夏の思い出

2012年05月10日 | 日記
江間章子作詞、中田喜直作曲の「夏の思い出」と言えば日本人なら誰でも知っている曲の一つだと思っていましたが、昨日レッスンにみえた30代の研究職の男性も、今日の福祉サービス事業所でのヴォイトレのメンバーである30代男性もご存じありませんでした。
「ふるさと」さえ知らない20代、30代もいるご時世ですから(尤も「ふるさと」は東日本大震災以来かなり歌われ、聴かれ、だいぶ復権したようですが)、私たち世代の常識的知識が若い世代と共有されていなくてもそんなに驚く必要はない、と頭ではわかっていても、やはり毎度ショックを受けてしまいます。「江間章子さんは花が大好きな詩人でね、「花の街」という歌があるでしょ、あれも江間さんの詩なんですよ」と説明しましたが、「花の街」も知らないそうです。「花の街」は終戦直後に作られた歌で...と説明しかけて、そうか、この曲も随分古い歌ということになるんだな、と再認識しました。
「夏の思い出」に出てくる水芭蕉の植生は中部地方以北の湿原だそうですから九州人が知らなくても不思議はないのですが、毎年この歌を歌っていると、水芭蕉の群生を毎年見ているような錯覚を起こします。そこで「1本だけ出ている穂が白い苞に包まれていて、それが沼地にたくさん咲いていて...」と、まるで見て来たような講釈をして、「シャクナゲ色にたそがれる、ってことは、シャクナゲは夕焼け色だということですね」なんて話をしているうちに、だんだんイメージができあがってくるようです。イメージを持って歌ってもらうと、訴えかける力が全然違います。
技術的なことも何点か練習しました。たとえば「夏が」、「かげ」、「花が」、「シャクナゲ」、「たそがれる」などの鼻濁音。「が」の前に小さな「ン」を入れて、と言ってもなかなかうまくできないようなので、「「ナナナナ...」と言ってみて下さい、舌はどこに付きますか?」と訊くと「歯の裏か、そのちょっと後ろ」という答え。「それでは、「ガガガガ...」と言ってみて下さい、今度はどうですか?」と訊くと、「舌の後ろの方が上あごに付きます」と。そこで、「「ガガガガ...」と言う時の舌の位置で「ナナナナ...」と言ってみて下さい」と言うと、あら不思議、うまく鼻濁音になります。しかし、舌を動かすのにも実は腹筋を使っているので、「鼻濁音って疲れますね」と言われます。それはつまり、ちゃんと身体を使っているという証拠です。また、「そよそよ」という擬音語は、ローマ字で書けばsoyosoyo。sの音が擬音なので、上下の前歯の間から「s---」と音を立てながら息を吐いてもらって、「その音をたてながら「そよそよ」と言って下さい、但し「そよ風」ですからそのつもりで(笑)」と言うと、sの子音がよく立ちます。「花(hana)」という言葉はhをしっかり出さないと「穴」に聞こえるので、「hの音を少し長めに引っ張って下さい、但し胸を張ったままで」と言います。息をお腹の方から送り出さないとhが出ないので、かなり身体を使います。30分のレッスンが終わると「すごく身体を使ったので、これから眠くなるかもしれません」と言われました。それでも、「気持ち良かった、いつもヴォイトレを楽しみにしているんです」と言いながら作業に戻っていかれました。身体を使う効用もありますが、詩を味わいながら歌うことによるメンタルなリフレッシュ効果も大きいのではないかと思います。「夏の思い出」は美しい歌だと改めて思いました。

表情

2012年05月08日 | 日記
昨日は福祉サービス事業所のヴォイトレでした。障がいをお持ちの方は生活のリズムが崩れると体調を崩しやすいそうで、連休明けの昨日はいつもより少ない参加者でした。小人数のメリットを生かそうと、寝転んで横隔膜を鍛える体操をしたり、部分的にお一人ずつの声を聴いたり、普段はなかなかできないことをしてみました。
このグループには、比較的ニューフェイスながら毎回欠かさず参加される男性がお二人いらっしゃいます。このお二人、表情筋の動きがあまり活発でなく、一見全くの無表情に見えます。しかし、私の言うことはよく理解されているようで、たとえば「奥歯を開けて下さい」とか「口の奥を後ろへ引いて下さい」などという指示を出すと、わずかながら口の開き方が変わり、顔の表情にもほんのわずかの変化が表れます。一見してはほとんどわからないほどわずかな動きですが、私には、一見無表情な彼らが精一杯エネルギーを振り絞って私の指示に応じようとしているのがわかります。しかし、精神に障がいを持つ方ですから、月2回とは言えそんなに一生懸命に取り組んで、後に疲れが出ないかどうか気になっていました。そこで昨日、練習の後で副施設長に「あのお二人は、ヴォイトレの後で疲れたり気分が不安定になったりされませんか?」とお尋ねしてみました。すると、「そんなことはないようですよ。二人とも楽しみに参加しているようです」とおっしゃいます。そして、「見ていると、だんだん表情が出てきたように思います。ヴォイトレの成果ではないでしょうか」と言われました。ああ、彼らは彼らなりに楽しんでいて、それなりに変化しているんだ、と思うととても嬉しく、声を出すということは生物にとって根本的な能力の一つなのだと改めて思いました。声を出すなんてごく当たり前のことのようですが、人によってはとても努力の要ることなのです。しかしそういう人ほど、それが自分自身の生命力のアップにつながることを本能的に知っているようです。息をするから生き生きする。「歌う」は語源的には「訴える」から来ている、という説がありますが、つまり、歌うとは内にあるものを外に出すこと。何度も繰り返し確認していることですが、彼らがいつも実地にそれを体現してみせてくれます。この事業所の今月の歌は「夏の思い出」。水芭蕉、シャクナゲ色、といった美しいイメージを一生懸命心に描きながら歌って下さいました。どんどん良い声が出てきて、気持ちよく練習を終えました。

音痴矯正講座

2012年05月06日 | 日記
数日前、Tさんという70歳の男性が数か月ぶりにレッスンにみえました。この方、小学校の頃に言われた先生の言葉で、自分は音痴だと思いこんでしまった方です。大の歌好きの奥様に連れられて我が教室の門を叩かれました。
年齢が年齢ですし、これまで歌うことを避けてこられただけに声帯が少し固まってしまってスムーズに動かなくなっていましたが、とても熱心で、数ヶ月でなかなかいい感じになってきていました。ところが冬場になって、子どもの頃に怪我をした左顎に痛みが出たとのことで、ここしばらくお休みしていらっしゃったのです。
もう大丈夫みたいだから、ということで先週の水曜日に久し振りにレッスンに来られました。身体のストレッチ、舌のストレッチ、顔筋のストレッチなどを十分にやってから実際に声を出してレッスンをしましたが、数か月のブランクはほとんど感じられません。身体がちゃんと覚えているようです。そこで実際に歌いながら音程のチェックをすることにして、なるべく音の数が少なく動きも少ない曲という意味で「ふるさと」を教材にしました。
私がピアノでメロディを弾くのに合わせて歌って頂くのですが、途中で音が微妙にずれていきます。ご自分ではずれていることがわからないようです。ところが、その「ずれ」が不思議とちゃんと(?)3度とか4度の協和音になっているのです。「音痴」ではない証拠ですね。ずれている音に私の声を合わせ、そこから正しい音程へスライドさせて修正します。何度かやったら正しく歌えるようになりました。ご自分では「今のは合っていた」とか「さっきのはずれていた」という区別がつかない、とおっしゃいますが、「いずれ必ずわかるようになりますから安心して下さい」と言ってレッスンを終えました。
そうしたら翌日、「先生、よろしかったら土曜日にレッスンに行っていいですか」とお電話がかかってきました。中2日ですが「どうぞ」とお受けしました。
昨日来られたTさん、レッスン前に嬉しそうに「実は先日のレッスンの後、家内に「今日はどうだったの?」と訊かれたので、「ふるさと」の練習をした、と言ったら「それじゃ、ちょっと歌ってごらんなさい」と言われたんです。それで歌ってみせたら「パーフェクトよ!あなたが正しい音程で1曲歌いきるのを初めて聴いたわ」と言われましてね、とても喜んでくれました。私も大変嬉しかったです」とおっしゃるのです。私も感動してしまいました。
人間、何歳になっても向上できるんですね。Tさんは努力家で、レッスンでやったストレッチなどを毎日家で復習しているそうです。レッスンが楽しい、と言われ、「来月は他県に長期滞在するので、今月のうちに6回レッスンに来たいと思っています」とおっしゃっていました。
コンプレックス解消のお役にたてるのは本当に嬉しいですね。人生が明るくなるお手伝いができるのですから。私にも数々のコンプレックスがありますが、克服する努力より避けて通る方を選んでしまいます。人はついつい安易な方に流れるものですよね。ですから、70歳になって音痴を克服しようという前向きさに敬服してしまいます。
うちの生徒さんは私より年長の方が多いので、人生に対する姿勢という点で大変学ぶところが多いです。私も生徒さん達を見習って前向きな生き方をしたいと思います。

語録

2012年05月04日 | 日記
今回のリサイタルの伴奏をして下さったM先生は「本番が日常」という百戦錬磨のプレイヤーです。現場に身を置きながら様々な人間模様や人生の真実を見ていらっしゃるので、何気ない会話の中で時々ハッとするような名言を呟かれることがあります。
リサイタルの後、二人でお茶を飲んでいる時に「韓流ドラマの中に(M先生は韓流ファンです)「才能があって努力する人は一流、才能がなくても努力する人は二流、偏見を持つ人は三流」という言葉があったのよ」とおっしゃいました。よく聞く言葉のようですが、ここでのポイントは「偏見を持つ人は三流」というところにあります。前後の文脈を言えば、私が「私は本当にお客様に恵まれているんですよ。皆さん心から耳を傾けて下さる方たちばかりで、たとえ本番での演奏にキズがあっても、それをあげつらって批判されたことがないんです」と言ったことを受け、コンサートのコンセプトや演奏の流儀に関して「どんなやり方をしても、必ず反対の立場の人はいるからね」とおっしゃって、韓流ドラマのセリフが登場したのです。ゴスペルシンガーとしての活動を中心としながら、ジャンルの枠を超えて音楽そのものと関わっているのだというM先生の揺るぎないスタンスを垣間見た気がしました。
また、私にとってリサイタルは一話完結的なイヴェントですが、M先生は「本番は次回のリハーサルよ!」とおっしゃっいました。ええっ!?と一瞬たじろぎましたが、なるほど「本番が日常」の人の感覚はこうなんだな、と妙に納得。前回のリサイタルの後「次はいつにしようか?」と言われたこともこれで合点がいきます。今回もリサイタル直後に「次はクリスマス頃にディナーショーやろうか?」とおっしゃって、ただでさえフラフラになっていた私は卒倒しそうになりました。昨日のゴスペルのレッスンの後で「クリスマスコンサートの日程を決めましょう」とおっしゃるので、ディナーショーはなくなったんだな、とホッとしつつ、それにしてもM先生のこのヴァイタリティはどこから来るのだろうか、と半ば呆然としてしまいました。
M先生は日本中どころか世界を股にかけた日常を送っていらっしゃいます(来週も外国で演奏だそうです)。それでも毎朝4時起きでお子さんたちのためにディナー級の朝ごはんの支度ををなさるそうです。そういう方が、私のチマチマとした忙しさをねぎらって下さって、「あなたもよく頑張ってるよね、そういう人は用いられるのよ」とおっしゃったことがありました。クリスチャンのM先生にとって、人生の目的は「神様に用いて頂く」こと、つまり愛の実践にあるのですね。どんな形であれひとさまの役に立ちたい、という願いは多くの方に共通のものだと思いますし、私自身もそうでしたが、その前に乗り越えるべき人生の課題が多過ぎて、途中でわけがわからなくなった時期がありました。しかしM先生は、こういう簡潔な言葉で最も本質的なことに気づかせて下さったのです。M先生自身にそんなお気持ちがあったかどうかはわかりませんが、少なくとも私にとっては一瞬で目の覚めるような言葉でした。私の「愛の実践」をサポートすることも、M先生の愛の実践の一環に違いありません。
さて、クリスマスコンサートの行方はどうなることでしょう。恐ろしいような、楽しみなような...乞うご期待!?

筋肉痛

2012年05月02日 | 日記
リサイタルの後は毎回、フルマラソンかボクシングの後のような全身の筋肉痛に襲われます(と言っても、フルマラソンもボクシングも未経験ですが(笑))。昨日は市内の小学校のヴォイトレと女性3人組のヴォイトレ、今日は午前中に大学の講義、午後に個人レッスンの生徒さんがお一人みえましたが、身動きするたびに身体がバリバリっと音を立てる感じで、ロボットのような立ち居振る舞いになっている気がしてなりません。一番痛いのが腰回りと脇腹です。背中、太腿もゴワゴワしています。
実は、リサイタル当日の朝のリハーサルでM先生から、中低音域の息のポジションをもっと高くしないと声が聴こえない、と再三指摘されました。何度やっても息が落ちてしまいます(自分ではなかなかわかりません)。「高音域を歌う時のポジションで!」と何度も言われるのですが、高音域を歌うイメージだけではダメなのです。悪戦苦闘しつつハッとひらめいたのが、先日W先生に伺った話でした。W先生のところには最近、お弟子さんの整体の先生や太極拳の先生がレッスンを聴講に来られて、フィジカルな面からいろいろ面白いご指摘をされるそうです。その中に「肋骨と骨盤の間の(骨のない部分の)筋肉を拡げるように身体を調整すると良い声になる」という話がありました。私も生徒さん達のレッスンで試みて何人かの方の声がとても良く出るようになりました。あれをやってみようと思いつき、脇腹の骨のない部分を思い切り引き伸ばすように使いながら中音域を出してみると、できました!「ああ、これだったんだ」と感動して、M先生に「今日はこれがわかっただけで十分です」と言うと、「大収穫ね!」と喜んで下さいました。できていないことを本番直前に指摘するなんて、よほどお互いに対する信頼がないとできません。それを敢えて言って下さったM先生に心から感謝しつつ本番に臨みました。
お陰様で本番でも、中音域やブレスの保持はこの「脇腹を開く」やり方が功を奏しました。しかし、これには背筋や腰筋も連動しているので、相当な体力仕事です。もう少し体力が充実していれば中低音域だけでなく高音域ももっと身体が使えたと思うのですが、「春の声」を歌う前に限界が来てしまったのが返す返すも残念でした。終演後にM先生にそう言うと、「神様はね、天狗にならないように敢えて課題を一つ残されるのよ」と言って気持ちを前向きに切り替えさせて下さいました。さすがです。
この筋肉痛、明日には少し軽減するでしょうか。年をとると1日おいて疲れが出る、とよく言いますが、最近は中2日おいて出ることが多いです(笑)。世間は大型連休中。私も少し休養して、心機一転、また頑張ります。