三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

南京事件のつづき

2010年03月31日 | 戦争

南京事件については前に書いたが、南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論13のウソ』と藤原彰編『南京事件をどうみるか』を読んで、私なりに納得できたように思う。
だけども、アマゾンでは『南京大虐殺否定論13のウソ』の評価が極めて低い。
ある人は「当時の日本側の公文書や兵士の日誌に虐殺を裏付ける様な部分が数多く見つかったなどということは断じて無い。第一、そんなものがあればこんなに揉めない」と書いている。

しかしですね、『南京事件をどうみるか』で、小野賢二氏が[黒須忠信]上等兵の陣中日記の中から次の文章を引用している。
「拾二月拾六日 晴
 午后一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃湯[蕩]ノ目的ニテ馬風[幕府]山方面ニ向フ、二三日前捕慮[虜]セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バガ[カ]リト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
 山トナッテ居ル死人ノ上ヲアガッテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒヽ「シ」ガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ、ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍シイ出来事デアッタ」


日記に虐殺のことを書いている将兵は他にもたくさんいる。
小野賢二氏は山田支隊歩兵第六五連隊の元兵士を中心にした聞き取りと兵士が書いた陣中日記等の資料収集をしており、陣中日記は24冊入手している。
それらの資料は『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』にまとめられている。
山田支隊の捕虜殺害だけでも1万7~8000人だから、秦郁彦氏の主張する犠牲者は上限4万人だという説は崩れていると思う。

南京事件肯定派を自虐史観だと非難する人がいる。
だけど、吉田裕「国際法の解釈で事件を正当化できるか」(『南京大虐殺否定論13のウソ』)を読むと、的外れな非難だということを教えられる。
「南京攻略戦は、典型的な包囲殲滅戦として、軍事的には日本軍の勝利に終わった。このため、多数の中国軍将校が戦意を失って潰走し、追撃する日本軍によって各所で殲滅された。特に、長江上では、必死になって脱出をはかる中国軍将兵・一般市民が乗った小舟や急造の筏などが川面をうめた。これに対しては、海軍の第十一戦隊に属する砲艦が銃砲撃を加え、多数の中国軍民が犠牲となった」
吉田裕氏は「これは『戦闘』なとど決してよべるものではなく、戦意を失って必死に逃れようとする無抵抗の群衆に対する一方的な殺戮にほかならなかった」と論じた。
それに対して藤岡信勝氏は、吉田裕氏の見解を「敗走する敵を追撃して殲滅するのは正規の戦闘行為であり、これを見逃せば、脱出した敵兵は再び戦列に復帰してくる可能性があるのだから殲滅は当然であるとした」と批判しているそうだ。
吉田裕氏は具体例で藤岡信勝氏に反論している。

1945年4月、沖縄海域への水上特攻作戦に出撃した矢矧は大和などとともに米軍機の攻撃を受けて沈没した。
「この時、米軍機は、漂流する日本海軍の将兵に対して、数時間にわたって執拗な機銃掃射を加えた」
また1943年2月のビスマルク海海戦では、漂流する多数の日本兵に対して連合軍機が数日にわたって機銃掃射をくり返し、さらには出撃した魚雷艇が海上を捜索して日本兵を射殺した。
一方、1941年12月のマレー沖海戦の際に、日本機は英駆逐艦による生存者の救助作業をまったく妨害しなかった。
「藤岡氏の論法に従うならば、前者の米軍パイロットは軍人としての本分に徹した称えるべき存在であり、後者の日本軍パイロットは、非情な戦場の現実を忘れた感傷主義者ということになるだろう」
ビスマルク海海戦での事件は、
「戦後オーストラリア社会では、海上を漂流中の350名の日本兵を機上掃射で殺害した空軍パイロットを戦犯として処罰すべきだとの声があげられ、大きな論争に発展している」そうだ。

そして吉田裕氏は藤岡信勝氏をこのように批判する。
「欧米の良識ある人々が連合軍側の戦争犯罪の問題を正面から取りあげ、批判している時に、藤岡氏のような人物が、それを免責するような論理を提供し、「助け舟」を出す」
「ここに、中国に対する感情的反発にこりかたまった人々の言説がおちいっている自己矛盾の深刻さがある。米軍の戦争犯罪すら追及できないような戦争観こそ、まさに「自虐史観」そのものではないだろうか」

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自己責任について

2010年03月28日 | 日記

次女が某公立高校に合格した。
驚いたのが入学金が5640円、すべりどめに受けた某私立高校の入学金は25万2千円ということ。
授業料が無償化されたが、毎月引き落とされる金額は2万円ぐらい違うらしい。
なるほど、収入の少ない家庭だと私立はしんどいだろうなと思った。
で、思い出したのが、2008年10月、大阪の橋下知事と私立高校生が学費補助金削減で討論したこと。

私学助成金は各都道府県が県内の私立学校に交付する補助金制度で、大阪府では児童一人あたり約37万円の学費を負担しており、一年で約600億円の支出になる。大阪府は来年度1000億円の歳入不足が見込まれるため、子供や高齢者の医療費補助を維持する代わりに私学助成金を見直している。
しかし削減が実行されると経済的負担増で学校に通えなくなる生徒が出るといわれるため、現役高校生と府知事が意見交換会する場が設けられた。
やりとりの一部。
生徒「母子家庭で家計が苦しく学費が払えなくなるかもしれない。私学助成削減をやめて僕たちに安心して勉強させて欲しい」
知事「どうして公立へ行かなかったの?」
生徒「公立に入ったとしても、勉強についていけるかどうかわからないと(中学の担任に)言われて」
知事「追いつこうと思えば公立に入ってもね、自分自身で追いつく努力をやれる話ではあるよね。いいものを選べば、いい値段がかかってくる」

生徒「受験に失敗して公立の定員に入れなかった子を見捨てるんですか」
知事「義務教育までは平等に扱う。その先は定員があってずっと競争があるのが世の中の仕組みだと自覚しないと」

あるいはこういうやりとり
生徒「世の中の仕組みがおかしいんじゃないですか」
知事「僕はおかしいとは思わない。やっぱり16(歳)からは壁にぶつかって、ぶつかって」
生徒「そこで倒れた子には?」
知事「最後のところを救うのが今の世の中。生活保護制度がちゃんとある」、「今の世の中は、自己責任がまず原則ですよ。誰も救ってくれない」
生徒「それはおかしいです!」
知事「それはじゃあ、国を変えるか、この自己責任を求められる日本から出るしかない」

ネットの反応は、橋下知事の言っていることが正論だとか、偏差値の低い公立高校に行けばいいとかいった、私立高校生を批判する者が多かったように思う。
これじゃ貧乏人は高校に行くなと言っているようなものである。
旧聞に属することを今さら問題にするのはなんだけど、やっぱり腹が立つ。
少しでも偏差値の高い学校に行きたいと思うのは当然のことだし、大丈夫だと担任が太鼓判を押してもすべることもある。
入試に失敗するのは自分の責任だとしても、家庭の事情で授業料を払うことが困難な子どもを援助するのは行政の責任である。

「自己責任」という言葉が他者を非難する言葉として広く使われるようになったのは2004年のイラクの人質事件からだろうと思う。
人質となった3人はマスコミ、ネット、そして政府からも叩かれた。
ネットを検索したら、生田武司氏のHP「松沢呉一の議論が最も明快だった」として紹介しているのを発見。
いつものように無断引用、孫引きです。
「寝タバコでの火災は誰のせいでもなく自分のせいですが、それでも消防隊は消化活動をしなければなりません。(…)夫婦喧嘩で肋骨を折ったら、誰のせいでもなく夫婦のせいですが、それでも救急車は病院まで運ばなければなりません。それぞれ自分の行為によって生じ、その責任は自分でとらなければならないにもかかわらず、救済される権利があります。そのための税金ですから。そのことをわかっていない人たちが「自己決定・自己責任」「自業自得」などと言っているのではないですか。したがって、政府が自衛隊を派兵したことによって彼ら3人が拘束される要因を作り出したにせよ、拘束されたことの責任を直接には政府がとる必要はないでしょう。その責任がないだけのことで、彼らを救うために尽力する責任はあります。それをやらなかった時には当然非難されるべきです。「あれは夫婦喧嘩で大怪我したんだから自業自得」として救急車が放置して死んじゃったら、死んでしまったことにつき、救急隊が責任をとらなければならないのと同じです」
しごくもっともな意見だと思う。

たしかに世の中は橋下知事が言うように競争社会である。
しかし、スタートラインが違っていては不公平である。
現実はどうかというと、勉強ができて偏差値の高い高校、大学に入り、そしてエリートコースをまっしぐらに進み、高収入を得ている橋下知事のような人の子どもは、たとえば親がリストラされて収入が激減した家庭の子どもに比べると圧倒的に有利という競争社会なわけである。
不利な条件を少しでも改善し、競争に負けた人にも手をさしのべるのが行政の仕事なのに、自己責任だと突っぱねるのはどうかと思う。

自己責任だという非難は、つまりはバチが当たったと言っているようなものだ。
国の言うことに従わなかったからバチが当たって人質になったんだとか、ホームレスだと、怠けていたからバチが当たってつらい思いをするんだとか。
毎日新聞「この10年は自己責任ばかりが強調され、社会的弱者にしわ寄せされた。リスクと責任を担うべき行政や企業が役割を果たさなくなってきている」とあったが、母子家庭の子どもにバチが当たったと決めつけるような自己責任論がいまだに蔓延しているのは困った状況です。

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芹沢俊介『「オウム現象」の解読』

2010年03月25日 | あやしい教え・考え

芹沢俊介『「オウム現象」の解読』は、何年か前に読んで不快に思ったが、読み直してみても、鋭い考察はあるものの、やはり賛成できない部分が多い。
この本は地下鉄サリン事件の一年後、1996年4月出版だし、今は絶版のようなのにあれこれ言うべきではないかもしれないが、せっかくなので。

で、どこらが不快かというと、まずはニューエイジ、スピリチュアルに好意的であり、死後の生の実在に肯定的だと思われる点。
阿含宗の桐山靖雄を評価している(ように思える)とこも問題。
そして、マインド・コントロールによる精神の呪縛という視点を考慮に入れていないこと。
もっとも芹沢俊介氏しはマインド・コントロール論を認めていないようだから、精神の呪縛ということを問題にしないのは当然か。

それとか、今の時点から文句をつけるのはどうかと思うのだが、1989年10月にオウム真理教をめぐるトラブルが報道されたのだが、それについて「親と称する人たちが、息子を返せ、娘を返せとオウム側に迫り、その訴えを週刊誌が取り上げたことからトラブルは社会の表面に浮上してきた」と書いているし、坂本弁護士一家失踪についても、
「確かに「被害者」の会の代表弁護士格としての坂本弁護士を誘拐しどこかに拉致する動機が、オウム真理教側に皆無というふうに言い切れない。けれどあまりにおあつらえむきにバッジが落ちていたこと、さらにはマスメディアや「被害者」の会の親たちと利益を共有しない私たちにとって、彼らの報道や論理は一方的にすぎるし、オウムと弁護士失踪を結びつけるには飛躍が多すぎるように感じられる」(「超能力・誘拐・終末」「正論」1990年5月号所載)と書いていることはやっぱりまずいなと感じる。
坂本弁護士の事件について「超能力・誘拐・終末」で書いたことについて、芹沢俊介氏は1995年5月の講演で「いずれにしても断定できることではありませんから、オウムじゃないともオウムだとも書きませんでした。そこは注意深く書いたと思います」と、己に甘いことを言っているのはさらにまずい。

芹沢俊介氏はイエスの方舟に好意的で、イエスの方舟では「依存もなければ、服従もなく、またその対極の自立という発想もない」と賞賛している。
イエスの方舟があやしいとは思わないけど、芹沢俊介氏のほめ方はおかしいと思う。

たとえば、西村幸男「イエス逃走の内部事情」から、
「たとえば、未熟でたいへん感度がいいと思える人がいるとする。「その人が本当に救われるんだったら、どういうような手段でも使え」と、千石さんはいわれる」という文章を引用し、そして芹沢俊介氏はこう書く。
「宗教的態度として述べられた言葉として、なんら奇怪な論理は駆使されていない。むしろ、時代の塵のなかにあまりにも深くうまってしまったため忘れられていた古くて新しい主題が生きのびていたことに、感動を覚えるほどである」
「どういうような手段でも使え」という言葉に感動を覚えると言われると、れれっと思わざるをえない。
オウム真理教だって救済のために手段を選ばなかったからポアをしたわけだし、霊感商法は正しいことをしているのだから嘘をついてもかまわないと自分たちの行為を正当化しているのだから。

それとか、
「集団の内側でとられる方法は、いっさいの行動を責任者の言葉において行うというものである」という自身の文章の注に、芹沢俊介氏は西村幸男「イエス逃走の内部事情」から次の文を紹介している。
「自我を否定するためには、その人自身の意識で行為をしては、自我は死なない、と責任者はいう。だから、何をするにも、責任者の言葉において行動する」
「一例をあげれば、私も、責任者に『便所に行ってもよろしいか』と聞く。それで、『うん、便所へ行っていいよ』ということになる」
「『小指ひとつ動かすのでも、自分の意志でするな』と責任者はいう」

こうした思考停止こそが我執をなくすんだという理屈はまるでヤマギシ会である。
それじゃ奴隷の幸福になってしまう。

だけどまあ共産党の前衛じゃないけど、考えるのは我々の仕事で、お前たちは従うだけでいいんだ、とまで言うと極端だが、宗教全般にはそういうところがある。
藤田庄市氏は『宗教事件の内側』で、
「宗教的世界に入るや「自分たちはわかっている、彼ら(世俗)はわかっていない」。つまり自分たちが築いた宗教的世界は、世俗の世界より上なのである。これがオウムの場合だとどうなるか。反省や謝罪はしても、失敗をしただけ。やはり自分たちは上で、現世は下である」という指摘している。
オウム真理教や統一教会の信者、あるいは江藤幸子とその信者たちは、自分が導いてやらねば、救ってやらねばというエリート意識があるように思う。
霊的ステージが高い者が低い者を導くというか、清められた者(善)が穢れている(悪)を清めるというか、選ばれた者としての優越感を持ち、上に立って見下ろす。
こういう傾向は宗教者と自称する人には大なり小なりあるように感じるし、そういったえらそげなところが私にもあることは否定できない。
「現実の因果関係が見えなくなり、実情に対して鈍感となり、他人を傷つけることにすら気づかなくなってしまう。宗教がもたらす独善、思考停止である」と藤田庄市氏は言う。
肝に銘ずべきである。

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宗教がからむ死亡事件 3

2010年03月22日 | あやしい教え・考え

真理の友教会やオウム真理教といった宗教の成人信者たちは、自ら選んでその教えを信じたわけだが、この選びは主体的なものか、それともマインド・コントロールや洗脳によって精神が呪縛されたためか。
マインド・コントロールとは何か、西田公昭氏の定義「他者がみずからの組織が抱く目的成就のために、本人が他者から影響を受けていることを自覚しないあいだに、一時的あるいは永続的に、個人の精神過程や行動に影響を及ぼし操作することである」ということである。

芹沢俊介『「オウム現象」の解読』ではマインド・コントロールを、「スティーヴン・ハッサンの書いた『マインド・コントロールの恐怖』には、個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊してそれを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系のことであるというように定義されている」と説明し、そして「破壊的カルトにおいてはこの「信じこませる過程」にマインド・コントロールのテクニックが用いられるのである」と言っている。
親の子育てや学校の教育、テレビやマンガを見ることもマインド・コントロールだという話になりがちだが、たんに「影響を及ぼす」だけでなく、「人格を破壊して」「操作する」ことがマインド・コントロールの要件ということだろう。
そして、米本和広氏のカルトの定義にある「人権侵害あるいは違法行為」がなされているかどうか。

たとえば、エホバの証人の輸血拒否は教えに従ってのことで、たとえば宗教的理由によって豚や牛を食べないのと同じ宗教上のタブーである。
子どものころからそういう環境の中で育ち、教え込まれることによって「他者から影響を受けていることを自覚しない」まま、そうした価値観が身についていき、タブーを恐れるようになる。
ただし、菜食主義だからといって病気になることはないが、輸血をしないと死ぬ場合があるところが大違い。
だから、豚肉を食べないのはマインド・コントロールとは言わないだろうが、輸血を拒否するのは命に関わるわけだから、マインド・コントロールだと思う。

『「生きづらさ」について』で雨宮処凛氏はこんなことを語っている。
ヤマダ電機の研修で、20代の正社員の女の子は体重が30キロ台に減ってしまった。
「研修が終わって仕事が始まったら、上司に蹴られたり殴られたり革靴で顔を踏まれたりというのが当たり前にあったそうです。
同僚にノルマが達成できず、とくにひどい扱いを受けている男の子がいた。彼女が「毎日ボコボコにされているのに、なんで辞めないの?」って男の子に聞いたら、「自分のようなダメな人間を使ってくれるのはここしかない。雇ってくれるのはここしかない」って答えたっていうんです。本当に洗脳されている」

それで思いだしのが、証券会社の不祥事が話題になったころだから10年以上前のこと、田中康夫氏の本(題名は忘れた)にこんなことが書いてあった。
アシスタント募集に応募してきた野村証券に勤める女性に、証券不祥事をどう思うかと田中康夫氏が聞くと、
「悔しい。上司があんなにがんばってきたのにマスコミにあることないこと書かれて」と憤慨したそうだ。
「上司のそばにいて、あなたが涙が出ちゃうのはわかるけど、事件全体についてどう思うの」と田中康夫氏が尋ねると、
「やくざとのつながりは昔からあったことで、何が悪いの。どうしていまごろになってうちだけをいじめるの」とほとんど抗議口調だったという。
会社の利益のためなら多少の犯罪行為も許されると考えるようになるわけである。

会社は意図的にこうした社員教育をしているかどうかだが、「生きがいの創造」シリーズの飯田史彦元福島大学教授は「もともと私は、「人間の価値観」をキーワードとして、企業の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインドコントロール」としてとらえようとしたのです」と書いている。
経営者側に立ち、企業の生産性を高めるために、従業員に生きがい、働きがいを与えることでマインド・コントロールをするという研究していたというのである。
こうなるとマインド・コントロールはカルトとされる教団だけの問題ではない。

だけど、芹沢俊介氏は「マインド・コントロールという概念は肥大し、万能性を帯びてきている」とも指摘している。
どんな行為に対しても「それはマインド・コントロールのせいなんだ」ということになれば、これはおかしい。
というのでネットで調べたら、マインド・コントロール論は反証不可能な主張であり、疑似科学だとする学者もいるそうで、ほんとのところはどうなのだろうか。

となると、マインド・コントロールを受けたことを理由にして免責すべきではないことになる。
芹沢俊介氏は「サリンを地下鉄の中で撒いた林郁夫氏が、あなたたちは麻原彰晃のマインドコントロール下にあると言われているけれどどう思うかと聞かれたとき、林氏は一言のもとにそれを否定して、「そんなことはない。自分は宗教性の問題をいろいろ研究した結果、麻原に行き着いた。麻原の良さを認めて自分から麻原に近づいたんだからマインドコントロールではない」と語ったそうです」と紹介し、そして「もしマインドコントロールという観点をとると、彼らはマインドコントロール下にあったから情状酌量の余地があるという帰結になってしまいます。マインドコントロールという言葉を有名にしたのは山崎浩子さんです。彼女はもとは統一教会の広告塔で今は反統一教会の広告塔になった人です。彼女だって統一教会の広告塔として活動したんだから、社会的に引き受けるべき問題は彼女の側にあったはずです。社会的レベルでやったことはそれなりに責任を問われるべきものなのに、マインドコントロールと言ったとたんにその部分は免除されてしまったのです」と批判する。
「破壊的カルトに所属していたときのすべての行動は、マインド・コントロールされていたゆえに、いまのマインド・コントロールを解除された自分とは無関係である。つまりマインド・コントロールの被害者ではあっても、破壊的カルトに所属していたその間に行った加害的行為については責任がないというわけだ」

マインド・コントロールされていたからというのは言いわけにすぎないのだろうか。
そうはいっても、霊感商法や地下鉄サリン事件に関係した信者たちは、統一教会やオウム真理教と出会わなければ犯罪とは無縁の生活を送っていただろうと思う。
ここらはどう考えていいものやら。

芹沢俊介氏はさらに「宗教において被害者という視点は、少なくとも信仰状態においては当人すなわち信者には当てはまらないのではないか。「被害―加害」といった社会的な観点は信仰状態の外にいる家族や親族、さらには第三者の視点ではないか」と言っているが、これは言いすぎである。
だったら須賀川市の事件のように、結果的に死ぬかもしれない教義を説く宗教の信者となって死んだ人たちは被害者ではないことになり、事件はせいぜいが過失致死ということになる。
それとか、インチキ宗教と悪徳商法は手口が似ているのだが、次世紀ファーム研究所の事件のように、万病が治ると健康食品を売りつけるのは詐欺である。
芹沢俊介氏の考えだと、だまされたのは本人にも責任があるということになるわけで、加害者を免責することになってしまう。

ま、あれこれと考えていたら、これらの事件に宗教はどの程度影響を与えたのか、事件に関わった信者の責任をどう考えたらいいのかわからなくなってきました。

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宗教がからむ死亡事件 2

2010年03月19日 | あやしい教え・考え

真理の友教会事件では神の花嫁たちは焼身自殺している。
「自分の妹さんが「神の花嫁」になることに対してはどう思ったのか、という質問をぶつけたんです。その時返ってきたのは、「自分の妹が選んだのだから、兄としてはそれを承認していくしかない」という答えでした。僕はそれを聞いたときに、すごく感動しました」と芹沢俊介氏はすぐに感激する。
『「オウム現象」の解読』の悪口はあとのお楽しみとして、自殺したことをそんなに絶賛してもいいものか。
たとえば、寝たきりの人が介護者に殺してくれと頼み、介護者が殺すという事件がある。
同じように、神の花嫁が信者たちに「自殺は罪だから死にたくても自殺できない。殺してくれ」と頼むことだってあり得ただろう。
その場合でも芹沢俊介氏はすごく感動するのだろうか。

芹沢俊介氏の言ってることのどこがひっかかるかというと、
1,死を美化していること
2,他の人に頼んで殺してもらってもいいのか
3,自分が選んだことだったら何をしてもいいのか
4,本当に自分で死を選んだのか
ということである。

「死はちっとも大きな意味をもたない」宗教は危険だと私は思う。
そんな宗教の信者にとって死はドアを開けて隣の部屋に行くだけのことなら、自然死だろうと自殺や他殺であろうと違いはないことになる。
本人には死が大きな意味を持たず、天国での生活を選ぶために自殺することを肯定するなら、自殺はいいけど、他殺はダメだという理屈にはならないように思う。

次に、エホバの証人や手かざしなどの治療拒否事件の場合だと、死んだのは子どもだから、本人の意思ではなく親の考えによって子どもたちは死んでいる。
つまり、生か死かを本人ではなく、他者が選んでいるわけである。

となると、これらの事件とオウム真理教の事件とはどう違うのかという話になる。
親の考えで子どもの生死を決めていいのなら、オウム真理教のように、他者が本人の承諾を得ずに死んでもいい時を決め、そして命を奪うことも、突拍子もない話ではなくなってくる。

だったら、本人が自ら選んだことなら死のうとどうしようとかまわないのか。
1978年、ガイアナのジョージタウンで人民寺院集団自殺事件があった。
真理の友教会の焼身自殺とは状況その他が違っているけれども、人民寺院だって自殺である限り、本人の意思ということになる。

須賀川市で起きた殺人事件にしても、被害者は自ら望んだことであり、暴行されているという意識はなかったのではないかと思う。
藤田庄市『宗教事件の内側』によると、太鼓のバチで叩くのは「御用」といって、悪魔を追い出し、
「うちに来た人の魂を、その方の元の神に魂を戻らせる役目」のための暴行なのである。
「喋ることによって、体にいる御霊さんが主神様から許されて魂が清められる。そうするといろんなことが良くなる」
ところが、質問しても返事がなくて黙ってしまう。
黙っていたのでは魂が清められないから、太鼓のバチで叩いて魂を清めたわけである。
死刑が確定した江藤幸子は「とても幸せで本当に(神に)使われている喜び一杯で、うちにあの当時来ていた者たちを本当に救ってあげたい、神として元返りさせてやりたい、もうそれだけの一心で、本当に真剣に何としても救ってあげたいという思いで一杯で、そのほかに神様に使われるその喜びが本当にうれしくて、何とも言えない気持ちで過ごしておりました」と語っている。
殺意や悪意があったわけではない。
江藤幸子や有罪になった信者たちは相手のためにと思って暴行したわけだし、被害者(信者)たちも「御用」を受け入れていたと思う。
こうした状況だから、殺された被害者が逆に加害者として逮捕されるということもあり得た。

で思ったのが、1996年から98年にかけて北九州市で起きた監禁殺害事件である。
7人が殺された事件だが、被害者たちは逃げることもせず、主犯の松永太の命令に従って他の被害者に暴行している。
「松永は緒方の家族らを監禁した上に、互いを監視させ、殺害に加担させた。不満を持ったり逃亡を図った者は身体に電流を流すという拷問を加え、さらに衰弱させて殺害した。
家族7人が次々と殺されるのだが、松永の命令により、残った家族はその殺害行為に加担させられることで共犯という呪縛に置かれ、逃げられなくなるという異常な状況に置かれていた。殺害した者を、松永は残った家族に命じて解体させ、証拠が残らないようにした」
(篠田博之『ドキュメント死刑囚』)
虐待を受けることによって精神が呪縛され、何も考えることができない状態になってしまったのである。
共犯とされる緒方純子は一審が死刑、二審は無期懲役である。
「緒方純子は松永に脅迫され、従わなければ通電されるという恐怖の支配下で、自分の肉親の殺害に加担させられるという極限状態に置かれていた」
殺された人が仮に生き残っていたとしたら、その人も殺害に加担していたわけだから、罪を問われていたのだろうか。

さらに思ったのが、親がオウム真理教の信者になったためにオウム真理教の施設で育てられた子どもが地下鉄サリン事件の実行犯になったとしても、やはり死刑判決が下されるのだろうかということである。
どこまでが本人の責任なのか。
ここで問題になるのが精神の呪縛ということ、そしてマインド・コントロール論、洗脳論である。

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宗教がからむ死亡事件 1

2010年03月16日 | あやしい教え・考え

藤田庄市『宗教事件の内側』を読んで、真理の友教会、オウム真理教、須賀川祈祷師殺人事件、エホバの証人、治療を拒否した事件といった、宗教が関係する死亡事件について考えてみました。
といっても、いつもと同じワンパターンのことしか思いつきませんが。
藤田庄市氏によると、「宗教界の実情は、「あれ(カルト)は宗教ではない」とする思考停止が大勢という」
ことです。
だけど、違いを探して、あれはカルトだから私とは関係ないとするのではなく、共通点を見つけ、ひょっとしたら自分だって、と考えたい。
これはカルト問題に限らず、犯罪でもそうである。
他人事にしたら安心だが、それでは臭いものに蓋をするだけで、何も解明できない。

で、まず事件の説明を。
真理の友教会殉死事件
1986年、和歌山県にある真理の友教会の教祖が死んだ翌日に女性信者「神の花嫁」7人が焼身自殺した。

エホバの証人
1985年、神奈川県で小学5年の男児が交通事故に遭い、輸血を伴う手術をエホバの証人の信者である両親が拒否して男児が死亡した。

③治療拒否による死亡事件
教祖や霊能者がインスリン注射や人工透析といった治療を受けさせずに死なせてしまったり、手かざしで治そうとして死んだ事件。
1997年、加江田塾で重い腎臓病の男児(当時6歳)を父親から預かったが、祈祷のような行為をするだけで98年に死亡させた。1999年、女性塾生が未熟児で出産した男児に医療的措置を取らず、10日後に全身衰弱で死亡させた。さらに、2遺体ともミイラ化するまで塾内の別室で放置していた。
2005年、岐阜県にある真光元神社の関連施設次世紀ファーム研究所に滞在していた中学1年の女子が、糖尿病にもかかわらず治療のためのインスリン注射をせずに死亡。
生徒の母親が「研究所に行けば病気は治る」と勧められ、インスリンを持たないまま滞在、3日後に死亡したとされる。

2009年、福岡市で低体重でアトピー性皮膚炎の乳児(7ヵ月)に新健康協会の信者である両親が手かざしによる浄霊をし、病院での治療を受けさせずに死なせたetc。
この手の事件はやたらとあります。

須賀川祈祷師殺人事件
1995年、福島県須賀川市で女性祈祷師宅で、祈祷師の江藤幸子と信者たちによって6人が太鼓のバチで叩かれて死んだ。
江藤幸子は死刑が確定している。

これらの事件に共通する特徴の一つは、肉体よりも霊魂、この世での生よりも来世(天国)の命を重んじていることである。
手かざしによる病気治しにしても、魂を浄めることで病気を治そうとする。
したがって肉体や現世の生命は軽く考えられているし、死は大きな意味を持たない。(加江田塾や真光元神社は違うかもしれない)

現世よりも来世を重視し、死に意味がないという教義では、真理の友教会が典型的である。
真理の友教会について芹沢俊介氏は『「オウム現象」の解読』で、
「七人もの集団焼身自殺というショッキングな出来事のわりに、実に静謐な感動を私たちにもたらした」と好意的に書いている。(芹沢俊介氏以外に「静謐な感動」を受けた人がいるなんて信じられない)
真理の友教会では「現世は仮の住まいで、教祖をはじめ「真理の友教会」の会員たちは本来の世界である天国から神の命によってこの地上に遣わされてきた」と考えている。
教祖の死にしても、
「教祖は天国から遣わされて地上に来たけれども、地上の仕事が終わって死んで天国に戻ったということになります」
「そうすると必然的に神の花嫁たちもこの地上での役割が終わったことになって、教祖が亡くなって三、四日のうちに焼身自殺をします」
「「神の花嫁」たちの行動や「真理の友教会」の理念では、死はちっとも大きな意味をもたないのです」

このように芹沢俊介氏は説明している。
死亡した神の花嫁の一人は遺書に「只今、醜くい肉体(罪衣)を脱いで、天人の衣を頂いて、主にお供して、天上へ天上へと向かいます」
(藤田庄市『宗教事件の内側』)と書いている。
死んだ女性の兄は「神すなわち教祖さまとの約束を守ったんです。強い信念を持って、信仰に命をかけた果てなんです。みんな本望だったのでしょう」と語り、別の信者は「先生が亡くなったので、後を追ったのでしょう。救いは来世にあるのですから」と語っている。
こういう教義の宗教は珍しくないが、教祖が死んだというので信者が後追い自殺をする教団はあまりない。

真理の友教会の世界観はグノーシス的、ニューエイジ的だと芹沢俊介氏は言う。
グノーシス的世界観では、本当の世界、真実の私はこの世とは別にあるのだから、現世の生を軽んじることになる。
まあ、たしかに現世よりも天国での生命を大切にし、死に大した意味を持たないという宗教は多い。
エホバの証人もその点では同じである。
輸血拒否によって子どもが死んだ事件については芹沢俊介氏はこう書いている。
「(子どもへの輸血を拒否するエホバの証人への)説得に当たった警官が思わず口に出してしまったという「子供がこのまま死んだら、殺人罪で逮捕するぞ」という言葉は、生を一回きりのかけがえのないものとする認識がいわせたものである。
これに対し、少年の両親、ものみの塔の信者が代表するのは、死は生の終焉ではなく、永遠の生として復活するための条件である、という死生観である」

この世での限られた生と永遠の生命とのどちらを選ぶかという問題だから、エホバの証人が輸血を拒否したことを間違っているとは単純に言えない。

もっとも、エホバの証人のHPを見ると、輸血は本当に安全なのか、輸血によってエイズや肝炎に感染する可能性があるじゃないかと指摘している。
となると、エホバの証人も天国に生まれるかどうかだけを心配しているわけではないらしい。
だったら、輸血しないと死ぬ場合は輸血を認めたっていいわけで、世間に妥協しているのかとちょっとがっかり。

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また会える世界

2010年03月13日 | 仏教

悟った尼僧ならともかく、凡俗としては死別の悲しみが簡単に消えることはない。
死んだらおしまいではいやだし、かといって苦の境界に生まれることを繰り返すのもいやだ。
というので、死んだら終わりではなく、また会える世界、つまり死後の世界が求められたのではないだろうか。

浄土真宗では「死んだらおしまいではない。また会える世界があるんだ」ということをよく説くし、「極楽の蓮台で半座空けて待っている」という言い方もされる。
その根拠とされるのが「この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」など、お先に浄土で待ってますという親鸞の手紙の一節である。
西本願寺の「浄土真宗の教章(私の歩む道)」にも、浄土真宗の教義は「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する」と、死んで浄土に往生すると示されている。

「浄土真宗の教章」を読んで、れれっと思うのが還相回向のこと。
死んでから浄土往生して仏になり、そうしてこの世に還って衆生済度するとなると、たとえば目の前に苦しんでいる人がいるとして、その人に「助けてあげたいと思うが、凡夫の身では思うように助けることはできない。だから、これから念仏を称えて死んでから往生するから、私が仏になるまで待ってくれ」という話になる。
それと、死んでからとなると、還相した私(=仏)は幽霊ということか。
善いサマリア人とはちょっと違うようです。

還相回向のことはおいといて、死んでも死なないのだから死を恐れることはないし、死んでも浄土でまた会えるはずだから死別を悲しむこともないことになる。
これは天国に生まれることを信じるキリスト教徒でも同じはず。
町山智浩『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』に、ビル・マー『レリジュラス』という世界の宗教家たちをインタビューして歩くドキュメンタリーが紹介されている。
アメリカにはフリーウェイのトラック専用パーキングに立っている教会があるそうだ。
トラックを走らせるドライバーのために建てられた教会である。
ビル・マーは「天国に行けるのはキリスト教徒だけなんですか?」とニコニコと疑問をぶつける。
「決まってるだろ!」
「じゃあ、どっかの国の山奥でキリスト教なんか聞いたこともないまま育った善良な人は天国に行けないんですか?」

このビル・マーという人はポーカーフェイスで発言者の揚げ足を取っては怒らせてしまうそうだ。

一生懸命に天国の素晴らしさを説くキリスト教徒に、さらっと「そんなに天国がいいところなら、さっさと死ねば?」と突っ込む。
相手はどのように答えたのだろうか。
自殺はダメとしても、天国に早く行くために病気になっても治療を一切受けないとか、そういう人がいてもいいのではないかと思う。

ビル・マーは福音派のマーク・プライヤー議員に「あなたは聖書の記述を全部信じているんですか?」と尋ねる。
「もちろんですよ」
「じゃあハルマゲドンを信じてますか?世界の終わりが来て、キリスト教徒だけが助かるという」
「ああ、信じてますよ」
「あなたは世界は必ず破滅すると信じているのに、どうして政治家なんかやってるんですか?」

それに対してプライヤー議員は「政治家に知能指数はいらないんだよ」と口走ったというのだから、正直な議員さんです。

死後に天国に生まれると確信しているなら、死別を悲しむことは神を疑うことになるのではないかという疑問が浮かぶ。
『アラビアンナイト』に「陸のアブド・アッラーフと海のアブド・アッラーフ」という物語がある。
アブド・アッラーフが海に住む同じ名前の男と知り合いになり、海の世界を案内してもらうという話である。
物語の最後、家に帰る途中、楽しげな歌声が聞こえ、ご馳走が並べられ、みんなが食べたり、飲んだり、たいそうな宴が開いているのを見たアブド・アッラーフが「結婚式のお祝いですか」と尋ねると、お葬式だという返事。
海の世界では、誰かが死ぬと、その死者のために祝宴を開き、歌を歌い、ご馳走を食べる。
陸ではどうなのかと尋ねられたアブド・アッラーフは「手前どものほうでは、誰かが死ぬと、その死者のために悲しみ、泣き、女たちは顔を叩き、着物の胸元を引きちぎるのです。すべて死者への悲しみを表すものです」と答える。
これを聞いた海人は怒り出し、友達づきあいも友情も断ち切った、今後会うことはないと告げる。
アブド・アッラーフが「何故そのようなことを言われるのでしょうか」と聞くと、海人は「陸の方々よ。あなた方は神さまからの預かりものではないのですか」と反問する。
そして、「では神さまがその預けたものを取り返されるのがあなた方にはどうして苦痛なのですか。いや、そのためにあなた方は泣いたりなさる。ご貴殿に預言者―神の祝福と平安あれ―への供物をどうしてお預けできましょう。あなた方は子どもが生まれると喜ばれるが、いとやんごとない神さまが魂を預けたものとして吹き込まれただけのこと。その預けた魂を神さまが取り返されるのがどうしてあなた方には辛く、泣いたり、悲しんだりなさるのですか」と逆に詰問する。

海人が言うことはもっともだと思う。
「往生の素懐を遂げる」という言葉があるが、死んでいいところに行くとしたら葬式は喜びの場であるはずだ。
だけども、死んだらいいところに行けるぞとおだてて自爆テロをさせるわけで、これはこれで危ない話である。

「主婦の友」昭和19年1月号に「軍国の母を訪ねて 四児悉く陸海将兵に育て上げ三児殉国のほまれに輝く筒井松刀自」というタイトルで筒井マツという方の物語が記事になっていると、高橋哲哉氏が紹介している。(「真宗」2009年6月号)
筒井マツさんは長男が戦死した時、その場にへたり込んで日暮れまで立ち上がることができなかった。
次男が死んだ時は、「むごいことよのう。悲しいことよのう」と思った。
そして筒井マツさんは「その時分はまだ、こっちの性根も充分に定まらず、時折めそめそ考えたりしちょりましたが、しんそこから、わが子でかしたと思うたのは、二人の合祀祭りに、靖国神社へ参らせて頂いた時からでございます」と語っている。
それはどういうことかというと、子どもが靖国に祀られ、天皇が大祭に参拝したのを見て、「子供は永久に生きているのじゃと、晴れ晴れしてしもうたのでございます」と筒井マツさんは語る。
死の悲しみをこうして乗り越えたのである。
高橋哲哉氏はこれを「感情の錬金術」と言っている。
自爆テロの理屈に通じる。
どういう死であろうと、死を美化するのはまずいと思う。

死んだらどうなるかということだが、真宗光明団周南支部「あゆみ」にこんなことを書いている人がいた。
ある僧侶が法話で「浄土真宗の教章(私の歩む道)」について話をし、そして「死んだらおしまいではないのです。浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化するのです」と語ったのを聞いたその人は、「私はびっくりして死後の事はあまり考えておりませんでしたので」と感想を述べている。
なるほど、これだな、と思った。

全然関係ないけど、ドラゴンクエスト7だが、CD1をやっと終えてCD2へ。
まだまだ先は長い。
死ねません。

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尼僧とオウム真理教信者の輪廻観

2010年03月10日 | 仏教

死んだらどうなるかというと、生まれ変わるか死後の世界(天国か浄土)に生まれるか。
まずは生まれ変わり(輪廻)から。

『尼僧の告白』には、過去世を知っていると言う尼僧が何人か出てくる。
イシダーシー尼は過去七生を語っている。
金工(かざりや)だったが他人の妻と親しくなった。
死後、地獄で煮られ、その次に猿、山羊、牛として生まれ、いずれも去勢されたのだが、それは他人の妻を犯した報いだった。
そして婢女(はしため)の家に生まれ、それから車夫の娘、そうしてイシダーシーとして生まれた、と語る。

ほんまかいなという告白だが、これは六神通の宿明通、過去世を知るということですね。
仏教の考えでは輪廻することが苦、つまり生存することは苦しみなんだということがわかる。
これをどう考えるかだが、輪廻というたとえによって、生や自分の身体を厭う気持ちを表しているのだろうと思う。
もしもイシダーシー尼が実際に浮気をした報いとして猿や山羊として生まれ変わったとするなら、オウム真理教のポアの論理を否定できない。

オウム真理教の信者である新実智光は一審でポアについてこう説明している。
「オウム真理教によって殺された人々、つまり被害の原因は彼らのカルマのためであり、いずれは死ぬ目にあったというのである。そして輪廻転生のなかで今生以上の何百倍、何千倍の苦しみを受けねばならない。だから、そこを麻原をはじめ新実たちによって殺されることで、被害者の魂を(自分らに)縁ができて来世で解脱、悟りへ導ければすばらしいと思う」
(藤田庄市『宗教事件の裏側』)

オウム真理教でのポアの正当性は次のように理屈づけられると思う。
1,悪いことをすれば地獄に堕ちて苦しまなければならないが、悪いことをする前に死ねば悪業を作らずにすむ。
2,来世を見通す力(天眼通)を持つ者はある人が悪業を作って地獄に堕ちるかどうかがわかる。
3,悪業を作って地獄に堕ちることがわかっているのなら、悪業を作る前に殺せば地獄に堕ちることはない。
4,しかも、自分の作った功徳の利益を自分が受けずに被害者に振り向けることによって、被害者が本来生まれるはずの世界よりも高い世界に生まれさせることができる。
5,しかし、殺した人は死んだ人の代わりに悪業を作ることになる。

悪業を作れば悪道に堕ちるということ、輪廻することは苦だということはその通り。
天眼通によって過去現在未来を見通すことができるならば、どういう業を作るか、来世でどこに生まれるかもわかるはず。
そして、悪道に堕ちることを前もって防ぎ、その代わりに悪業を引き受けるポアは「大いなる菩薩の所業と言える」と言う新実智光の主張にも一理はある。
この理屈をいかに否定するか仏教徒に問われていると思う。

で、大阪教区教化センターのリーフレットに『歎異抄』の「一切有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり」という言葉から、輪廻についてこういうことを書いている人がいた。
この人は孫が生まれて次のように思ったという。
「どのような過去の縁を背負って生まれて来たかは興味のあるところです。(略)地球上の生物が出現して三〇数億年ともいいます。その途方もない過去「世」に、自分は何回となく生まれ変わり死に変わりし、その間、さまざまな生き物の「生」を受けてきた、と考えるのは荒唐無稽と思えません」
この方は輪廻ということをなんだか楽しいことのように考えているように感じる。
これではポアの論理を否定できないのではないかと思う。

どちらにしても、輪廻が実体としてあるならば、死んだ人は六道のどこかで苦しんでいることになる。
尼僧たちは悟りを得たからといって、死んだ子どもがどうなっているか気にならないのだろうか。

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子どもを亡くした尼僧たち

2010年03月07日 | 仏教

水野信元『釈尊の生涯』に、釈尊が亡くなった時「周囲の比丘たちは、ある者は大いに嘆き悲しみ、十分にさとっている者は、これが世の中の定めであると思って悲しみにたえていたが、アルヌッダは、悲泣する比丘たちに、世尊の平素の教えとして、諸行の無常である旨を改めて説き示した」、そして「すでにさとりを開いた者は、これが世のならいであるとてたえ忍んだが、未熟な人たちは、嘆き悲しみ胸を打って慟哭した」とある。
この本を読んだのは大学の時で、さとったら親しい人が死んでも悲しいとは思わないのかと思ったものです。

『尼僧の告白』に、子供を亡くしたヴァーシッティー尼が出家した経緯が語られている。
「子の(死)を悲しんで悩まされ、心が散乱し、想いが乱れ、裸で、髪をふり乱して、わたしは、あちこちにさまよいました。
四つ辻や、塵埃捨場や、死骸の棄て場所や大道を、三年のあいだ、わたしは飢えと渇きに悩まされながら、さまよいました。
たまたま、わたしは、幸せな人(ブッダ)が、ミティラー市に来られたのを見ました。その方は、調練されていない者を調練する人、正しく覚った人、なにものをも恐れない人でありました。
わたしは、もとどおりの心を取り戻し、敬礼して、座につきました。かのゴータマ[・ブッダ]は、悲しみを垂れて、わたしに真理の教えを説かれました。
その[ブッダ]の説かれる真理の教えを聞いて、わたしは出家して、家の無い状態に入りました。師(ブッダ)のことばにいそしみましたので、こよなくめでたい境地を現にさとりました。
あらゆる悲しみは、すべて断たれ、捨てられ、ここで終わったのです。もろもろの悲しみの起るもとである根底を、わたしは、知りつくして、捨て去ったからです」

これほど子供の死を悲嘆したヴァーシッティーに「あらゆる悲しみが終わった」と言わせる教えとはどういうものか気になるが、ジーヴァーという娘を亡くして悲しんでいたウッビリー(コーサラ王の妃)に釈尊はこう説いている。
「母よ。そなたは、「ジーヴァーよ!」といって、林の中で泣き叫ぶ。ウッビリーよ。そなた自身を知れ。すべて同じジーヴァーという名の八万四千人の娘が、この火葬場で荼毘に付せられたが、それらのうちのだれを、そなたは悼むのか?」
するとウッビリーは「ああ、あなたは、わが胸にささっている見難い矢を抜いてくださいました。あなたは、悲しみに打ちひしがれているわたしのために、娘の[死の]悲しみを除いてくださいました」と答える。
短い偈だからということもあるだろうが、実にあっさりしたものである。
自分の娘以外にも多くの人が死んでいるだと聞かされたぐらいのことで、それで簡単に死別の悲しみが消えるものかと思う。
キサゴータミの子どもが死んだが、誰も死んでいない家の芥子粒を求め、そしてどの家でも誰かが亡くなっていることを知って心が落ち着いたという話にしても同じ。
頭ではわかっていても、悲しくつらい気持ちがなくなるわけではないのが普通だ。

あるいは、七人の子をすべて亡くしたヴァーセッティー尼にスジャータという女性が「以前そなたは、死んだ子どもを食べさせつつ(子を亡くして)、昼も夜も、ひどく苦しみ悩んでいた。ところが、いま、何故、ひどく苦しみ悩まないのか?」と尋ねる。
すると、ヴァーセッティー尼は「生と死からのがれる出離の道のあることを知って、[いまでは]悲しまず、泣きません。また苦しみ悩むこともありません」と語り、「かの尊敬さるべき人(ブッダ)の〈生存の素因を滅ぼす教え〉を聞いて、その場で、正しい教えを理解し、子どもにたいする悲しみを除きました」と答える。
真理の教えとはどういうものかというと、
「すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(静止)におもむく八つの実践法よりなる尊い道(八正道)とである」、つまり四諦と八正道である。
そうしてスジャータは、
「その場で、正しい教えを理解して、出家することを喜んだ。かれは三夜を過ぎてのちに、三種の明知を体得した」
尼僧たちは子どもをなくした悲しみを教えによって簡単に克服し、あっという間にさとっているのである。

今でも麻原彰晃をグルとして崇拝している新実智光が裁判でこんなことを言ったそうだ。
検事が新実智光に、坂本弁護士の妻の父大山友之さんの「せめてこの世に生まれたのだから、人の心を持ってほしい。早く人間を取り戻してほしい」という言葉を引用して尋問したら、新実智光は「だから苦しむんだと。人間の生存には葛藤、渇愛が生じる。(そうした)欲求が苦しみにさいなまれる原因だということを理解さえしていない。何が苦の原因か悟ってほしい」と言った。
裁判長が新実の言葉が被害者や遺族をいかに傷つけるかわかるかと問うと、新実は「傷つくなら、傷つかない本当の心を求めてほしい。(遺族が)人間の心を持てと言って苦しむのなら、(その)心が苦しみの因とわかる」と答えている。(藤田庄市『宗教事件の裏側』)

新実智光の発言と尼僧の告白とを比べたら怒られるだろうが、あっさり割り切っているところが似ていると思う。
盗人にも三分の理というが、愛別離苦が生じるのは執着のためだということ、あながち間違いだとは言えない。(だからといって人を殺していいということにはならないのはもちろんである)
苦しみや悩みがなくなることが解脱だとしたら、何も感じなくなることが悟りということになりかねない。
釈尊には人間味のあるエピソードが多く残されている。
おそらく尼僧たちの気持ちにしても、「悲しまず、泣きません」といった、そんな単純なものじゃないと思う。
尼僧たちのそこらの細かな心の揺れを知りたいものです。

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なぜ自己評価が低いのか

2010年03月04日 | 

『「生きづらさ」について』の中で、雨宮処凜氏が「私はずっと他人からの評価でしか自分の価値を確立できないと思っていて、いまもそういうところがあるんですが、そういった他者からの承認とか評価なしで、自分の価値を証明できる回路というのはあるんでしょうかね?」と尋ねたのに答えて、萱野稔人氏は「やっぱり、人から認められることが、自分の存在価値を証明する一番の回路だと思いますよ。もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者からの承認を求めてしまうんですよ」と語っている。
「ひとは自分ひとりではなかなか自分の存在価値を確立できないものです。まわりから認められたり、受け入れられたり、自分のいっていることをちゃんと聞いてもらったりして、はじめて自分の存在を支えることができる」

自分を肯定できるようになるには、まずは他人から肯定されることが必要で、他人から肯定されることがない人は自分を肯定できないというわけである。
速水敏彦氏も真の肯定感を持てない理由として、
「人の自信というのはつまるところ、親しい人間関係にある周りの人たちから、承認され賞賛される経験を通して形成されることが多いからである。しかるに、そのような親密な周りの人たちが少ない社会では、個人の自信も形成されがたいのである」と、他人から肯定されることの重要さを指摘する。
そうか、やっぱり人との関係が重要ということですね。

認めてくれる他者とはまずは親である。
ところが、
「日本の親たちは、伝統的に褒めるのが苦手で、欠点ばかり指摘する傾向がある」と速水敏彦氏は言い、岡田尊司氏も「その背景には養育や親子関係の問題があることが多い」「親が自分の願望にこだわるあまり、ありのままの子どもを受け止められない」と、親子の関係に問題があると言う。
そして、学校や社会で認められるかどうか。
『「生きづらさ」について』によると、ネットカフェ難民の若者は、両親が離婚してたり、虐待を受けたり、学校でいじめられたという人が多いそうだ。
人との関係の中で自己評価は高くなれば、低くもなるということだろうと思う。

とはいっても、持って生まれた性格もあるんじゃなかろうか。
気が小さいとか、すぐに落ち込むとか、ちょっとしたことで傷つくとか、人づきあいが苦手だとか、自意識が強いとか、そういう性格だと自己評価は低くなりがちだと思う。
そんな人はだからこそ余計に、人から認められたい、ほめられたいという気持ちを持つのかもしれない。

参加者はほぼ全員が自殺志願者という自殺イベントをやったことがあり、お客さんの一割はその後亡くなった、と雨宮処凜氏が話している。
「注目されたいのか反応がほしいのか、どんどんエスカレートしてしまうんですよ。エスカレートすればするほどみんなに心配してもらえるので」
萱野稔人「注目されたいからオーバードーズしたり、リストカットの跡を見せたりして、どんどんエスカレートしていく。で、最後にはみんなの期待を背負って実際に自殺しないといけないところまでいってしまう。けっこうみんな「注目されたい」とか「認められたい」という願望が強いんですね」
認められることによって逆に追い込まれてしまうこともあるわけだ。
今さら期待を裏切ることはできなくて無理をするというのはあります。

傷つきやすい。
傷つきたくないから鎧をまとっていつも警戒している。
だから、他人との日常でのコミュニケーションができない。
雨宮処凜「いまの高校生や大学生としゃべっていて、当時の自分と共通しているなと思うのは、核心に触れないような話しかしないところです。それもできるだけ楽しい話しかしない。(略)自分はこんなにきついとか、生きづらいとか、死にたいとか、ぜったいにいえないような雰囲気が、その場にはあるんです。そういうことをいったとたんに、空気が読めないと排除されるんじゃないかと、おびえてしまう」
同じ話題を共有できる場、たとえばネットならわかりあえる。
しかし、バーチャルだから下手をすると泥沼にはまる。
雨宮処凛「いまは友達とそういう話ができなくても、インターネットで代用できますよね。だからそこに過剰にはまっていくと思うんです。(略)そうなるとネット上に感情の掃き溜めをもてるので、リアル友達とはますます空虚な話しかしなくなっていきますよね」
現実の人間関係の中で回復していくことが大切となる。

そのために必要なものは何か。
雨宮処凜氏は「生きづらさ」が広がっているのは連帯できないからだと言う。
「連帯というか、人を信じる、信頼する、ということができない、といいかえてもいいと思います」
人とのつながり、関わり、そして居場所が必要。
萱野稔人氏は共同体とコミュニケーション重視型社会とがあると言う。
共同体とは「無条件に認めてくれる居場所」を所属によって与えてくれるもの。
これと対極にあるのがコミュニケーション重視型の社会で、「そこでは、流動化した人間関係のなかでそのつど他人から認められるよう努力しなくてはいけない」
どちらも一長一短である。
「居場所があるからこそ、いまのコミュニケーション重視型の社会で失敗を恐れずにやっていこうという気にもなるわけです」
宮城先生は天人五衰の中の不楽本居について、
「私の居場所がない、自分の居るところが楽しめない」ということだと説明している。
「結構ずくめであっても、私がここにいるということが何も意味をもたなくなったら生きていけなくなる」

自助グループのよさは、居場所がある、仲間がいる、話を聞いてもらえる、受け入れてもらっているという安心感がある、といったことだ。
だから、ミーティングに参加すれば、依存対象物で自分の中の空っぽさを埋める必要がなくなってくるんだと思う。
もちろん、自助グループが万能だというわけではない。
とかくこの世は生きづらい。

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