三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

香山リカ「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」3

2007年03月29日 | あやしい教え・考え

「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」の第5章「スピリチュアルちょい批判」は必読である。

  批判その1
スピリチュアルが説く「すべてのできごとは偶然ではなく必然」「あなたが生まれたのには意味がある」「あなたの役割は前世から決まっていた」というメッセージはオウム真理教と同じである。
しかし、スピリチュアルにはまっている人にはその自覚はない。
なぜか。
「それは、彼らの中には、自分がいま夢中になっているスピリチュアルが、オウム真理教のような危険なカルトや怪しげな新興宗教と実は地続きなのだ、という連続性の感覚が極めて乏しいからだ」

すなわち、スピリチュアルにハマる人は、カルトにもハマりやすい。

  批判その2
自分、特に自分のマイナス面を見ない。
幅広いものの見方、自分に対する批判的な眼を持たない。

ものわすれの深刻な人が増えているそうだ。
「外傷体験とも言えないほどの〝ちょっとしたイヤなこと〟で簡単に心の統合が崩れ、そのイヤなできごとの前後の記憶を意識から切り離してしまうのだろう。
その様子を見ていると、この人たちは〝イヤなことできごと〟に直面し、落ち込んだり腹を立てたり反省したりする手間よりも、それを心から切り離して、考えないようにしてしまうほうがずっと簡単でラクなのでそうしてるのではないか、と思えるほどだ」

「(ものわすれは)いまの世の中をあまり考え込まずにすいすいと泳いでいくための、ひとつの“生活の知恵”なのである」

今の人は「自分の負の部分が認められない」「自我が脆弱になっている」そうで、犯罪者にやたら厳しい風潮も自分の弱さを犯罪者に投影しているのかいなと思う。

すなわち、スピリチュアルにハマる人が増えたら、一億総白痴化になってしまう。

  批判その3
「問題は社会にある」と言われてもピンとこないが、「問題は前世にある」と言われるとストンと腑に落ちる、と香山リカは言う。
社会へのプロテストがはやらなくなったんだなと、あらためて思う。
自分を棚に上げて「世の中が悪い」と言うのも問題だが、「自分の思いを変えればいい」とすべてを自分の心の問題とし、社会を見る目を失うことは、権力にとって都合がいい。

すなわち、スピリチュアルにハマる人は、権力の言いなりになる。

  批判その4
「科学的正当性、科学的根拠に対するハードルの低下が、社会の中で起きている」
たとえそれがウソであっても、それでみんなが幸せになるならいいじゃないか、ということで、真実かどうかは問題にならない。
たとえば、ニセ科学、ニセ健康法・ニセ健康食品でも「何らかの効果があるなら、それが心理的効果でも本物の薬効でも、どちらでもいいじゃないか」ということらしい。
あるいは、相手が言ってほしいと思っていることを言うのが霊媒師、占い師なのだが、それはわかっていても、だまされてもいい、いい気持ちにさせてくれたら、というわけだ。
つまりは難しいことは考えたくないわけで、「自分自身の頭や心で考えずに、その答えを誰かに求めようとする」

すなわち、スピリチュアルにハマる人は、悪徳商法にもひっかかりやすい。

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香山リカ「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」2

2007年03月26日 | あやしい教え・考え

香山リカ「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」は細木数子にはふれていない。
細木数子は厳格な父親、江原啓之は受容的な母親という感じか。
実際の性とは逆の役割をしているところが面白い。

江原啓之はなぜ受けるのか。
江原啓之の体型、声もプラスに働くそうだ。

ピーナッツシリーズのライナスのように、ぬいぐるみや毛布をいつも持っていて離さない子供がいる。
ぬいぐるみや毛布は母親から自立する中で勇気づけ慰めてくれる、内的世界と外的世界の中間領域に存在する移行対象なんだと説がある。
大人でもキティのぬいぐるみを身近に置いている人がいるが、同じように自分の内的世界を守るアイテムなのである。
江原啓之はドラえもんやとなりのトトロを連想させるらしいが、ある種の人にとって「このままでいんだよ」と守ってくれるぬいぐるみや毛布だ、と香山リカは言う。

で、以下は「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」を読んで私が考えた、江原啓之が受ける理由。

私たちは現世利益を追求する。しかしままならないのが現実である
 ↓
そこでスピリチュアルは思うようにならない理由を、自分で現在の境遇を選んで生まれてきた、生まれてきた目的は学びのためだ、と説く
 ↓
となると、生まれてきたこと、現在の境遇は自己責任である。親や社会に責任はない(権力には都合いい)
 ↓
となると、「悪いのは私なんです」ということになり、自己憐憫、自虐的になる
 ↓
「私さえ変われば問題は解決する」と思うものの、変わることは難しい
 ↓
本音は、面倒なことはしたくないし、変わりたくないから、「そのままでいいんですよ」と慰めてもらいたい
 ↓
誰でもいいわけではなく、カリスマ性のある人から受容してほしい
 ↓
こういう人たちが江原にはまる

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香山リカ「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」1

2007年03月23日 | あやしい教え・考え

スピリチュアル批判の本。
序章に書かれてある、「精神科医だから前世がわかるでしょ」と言う患者が増えたというタメイキ、そして「(河合隼雄が)ユング心理学をもとに日本で発展させた箱庭療法は、いまも堂々の保守本流である」というきつい一言で、この本が好きになった。

スピリチュアルという言葉、わかったようなわからないような言葉なのだが、香山リカはこのように定義している。
「もともとスピリチュアリズムという語は日本語では「心霊主義思想」などと訳される。簡単にいえば、「死後の生」や「霊魂」などこの世を超えた目に見えない世界やそこでの現象を信じること、またその世界からのメッセージを受け取れること、と考えてよいだろう。(略)つまり、「スピリチュアル」は「オカルト」の一分野と言ってもよいだろう」

しかし、オカルト愛好家とスピリチュアル好きの人とは違う。
「霊と交信することじたいが、スピリチュアリズムの目的ではない。あくまで、それを用いて、いまの自分について考える。しかも、自分が「なぜ生まれたのか」「生きている意味とは何か」「本当の幸福を得るためにはどうすればいいのか」といったことについて考える。それがスピリチュアルの目的だ」

一見、スピリチュアルとは哲学的、宗教的なようである。
宗教とスピリチュアルとは違う。
宗教は「人々の幸せ」、スピリチュアルは「私の幸せ」を問題にする。
スピリチュアルは「実は圧倒的な自分中心主義であり、しかも「現世」中心主義なのだ」。
自己の欲望の正当化がスピリチュアルの特徴である。

「波動」「オーラ」など目に見えないはずものを、さも見えるように語るというのも不思議な話だが、林真理子は江原啓之との対談で、「目に見えるものしか信じないというのは、すごく狭量だと思います」と言っているそうだ。
これは超常現象懐疑派を狭量と批判するのと同じで、スピリチュアルを信じるのは「柔軟さ」「心の広さ」の証拠というわけだ。
徹底的な「現世利益」と「個人の幸福」の追求がスピリチュアルなのだから、狭量なのは自分たちのほうなのに。

で、香山リカはなぜか江原啓之に好意的なのである。
「まわりの人に幸せを与えることでしか、人は本当の意味での幸福は手にできない」とか「自分のためではなく他人の幸せのために何かをする」など江原啓之は言っており、社会に目を向けていると言うのである。
だからといって、ジコチューの凡百のスピリチュアリストと江原啓之が違っているとはいえない。
どんな悪辣な詐欺師だって、耳に心地よいことを言うのだから。

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池谷薫「蟻の兵隊」

2007年03月20日 | 戦争

池谷薫『蟻の兵隊』を見た。
奥村和一さんという方を密着取材したドキュメンタリーである。

山西省にいた北支派遣軍第1軍は、敗戦後も澄田司令官の命令で約2600名が中国に残留し、4年間、国民党軍とととも共産党軍と戦い、約550名が戦死した。
5年間、捕虜となった人たちは昭和29年に日本に帰ってきたものの、国は、彼らは志願兵、つまり勝手に中国に残ったものとみなしたので、恩給も補償ももらえない。
奥村さんたちは軍人恩給の支給を求めて裁判を起こしたが、結局は負けてしまった。

澄田司令官は兵士を国民党の閻錫山に売ることで戦犯を逃れ、自分たちだけが日本に帰ってきた。
加藤哲太郎『私は貝になりたい』(テレビや映画の原案者)にこう書いている。
「大物はゆうゆうとして自適し、雑魚ばかりが引っかかる。これが戦争裁判の実相だ」

奥村さんは初年兵の時、「肝試しだ」と命令されて、中国人を銃剣で刺殺したと言う。
加藤哲太郎もそのことを率直に書いている。
「初年兵の実戦的訓練という名目で連れ出された私たちは、八路軍という嫌疑で捕まった十人ばかりの中国人捕虜の処刑を命ぜられたのです」
加藤哲太郎は「八路軍ではないから、もう一度調べてくれ」と言う少年がいたので、上官にそのことを告げると、怒られたけれども加藤自身が処刑をせずにすんだ。
しかし、処刑自体をとめることはできなかった。
「そして加藤哲太郎こそは、それが悪であることを知りながら、それを阻止しなかった最大の卑怯者である」

自らの加害者性から目をそらさない奥村さんは裁判を戦う仲間にも容赦しない。
山西省の検察庁に戦犯の供述調書があり、その中に仲間の名前があった。
奥村さんはその調書をコピーして、本人に見せるのである。
うーん。
で、その人は否定しない。

『蟻の兵隊』で一番びっくりしたのが、小野田寛郎さんさんである。
靖国神社でうれしそうに冗談を交えながら演説をしている小野田さん。
演説が終わり、奥村さんは小野田さんに「あなたは侵略戦争を美化するんですか」と声をかけると、小野田さんは急に表情を変えて、「侵略戦争じゃない。開戦の詔勅をもう一度読んでみろ」(正確ではないが)と怒る。
小野田さんはどうしてそこまで感情を高ぶらせたのか、戦後もフィリピンで現地の人を殺傷したことをどう考えているのか、そのあたりの話をお聞きしたいと思った。

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英雄を否定するイーストウッド

2007年03月17日 | 戦争

戦争映画は戦争の悲惨さを訴えたものであっても、悲惨さが悲愴さを生み、どこか華々しくなってしまう。
ところが、クリント・イーストウッド『父親たちの星条旗』硫黄島からの手紙』は英雄が出てこない映画なのである。

『父親たちの星条旗』は、硫黄島の擂鉢山に星条旗を立てた状況はのんびりした雰囲気の中だったのに、生き残った3人が英雄にまつりあげられてしまうという話である。
なぜならアメリカは戦争末期にお金がなくて、戦時国債を売らないと戦争が継続できなくなるかもしれないので、彼らを利用したのである。
映画の冒頭、船から海に落ちてしまった兵士を救助することなく船団は進んでいく。
とてもじゃないけど遺族に説明できないアホらしい死に方である。
一人一人の兵士の命などどうでもいいということが最初に突きつけられている。

硫黄島の戦闘は、米軍が予定していた5日間をはるかに超える36日間もかかり、アメリが軍の死者は日本軍戦死者2万129名を上回る2万8686名だった。
ところが、硫黄島からの手紙』を見ただけではそんなことはわからない。
栗林中将の作戦は効果があったのか、米軍の損害がどの程度のものか、何日間持ちこたえたのか、米軍はどう思ったのか、そうしたことは一切観客には知らされない。
父親たちの星条旗』は擂鉢山に星条旗を立てた後にも激戦が続いたことが描かれているが、硫黄島からの手紙』では米軍が苦戦する描写はない。

ただただ日本兵が次々と死んでいき、自決し、撤退し、玉砕することだけが描かれる。
自決のシーンでも、飛び出した内臓がグロテスクなので、彼らの死は無意味としか思えない。
撤退する者をののしり、殺そうとする中村獅童なんか、かっこよく死ねずにむざむざと生き延びてしまう体たらくである。

だから、イーストウッドは栗林中将を名将として美化しているわけではないと思う。
英雄などいない、ただ空しく死んでいくだけ、という戦争の現実をイーストウッドは描きたかったのではないだろうか。

となると、この二つの映画の舞台は硫黄島でなくていい。
どんな戦場もみな同じということである。

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池田清彦『環境問題のウソ』

2007年03月14日 | 

環境問題は人々の関心をひきやすい。
環境ホルモンがどうのこうのとか、ケータイは電磁波を出すので脳腫瘍になるとか、そういう話が話題になったことがある。
今はそんなことは問題にされないが、実際のところはどうなのだろうか。


で、
池田清彦『環境問題のウソ』は巷で言われている環境問題にはウソがあると指摘する。
第1章 地球温暖化は本当か、二酸化炭素は温暖化の元凶か
第2章 ゴミを燃やすと出るというダイオキシンは毒なのか
第3章 外来種、たとえばブラックバスは生態系を壊すのか
第4章 自然保護はなぜ必要か

第2章から第4章はもっともと思う。
第2章によると、ダイオキシンで病気になった人も死んだ人もいないし、ましてゴミの焼却で生じるダイオキシンなんて微々たるものである。
焼却炉を作る業者と政治家が儲けているいるだけのことである。
そして著者の専門は生物学だけに、特に第3章、第4章は力が入っている。
ブラックバス悪玉論が言われているが、「ブラックバスにより滅ぼされた日本の在来種は一種もいない」。
自然保護だからといってそのままにするのが自然保護ではないetc。
「正義の物語を作って、法律を作って、実効性のない政策を遂行するために、税金をぶん取るような商売はおやめなさいと言いたいだけだ」
もっとも。

だけど第1章の、地球は温暖化していない、二酸化炭素が増えたとしても温暖化にはならない、という主張はどうなのか。
・地球の気温が上昇しているかどうかわからない
・上昇しているとしても人為的要素ではなく、自然変動かもしれない
・かりに人為的要素で上昇していても、二酸化炭素が原因かどうかわからない
・それよりも太陽の黒点数と平均気温の変化のほうが関係ある

それなりに説得力がある。
二酸化炭素を削減しようとすれば莫大なコストがかかる、それよりも途上国のインフラ整備に使ったほうがずっと効率よく温暖化対策を実現できる、と言われると、なるほどそういうものかとは思う。
しかし、ゴア元副大統領が地球温暖化の危機を訴える
『不都合な真実』のほうが説得力がある。

「環境問題のウソ」に、たとえば
「沈没が心配されているツバルの海面もこの25年間の変化はゼロらしい」と、「らしい」と書いてあるが、読んでいる人は「~だ」と、事実だと思ってしまう。
ところが、先日の新聞には、ツバルでは国民の多くが海外移住を考えているという記事が載っていた。

あるいは、北極の氷がとけても水面は上昇しないと言うが、水面上の氷の分だけ上昇するのではないだろうか。
あるいは、北極の氷がとけると冷たい水が流れ出し、大西洋の海流の流れが変わってしまうとか、そうした問題にはまったく触れておらず、やたらと楽観的すぎる。
そして、著者は資源の枯渇ということを考えていないようだ。
まさに、
「環境問題のウソ」のウソ、である。

で、第1章の最後、こういう文章で締めくくられている。
「僕の独断的予想によれば、地球の温度は直線的に上昇するなんてことはなくて、あと十数年か数十年かしたら下降するに違いないと思う。そうなったら政府もマスコミも地球温暖化論などはすっかり忘れて、氷河期が来る、と言って騒ぐんだろうな。
どう考えても地球温暖化なんて大した問題じゃない。大変だ大変だと騒いでお金が儲かる人ならばともかく、そうでない僕は、他人の金儲けを助けるために、快適な生活を犠牲にしたりよけいに税金をとられるのは勘弁してもらいたいと思う。そこまでお人好しの人は普通の日本語ではバカって言うんだよね」
こりゃないな、と思う。

たしかに、地球温暖化でもうける人間は大勢いるだろう。
だけど、地球温暖化を否定することでうまいことする人だっている。
損得だけの問題ではないと思うのだが。

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小笠原喜康『議論のウソ』

2007年03月11日 | 

安倍首相と新人議員との昼食会で、「首相の答弁はすごく長い」と言う議員がいたそうだ。
小泉前首相と安倍首相の考えはそう違うとも思えないのに、なぜか安倍首相の人気は今ひとつである。
小泉は「改革に賛成か、反対か」というふうに、感覚に訴え、物事をスパッと二つに分けるというわかりやすさが受けたということがあると思う。
「私たちは、わかりやすさを求める傾向がある。「だから、いったいどうなのさ」と、結論を求める」(『議論のウソ』)

「小泉内閣メールマガジン」最終号には「現在の私の心境を託した短歌」が載っている。
「ありがとう 支えてくれて ありがとう
 激励 協力 只々感謝」
単純明快!

だけど、わかりやすいからといって、それが正しいとは限らない。
本当の科学は、これが正しい、これは誤りだと、スパッと断言しないらしい。
断言できないから信用できるのだが、はっきりしないからまだるっこしいと思う人もいる。
新人議員の誰かさんのように、そういう人は小泉、そしてインチキ科学や細木・江原たちのデタラメにだまされる。
ま、長ければいいというものではないけれども。

ということで、小笠原喜康『議論のウソ』では四つのウソについて述べられている。
・少年犯罪が増えているというウソ
 統計を使う時、注意しないとウソになる危険性
・ゲーム脳というウソ
 専門家といった権威の言うこと妄信する危険性
・携帯電話がペースメーカに及ぼす影響のウソ
 ある時は正しくても、情勢が変わることもあるのにこだわり続ける危険性
・ゆとり教育によって学力が落ちたというウソ
 ムードの中である方向に向けられる危険性

小笠原喜康はこれらの間違いを指摘し、これが正解だと主張しているわけではない。
「多くの事柄は、複数の解答をもっていることの方が状態ではないだろうか」という問題提起である。
たとえば、携帯電話がペースメーカーに影響を及ぼすというのはウソだ、と小笠原喜康は言っているのではなく、影響はあっても微々たるもので、病院などで携帯の使用を禁じるほどではないということ。

あるいはゲーム脳だが、森昭雄日本大学教授の主張はあまりにも杜撰すぎる。
ところが、私たちは権威に弱い。
大学教授の言っていることだから、と頭から信じ込んでしまう。
これは「納豆ダイエット」と同じ問題である。

「ウソを見抜く力は必要である。しかし、もっと必要なのは、そうした「ウソ」であるかどうかという判断自体が場合によって変わりうるという、多様な次元で多様な結論がありうるという姿勢を貫く強靱さではないか」
「強靱さ」というか「柔軟さ」が必要だと思う。

「議論のウソ」から名言集ということで、以下引用。

「ウソは簡単には見抜けないし、そもそもウソとは簡単にはいえないことも多いのでないか」
「個人的意見としては、スパッとわかることより、なかなかわからない方がよいと思っている。頭が良くてさっと結論をだせるよりも、なかなかパッとわからなくて、ああでもない、こうでもないとしている方がよい」
「「わかる」ことより、「わからない」ことを自覚していることの方が、はるかに重要である」
「ある時点での判断は、いつまでも妥当だということにはならない」
「私たちは良くなることよりも悪くなることに関心を寄せがちである。報道もその関心に応えようとする。そうして、ともすればムードが優先されがちにある」
これはマスコミ報道に限らず、予言などにも当てはまる。

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市場恵子さん「親と子どもの心に寄り添うために」

2007年03月09日 | 日記

おしゃべり会での市場恵子さんのお話「親と子どもの心に寄り添うために」をテープ起こししました

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「千の風になって」

2007年03月05日 | 仏教

「千の風になって」という詩、いい詩だとは思うが、偏屈な私としては
「私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 眠ってなんかいません」
というところが気に入らない。

ずっと以前、お子さんを亡くされた方が話されたのだが、お子さんを亡くされてから毎日、お墓に参っては泣いていたそうだ。
そして、墓参りをするために車の免許を取ったんだ、と言われてた。
この方は墓の前で泣きたかったのだろう。
仏壇の前で泣く人がいれば、写真を見ながら涙を流す人もいるだろう。
どこでもいい、その人にとっての泣く場所があれば。

「私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 死んでなんかいません」
というのはさらに問題で、死んだという事実をきちんと認めることが大切である。
今すぐには無理でも、少しずつ死んだという事実を受け入れていかないといけない。
そうでないと、いつまでも迷い続けて、インチキ宗教、悪徳商法(スピリチュアルを含む)にだまされてしまう。

で、私なら「千の風になって」をこういう詩にしてみたい。
「私のお墓の前で泣いてください
  仏壇の前で泣いてください
 私の写真を見ながら 家族と話しながら
 友達に聴いてもらいながら 泣いてください
 私はあなたの涙と一緒にいます」

「仏壇の前」なんて詩だったら、売れないこと間違いなし。

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『現代日本人の意識構造』2

2007年03月02日 | 

『現代日本人の意識構造』には「結婚観」についての質問もある。

「甲 人は結婚するのが当たり前だ
 乙 必ずしも結婚する必要はない」
       93年      03年
甲に近い 44.6%   35.9%
乙に近い 50.5%   59.4%

「甲 結婚しても、必ずしも子どもを持たなくてもよい
 乙 結婚したら、子どもを持つのが当たり前だ」
             93年      03年
甲に近い 40.2%   49.8%
乙に近い 53.5%   43.9%

ということで、別に結婚なんてしなくって、という人が半分以上いて、しかも増えている。
そして、子供がいなくても、と考える人のほうが多くなっているのが現状である。
それはどうしてなのかは、これだけではわからないが、なんでも30歳で結婚していない人が、男は4割、女は3割らしい。
これじゃ柳沢大臣も大変だなと思いました。

結婚観、家族観が変われば、宗教観も変わるのか。
で、「信仰・信心」についての質問を見てみましょう。

「宗教とかに関係すると思われることがらで、あなたが信じているものがありますか。もしあれば、リストの中からいくつでもあげてください」
                                     73年    88年   03年
ア、神                             32.5%  36.0  30.9
イ、仏                             41.6    44.6  38.6
ウ、聖書や経典などの教え    9.7     7.5   6.4
エ、あの世、来世                   6.6    11.9  10.9
オ、奇跡                           12
.8     14.4  15.3
カ、お守りやおふだなどの力  13.6   14.4  15.3
キ、易や占い                        6.0    7.0   7.4
ク、宗教とか信仰に関係していると思われることがらは、何も信じていない
                                      30.4       25.8  25.6
ケ、その他                            0.2          0.4   0.9
コ、わからない、無回答            5.3      5.4   8.0

5年ごとの変化をみると、「聖書や経典などの教え」以外は増えたり減ったりである。
今のところ日本人の宗教観は急激な変化はしていないと思う。
しかし、葬式を近所の人や親戚に知らせないのが増えている。
家制度や地域共同体がさらに崩れていけば、これからは先祖崇拝・祖霊信仰という日本教も衰退するだろう。
それにしても、「聖書や経典などの教え」を信じる人が着実に減っているのが、やはり悲しい。

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