三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

マスコミ報道について

2005年06月28日 | 厳罰化

藤井誠二『少年に奪われた人生―犯罪被害者遺族の戦い―』は重たい本である。
少年法が改正されるまでは、加害者が少年の場合、被害者や家族は、事件はどのようにして起こったのか、どういう審判を下されたのか、そうしたこと一切を知らされないし、意見を述べることもできなかった。
そこで、事件について知りたいと思う被害者や家族は、警察や学校に説明を求めたり、損害賠償の訴訟を起こすなどする。
ところが、被害者側のそうした行動はまわりの人から白い目で見られ、時には非難されることもある。

こうした大衆の悪意はいったい何なんだろうか。
『少年に奪われた人生』に取り上げられているが、飯塚市で女子高校生が教員の体罰で死んでしまうという事件があった。
ところが、被害者である生徒に対する悪口や誹謗が飛び交い、生徒のほうが悪かった、教師はかわいそうだ、ということになってしまった。
被害者は二度死ぬ、である。

実は、私もこの事件を知った時にそう思った。
その女生徒はワルだったんだろう、たまたま打ち所が悪くて死んだんじゃないか、教師も災難だなと。
私も女生徒を二度目に殺した一人である。

一昨日の毎日新聞に、JRの脱線事故での犠牲者名を実名で報道すべきか、匿名にすべきかという検証記事があった。

毎日新聞は読者の「知る権利」に応え、事実を正確に記録するため、実名報道を原則としている。

しかし、犠牲者の実名を知る権利など私にはないし、まして顔写真を見る権利などない。
事実を記録するためには新聞以外の手段がいくらでもある。

犠牲者の人となりや遺族の悲しみ、怒りを出来る限り伝えるには、遺族や関係者への取材、顔写真取材は重要だ。

しかし、家族が突然なくなってすぐなのに、取材に対して冷静に応答できるものだろうか。
もちろん「自らの気持ちを吐露したい人もいる」ことは間違いないし、吐露することは大切であるが、それを新聞で公表すべきかどうかは別問題である。

匿名化が進むと報道の具体性を欠くことになり、事実の検証が困難になる恐れがある。

しかし、未成年者が犯罪を犯した場合、匿名報道である。
だからといって報道の具体性が欠けているとは思えないし、事実の検証が困難になっていないのではないか。

私たち大人の意識の底流に何か別の「不安」のようなものがどろどろと流れてはいないだろうか。
雑駁に言ってしまえば、その「不安」とは、私たち大人が犯罪を犯す少年に対して抱いている「恐れ」のようなものではないか。人を殺す「子ども」を「理解」できないがゆえの「恐れ」。

と藤井誠二氏は書いている。
私たちが持っている「不安」「恐れ」は、マスメディアによって増幅されている。
「今の子どもは何を考えているかわからない」というふうに。
だからといって、大衆の悪意をマスメディアだけのせいにはできない。
人間の本質に関わる部分から悪意が生まれてくるような気がする。

それにしても不思議なのは、殺されたら未成年であっても実名報道される。
人間の人権は死とともに消失するということなのだろうか。

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テレンス・ハインズ『超科学をきる PartⅡ』

2005年06月23日 | あやしい教え・考え

テレンス・ハインズ『超科学をきる PartⅡ』に、アメリカ政府は国民にUFOが実在する証拠を隠している、UFOを目撃したり、UFOの真実を知ってしまった者のところには、恐ろしい黒服の男(MIB)がやってくる、という政府の陰謀説が紹介されている。
『MIB(メン・イン・ブラック)』の元ネタはこれなのかと、おそまきながら知りました。

宇宙人に誘拐されて、検査され、中には宇宙人とセックスをさせられた、と主張する人についても書かれている。
彼らは宇宙人に誘拐されたことを忘れていたのだが、催眠術によって思い出したのだそうだ。
宇宙人が記憶を消していたということです。
そういえば『MIB』にも、記憶(宇宙人についてのだけ)を消す機械が出てきた。

『MIB』は荒唐無稽だと言ってけなす人はいないと思うが、なぜかジョセフ・ルーベン『フォーガットン』という映画、ネットでは「ぶっとんでいる」とか「ありえない」とボロクソにけなされている。

どれだけ馬鹿らしいのか見に行きました。

子供を亡くした主人公の周辺に起こる奇怪な事件が、実は宇宙人の陰謀だったという展開になって、「そんな馬鹿な」と言いたくなる。

しかし、すべては主人公の妄想じゃないかとも思われる。
そう考えると、つじつまの合わないところがあるのだが、それも妄想だからと納得できる。
ま、妄想だと勘違いをした私の妄想かもしれないが。

テレンス・ハインズ『超科学をきる PartⅡ』には、信仰療法に対する批判も書かれている。

「奇跡の集会」にいあわせた観衆は数千人。
「ガンが治ります」という叫び声をあげると、ガンの末期で、歩くとひどい痛みをおぼえる婦人は、たどたどしい足どりで舞台にのぼり、舞台の上で走り出した。
もちろん病気が治ったわけではなくて、その場の雰囲気で治ったような気がし、痛みを感じなくなっただけである。
この婦人は翌朝には激痛で目覚めた。
無理をして歩いたために、背骨が折れてしまったのである。

しかし、数千人の観衆は奇跡を見たと信じてしまう。

というか、観衆は奇跡を見るために集まったのだから、どんなトリックが使われていても、奇跡が起きたと思い込んでしまうのである。

ハインズは「信仰療法士は人を殺している」と言う。

「本当は治っていないのに治してもらったと確信してしまうため、患者は正規の治療をやめてしまうからだ」
中には、観衆に向かって「医者からもらった薬を捨ててしまえ」と扇動することもあるという。
あるいは、どんなにひどい症状でも、医者に連れていってはいけない、とさとす信仰療法士がいる。

『超科学をきる』の日本語版は抄訳で、日本では宇宙人や信仰療法などについての問題があまりないので省略したそうだが、完訳を願う声があり、訳し残された部分が『PartⅡ』として出版された。

なるほど、この本で紹介されるような信仰療法は日本で行われてないのか、と私もつい思ってしまったが、いえいえ、そんなことはありません。

ある人がGLAの講演会に、友だちに誘われて行ってきたと言われた。

車イスの人が大勢いたそうだ。
おそらくそうした人たちは病気が治ることを期待して行ったのだろう。
知り合いも膝が悪いので、ひょっとして、という気持ちがあったと思うが、言うまでもなく、膝の痛みは変わりない。
会費は3000円。
高橋佳子の話は何のことやらさっぱりわからなかったそうだ。

手かざしも信仰治療。

あの手の教団は、医者に行くな、薬は毒だ、などと言ってるし。
日本でも信仰療法は盛んであります。

ところが、『超科学をきる』のように、教団の名前をはっきりとあげて信仰療法を正面から批判する本は、おそらく日本ではあまりないのではなかろうか。

それはクレームがつくのが怖いからだろうが、しかし命に関わる問題である。
信仰療法を行う宗教に対して、バカ、カバ、チンドン屋、とののしってもいいように思う。

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はずかしい生き方

2005年06月21日 | 仏教

浅田正作さんの詩を読んだ某氏から、「どういう意味か最初はさっぱりわからなかった」と言われ、驚いたことがある。
妻が伝道掲示板に浅田正作さんのこの詩はどうかと聞いてきた。

愧(は)ずかしくない
  生き方など
 人間の生き方では
  ないと思う

なるほど、某氏がわからないというのももっともだと思った。
まず「愧ずかしくない」が読めないと思う。
それはフリガナをつければいいのだが、問題は「はずかしくない生き方」ということである。

普通は「はずかしい生き方など人間の生き方ではない」ということになる。

ところが浅田さんは「はずかしい生き方こそが人間の生き方だ」と言われる。
非常識な言葉である。
ま、掲示板を見た人に、「あれっ」と思っていただければ幸いである。
「はずかしい生き方など人間の生き方ではないと思う」と早とちりされそうな気もするが。

東本願寺のリーフレット「お盆」を読む。
二人の方の文章には、「いのち」という言葉がやたらと出てきて、これは御遠忌テーマをからませようという本山の意向なのかと邪推する。
「自分探し」という言葉も好きではない。

それはともかく問題は、本山から出されるものを読んでも、何が書かれているのか、何を言いたいのか、私の頭にすっと入ってこないことが多い、ということである。
こういう時、私はアホなんじゃろうか、と不安になる。
それで、妻に読ませてみたのだが、「わかりやすくて良い」と言う。
妻はわかるのに、私がわからないとは!
いささかショックでした。

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狼に育てられた少女を育てた牧師は狼少年だったのか

2005年06月19日 | 

以前、J.A.L.シング『狼に育てられた子―カマラとアマラの養育日記』を読んだ時には感動した。
1920年、インドのカルカッタ近くで、狼に育てられていた二人の少女が発見された。
少女たちを引き取って養育したシング牧師が書いたのが、この本である。
年下の少女は1年ぐらいで死んでしまったが、年上のほうは9年間生きていた。
最初のころ、少女たちは二本足で立つことができず、四つん這いで走っていた。
生肉を好み、食べる時は手を使わず、文字通り犬食いで食べた。

赤ん坊がハイハイし、立ち上がり、歩くということ、あるいは手でものをつかみ、手で食べ物を口に持っていくこと、そうしたことは教えなくても自然に行うようになるわけではない。
教えられて、あるいは、まわりの人のすることを見て、学んでいく。
このように私は思って感動したわけです。

ところがどっこい、藤永保『幼児教育を考える』を読むと、この少女たちは狼に育てられたわけではないらしい。

狼は赤ん坊をだっこしてお乳を飲ませることなどできない。
ところが、人間の赤ん坊は自分ではお乳を飲めない。
だから、母乳を飲む時期で、なおかつ自分で乳首をふくむことのできるという都合のいい時に、狼にさらわれなくてはいけない。
しかも、年月をおいて二人が、である。
こういうことはまずあり得ない。

そのほか、日記の記述にはおかしい点がいろいろある。
人間の眼が暗闇で光ることはない。
人間と狼は骨格が違うので、狼に育てられたからといって、四本足で素早く動くことはできない、などなど。

藤永保氏によると、少女たちは「ある程度成長した時点で遺棄された自閉症の子どもではないか」ということです。

うーん、せっかくのいい話なのに残念。
この本を手にして、「人は人間に生まれたから人間なのではない。人間になっていくんだ」というような法話をしていたんですが、もうできなくなりました。

で、ネットで検索してみたら、この話自体がまるっきりの嘘という可能性もあるんですね。

動物小説で有名な戸川幸夫はわざわざインドまで行ったのだが、少女が発見された村はなかったし、この話を知っている人は誰もいなかった。

シング牧師は少女たちが狼に育てられたものと思い込んでいたのだろうか、それとも嘘をついたのか。
幽霊屋敷の話なんかは、意図的にデタラメなお話を作り上げたものがほとんどだそうだが、狼に育てられた少女もそうかもしれない可能性はある。

ニューエイジ・スピリチュアル系の本は自伝やノンフィクションと謳っていても、作り話のものが多い。
ある大谷派の方のHPで、ルシャッド・フィールド『ラスト・バリア』を知り、読んでみました。
この方はニューエイジにどっぷりとはまっていて、親鸞の教えをニューエイジ風に説いておられる困った方です。

で、『ラスト・バリア』ですけど、自伝であって、フィクションではないとのこと。
ルシャッド・フィールドがロンドンの骨董屋でスーフィー(イスラム神秘主義者)を尋ねたことがきっかけで、トルコへ旅をする、というお話。
よくある霊的成長小説というべき代物です。
翻訳はおなじみの山川紘矢、山川亜希子のご夫婦。
意味ありげな会話、出来事が次々と語られる。
指導者であるトルコ人は突然怒り出したり、意味不明な指示を出しては、その指示を急に変えたりする。

なんだかカルロス・カスタネダ『呪術師と私 ドン・ファンの教え』を思い出させる。

ドン・ファンという人物はカルロス・カスタネダの創作である。
『ラスト・バリア』の続編も翻訳されているそうで、カスタネダのように二匹目のドジョウを狙ったのか。

もっともらしいことを曖昧な表現で語る。

そうすれば、どんな教えにも、どんな人にもドンピシャリ。
シング牧師の本も『呪術師と私』や『ラスト・バリア』のように、お話として楽しめばいいのかもしれない。

講演で狼に育てられた子供の話をされた某氏に、あれは作り話らしいと言ったら、「本当かどうかは枝葉末節です」とあっさりかわされた。

枝葉末節とは思えないのですが。

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「いのち」の実体化

2005年06月11日 | あやしい教え・考え

日蓮宗には霊断師会という会がある。
霊断師は、さまざまな悩み事の相談に、こうしなさいと解決法を与える。
なぜそういうことができるかと言えば、九識霊断法によってである。

九識霊断法とは、南無妙法蓮華経のお題目の神秘と、人間が誰でも持っている九識によって我々の運命を予知する秘法です。 この霊断により、困ったとき、迷ったとき、決めかねているときなど、人生のいろいろな場面で遭遇する運命の真相を知り、その運命を好転させることができるのです。

唯識では無意識の深いところがアラヤ識で第八識だが、さらにその下に第九識があり、その第九識はすべての存在と通底しているから、霊断師は第九識によって過去や未来、人の気持ちまですべてわかる。
すでに死んだ人や、これから生まれる人の心も、すべてわかる。
そういうことで、すべてのことをぴたりぴたりと当て、悩み事の解決法をすぱーと言うわけです。

正直なところ、私はアホらしいと思っていたのだが、ところが、ある先生(大谷派)が観世音菩薩の名前について、こういう話をされたのには驚いた。

観世音菩薩はすべての人々の心の悩み苦しみを取り除こうとするが、悩み苦しみの声を聞かないとわからないということじゃない。声を聞いて助けようとするんじゃなくて、世間の人が言いたいことが見たらわかる。
これは実際に起こりうることらしい。唯識のほうでは面倒なことではないらしい。よく起こることらしい。

つまり、九識か深層意識か知らないが、意識のレベルをそこまで下げれば、他人の心がわかるわけで、九識霊断法はありうるということになる。
そして、さらにこんな話をされた。

ヨーロッパの精神医学のお医者さんが唯識の構造を気にしている。だけど、意識でもって深層意識を説明しようとするから、これは初めから無理だ。
大体、唯識とは瑜伽唯識である。瑜伽というのはヨーガ、だからヨーガという具体的な行の中でひらめいてくる直感によって意識の構造を認識していこうというわけだ。ところが、唯識を勉強している人は瑜伽の行をやっていない。

ヨーガか瞑想か、そういうことをすることによって、本来意識できない無意識をも直感で意識できるということなんでしょう。
ウーン、こういうことを言われるとねえ、仏教とは神秘思想なのかいなと信仰が失せてしまう気がします。

小川一乗『大乗仏教の根本思想』に、波と大海のたとえが書かれている。

波は私たち一人一人です。波がどうして起こっているかというと、海があるからです。海がなかったら、波は起こりません。海は無量寿の世界です。無量寿としての命が海です。その海が波を起こしているのです。ところが、波は一瞬にして消えていきます。それが私たちなのです。では波が消えたら、どうなるのでしょうか。波はただ海に帰るだけです。ですから私たちは、大海が今、波となっているように、無量寿の命がただいまの私という命になっているということなのです。そして波は消えて海に帰る。それと同じように、無量寿からもらった命は、無量寿に帰るのです。
しかし、大海というたとえを出してしまうと、なにか大海というような実体的なものを考えてしまいますから、危険なたとえなので、注意が必要ですが、大海という実体、つまり命の世界という実体があるということではありません。

無量寿という実体があるとしたら、それは九識のようなものである。
しかし小川一乗先生は、大海=無量寿の命、を実体化しては間違いだ、とおさえている。
そこが仏教とニューエイジの違いだろうと思う。
ニューエイジでは、我々の認識できない世界、科学ではまだ知ることのできない世界がある、体験(神秘体験など)を通して、その世界が実在すると説く。
我々に認識できないものを、さも目に見えるように語ることが、どうしてできるのかと、私なんかは不思議に思うんですけどね。

「親鸞仏教センター通信」第14号に、伊東恵深氏が飼い猫の死からこういうことを感じたと書いている。

この経験(猫の死)を通して、ひとつ気づかされたことがある。それは、たとえ「死」によって大切な存在を失ったとしても、いのちの根源において互いにつながっているという感覚によって、本来のつながりは失われていない、ということであった。

「いのちの根源における本来のつながり」とは何か。
九識みたいなものか。
「つながり」を実体化すると、テレパシーもあり得るということになる。
言葉尻をとらえて文句をつけているようだが、しかし実際、そういう趣旨のことを言う人がいるのだから。

たとえば、「親鸞仏教センター通信」第14号には、青木新門さんのお話を要約したものも掲載されている。

現代は、光顔巍巍とか不可思議光というスピリチュアリティ(霊性)の世界をあまりにも排除しているのではないでしょうか。スピリチュアリティというのは実存的体験です。

スピリチュアリティをどういう意味で使っているのかということがあるが、「実存的体験」と言われると、どうもあやしいように感じる。
青木新門さんは、光をたとえとしてではなく、実際に感知できる光という意味で話されているように思う。
「いのちの根源」と「スピリチュアリティ」を同じ意味だとすると、「つながり」は実体的にある、ということになる。

子供を亡くした親の会の「ちいさな風の会」の若林一美さんのお話。

亡き人によって私たちが導かれている。亡き人によって示された道を私たちは歩いているんじゃないか。そんな思いすら抱くことがあります。
人というのは、人を思う心の中で生かされている。そして、その思うことによって、私たちは亡き人を生かすことができるかもしれないし、私たちもまた、そういう思いの中で、生きていく。
そんなことをご遺族の方の言葉から常々感じています。

伊東恵深氏が言おうとされたのはこういうことだろうが、若林さんの話はスッと入ってくる。
「無量寿の命=阿弥陀のいのち」を実体化したら、真宗のニューエイジ化になる。
何かを実体化せずにはおれない我々の感覚を、迷いと言うのかもしれない。

(追記)
青木新門『納棺夫日記』について書きました。
やっぱりちょっと違うなと思います。

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2116cf54cb26c1d8ab3c7bb67300be79

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無宗教であること

2005年06月09日 | 映画

欧米に行って「私は無宗教です」と言うことは、自分が人間であることを否定するようなものだと、どこかで読んだことがある。
だけども、本当にそうなのかと、何本かの映画を見て思った。

まず、ケヴィン・マクドナルド『運命を分けたザイル』を見て、無宗教の人は決して少なくないんじゃないかと思ったわけです。
『運命を分けたザイル』はアンデスの未踏峰を下山中に大腿骨を骨折し、そして帰還した人のドキュメンタリーである。
その本人が語り、再現フィルムでその時の状況を描いていく(これは本人ではない)わけだが、絶壁を登り、吹雪の中をビバーグし、そして滑落する。
どうやって撮ったんだろうかというほどの迫真の映像である。

で、この人はカトリックの家に生まれたのだが、「信仰は持っていない」とはっきり言い、そして「神はいない。死んだらおしまいだ」と断言する。


なにせ足を骨折しているから、立って歩くことはできない。

痛みをこらえながら這うようにして氷河を下り、岩だらけの谷を進む。
おまけに四日間は食べるものはなく、泥水をすするだけである。
まさに奇跡の生還なので、最後に「神のおかげだ」と言うのかと思ってたら、それはなかった。

今年のベスト1映画は『バタフライ・エフェクト』だと思っていたら、うれしい誤解。

クリント・イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』は傑作です。
『海を飛ぶ夢』や『バッド・エデュケーション』に出てくる神父にはげげっとなったが、この映画でも神父の描き方が気になった。

『ミリオンダラー・ベイビー』では、イヤな人物はどこまでもイヤな奴で、マギーの家族やドイツ人ボクサーなど全くどうしようもない。

神父もその一人。
主人公(アイルランド人)は23年間(だったと思う)、欠かさずミサに出席しているにもかかわらず、「三位一体とは?」とか「マリアの処女受胎は?」といった、カトリック信者ならば子供でも知っているようなことを神父に質問する。
嫌がらせみたいなもので、神父が素っ気ない態度をするのもわかる。

しかし、神父は主人公が娘と疎遠であることを知っているし、主人公は神父に告解をしているはずだから、その理由も神父はおそらく知っているはずだ。

そして、最後の主人公との会話は、神父が主人公が本当に救いを求めていることをわかっていると示している。
それにもかかわらず、神父は主人公を見捨てたように感じた。

主人公は信仰を得たいと願いながらも、疑いを捨てきれない。

だからこそ苦しまざるを得ない。
私は、神にまかせればよいと言って悩まない神父よりも、救われることのないだろう選択をした主人公に惹かれる。

クリント・イーストウッドは倫理的なテーマの映画を作り続けている。

もっとも、元愛人のソンドラ・ロックに対する仕打ちは倫理的とは言えないけれども。

松濤弘道『世界の葬式』は、欧米の火葬についても書かれている。

以前は、火葬することは自分は無宗教、すなわち共産主義者だ、死後の復活を信じていないと宣言することだったそうだ。
だけども、今はそういうことではなくて火葬する人が増えているそうで、その多くはいわゆる無宗教の人なんだろうと思う。

フランスに住んでいる人に「フランスはカトリックの国でしょう」と尋ねたら、「教会に行く人は少ない。日本と大して変わらない」と言われてたことがある。

日本人が無宗教であると平気で言うのはおかしいとされるのも、日本の特殊性を強調したいという、一種の自慢みたいなこともあるんじゃなかろうか。

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青草民人「人間の価値って」

2005年06月07日 | 青草民人のコラム

先日、仕事で、ある農家を訪問する機会があった。その農家の方は、りんごを栽培して生計を立てている。
りんごを育てる仕事は一年中続くそうだ。春の花の摘花作業、実がつけば実の摘果作業、そして、虫や病気に対する防除、袋掛け、等々、収穫に至るまで休みなく農作業が続く。
しかも、収穫を間近に控えると台風のシーズンとなり、気の休まる暇がない。晴れが続くといえば水不足を心配し、雨が多いといえば日照時間を気にし、ひょうや霜の害に備える。りんごに限らず、農家の人の暮らしは、自然との共存と克服の毎日である。

こうして細心の注意を払ってできたりんごは、農家の人にとってかけがえの無い逸品となる。世界中どこに出しても恥ずかしくない、甘くて美味しくて美しいりんごなのである。選ばれて選ばれて、大切に大切に育てられ、最後に残った逸品である。

商品価値は手間ひまをかけた分だけ高価になる。志半ばで落ちたものや傷んでしまったものは、どんなに同じ味がしても、商品としての価値を失ってしまう。せいぜいジュースになることで、新しい価値を得るのが精一杯であろう。

では、人間の価値ってどこで決まるのだろうか。容姿や性格、地位や財産、教養や学歴等々、価値の規準となるものはたくさんあろうが、はたして私たちはりんごと同じでいいのだろうか。
たとえば、偏差値という数字でその人の学力をはかることはあるにしても、その数字がその人の価値を決めることにはならない。

ある仏教学の先生が、仏教では、平等ということは他と比較しないで、その人の存在をはたらきとして認めることだ、とおっしゃった。
勉強ができない子は勉強ができないというはたらきをしてる子であり、勉強ができないというはたらきをしている子がいることによって、勉強ができるというはたらきをする子がいるのだ。どちらも子どもであることに差別はない。

りんごも本来は、ジュースになろうが、高級店に並ぼうが、りんごという果物のはたらきに違いはない。結局はそれを買う人間の価値観が問題なのだろう。
真に人を見る目をもちたいものである。

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自死について

2005年06月04日 | 日記

昨日の新聞によると、昨年の自殺者は3万2325人、男性が7割。
そのうち60歳以上が1万994人で三分の一を占める。

身近な人が自死したらまわりの人はショックを受けるが、特に遺族の悲嘆の深さは言葉では言い表せないものがある。
ただでさえ、家族が死ぬと「自分のせいで」とか「ああしていればよかった」といった罪悪感を持つものだが、自死となると罪悪感は一層深い。
「誰もせいでもない」という遺書を残して亡くなる人もいる。
だからといって悲痛が少なくなるわけではない。
家族がそんなに苦しむと知っていたら、死より生きる方を選ぶのではないかとも思うが、しかし自死しようとする人は自分のことで精一杯で、他者のそうした気持ちを考えるだけの余裕はないかもしれない。

桜部建『仏教とはなにか』に、

自殺は必ずしも罪ではありません、仏教では。

とある。
「自殺してもかまわない」ということになったら困るが、しかしこれは大切なことだと思う。
家族が自死した遺族はすごく罪悪感を感じいているし、死んだ人がどうなっているかを心配し、苦しむ。
「自殺をしてはいけない」ということは訴えていかないといけないが、それと同時に「自殺をしても地獄には堕ちない」と説くべきである。

室町時代、ある高僧が「本当に苦しかったら死んでもかまわない」と言ったら、大勢の人が自殺したので、あわてた高僧は「自殺してはいけない」と訂正したという話をどこかで読んだことがある。
その時代に浄土の教えが広まったのは、蓮如のカリスマ性ということもあるが、死んだらいいところへ行けるから、ということが大きいと思う。
死後の救いを信じて、現実の苦しさに耐えることができた。

それでは、現代において生き抜く力を与えるものは何か?
いつぞや、ネットで青酸カリを手に入れた人が自殺し、そのサイトの管理人もすぐ自殺したという事件があった。
その時、自殺を常に考えている人は、青酸カリを手元に置いているからいつでも死ねる、だから今日を生きることができる、ということを新聞に書かれていた。
青酸カリが生きる支えとなっているわけだが、これはちょっとまずい。

ネットで知り合った者が集団で自殺する事件が多い。
あれは一人では死ねないから、みんなで一緒に自殺するんだと思う。
お互いが自殺に追いやるわけで、自殺教唆というか、消極的殺人といえるのではなかろうか。

だったら、逆にしてみたらどうだろうか。
他者との関わりの中で死ぬことができるのなら、逆に他者の関わりの中で生きることはできないものか。
「お互い死なないようにしよう。とにかく生きてみよう」というふうに。
関わりの中で死を選ぶように、生を選ぶことができたら、と思う。

四衢亮先生がこういう話をされた。
自殺する人は年に約三万三千人、自殺率が一番高い県は秋田県。
そして三世代、四世代同居率が一番高いのも秋田県。
このことのキーワードは「自立―迷惑をかけない」ということだ。
同居している家族に迷惑をかけたくない、だから自分のことは自分でできなければと思う。
それで、寝たきりになるとか、なるのでは、という怖れを持ったら、自殺を考えてしまう。

この、迷惑をかけたくないから自殺をするという気持ちは、散骨、直葬、家族葬と通じるように思う。
子供をわずらわせたくない、だから死んだことを誰にも知らせない、葬式をしない、墓を作らない、ということだからだ。

子供に遠慮する気持ちもわかないではない。
しかし、迷惑をかけたくないからというので自ら命を絶つのも迷惑な話だし、同じように、わざわざ海や山に骨をまくのも面倒な気がする。
迷惑をかけたくないので散骨してほしいのなら、「自分が死んだ後、火葬場から骨を持って帰らないでくれ」と言えばいいのに。

私たちはわずらわしいと思っても、しなければいけないと思っていることはぶつぶつ言いながらでもする。
お互い迷惑をかけ合いながら、お互いぶつくさ文句を言い合いながら、それでも一緒に暮らしていくことができればと思う。
きれいごとかもしれないが。

(追記)
送られてきた青酸カリを飲んだ女性が死亡、その青酸カリを売った男性も自死した事件についてのドキュメント矢幡洋『Dr.キリコの贈り物』について書きました。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/5f7e58da200492746c2d5beba2813cac

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「今、いのちがあなたを生きている」2 「いのち」とは

2005年06月01日 | あやしい教え・考え

「御遠忌テーマの願い」には、
「「今」という言葉は、自覚をうながす呼びかけの言葉として押さえたい」
「今を今として受けとめて生きよという自覚をうながす念仏の声」
「「今」「いのち」という言葉を自覚語として掲げたいのである」
などと、「自覚」という言葉がやたらと出てくる。
自分は自覚しているが、みんなは自覚していない、だから自覚をうながしているんだという、高みに立った言い方のように感じる。

でもまあ、「今」はいいとしましょう。
問題は「いのち」です。

まず、どうして「命」ではなくて「いのち」とわざわざ平仮名なのかという疑問。

「こころ」もなぜか平仮名でよく使われる言葉だが、平仮名にしなければいけない理由があるのだろうか。
「いのち」には「寿のいのち」と「命のいのち」があって、「寿」は「阿弥陀のいのち」「無量寿のいのち」、「命」は「自我のいのち」だと説明される。
「いのちがあなたを生きている」の「いのち」とは「無量寿のいのち」ということだろう。

たぶん、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、「私が生きているのではなく、無量寿のいのちが生きている」と自覚してほしいという呼びかけだと思う。

しかし、それだと、「いのち」という実体的実在があると受け取られてしまうのではないか。
「私」が生きているのではなく、「いのち」という実体が生きているんだとなると、「いのち」とは霊という意味になる。
たとえば悪霊が私に取り憑いていて、私を操っているという感じか。
もちろん、「生きている」主体が悪霊でなくて、神でも何でもいいのだが。

小河原誠『ポパー』にこういうことが書いてあった。

プラトンの『イオン』に「神はわざと最も平凡な詩人をとおして、最も妙なる歌をうたった」という文章があるそうで、これは芸術は人間個人に由来するのではなく、超人間的(神)なものに由来するという考え方、すなわち、芸術家が芸術を生み出すのではなく、芸術家をとおして神が自己表現するのが芸術だ、ということである。

御遠忌テーマの「いのち」と「あなた」の関係もこれと同じで、「あなた」という場をとおして「いのち」が自己表現しているということになると思う。

こういう実体的な「いのち」の実在を、釈尊は否定している。

「阿弥陀のいのち」という考えは梵(ブラフマン)ではないかと思う。

蓮如上人五百回忌御遠忌スローガンは「帰ろう もとのいのちへ」がが、これでは梵我一如とどう違うのか。

桜部建『真宗としての仏教』にこういうことが書いてある。

人間のいのちは尊い、尊厳性をもつ、などということは仏典のどこにも言ってないと思います。

 そして

迷いを離れることがすなわち正しく「生きる」ことだ、あるいは、本当に「生きる」ことだ、とも仏典は言っていません。

へえ~と驚きました。
「お与えのいのち」ということばを真宗では伝統的に使うが、そのことについて桜部建先生はこう言っている。

真宗の門徒がお与えのいのちということばを使う時、そのお与えのいのちというのは誰のお与えなのでしょう。阿弥陀さまですか。阿弥陀さまがこのいのちを与えて下さったなどとは、お経にも書いてないし、ご開山のお言葉にもないし、『御文』さんにもないと思います。

親鸞や蓮如の言葉にはない「お与えのいのち」とは何か。

目に見える天地自然の恵みを通してわれわれの先祖たち、真宗の門徒たちは、目に見えぬ阿弥陀さまのお慈悲を身近に感じたのだと思います。(略)
天地自然から授かったいのち、だから感謝して大事にと、そういうことでないかと思います。


桜部建先生が御遠忌テーマについてどういう意見を持っているかお聞きしたい。 それより、桜部建先生に御遠忌テーマに関する委員会に入ってもらっていたら、と思わずにはいられません。 陳腐化しているうえに、意味不明の「いのち」という言葉はあまり使わないほうがいいと思う。

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