三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

造悪無碍について

2005年03月29日 | 仏教

松本史朗氏や袴谷憲昭氏は『歎異抄』は造悪無碍を説いていると主張する。
これにはいささか驚いた。
『真宗新辞典』で造悪無碍を調べると、「どんなに悪を造っても往生の障りにならないという主張」とある。
この説明では、なぜ造悪無碍が異義なのかがわからない。
『歎異抄』の「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」ということも造悪無碍の異義になってしまう。

竹中智秀『宗祖親鸞聖人に遇う』をたまたま読んでたら、造悪無碍のことが書かれていたので、それをまとめてみます。
阿弥陀仏の本願はすべての人を救いたいという願いだから、善人悪人を選ばない。
ところが、本願は善悪を選ばない、阿弥陀如来は悪人をこそ助けてくださるんだ、だから悪いことをしてもかまわないんだ、と本願に甘える人が出てきた。……本願ぼこり
さらには、悪を造ることを恐れるようでは本願に遇っていない証拠だ、積極的に悪を造っていかなくてはいけないんだ、と悪を造る人が現れた。……造悪無碍

我々は業縁によっては何をしでかすかわからない存在である。
何をするかわからない、だからそれでいいんだ、ということではなく、そのことを悲しみ、どういう者であろうと決して排除しないのが、如来の本願である。
その本願に出遇った者は、罪の深さを思い知らされ、恥じていく。
阿弥陀如来に悲しまれている罪の身であることを思い知らされ、懺悔していく。
悪を造ることを恐れず、何をしてもいいと、ことさら悪いことをするのなら、それは自己正当化である。
そういう間違えた本願の受け止め方が、本願ぼこりとか造悪無碍という異義である。

ということで、『歎異抄』は本願ぼこりや造悪無碍のように悪の肯定、すなわち自己正当化を説いているわけではもちろんないわけです。

(追記)
竹中智秀先生が本願ぼこり、造悪無碍についてどういう説明をされているか、誤解を招くような書き方をしたので、以下『宗祖親鸞聖人に遇う』から引用します。
竹中智秀先生は『宗祖親鸞聖人に遇う』の中で、本願を疑うという問題を取りあげ、専修賢善と本願ぼこり、造悪無碍とは同じ問題だと指摘しています。

やっぱり本願は善人と悪人を選ばないんだ。むしろ悪人をこそ助けてくださるんだ。悪人でいいんだと。こういうふうにして悪人でいいんだと言って居直ってしまうのです。これを本願ぼこりと言うのです。この本願ぼこりの「ほこる」というのは甘えるということです。本願に甘えるわけです。やっぱり悪人を助けてくださるんだと言って、善を行おうと思ったけれども善が行えないので、仕方がないからやっぱり悪人のための本願だといって、自分を慰めるわけです。自分はそれで安心しようとするのを本願ぼこりというのです。本願に甘えているのです。
もっと極端になると造悪無碍です。悪人のための本願だから、悪を造っても碍りにならない。だから本願に助けられるためには、どんな悪でも造っていこうということです。本願に助けられるために、むしろ今まで悪を恐れておった者が、悪を恐れているような者は本願を疑っているんだと。だから積極的に悪を造って、むしろ助けられたことにしておこうといって殊更、わざと悪を造って、それで助けられたんだということを自分でも思い込んで、それで安心しようとするんです。それが造悪無碍の異義です。
如来の本願に遇って、善悪を選ばない本願ということが信じられないときは専修賢善の異義になるか、本願ぼこり、造悪無碍の異義になるか、そのどちらかになるのです。これが本願を疑っているということの証拠です。
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袴谷憲昭「松本史朗博士の批判二篇への返答」

2005年03月27日 | 仏教

駒沢大学のHPには駒沢大学電子図書館というのがあり、ネットで論文を読むことができる。
その中に袴谷憲昭「松本史朗博士の批判二篇への返答」という論文がある。
これは『法然と明恵』に対する松本史朗氏の批判に答えたものである。
この論文の付録に、松本史朗氏と袴谷憲昭が袂を分かったことが書かれている。

松本史朗氏は「『唯信鈔』について」という論文に、こんなすごい宣言を書いている。

私は、1999年7月17日をもって、袴谷憲昭氏と絶交をせざるを得なかった。氏の無責任な論説と行為は許されないものと思う。


この絶交宣言を読んだ袴谷憲昭氏の思い。

右の一文を私が目にしたときの驚きは、それから二年半余を経た今でも筆舌に尽くしがたい。一瞬なにが起こったか了解できなほどのショックであったが、次の瞬間には、自分でさえそうなのに、いきなりこれを読んだ他の人はいったいどう思うだろうと考えると、いまだ経験したことのない怒りがこみ上げてきた。

松本史朗氏が絶交宣言をするまでにどういう経緯があったのかは知らないが、論文にこんなことを書くなんて、袴谷憲昭氏が怒るのももっともである。

ところが袴谷憲昭氏は、松本史朗氏の批判をすべて認めているのである。

「悪人正因説」およびこれと関連する諸問題への私の論述はほとんど誤りと認めざるをえない。


『歎異抄』は“造悪無碍”説を招来する「悪人正因」説にしかならないと認めざるをえないゆえに“造悪無碍”説を認めない私は、ここに、『歎異抄』と訣別することを明言しておきたい。

潔いといえば潔い。
しかしまた、媚びているような感じを受ける。

さらには、松本史朗氏の

氏にお尋ねしたいのは、氏は現在でも、善導・法然の浄土教を「仏教の正統説」と考えられているのかどうか、そして、もし、そうであれば、その根拠は一体何かということなのである。

という問いに対して、袴谷憲昭氏は

善導や法然の浄土教を「仏教の正統説」と考えたいと思っているとしか言い様がないであろう。その根拠は、大方は崩れかかっているようにしか見えないかもしれない。

と答えている。

これはいったい何なんだ。

だったら、袴谷憲昭氏は『法然と明恵』を絶版にするか、間違いを訂正した本を出すべきではないか。
袴谷憲昭氏と松本史朗氏の本にはすごく刺激を受け、また多くのことを教えられたが、結末がこれじゃあね、というのが感想です

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松本史朗『法然親鸞思想論』

2005年03月26日 | 仏教

松本史朗『法然親鸞思想論』の前半は、平雅行『日本中世の社会と仏教』と袴谷憲昭『法然と明恵』に対する批判である。
二人は、法然は念仏以外では往生できない、すなわち諸行不往生を説いたと主張するが、それは間違いである、法然は諸行でも往生できるが、諸行往生は本願ではない、すなわち諸行非本願を説いたと、松本史朗氏は反論する。
もっともであるが、しかし「弥陀の下における宗教的平等」という主張に対する根本的な批判とはなっていないと思う。

後半は『後世物語』と『唯信鈔』は親鸞の著作であるという松本史朗氏独自の説が論じられている。

松本史朗氏は親鸞について専門ではないだろうと思うが、それなのにこういう論文を書くというのはすごいと感心した。
法然の言葉とされているものには後世の付加(特に親鸞系の)がかなりあるとは知らなかった。
それにしても、この松本説はどのように評価されているのだろうか。

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袴谷憲昭『法然と明恵』

2005年03月20日 | 仏教

袴谷憲昭『法然と明恵』は、明恵の立場に立って浄土教批判をしているのかと思ったら、なんと驚いたことに、善導・法然の教えが仏教の正統なんだと主張している。

法然 往生の教 他力主義 菩提心否定説 正統
明恵 成仏の教 自力主義 菩提心肯定説 異端

そしてさらに、道元は「自力主義の思想家であることが明白である」とまで言い切っているわけですよ。
つまり、道元は異端だと、僧籍はないとはいえ駒沢大学の先生が言ってるわけです。

なぜ法然の教えは正統なのか。
法然の他力主義は

「無我」を主張する仏教思想史上において、その明確な我(アートマン)否定ともいうべき「菩提心」否定を鮮明にし、しかも、それゆえにこそ「絶対他者」による全ての人の平等な救済を確立しえた。


他力主義は、内在的な霊魂を認めない霊魂否定説としての無我説に適い、却ってこちらの方が仏教の「正統」であることに納得がいくであろう。

と袴谷憲昭氏は言う。

菩提心=我(アートマン)=霊魂というわけだが、

菩提心は、霊魂と同じように、本来は全く清浄なものと考えられ、しかも、成仏の根拠として、霊魂と同じように内在的なものと考えられていたわけです。しかるに、その清浄な霊的な菩提心を覆っているものが、不浄な肉であり不浄な業(カルマ)であると信じられておりましたから、菩提を得る、即ち成仏するとは、この不浄な肉や業(カルマ)を落としておくことでなければならなかったのです。

菩提心=霊魂とするのは強引すぎるように思う。

『法然と明恵』からもう少し引用します。

仏教は霊魂否定説の「無我」を主張していたにもかかわらず、菩提心肯定説とは、内在的な霊的な自力を根拠に、穢身からの霊魂の解放を目指すという非仏教的な解脱思想に基づく「成仏」肯定説に連なっていくものである。
他方、法然の菩提心否定説は、阿弥陀仏のみには「成仏」を認めるが、それは釈尊を別にすれば阿弥陀仏のみが我々人間とは隔絶した絶対的な存在だからであって、我々自身は全て罪悪生死の凡夫として「成仏」の根拠となるような内在的な霊魂すなわち菩提心を所有しているはずもなく、その我々を全て一人残らず救済できるのは「往生」を本願とした阿弥陀仏しかないという考えであるから、これは霊魂否定の「無我」説であり、従って、霊魂の存在を前提とする余行としての苦行主義や作善主義を否定するものである。


苦行主義、作善主義とは何か。

この心(菩提心)に付着した不浄な肉的な業を除去するためには、出家修行者自身が自らの苦行によってその不浄なものを除去するか、あるいは、在家者のように環境的にも能力的にもそれが無理な人は、霊魂を支配できると思われるような超能力をもった出家者に対する布施などの善業の見返りとして、出家者の執行する宗教儀式によって不浄なものを除去してもらうか、のいずれかになる。私は前者を「苦行主義」、後者を「作善主義」と呼んでいるが、そういうことは仏教の「正統」からは本来排斥されていたことだったのである。


この苦行主義、作善主義という概念は阿満利麿氏からの借用だとのこと。
阿満利麿『信に生きる 親鸞』にこういうことが書いてある。

宗教家とは、常人とは異なる、特別の「霊力」の保持者だという先入観があるのです。そして、その「霊力」の源泉は、多くの場合、「苦行」にあります。宗教家とは、常人ができないような「苦行」を実践し、その結果、特別の「霊力」が身についている人のことだ、と考えられているのです。
卑近な例をあげれば、今日でも葬式に職業宗教家を招くのは、もっぱら彼らの力によって、死者の安楽を確保し、また、死がもたらすさまざまな災厄をあらかじめ封じ込めようという、無意識の期待がはたらいているからでしょう。
民衆のほうは、あくまでも、職業宗教家と「霊力」に期待しているのです。


たしかにその通りだと思う。
坊さんには特別な人であってほしいのだ。
特別な人だからこそ、高いお布施を包むわけだ。
こういう期待に僧侶はどう応えるべきか。
仏教では苦行を否定するし、霊力みたいなものを認めない。
だからといって、坊さんも常人も同じであるということになれば、どうして坊さんにわざわざお経を読んでもらわなくてはいけないのか、ということになる。
それじゃ困るので、霊力などないと言いながら、実はあるんですよというふりをしているのが事実じゃなかろうか。

(追記)
袴谷憲昭氏は松本史朗氏の批判を受けて、『法然と明恵』を全否定している。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/8dc2813a668a94dcbde2ca8455333521
なんじゃらほい、でした。

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ミソとクソの違い

2005年03月08日 | あやしい教え・考え

増谷文雄『仏教概論』に、

仏教の歴史は異端の歴史


キリスト教の歴史は異端の吟味の歴史であり、異端の追放の歴史

とある。

異端はかえって新しい仏教のいのちの泉の役割を果たしている。


このことは仏教の歴史を少し学ぶならばすぐに理解できる。
上座部と大衆部との分裂、大乗の勃興、そして中国や日本などで習俗を取り入れて、仏教は新しく発展している。
だからといって、クソもミソも一緒くたにして、何もかも仏教として認めていいものかとは思う。
どの宗教も結局は同じことを言っているんですね、と言う人がいるけど、賛成できない。

袴谷憲昭氏は『法然と明恵』で、遠藤周作『深い河』の次の文章を引用して批判する。

さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか。

どの道も山頂へ到る道だ、そして山頂からの眺めは同じだ、というわけだ。

しかし、私の歩く道は一つしかない。
そこには選びがあると思う。
私としては霊の実体化、体験(特に神秘主義)の絶対化は仏教とは認めたくない。
この二点はニューエイジの特徴でもある。
だから、阿含宗、真如苑、梅原猛の日本教、幸福の科学、オウム真理教などは仏教じゃないと私は思う。
しかし、これらを切り捨てておしまいというのでは、独善になってしまう。
どこがどのように問題なのか、既成教団にも同じ問題はないかを考えていかなければならないと思う。

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青草民人「花粉症」

2005年03月06日 | 青草民人のコラム

3月を迎えた。街ではマスクをした人を見かけるようになった。毎年この時期になると、憂鬱になるのは花粉症。春一番に乗ってやってくるのは、甘い香りではなく、あの黄色い杉花粉。

もうかれこれ20年近くの付き合いであろうか。私は春を鼻で感じる。ムズムズ、ズルズルくると、来たなという感じである。こんな病気は子どもの時にはなかったように思う。いつごろからこんなおかしな病気が流行り出したのだろうか。

杉の花粉は、若い雄花の咲く雄の杉から出るそうだ。昔は、春になっても杉の花粉がこれだけ多く飛散することはなかったという。

日本が高度経済で発展し、都市に人口が増えると、山を切り開いて住宅を建てるようになった。東京も数多くのニュータウンができ、地下の高騰ともあいまって、郊外の山林が住宅地化した。

山間部の杉は住宅材として使われ、新しく植林もされたが、市場経済は高い日本の木材よりも安い外材を輸入するようになり、林業は廃れ、山が荒れた。住宅の柱や梁にしようにも、若い杉や檜は枝打ちをしないと木が曲がってしまう。枝打ちをする人が少なくなったので、間伐もされず、荒れ放題に伸びた杉の木は、新しい花を咲かせ、人間に復讐している。

国はようやく国家の緊急課題として花粉症の対策に乗り出すようだが、にんまりしているの製薬会社ぐらいのものか。
ヘックション。ズルズル。あーいやだ。

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