三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

ワンデーポート編『ギャンブル依存との向きあい方』2

2013年04月30日 | 

『ギャンブル依存との向きあい方』で特に問題にしているのが、本人が発達障害と知的障害の場合である。
発達障害が問題なのにギャンブル依存症と診断してしまうことがあるそうだ。
「一見、依存の問題と見える人が、実際は、知的障害や、自閉的な特性をもっていて生活上の困難を抱えている人もいます」

発達障害や知的障害の人に対してはミーティング偏重思考ではうまくいかない。
というのも、ミーティングは仲間の話を理解し、共感できることが前提だが、知的障害者やアスペルガーの人だと理解や共感が難しい。
「発達障害のある人にはその人の意思を尊重した上で、それぞれのプログラムを組むことにしました」

ダルクでも、2~3年ダルクにいても薬物をとめることができない人がいて、どうしてだろうかということから、発達障害の人は今までのやり方ではうまくいかないことがわかってきたそうだ。

ギャンブルの問題とアルコールや薬物の依存症とはどのように違うのか。

「依存症はコントロール喪失の障害と言われています」
アルコール依存症の人。
「多くは、少しずつコントロールを失います。若いころは飲酒のコントロールができていたのに、酒量が次第に増えていき、30代半ばで、肝臓が悲鳴を上げ医療機関を受診という人が多いようです。通常、コントロールを失うまでに10年くらいかかると言われています」
ギャンブルの問題がある人。
「幼少時から金銭管理に問題がある人が少なくありません。最近は、パチンコをはじめた直後から時間や使う額のコントロールができていなかったという利用者が増えています。「喪失」ではなく、はじめからコントロールができていないのです」

アルコール依存症は酒の種類に関係がなく、日本酒で依存症になった人も、ワインで依存症になった人も差異はない。
しかし、ギャンブルの問題をもつ人の場合、パチンコ、競馬、競艇、ポーカーなどギャンブルの種目により違いがある。

依存症の特徴のひとつは「自分は依存症ではない」と認めない「否認」である。
「否認」にも違いがある。
アルコール依存症の人の否認。
「アルコールはやめたいけど自助グループには行かないで意志を強くもってやめる」というタイプが多いと思います」
ギャンブルの問題をもつ人。
「同様のタイプがいますが、「まったくやめたいと思わない」というように、問題そのものを否認する人が多数います」

否認についても、発達障害タイプの人の場合は用心しないといけない。
「発達障害タイプの人で、対人関係や集団が本当に苦手でミーティングの参加に尻込みしているのに、「否認」だと勘違いされることがあります。ここに依存症の支援でよく使われてきた「底つき」という考え方がくっつくと大変なことが起こります。本来の「底つき」とは、本人が適切な支援につながってから「ああ、あそこが自分の底だった」と自分の過去を振り返って感じることなのですが、ここでいう「底つき」とは、家族が突き放し、本人が痛い目にあって落ちるところまで落ちれば自分の問題に直面して、「否認」が崩れて適切な支援を求めるというような本来は誤った考え方です。「底つき」は今や時代遅れな考え方になっていますが、支援の現場では、いまだにけっこう使われています。このやり方は、とくに発達障害タイプの人には絶対に合いません」

「底つき」が時代遅れな考え方だとは知らなんだ。
「これまでの「依存症」の考え方では、本人の「底つき」の必要性が過度に強調されていたことです。また、「底つき」は、家族が本人を突き放して家から追い出し、すべてを失わせ、どうにもならないところまで追い込み、降参させるようなイメージの誤解がいまだにあります」

「依存症の専門家の中には、病気と言いながら、「本人が底をついて認めないと回復はできない」と言っている方もいます。この考え方は、「ギャンブルをやめるのは本人の意思や自覚の問題」と言っていることと大差はないと思います」

私は、底つきにならないと、自分の力で何とかなると思って助けを求めない、と思っていた。
でも、本人がその気にならないとどうしようもないと、底つきになるまで放っておいたのでは、アルコールや薬物の場合は死んでしまうこともある。
底つきになっていない人にどうすればいいのか、『ギャンブル依存との向き合い方』を読んでもよくわからない。

「ただし、「底つき」は必要ないといっても、家族に尻ぬぐいや肩代わりを繰り返してほしいということではありません。尻ぬぐいや肩代わりをやめることで、何らかの問題が表面化することは必要で、その機会をとらえてこれまでと違った方向に「背中を押す」ことは必要です」

どの程度手を放し、どういうふうに背中を押せばいいのか、これまた難しい問題ではあります。

発達障害や知的障害の人には「子どものころから自己決定や自己主張が苦手で、いつまでたっても自分で決めず、考えもことばにもしない」人がいるので、家族が手出しをしないと生活できないそうだ。

借金の肩代わりをしたほうがいい場合もある。
「発達障害が原因で社会適応ができないため、生きづらくなり、その結果パチンコ等をその逃げ場としている場合」、「家族に肩代わりできるくらいの財産があれば、債務の肩代わりをしてもらって借金問題について決着をつけます」

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ワンデーポート編『ギャンブル依存との向きあい方』1

2013年04月27日 | 

アルコールや薬物などをコントロールできず、身体をこわし、借金を作り、生活が破壊するのは依存症という病気であり、本人が依存症であることを認めて自助グループのミーティングに参加することで回復する、と私は思っていた。
ところが、中村努・高澤和彦・稲村厚『ギャンブル依存との向きあい方』を読むと、そんな単純な話ではないらしい。

本のカバーには「ギャンブルの問題を「ギャンブル依存症」と一律にとらえるのはやめませんか? ギャンブルの問題を抱えている人の数だけ、さまざまな背景があります。その背景を明確にして、一人ひとりにあった支援を組み立てる必要があります」とある。

『ギャンブル依存との向きあい方』の著者の一人である中村努氏は、自身がギャンブルにはまり、依存症の回復支援施設によって回復し、ギャンブル依存からの回復支援を目的としたワンデーポートを立ち上げた。

ところが、ミーティングでは回復しない人がいる。
「利用者の中には、グループセラピーやミーティングに参加すればするほどに状態が悪くなっていく人がいることに気づきました。再びギャンブルをやってしまう人もいました。その人たちの支援をしていく過程で、あえてミーティングへの参加を控えてもらってみたところ、ギャンブルが止まり、安定する人がいました。金銭管理など生活面での個々の課題に取り組んでもらったところ、仕事に就くことができる人もいることがわかりました」

今まではすべてを「依存症」ととらえてしまい、マニュアルどおりの対応をし、画一的に「依存症」アプローチを提供している。
しかし、一人ひとり能力や特性などに違いがあるし、もともと生活を営む力に問題がある人もいる。
すべてを「依存症」という単一の考え方だけでくくれる問題ではない。
だから、対応策も一律にすべきではなく、その人に合った対応をしなければならない。

そこで、ワンデーポートでは「ギャンブル依存症」ということばを使わず、「ギャンブルの問題」ということばを使うよう提唱しているという。
「ギャンブルの問題をもつ人のなかで、依存症として問題解決が図れる人はごくひと握りで、具体的な環境調整や生活支援によってアプローチしないと問題解決につながらない人がたくさんいることが見逃されているのです」
その人の生活全体に個別にアプローチすることで、問題を解決しようとするのがワンデーポートなんだそうだ。

「今では、依存症というくくりだけでとらえていては、支援が立ちいかない、思うような回復が期待できない人たちがいると考えるようになりました。すべてを依存症でくくることによって、かえって回復が遅れてしまう人がいるのではないか、だから一人ひとりの状態をよく見て、支援を組み立てていく必要があるのではないか、という考え方に変わっていきました」

ギャンブルに問題がある人にはいろんなタイプがある。
・依存症タイプ ギャンブルをやる前に自立した社会生活を送っていて、発達障害の特性がないか、あっても薄い人。
・発達障害タイプ ギャンブルを経験する前から、自立や社会生活に問題を抱えている。
・キャパシティが小さいタイプ 仕事上や家庭内の役割を自分の処理能力以上に背負い込んでしまうと、身動きがとれなくなり、ギャンブルに逃避するタイプ。
・若年タイプ 10歳代から20歳代前半でギャンブルをはじめ、破綻が早いタイプ。その中で、発達障害の特性がないか薄い人。
・心の病をもっているタイプ 統合失調症や躁うつ病などの精神疾患があり、安定した生活や就労の継続が困難な人のタイプ。
・女性
・その他

ワンデーポートの家族相談では、本人がどんなタイプなのか、問題の成り立ちはどのようなのかによって、本人への支援のあり方が異なってくるので、母子手帳や小学校の通知簿を見せてもらうなど、細かく話を聞いて本人の情報を知り、どういうタイプかを判断する。
「我が家のギャンブルの問題がどのようなタイプで、どのような支援があい、それをどのように組み立てていくかを考える手助けを行っている」

「そもそもギャンブルに出会う前からほどよくお金を使うことができなかったり、お金を計画的に使える力が備わっているかどうかはっきりわからなかったりすることがたくさんあるのです。ギャンブルが止まれば常識的なお金の使い方ができるようになるのか、ギャンブルが止まっても見通しをもってお金を使うことができないのかによって支援の仕方は変わります」
なるほど、きめ細かな対応が必要なのか、と納得した次第です。

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青春の影

2013年04月23日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

3月23日から小田急線の世田谷代田から東北沢間が地下化により、線路と駅が地上から姿を消した。周辺住民にとっては、騒音もなく、踏切による渋滞もなくなり、静かな安全な町になった。地上から線路が消え、駅が消えたことで、私の思い出の風景も一つ消えてしまった。

私は、住まいが小田急沿線だったので、最寄りの駅として世田谷代田から、高校と大学に通っていた。各駅停車しか止まらない小さな駅だったが、跨線橋からは毎朝、天気がいいと雄大な富士山が真正面に見えた。駅のホームには、大きな木でできた茶色のベンチがあった。私は、そのベンチに腰掛けて、いつまでも彼女が来るのを待っていた。

初恋の思い出は、甘酸っぱいかおりがするという。当時は思春期の真只中で、酸いも甘いもなかったのだろう。人目を気にして出かけた映画館。わくわくして出かけたときもあのベンチに腰掛けて彼女を待った。誕生日にもらった手編みの長いマフラーをちょっとはにかみながら首にまいて。


楽しかった日々も高校進学と同時に一変した。彼女との付き合いは、一進一退のほろ苦い毎日となった。若さゆえの、自分勝手な思いは、相手のことを思いやる気持ちに勝り、
次第に二人の間に溝をつくった。当時は、携帯やメールなんてなかった。お父さんが出ないかとひやひやしながら、公衆電話で十円玉をたくさん握りしめて電話をした。メールのかわりは手紙。すぐ近くに住んでいるのに、郵便配達が待ち遠しかった。

やっと会えることになったあの日。いそいそと出かけたあのベンチ。でも、約束の時間になっても彼女は来なかった。未練がましく、もうちょっと待ってみよう。もうちょっと待ってみようという繰り返しが、四時間にもなった。あんなに長く駅のベンチに座っていたことはおそらくこれまでの人生で一度だけかもしれない。とうとう諦めて、一駅乗って家に帰ってきた。ふとポストを見ると一通の手紙、いつもと違う真っ赤な花柄の封筒と便箋。そこには、「ごめんなさい。やっぱり行けません」と書かれていた。


失恋。これも青春ならではの味かも知れない。当時は彼女を恨んだこともあったが、今思えば、黙って手紙に書いてポストに入れた彼女の気持ちもわかるような気がする。ただ手紙が来るのが一日遅かった。メールがあったら、あんなに長く駅のベンチに座っていることはなかっただろう。でも、好きな人を思う気持ちは、メール世代よりも繊細で、深いものがあったように思う。


チューリップの財津和夫の「青春の影」という歌がある。
「君の心へ続く、長い一本道を、いま君を迎えに行こう」
家から駅までの間に彼女の家があった。駅へ行く道は、彼女を迎えに行く道でもあった。「恋の喜びは、愛のきびしさへのかけはしにすぎないと」やがて、淡い初恋は消えてしまった。


唯一残ったのがあのベンチ。時が経ち、家も何回か引っ越して、世田谷代田は通過するだけの駅になったが、通過するたびにあのベンチを見ると、あの甘酸っぱい日を思い出した。いつしか、地下化が決まり、工事が始まった。駅舎も変わり、いつしかあのベンチも姿を消した。もう、線路も駅もなくなった。
青春の思い出も、記憶になった。

環境が変わり、生活が便利になり、風景が変わる。そんな移り変わりの中で、人それぞれには、その場所に対する、それぞれの思い出がある。開発の名の下に、山を切り崩し、道路を拡張し、住宅が建ち、人が増え、町が大きくなる。仕方のないことなのかもしれないが、そこは、さまざまな人の小さな、でも大切な思い出の場所があったことも、忘れてはいけない。東北の方々の中には、地震や津波や原発事故でふるさとを追われ、思い出の地を失った方が大勢いらっしゃる。私のような個人的なセンチメンタルとは比べようもない現実がある。

私たちは、時と場所に生きている。時間と空間の移り変わりのなかで、今というときを生きている。私を取り巻く環境は変わっても、私が見ている風景は、私の心の中に確実に記憶として残っている。さらに、私を取り巻く環境もまた私を見つめてきたはずだ。あの今はない、あのベンチも、あのとき、あの場所で若い自分を見つめていた。こいつはどんな思いで自分に腰掛けているのか、おい、そんなにがっかりするなよって言っていたかもしれない。


毎日目にする風景、毎日出会うあのベンチ、あの改札口、あの看板。おい、どうした元気ないぞ。今日は機嫌がいいねえ。なんてささやいていたのかもしれない。


小田急線は、地下に潜ったが、地下の新しい駅のベンチで、また、誰かが彼女を待っているかもしれない。新しい思い出がきっと作られているに違いない。環境が変わっても、メイクドラマは、続いていく。

私も今年で五十歳。ちょっと春の陽気に誘われて、恥ずかしい青春の一ページを綴ってしまった。失恋話には事欠かない私のこと。思い出の地がたくさんあるのも困りもの。
そんなことが、他人様にいえるようになったというのは、年をとった故だろう。

恋に限らず、人との出会いというのはなんと不思議なものかと思うときがある。毎日出会っていても、縁がなければ、知り合いになることはない。結果には原因がある(因果)。同じ時間に駅に行くという原因があって、いつも同じ人に出会うという結果があっても、接点になる縁がなければ、すれ違うだけである。でもそこに、いつも見かける人だから、こんにちはとあいさつすると二人の間に縁が結ばれ(結縁)知り合いになる場合がある。


その縁がまた原因となり、今度お茶でもどうですかという縁を作り、恋に発展するという結果が生まれる。関係のスパイラルができれば、人間関係は深まっていく。


時と場所、そこに関わる人と人との関係がどんな因縁で結ばれているのか、たまには自分を振り返ってみるのもいいものだ。


今日は、卒業式だった。卒業式という時と場所が、卒業生にとってどんな縁となるか、人生の因果関係の一つの契機になる日であるとありがたい。

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携帯はこの国を滅ぼす

2013年04月19日 | 日記

携帯は社会を退廃させていると、携帯を持っていない私は常々感じている。
歩きながらうつむいてメールをしている人とぶつかりそうになるし、自転車をこぎながらメールする人もいるし、驚いたことに自動車を運転しながらという人がいた。
自分の世界に没入している姿は異様な感じを受ける。

大臣が国会の審議中に携帯を見ているのだからどうしようもないが。

某研修会での講義録を読んでいたら、講師の「すみません、ちょっと電話がかかっています。メールでした。家内から無事に終わりましたかと」という発言があり、唖然とした。

この講師は某省の元お偉いさんで、現在は大学教授。
電源を切るのを忘れていたのだろうが、講義をしている最中にメールを見るというのはいかがなものか。
それに、こういうところもテープ起こしするということにも驚くし、編集者が削除すべきとは考えなかったのかとか、どう考えてもおかしい。

以下、携帯つながりのこじつけです。
山田悠介の『リアル鬼ごっこ』と『パーティ』を図書館で借りた。
というのも、次の記事を見たからである。

学校読書調査:中高生の好きな作家、「山田悠介」圧倒的1位 文豪は不人気
毎日新聞が全国学校図書館協議会(全国SLA)と合同で実施した「第58回学校読書調査」の結果が26日まとまった。中学生と高校生に一番好きな作家を聞いたところ、1位はともにホラー作家の山田悠介で、他を圧倒した。
全国の公立学校に通う小中高校生を対象に6月に実施、1万1313人の回答を得た。
あらかじめ選んだ30人から一番好きな作家を答えてもらうと、中学生は18%、高校生は22%が山田悠介を挙げた。2位は中学生があさのあつこ(8%)、高校生が東野圭吾(12%)だった。
山田悠介は、若者を主人公に猟奇殺人や自殺などを奇抜な発想で描く作家。01年に自費出版した「リアル鬼ごっこ」が49万部のベストセラーになり、10作品以上が映画やドラマ、舞台化されている。女子にファンが多く、中学女子は21%(男子14%)、高校女子は24%(男子21%)が一番好きと答えた。(毎日新聞2012年10月27日)

これは読まなくては、と思ったわけです。
ところがですね、「なんなんだ、これは」というつまらなさに、ネットで調べたら、やっぱりボロクソ。
アマゾンの『リアル鬼ごっこ』のレビュー、特に☆5つのレビューのほうが山田悠介よりよっぽど文章がうまいし、おもしろい。
なぜ山田悠介は人気があるのか。
山田悠介のすべての作品を読んだという芸能人がいて、どういう頭の構造をしているのかと思う。

さらにネットを調べたら、アンサイクロペディアの「山田悠介」の項、「彼が書いた著作に薫陶され、「俺でも書ける」との志の元ケータイ小説という新しい分野でも著書の影響を受けた作品が近年現れている」とあり、ちょっと納得した。

携帯小説は携帯の小さな画面で読むのだから、読みやすさが優先され、こみ入ったストーリーや濃厚な文体、こまかな性格描写などは必要とされないそうだ。
石田衣良は『6TEEN』で携帯小説を、「ああ、あのやたらもったいぶって、行間をあけてあるやつな」とあっさり。
「だいたい情景描写がないから、どこで事件が起きているのか、どういう状況なのかぜんぜんわからない」

山田悠介の小説は話のつじつまが合わないところがあるし、伏線かと思っても何もないが、携帯小説を読み慣れた人にはそんなことは問題にならないのかもしれない。
しかし、山田悠介の小説は活字本で読まれているわけで、それなのにどうして、とやはり思ってしまう。

面白い小説なら山ほどあることを中高生に知ってほしい。
『6TEEN』にも「最初からむずかしい作品では、読むほうの心が折れるかもしれない」とある。
とりあえずは、山田悠介がもらうことがないだろう直木賞受賞作品を読むことをオススメします。

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デイヴィッド・ダウ『死刑囚弁護人』

2013年04月15日 | 死刑

『死刑囚弁護人』の著者デイヴィッド・ダウは大学教授で、死刑弁護人。
死刑囚弁護人という仕事はたぶん日本にはないと思う。
死刑になるかもしれない裁判の弁護人ではなく、死刑が確定した死刑囚の弁護人として、執行の延期、減刑、恩赦、再審などを裁判所に訴えるという仕事である。

『死刑囚弁護人』には、死刑弁護人としての仕事や死刑囚のことだけでなく、妻と6歳の息子との愛にあふれた暮らしが交互に描かれるためか、ノンフィクションというより小説という趣である。

死刑弁護人には守秘義務があるので、名前はもちろん、多くのことが変えられているそうだ。

「だが、その裁判は事実である。裁判所や裁判官は、まさに本書に記述したとおりの振る舞いをした。なかには、裁判席から降ろすべきだと思う裁判官もいる」

デイヴィッド・ダウは「悲しみをおぼえない処刑もある」と言う。
たとえば、自分の息子の目の前で、息子の母と祖母を素手で殴り殺したグリーン。
「すべてのクライアントに好感が持てるわけではない。グリーンは嫌いだった。彼もまた、死刑支持者が必ず犯す誤りを犯していた。死刑囚の弁護を引き受ける以上、死刑囚のことも好きに違いない、と思っているのだ。死刑に反対していて、彼が処刑されるべきではないと考えるからには、彼の犯罪を許しているはず、と思い込んでいる。あいにくだが、私はグリーンのような人間を許す立場にはいない。もしそうだったとしても、許しはしない」

グリーンは、同じ死刑囚のクエーカーは無実だと証言する。
クエーカーは別居中の妻と二人の子供を射殺したとして死刑になったのだが、どうやら冤罪らしい。
このクエーカーが『死刑弁護人』の中心人物の一人である。

一審はアル中の無能弁護士ジャック・ガトリングが弁護した。
ある弁護士が「たったそれだけで、どうやってその男の有罪を証明したんだ」に尋ね、デイヴィッド・ダウが「弁護人がジャック・ガトリングだったんだ」と答えと、すぐに納得したという、有名な無能弁護人である。
二審の弁護士は無能ではなかったが、何もしなかった。

デイヴィッド・ダウたちの働きにもかかわらず、クエーカーは処刑される。
なぜデイヴィッド・ダウはほとんど敗訴し、精神障害者や知的障害者の死刑囚だったり、無実であっても、処刑されて死んでいくにもかかわらず、死刑弁護人という仕事を続けるのだろうか。
「自分が動いたところで何も変わりはしない。でも、彼を助けようとする人間がいるってことを知ってほしいんだ。世界で自分だけ一人ぼっち、という気持ちになるほどつらいことはないからね」とデイヴィッド・ダウは言う。

「誰から何かをしてあげたとする。その人がいままでほんの小さな親切ですら受けたことがなければ、その行為がどんなつまらないことであっても、あきれるほど感謝されるものなのだ」

こんなことが『死刑弁護人』に書かれてある。
「二年前のことである。一人の教誨師がクライアントたちに聖書を読み聞かせるようになった。するとクライアントたちが次々と上訴権を放棄したいと言い始める。教誨師は、悔い改めればイエスは許してくれるが、もし上訴して争うようであれば、地獄で灼かれる、と説いていた。彼のなかでは、不服申し立ては争いにほかならない」

これを読んで思い出したのが、大阪拘置所長を務めた玉井策郎氏である。
玉井策郎『死と壁』を読むと、死刑廃止論者の玉井策郎氏は死刑囚の処遇が寛大だったことがわかる。
しかし、玉井氏の在任中は再審請求する死刑囚はほとんどおらず、おとなしく処刑されていった。
人間的な処遇をすることで再審請求をしなくなるのだったら、現在の非人道的な扱いのほうがましだということになる。
やっかいな話ではあります。

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麻生太郎発言と太田典礼と日本尊厳死協会

2013年04月12日 | 日記

旧聞ではありますが、今年の1月に麻生太郎副総理が「さっさと死ねるように」という発言をした。
知人によると、「しんぶん赤旗」が麻生太郎氏の発言を一番詳しいが、全国紙各紙は半分しか伝えていないそうだ。

“(高齢者は)さっさと死ねるようにしてもらいたい”
麻生副総理が暴言 社会保障改革国民会議で
 麻生太郎副総理・財務相は21日に開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者の終末期の高額医療費を問題視し、「政府のお金で(高額医療を)やってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろ考えないと解決しない」と暴言を吐きました。
 麻生氏は「現実問題、経費をどこで節減するか」と述べ、延命治療には「月に1千何百万だ、1千500万かかるという現実を厚生省(厚労省)が一番よく知っているはず」だと発言。「私は遺書を書いて(延命治療のためにチューブをつけるような)必要はない、さっさと死ぬから、と(家族に)手渡しているが、そういうことができないとなかなか死ねません。死にたいときに、死なせてもらわないと困っちゃうんですね、ああいうのは」などと語りました。しんぶん赤旗2013年1月22日

ネットでは、麻生太郎氏は延命治療によってただ生きながらえているだけという状態になりたくないと言っているだけだ、それなのに新聞は言葉尻をとらえている、といった感想が多いように思う。

私もそこまで目くじらを立てないでもと思ったけれども、別の知人(障害者自立支援などをしている)に太田典礼という名前を教えてもらい、考えを変えた。
太田典礼氏は1976年に「日本安楽死協会」(「日本尊厳死協会」の前身)を発足し、理事長となる。

なぜ太田典礼氏が安楽死を主張するのかというと、老人・難病者・障害者たちは「半人間」であり、生きていても社会の邪魔になるだけだからである。
「半人間」には理性や知性などの精神がなく、人間の尊厳のかけらも見ることができないと、太田典礼氏は言っているそうだ。
麻生太郎氏の発言は太田典礼氏と変わらないと思う。

太田典礼氏の本を読もうと思ったが、どうせ腹が立つだけなので、ウィキペディアの「太田典礼」の項からコピーします。
太田は老人について「ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。」と主張し、安楽死からさらに進めた自殺を提案したり、安楽死を説く中で、障害者について「劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならない」「障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。」と主張した。
また、『週刊朝日』1972年10月27日号によれば、「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない」と放言した。
太田のこうした言動から、安楽死が老人など社会的弱者の切り捨てや、障害者の抹殺につながるとして非難が起こった。太田はこうした批判に対して見当違いと反発したが、1983年8月には団体名を「日本尊厳死協会」に変更した。太田は「尊厳死」の用語を批判していたが、にもかかわらず「尊厳死」を採用したのは、「安楽死」が持つマイナスのイメージを払拭し、語感の良い「尊厳死」に変えることで世間の批判を和らげようとしたのが狙いと言われている。

ちなみに、太田典礼氏は85歳で死んでいる。
どういう死に方をしたのかはわかりません。

知人は、重度障害者や難病者には呼吸器の装着や胃瘻などの経管栄養の使用によって生きている人がたくさんいる、その人たちを「半人間」として切り捨てていいものか、と問いかけている。

麻生太郎氏は金のかかる重度障害者や難病者も「さっさと死ねるようにしてもらいたい」という考えなのだろうか。
麻生太郎氏の発言を支持する人は、自分の子供や孫が難病になって人工呼吸器を装着しなければいけない状態になったとき、「必要はない、さっさと死ぬから」と医者に断るのだろうか。

しかし、迷惑をかけたくないからぽっくり死にたいとか、延命治療をしてほしくない、と言う人は多い。
ということは、寝たきりやボケ老人は生きていても迷惑をかけるだけだから、さっさと死ぬべきだと、私たちは思っているわけである。
太田典礼氏や麻生太郎氏の無知、冷酷、残忍さを責めることはできないと思う。

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いのちはだれのもの?

2013年04月08日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

先日、学校保健会という会合で、「誕生学」というテーマでの講演会が開かれた。誕生学という言葉は、聞き慣れない言葉であるが、いのちの尊さを赤ちゃんの誕生という事実と向き合いながら考えていく、いわゆる性教育という身体の機能的な話だけに止まらない、いのちの大切さを子どもたちに、学んでもらう学習を意味する学習である。

講演は、地域や保護者、教職員が対象だったが、実際には講師の先生が教室に出向き、子どもたちに赤ちゃんの生まれてくる様子を説明しながら、出産のときの両親の喜びやかけがえのないいのちが自分たちであることを教える。赤ちゃんはお母さんのお腹にいるときから、いのちを育み、自分で生まれてくることや、へその緒の長さは、生まれてきたときにお母さんが抱っこしてあげるだけの長さになっていることなど、誕生に関する事実に驚きと感動を覚えた。

もう一つは、お葬式。先日、突然本校に縁のある方が癌で亡くなられた。あまりに急なことだったので、驚いたが、棺のお顔は安らかに笑ったようなお顔だった。生前の故人が偲ばれる。その時、ふと誕生学のことが思い出された。人は生まれてくるとき、いのちを授かって生まれてくる。これは父や母だけでなく、連綿と続いてきたいのちの連鎖であり、自分の処に届けられたいのちは、多くのいのちが体験してきた困難と偶然性を乗り越えて伝えられてきたものである。


さて、「授かりもの」という言葉が気になった。いのちは「授かったものなのか?」


ここに大きな落とし穴があるような気がした。亡くなった方のご遺体を見ながら、ふといのちをお返しになったのだなと。私は、そのとき、いのちは「授かった」というよりも、「預かった」ものなのだと感じた。あらゆる縁の中で自分という器に届けられた「いのち」は、生まれてから死ぬまで、個人という器の中で、その個人を成長させ、人生という歴史を刻み、そして、「いのち」を次の世代に受け継いでいった。その役目を果たした器である個人は、預かった「いのち」をお返しした安堵の笑みをたたえて、安らかにまた器にもどる。


預かったものは、いつかは返さないといけない。人から預かったものを我が物とすることは、泥棒のようなもので、そこにいろいろと間違いが生ずる。返す期限や返し方は人によってさまざまだが、必ず返すことには違いがない。仏様から預かった大切ないのち。返し方は様々だが、わざわざ自分から返しに行くことはない。


生まれてきた喜びとともに、人はいつか死を迎えること。それが、恐ろしいことや悲しいことかもしれないが、授かりものは返したくなくなるのが人の世の常、しかし、預かったものは、いつか持ち主にかえさないといけない。いのちの学びには、必ずそのことを合わせて教えてほしい、というか私自身が教えなければいけないと感じた。生者必滅、会者定離。生死一如をいきる器としての自分をはたらかせてくれている、大切な仏様からの預かりもの。せめて、赤いバラのリボンでも付けてお返しできたら、いいな。

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スタッズ・ターケル『「よい戦争」』3

2013年04月05日 | 戦争

原子爆弾によって被害を受けたアメリカ人たち。
マーニア・セイモア「原子爆弾製造工場」
夫はテネシー州オークリッジにある原爆製造工場で働いていた。
工場で働く夫婦のうち、セイモアたち18組の夫婦のほとんどは子どもがいない。
セイモアには4人いるが、2人は障害を持って生まれた。
「ぜんぜん警告されなかったって? そりゃ、もちろん、ぜんぜんよ。悪意があったとは思わないけどね。ようするに知らなかったのよ」
友人がたくさんビキニでの実験を見にいったが、ほとんどは癌になってるか、癌で死んだかである。

「私たちはものすごくカッコいい気分だった。
その私たちが、その後どうなったと思う? コネティカット州のニューキャナーンに住んでたんだけど、ノーマン・カズンズが広島乙女を何人か連れてきて、私たちはこの不虞にされた、ケロイドの女性たちにむかいあわされたの。スーパーマーケットでよくみかけるたびに、ああ、これが私たちがカッコいいと思ってることがしたことなんだってね。ときどき泣けてしまう……
アメリカ人は世界のことを知らない国民だったのを気づくべきよ。孤立した大国だったのよ。日本人のことも日本の文化のこともたいして知らなかった。黄色で、目つきが悪く、みんな悪人だった。日本人は映画のなかで、かならず悪人だったでしょ。こそこそ歩きまわって、陰険なことをする役よ。人間としてじゃなく、撲滅するべき黄色いちびにすぎないと思いはじめちゃう。ドイツ人とはちがうっていう感じだった。もし、X人の捕虜しか救えない。それで、たとえば、五十人の日本人と五十人のドイツ人だったとすれば、だれを見殺しにして、だれを救うか。そういわれれば、私はドイツ人を救ったでしょうね。すくなくとも私の知識では、ドイツ人のほうが文明的だったからね」

ジョン・スミザマン「ビキニ原爆実験」
スミザマンは全米原爆復員兵協会(NAAV)の会長。
会員は1万5千名強。
ジョン・スミザマンは両足を切断しており、左手は普通の五倍の大きさ。

1945年17歳で海軍に入る。
1946年7月のクロスローズ作戦(ビキニ環礁の実験)に参加した。
標的艦船のインディペンデンスの消火作業をした。
危険だということは知らされていなかったし、何の注意も受けなかった。
泳いだり、礁湖からとった水を飲んだりしたが、規制は何もなかった。
放射能のことは何も聞いていない。

8月末に、50セント銀貨ぐらいの大きさの赤いヤケドみたいなものが両足にでき、一週間ぐらいして、両足が腫れる。
1947年に、医療のために除隊する。
1977年に両足を切断した。
左手も切断しないといけない。

ビキニであびた放射能はこんな障害をおこすほどじゃないと、復員軍人局は病気が軍務に関係していることを認めない。
1982年には、集まった募金で日本で治療を受けた。
しかし、アメリカに帰ってから同じ治療をつづけられない。
「放射線にさらされた兵隊っていうのは、まるで目のまえに敵がいて水平撃ちされたみたいなもんでしょ。逃げられないんですよ。三十年、四十年たたないと障害がでてこない」
「私としては、みんながモルモットとして使われた感じなんですよ」
ジョン・スミザマンは1983年9月11日に死去。

広島・長崎への原爆投下は被害がどれだけになるかという実験が一番の目的だったと思う。

そして、意図していたかはともかく、アメリカは自国民も「モルモット」にしたということである。
30年、40年たたないとわからないということでは、福島原発も同じである。

加藤倫教「『愛国』と『愛国家』をすり替えているのが権力者で、あんたがたが言うのは『愛国』でなく『愛国家』でしょうと言うんだけど。国家を愛しなさい、国家に忠誠を誓いなさいであって、国を愛しなさいじゃないでしょう。ほんとうに国を愛しているのなら、田舎が荒廃していくのを黙って見ていることはせんでしょうと」(朝山実『アフター・ザ・レッド』)

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スタッズ・ターケル『「よい戦争」』2

2013年04月01日 | 戦争

原子爆弾の製造に関わった研究者へのインタビュー。
フィリップ・モリソン「マンハッタン計画の核物理学者」
戦争中、モリソンは核物理学者だった。
「原爆をつくるのは正当だという雰囲気だった。いまでは、もちろん、正当だとは思わない。だけど、もしもう一度やらなきゃならないとしたら、同じことをするだろうというのが正直なところだ。ナショナリズムというのは恐るべき力だよ」

「ファシズムをくいとめるために我われは戦った。しかしそのために、ファシズムに反対する社会も変容してしまった。ファシズムの属性のいくつかを自分のものにしてしまった」

ジョン・H・グローブ「核化学者」

グローブはマンハッタン計画に加わった科学者のひとり。
広島に原爆が落ちたことを知ったとき。
「私のとっさの反応は大得意だったよ。それから次の反応が起こる。(ささやき声で)ああ、なんていうことだ! 都市に落とすなんて! ボスの部屋に入っていって、(ささやき声はどなり声になる)原爆を十万人とかの大都市に落としやがった。なんで、東京湾か、トラック島のでかい海軍基地に落とさなかったのか。なんで、民間人のたくさんいるところへ落としたのかってね。ボスはユダヤ人でホロコーストのことを知ってる男だよ。それが「なんだっていうんだ。連中はジャップじゃないか。犬畜生だぜ」っていう。私はショックだった。彼にたいする尊敬はいっぺんになくなってしまった」

原子爆弾を投下した人。
ビル・バーニー「ナガサキへの飛行」
長崎に原爆を落とす飛行に加わった乗員のひとり。
ターケル「この話題になるたびに質問されると思うんだが、あなたも、他の乗組員も悩まなかったかってね」
バーニー「おれの知るかぎり、そういうのはぜんぜんいない。世間にさわがれたのが一人いただけだ」
その一人とは『ヒロシマわが罪と罰』を書いたクロード・イーザリーである。
イーザリーは以前から精神的に病んでいたという。

ジョージ・ザベルカ神父「テニアン基地従軍司祭」
ザベルカ神父はテニアン島から出撃する搭乗員を祝福していた。
「搭乗員を祝福するのは習わしだった。飛行機をじゃなく。爆弾をじゃなくだがね。私は自分に何度もこの問題をなげかけたんだ。しかし、乗員は私たちの教区の一員だった。危険な任務についていくんだ。我われの男児、若者たちで、死の危険にさらされている。島のラジオが教えてくれるまでは、どんな爆弾を落としてるのか私は知らなかった。それで、ショックだよ。突然、八万の人びとが、あの一発で殺されたんだ。(略)
恐ろしさを、クリスチャンとしては、司祭としては、感じるべきだったのに、感じてなかったんだ」

「感じなかった理由は、教会が、宗教指導者のだれもが、声をあげなかったからだ。焼夷爆弾の非道徳性。ドレスデンで、日本で。スペルマン枢機卿はテニアンにきたことがある。私はおぼえているよ。終戦まぢかの大きなミサのときだった。彼は、諸君戦いつづけよって力説するんだ。我われは自由のために、正義のために、パールハーバーで日本人がなした恐怖をうち負かすために戦っているとかだ。ヒットラーをうち負かすために戦ったようにね」

ターケル「他の従軍牧師はどうなのかね? その問題はもちだされたことがあるのかな?」
ザベルカ「原爆投下の道徳問題にはけっして立ちいらなかった。たぶん私たちみんなが、ひどいことだが必要だと感じてたんじゃないかな。忘れちゃいけない、我われは無条件降伏を要求したろ。これも聖アウグスチヌスの「正義の戦い」の原則に反する。つまり、相手方が降伏の準備があるときに戦闘をつづけてはならないんだ」

「原爆」を「原発」に置き換えてみてもいいと思う。
原発の建設に関わる人たちは「原爆をつくるのは正当だ」と思ってるだろうし、作業員が被曝しても「なんだっていうんだ」という程度だろうし、原発事故は「ひどいことだが(原発は)必要だと感じてたんじゃないか」。

1945年10月、ザベルカ神父は日本行きを命ぜられる。

「九州で私は、広島からきた何人かのシスターや宣教師たちにあった。長崎にはすでにいっていて、廃墟をみて、被爆者の数人と話していたんだがね。何千人もが「原爆症」になっていたよ。思えば、私がほんとにわかりはじめたのは、このときだね。ここに、戦争とは何の関係もない小さな子どもたちがいる。その子どもたちが死んでいく、多くのものは静かに、ほんとにおとなしく。ただ静かで、ただ死んでいくんだ。良心の虫がうごめきはじめる」
現実に被害を受けている人を知るということが大切だと思う。

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