三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

葦津珍彦『国家神道とは何だったか』(3)

2020年04月21日 | 天皇

明治4年、島地黙雷は教部省設立を求める建言を提出しました。
その論旨は、安丸良夫『神々の明治維新』によると、キリスト教に対抗するために、神道のみを宣教する官を廃し、神仏合同の教化体制をつくるようせよというものです。

神祇官が神祇省に格下げとなり、さらには神祇省が廃止されて教部省に改変されるなど、明治初年の神道政策は何度も変更しています。
これは葦津珍彦さんが主張する島地黙雷たち西本願寺僧侶の影響だけではないと、『神々の明治維新』を読むと思えます。

神道内部の対立、そして神道に有能な人材が乏しかったということがある。
神道の内部での守旧派と開明派の考えが違っていた。
国学者の中でも、津和野派の大国隆正や福羽美静は、時勢に敏速に反応して復古神道の内実を時代の必要に合致させようとする傾向が強かった。
それに対し、平田学派の人たちは時代離れした祭政一致を唱えた。
明治3年には、神祇官の中で急進派と目された玉松操や矢野玄道、角田忠行、丸山作楽たち平田派国学者は岩倉具視たち政府中枢と対立し、また官員削減のあおりを受けて、職を失った。
あまりにも神がかった人を岩倉具視たちは嫌ったのです。

神祇官は制度上、最高の位置を占めたが、神祇官の実態は「昼寝官」「因循官」と称されるありさまで、太政官にあごで使われることに甘んじ、宣教の実績をあげることができなかった。

教部省が設立され、教導職が定められた。
明治5年には神官が4204名、僧侶は3043名だったが、明治13年には神道21421名、仏教79014名に増えた。
神官教導職には学力のない修験からとりたてられた者も多かった。
そして、神官にはすぐれた説教家は少なく、説教が下手で人気がなかったが、僧侶には説教のうまい者が多かった。
神仏分離は民衆の支持を得ておらず、抗議行動が各地で起きたということもあります。

そもそも、僧侶が神職の上位に立っていたことに不満を持つ者たちが強引に神社と寺院を切り離したという面がある。

さらには、廃仏毀釈の動きは明治3年~明治4年には絶頂に達し、各地で寺院が破壊され、僧侶は還俗させられ、石塔、石仏まで壊されたり埋められたりした。
佐渡、富山、松本、苗木などの藩では寺院の廃止、併合が特に激しく、京都や奈良、伊勢などでは寺院が破壊され、仏像や仏具が破却されたり売り払われた。

路傍の地蔵等の石像もこわし、一ヵ所に集めて石材として利用した。農村部では、小学校の新築に、付近の石地蔵を集めて土台石や便所の踏み台に用いた。児童が罰をおそれて便所を使用しないので、教師がみずから石地蔵の上で用を足してみせ、仏罰が当たらないことを実地教育したという。(村上重良『国家神道』)


葦津珍彦さんは廃仏毀釈に触れていませんが、まるで文化大革命かタリバンみたいなことをしたわけです。

「神道的第一級人士」による神道国教化政策が続いていれば、薩摩藩や苗木藩のように、日本中の寺院が破壊され、真宗門徒を中心にした抵抗運動が全国で起きたかもしれません。
また、キリスト教への弾圧も続き、欧米諸国から抗議されたと思います。
岩倉具視たちはそうした状態に陥ることを危惧したのでしょう。

葦津珍彦『国家神道とは何だったか』に、「伊藤博文の憲法構想は、信教問題では自由主義に徹していた」とあります。
伊藤博文たちが神道国教化政策から政教分離へと舵を切ったのは、ヨーロッパの宗教事情を学ぶことで、近代国家として日本が認められるには神道国教化という時代錯誤の政策ではダメだと考えたからでしょう。

大貫恵美子『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』にこんなことが書かれています。

明治15年、ローレンツ・フォン・シュタイン(1815年~1890年)は講義を受けた伊藤博文に、日本が採用すべき立憲体制としてプロシア式の憲法を勧めた。
そして、近代日本における「宗教」の必要性を説いた。
日本にはキリスト教に匹敵する宗教が存在しないから、神代から皇室と親密な関係を持ってきた神道を「宗教の代用」にすべきである。
さらに、天皇に対する尊敬と崇拝の念を育てるため、あらゆる場合の皇室固有の儀式を創造し、国民をして気付かぬ間に新しい天皇制に帰依するようにすべきである。

フォン・シュタインのこうした助言を伊藤博文や井上毅たち明治の元勲は受け入れ、新しく構想される天皇の「全能性」を実体化させる方策として、キリスト教をモデルに、天皇を国「家」の父とし、天皇を頂く国家宗教を創立した。
そして、民間神道を国家神道に作り変えると同時に、仏教、キリスト教をはじめとする外来の宗教を排斥しようとした。

明治政府は信教の自由を無条件に認めたわけではありません。
神道は宗教ではないとして、天皇を国の中心に位置づける国家神道を作り上げました。

しかし、国家神道は宗教ではないというのは間違いです。
国家神道の本尊は天皇の御真影、教典は教育勅語、儀式は皇室祭祀であり、天皇への崇敬を説いています。

神道は教義がないと神職の人から聞いたことがあります。
神道非宗教論は今も神道では影響があるのかもしれません。

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葦津珍彦『国家神道とは何だったか』(2)

2020年04月10日 | 天皇

島薗進『国家神道と日本人』による葦津珍彦『国家神道とは何だったか』批判です。

神道学者の中には、明確な戦略的意図をもって、国家神道の狭い定義を掲げた論者が多い。
代表的な論者である葦津珍彦の『国家神道とは何だったか』は、国家神道の主体を神社神道と捉え、かつ国家神道が強大な力をもったという国家神道論を論駁しようという意図に基づくものだ。

国家神道とは行政官僚が神社を支配し、神社は宗教活動に制限を受けた時期の、厚遇されたとはいえない神社神道を指すのだという。
神社が神道本来の活動から遠ざけられていた時代のあり方を、神社界が権力と一体となって跋扈し、悪しき国運を招いたかのように描き出すのは妥当ではない。
このように、葦津珍彦さんの主張をまとめています。

この葦津珍彦さんの国家神道論に対し、島薗進さんは以下のように批判します。

この立場は、神社神道が宗教であることを認めるように見えて、実は皇室祭祀・皇室神道が宗教であることを否定し、国家神道の陣地を挽回しようとするものだ。
国家神道を狭く神社神道に限定して定義することは、神社界を中心とした神道は戦前の軍国主義・侵略主義や信仰強制に対してさほどの責任はないとする論点とも結びついている。
しかし、皇室祭祀・皇室神道を排除した国家神道理解は成り立ちえない。

国家神道は神社の国有化ではない。
神社神道は、皇室崇敬に資するような新たな神社を設立しつつ、全国の神社を組織化していく過程で形成されていった。
だから、神社神道組織を皇室祭祀と切り離して、それだけを独立した宗教組織として実体視するのは適切ではない。

そもそも、神社神道とよべるような統一的宗教組織は明治維新以前には存在しなかった。
皇室祭祀と連携して組織化されることにより、初めて神社神道とよびうる組織が形成され、次第に国家神道の重要な担い手となった。

国体の教義と皇室祭祀や神社神道を結びつけたのは、教育勅語であり、祝祭日システムやメディアだった。
明治維新後の祭祀は祝祭日に行われ、大多数の国民の日常生活に関わるものとなった。
学校行事やマスコミ報道などを通して、皇室祭祀が多くの国民の生活規律訓練の場や情緒の昂揚を共有する機会を提供し、人々の生活のハレとケのリズムに深く関わるものとなった。
天皇を神聖とし、天皇崇敬を鼓吹する行為が長期にわたり日常的に行われた。

ただし、天皇が現人神だという神格化は、教育勅語が発布された段階ではそれほどの強くなかった。
多くの人々が我が身を投げ出しても惜しくないと思うような信仰の対象に天皇がなったのは、1930年代以降の戦時中に限られる。

『尋常小学校修身書』(昭和2年)
三年生用「よい日本人」

よい日本人となるには、つねに天皇陛下・皇后陛下の御徳をあふぎ、又つねに皇大神宮をうやまって、ちゅうくんあいこく心をおこさなければなりません。


五年生用「我が国」

我が国は皇室を中心として、全国が一つの大きな家族のやうになって栄えて来ました。(略)世界に国は多うございますが、我が大日本帝国のやうに、万世一系の天皇をいたゞき、皇室と国民が一体になつてゐる国は外にはございません。(略)我等はかやうなありがたい国に生まれ、かやうな尊い皇室をいたゞいてゐて、又かやうな美風をのこした臣民の子孫でございますから、あつぱれよい日本人となつて我が帝国のために尽くさなければなりません。


天皇は民のことを常に気にかけて下さる。
だからこそ、民は大御代の弥栄のために命を捧げなくてはいけない。
そういう教育の基盤には国家神道がある。
このように島薗進さんは論じています。

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葦津珍彦『国家神道とは何だったか』(1)

2020年04月03日 | 天皇

明治維新前後の神道国教化政策により、神仏分離と廃仏毀釈が強行されました。
それに加えて、キリスト教の影響力についての不安と恐怖が既成仏教教団にあり、そのため既成教団は明治政府に媚びたのです。

たとえば明治4年(1871年)の東本願寺の上奏文案です。

我宗ニ崇ムル所ノ本尊ハ弥陀如来ト申テ、乍恐(おそれながら)皇国天祖ノ尊ト同体異名ニシテ、智慧ヨリ現レテハ天ノ御中主尊ト称シ奉リ、慈悲ヨリ現レテハ弥陀如来ト申シ候。(安丸良夫『神々の明治維新』)

こうした動きに危機感を持った島地黙雷が伊藤博文たちに働きかけ、神道を非宗教化し、祭祀のみを行うものにしたのが国家神道だと、葦津珍彦『国家神道とは何だったか』は主張しています。

国家神道とは神道の国教化ではない。
国家神道体制のもと、神社は保護され、仏教やキリスト教などが抑圧されたと考えるのは間違いであり、逆に神社は国からの保護、助成は削られ、淫祠邪教とされた。

国家神道をもって、明治日本の政治権力者と、熱烈な神道家とが相共謀して築き上げたものであるかのやうな虚像のイメーヂを拡散して俗説を通用させてゐる。


維新直後、熱烈な神道人が神道精神を国の基礎として固めようとして、政府を動かした。
慶応3年(1868年)12月、王政復古の大号令で「神武創業の始めに原つく」との宣言を発し、次いで「神仏分離令」が太政官から発せられた。
明治元年(1868年)3月、太政官布達で「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祗官に所属せしむべき件」が出された。

しかしまもなく、権力の主流の中に「神道的維新コースは、文明開化の妨げとなり、国際外交上も著しく不利となる」との思想が強大となる。
仏教、とくに真宗のブレーンは権力(長州系権力者のほとんどが真宗の盟友)との結合を固め、神道の無精神化、空洞化の政策を進めた。
そのために、新政府の開明実力派と対決した神道的第一級人士は、明治4年(1871年)には追放され、次々に検挙されて監禁された。

明治4年8月に神祇官が廃せられ、神祇省が設置された。
明治5年(1872年)3月、神祇省も廃止され、人事や教義講説、神社行政等は仏教ととも教部省に移る。
明治6年(1873年)、島地黙雷は海外視察から帰国すると、教部省、大教院の現状が神道偏重であると反対を表明した。

島地黙雷「建言 教導職治教、宗教混同改正ニツキ」を葦津珍彦さんはこのように要約しています。

神道の事については臣は悉く知るわけではないが、それが宗教でないことだけは確かである。神道とは朝廷の治教である。古くから天皇は神道の治教を保たれた。宗教として儒仏を用ゐ給ふことがあっても、制度としては漢洋の風を模せられても、歴代天皇は、天祖継承の道を奉じて国民に君臨し給うた。これが惟神の道であり、朝廷の百般の制度、法令、みなことごとく神道である。この皇室の神道こそが神の惟神の道である。ただ近世にいたって、私に神道者と称するものが、宗教まがひの説を立てて、勝手に自らの一私説をもって、それを皇室の「神道」であるかの如く曲解せしめようとする者があるが、それは皇室の神道を、王政を小さなものにしようとする誤りである。神道とは、本来、決して宗教に非ざる者であり、天祖いらいの治教の大道である。


島地黙雷は、皇室の神道と神社や神道信仰とを無縁のものとした。
皇室が神宮神社への官幣を供されるのは非宗教的礼典とすればいい。
民間人の排仏的神道説は皇室国家の神道とはまったく別の、一私人の偏見として対抗すればいい。
皇室と無縁の地方神社はアニミズム、シャーマニズムで、邪教迷信の類にすぎない。
「祭政一致」の尊重を力説しつつ、「政教分離」の理論を利用しながら、神道の祭典を「宗教に非ざるもの」だと理論づけした。

この「皇室の神道は宗教なる者に非ざるなり」との理論は、いはゆる後の「国家神道」「神社非宗教」の発端となるロジックであるが、その最初の有力な提唱者が、真宗の島地黙雷であるといふ事実、およびそのロジックの意図するところが、宗教的神道を封殺するための仏教との対神道政略であったといふ事実、これは、その後の「国家神道史」の推移発展を見て行く上で、もっとも重要な史実であることを明記しておくべきである。このロジックは、十年後には明治政府の公式見解となる。


明治8年(1875年)、真宗の大教院からの脱退を公認させる。
明治10年(1877年)、教部省そのものも廃止に追いこまれ、内務省社寺局内の一小課の行政下に移された。
明治12年(1879年)、府県社以下の神職の身分は寺の住職と同様とされた。
政府は神社の99.9%を政教分離によって国家と切り離した。
明治17年(1884年)、神仏の教導職という国の制度を廃した。
明治33年(1900年)、内務省の社寺局を廃して、神社局を創設し、神社を「国家の宗祀」として、一般諸宗教の行政と区別した。

この神社非宗教の法理が、主として島地黙雷以来の真宗の政治工作の成果であったことは明らかである。


政府は国家精神高揚の拠点として、新設の神社局の行政に力を入れていいはずであるが、政府はほとんどなにもしていない。
明治6年以降は、府県社以下の神社に対して一文の補助金もあたえられていたわけではなく、神社にとって経済的には少しもプラスではなかった。
逆に、戦後の国家神道の解消は、経済的には神社にとって有利になった。
しかも、政府の「神社非宗教」は伝統的な神主の宗教的活動を制約する必要を示している。

宗教真理を解しなかった明治以来の政府は西欧的合理科学主義を第一にし、非科学的な宗教を好まなかった。
「宗教による吉凶禍福の祈り」「病気治療」は、科学思想を妨げる邪教迷信として禁圧するのが当然だとの法思想が有力な情況下では、神社の大多数が淫祠邪教であると断定された。
戦前の諸宗教が国家神道の重圧下にあったかのように誤認しているが、それは真相に遠く、むしろ神道が、「国家の正しい合理的教義」に反する迷信として、重圧を加えられている。

国家神道は宗教ではなく、祭祀だとされることによって、生き生きとした宗教性を著しく制限された。
内務官僚の統制によって神社合祀などの変容を強いられ、仏教界からの圧力によって宗教活動を制限された。
国家の財政的支えも、とりわけ明治期にはたいへん薄弱なものだった。
宗教的生命を奪われた神社神道は、国民を侵略戦争に駆り立てるような力はとても持ち得なかった。

葦津珍彦さんは、まるで神社神道が国家神道政策の被害者であるかのように論じています。

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杉山龍丸『わが父・夢野久作』

2019年09月04日 | 天皇

杉山龍丸氏(1919年~1987年)の父は小説家の夢野久作、祖父は明治から昭和初期にかけての政界の黒幕だった杉山茂丸です。
右翼系の人が杉山龍丸氏に尋ねた。

「杉山さん、貴方のお祖父さんは、頭山翁と、義兄弟の血盟をされた人でしたから、さぞかし、天皇を尊敬されていたでしょうね。」
と、いう質問をされましたので、私は、
「さあー、どうでしたでしょうかね。私の父は、『天御中主命は、猿の中のボス猿のようなものだ。』と、申していましたからねー。」
と、申しましたら、その人は眼をむいて、
「へーえ、天御中主命が、猿の中のボス猿。へー、そうすると、天御中主命の子孫の天皇は、猿ということですか? へえー、杉山さんがねー。」
と、嘆息していました。


そして、杉山龍丸氏はこのように書いています。

夢野久作は勿論、父の茂丸も、学問として、天皇制を、機構政治学的に申せば、天皇機関説が正しいと申していました。
それは、天皇そのものと、政治機構上の天皇の地位の問題とは、別に考えねばならないということであったということです。
日本の場合、戦前には、これを混同して考えられていました。
それで、問題になったようです。
第二次大戦で、天皇は、戦争責任は無く、政治機構上、無責任の立場になっていたのですが、これは、非常に奇妙なことで、外国の人々、特に第二次大戦で惨禍を受けた国々の人々の理解に苦しむことであったと思います。
東京裁判で、天皇は、無罪でした。
しかし、それは、人為的な法律的なものにおいてであって、本質的なものにおいて、無罪であるかどうか、それは、人為的なものでは、云々出来ぬものがあるでしょう。
そこに、天皇の難しさがあるように思います。
天皇を絶対者とする、日本の一部の人々の考えに、大きな矛盾があるのではないでしょうか。


天皇の戦争責任を考える手助けとして、吉田裕『日本軍兵士』に引用されている文章をご紹介します。
1940年10月、昭和天皇は「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり。それが今日、各方面に響いて来ている」(「小倉倉次侍従日記」)と語っています。
状況をきちんと把握しているわけで、軍部のロボットだったわけではないことがわかります。

そして、日中戦争中の1937年から1941年に、天皇の侍従武官を務めた清水規矩の発言は大きい意味を持つように思います。

陛下のお考えとしては、〝国務については、補弼の大臣があるので、これを重んずるが、しかし、その結果については、みずから責任を取る〟とのお覚悟がおありであったように拝された。一方、純統帥については、おんみずからが最高の責任であるとのお考えであらせられたものと拝察申しあげるのである。(美山要蔵編『天皇親率の実相』)


吉田裕氏の説明によると、統帥権とは、陸海軍を指揮し統御する権限のことで、統帥権は大元帥としての天皇に属し、内閣や議会の関与を許さないとされた。
各軍の司令官や連合艦隊司令長官は天皇に直属し、天皇が発する最高統帥命令にしたがって作戦を実施した。
参謀総長や軍令部総長は大元帥としての天皇を補佐する最高幕僚長であり、天皇からあらかじめ委任を受けない限り、基本的には自ら命令を発することができなかった。
昭和天皇は、自分は軍を指揮しているから責任があると意識していたと思われます。

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『卜部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』と『「昭和天皇実録」を読む』

2016年02月19日 | 天皇

半藤一利、御厨貴、原武史『卜部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』が天皇フリークである私にはおもしろく、それで原武史『「昭和天皇実録」を読む』も読みました。

『「昭和天皇実録」を読む』によると、「実録」の最大の問題は、天皇には戦争責任がないというスタンスで一貫させようとしており、昭和天皇は退位について考えたことがなかったという点です。
『木戸幸一日記』下巻や木下道雄『側近日誌』では、退位についてより踏み込んだ発言を昭和天皇はしている。
「実録」では、そのあたりの史料が引用されつつも、しかしかなり改竄されている。

昭和天皇は立憲君主であると意識し、自分の意見を言うことはなかったとされますが、そんなことはありません。

裕仁は天皇になると、かなり露骨に政治に対する関心を表明しています。


田中義一首相に、小選挙区制が導入されることによって無産政党が議会に進出できないような体制になると、逆に直接の行動をとるなどかえって不安定になる、合法的に議会に進出させておくほうがかえって安心ではないかと問うています。

戦後も昭和天皇は自分の意見を述べています。
天皇は「人間宣言」の修正案に対して、「天皇を以て神の裔なりとし」と訂正されたことに不満を漏らしており、現人神であることは否定しても、神の子孫であることまでは否定していない。
大日本帝国憲法の改正にあたり、松本試案に対し、松本烝治に意見を述べている。
「万世一系」自体には信念を持っていた昭和天皇は、大日本帝国憲法を根本的に変える必要性を認めておらず、天皇の憲法認識は日本国憲法とはほど遠かった。

また天皇は、木下道雄に自らの信条(「物事を改革するに当たっては反動が起きないよう緩やかに改革すべきこと」「宮内府改革の一環である人員削減については緩やかに行う方が良い」)を片山哲首相に伝えるよう依頼をしている。
首相や閣僚が天皇に対して国政の報告を行う内奏は、戦後も続き、芦田均外相は、新憲法になり、天皇が政治に立ち入るような印象を与えるのはよくないと書いている。

警察官が射殺された白鳥事件に共産党が関与していると疑われた事件に対しては、国家地方警察本部長官に進講させている。
昭和天皇は革命を恐れていたのです。

半藤「昭和天皇という方は、お気の毒なくらい、自分の地位がおびやかされるんじゃないかと、いつも不安に思っておられました」

戦争責任を取って退位する可能性もありました。

昭和天皇が戦争を終わらせようとしたのはいつなのかはわかりません。
1944年6月、高松宮は軍令部の作戦会議の席上、次のようなと発言をしている。

既に絶対国防線たるニューギニアからサイパン、小笠原を結ぶ線が破れたる以上、従来の様な東亜共栄圏建設の理想を捨て、戦争目的を、極端に云つて、如何にしてよく敗けるか、と云ふ点に置くべきものだと思ふ。(『細川日記』)


ところが昭和天皇は1945年に入っても、米軍を叩いて有利な条件で戦争を終結させるという一撃講和論に固執し続け、4月には、米軍が沖縄本島に上陸する前に日本軍が先手を打って上陸し、迎え撃ってはどうかと提案しており、戦争を止めようとする気配は感じられないと、原武史氏は言います。

5月、空襲で宮殿がほぼ全焼、大宮御所も全焼する。
6月、東郷外相に戦争の早期終結を希望している。
ところが、貞明皇太后にとって戦争終結という選択肢はなく、あくまでも戦争を継続し、本土決戦をする意志を持っていた。
昭和天皇が戦争の早期終結を願う一方で、戦い抜くという選択を捨てていないことには皇太后の意向が反映している。

昭和天皇と母親である貞明皇后との関係はうまくいっていなかったそうです。
1945年5月25日の深夜、空襲で大宮御所が焼けた直後、高松宮は「大宮様(皇太后)ト御所トノ御仲ヨクスル絶好ノ機会」と、『高松宮日記』に書いている。

原「昭和天皇は、思い込んだら母親に対してだろうが、ずばずばストレートにものを言う。一方、秩父宮は如才なくて、母親に反発することはなく、むしろ母親が喜ぶことを言えるようなところがあって、母親との関係を見る限り、秩父宮のほうがはるかにいいということを1922年の段階で言っているんです。そんな秩父宮を貞明皇后が溺愛したのは有名な話です」


敗戦後、皇族が積極的に天皇の退位について発言をしているし、皇太后も退位すべきだと考えていた。
もしも退位したら皇太后が摂政になるかもしれないことに、昭和天皇は恐れを抱いた。

御厨「兄弟や皇族との関係も含めて、昭和天皇は何度もそういう修羅場をくぐってきた。しかもそのたびに勝ち残っているんだから、そのサバイバルな強さって、なまはんかはものではないですよ。なかなかの策士です」


終戦直後、昭和天皇はキリスト教、それもカトリックへの改宗を考えていたというのですから驚きです。

原「ローマ教皇庁のガスコイン駐日代表が天皇のカトリック改宗の可能性につき本国に報告しているとか、あるいは、次期のローマ教皇と目されていたスペルマン枢機卿が来日して、天皇に実際に会っている」
御厨「たしかに改宗計画はあったと思いますよ。この時期の天皇は、ある意味でのサバイバル戦略から、生き抜く可能性のあるものは何でも触ったと思う」


戦前から天皇、皇后とキリスト教(特にカトリック)の関わりがあったが、戦後は関わりが深まり、多くのキリスト教徒と会って話を聞いたり、聖書の講義を受けている。
皇太子の家庭教師としてヴァイニング夫人が来日したのは、天皇自身の決定によるものだった。

聖園テレジア(ドイツ出身の修道女で、1927年に日本に帰化している)は「日本が戦争に負けたのは、国民に信仰が足りなかったことに原因すると思います」と語り、天皇も

こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ。(徳川義寛『侍従長の遺言』)

と言っていますが、責任逃れという感じを受けます。

我が国の国民性に付いて思うことは付和雷同性が多いことで、(略)将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、又宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う。(木下道雄『側近日誌』)

神道には宗教としての資格がなかったということだと、原武司氏は言います。

原武史氏は、昭和天皇の退位問題とキリスト教への改宗問題はセットで考えられるべきものだと説明しています。
退位をしないでどのように責任をとるか、それを考えたとき、神道を個人的に捨てて改宗するという可能性が出てきた。

原「だけどここは僕の深読みですが、やっぱりここでもまた皇太后との確執があるように思えるんです。

大正天皇が死去する2年前あたりから、貞明皇后が急速に神がかっていき、筧克彦の講義を受け、筧が唱えた「神ながらの道」の熱心な信者となる。

天皇がカトリックに接近したのには思惑があった。

皇太后の呪縛から逃れることができず、最後の最後まで敵国撃破を祈ってしまった天皇は、神道を捨てることで深い反省の念を示して自らの戦争責任に決着をつけると同時に、ローマ法王庁を中心とするカトリックに身をゆだねることで、表向きはアメリカと協調しつつ、その実アメリカに対抗できる別のチャンネルを確保しておきたかったのではないでしょうか。


東京裁判が結審し、自らは免訴となる。
1950年まではカトリック教徒との密接な関係が続いているが、サンフランシスコ講和条約が締結された1951年以降は少なくなる。
日米安保保障条約が結ばれることで、ローマ法王へと接近し、別の枠組を模索する道も途絶えた。

昭和天皇と母親との確執を中心として、戦争終結、そして改宗問題を映画にしてら、すごくおもしろいものになりそうです。

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『昭和天皇独白録』

2014年11月09日 | 天皇

『昭和天皇独白録』は昭和21年、昭和天皇が側近に語った談話をまとめたもの。

田中義一首相が張作霖爆死事件の責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、処罰しなかったので田中義一首相に辞表を出すよう言った。
「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」
このことがあってから、昭和天皇は立憲君主の枠を超えて活動することを自ら禁じたとされる。
しかし、何も言わずロボット的存在になったわけではない。

上海事件(昭和7年)は3月3日に停戦した。

天皇の裁可をうけて参謀総長が発する奉勅命令によったのではない。
「私が特に白川(上海派遣軍司令官)に事件の不拡大を命じて置いたからである」

阿部内閣の陸軍大臣が誰にしたいかを命令している。

「私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍に据ゑる事を阿部に命じた」

しかし、言うことを聞かない軍人や政治家もいる。

石原莞爾参謀本部作戦部長の支那事変(昭和12年)不拡大方針に昭和天皇は反対だったらしい。
「当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割くことを嫌つてゐたのだ。湯浅内大臣から聞いた所に依ると、石原は当初陸軍が上海に二ケ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云つた相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ」

三国同盟に昭和天皇は反対していた。

「この問題に付ては私は陸軍大臣とも衝突した。私は板垣に、同盟論は撤回せよと云つた処、彼はそれでは辞表を出すと云ふ、彼がゐなくなると益〻陸軍の統制がとれなくなるので遂にその儘となつた」

昭和16年8月、永野軍令部総長が戦争の計画書を持参した。

「私は之を見て驚いて之はいかんと思ひ、その后及川に対し軍令部総長を取替へる事を要求したが及川はそれは永野の説明の言葉が足らぬ為だから替へぬ方が良いと云ふのでその儘にした」

9月5日、近衛が御前会議の案を見せた。

「之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云つて承知しなかった」
このように、反対されたり、実行に移さないと、「その儘」にしているわけで、押しが弱いなと思った。

『昭和天皇独白録』の最後に伊藤隆、児島襄、秦郁彦、半藤一利の4氏による座談が載っており、伊藤隆氏、児島襄氏と秦郁彦氏とはいろんな点で意見が異なっている。
たとえば秦郁彦氏は、昭和天皇の「命令」についてこのように語っている。

いままでの解釈では、立憲君主制の本筋に従って天皇は決めない、ただ判こを押すだけである、例外はあったけれどもそれをずっと守ってきた、ということでしたね。しかし昭和天皇の精神構造はじつはそうなっていなかったのではないでしょうか。つまり自分が裁く、自分が命令する。問題は、命令しても裁いても、軍部が強いときには通らないことです。ことごとくそれが押し返されて命令が徹底しない。それに対する猛烈なイラ立ちがあった。

昭和天皇は命令していたが、下が言うことをきかないのを、昭和天皇は立憲君主制に従っていたという神話を戦後の研究者が作ったと秦郁彦氏は言う。
しかし、伊藤隆氏、児島襄氏は「命令」ではなく「意見」だと反対する。

あるいは、秦郁彦氏はこの独白録は東京裁判対策のためだという考えだが、伊藤隆氏、児島襄氏は一笑に付す。(独白録の英語版の発見で、作成目的が東京裁判対策であることが確実視されているそうだ)
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』に書かれてある昭和天皇とマッカーサーとの対談を考えると、秦郁彦氏の意見に賛成したくなってくる。

もう一つ、国体護持について。
ポツダム宣言受諾の条件として国体護持が絶対だった。
「朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか〔と〕質問したから、私は勿論だと答へた」

では、国体護持とは何か?
「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」

三種の神器がなければ護持できない国体とは何なのかと思った。
天皇による祭祀が国体ということか。
そこらを昭和天皇が説明してくれたらよかったのに。

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豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(2)天皇の政治的行為

2014年05月05日 | 天皇

昭和天皇は、憲法に忠実に従い、憲法の条規によって行動する立憲君主の立場を貫いたと言われている。
二・二六事件と終戦の時との二回だけは積極的に自分の考えを実行させたが、開戦に際しては、憲法を尊重したために自分が望まなかった開戦を阻止できなかったことになっている。
しかし、昭和天皇は自分の考えをきちんと伝えており、「政治的行為」をしていることが、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』を読むとよくわかる。

『昭和天皇独白録』で、終戦の「聖断」に踏み切るにあたって決心を左右した要件として、

敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない。これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた。

と昭和天皇は述べている。

昭和天皇は国体を護持するために、新憲法施行後も能動的君主として政治に介入した。
サンフランシスコ講和条約・安保条約(1951年9月)が調印されて十日後に行われたリッジウェイとの第三回目の会見で、昭和天皇は

有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約(講和条約)が締結された。

と喜ぶとともに、

日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである。

と述べた。

この講和条約は、第三条でアメリカによる事実上の沖縄支配が規定され、第六条で二国間の駐留協定の締結を認めることによって安保条約が根拠づけられ、十一条で東京裁判の結果を日本が受諾したことを明記している。

旧安保条約の内容は、日本には米軍に基地を提供する義務があるが、米軍の日本駐留はあくまで権利であって、米軍には日本防衛が義務づけられていない一方で、米軍には日本の内乱に介入する権利がある。

さらに、米軍は日本の基地を利用することができるが、基地については提供地域が特定されない「全土基地化」の権利が米軍に与えられている。
また、米軍には事実上の「治外法権」が保証されている。
そして、この条約には有効期限が設定されておらず、失効には米政府の承認を必要とする。
しかも、米軍の駐留はあくまでも「日本側の要請」に応えるアメリカが施す「恩恵」とされた。

アメリカとしては、占領期と同じように米軍が日本に駐留し、基地や国土を自由に使用できる権利を確保することが目標だったのだが、昭和天皇はダレス国務長官に「衷心からの同意」を表明している。
これだけの不平等条約である安保条約を昭和天皇は吉田茂に圧力をかけて「自発的なオファ」による米軍への無条件的な基地提供という方向にさせている。

独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、「国家元首」として自ら乗り出すべき最大のイッシューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。

と豊下楢彦氏は説明する。

松平康昌が「一番協力されたのは陛下ですよ」と述懐したように、占領協力に徹することによって、戦犯としての訴追を免れ、皇室を守り抜くことに成功したのであった。戦後直後の危機を切り抜けた昭和天皇にとって、次に直面した最大の危機は、天皇制の打倒を掲げる内外の共産主義の脅威であった。この脅威に対処するために昭和天皇が踏み切った道は、「外国軍」によって天皇制を防衛するという安全保障の枠組みを構築することであった。

「内乱への恐怖」を持ちつづけた昭和天皇は、ソ連や共産主義を恐れ、天皇制を守るためにアメリカの庇護をアメリカ側に訴えたのである。

要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである。


国体護持のために終戦の決断をしたように、安保という国体を維持するためにさまざまな働きかけを昭和天皇はしている。

朝鮮戦争の時、マーフィー駐日アメリカ大使に次のように訴えている。

朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が、日本における米軍のプレゼンスにかかわる日本人の世論にどのような影響をもたらすのかを憂慮している。(略)
日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こうしたことは不幸なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している。

55年8月、重光葵が訪米する前の発言。

陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり。(『重光葵手記』)

58年10月、マケルロイ国防長官に。

強力なソ連の軍事力に鑑みて、北海道の脆弱性に懸念をもっている。

キューバ危機が終息した62年10月、スマート在日米軍司令官に。

世界平和のためにアメリカが力を使い続けることへの希望を表明した。

内外の共産主義が天皇制の打倒を目指して侵略してくるであろうという恐怖感、こうした脅威を阻む最大の防波堤が、昭和天皇にとっては米軍の駐留だった。

天皇にとっては、東京裁判と安保体制は、「三種の神器」に象徴される天皇制を防衛するという歴史的な使命を果たすうえで、不可分離の関係にたつものであった。
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豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(1)マッカーサーの意図

2014年05月01日 | 天皇

『マッカーサー回想記』に、昭和天皇がマッカーサーと会見した際に、

私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした。

と言ったので、マッカーサーが感激したことが書かれてある。
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』を読み、この「天皇発言」にどういう意味があるか理解できた。

マッカーサーは東京裁判の主席検察官キーナンに、昭和天皇は「この戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたい」と言ったと語ったと、田中隆吉元陸軍少将は書いている。
ヴァイニング夫人や重光葵も、マッカーサーから「責任はすべて自分にある。全責任を負う」と昭和天皇が語ったと聞かされている。
ただし『マッカーサー回想記』には、数々の「誇張」「思い違い」「まったく逆」があるそうで、昭和天皇が本当にこのように発言したかは疑わしいそうだ。

通訳をした奥村勝蔵の手記した会見記録によると、天皇の戦争責任にかかわる発言は

コノ戦争ニツイテハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ、戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ、自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス。

とあり、「全責任を負う」という発言は見られない。

マッカーサーの意図は何か、豊下楢彦氏はこのように説明している

極東諮問委員会の代表団や『ライフ』誌、NHKなど〝表舞台〟においては、自分は戦争に反対であったが軍閥や国民の意思に抗することはできなかったとの「天皇発言」が活用され、だからこそ天皇に戦争責任はなく免訴されるのが至当である、とのアピールが展開された。他方〝裏舞台〟においては、戦争が自らの命令によって行われた以上は全責任を負うとの「天皇発言」がキーナンや田中隆吉に〝内々〟に伝えられることによって、天皇を絶対に出廷させてはならないという両者の決意と覚悟が固められ、〝法廷対策〟におちて見事な成果がもたらされたのである。

「戦争に反対だった」と「戦争の全責任を負う」という相反する「天皇発言」を、マッカーサーは「東京裁判対策」として駆使したと、豊下楢彦氏は指摘する。
つまりマッカーサーは、昭和天皇の戦争責任の回避と日本の占領統治のための天皇の政治利用を意図した。

一方、昭和天皇がマッカーサーと何度も会見した狙いは、自らの戦争責任の回避と日米安保体制の確立であり、マッカーサーと利害が共通していた。
戦争責任については、自らの意図に反する形で宣戦の詔勅を利用したと東条や軍部を非難し、自分は平和主義者だと強調した。
そして、東条らに全責任を負わせ、昭和天皇を不訴追にした東京裁判を肯定、賛美した昭和天皇は、マッカーサーに謝意を述べている。

戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います。


なぜ昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなったかというと、「富田メモ」によるとA級戦犯が合祀されたからであり、自らの意思なのである。

私は、或る時に、A級(戦犯)合祀され、その上、松岡、白取までもが。(略)だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ。


太平洋戦争は昭和天皇の「意を体した」戦争であったか。
1941年12月1日の御前会議について、昭和天皇は『独白録』で、「反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた」と述べている。
昭和天皇の「意に反した戦争」で戦死した人たちは、「天皇のために」戦ったわけではないのだから無駄死だったことになる。
そのことについて豊下楢彦氏はこういう指摘をしている。

天皇は平和主義者であったと主張する立場と、あの戦争は「自存自衛の戦争」であり、そこで倒れた「英霊」のために首相は靖国神社に公式参拝すべきであると主張する立場とが、何ら自己矛盾を惹き起こすこともなく〝共存〟するという、まことに奇妙な〝ねじれ〟現象が長く続いてきたのである。


そして、日本の安全保障について、昭和天皇は米軍による防衛の保障をマッカーサーに求めた。
昭和天皇は第四回会見で

日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております。

と発言し、マッカーサーは次のように答えている。

日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である。自分はこの為に日本がなるべく速やかに国際連合の一員となることを望んでいる。日本が国際連合において平和の声をあげ世界の平和に対する心を導いて行くべきである。

安倍首相をはじめとする集団的自衛権、憲法改正を企む人たちに、マッカーサーのこの言葉を教えてあげたい。

また、現在の憲法はアメリカの押し付けだとして否定する人がいるが、憲法がマッカーサーによって「押し付け」られなければ、憲法改正作業は英米中ソを含む連合諸国11カ国で構成される極東委員会が担うことになり、天皇制が廃止された可能性もあると豊下楢彦氏は言う。

この会見の歴史的な意義は、天皇によるマッカーサーの「占領勢力」への全面協力とマッカーサーによる天皇の「権威」の利用という、両者の波長が見事に一致し、相互確認が交わされたところに求められるべきであろう。
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粟屋憲太郎『東京裁判への道』

2010年04月03日 | 天皇

米国立公文書館に眠っていた東京裁判の国際検事局の機密文書が近年公開された。
文書の中には、A級戦犯だけでなく、政治家、軍人、財界人、皇族など証人たちの多量の尋問調書がある。
近衛文麿、吉田茂、鳩山一郎たちも検察に大量の書類を提出している。
これらの資料を基にして書かれたのが粟屋憲太郎『東京裁判への道』である。

「日本での近年の東京裁判論議には、裁判の全面否定を唱える伝統的な「勝者の裁き」論をそのまま踏襲する傾向も相変わらず少なくない。「大国」日本を歴史的に正当化するためにも、東京裁判という戦後日本の原点における「屈辱」を払拭したいという情念が強まっている」
ところがこれらの資料によって、
「これまでの東京裁判史の「通説」が、伝聞や推定による不正確なものが少なくないことを知った」と粟屋憲太郎氏は言う。
たとえば、被告28人の選定過程や、
「ソ連は天皇不訴追の立場だったのである。これはスターリンの決定によるものだった」ということなど。

検察や日本側が一番頭を悩ましたのが天皇の訴追である。
「天皇に戦争責任がないことを「論証」するためには、「戦争を終わらせる力が天皇にあったのであれば、そもそもなぜ天皇は戦争開始の許可を下したのか」という批判に対処しなければならなかった」
天皇の戦争責任はないとする主張は粟屋憲太郎氏によると、
「昭和天皇の開戦容認が不可避だった理由は、第一に、立憲君主であったから政府決定を承認せざるをえなかったという立憲君主論、第二は、内乱危機論で、開戦を拒否したら国民的憤慨・興奮を背景にクーデターが起きたからというものである」という二点である。

・立憲君主制の制約
開戦の決定を裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ない。
己の好むところは裁可し、好まざるところは裁可しないとすれば、専制君主と異なるところがない。

・内乱が起きるおそれ
私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の輿論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろうと昭和天皇は語っている。
開戦の決定に対して拒否したら、国内は大内乱になり、周囲の者は殺され、天皇の生命も保証できない。
『昭和天皇独白録』英語版では「私は囚人同然で無力だった。私が開戦に反対しても、それが宮城外の人々に知られることは決してなかっただろう。ついには困難な戦争が展開され、私が何をしようと、その戦いを止めさせることは全くできないという始末になったであろう」となっている。
そして、天皇は何も知らされていなかった、つまり軍部の独断ということ。

こうした主張に対して、粟屋憲太郎氏は事実と異なっていると反論している。
第一点の昭和天皇は立憲君主制を守ろうとしたということ。
昭和天皇は必要な場面では国政や軍の作戦計画に深く関与していた。
木戸幸一は東京裁判に関する聴き取りにこう答えている。
「国政を総攬されるに当たって、天皇がその内閣の上奏事項に対して意見を異にされることは当然あり得ることであり、立前としては天皇は国務大臣の補弼によって国政をなさるのではあるが、ときには強い御意見を述べられることもある」
「陛下から御意見があった場合においても内閣が考え直すか、さもない場合でも何とか調整がつくのが通例であった」

第二点の昭和天皇が開戦に反対したら内乱が起きたかもしれないということ。
「天皇にまったく従順だった東条首相が陸相と内相を兼務しており、たとえクーデターが起きたとしても、軍と警察の手で鎮圧できたと思われる」
東京裁判によって、開戦に天皇の責任はないが、終戦は「陛下の御仁慈」によるものだという神話が作られたわけである。

塩野七生『ローマ人の物語ⅩⅤ ローマ世界の終焉』に、ユスティニアヌス大帝について書かれた中に次の文章がある。
「専制君主国では、君主は決定はするが責任はとらない。そして臣下は、決定権はないが、責任は取らされるのである。とくにキリスト教国家では、君主は神意を受けて地位に就いている存在であって、その君主に責任を問うということは、神に責任を問うことになってしまう。それはできない以上、君主も責任は問われないのだ」
天皇不謬論と同じ理屈です。

昭和天皇の日記があるそうだ。
11歳からきちんとつけた日記で、これが公開されるといいのだが、まあ百年ぐらいたったらひょっとしてという話でしょうね。

免責されたのは昭和天皇だけではなく、生物兵器(細菌)、化学兵器(毒ガス)についてもそうだ。
生物兵器はアメリカが最新の研究成果を入手するため、化学兵器は化学戦の実施を考えていたため、他国に知られたら今後の米軍の作戦計画をしばることになるから公表を控えたという。

検察の取調内容も『東京裁判への道』に詳しく書かれてある。
たとえば真崎甚三郎大将。
真崎甚三郎は2.26事件では反乱幇助の容疑で軍法会議にかけられたが、
「取り調べに対し真崎は、事件への関与を全面否定し、青年将校たちが勝手に思いちがいをして決起したのだと、容疑を否認しつづけた」
徳川義親の日記には、その時の真崎甚三郎の様子をこう記しているという。
「(小川関治郎裁判官が)真崎大将の取調中の態度の卑屈なりし事を話す。「閣下はさう思し召すかも知れませんが」といふ言葉。返答につまる時は珠数を出しておがむといふ。悉く責任を免れんとする態度」

真崎甚三郎は戦犯として逮捕されたが、尋問では2.26事件の時と同じように卑屈な態度で、法務官に「追従的といえるほどにみずからの親米主義を強調して」阿諛追従し、
「みずからの政敵に対して露骨な敵意を燃やして攻撃、告発」して責任転嫁に終始し、「逆に自己の責任についてはくどいほど弁明をくり返して」自己弁護している。
取調の際にこういう賛辞を真崎甚三郎は言っている。
「私は今、日本がみずから、天皇の力をもってさえ実現できなかったことが、米国の力によって達成されたことを実感しています」

笹川良一と児玉誉士夫については「検察局の笹川、児玉の関係資料ファイルを読んでみて、二人をめぐる実像と虚像のいちじるしい落差に驚いた」と粟屋憲太郎氏は言っている。
「検察局資料からにじみでてくる二人の実像は、むしろ恭順と自己弁明の姿勢をあらわにしたものだった」
この人たちに怒りを感じるけれども、しかし下手をすると起訴されて死刑の判決が下るかもしれない状況にあれば、検察に媚びへつらい、他の人をおとしめることで助かろうとする気持ちはわかる。
だからこそ、広田弘毅の人気が高いのだろう。

文官として死刑になった広田弘毅だが、城山三郎『落日燃ゆ』には、広田弘毅は尋問で「イエスかノー程度の最小限必要な返事しかしなかった」とあるが、これは事実に相違するそうである。
もっとも「広田が尋問で具体的に陳述した内容は、歴史的事実をねじまげたものではなく、おおむね正確であり、他人への露骨な責任転嫁もない」という。
取り調べでこういうやりとりをしている。
「問 そういえば、あなたはこの前も、責任を引き受けるつもりだと言っていましたね。
答 はい。過ちだと判定される事柄については、私は責任を取ります。(略)
問 ところで、何か思い出したこと、言いたいことがあれば、遠慮せずに言っていただきたい。それを記録に含めることに異存はありません。
答 しかし、今も言った通り、自分の刑罰を軽くするために説明するのは、ご免こうむりたい。そんなことは嫌いなのです」

「このような自己責任のありかたを述べたのは、他の戦犯容疑者にはいなかったのは確かだ。広田の誠実な性格をしめす応答であり、極めて印象的だ」
広田弘毅がまた好きになった。

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竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』

2006年05月07日 | 天皇

竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』をおそまきながら読みました。
著者は男系天皇論者であり、旧皇族の皇族復帰を主張している旧皇族の人ですから、予想通りの内容でした。

なぜ、天皇は尊いのか。それは皇祖、つまり初代天皇の血を受け継いでいるからである。歴代の天皇は、皇祖の血を受け継いできている。それゆえに天皇は尊いのである。

神武天皇の血がありがたいわけです。
とにかく天皇や皇族は特別な存在だということです。

となると、旧皇族の著者も皇祖の血を受け継いでいるから、一般の人とは違うんだということになります。
そのあたりエリート意識が見え見えで、ちょっとねえ、という感じ。

でも、皇別摂家といって、五摂家のうち江戸時代に皇族が養子に入って相続した家(近衛家・一条家・鷹司家)、およびその男系子孫がいます。
こちらのほうが竹田恒泰氏たち伏見宮家とその分家の人たちより天皇の血は断然濃いはずです。

天皇や皇族がいなければ日本という国は成り立たない、その一例として戦争中の皇族の活躍(対米開戦を避ける、終戦工作をする、さらには東条英機暗殺を)が書かれています。

竹田恒泰氏は戦争責任をすべて東条英機に押しつけていますが、東京裁判史観に賛成なのでしょうか。

『昭和天皇独白録』によると、昭和天皇は東条英機に好意的です。

元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧政家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。


あの時、非戦闘員の玉砕には極力反対してゐたが、世間では東条が玉砕させた様に、至つてゐる。

 

又彼が大東亜各地を飛んで廻つた事も、彼自身の宣伝の様に云はれて評判が悪いが、これも私の許可を得てやつた事である。

 

私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、只真相を明らかにして置き度いから、之丈云つて置く。


謡の先生は、家元制度はなくならないだろう、後継者がいなければ養子をもらえばいい、と話してました。

継承者がいなくて困っているのは現在の皇室だけではない。伝統芸能の家、代々続く老舗などでは男子がいなければ同じ苦悩を抱えている。

このように竹田恒泰氏は言うわけで、家を継承すべきだということなら、天皇家も女系でいいように思います。

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