三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

新谷尚紀『お葬式』2

2011年06月29日 | 仏教

で、お葬式である。
新谷尚紀『お葬式』に、日本の葬式の持つ意味が三転しているとある。
「葬送三転考」
1,畏怖と祭祀
2,忌避と抽出
3,供養と記念

縄文時代には、集落の入口に死体が埋められた。
縄文、弥生、古墳時代は、
「死体は死霊と不可分で、ともに畏怖と祭祀の対象であった」
「畏るべき怖いものとして遺体と霊魂とを祀る時代」
である。
火葬のもっとも古い例は縄文前期中葉だそうで、そんな昔から火葬があったとは知らなかった。
火葬での遺骨処理には、山野への散骨と、蔵骨器への納骨という二つの方法があった。

ところが、平安時代には死体や墓地がけがらわしいと考えられた。
「死穢を徹底的に忌避するかたちをとったのです。「忌避と抽出」の時代の到来、というわけです。つまり、死穢を発散する遺体は火葬して浄化し、遺骨だけを寺院やお堂の塔の中に納骨するという時代です」
死を穢れと考えて、忌避する考え方が強くなってくるのは桓武天皇が平安京に都を移してからである。
「平安京の造営以降は、洛中はきびしく死穢を忌避する場所となっていきました」
都に死の穢れが充満しては困るので、平安時代には都の中に墓は作られなかった。
「墓地は参詣するものなどいない忌避すべき場所とみなされるようになっていました」

ところが武士は、平安貴族とは違う考えを持っていた。
「戦闘死した人物の遺体は決して粗末にはしませんでした。父親の遺体を埋めた場所に菩提寺をつくるなどして、死者を記憶しその功績に報いようとしました。そして、武士も貴族も、死者の冥福を祈って菩提を弔う供養を行なうことをたいせつにするようになります」
こうして「供養と記念」の時代が近年まで、つまり約800年ほど続いてきた。

現在は「記憶と交流」の時代になったと、新谷尚紀氏は言う。
「戦後の1960年代以降の高度経済成長によってもたらされた新しい時代、現在は、「供養」の部分が減少し、死穢の感覚も減退して、「記念と交流」というもう一つの新しい段階へと入ってきているのではないか、と考えられるのです。
死者は、かつてのようにあの世で寒さにふるえ飢餓に苦しみ衣食を求めるような存在ではなく、したがって衣食の資養、供養の必要はないものと考えられてきているようなのです。死後の人びとは、この世と同じ快適な衣食住を得られる存在であり、衣食の資材の供養ではなく、生活の快適さと相手のいないさみしさとをたがいに分かち合えるヴァーチャルながらもパートナーシップ、フレンドシップを共有しあえる関係者どうし、という関係になってきているようなのです」

その一つの表れがグリーフケアである。
「人びとの考え方が、死者への供養よりも、彼や彼女を失った喪失感にとまどい悩む自分の気持ちの安定を求めるグリーフ・ケアが中心となってきているのです。それは、未知で不安なあの世へと旅立つ死者たちの苦しみや不安や迷いを想像し、それに共感してその冥福を祈るという、かつて伝統的であった考え方ではなく、悲嘆の中にいる自分が癒されたいという個人化社会を反映する考え方のようです。死をめぐる「他者愛から自己愛へ」という変化といってもよいかもしれません」
死者(霊)を慰め、鎮めることによって祟りや災いを防ぐことから、自分自身の慰め、癒しに変化したということか。

新谷尚紀氏によると、死者供養とは切断と接続という儀礼である。
「死者はこの世に執着を残してはいけない。新しい死者の霊魂は活動的で荒ぶるかもしれない。しかし、供養や祭祀を重ねるうちに成仏して安定化したり、先祖の霊となって子孫を守る存在となると考えられてきました。そこで、葬送儀礼とは、死者をこの世の存在からいったん切断する儀礼である、そして、切断した上で、一定のコントロールのもとであらためて接続する、そういう儀礼であるというふうに考えられるのです。切断とは、具体的には引導渡しとか戒名をつけてあの世の存在とすることなどです。接続とは、お盆や年忌の供養、また墓参りなどです」

ところが、現代は死霊を畏怖したり、死穢を忌避する気持ちが希薄化しているそうだ。
死んでいくところを目の当たりにすることがなくなってきていることもある。
「人間は最期はこのように血の気のひいた蝋人形のような顔になるものだと、それをよく見て最期のお別れをしたものでした。死ぬということはこういう顔になるのだと」
「伝統的な看取りや葬儀では、このように、最期の顔を見て見送るのがとても大事でした。衰弱していく身体とそこから離れていく霊魂、その霊魂とはどのようなものか、そのような想像力の中で、人間の死というものの厳粛さと現実味、リアリティがあったのです。
それが今では、まだ元気なころの微笑んでいる写真が遺影として祭壇に飾られているのです」
現代の葬儀では、死者の遺体はそこにあるのであって、ケガレがあるとか悪霊の取り憑くという感覚が薄くなっていると、新谷尚紀氏は言う。
「「供養」から「記憶」へという重点の置き方の変化が、いま死と葬送の日本文化史の中に起こってきていることは確実なようなのです」

そう言われればそうかなとも思うが、しかし、霊魂を怖れたり、死のケガレを忌むことは変わらないし、葬式や墓に関する迷信が新しく作られている。
死に顔のよしあしは今でも言うし、死に方についても気にする人は多い。
過渡期で、二極化しているのかもしれない。

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新谷尚紀『お葬式』1

2011年06月26日 | 仏教

人間と他の動物との違いは、人間は自分が生まれる前にもこの世があり、自分は死んでもこの世は続くことを知っていることだ、と何かで読んだことがある。
「死を理解するということ、それは概念化するということです」
死は事実ではない、死は概念であると、新谷尚紀『お葬式』に何やら難しいことがまず書いてあるが、読んでいくと、なるほどねということでした。

犬や猫は仲間が死んだことがわからない。
なぜかというと、仲間の死体の処理をしないから。
ニホンザルも死がわからないらしく、仲間が死んでも死体を放置する。
「死体を処理するとか、死体に対する特別な考え方、あるいは行動をとることは猿にはありません」
死んだということを知ること、死によって何らかの感情をかき立てられるのは人間だけらしい。

それと猿は、何かを指さして、他の猿が指さしたほうを見るということがないそうだ。
私の子どもが3歳ぐらいのころ、「あれを見てごらん」と指さしたら、子どもは私の指先を見てた。
まさに指月のたとえでした。

「死は、人類がその進化の過程で発見した概念である」
子どもは何歳から死(死んだ人とは会えないこととか)を理解するのか。
家族が死んで泣くのは小学校4年生ぐらいからじゃないかと思うが、どうなんでしょう。

では、人類は?
クロマニヨン人以降のある段階、3万7千年から3万5千年前に、人類は死を発見し、死体に対する対処が始まったそうだ。
葬送が行われ、墓が作られてきた原点である。
ネアンデルタール人は死者を悼む気持ちがあったという説もあるが、全面的には信用できないとも言われているそうだ。

死の発見は宗教の誕生でもある。
「死を発見したことによって何が起こったのか。それは生の発見でもありました。
つまり、死ぬということと生きるということとを対比的に考える。そういうホモ・サピエンスになっていく。すると、死ということの恐怖、そして生きているということの喜び、それが死んだ後どうなるかという不安、この世とあの世、他界観念のめばえです。それから霊魂観念、生きている命というものを考える。つまり、死の発見は宗教の誕生を意味したのです」

エリアーデだったと思うが、死者が夢に現れることや、シャーマンのビジョンから、死んでもおしまいではないと考えられたそうだ。
「死後の世界はこうなのだとか、人間は死んだらこうなる、などと語る人物が出現してくるのです」
「講談師見てきたような嘘を言い」という人がいるのは今も変わりないけれども。

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幸福の科学と天使

2011年06月23日 | あやしい教え・考え

郵便受けに幸福の科学と幸福実現党のパンフなどが入っていた。
なかなか興味深い内容だったので感謝してます。

東日本大震災の体験談。
「幸福の科学会員の杉船誠一さんは、東日本大震災で、高さ十メートルの津波から避難しました。
高台で一夜を過ごし、翌日、自宅に戻ると、自宅裏の通りには腰の高さまで水が残り、流されたガレキや車、家具が散乱する、ひどい状況だったのに、自宅には津波の被害がありませんでした。浸水地域は自宅から内陸部に1キロ先まで広がっていたのに、なぜか自宅前の通りだけ津波が避けて通ったのです。
「信仰によって守られた」」
主エル・カンターレを信じる人は津波が来ても助かるらしい。
津波によって家が壊されたり、家族がなくなった人たちは信仰がないからだというわけで、石原慎太郎氏の天罰論と似てる。

ところが、イベント案内(B5)の漫画には、悩める若者と天使とのこんなやりとりが書かれている。
人って何なんだ
なんで生きてるの?
だいたい人生ってのは辛いことばっかり
なんでこんな目に合うんだろ……
と悩む人に、天使(?)が以下の説明をする。
ちょっと失礼
これはすべて計画してきたことなんだよ
まず、人間の本質は魂や心なの
もともとはあの世で暮らしているけど
時々、勉強するためにこの世に生まれてくるの
辛いこと、苦しいこと
いろんなことを経験して、
魂を向上させるんだ
たくさんのことを学ぶと
またあの世へかえります
あの世に持ってかえれるのは心だけ
その心がどんな状態かが大事なんだ
いろんなことを学んで
多くの人を幸せにする
それが人生の目的
ニューエイジの考えそのままです。

となると、杉船誠一さんの家が流されたとしても、「魂を向上させる」ための「辛いこと、苦しいこと」を経験するために「計画してきたことなんだ」ということになる。
どっちに転んでもエル・カンターレへの感謝の日暮らしというわけです。

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子どもの貧困 6

2011年06月20日 | 

多くの人は貧困問題にあまり関心を持っていないようで、自己責任論を振りかざす人も珍しくない。
阿部彩『子どもの貧困』に、2008年、「現在の日本の社会においてすべての子どもに与えられるべきものにはどのようなものがあると思いますか」を1800人に質問した調査について紹介されている。
「12歳の子どもが普通の生活をするために、○○は必要だと思いますか」という設問が26項目ある。
一般市民の過半数が「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべきである」と支持するのは、
「朝ご飯」91.8%
「医者に行く(検診も含む)」86.8%
「歯医者に行く(歯科検診も含む)」86.1%
「遠足や修学旅行などの学校行事への参加」81.1%
「学校での給食」75.3%
「手作りの夕食」72.8%
「(希望すれば)高校・専門学校までの教育」61.5%
「絵本や子ども用の本」51.2%
の8項目。
医者に行くことや給食すら「絶対に与えられるべき」とは考えない人がいることに驚く。
以下の項目なんて半数も支持していない。
「お古でない文房具(鉛筆、下敷き、ノートなど)」42.0%
「誕生日のお祝い(特別の夕食、パーティ、プレゼントなど)」35.8%
「少なくとも一組の新しい洋服(お古でない)」33.7%
「自転車(小学生以上)」20.9%

私は子どもたちに「クリスマスのプレゼント」26.5%は一度もしなかったし、「絶対に与えられるべき」とは思わない。
しかし、新しい洋服やお古ではない文房具が「絶対に与えられるべき」とは考えないのはどういう理由からなのか不思議である。
予防接種はOECDで最低で、任意の予防接種は自己負担、外国で無料の接種が日本では有料のことがあるそうだ。
阿部彩氏は「子どもに対する社会支出が先進諸国の中で最低レベル」で、
「日本の一般市民は、子どもが最低限にこれだけは享受するべきであるという生活の期待値が低いのである」と言うけれども、どうしてそんなに薄情なのだろうか。

またまた母子家庭について。
2007年、約99万人が児童扶養手当を受給しており、母子世帯の約7割になる。
2002年、政策の大幅な改革を行い、児童扶養手当の支給要件が厳しくなり、支給期間に5年間のタイム・リミットを設けた。
「5年たっても所得制限以上の所得を得られないのは、母親が児童扶養手当をもらい続けたいがために、故意に勤労所得が制限以下となるようにおさえている」
つまり、福祉に依存している人がいるから、政府からの援助を必要としない「自立」生活を目指すということらしい。

しかし、阿部彩氏は次のように批判する。
「日本の母子世帯の所得の低さは、「福祉依存」に起因するものではなく、母子世帯の母親の就業機会が長時間仕事をしても賃銀が低い仕事に限定されていることに由来する」
「すでに精一杯働いている母親たちに「もっと働け」と迫ることは、母親自身の健康や幸福に悪影響を及ぼすのではもちろんのこと、なによりも、母子世帯に育つ子どもたちに、さらなる負担と犠牲を強いることとなる」
おまけに、政府の言う「自立」は逆に自立する機会を失うことになりかねない。
「母子世帯の子どもが、低所得状態にある家庭で成長することで、社会人として自立するために必要な教育や技能を身につける機会を逸したり、習得する意欲を失ったりすると、その子ども自身も低所得の労働者となり、彼ら・彼女らの結婚や子育てに影響してくる恐れがある。「貧困の世代間の連鎖」である」

そして、阿部彩氏はこう言う。
「貧困撲滅を求めることは、完全平等主義を追求することではない。「貧困」は、格差が存在する中でも、社会の中のどのような人も、それ以下であるべきでない生活水準、そのことを社会として許すべきではない、という基準である。
この「許すべきでない」という基準は価値判断である。人によっては、「日本の現代社会において餓死する人がいることは許されない」と思うかもしれない。また、「すべての子どもは、本人が希望して能力があるのであれば大学までの教育を受ける権利があるべきだ」と思う人もいれば、そう思わない人もいる。だからこそ、「貧困」の定義は、社会のあるべき姿をどう思うか、という価値判断そのものなのである」
朝ご飯を食べれない子どもがいる社会は「あるべき姿」とは私には思えないし、朝ご飯を食べれない子どもがいるのは仕方ないと許容する社会も「あるべき姿」ではない。
青砥恭『ドキュメント高校中退』にある、
「貧困とは所得の問題だけとは限らない。人間として必要な文化、習慣、そして尊厳をもって育てられていない子どもたちが、社会の隅の見えないところで生きている」という事実を知ること、そして「社会のために働くことに生きがいを見いだす若者を育てることなしに、日本の未来はない。社会が決して見捨てないという姿勢を見せれば、必ずあの若者たちも社会のために働く一員となろう」という社会を作っていかないといけないと思う。

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子どもの貧困 5

2011年06月17日 | 

高校中退者や、教師、保育士らから聞き取りから、高校中退は、本人の努力不足、根気のなさといった個人の資質にだけ問題があるのではなく、福祉の切り捨て、教育の市場化という政策が大きな原因だ、と青砥恭『ドキュメント高校中退』は指摘する。

以前、荒れた高校を1年で変えて、退学者を減らし、入試倍率が高くした、という校長先生のお話を聞いた。
『ドキュメント高校中退』を読んでいたので、そんなにうまくいくものだろうかと思った。
知人の話だと、退学者を減らすためには定時制高校への転校という形にすればいいし、入試倍率を高くするためには推薦入学の枠を増やせばいいそうだ。
その校長先生がそういうやり方をしたとは思わないが、『ドキュメント高校中退』によると、底辺校の教師はとにかく大変である。
授業の前に、まず生活指導をしなければいけない。
「廊下に座り込んでいる生徒を教室に入れる。次に、教室で化粧している生徒に教科書をださせる」
授業を始める前にエネルギーを使ってしまうのである。
そもそも教師は忙しくて、少人数のクラス編成になっても教師は増えず、会議や研修の時間が放課後になる。
「「一人の生徒に一人の教師が必要」と思えるほど生徒たちは様々な困難を抱えて生きている。そのような生徒を数十名抱えて教師たちは孤立した闘いを強いられているように思える」
小学校の事務をパートでしている人が「先生の帰る時間は8時、9時で、女の先生でも遅い。小さい子どもがいる先生はどうしているんだろう」と言ってた。

大変なのは教師だけではなく、福祉予算の削減されたため、保健師や児童福祉司、保育士などは人員が減り、一人あたりが担当するケースが多すぎるそうだ。

国としては、貧困の連鎖という悪循環を断つためには、貧困を克服して学力向上する政策が必要になる。
ところが阿部彩『子どもの貧困』によると、国の支出が少ない。
日本の家族関連の社会支出は国内総生産の0.75%で、スウェーデン3.54%、イギリス2.93%などと比べると低い。
教育関連の公的支出も国内総生産の3.4%であり、北欧諸国は5~7%を教育につぎ込んでいて、アメリカさえ4.5%である。
そもそも日本の教育費は高いうえに、入学費、授業料の他にも、制服、教科書代、教材費、修学旅行などがいる。
「OECDの調査でも、日本は世界で教育費がもっとも高額な国である」
義務教育レベルで「貧困の不利」を表面化しないようにするためには、
「教育費や修学旅行費といった、学校生活に必要な諸経費の無料化、または支援が不可欠であろう」と青砥恭氏は言う。

大阪府は授業料の減免の認定のハードルが高くなっているそうだ。
大阪府のある高校では、経済的な理由で授業料を全額免除を166人が申請し、131人が認定され、9人が半免と認定された。
落とされた26人の家庭には授業料を支払う経済力はない。
おまけに、2004年度からはクーラー使用料を年間5400円徴収しているが、クーラー使用料は減免措置がなく、未納者は授業料未納と同じ扱いになる。
「日本の教育行政には、全国学力テストにかかる60数億円の経費を、教育から排除される子どもたちを救うために使おうという発想はない」

もちろん、国がお金を出せばそれで問題が解決するというようなわけにはいかない。
阿部彩氏は「貧困世帯の子どもが抱える学力問題は、教育費の少なさだけから発生しているわけではない」と言う。
「子どもの学力が、家庭環境に影響されているのであれば、無償教育だけでは、貧困の子どもの不利は改善されない。たとえ政府が高校・大学を全額無料としたとしても、家では両親がいつも不在であり、誰も「宿題をしなさい」という人がいない状況で子どもが育っているのであれば、進学するだけの学力が身につかないかもしれないのである」
学習する意欲や能力を引き伸ばし、家庭の経済問題から派生する諸問題を解決するにはどうすればいいのか。
十分な所得保障と機会の平等の確保(教育費の無料化など)、親や養育者に対する仕事と育児の両立支援が必要だと、阿部彩氏は提案する。
なんにせよ、やっかいな問題だということは、私の見聞した範囲でも感じることです。

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子どもの貧困 4

2011年06月14日 | 

困と学力について。
青砥恭『ドキュメント高校中退』の冒頭に、
「日本の子どもの学力はなぜ低下したのか。子どもはなぜ荒れるのか。「市民道徳」をわきまえないような親がなぜ増えてきたのか。そういう学校の実態から、学校や教育が「崩壊」したといった言説が一時流行っていたが、問題の本質は学校崩壊ではなく、膨大な貧困層の登場だったのである」と書かれてある。
阿部彩『子どもの貧困』も、貧困は子どもの学力や進学とも関係していると指摘している。
「家庭の経済力が学力に反映しており、貧困家庭の子どもは学力でも大きなハンディキャップがある」
2008年に実施した全国学力テストの結果によると、保護者の年収と小6生の正答率は正比例しており、保護者の年収が増えるに従って、子どもの正答率も高くなっている。

さらには、
「親の所得によって進学する高校が決まり、高校間の格差によって子どもたちの人生、生き方や文化さえも決まる」とまで青砥恭氏は言う。
就学援助制度といって、経済的な理由で就学困難と考えられる小・中学生に学校教育を受けるために必要な経費を援助する制度がある。
2006年度に公立高校の授業料を減免になった生徒は22万4000人、2007年度に就学援助を受けた小・中学生は140万人、13.7%で、高校生の授業料減免率、小・中学生の就学援助率とも、97年から10年間で二倍を超えている。
進学校の減免率は低く、底辺校ほど減免率が高くなる。
「授業料の減免率は、生徒の生活の貧困度を示すものであり、家庭の所得が入学する高校選択に非常に大きな影響をもっていることがわかる」
進学校の生徒の90%が持ち家で、底辺校では45%以上が賃貸である。
「日々の暮らしに精一杯という親たちに子どもの学習環境をつくる余裕はない」

貧困と高校中退について。
1982年~2007年の間、一年間に7万人から12万人(5%から8%)の高校生が中退した。
学校を退学しても、定時制や通信制などに転学した場合は中退とはみなされないから、中退者は実際はもっと多い。
高校中退者の多くが貧困家庭で育っている。
中退が多い埼玉の某高校(底辺校)では、生徒たちの家庭の経済状態は年収200万円程度と思われる家庭が3分の1で、よくて400万円くらいまで。
父親のいない生徒は15%、父親の仕事を知らないという生徒も15%。
「家庭の貧困が低学力、不登校そして高校中退と深い関係があり、就学前の生活、それを形づくる家族がかかえる問題に高校中退の原因がある」
ある高校では、朝食どころか昼食も食べていない生徒が相当いて、「アルバイトが生徒の生活時間の大部分を占めていて、稼いだ金を家計に入れる生徒も多く、その金を当てにしながら暮らしている家族もいる」

高校中退と低学力について。
高校を中退する大きな原因は低学力だと、青砥恭氏は言う。
小学校3年ぐらいから勉強がわからなくなり、分数や九九もわからないし、アルファベットを書けない。
小学校で落ちこぼれ、中学校で不登校になり、高校を中退する。
「日本の学校では小学校の低学年で「落ちこぼれた」子どもたちを救う手だてはほとんどない」

格差と中退について。
学校間の格差は政策として作られたものである。
貧困層の子どもたちは底辺校に囲い込まれる。
「新自由主義教育のように競争と自由選択を優先すれば、高校の学区はより拡大されることになる。学区が拡がれば、選べる学校数は増えるが、高校の序列化は厳しさを増す」
学力と経済力があれば学校を選択できるが、選択できない層が激増して、学校間の格差が拡大している。
「高校間の格差は、低学力で貧困層の生徒を集めた偏った高校をつくり、多くの生徒の誇りを剥奪し、学ぶ意欲を失わせている」

中学の担任から「お前が入れる高校はここしかない」と言われて、仕方なしに入った高校だから、勉強したいわけではないし、やる気もないし、卒業しようとも思っていない。
入れる高校が限られているから遠距離通学になり、交通費がかかるし、通うのが面倒になる。
子どもたちは教師たちからアホカス呼ばわりされ、「どうせ自分はバカだし、何もできない」と思っているし、暴力教師や無気力教師も少なくない。
退学させることで学校は落ち着き、楽になると考える教師は「学校をやめろ」と言う。
「反抗的な生徒を早めにやめさせることができる教師が評価される」
というわけで、「底辺校」の生徒の多くは親や教師から期待されていないことを知っている。
「高校が生徒にとって心地良い空間になっておらず、生徒たちには将来の目標もなかった。そのような環境では、それほどとも思えない困難でも耐える力がつかない。何か目標がある生徒は、様々な困難を耐え、卒業することができるが、目標のない生徒は、早々に見切りをつけてやめていく」

高校中退と貧困について。
高卒の資格がないとまともな仕事に就くチャンスが難しくなる。
「正社員として採用されても、日給や時給だったり、雇用保険や健康保険など社会保険に加入しているケースはほとんどない。やめても退職金もない。雇用条件は信じられないほど劣悪である。それどころか、最近はアルバイトでさえ、高校中退を理由に採用されないこともある」
定時制や通信制の高校に入学しても、日給の仕事では授業を受けるために休むと収入が減るし、残業や休日出勤があれば学校には行けないので、卒業するのは大変である。

そして、十代での妊娠、出産。
避妊をしないので子どもが次々生まれる。
「彼らは親の生き方をたどり、低年齢で子どもを産み、親たちと同じように貧困の中で子どもを育てている。そこで育った子どもたちもまた、同じように、いっそう厳しい貧困の中に沈んでいくのである」
親にしてもそれほど勉強してきたわけではないから、子どもに学ぶことの大切さを伝えることは難しい。
そうして、親と同じ道を子どもも歩み、三世代にわたっての貧困家庭となるという悪循環。
「高校中退者のほとんどは日本社会の最下層で生きる若者たちである」とまで青砥恭氏は言うのである。

町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』によると、90年代初めのアメリカでは未成年者の出産率がピークに達した。
15歳から19歳の少女の8.4%、約10人に1人が母親になるという状況で、未成年者の出産率はロシアに次いで先進国第二位だった。
「10代の母親は学校教育からドロップアウトする率が高く、それが低収入、貧困、ホームレスへと繋がり、多くが生活保護の受け手となる。さらに、10代のシングルマザーの子どもの非行、犯罪率は高く、また、その子どもが10代で子どもを作り、貧困の悪循環を生むと言われた」
へえと思ったのだが、日本もアメリカ並みになっているわけである。
アメリカでは高校生の卒業率が5割程度だそうで、いずれ日本もそうなるかもしれない。

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君が代原理主義

2011年06月11日 | 日記

君が代起立条例だが、そんなにムキになって座っていなくてもと、正直なところ思う。
それに私は小心者だから、君が代斉唱とか国旗掲揚で全員が起立しているのに、自分だけ座っているようなことはとてもじゃないができない。
まあ、私はどうしようもない音痴だから、斉唱はしないけど。

とはいえ、「国旗国歌を否定するなら、公務員を辞めればいい」「職務命令に関しての思想信条の自由は認められない」と、上から押さえつけるのはイヤである。
それに、個人の意見ならともかくとして、憲法で認められている思想信条の自由を守らないと、公務員である府知事が公言していいものだろうか。

原理主義の特徴の一つは杓子定規ということで、教員が君が代の斉唱の時に起立、斉唱しなかったら免職になるとしたら、これは君が代原理主義だと思う。
原理主義は、それを信じる人にとっての正論(主観的真実)だから、反論は難しい。
しかし、正論が正しいとは限らない。
酒の席で「正論」をぶつ人がいて、酒がまずくなることがあるじゃないですか。
あれです。
一杯飲んで、ということなら仕方ないとあきらめるけど、行政がそれをするとなったら恐い。

有川浩『図書館戦争』「正論は正しい。だが正論を武器にする奴は正しくない。お前が使っているのはどっちだ?」
、そして「正しかったらなに言ってもいいわけじゃない」などの名言がある。
『図書館戦争』で、子どもの健全な成長のためには有害図書は見せるべきではない、中学校の図書室にある有害図書を廃棄すべきだと、親の団体(団体名がもっともらしいのだが、手元に本がないので……)が中学校に圧力をかけてくる。
検閲されると、逆に興味を持つものですけどね。
何が有害図書なのか、それを誰が決めるのかということになるし、そもそも有害図書と非行との関連性はあるのかということもある。
そういう「正論」には頭の回転の悪い私ではとてもじゃないけど反論できないが、有川浩氏は中学生に意見を言わせて、「正論」の間違いを指摘している。
ところが、東京都青少年育成条が改正され、不健全な漫画・アニメが規制されることになったわけで、フィクションが現実を後追いすることになった。

不審者情報の配信ということも「正論」の一つで、犯罪をなくそうという趣旨は結構なことだが、かえって不安感を煽り立てることになるのではないかと思う。
そんなことを言うと、子どもが犯罪に巻き込まれてもいいのかと問いつめられ、返答に窮するのだが。
愛国心も「正論」の一つなので、お前は国を愛する気持ちがないのか、と突っ込まれたら困ってしまう。

「職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のことをやらなければならない」と橋下徹府知事は話している。
検閲や取り締まりなどで管理統制を強化して、秩序を維持しようとすれば、逆に失われるものが生じる。
たとえば、信頼である。
疑心暗鬼、不安、恐れ、人を見たら泥棒と思え。
それは教育的とは言えないのではないか。
「正論」とは息がつまるものなのである。
アンチユートピアについて一席ぶってもいいが、長くなるので省略。

公立学校で君が代、国歌のことでもめるようになったのは、1985年に高石邦男初等中等教育局長が都道府県の教育委員会教育長に入学式、卒業式で国旗国歌実施調査の通達を出し、1989年には高石邦男事務次官が学習指導要領を根拠に国旗の掲揚と君が代の斉唱を指導したという経緯があるらしい。
その高石邦男氏はリクルートから株をもらったことが発覚すると、「妻が株をもらった。私は知らない」と発言して失笑を買った。
それでも衆議院選に出馬したのだが、あえなく落選、有罪が確定した。
愛国心を悪党が隠れ蓑にするというのはこういうことだと思う。

ゲーリングはニュルンベルグ裁判でこう言っている。
「国民は常に指導者の言いなりになるように仕向けられます。われわれは他国から攻撃されかかっているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。そして国を更なる危機に曝す。このやり方はどんな国でも有効です」
「正論」には気をつけましょう。

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人気の秘密

2011年06月08日 | 日記

橋下徹府知事が高い支持率を保つ秘訣は何か。
門倉貴史『本当は嘘つきな統計数学』に、ネットによる調査だと、回答者自身の心理的特性などに起因する特有のバイアスが生じる、とある。
「モニターに応募したネット調査の回答者の属性的な特徴として、①正社員に比べて非正社員が多くなる②高学歴で専門技術職が多いなどの傾向がみられた」
「回答者の意識的な部分における特徴として、ネット調査では、多くの側面で満足度が低く、不公平感が強いという傾向が観察された。さらには、心の豊かさを好む傾向が弱く、金銭・物質への志向が強い」
不公平感が強く、金銭・物質への志向が強い人の心をつかむのが、橋下府知事は上手なんだと思う。
たとえば、公務員が給料に見合う仕事をしていないという攻撃とか。

それと、マスコミの協力もあると思う。
橋下府知事のしょうもない発言まできちんと報道している。
たとえば鳥取県議の定数についての発言(失言)。
橋下知事 鳥取知事に反論「口出すな」はおかしい
記者の質問に答える大阪府の橋下徹知事
 大阪府の橋下徹知事は25日、「鳥取県議は6人でいい」との自身の発言に絡んで平井伸治鳥取県知事から「余計なお世話」と批判されたことに関し、「地方自治だから口を出すなというのは政治家としておかしい」と反論した。府庁で記者団に述べた。
(スポニチ5月25日)
結局は謝罪したわけだが、「またやんちゃを言って。困った奴だ」と苦笑い、という感じか。

スティーグ・ラーソン『ミレニアム』に、経済ジャーナリストを批判した文章がある。
「政治記者が、ある政党の党首をアイドル扱いすることなどありえないのに、この国を担う有力メディアの経済記者たちが、なぜ揃いも揃って金融界の若い俗物どもをまるでロックスターのように扱うのか、ミカエルにはまったく理解できなかった」
この部分を読んで、ホリエモンのことを思い出した。
スウェーデンでは政治家をアイドル扱いはしないようだが、日本はスウェーデンとは違うらしい。

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全国初の「君が代起立条例」可決…大阪府議会

2011年06月04日 | 日記

全国初の「君が代起立条例」可決…大阪府議会
 地域政党・大阪維新の会(代表・橋下徹大阪府知事)が提案した全国初の「君が代起立条例」が、3日夜の府議会で可決、成立した。過半数を握る維新などの賛成多数で可決した。
(読売新聞6月3日)
府教育長は府議会で「条例による義務づけは必要ないと考えている」と答弁しているし、府議会の自民党ですら「条例で定めるべき問題ではない」と反対しているにもかかわらず、どうしてなのか。

君が代条例案 自治の土台が揺らぐ
 行き過ぎた対応としか思えない。
 大阪府の橋下徹知事が代表を務める「大阪維新の会」の府議団が、君が代の斉唱時に教員に起立、斉唱を義務付ける条例案を提出した。大阪府は今後、違反した教員の処分基準を定める方針も示している。
 知事は「国旗国歌を否定するなら、公務員を辞めればいい」「職務命令に関しての思想信条の自由は認められない」と繰り返し主張している。何が目的なのか、これでは説明が足りない。
 憲法は思想良心の自由を保障し、教育基本法は教育への不当な支配を禁じている。国旗国歌法が成立したのは1999年。当時の政府が「内心に立ち入ってまで強制するという趣旨ではない」と明言したことを踏まえれば、条例化は適当とは言えない。知事と府議団に再検討を求める。
(信濃毎日新聞5月27日)
まことに真っ当な意見で、信濃毎日新聞をとろうかと思ったほどでした。

橋下知事「大きな時代の転換点」 国旗国歌条例成立
橋下知事は同日夜、「教育行政、教育現場の大きな時代の転換点。国歌の起立斉唱だけが問題ではなく、職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のことをやらなければならない。これまでの個人商店的な教員を、学校組織の一員としてみる第一歩が踏み出せた」と話した。
(産経新聞6月4日)

私がまず思ったのは、「愛国心は悪党の最大の隠れ蓑」という言葉である。
産経新聞は5月24日の社説に「橋下知事は「ルールを守らない教職員はいらない」という。当然だ」と書いている。
では、「ルールを守らない弁護士」はどうなのか。

有川浩『図書館戦争』は話の設定が突拍子もないので、面白いとは言えないが、国家による本の検閲をめぐるお話である。
連続通り魔殺人事件の容疑者として高校生が逮捕される。
警察はこの高校生が本からも悪影響を受けたかもしれないとして、どういう本を図書館から借りていたか、貸出記録の提供を図書館に依頼する。
しかし、「図書館は利用者の秘密を守る」という原則から、図書館は拒否する。
捜査協力に拒否した図書館に非難が殺到し、それに乗じたマスコミも一斉に攻撃する。
図書館を囲んだマスコミが主人公に「図書館が犯罪者擁護をしていることをあなたはどう思われますか!」と質問する。
?ではなくて!であるから、正義の味方として突撃インタビュー風に詰問しているわけだ。
記者「三人もの人間を殺した犯罪者を図書館は何故庇うんですか!」
主人公「法はすべての人に平等であるべきという原則に図書館は従っているだけです!」
記者「その原則は犯罪者に対しても守られるべきなんですか!?」
憲法に「法の下に平等」とあるように、もちろん犯罪者に対しても守られるべきである。
「鬼畜に人権はない」と平気でうそぶく某週刊誌はそうは思わないだろうけど。
記者「あなた自身はどうなんですか、自分と同じ年代の女性が三人も殺されてるのに何も感じないんですか!?」
そして、
「図書館が叩かれはじめてこの方、関東図書基地と武蔵野第一図書館だけでも業務に支障が出るほど抗議の電話やデモが殺到している」という状態になる。

『図書館戦争』は2006年3月の発行だが、その翌月に起きた光市事件弁護人バッシングを予言しているような状況を描いている。
火に油を注いでさらにバッシングを煽った一人が橋下府知事である。
橋下府知事は、光市事件弁護団への懲戒請求をテレビで呼びかけたことについて、「弁護士の品位を失うべき非行だ」として、懲戒処分が請求され、弁護士会から業務停止2ヵ月の処分が下った。
光市事件弁護人たちの損害賠償請求も、一審、二審ともに認めている。(最高裁では弁論を開くそうで、判決がひっくり返るかもしれないおそれがある)
身内に甘いと非難されることもある弁護士会が「弁護団の弁護活動への不快感をあおり、市民に誤った認識と不信感を与えた」と処分理由を説明し、さらには「意見評論の範囲だと弁明して反省しようとせず、弁護団にも陳謝の念を示していない」と橋下府知事を批判している。
ところが、橋下府知事は「視野の狭い弁護士数人が勝手に判断した」と開き直り、
「弁護士会の品位の基準と僕の基準は違う。北新地に行けば品位のない弁護士は山ほどいる。あいまいで不明確な品位を懲戒の基準にする弁護士会はどうかしている」と逆に弁護士会を批判している。(アサヒコム2010年9月17日
「チンカス弁護士」と自分のブログに書くぐらいだから、そりゃ、人とは品位の基準が違うだろうと思うが。
自分はルールを破っても開き直るのに、人にはルールを守るように強要するのはちょっとね、と思う。

『図書館戦争』のコンセプトは「こんな世の中になったらイヤだなー」ということだと、有川浩氏はあとがきに書いている。
君が代起立条例が成立するとは「イヤだなー」という世の中だと思う。

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子どもの貧困 3

2011年06月01日 | 

阿部彩『子どもの貧困』青砥恭『ドキュメント高校中退』によると、子どもを育てる環境は家庭の経済状況によって大きく左右され、親の収入は子どもの成長に影響する。
貧しい家庭に育つ子どもは、学力、健康、家庭環境、非行、虐待などさまざまな面で、そうでない子どもに比べて不利な立場にある。
また、家族と旅行に行く、子どものことでの相談相手が家族の中にいる、病気や事故などの際に子どもの面倒を見てくれる人がいるといったことも、親の収入によって差があるそうだ。
さらには、
「子ども期に貧困であることの不利は、子ども期だけで収まらない。この「不利」は、その子が成長し大人になってからも持続し、一生、その子につきまとう可能性がきわめて高いのである」と阿部彩氏は言う。
15歳時の「暮らし向き」と現在の所得には相関関係があり、人間関係の希薄さ(病気の時に世話をしてくれる人、寂しいときの話し相手、相談相手など)とも関係してくるらしい。
「15歳時の貧困」→「限られた教育機会」→「恵まれない職」→「低所得」→「低い生活水準」
「子ども期の貧困経験が、大人になってからの所得や就労状況にマイナスの影響を及ぼしているのだとすれば、その「不利」が次の世代にも受け継がれることは容易に想像できる」
つまり、貧困の連鎖である。

生活保護を受けている3924世帯のうち、25%が親の世代においても生活保護を受給していた(母子世帯に限ってみると41%)。
中卒の36%が固定貧困層(継続して所得が貧困線以下)、32%が一時貧困層だが、大卒だと安定層(一回も貧困経験がない)が8割。
親の収入が多いほど大学進学率が高く、貧困家庭では高校や大学への進学が難しい。
父親が大卒の場合、本人も大卒である割合が66%だが、父親が中卒の場合は本人が大卒なのは14%、中卒が3割、高卒が約5割である。
2003年、12歳以下の子どもがいる361世帯に調査。
ほとんどの親が高校までは行かせたいと思い、大学でも90%以上がそう望む。
ところが、経済的に高校に行かせられないと答えた親が2.5%、大学だと26.9%いる。
学歴も連鎖するわけである。

では、まず非行について。
2004年、少年院における新収容者5248人のうち、貧困層は27.4%である。
「少年がかかわった犯罪の度合いが重いほど、その少年が貧困世帯出身である確率が高い」

そして、貧困家庭に児童虐待が多いということ。
「子どもの虐待と貧困の間には統計調査に裏付けられる相関関係がある」と、これも阿部彩氏。
2002年、児童虐待として保護された501のケースにおける家庭の状況を分析すると、生活保護世帯が19.4%、市町村民税非課税・所得税非課税世帯が26%で、合わせると半数近くになる。
また、母子世帯が30.5%と、ひとり親世帯の割合が高い。
「ひとり親世帯ではネグレクトが多い傾向にあり、家計の担い手であることと育児の両立が困難であることが想像される」

虐待までいかなくても、子どもに関心を持たない親も多い。
「貧困は子どもへの期待や愛され方にまで格差をつくる」
青砥恭氏はこんな例をあげている。
規則的な生活、衣服の着がえ、入浴、歯磨きといった基本的生活習慣は親が伝えるものだが、それをしない親がいる。
おむつの交換をしない、排泄訓練をしない。
料理を作らないので、パンやお菓子を与えるか、せいぜい惣菜をならべるだけ。
保育園の子どもを連れて飲みに行ったり、カラオケに行ったりする。
「親の生活時間で子どもも暮らしており、大人と一緒に夜の11時、12時まで起きている」
親が夜遅くまで遊んでいるので朝起きれず、子どもたちは朝ご飯を食べない。
歯磨きをする習慣がなかったり、虫歯ができても歯医者に通う金がなくて治療をしていなかったり。
洗濯したり、風呂に入る習慣のない高校生もいる。
「DV・虐待・ネグレクトは貧困を原因とすることが多く、それが新たな貧困を生むきっかけともなっている」

親はどうしてちゃんと子どもを育てようとしないのか。
一つは、日常的に暴力にさらされているからである。
父親の暴力、精神的に壊れる母、両親の不和、離婚など。
あるいは、母親が知的障害、精神障害、人格障害だったり、母親の男出入りがはげしかったり。

もう一つは、親もそのようにして育ってきたということがある。
「貧困とネグレクトは関連が深いことは間違いない.ネグレクトは、自分が子どもの時に丁寧に子育てされてこなかったことに原因がある。子育てのやり方がわからない母親は、子育てのやり方を受け継いでいないのではないだろうか。
例えば、ごはんの食べ方、おむつを替えなければならないこと、夜は一緒に寝てあげなければならないこと、そんな当たり前とも思えることがわかっていない」
と青砥恭氏は言う。
子どもに愛情がないわけではないが、誕生日を祝ってもらったことがなければ、ほめられたこともなく育ち、自分がされたように子どもに接してしまう。
それに、周囲に相談する人や教えてくれる人がいない。
「母親たちは、自分が育ってきた人生に満足感や充足感をほとんど持っていない。だから、自分の子どもに対しても、子どもを励ましたり、ほめたりする感情表現がほとんどできない」

もちろん、すべての親が子どもをほったらかしにしているわけではない。
「子育てに生まじめに取り組んでしんどくなる人たち」と「自分のことや遊びで精一杯で子どものことに関心を持たない人たち」の二極化しているという。

「子どもたちの居場所を作ろう!」という、子どものためのシェルターのシンポジウムで聞いた話。
シェルターに来る子どもは精神科の受診が多く、内科、皮膚科、歯科の診察を受ける子どもも少なくない。
なぜなら医者にかかったことがないから。
シェルターに入ってメガネを作る子がいて、この子は今まで視力を測ったことがない。
また、女の子のほとんどは性的虐待を受けている。
家族だけでなく、地域や学校からも排除されている子どもはほめられたことがない。
そういうため息の出るような現実があるとは。
そんな子どもたちをほめてやることで、自分のよさに気づくようになる。
そして、人との触れあいを通して、「生きていていいな」とか「世の中、悪くないな」と、自己肯定感を持てるようになるそうだ。

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