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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『ひっつきもっつき』

2018年05月29日 | 日記

娘が幼稚園の参観に行き、孫(娘の娘)と「ひっつきもっつき」をしたと、歌と身ぶり付き話してくれました。



(「ひっつきもっつき」は1分55秒から)

どんな歌なんじゃろうと思ってネットで調べると、まず「ひっつきもっつき」は方言だと出てきます。
さらに調べると、岡山、広島、山口、福岡で使われているようです。(山口、福岡はちょっと違う言い方もある)
いやはや、方言だとは知らなんだ。

オナモミのように服などにひっつく植物の名前が「ひっつきもっつき」で、それが転じて、子供が親にひっついて離れなかったり、仲が良くていつも一緒にいる人たちのことを「あんたら、ひっつきもっつきじゃねえ」と言います。
私は後者の意味しか知りませんでした。

「ひっつきもっつき」を作詞したケロポンズの平田明子さん(左の人)は広島育ち。
平田明子さんは「ひっつきもっつき」が広島弁だとは知らなかったのではないでしょうか。
これで「ひっつきもっつき」という言葉が全国で使われるようになればちょっとうれしい。

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夜這いの不思議

2018年05月21日 | 日記

江馬修『山の民』は、明治2年、高山で起きた「梅村騒動」と呼ばれる農民一揆を描いた小説(1938~1950年)です。
江馬修は小説を書くにあたり、古老に聞き取りをするのですが、夜這いについても聞き、小説の中に取り入れています。

飛騨の村々では、この時代にはまだ、よばいの習俗が若い独身者の特権のように思われていた。いわば結婚前に於ける青年男女はその性的自由を一般に公認されていたのである。そしてやや誇張して云えば、の若連中は、おなじ内の未婚の娘たちを、いわば共同的に管理していた。彼らは毎夜のように、気のむくままに、各自が好きな女のもとへかよっていたし、頬かぶり小屋はまたおのずとそうしたばあいの本拠地ともなっていた。(略)
いったい農家ではどこでも戸締りというものがなく、夜間の出入りはまったく自由だったし、物を盗まないかぎり、よばいどに対してあとから故障や苦情が出ることもなかった。しかし、どうかすると、家によっては頑固なおやじや年寄がいて、けっして若いものを寄せつけぬ所があった。そういう家のものは、当然若連中の憎しみの的となって、いろいろな仕方で制裁や復讐をうけることになる。(略)
もし拒否するものが親たちでなく、娘自身であるばあいには、彼女は若連中から一せいにハチブのあつかいをうける。だから彼女はおぼこ(処女)として嫁入りができるわけではあるが、「村の若い衆から誰にも相手にされなかった」という不名誉を甘受しなければならぬというわけだった。


赤松啓介氏(1909~2000)は夜這いの実体験と見聞を『夜這いの民俗学』などに書いています。

昔の夜這いでは、年上の娘、嬶、後家などがそのアジワイを若衆に教育し、壮年の男たちは水揚げした娘たちを訓練したのである。(略)
僕などの経験した結果からいえば遊郭や売春業者たちから手ほどきされるより、はるかに懇篤、かつ貴重な訓練であったというほかはない。

若衆入りは13歳か15歳、夜這いは若衆入りと同時にはじまる。
若衆入りの際の相手はどこでも後家さんが主体で、後家さんが足りないと40歳以上の嬶が相手をしてくれることになる。
娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
年長者による性教育というわけで、獅子文六『てんやわんや』に出てくる夜這いはこれですね。

当時、小作農の家は、だいたいが四間程度で、娘は奥に寝かされていた。
親も自分たちが夜這いしてきたから、娘のところに夜這いが来るのは当たり前と思っている。
娘の気に入っている男には、昼間、娘から誘うこともあったが、気に入らない男の足音がすると、戸を閉めてしまう。

やり方、相手などは字(あざ)ごとに多様である。
ムラの女なら誰に夜這いしてもいいところもあるし、未婚の娘と後家、女中だけを開放しているムラもある。
よそのムラの者はだめだとか、よその若衆なら嫁は許されないが、後家や娘はかまわないとか、字(あざ)ごとにならわしが違う。

戦前まで、一部では戦後しばらくまで夜這いは一般的に行われており、昭和30年代には神戸市の北部でまだ残っていたそうです。
赤松啓介氏は10歳で近所のオバハンとコタツで性交、11歳で射精。
「もう十一、十二になったら性交をやらせる教育しないとほんま子供がかわいそうだ」と過激なことを言っています。

ところが、山下惣一『一寸の村にも、五分の意地。』を読むと、そんな簡単なものではない。
山下惣一氏は1936年生まれ、中学を卒業してすぐに農業をついでいるので、昭和20年代のことでしょう。
先輩が娘の家に忍びこみ、一定時間がすぎると、かならず親父さんに追われて脱兎のごとく飛び出してきた。
一度だけ、侵入に同行した。

抜き足、さし足で娘のところに近づいて、すすけた天井にぶら下がっている二燭光の薄ぼんやりした光の中で目をこらしてみると、蚊帳の中で父親と母親の間にはさまれて、川の字になって眠っているのが当の娘なのだから、なにかができるわけがない。個室なんて夢のまた夢の時代なのである。
先輩は、じつに辛抱強く、父親のいびきや母親の寝息の変化に息を止め、動きを止めて長い時間をかけて目的地へ近づいていった。(略)
ところがいけない。娘さんのズロースを少しずつおろしはじめて、やっと股間の繁みがのぞけるほどになった時、なぜか、父親が大きなくしゃみをした。(略)その時、父親は一瞬目ざめたらしく「ん?」というようにつぶやいて頭をもたげた。
先輩は娘さんの足元の布団にはりついて息を殺していたが、何を思ったのか、あるいは思わずやったのか、「ニャーオ」と猫の鳴きまねをした。じつにうまくやった。
「なんだ、猫か」と父親がつぶやくのに、馬鹿な先輩は「はい」と返事してしまって、追われた。

なるほど、親と一緒に寝ているのに、娘の布団に入るのはたしかに難しい。

その時からぼくは、この労多くして実益の少ない夜這いなるものに幻滅した。先輩たちから伝わってくる話はかなり脚色されたものだと考えるようになった。
だから、ぼくらの世代になると、夜這いはすたれた。もっと効率のよい方法を考え出したのである。公民館でフォークダンスをはじめたのだ。娘たちは、夜の外出を許さない親の反対を押しきって、一人残らず集まってきた。
ダンスをやりながら「どう、今夜」と個別に交渉した方がはるかに効率的だし確率は高い。


今東光『好色夜話』にはこんな説明があります。

昔から夜這いというのは、まった見ず知らずの女の許へは容易に這い込めないものと言われている。中にはそういう勇敢な奴が冒険心に駆り立てられて決行するのもないではないが、それには幾多の難関を越えなければならなかったのだ。先ず吠え立てる犬を手なずけ、雨戸をはずすという、まるで泥棒みたいな方法を取らなければならない。そして漸く辿りついた女は見知らぬ男を痴漢と心得て声を立てたり騒ぎ立てる。それを鎮めるには一方ならぬ手段を要するのだ。しかもおおむね失敗に終るのだ。まして家人に気づかれたが最後、下手にまごつくと大怪我をしなければならない。殴られるくらいは覚悟の前で、袋叩きにあって戸板でかつがれて戻ることさえあるのだ。こんな器量の悪い話があるだろうか。
そこで大方の夜這いというのはあらかじめ女と示し合せ、門の鍵をはずし、雨戸も開き易くしておいてもらうので、うまうまと成功するのだ。女の手引きなくして成功することは困難なのである。

夜這いは簡単にできるものかどうか、赤松啓介説と今東光説、どちらが真実なのでしょうか。

ずっと以前、明治か大正生まれの人に「夜這いをしたことがありますか」と聞こうと思ったことがありますが、その勇気がありませんでした。
今から思うと聞けばよかった。

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平安時代から明治時代までの結婚(3)

2018年05月13日 | 日記

・独身
結婚と同棲はどう違うか、通い婚と夜這いは同じか、これは結婚という制度があるかないかということではないかと思います。

平安時代の摂関期や院政期には、正式な結婚をしなかった、あるいは、できなかった男女が多い。
貴族層の女性は、父母から家屋や財産を相続したから、結婚しなくても生活でき、兄弟の援助を受けられたため、一生独身で暮らした貴族女性は結構いた。
女房勤めをする女性たちも、正式な結婚をしない人が多かった。
独身といっても、まったく男性と交渉がなかったわけではなく、男を通わせたこともあっただろうが、社会的に公認された妻ではない。

京都の庶民層の男女や、地方の在地領主の従者や下人層には、結婚して家庭を持つことができなかった人々が多くいたにちがいない。

江戸時代、結婚しない男は、武士、商人、職人を問わず、非常に多く、結婚しなくても普通くらいだった。
13歳くらいで中小店に丁稚で入り、独立するまで十数年以上かかる。
棒手振り(物売り)ではその日暮らしだから、妻帯は難しい。
商家の奉公人は大店で40歳を過ぎ、中小店だと39歳過ぎて結婚したが、大店のほとんどは京都に本店があり、結婚が許されても、妻は出身地に居住していて、夫が妻に会えるのは数年に1度くらいだった。

独身者の受け皿として妾や遊郭が多かった。
妾にも、二月縛りで金5両から2両くらいまであった。
江戸後期になると、下級武士や小商人までもが妾を囲うようになった。
数人の男が金を出しあって1人の女を共通の妾とすることもあった。

・離婚と再婚
男が女のところに通ったり、一緒に住むことが結婚したことになるかどうか、その時代や階層によって違ってくると思いますが、離婚ということは結婚という制度があってのことなのでしょう。

中世においては、婚姻に婚姻届が必要とされず、離婚も届けを出す慣行も規則もなかった。
戦国期には、「離縁状(去状)」の有無によって、たしかに離婚しているかどうかの判定が戦国大名によってなされる。

鎌倉期・戦国期は武士、百姓どちらの階級においても、離婚権は夫側にあった。
妻側から離婚しようとすれば、妻が家を出て、その後、夫側の承認が必要だった。

離婚、死別による再婚、再々婚は一般的だった。
曾我兄弟の母親は3度結婚している。
毛利興元(元就の兄)の娘は4人の夫をもっていた。
フロイス「ヨーロッパでは、罪悪については別としても、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる」

江戸時代も離婚・再婚は多く、武士の離婚率は11.23%、再婚率(夫死亡後、離婚後、婚約破棄後、婚約者死亡後を含む)も58.65%。
男は45歳以前、女は30歳以前に離・死別した場合、8割以上が再婚した。

武家の場合、男子を産んだ女は、夫が若死にしても再婚することはほとんどなかったが、子供が女子だけの場合は、身を引いて再婚するのが一般的。
農村では、女性の多くは実家に戻ったまま再婚しないのがほとんどで、男の再婚率のほうが高い。
また、女性は36歳を過ぎれば再婚はしないが、男は40歳以上でも再婚する場合があった。

結婚の妻に多額の持参金を払い、多くの道具、衣裳を持ってきた。
離婚に際して、夫は持参金を妻に戻し、妻が持ってきた道具や衣裳などは持ち帰ることになった。
慰謝料の支払いや持参金の返還では男女平等だった。

大名の結婚にあって、持参金等の経済的負担を軽減するために、娘は自分の家より若干低い家格の家と縁組する傾向があり、再婚となるとさらに低い家が選ばれる。
妻の多くは夫の家格より高い実家を後ろ盾にして家庭内で夫に優位を保っていた。

江戸時代は男尊女卑の時代といわれているが、庶民の女性は生き生きとしており、夫が勝手気ままに妻を離婚していたわけではない。
他に女ができ、その女と結婚するために妻を離婚することは認められなかった。

妻から離婚したい場合は駆け込み寺があった。
3年間、寺に入る場合は、生活費として5、6両を払った。
夫がすぐに離婚を承知しても、関係者への謝礼金が必要だった。

離婚を請求した者が慰謝料を支払った。
数十両から100両を持っている女性でないと、妻からの離婚請求はできなかった。

庶民、特に農民の妻は重要な働き手であり、糸繰りや機織りによる現金収入によって生活を支える技術と能力を持っていた。
夫からの離婚状の受け取りを拒否する女房や、嫌いな夫のもとを飛び出す女房もいた。

高木侃『三くだり半と縁切り寺』によれば、男尊女卑の傾向は明治中期以降に強められ、作り出されたものだそうです。
「女房と畳は新しいがよい」ということわざは、江戸時代にはあまり口にされず、男尊女卑が強制された明治中期以降に男性にもてはやされた。
「女の一人や二人は男の甲斐性」といった言葉も、明治以降に人口に膾炙されたものである。

昔からの伝統だと言いますが、明治中期以降からの伝統が多いのではないかと思います。

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平安時代と明治時代の結婚(2)

2018年05月08日 | 日記

・家の成立
学者によって違いがありますが、家という概念が芽生えるのは10世紀前後か、10世紀以降のようです。
まず中央貴族や地方豪族層から、官職を父から息子へ伝えることが大きな理由となって生まれた。

11世紀(摂関期)になると、父系の家柄や家格が決まってきて、母方の血縁はたいして問題にならなくなる。
女性の出自が問題にならなくなることは、女性の社会的地位の低下の結果である。
そして、父子継承は11世紀末(院政期)に成立した。

家がどの階層にも浸透したのは院政期(11世紀)という説と、武士層の代々継承される家の形成は鎌倉期からであり、庶民層の家意識はそれよりもう少し後のことだという説があります。

もっとも、それは身分、階層がある程度上の話だと思います。
鎌倉時代、領主の家の下人が他の領主の下人の子供を産んだ場合、生まれた子供が男なら父に、女なら母につける。
そして、下人の家庭生活がどちらの領主の屋敷で営まれていたか、子供はどちらの家で養育されていたかが基準となる。
主人が必要となれば、下人の妻が妊娠中であっても、夫の下人は売却された。
産まれた子供の帰属が本主と買主との間で相論の対象とされ、産まれた子供が父に付すとされることもあった。
家といっても、下人の場合はあってないようなわけです。

家が成立すると、家政全般の切り盛りが女性の役割となり、同居する妻がこの役割をはたす。
応仁の乱後、妻の役割の一つが祖先祭祀で、家の祖先の追善仏事が自邸で行われるようになり、妻が自邸の祭祀空間に僧を招き、堂荘厳、斎食の手配をした。
正忌・月忌は父母を中心に、祖父母、曾祖父まで行われた。

・婿取婚と嫁入婚
男が女のもとに嫁す婿取婚が、女が男に嫁す嫁取婚へと次第に変わっていきます。
「嫁入り」は本来、婚姻の後、妻が婿の家に初めてはいることを指し、その意義も、夫の家に対する挨拶以上のものではなく、二人の新居または妻の家に帰ってきた。
したがって、夫婦生活の基礎がまだ夫の家になかった。

ところが、婚姻後、夫の家の仕事を手伝ったりすることが重なるにつれて、嫁はしだいに夫の家の一員と見なされるようになる。
その後、夫婦は夫の家に移り、嫁が夫の母親にかわってその家の家政をとりしきることになる。

夫の家に夫婦ともに同居する習俗が進むと、短期間のうちに夫家に移り住み、やがては嫁が直接、夫家に入るかたちに変化する方向に向かう。
こうして次第に「嫁取婚」へと移行する。
嫁取婚が始まるのは、高群逸枝は室町期、田端泰子氏は鎌倉期から始まったとします。

もっとも、娘が他家へ嫁ぐということは、労働力が移ることを意味したから、江戸時代でも、働き手として重要な存在である娘をすぐに嫁がせるわけではなく、子供が産まれるまで、里方から通わせる形をとったところも多い。

中世のはじめ(平安末期?)には、夫婦別居、母子同居が普通だった。
夫婦は別姓だったが、居住形態が母子同居であっても、子供のうち、女子は母方の、男子は父方の姓を名乗った。
母子同居から夫婦同居へと変化するのは、鎌倉期に入ってからのこと。
鎌倉中期以降、武士階級では嫁取婚が普及しはじめた。

結婚儀式は10世紀ころから娘に婿を取る形態で行われるが、一夫多妻であり、どの妻とも儀式を挙げることが多かった。
11世紀中ごろまでは、結婚当初は夫が婿入りをして妻の両親と同居するが、一定期間たつと、妻の両親が未婚の子供たちを連れて別の邸宅に移住したり、子供の夫婦が別の邸宅に移住する。

貴族層の家が12世紀前半(院政期)に成立すると、婚姻形態は婿取婚であり、一夫多妻であるが、夫と同居した妻が正妻とされる。
妻の両親とは同居しなくなり、結婚当初から子供の夫婦だけの居住となるが、夫の両親と同じ屋敷内に同居することは一般的ではない。

貴族の家では、鎌倉期までは夫方居住婚になっても、息子夫婦が夫の両親と同一屋敷に居住することは一般的になかったが、徐々に婿取婚から嫁取婚の傾向を持ちはじめる。

南北朝期になると、居住形態に変化があらわれ、父夫婦と息子たち夫婦が同一屋敷にそれぞれ別棟で居住するようになる。
息子たちの婚姻形態は嫁取婚である。
兄弟が同一屋敷に居住し、息子たちはそれぞれの住居に妻を迎え、それぞれに膳所があるので食事部分は独立している。
妻が死去すると再婚し、その時々で一夫一妻となっている。

室町期になると、嫡子夫婦だけが父と同一屋敷に別棟居住し、他の息子夫婦は父の屋敷の隣接地に居住するようになる。
つまり、嫡子以外の息子は、結婚すると父の屋敷から出る。

戦国期は、公家は嫡子一人を残して男子は僧侶になるか、他家の養子となり、一子相続が主流になる。
嫡子が妻を迎えるときには嫁娶の儀式を行うようになる。

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平安時代から明治時代までの結婚(1)

2018年05月04日 | 日記

平安時代と明治時代の結婚に関する本を読むと、早婚である、離婚が多い、仲人の存在など、共通する点がけっこうあります。
明治中期まで、結婚や性的倫理は平安時代の考えが続いていたかもしれないと思って、中世と近世の結婚についても本を斜め読みしました。
続いていると思われることもあれば、家の成立と婿取婚から嫁取婚へといった変化もあります。

中世とは、鎌倉室町時代だと思ってましたが、田端泰子氏によると、鳥羽院政期から戦国期の終わりまでで、院政期から鎌倉後期までを中世前期、それ以降が中世後期だそうです。

・早婚
「養老令」では、男は15歳、女は13歳以上になれば結婚でき、平安時代には13~17歳の年齢でたいていの女性が性的体験を1回、ないし持続的にもっており、処女性は重んじられなかった。
江戸時代の女の適齢期は16~18歳。
東北地方は平均初婚年齢がきわだって低く、明治15年に岩手県では、夫17.07歳、妻14.09歳。
全国平均が夫22歳10月、妻19歳4月で、現在と比べると全国的に早婚だった。
東京下町の商家でも、娘盛りは14歳から17歳までとみなされた。

赤松啓介氏によると、少年が若衆入りして夜這いをするのは13歳か15歳、娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
赤松啓介氏は1909年生まれですから、大正から昭和にかけてのことでしょう。

湯沢雍彦氏は、明治では離婚・再婚が多かった理由の一つとして、処女性が求められなかったということがあるからだと書いています。
フロイス(1532~1597)「日本の女性は、処女の純潔をなんら重んじない。それらを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない」

女性でも離婚再婚を繰り返すことが多く、一人の夫と生涯をともにすることが女性にとって幸福だとか、道徳的であるとかの倫理が確立していない、女性にとって性的には後世より自由であり、貞操観念が未成立だったこともあると、服藤早苗氏は書いてます。
しかし、後世でも性的に自由であり、貞操観念もあまりなかったようです。

・身分内婚
平安時代の結婚は、基本的に身分内婚で、庶民は共稼ぎだった。
相手をどうやって見つけていたかというと、恋と結婚の区別は上層貴族以外はそれほどなかったと思われ、お互いに気に入って通っているうちに、夫が住みつくようになった場合も多かった。

鎌倉、室町時代は、婚姻は家の問題で、血縁関係と姻戚関係が重要な結束の紐帯だと考えられ、幕府が介入したり、大名が介入したりした事例はごく少数だった。

政略結婚が戦国時代から顕著になり、家臣掌握の手段として家臣の婚姻を規制した。
家の存続にプラスとなるかどうかを検討し、慎重に相手選びをしていた。

近世の農村女性の結婚は中世から引き続き、家と家の結びつきを主な目的にし、後継者づくりを結婚に期待した。
武士の結婚と違って、幕府や領主の許可は必要でなかったが、領主の異なる村や町の間の農民の結婚の場合は、相手の領主や村名主に届け出ることが必要だった。

上層農女性の場合、正式な結婚は仲人が必要であり、親族による縁談相手の家格や経済力、その他の調査をし、本人はその決定に従った。

農村では同じ村で顔なじみなので、自由な恋愛がしやすかった。
婚姻は家が同格なのが基本だが、家格が合わないと反対されたとき、若者組が嫁盗みをして応援した。
夜這いを重ねていたからこそではないでしょうか。

江戸時代、武家の結婚は命令で、商家は親が決めた。
長屋に住む庶民はまわりから勧められる。
明治の東京の下層階級では、婚約や仲人はなしで同居するという結婚は、昭和30年代の高度経済成長期直前まで続いていた。
下に行くほど自分の意思が通りやすくなるわけです。

・仲人
平安時代には男女がどこで知り合ったかというと、貴族から庶民まで、祭や寺社・辻が男女の出会いの場だったと、服藤早苗氏は言います。

森下みさ子氏によると、江戸時代の見合いは、水茶屋で男が座ってお茶を飲んでいるところに女が通りかかるという形で、見初めるが見合い。

男女を結びつける媒(なかだち)・仲人という役割が平安時代に生まれてくる。
村落内のように、日ごろから当人同士が知り合っている場合は、見合いは必要ない。

農村でも婚姻圏の拡大にともない遠方婚が起こった。
その理由のひとつに、政治的な意図から婚姻すべく、遠方からの嫁入りを進めた武家の婚姻の影響がある。
遠方婚から要請されてくるのが、両家をとりもつ仲人という存在である。
雑多な人間の集まる都市でも、誰かの世話がないと縁談には進めないので、仲人の役割が大きくなる。

仲人は持参金の十分の一の礼金を取り、商売として成り立った。
近世から昭和初期くらいまでの農民の婚姻は、仲人を立てるのが普通だった。
仲人は嘘やだましもあり、年を10歳ごまかしたり、見合いには瓜ざね顔の妹を見せ、祝言にはかぼちゃ顔の姉が嫁いだりした。

引用した本です。
服藤早苗『平安朝の母と子』
田端泰子『日本中世の社会と女性』
田端泰子、細川涼一『日本の中世4 女人、老人、子ども』
後藤みち子『中世公家の家と女性』
保立道久『中世の女の一生』
菊地ひと美『お江戸の結婚』
森下みさ子『江戸の花嫁』
増田淑美「農村女性の結婚(『日本の近世15』)
高木侃『三くだり半と縁切り寺』
湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』
赤松啓介『夜這いの民俗学』

(追記)
平雅行氏によると、結婚(家族)と財産の相続とは関係があります。
院政時代になると、家父長制的な家族の成立した。
荘園公領制が成立して不動産の私有が認められ、それを家の財産として男子が相続するようになった。
これによって家族のあり方が変わっていく。
夫婦の一体性が強まって、夫婦が同じ墓に入るようになるし、夫婦の財布も別々から一つになる。
男性中心の家社会が貴族階層で成立したことで、女性差別観が貴族社会に広まる。
得をした女性は正妻。
もともと日本では正妻という概念がなく、正妻と妾の区別がなかった。
それが、正妻の地位が確立し、正妻は家の中で大きな権限を持つようになる。

女性差別観は戦国時代に民衆の中に広がっていく。
10世紀に中国で成立した『血盆経』信仰が戦国時代から広まる。
女性はお産や月経の血で大地を汚す罪を背負っており、そのため血の池地獄に堕ちるというもの。

このころ、百姓でも家父長制的な家族が形成された。
もともと百姓の家は不安定で、すぐに壊れたが、百姓の生活が安定してきて財産を持つようになると、家の財産を男の子に相続させるようになった。
こうして永続的な家が百姓の世界に登場する。
それは、女性の地位の転落をもたらしていく。

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