三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

参議院選挙

2007年07月30日 | 日記


民主党の大勝だった。
前回の衆議院選では自民党公認ということだけで誰でも当選したが、今回はそれが民主党だったというわけである。
自民党が「議員定数半減」「議員年金支給額は月10万円まで」といったことを公約にすれば、圧勝したんじゃないかと思う。

小沢一郎は竹下、金丸と三点セットだった。
安倍首相と小沢のどっちを取るかと言われたか、かなり悩みます。

各党から私好みの人が何人か立候補していた。
それらの人が一つの政党を作ってくれてたら、悩まずに投票できたのに。
だけど、一人も当選しないとは思う。

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坂本敏夫「死刑執行人の記録」

2007年07月27日 | 死刑

坂本敏夫「死刑執行人の記録」は刑務官が書いた、刑務官が主人公の小説。
受刑者のちょっといい話(刑務所の運動会に幼稚園児がやって来て、涙を流す受刑者など)刑務所のちょっといやな話(刑務所長が自分の出世のために綱紀粛正を行い、懲戒免職にする刑務官を無理矢理作り上げるなど)、そして死刑囚と死刑執行の話が語られる。
著者が実際に見聞したことが小説の中に取り入れられているだろうと思う。

著者は死刑にははっきりと反対の立場らしい。
小説の中に、こういう会話がある。

「ほう、所長は死刑に反対なんじゃのう」
拘置所では主のような地元の主任が言った。
「人殺しをやりたくないのは当たり前だろうが…」
所長が酔いに任せて大声で言った。

あるいは、別の所長と主人公の牧村との会話。

「所長、所長は死刑をどう思いますか」
牧村は思い切って訊いてみた。
「君はどう思う。君は反対だろう」
「はい、そう見えますか」
「ああ、刑務官という職業に誇りを持っている男は、皆どう思って当然だよ…」
「所長もそうですか」
「僕も反対だ。僕が法務省に入ったころは、まだまだ、刑務官が死刑の問題を論じておったよ。僕は刑務官なら、死刑廃止を叫んで当然だと思うんだが」

そして所長が
「なあ牧村君、殺人の再犯は僕たちが責任を感じなければならないことだよ。今うちでやっている処遇の中に、命の重さ、大切さを考えさせる教育をやっているかね」
と問うのに対して、牧村はこう答える。
「どこの刑務所も受刑者をあの手この手で締めつけて、馬鹿にし、蔑み、苛めぬいているように思われます。人格を傷つけられて、更生する気になるでしょうか…」

死刑の執行は刑務官にとってかなりきつい仕事である。
「刑務官の仕事に死刑を執行することがあるとは知らずに採用試験を受けた者ばかりだろう」
にもかかわらず、上司の命令ならば「良心にまで背くこの仕事」に立ち会わなければならない。
精神に異常をきたして退職する刑務官もいる。
こういう批判を主人公にさせているが、著者のホンネだろう。
「彼ら(法務省の役人)には、死刑囚を十数年拘置し、処遇している拘置所職員の苦労に対する思いやりがない。まして死刑囚に対しては、人間としての尊厳を思うかけらすらない」

刑罰には応報刑と教育刑とがある。
死刑はそのどちらとも矛盾している。
応報刑ということから考えると、
「死刑囚に安らかな死、達観した境地での死を迎えさせることは、応報という刑罰の本質に逆行するのではないだろうか」
受刑者の更生と社会復帰という教育刑の理念から考えれば、「矯正は不可能」という死刑は教育刑の理念と矛盾する。
だから、こういう場面を著者は作る。

「死刑は自己矛盾ですよ」
中川(拘置所の職員)は、刑務官が犯罪者を矯正するという教育者の顔を持ちながら、一方ではそれを放棄して人殺しをするということを言っているのだろう。

それにしても、
「刑務所側は徹底的に苛めぬくことで、反抗できない受刑者をつくり上げる」
など、小説とはいえ、刑務官が刑務行政批判、刑務所批判を書き、発表するとは、すごい勇気だと思う。

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免許の更新

2007年07月24日 | 日記

いささか古い話だが、教育3法が成立した。
某氏によると、あれは組合つぶしだそうだ。
石炭鉱山を閉山に追いやったのも、国鉄や郵政の民営化も、結局のところ組合の力を弱めるためなんだ、というのが某氏の考え。
それがほんとかどうかはともかく、校長や教育委員会に反対する教師が少なくなるのは間違いないだろう。

教育3法が成立した翌日の新聞に、
「教員免許更新制は、数ある職業資格の中で教員免許だけを更新制にする理由が不明瞭なままだ」
とあった。
なるほど、弁護士や医師、税理士などはどうして更新制ではないのだろうか。
医学は5年、薬学は10年でころっと新しくなるから、医者や薬剤師は常に勉強しないといけない、と聞いたことがある。
法律だってころころ変わる。
だから、たとえば70歳になったら再試験というふうに制度を変えてもいいように思う。
だけど、医師会や弁護士会の政治力は大きいからそれは無理なんだろう。
となると、教育3法が成立したということは日教組がそれだけ弱体化したということか。

では、車の運転免許が更新するようになっているのはなぜか。
安全のためというより、金儲けだと思う。
これまた新聞に書いてあったことだが、認知症気味の人でも免許更新できるそうだ。
私もいつまで運転できるやら。

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末木文美士「日本宗教史」

2007年07月21日 | 仏教

柳田国男の宗教観・死後観、あるいはアニミズム・縄文文化が日本文化の底流だという梅原猛ら、こういう人たちの考えにどうもしっくり来ない違和感を感じてきた。
末木文美士「日本宗教史」を読み、彼らは日本人の発想を制約している歴史を貫く不変の何か(古層)を明らかにしようとしたんだとわかった。
しかし、末木文美士は
「歴史を貫く一貫した〈古層〉は認めず、それを歴史的に形成されたものと考える」
と言う。
では、どのように形成されたのだろうか。
それいくつかを紹介します。

・記紀神話は天武・持統政権の正当化のために作られた。記紀神話は仏教や中国文化の影響下にある。
・元寇を契機にナショナリズムの機運がおこり、日本優越的思想が形成された。日本の神こそが根本であり、中国やインドの宗教は神道が展開したものだという考えである。
江戸時代になると、日本中心主義を儒者がとなえだした。そして、仏教、儒教が相対化されるとともに、国学者は日本文化の優越性、普遍性を主張するようになった。
・豊臣秀吉の豊国社、徳川家康の東照宮のように、権力者が神として祀られるのは近世以降。天皇が現人神として崇拝の対象となるのも、この流れに位置づけられる。
・儒教や神道からの仏教批判があり、仏教を排除するためには神道や儒教独自の神葬祭、儒教式葬儀を行う必要があった。しかし、仏教以外の葬式は広まらなかった。
「葬式を担当できるかどうかが、宗教として定着できるかどうかを決める決定的な要因となっている」
・柳田国男の死後観である「霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰」は、柳田国男が言うように仏教渡来以前からのものではなく、平田篤胤の来世観を受け継いだものである。
「死者が身近にいるというのは、少なくとも死者のケガレがそれほど恐れられなくなった時代になってはじめて成り立ちうるものであるから、せいぜい近世頃からのことに過ぎない」
・明治になり、宗教は国家主義道徳の優位を認めなければならなくなった。北村透谷、清沢満之らは、自己の内面に沈潜することによって世俗を超えた普遍的な真理を求めようとしたが、それも行き詰まっている。

〈古層〉を相対化することで呪縛からいくらかでも解放されるかもしれない。
しかし、別の何かを立ててしまうかもしれないが。

で、問題となるのが、仏教史を貫く一貫した教え・真理というものはあるのだろうか、ということである。
釈尊は阿弥陀の本願を説くためにこの世に生まれたと、真宗では言う。
つまりは、仏教の〈古層〉は本願である、ということになるのだが、それでいいのか心配になった。

日本宗教史 (岩波新書)

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田中公明「性と死の密教」

2007年07月18日 | 仏教

田中公明「生と死の密教」は後期密教について書かれた本である。
読んでいる時は、釈尊からインド仏教最後の時輪タントラまでが私の中で何となくつながったように思ったが。

この本を読んで報身とは何かある程度はっきりした。
 二身説―色身・法身
色身―ブッダの物質的身体
法身―ブッダが悟ったダルマ(真理)こそ真の身体

 三身説―応身・報身・法身
「如来の法身は、抽象的な真理自体だから、至高の存在には違いないが、そのダルマを悟って実際に苦悩する衆生を救済する、肉体をもった仏が出現しなければ働きがない。これに対して仏の色身は、人間の姿をとって現れるから、真理を直接悟る叡智のない者でも、姿を拝し、説法を聞いて救済される。
しかし仏といえども、形をもった存在は必ず滅びるというのが、仏教の根本思想である」

そこで報身が登場する。
「仏は修行の果報として、理想的な身体を完成し、自在に衆生を救済することができるが、衆生に諸行無常の理を示すために、仮に涅槃を示現すると考えるようになった。そして功徳の果報として、成仏の後に享ける理想的な身体は、報身と呼ばれた」
この報身説が後に密教に大きな影響を与えることになるそうだ。

某先生のお話に、仏とは何かというと、他人を導くことを目的としている、ということがあった。
つまり、自分が悟ってから人々を導こうというのではなく、人々を助けたいがために仏になろうとするのが仏なんだということである。
衆生済度という願いが人格化したものが報身ということか。

「生と死の密教」によると、アンベドガールの新仏教はテーラヴァーダ仏教からの支援を期待していたが、アンベドガールは輪廻転生説を否定していたので、拒否反応を示されたという。
アウト・カーストに生まれたのは前世の宿業のためだなどということをアンベドガールが認めないのは当然のことだと思う。

性と死の密教

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山岸俊男「心でっかちな日本人」

2007年07月15日 | 

「心でっかち」とは、知識と行動のバランスがとれていない「頭でっかち」のように、心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態のこと。
心の持ち方さえ変えればすべての問題が解決される、と考える「精神主義」がその極端な例である。
心でっかちは「現実を見る目」を微妙に曇らせてしまう。

たとえば、「若者たちの心の荒廃」という心でっかちな思い込みが、現実には存在しない「凶悪な少年犯罪の増加」という幻を生み出している。
いじめの原因として、子どもたちの心がすさんで子どもたちから共感性、つまり他人を思いやる心が失われているという説明はほとんどの人が同意しているが、この説明も「心でっかち」の落とし穴にはまっている。

「他人を思いやる心の持ち主は、他人を苦しめる行動をとらない。だから「いじめ」をする子どもは、相手を思いやる心を失った子どもなのだ」
相手を思いやる心を持った子どもは「いじめ」をしない、という前提そのものが必ずしも正しくない。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉があるように、「いじめ」に加わるか、「いじめ」をやめさせようとするか、それはみんながどうするかにかかってくる。
一人だけ「いじめ」をやめさせようとする生徒がいても、一人だけではその生徒も一緒にいじめられてしまうだろう。
この場合、「いじめ」が悪いことだと思い、いじめられる生徒がかわいそうだと思っても、自分の身を守るためには「いじめ」に加わるか、見て見ぬふりをする必要がある。
しかし、ほとんどの生徒が「いじめ」をやめさせようと思っている場合、安心して「いじめ」をやめさせる行動がとれる。
「いじめ」に加わるか、「いじめ」をやめさせようとするか、クラスの中でそれぞれの行動をとっている生徒の数に依存している。
「いじめ」阻止をするためには、何人かが加勢してくれるかによって違ってくる。
担任が「いじめ」を許すつもりはないと生徒たちに断言すると、安心感を与え、「いじめ」阻止行動をしやすくなる。
逆に、頼りない担任だと、不安感を与えることになって、「いじめ」を阻止行動に加勢することができなくなる。

その行動をとることによって得られる自分の利益の大きさや、自分の身にふりかかってくるコストの大きさは、他の人が同じ行動をとっているかどうかによって変わってくる。
ほかにたくさんの人が同じ行動をとっていれば、自分もその行動をとりやすくなる。

というようなことが山岸俊男「心でっかちな日本人」に書かれていて、なるほどなと思った次第です。
「それは心の問題だ」という答えだと何だかわかった気がする。
だけど、実は何も答えていないのと同じなのかもしれない。

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井上順孝「若者と現代宗教」2

2007年07月12日 | あやしい教え・考え

のちのち

井上順孝は、宗教が相対化・情報化・グローバル化していると言う。
「宗教についての多様な情報が乱れ飛ぶようになると、伝統的な宗教がもっていた価値というものも容易に相対化されてしまう。伝統的であるから価値があるとか、長く続いたから価値があるというような考え方は、情報化社会では説得力が乏しくなる」
「相対化ということの背景には、当然自由競争ということが考えられる」
ま、そりゃそうだ。
「うちは昔から○○宗だ」とか「××寺の檀家だ」とは、これからの時代、言わなくなるだろう。

三世代同居や地域共同体によって伝えられていた宗教的伝統に関する基本的な作法を、現在の若い世代は習得する機会を失いつつある。
「宗教について何も教えられてこなかった若い世代は、たまたま出会った宗教が、社会が伝統的に維持してきた宗教のイメージと同じなのか違うのか、違うとしたらどの面で違うのか、といったような判断基準をほとんど身につけていないので、独自の感性でその宗教に接する危害が増える」
ということである。
「なぜオウム真理教に入信したか」の答えの一つですね。

グローバル化によって、日本の新宗教は韓国、台湾、マレーシア、タイ、シンガポールなどの国において信者を増やしている。
ところが、グローバル化は伝統を破壊し、宗教の文化的コントロールを乱す方向に作用する。
宗教の相対化、情報化、グローバル化によって生まれた「伝統的倫理規範や暗黙の宗教的規範にあまりとらわれない」宗教を、ハイパー・トラディショナルな宗教と井上順孝は名づける。
「最近は、それぞれの地域における伝統的宗教との連続性が希薄で、しかも、民族・国家の枠が当初からあまり感じられないような運動があらわれ始めてきた」
ラジニーシ、サイエントロジー、オウム真理教などのニューエイジ系の宗教で、カルトとして批判されている。

「グローバル化の中で、民族・国家の規範の自明性を奪っていく作用を果たす運動は、今後もどんどん出現するであろう。東アジアで言えば、儒教的倫理、仏教的な教えから導き出されるモラルのようなものが当然の価値観ではなくなっていく。価値の再構成が地球レベルで進行することになっても、それはよりよい価値を目指しての協力といったような麗しいものではないだろう。基本的に競争原理が作動するから、新しい運動は既存の価値観に対して「敬意」など払わない。長い目で見れば、それはよりグローバルな価値観の構築への序章かもしれない。しかし、当面はそれが既存の文化規範に挑戦していく面が脅威として受け止められるだろうし、民族という単位が、こうしたタイプの宗教と親和性を保つことは、基本的に困難と思われる。
そしてまた、新しい運動は、「宗教」の境界線を、より曖昧にしていくに違いない」

その反動からか、伝統回帰も見られる。
その動きの一つがファンダメンタリズム(根本主義、原理主義)への傾斜である。

ファンダメンタリズムの特徴 「三つの「げんてん」主義」
・原点主義とは、その宗教の創始された時点、あるいはその宗教の出発点と考えられる時点の精神なり状態なりに帰れということ。
・原典主義とは、その宗教の聖典に忠実であれという立場。しかしその解釈が歴史的に適切であり正統的であるかどうかはまったく別問題。
・減点主義というのは、現在の状況を負の状態、かつてあった信仰形態からすれば堕落した状態として捉えること。

つまり、回帰すべき時点とそのモデルがあり、かつ現在がそこから隔たりつつあるという認識をもつ運動がファンダメンタリズムということである。
グローバル化・情報化が急速に進行した現代世界において、価値の相対化、アイデンティティの薄まりが価値の相対化は判断基準をなくしてしまう。
「現代のファンダメンタリズムが、価値の相対化への危機感に対する過激な対応という面を含みもつ」

「伝統的な宗教観念は、長い歴史の中に築かれてきたわけで、それぞれの社会で特定のストーリーになったのは、それなりの十分の理由をもつ。従来の新宗教も、伝統的基盤の上に乗っていたわけであるから、その歴史的ストーリーをはっきりと、あるいは暗黙のうちに認め、その現代的解釈を行ったことになる」
ところが、
「伝統的なストーリーが、もはやリアリティをもてない現代社会や現代文化の構造がある」
天国と地獄、悪魔、前世のカルマ、そうしたものよりアダルトチルドレン、トラウマといった言葉のほうが説得力をもってしまう時代。
「生と死に関わる伝統宗教のストーリーに、リアリティをもてなくなった世代は、もしそういうものが必要になったときは、自分で構築しなければならない」

ひょっとしたら、スピリチュアルブームは新しいストーリーなのかもしれない。
伝統的霊魂観とのつながりを持ちつつ、オカルトの領域とも近く、既成教団とは無関係という新しさ。
スピリチュアルについて著者はどう考えているか知りたいものです。

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井上順孝「若者と現代宗教」1

2007年07月09日 | あやしい教え・考え

井上順孝「若者と現代宗教」は若者が宗教をどう考えているかを分析している。
オウム真理教の地下鉄サリン事件が1995年、そしてこの本の出版は1999年。

「日本のお寺は風景でしかなかった」という、オウム真理教をやめた人の言葉は仏教関係者にショックを与えた。
井上順孝が「ハワイの若い日系人の間では神社と寺院の区別がつけられない」という話を講義でしたら、一人の学生が「神社とお寺って違うのですか」と質問したそうだ。
こういう質問を発する学生は決して少数派ではないそうで、まさに「お寺は風景」である。

「終戦直後は信仰をもつ人の割合が、60%前後から70%を超えるものがあったのに対し、90年代には、20~30%が平均的になってきた」
とはいっても、科学が発達しても宗教は人間に必要だと答える学生は半数、神・仏・霊魂の存在を信じる学生は半数強。
「若者は教団宗教の現状にかなり不信を抱いているが、宗教性そのものへの関心はそれほど弱まっていない」

では、どういう宗教に関心が持たれているのだろうか。
刺激に満ちた宗教に接したいと願う若者は、あまり既成宗教には足を向けない。
新宗教の方がずっと生命力を感じさせる。
しかし、もともと新宗教は「民俗信仰と連続面を多くもつ」し、「日本独自の文化的社会的条件の中で形成された」ものである。
「日本の新宗教、そして世界の新宗教運動は、一九世紀から今日にかけて、各地で次々と生じたが、実はその大半は、それぞれの民族や国家における既存の伝統的宗教の再生、刷新という点に、基本的性格を見出すことができる。それらの多くは、既存の伝統的宗教との連続が大前提となっている」

新宗教も組織化が進行すると、儀礼化や教義の硬直化が生じてくる。
組織化、硬直化が起きにくいのがオカルトと戯れる世界。
「組織の束縛から自由であり、教義にこだわる必要はなく、自分の感性に率直になれる場である」
ということで、若者はオカルトにひかれるというわけだ。
オカルトがいけないのなら、祈祷やお祓いとオカルトはどう違うのか、と突っ込まれると、既成教団の人はどう答えるのだろうか。
伝統的というか、社会が認知しているかどうかの違いしかないのかもしれない。

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大澤孝征「犯罪少年」

2007年07月06日 | 厳罰化

光市の事件の差し戻し審があったが、大澤孝征という弁護士は「みのもんたの朝ズバ!」で「(同じ)弁護士として恥ずかしい」とコメントしたそうだ。
で、大澤孝征「犯罪少年」(2000年発行)を読んでみた。

副題が「凶悪な10代後半、驚愕の10代前半」というんだからすごい。
もっとも十代前半と後半の犯罪の違いをこの本では説明してはいないが。


「殺人者に対して、自分とは無関係だと決め込んでしまうと、理解の糸口を失ってしまう。それに、そのような人が本当に自分とは無関係であるといえるかどうか。心のどこかに闇の部分のない人間など、いないのではないだろうか。
善悪の大小、殺意の濃い薄い、あるいは実行するかしないかは別にして、そういう気持ちが自分の中にもあるということを、人間も社会も、正面から見つめる必要があるのではないだろうか」
とか、
「人間には悪の部分、影の部分、いけないとされている部分があり、善の部分、光の部分、よいとされている部分があり、その両者が揃ってはじめてちゃんとする人間、正常な人間たりうるのではないだろか」
と、いいことを言っている。
豊川市で起きた「人を殺す経験をしたかった」というので女性を殺した17歳についても、
「この事件の異常さのみを強調し、加害者の少年は精神を病んでいると決めつけてよいものだろうか。その心情を深く探ることもなく、自分には理解できないという「排除の論理」だけで済ませることは、間違っていないだろうか」
ともっとも。

ところが、
「彼の中には、こういう犯罪を犯すのは今しかないという打算もあったのではないだろうか。なぜならば、今の少年法では、18歳を超えると、殺人罪に対して、場合によっては死刑判決もありうるからだ」
と決めつけているし、
「少年犯罪が、教育水準の高い家庭の中でも、いわゆる人権派の物わかりのいい父親を持つ少年に多いというのも、偶然ではないだろう」
と言うのにはあきれてしまう。

さらには、
「今の刑罰は、犯罪の内容に比べて軽すぎる」
「諸外国に対し、日本の量刑はあまりにも軽い」
「人の命を奪った者は、本来自分の死をもって贖うことから始めなければいけない。検討は死刑から始めてしかるべきなのである」
などと厳罰化を主張している。
こういう考えの弁護士に刑事事件を依頼する人がいるのだろうか。

オウム真理教の井上嘉浩被告は地裁で無期懲役の判決だったが、
「社会全体としての制裁装置として、また被害者に代わってリベンジ(報復)をする装置として、そして一種の見せしめ的な意味(専門用語で一般予防という)においても、一審の判決は「死刑」であるべきだった」
という感想。
検事さんには教育刑の理念はないのか。
うーん。

で、大澤弁護士は、凶悪な少年犯罪が急激に増えているとまず指摘し、「凶悪化する少年事件」「少年犯罪の急増する社会」という見出しをつけている。
しかし、少年犯罪の激増、凶悪化、低年齢化というのは間違い。

ついでに言うと、
「この刑(無期懲役)の実際の執行がどのようになっているかというと、ほとんどの場合、短い年数の刑期ですんでしまっているのが現状」
とも大澤弁護士は言っているが、この本が書かれたころ(2000年)の仮釈放者の平均在所期間は20年以上である。
仮釈放が認められず50年以上在所している人もいるし、獄死する人もいる。

それはともかく、大澤弁護士は少年犯罪は「戦後平等主義の負の遺産」だと言い切り、教育論に話は展開していく。
「少年犯罪が増えて生きている背景に、悪しき平等主義がある」
「戦後教育にも、かなりの問題があったのではないだろか」
「明治・大正時代には、日本人はもっと背筋がピンとしていた。武士の精神のようなものがあった」
やれやれ、また武士道か。
江戸時代、武士は1割ぐらいで、ほとんどが農民だったのに、どうして武士道が日本精神なんだろうか。

本はそのあと、どうして検事から弁護士へ転身したのか、テレビ出演をしまして…、という自慢話で終わる。
そういう本でした。

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本田哲郎「釜ヶ崎と福音」5

2007年07月03日 | 

「釜ヶ崎と福音」を読んで、なるほど、こういうことかと思ったこと。

聖書に出てくる愛(アガペー)について
アガペーとは、神の人間に対する愛のことである。
そして、神が人間を愛するように、人間もお互い愛し合いなさいということである。
本田哲郎神父はこう説明している。
「好きになれない相手かもしれない、でも大切にしなさい。愛情を感じない相手であるかもしれない。でも大切にしなさい。自分自身が大切なように、隣人を大切にしよう。愛情が薄れ、友情が失われたとしても、その人をその人として大切にしようとすること、これこそ人間にとって大事なことだ」

スピリチュアルについて
「人間を言い表すときに、三様の言い方があります。つまり肉と、魂、そして霊です。ただこれは人間を構成する三つの部分ということではない。人間を霊として表現するときは、人間を神さまとコミュニケイトできる、対話できる存在としてとらえている。それに対して、人間を魂と表現するときは、思いやりやいたわり、苦しみや喜びに対するコンパッションなど、動物とは異なる人間的なるもの、ヒューマニズムでとらえた人間に焦点を合わせています。そして、肉と表現するときは、植物も動物も含めた生命あるものとして、生きて、食べて、飲んで、動いて、そして排泄して、病気になったり、治ったり、死んだりする生きものとして人間をとらえているといえます」

私は、キリスト教は肉(ボディ)、魂(ソウル・精神)、霊(スピリット)の三元論だと思っていた。
肉体が死に、意識がなくなっても、霊は残り、そして最後の審判を受けると。
だけど、キリスト教では復活とは肉体の復活だから、霊だけ残る、とというのはおかしい。
本田神父の説明を読み、なるほどと納得した。
いわゆるスピリチュアルなんてものが肉体とは別にあるわけではないということだ。

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