三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

竹中労『聞書・庶民烈伝 牧口常三郎とその時代』1

2011年11月28日 | あやしい教え・考え

竹中労『聞書・庶民烈伝 牧口常三郎とその時代』は1983年から「潮」に連載されたものをまとめた本。
全4巻だが、第1巻しか読んでいません。
創価学会と対立して連載が中止になったと思ってたが、中止ではないそうだ。
竹中労氏としては、最終回では終わらないので、一回分続けたいと要望したが、編集部から断られたということらしい。

連載中には批判があったという。
「一部の読者・さらには幹部から、連載の意図は奈辺にあるのか?「竹中労は、学会の味方ではなかったのか!」と短絡したクレームが寄せられて、筆者としては実以て迷惑している」
竹中労氏は創価学会の会員ではないが、会員には共感をもっていて、だからこその創価学会批判だそうな。
『潮』読者講演会で、「私は創価学会という組織の側に立つのではなく、あなた方一人びとり、庶民信仰者に味方しているのだということを、くれぐれもお忘れなく」
(『左右を斬る』)と語っている。

『聞書・庶民烈伝』4巻「えぴろおぐ(下)」に、「昂ぶって言えば、庶民烈伝が消えるのは、初代会長(牧口常三郎)とその時代はもとより、草創期・折伏大行進の戦中&戦後の高揚からも、現在の創価学会が乖離し、変容したことの証明ではないでしょうか?」とある。
「イタチの最後っ屁、創価学会変容の最大原因は公明党である」
「〝立正安国〟を個別人間の自由と権利にではなく、「この小さき島」(日蓮)日本のしかも多数、具体的に言えば選挙の得票となってあらわれる、〝数〟に礎底したとき、信仰の基盤は変質しました」
同じ批判を顕正会もしていたような。
国立戒壇をあくまでも主張すべきだということなのだろうか。

「学会幹部・会員読者の多数は、この連載を名誉会長(池田大作)に対する誹謗だと、錯覚しておられる」
池田大作氏に対しての竹中労氏の弁明。
「持ちあげて言うのではなく、現にこの国で、「カリスマ的指導者」ともくされているのは、池田大作ただ一人です。私個人の美意識からすれば、お友達にはなりたくない。とは言うものの、日蓮の衣鉢を継ぐべき〝英雄〟は、彼のほかにはありません。虚像・実像は論外、ただ信ずればよいのです」
私も池田大作氏のカリスマ性は認めるが、持ちあげすぎだと思う。
「〝池田大作長期独裁体制〟に対するご批判。マスコミも、等しくそれを言っている。が、中曽根続投体制と、池田大作独裁とは本質的にちがうのではありませんか?」

これはちょっとな、と思った。
「池田大作・この人のほかに、創価学会を日蓮大聖人本然の教えにひき戻し、権力と戦う宗団に再編成できる指導者がいるのでしょうか?」
「今、池田大作は、自身が日蓮となる正念場をむかえている」
いくらなんでも、これではおべんちゃらがすぎるというものである。
日蓮正宗の教義では日蓮は本仏(根本仏)だから、池田大作氏も仏ということになる。
がっかりした。
最終章は「名誉会長との対談で結ばれる予定」だったという。
実現したら、幇間みたいな応答をしたのではないかという気がする。

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中嶌哲演「宗教者の目から見た原発問題の過去・現在・未来」

2011年11月24日 | 日記

某氏より中嶌哲演「宗教者の目から見た原発問題の過去・現在・未来」という講演録をいただく。

中嶌哲演氏は「若狭の原発銀座は三つの汚染をこうむった」と言う。
一つは放射能汚染、二つ目は札束汚染、三つ目は人心の汚染。

福井県や地元の自治体が受け取った電源三法交付金と核燃料税の合計は4千億円。
「もんじゅ」の運転は15年間止まっているが、この15年間にもトータルで110億円を福井県と敦賀市はもらっている。
高浜3号機でプルサーマルを福井県と高浜町が認めたが、プルサーマルのOKを出した段階で、福井県と高浜町に10億円が入っている。
さらに、プルサーマル運転を5年間実行していけば、各年度ごとに10億円、合計60億円のお金が保証される。
若狭の営業炉が13基あり、そのうち8基は30年以上の老朽炉。
敦賀、美浜、高浜、大飯、各原発地帯では、30年以上の延命運転を認めるのとひきかえに、各サイトごとに5億円、合計25億円が下りている。
さらに、その8基のうち美浜1号と敦賀1号は40年を超えたので、1億円のおまけがもらえる。
これが札束汚染である。

そんなにお金をばらまいて関西電力の経営は大丈夫なのかと思うが、こういう仕組みらしい。
若狭には原発が15基あるが、建設費は単純累計で約2兆7千億円。
「若狭の原発群がこの40年間で、関西の都市圏に送った総合計は約2兆kwhです。みなさんの電気料金1kwhいくらでしょうか。それに2兆kwhを掛け算してみてください。大口・小口でも違いますけれども、20円だったら40兆円。若狭の15基の原発で電力会社はそれだけの巨額の営利事業を展開してきたのです」
自治体にばらまいたお金は4千億円だから、40兆円の100分の1。

「2008年度の関西電力の11基の原発が関西の都市圏に送った電力の合計が、約620億kwh。それに対して、その原発11基を抱える敦賀・美浜・小浜・高浜町の地域の住民・公共施設・民間事業体一切合財ひっくるめて、消費した電力は約6億kwh。100分の1です。つまり若狭で作った電力の99%は、大都市とそこの大企業に持って行かれるのです。しかしその危険を背負うのは、若狭の住民です」

札束汚染は、金さえ手に入ればどうなろうと知ったことではない、という人心汚染を生んだ。
下請け労働者が悪条件の中で働いていることも汚染の一つである。
「2009年度の1年間に若狭の15基の原発で働いていた正社員の労働者は2,300人、下請け労働者は18,600人」
「1970年以来2010年の3月末までに被曝者管理手帳を持って働いている労働者が累計45万人を超えています」

被曝労働者の組合が1981年に結成されたが、弾圧のために数年で自然消滅している。
組合の要求19項目からいくつか。
・中間業者の違法なピンハネをやめさせ、全国統一した公正な賃銀単価基準を確立せよ。
・チェックポイントでの線量計のカード記入は鉛筆でなくボールペンにせよ。(法律で決められた線量を上回った場合、管理者が消しゴムで消して書き変えていた。現在はコンピュータで記録されるようになった)
・作業の各種の被曝線量記録を改ざんするなど、事故隠しなどの違法行為に従事させるな。
・下請労働者の雇用保険、労災保険、健康保険加入を企業に義務づけよ。
いずれもしごく当たり前の要求である。
おいしい汁を吸う人と、吸われっぱなしの人とがいるということである。

原発をどう考えるかということは、その人がどんな生活をしたいか、さらにはどのように生きたいか、ということを教えてくれるように思う。

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浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』2

2011年11月21日 | 

日本の農産物総生産量
 1960年 4700万トン
 2005年 5000万トン
日本の農業者数
 1960年 1200万人
 2005年 200万人

農家が減っているのは日本だけではない。
農家の減少率は過去10年間で、日本22%、ドイツ32%、オランダ29%、フランス23%。
農家が減っているにもかかわらず、農産物の生産量が増えているのは、農家の努力のたまものである。
「確かに、過去40年間で農家の数は激減したが、農業外所得の増大と農業技術革新にともない、生産性と付加価値は飛躍的に向上している」と、浅川芳裕氏は『日本は世界5位の農業大国』で言う。

約200万戸の販売農家(面積30アール以上、または年間の農産物販売金額が50万円以上)のうち、売り上げ1000万円以上の農家は7%の14万戸が、全農業生産額8兆円のうちの6割を産出しており、しかも過去5年間の売上成長率は130%。

ネギの生産量は世界1位
ホウレンソウ3位
ミカン類4位
キャベツ5位
イチゴ・キュウリ6位
「今ある少数の農家だけでも日本国民の需要を十分に賄いきれるほど、農場の経営は進歩を遂げているのである」

カロリーベースの自給率
 1960年 79%
 2005年 40%
自給率が下がっているのはなぜか。
「物資が足りず、食うや食わずの生活を送っている国民が大半を占める時代では、主食となるコメや一部の野菜以外は売れない。しかし、経済的なゆとりが生まれれば、それまで贅沢品だった肉や果物なども売れるようになる」

「日本が農業大国である所以は、日本が経済大国だからという点に尽きる。戦後、まず農業以外の産業が発展し、人々の生活が瞬く間に豊かになった。そして消費者の購買力が増すにつれて、食に対する嗜好も変化していった。それにともない、食品の流通・小売業や加工業も発達した。
それらの食品産業のもっとも川上に位置するのが、農業である」
では、なぜ「農業は弱い産業だ」というレッテルが貼られているのか。
「それはすべて、農水省および日本政府が掲げる「食糧自給率向上政策」の思想に起因する」
ということで、浅川芳裕氏は農政を批判する。

そもそも、自給率を計算している国は日本だけ。
経済指標として役に立たないからである。
にもかかわらず、2009年度の食糧自給率向上に向けた総合対策予算は3025億円。

たとえば、家畜に食べさせる飼料米。
畜産物は国産飼料を食べて育った肉だけが国産カロリーとしてカウントされ、自給率に反映する。
そこで、トウモロコシなどの輸入飼料から、国産飼料に切り替えれば自給率は上がるというので、水田で飼料用のコメを作った農家に、10アール当たり8万円の補助金を支給している。
牛肉1kg当たり約1600円となる。
2009年、飼料米などを増産するために1572億円の補助金が計上された。
しかし、このお金を使って作られる飼料は、国内の家畜が食べる数週間分の量にしかならない。
なぜ畜産農家が輸入トウモロコシを使っているかというと、安価で、質がよく、安定して供給されるからである。

他にも、生産者価格が6倍以上もし、単収がサウジアラビアやジンバブエより少なく、おまけに品質が圧倒的に外国産に劣っている小麦への補助金も無駄金。
補助金を当てにし、単収の増加や品質の向上に取り組まない農家が増加しているそうだ。
これまでの転作奨励金は累計7兆円。
自給率を向上させるために、こうした無駄遣いが行われているとは知らなかった。

「税金の無駄であること以上に、この政策の罪は農家の考える力を奪うことだ。作物を指定する補助金がなければ、数十万戸という農家が「何を作るべきか」「誰が買ってくれるか」を考え、行動し、結果を出すという無数の経営判断を積み重ねていったはずである。その結果、多くの新商品が生まれ、我々の食生活が豊かになり、失敗もあろうが努力した農家はもっと報われていたはずだ。その機会を失わせるのが、国の補助金による特定作物への画一的な生産誘導である」
社会主義国の農政みたいである。

もっとひどいのが、2011年から始まる、年間1兆4000億円もの税金を投入する農業者戸別所得補償制度。
農水省のHPによると、
「販売価格が生産費を恒常的に下回っている作物を対象に、その差額を交付することにより、農業経営の安定と国内生産力の確保を図るとともに、戦略作物への作付転換を促し、もって食料自給率の向上と農業の多面的機能の維持を目指」すそうだ。
他にも多くの問題点を浅川芳裕氏は指摘しているのだが、省略。
浅川芳裕氏の論はすごく説得力があるが、TPPにはやっぱり反対したい。

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浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』1

2011年11月17日 | 

日本の農業の将来は真っ暗だと思っていた。
「高齢化が進み後継者がいない」
「耕作放棄地の増加」
「生産量が減っているから輸入せざるを得ない」
「日本は世界最大の食糧輸入国」
「海外に食料の大半を依存している」etc
ところが、浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』を読むと、まるっきり大反対。

日本の農家の所得は世界6位。
日本の農業生産額は約8兆円(826億ドル)で、世界5位。(1位中国、2位アメリカ、3位インド、4位ブラジル)
2007年の農産物輸入額は、アメリカ747億ドル、ドイツ703億ドル、イギリス535億ドル、日本460億ドル、フランス445億ドル。
国民1人当たりの輸入額は、イギリス880ドル、ドイツ851ドル、フランス722ドル、日本360ドル。
国民1人当たりの輸入量は、ドイツ660kg、イギリス555kg、フランス548kg、日本427kg。
フランスは農業国だと思ってたが、フランスの農業生産額は6位549億ドルだし、農産物の輸入も日本より多い。(円高の影響はどうなのかとは思うが)


自給率は40%しかないと言われるが、これは数字のトリック。
「農水省が意図的に自給率を低く見せて、国民に食に対する危機感を抱かせようとしている」
なぜか。
「端的にいうと、窮乏する農家、飢える国民のイメージを演出し続けなければならないほど、農水省の果たすべき仕事がなくなっているからだ」

自給率の指標はカロリーベースと生産額ベースがある。
カロリーベースの自給率は、実際に摂取するカロリーではなく、供給カロリーで計算される。
分母である供給カロリーの数値が大きくなるほど、国産の比率=自給率は小さくなる。
しかし、供給カロリーの4分の1は大量に廃棄処分されたり、食べ残されたりする1900万トンの食べ物である。
実際の摂取カロリーで自給率を計算すると、摂取1904カロリーに対し、国産は1029カロリーで、自給率は54%となる。

また、国産供給カロリーには、全国に200万戸以上ある、農産物をほとんど販売せず、自家消費したり、親戚、知人におすそ分けする農家が生産するコメや野菜は含まれないし、家庭菜園の農産物もカウントされない。
畑で廃棄される農産物は2~3割あるが、これも含まれない。
これらも生産量に加えれば60%を超える。

また、牛肉、豚肉、鶏卵、牛乳の場合、国産のエサを食べた家畜だけが自給率の対象となり、海外から輸入したエサを食べている家畜は除外される。
そのため、畜産物の実際のカロリーベース自給率は68%だが、農水省の計算では17%。

野菜の重量計算の自給率は80%超。
一方、生産額ベース自給率は、2007年で66%、先進国の中で3位である。
1位アメリカ、2位フランスは、自給率が100%を超えているが、その理由は輸出額が輸入額を上回っているからである。

「ほとんどの国民が、「自給率が上がる=国内生産量が増える」ものだと解釈しているのではないか」
はい、そのとおりです。
「自給率を上げようと思えば、分母に占める割合の大きい輸入が減れば済む」
「発展途上国は軒並み自給率が高いが、それは海外から食料を買うお金がないからだ」
なるほど。

「食糧自給率の数字は、実は極めていい加減なものなのだ。そもそもスーパーに並ぶ農産物の大半は国産だし、棚には一年を通して十分すぎるほどの量が陳列され、品質についても大きな不満は聞こえてこない。それどころか、現実は生産過剰だ。コメの減反政策は40年以上続けられ、畑での野菜廃棄の光景も日常化している」
「日本は先進国で唯一、独自の国内市場ニーズに合った野菜や果物、畜産品を開発、生産している。その結果、外需に頼らず、高い国産プレミアによって、高い生産額ベース自給率を維持しているのだ」

ふーむ、そうだったのか。
食糧問題は治安悪化と同じように、体感食糧自給が悪化しているにすぎないらしい。
政治はあの手この手で国民に不安感を抱かせ、マスコミはデータをきちんと検証せずに不安感を垂れ流し、そうして自分たちの都合のいいように世論を誘導している点も、治安と食糧問題は似ている

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主体と客体

2011年11月13日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

いつものように玄関で靴を履こうとしていたとき、ふと自分の靴を見て、「汚い靴だなあ」と何気なくつぶやいてしまいました。いつもなら、何も気にせず出かけるところですが、ちょっと自分の思いに疑問をもちました。その靴は汚い靴ではなくて、汚くした靴、または汚くしたままの靴というべきではないかと。
汚くしたのは、他でもない私自身です。しかし「汚い靴だなあ」という言い方は、靴が主体となって、自ら汚れたかのようなとらえ方です。

子どもが言い訳をするときも似たようなことを言います。「鉛筆がなくなりました」「教科書がありません」。そんなときは「君の鉛筆は歩くのかな」「教科書が突然消えたのかな」とすかさず応酬します。意地悪ですね。(笑)

主体は誰か(何か)によって、客体である事物のとらえ方も違ってきます。このような主体と客体の逆転は、自分に都合のよい状況を作り出すための虚構(うそ、ごまかし、言い訳)にすぎません。

仏教の言葉に顚倒(てんどう)という言葉があります。逆さまなものの見方をしている私たちの生き様を言い当てた言葉です。自分で汚した靴を見て、「汚い靴だ」と言うようなことは往々にしてあります。
福島の原発の問題も、私たちは、そこで作った電気を使っておきながら、原発はいけない、困ったものだと言っています。誰が望んだものだったのでしょう。

何気ない気づきの中に、顚倒したものの見方をもう一度ひっくり返して見る眼が与えられます。これこそ仏の眼であり、正見というものの見方です。顚倒したものの見方を悪見といいます。悪見は、さらに五見という五つの見方に分けられます。
その中に、邪見という因果の理法を否定する見方があります。「邪見憍慢悪衆生」と正信偈にある通り、自分勝手な見方をして、自分本位に生きている悪人こそ、私たち凡夫の真の姿なのです。
靴を汚した本人が、汚した靴を見て「汚い靴だ」と言っている。汚い靴は結果であり、汚くしたのは自分に原因があるのですが、そのことに気づかずにいるのです。

人間が主体ではなく、客体となるのは、生死の時だけではないでしょうか。私が生まれる。私が死ぬ。ということは、言葉としては成り立つことかもしれませんが、それを自分で自覚することはできません。自殺も、自分の死の原因を作ることはできても、結果としての死は自覚できないでしょう。

そういった生死の苦海を生きている私たちは、根本的に自分に都合の悪いこと(究極的には死)から逃れたいという心をもっています。それは、裏を返せば自分かわいさであり、無常である自分という我の存在を常として考える見方です。これは五見の中の我見という見方です。

白骨の御文に「すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬる云々」とあります。
仏教には、四法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦)という根本原理があります。仏の教えに照らして、仏の眼で自分を見つめ、顚倒している私の現実をひっくり返して見てみると、見えないことが見えてくるのかもしれません。
さて靴を磨くとしましょう。

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映画とリアリズム

2011年11月10日 | 映画

「第二回午前十時の映画祭」でフランク・キャプラ『素晴らしき哉、人生!』(1946年)を見る。
『素晴らしき哉、人生!』は主人公が1919年に12歳の時から始まり、1928年21歳でジェームズ・ステュアートが登場する。
映画の現在はたぶん1946年、ジェームズ・ステュアートは1908年生まれだから、主人公の現在の年齢とほぼ同じ。
21歳から39歳までを演じているわけだが、その間の年齢の変化がないように見える。
1919年のシーンから出てくる叔父役のトーマス・ミッチェルと敵役のライオネル・バリモアとなると、27年も経っているのにまったく変わらない。
ひょっとしたらシワやシミが増えているかもしれないけど。

左端が叔父さん

本映画の物足りない点の一つは、老けメイクが下手ということである。
森田芳光『武士の家計簿』で、堺雅人(1973年生)が白髪頭に杖をついてよたよた歩いていても、老人には見えない。
妻役の仲間由紀恵(1979年生)となると、結婚当初と少しも変わらず、息子の嫁のようである。

三池崇史『一命』の市川海老蔵(1977年生)にしても、孫がいるような年には見えない。
もっとも小林正樹『切腹』の仲代達也は29歳だったけど。

新藤兼人『一枚のハガキ』はリアルさをまるっきり無視した映画なので、文句をつけるのもなんだが、六平直政(1954年生)の両親が柄本明(1948年生)と倍賞美津子(1946年生)というのは無理があるように思う。
たしか結婚して15年たっていて、出征の前に「帰ったら子どもを産もう」と夫は言う。
しかし、結婚して10数年たつのに子どもができなかったわけだし、妻役が大竹しのぶ(1957年生)なので、出産は不可能ではないかと思う。
それとか、「こんなボロ屋」という言葉が何度か出てくるが、家は古びているわけではないし、薄汚れているわけでもなく、着ているものにしても、俳優が撮影現場に着てきた服をそのまま着ているのではと思うような服装である。
そこらがハリウッド映画と比べて、いかにも安っぽい。


ヨゼフ・フィルスマイアー『ヒマラヤ 運命の山』は、ラインホルト・メスナー『裸の山』が原作。
世界屈指のナンガ・パルバット、ルパール壁にメスナーたちがドイツ登山隊が挑戦するわけだが、映画ではいとも簡単に登頂したように感じる。
ところが、メスナー兄弟はそれだけ余裕で登頂したのに、なぜか登ってきたルートを戻らない。
仕方なく、未知の谷をザイルもなく、飲まず食わずで歩き続ける。
だけど、『運命を分けたザイル』や『アイガー北壁』のような痛さは感じない。
事実を基にしていても、観客を納得させるための嘘が映画には必要だと思う。

『素晴らしき哉、人生!』に主人公が生まれなかった世界のシーンがあって、これはすごい。
『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』の未来世界はこれからアイデアをいただいたのでは、という気がする。
映画は想像力と創造力。

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冤罪はなぜ起こるのか 2

2011年11月07日 | 厳罰化

 4 裁判官の問題
裁判官は忙しい。
秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』はこのように書いている。
「大都市の裁判官は、民事事件を常時一人あたり平均250~300件くらい担当している。この「300件を担当」という場合、毎月20~25件くらいの新しい事件(新受事件)があることが考慮に入れられる必要がある。この新受事件に見合う毎月20~25件くらいの既済事件をその月に処理して初めて「担当300件」が維持されるわけであり、もし既済が10件しかないと、直ちに「担当310件」に増えることになる」

「300件の手持ち件数を担当する場合、係属中の一つの事件につき最低一ヵ月に一回くらいは期日指定をして動かしていくとする。さもなければ、弁護士や当事者の原告から直接に文句が来ることもないではない。通常、一人の裁判官は一週間に三日、法廷を開くことができるのが慣例であるから、一ヵ月に約12日開廷できることになる。そうすると、一開廷日に25件ずつ事件を回していかなければならないことになり、開廷日の前日には、この25件ずつの記録読みと手控えの確認作業が必要となる」
1件あたり20分ですませても、1日8時間とすると、24件しか裁けない。

「事件処理表に記載された処理件数イコール実務能力、という見方が定着している」ので、裁判官は「仕事の最重要部分を占める判決起案は、自宅に記録を持って帰り、夜、家族が寝静まってから深夜にかけて書くのが当り前になっている」

どこかで手を抜かないとやっていけない。
「刑事裁判においては、形式的な審理で済ませたり、即決裁判、調書判決(上訴がないときは、書記官に主文、罪となる事実、適用罰条を公判調書の末尾に記載させて判決書の代用とすることができる)を活用したりして、要するにできるだけ手間暇を軽減しようと図ることになる。弁護人がした証人申請についても、できるだけ省略して少なくしか採用せず、短時間に審理が終わるように計らうことになる。裁判官は常日頃、有罪判決ばかり書いているわけだし、有罪判決の方が書きやすくなってしまうこともないとは言えない」
いやはや、裁判官がこんなに大変だとは知りませんでした。

 5 裁判の問題
浜田寿美男『自白の心理学』によると、刑事裁判で一年間に判決が確定する事件数は110万件前後、無罪で確定するのは50件あまりで0.005%。
1960年代では無罪率は0.5%前後だった。
ここ10年の統計では、最終的に有罪で確定する事件が99.9%を越えている。
年平均70件ほど再審請求が提出され、再審開始の決定がされるのはそのうち10件。そのほとんどは簡易裁判所にかかった軽微な事件。

裁判官にとって目の前の被告席にすわる人間のほとんどが有罪という状態だから、裁判官だった秋山賢三氏も「裁判官も、いつの間にか「起訴イコール有罪」の図式に慣れてしまい、知らず知らず被告人に対して予断を抱いてしまうことがある」と言う。
「有罪判決ばかりを言い渡すことになれている日本の裁判官は、法廷に入る最初から何となく被告人が対して有罪の予測を抱きがちになる」

 6 マスコミの問題
マスコミは容疑者が逮捕されると、当然のように実名報道をし、犯人扱いする。
裁判官も「報道機関による「有罪判決」に毒され、被告人に対して予断・偏見」を抱く。
袴田事件の一審で裁判官を務めた熊本典道氏もメディアの圧力を指摘している。
「新聞報道、「あの事件の犯人は袴田以外には考えられない」というような論調がものすごく多かった。裁判官って人種は活字に非常に弱い。活字を大事にする。目の前にあるやつは、書いてあるものは全部読む。そうすると、みなさん考えてごらんなさい。朝昼晩、テレビ、ラジオで放送はする。来た新聞は全部まじめに読む。そうすると、それなりに有罪のイメージが、「ああ、袴田が犯人に違いない」ってイメージができ上がりますよ」

おまけに、無罪判決を出すと、マスコミは非難する。
「無罪判決をした裁判官に対しては、ときには「無罪病判事」などと一部のジャーナリズムからレッテルを張られて、名誉を傷つけられることもある。このようなことを気遣うあまり、裁判官が無罪判決を言い渡すことに何となく慎重になりがちで、これが「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則が機能しない原因の一つになっている」

 7 再び検察の問題
裁判官や検察官は秩序を守っているという自負があるそうだ。
秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』に
「秩序維持的感覚を持ち込んでしまう危険性が常にある。秩序維持的感覚は「必罰思想」に結び付きやすく」「秩序維持的感覚に基づく「使命感」から、事実認定を安易に有罪方向へ割り切ることがないとは言えない」とある。
秩序を守るのは我々だ、秩序の崩壊を防がなければならない責務がある、というわけである。

裁判官と検察官の馴れ合い、一体化、癒着ということがよく指摘されるが、カレル・ヴァン・ウォルフレン『誰が小沢一郎を殺すのか?』は、検察のほうが力を持っており、政治をも動かしていると指摘する。
「日本の検察が守っているのは法律などではない。彼らが守ろうとするのはあくまで政治システムである。しかも、半ば宗教信仰を思わせるような熱意をもってその任務に取り組んでいるのである」
「司法制度全体を支配するにいたった検察の下で、日本の裁判官はまるで付属物、検察の使用人のようなあつかいを受けるようになった」

法律は、政府が国民を統治し、抑制するためのものではない。
政府の権限を抑え、権力の横暴から国民を守るためにある。
だけども現状は、ということでした。

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冤罪はなぜ起こるのか 1

2011年11月04日 | 厳罰化

秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』と浜田寿美男『自白の心理学』を読む。
冤罪はどのようにして起こるか。

 1 被疑者の問題
実際はやっていなくても、認めたほうが楽ということがある。
秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』にこう書かれてある。
「表面的には自白のある有罪事件で済んでいる事件でも、真相は別にあって、ただ、被告人が我慢して認めているだけだという場合だってある。すなわち、真実は公訴事実とは違っているのだが、今の刑事裁判のシステムの下では、否認して無罪をかちとることが容易ではなく、弁護士費用のための経済的な理由もあって仕方なく認めているのに過ぎない場合があるのである」

たとえば痴漢事件。
痴漢で逮捕され、前科や前歴なくても、
「起訴事実を否認して争ったために、「懲役一年六ヵ月」「懲役一年二ヵ月」などの実刑判決を受けるのが珍しいことではなくなっている」そうだ。
無実だから否認したのに、そのために刑が重くなるのである。
前科・前歴のない普通の会社員なら、もし虚偽の自白をして認めていれば、ひょっとしたら怒られておしまい、もしくは示談ですむかもしれない。
少なくとも、起訴されて実刑判決ということはない。
それに、裁判となると、弁護士の費用はいるし、時間もかかるし、下手すると刑務所行きである。

 2 取り調べの問題
逮捕され、否認を通すことは難しいらしい。
無実の人が自分のやっていない罪を自白するとしたら、拷問に耐えきれない、被疑者が知的障害、長期の勾留で精神に変調をきたした、と考えがちである。
ところが浜田寿美男『自白の心理学』によると、
「個々の冤罪事件を洗ってみると、こうした理由で説明できる例はむしろ少ない」そうだ。
任意同行で4時間の取り調べで、通帳を盗んで50万円を引き出した、という嘘の自白をした例を浜田寿美男氏は紹介している。。
「問い責める周囲の確信が大きな力となって、その場を強く支配する。その力はうそをあばきもすれば、反対にうそをそそのかしもするのである」
警察官向けのテキスト増井清彦『犯罪捜査101問』には「頑強に否認する被疑者に対し、「もしかすると白ではないか」との疑念をもって取調べてはならない」と書かれているそうだ。

警察の取り調べについて、スティーグ・ラーソン『ミレニアム』にこんなことが書いてある。
「容疑者の取り調べを進めるにあたって、典型的な方法がふたつあることは、どんな刑事でもよく知っている事実だろう。怖い刑事を演じる方法と、やさしい刑事を演じる方法だ。怖い刑事は、脅しをかけ、ののしり、拳骨で机をたたき、ぶっきらぼうな振る舞いをすることによって、容疑者をおびえさせ、降伏させ、自白に導いていく。やさしい刑事は、タバコやコーヒーを勧め、共感のこもった相槌を打ち、穏やかな口調で話す。白髪まじりの温厚そうな刑事がこの役を演じればなおよい。
全員とは言えないまでも多くの刑事は、やさしい刑事を演じる取り調べ術のほうが、成果を引き出すうえではるかに有効であることを知っている。何度も犯罪を重ねているしたたかな容疑者は、怖い刑事を前にしたところでびくともしないし、怖い刑事におびえて自白するような腰の据わらない容疑者なら、どんな取り調べのしかたをしてもおそらく自白するだろうからだ」
なるほどね。

 3 検察の問題
カレル・ヴァン・ウォルフレン『誰が小沢一郎を殺すのか?』にはこうある。
「完璧にして、純粋、無謬であること、検察はそのすべてを兼ねそなえていなければならない。人間は過ちをおかすものだ、などという考え方は、検察の伝統とは相容れないのである」

完璧、無謬であるはずの検察がやっていることは問題がある。
たとえば、検察は証拠のすべてを裁判で提出するわけではない。
秋山賢三氏は「供述調書には被告人に有利な事情は原則として書かれないし、被告人に有利な証拠があっても法廷には提出されないことがほとんどである」と書いている。
実際、再審事件では、あとから被告に有利な証拠がどんどん出てきますからね。

また、検察側の証人は検察に脅されると、嘘の証言をしてしまう。
薬剤エイズ事件で検察側証人が証言の予行演習をしたことが『安部英医師「薬害エイズ」事件の真実』に書かれてあるが、秋山賢三氏も同じことを書いている。
「事前に丹念にリハーサルを遂げた証人に法廷で完璧に演技されたような場合、虚偽の証言でも本当らしく聞こえてしまう」
「証人として公判廷で証言する者も、その前日か数日前には、供述調書に書いてあるとおりに証言するように、検察官によって厳重なテストを受けた上で証言させられている現実を忘れてはならない。参考人が、身柄を拘束された上で検察官によって事情聴取され、不本意ながら被告人に不利な虚偽の内容の供述調書を作成された上、「調書のとおりに言わないと偽証罪で懲役十年になるぞ」と脅かされ、そのために、第一、二審公判で証人尋問を受けた際にも、なおかつ、これを撤回できないような場合が実際にある」
福井女子中学生殺人事件でも関係者は証言をひるがえしているし、こういうことは珍しくないようである。

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疑心暗鬼と衆生濁

2011年11月01日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

東日本大震災から半年がすぎました。復興に向けた取り組みも、いまだがれきの処理すら十分に進まず、人々は避難所を追われ、仮設住宅に入居はしてはみたものの、光熱費の自己負担や失業などで、厳しい生活を強いられています。

また、月日の経過とともに、都会では震災の記憶が薄れ、不毛な政争にあきれつつも、経済の立て直しや税金の問題などがどうなるのかと、もっぱらの関心事は、自己の生活の安定へと目が向けられ始めています。

福島の放射能に対する風評被害については、各地で差別偏見が横行し始め、自分たちの生活を守るためというエゴイズムによって、各地で不買運動や産地確認の要請、イベントへの抗議・苦情が寄せられています。

都会に住む人々の中にも、夏の節電などを乗り越えたとはいえ、知らず知らずに我慢してきたことへの不平や不満、イライラが充満し始めています。最近多く感じるのは、満員電車での言い争いです。悲しいことですが、何かが当たったといった些細なことで、言い争いが起きたり、けんかが始まったりすることが多く見受けられるようになりました。お年寄りが前にいても席を譲ることもなく、平気で座り続ける若者もいます。

震災の後、思いやりや助け合いをテーマにした宣伝が多く流されましたが、あのときの人々の譲り合いの心はどこに行ってしまったのでしょうか。被災地でも炊き出しの数をめぐって、言い争いがあったと聞きました。被災地の方々の不満やるかたない気持ちは察する事ができますが、都会にも同じ空気を感じるのは、私だけでしょうか。もちろんわたしも他人事ではないのですが。

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という言葉がありますが、震災からまだわずか半年というこの時期に、人心の乱れが見え隠れする世界が開かれつつあることに、人間の愚かさや悲しさをおぼえます。

人心の乱れは、疑心を生み、暗鬼となって、人々をして「自分さえよければ他人はどうなってもよい」という我執の心をむき出します。善意という自己犠牲は、かえって多くの疑心を生み、暗鬼となって、その穴埋めをしようと、より多くの犠牲を他に求めようとするのでしょうか。

五濁悪世を表す言葉に衆生濁があります。心身ともに衆生の資質が低下することです。災害は悲しい出来事ですが、その災害によって、人の心が変わっていくことの方がもっと悲しい出来事かもしれません。「自分さえよければ、他人はどうなってもよい」という我執の心は、人間誰しもが心の奥底にもっている煩悩の種なのでしょう。それをなくすことはできないにしても、そのことに気づかせていただくことはできると思います。

我執とは、水に浮かぶ浮島に立つようなものです。浮き沈みする水の上には立つことができません。しっかりと立てる大地は、誰もが朋に立てる大地です。南無阿弥陀仏の名号は、その大地に立ちなさいと願われたお言葉です。「樹心仏地」(心を弘誓の仏地に樹(た)てる)という言葉があります。
「私は目の前にいるあなたと朋に立つ大地に、今立っていますか」
南無阿弥陀仏を称えるたびに、そう自分に言い聞かせてみてはどうでしょうか。

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