることになるんだ? ぼく達が学校にいくのだって、勉強をして知識を得るためだし、公教要理に通うのだって、知識を……」
ぼく「もしぼく達が知識なんか持ってなかったら、どうだろう?」
フロレンス「野原にいるばかな動物達と同じになっちゃうんじゃないか」

神の沈黙ということです。
恵み深い全知全能の神がどうして幼い子供を罰するのか、どうして神は不幸や災厄に何もしないのか。
フロレンスの疑問にアントニオは答えることができません。

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