ハレルヤ

2012年05月20日 | 日記
今日は久し振りに昔の音楽仲間たちと会食をすることになっていたので、午前中の合唱団の練習が終わった後、指定されたレストランへ向かいました。すると会食会場のレストランの手前の店に「晴れる屋」という看板が。思わず噴き出しそうになりました。というのも、今日は会食の後、中学校の同窓会企画である「ハレルヤ」の合唱の練習に出席することになっていたからです。
私の出身中学では3年生が卒業式で「ハレルヤ」を全員合唱する伝統があります。「昔取った杵柄」で、今日の練習でもあっという間に最後まで音とりが終わり、伴奏付きで4部合唱するところまで進みました。久し振りの「ハレルヤ」、久し振りに会う先輩後輩や教え子(私はこの学校で9年間教鞭を取ったので、今日の出席者の中にはかつての生徒も混じっていました)と共に懐かしくも楽しい時間を過ごし、帰宅の途中でふと奉職中の愉快な思い出が蘇ってきました。当時、この学校では音楽の期末試験は「鑑賞テスト」と決まっていました。これは私が在校中からの伝統で、全校放送で流れるクラシック曲の冒頭部分を聴いて曲名と作曲者を解答するという方式でした。このテストには、採点しながら思わずお腹を抱えて笑ってしまうような珍解答がしばしば登場したものですが、その中に「ハレルヤ」を「晴れるや」と書かれたものがあったのです。上司であるM先生に「これ、どうしましょう?」と相談したところ、即座に「気持ちはわかるが、これはバツ」と言われました(笑)。採点を続けていると、今度は「アヴェ・マリア」が「阿部まりあ」になっている答案があり、笑いをこらえながらM先生に見せると、「僕の方には「スラブ行進曲」が「アラブ行進曲」になっているのがありましたよ」とおっしゃいます。まあ、この辺までは連想の経路が推測できるのですが、意味不明なニアミスもありました。「タイースの瞑想曲」が「ラングーンの瞑想曲」になっていたのです。頭の中がはてなマークだらけになり、友人に尋ねてみました。すると数秒の沈思黙考の後「タイ、ラオス、ラングーン、だね」と一言。なるほど(笑)。
今から考えると、50分間に50曲のイントロ当てクイズ(全学年一斉、クラシック音楽オンリー)というのはかなり突飛な試験だったと思うのですが、この中学校では、私が在校中から(それ以前からずっと)毎回の音楽の授業の冒頭に数分間の「名曲鑑賞」の時間があり、そのお陰で私たちは随分多くのクラシックの名曲に触れることができました。私が教えている頃もその伝統は続いていましたが、今はどうなっているのでしょう(ちなみに、テストの方式は私の在任中に改められ、50曲から10曲ほどに縮小、曲目も学年別になりました)。
「ハレルヤ」に話を戻しますが、これはヘンデルのオラトリオ「メサイア」の第2部の終曲で、初演に臨席していたイギリス国王ジョージ2世がこの曲の途中で感極まって起立したことで有名です。以来、「ハレルヤ」の時には聴衆が起立する習慣がある、という話を中学時代に聞いていましたが、大学時代に「メサイア」全曲演奏のコンサートに行った時、「ハレルヤ」が始まると同時に客席の全員が一斉に起立しました。この慣習は今でも生きているのです。立って聴きながら名状し難い感動で胸がいっぱいになったことを覚えています。
「メサイア」が「救世主」という意味のヘブライ語であり、「ハレルヤ」もまた「主をほめたたえよ」という意味のヘブライ語だということはその昔習いましたが、「ハレルヤ」の「ハレル」が「ほめたたえる」という意味で「ヤ」は「ヤハウェ」の「ヤ」、すなわち「神」という意味だということは、わりと最近知りました。この曲には「ハレルヤ」という言葉が何十回も出てきますが、歌う時には「ヤ」を明瞭に歌わないといけないのですね。「ヤ」に向かって下行音型になっていることが多いのですが、意識的に「ヤ」に少しアクセントを置くようにすると俄然イキイキと聴こえてきます。外国語の歌の場合(日本語の歌もですが)、言葉の意味を理解することはとても大事ですね。それだけで表現が違ってきます。

早口言葉

2012年05月18日 | 日記
「生麦生米生卵」、「隣の客はよく柿食う客だ」、「赤巻紙青巻紙黄巻紙」、「東京特許許可局」etc...皆様ご存じの早口言葉。小学生の頃、レクリエーションの時間に皆で競争したり、高校時代にはコーラス部の基礎練習でもやらされました。
ヴォイス・トレーニングがある程度進み、メロディを母音で歌う「ヴォカリーズ」の練習を経て歌詞の付いた歌を歌う段階になると、それまで以上に筋力が必要になります。ヴォカリーズと歌の間のハードルはかなり高く、母音の違いをきちんと出しながら響き(音色)が変わらないようにする、つまり口形が変化しても身体の筋肉の引っ張りがゆるまないようにする、という課題と、子音が明瞭に聞こえるようにする、つまり息が歯や唇や舌で遮られながら出てくる時の抵抗に耐え得るだけの筋力を保持する、という課題を同時にクリアしながら、一字一字を滑らかにつなぎ、言葉の途中に隙間ができないように歌いあげなければなりません。母音の方は少し気をつければ何とかなりますが、日本語には子音が少ないので、日本人には子音で身体を使うことがなかなか身に付きません。何か良い方法はないかと思案していましたが、今日ひらめきました。ドイツ語の早口言葉です。
大学で1年生のドイツ語の授業を担当するようになって7年目。毎年前期はあの手この手でドイツ語の発音に慣れてもらうのですが、早口言葉もその有効な手立ての一つです。今年も、今日から毎回一つずつ早口言葉の例文を暗誦してもらうことにしました。今日の課題は
Fischers Fritze fischt frische Fische.
敢えてカタカナで記すと、「フィッシャース フリッツェ フィッシュト フリッシェ フィッシェ」となります。
ポイントは、fの発音の時に必ず下唇と上の前歯で摩擦を起こして、無声のfを少し引きずることと、schを蒸気機関車のように「シュ~~」と無声で発音することです。
何度か繰り返し練習してfとschの音がはっきり聞こえてくるようになると、かなり身体を使うので疲れるらしく、皆は~っとため息をついています。その様子を見ながら、これはヴォイトレにも使えるぞ、と思いました。ドイツ語は諸外国語の中でもとりわけ子音の多い言語です。そしてドイツ人は早口です。ドイツ人が体力があるのもうなずけます。日本語の早口言葉は主に滑舌をよくすることが目的ですが、ドイツ語の早口言葉は「腹筋を使ってしゃべる」というのがどういうことかを身体に覚えさせるために有効だと思われます。明日からヴォイトレにもドイツ語の早口言葉を取り入れてみることにしましょう。
来週の課題は
Zwischen zwei Zwetschgenzweigen zwitschern zwei Schwalben.
カタカナで書くと、「ツヴィッシェン ツヴァイ ツヴェッチュゲンツヴァイゲン ツヴィッチェルン ツヴァイ シュヴァルベン」。
皆様、さあどうぞ。

公開演奏

2012年05月16日 | 日記
昨日の午後、県南の女声合唱団のヴォイトレに行ってきました。7月に七夕コンサートをするとのこと。午前中には、9月にリサイタルをなさる生徒さんのレッスンをしました。うちには今、近々コンクールを受ける生徒さんや、お仲間とアンサンブルの発表会をするという生徒さんもいて、皆さん発表の場を持つことに積極的で素晴らしいと思います。
歌は自己表現ですし、表現活動は鑑賞する人がいて初めて完結するのですから、人に聴いてもらうことは大事な(というか不可欠な)ことです。しかし私は長年、舞台に立つことには消極的でした。人さまに聴いてもらいたい気持ちが無いわけではなかったのですが、それはハタ迷惑だという心理的規制が強く働いていたのです。ところが、10年ほど前に初めてW先生の門を叩いた時、私の心に驚くべき変化が起こりました。
その時も実は、ひょんなことから私を公開の演奏会の出演者として推薦して下さる方が現れ、それが通ってしまったので慌ててドイツの知人(W先生の妹さん)に電話をして事情を説明し、「推薦者に恥をかかせては申し訳ないので発声のレッスンを受けたいのですが、お姉様にご紹介頂けませんか」とお願いしたのでした。初めて伺ったレッスンで呼吸や共鳴の仕組みについて教えて頂き、W先生の誘導に従って声を出しているうちに、それまで高い声は出ないと思いこんでいたのにソプラノの音域がラクに出るようになりました。W先生に「あなた、メゾだって言ってたけど本当はソプラノじゃないの?」と言われ、その日以来完全にソプラノになってしまったのです。そして、それと同時に身体の奥の方から「人さまに聴いてほしい」という気持ちが目覚めてきました。それは実に不思議な感覚でした。
約1ヵ月後の演奏会では、歌いながらお客様との親密な一体感に包まれ、大げさなようですが「これでもう思い残すことはない」という気持ちになりました。ところがおかしなもので、それからなぜかコンサートのオファーがちらほらと舞い込むようになり、自主リサイタルも企画するようになりました。こうして振り返ってみると、この10年の間に私に起こった変化はまことに劇的なものだったと思います。
自分の経験を通して感じることは、「人前で歌いたい」という気持ちが起こったら、それに素直に従うことで次の扉が開かれる、ということです。それまでは静かに(?)一人で声を出していればいいと思いますが、発声のトレーニングを重ね、歌を数多く歌っているうちに、遅かれ早かれ目覚めがやってくるのではないか、というのが私の推測です。最初から人前に出るのが大好きというタイプの人もいますが、私のように引っ込み思案でも(??)こんなにしょっちゅう人前で歌えるようになったのですから、歌には本当に不思議な作用があるものだと思います。
そういえば先日、県外の教会の聖歌隊のレッスンに行った時、牧師さんが「人に自分たちの歌を聴いてもらいたい、と思うようになりました」とおっしゃっていました。この聖歌隊はとても清らかな響きを持った素敵なアンサンブルグループです。礼拝の時だけでなく外部でもどんどん歌って下さったら、世の中が明るくなると思います。

副科声楽

2012年05月14日 | 日記
昨夜、ピアニストのSさんと久し振りに夕食を共にしました。Sさんのピアノの生徒さんがうちで声楽を習っていたりする関係もあって、この前教育学部を受験した生徒さんのことや、2年後に受験を迎える生徒さんのことなどが話題になりました。
昔からの傾向ですが、ピアノはうまいのに歌が苦手、というケースが多いのはどういう訳でしょう。逆も真なりで、声楽科の人はピアノに苦手意識を持っていることが少なくありません。個人的な印象ですが、管楽器や弦楽器を専攻する人には割と歌が好きな人が多いように感じます。単旋律楽器である弦楽器や管楽器は、メロディを美しく歌いあげたり、音色を工夫したりする点が歌と似ているのかもしれません。それに対して、ピアノという楽器はもともと鍵盤が用意されているので、音程を作るという作業が要りませんし、長いフレーズを弾く時も、声楽や管楽器と違ってブレスの心配をしなくてもいいのですね。さらに、複雑な譜面を見ながら一人でメロディも和声も演奏するので、音楽づくりが自分一人で完結しています。また、器楽には歌詞がないので、歌詞の意味を調べたり、言葉との兼ね合いでブレスの位置をずらしたりといったことがない、というのも、器楽と声楽の大きな違いです。声楽の場合、音楽づくりがかなり歌詞に規定されます。
さて、音大や教育学部の受験科目としての声楽は課題曲にイタリア歌曲が指定されることが多いのですが、日本の高校生がイタリア語で恋の歌を歌う、というシチュエーションは少々けったいなものです。歯の浮くような歌詞を美しいメロディに乗せて朗々と歌い上げるというのは、相当な芝居っ気がないと気恥かしくてできません。私は高校生の頃、いつも「こんなに陳腐な歌詞にどうしてこんなに流麗なメロディがつけられるんだろう」と訝しく思っていました。しかしともかく、そういう歌をそれなりに自分のものにして人前で歌いあげなければならないのです。恥ずかしがっていては話になりません。
思うに、内向・外向という分類法を使えば、ピアノ科の人は楽器の性質上、内向型になりやすいのではないでしょうか。声楽科の人は、審査員やお客様を目の前に見ながら自分をアピールしなくてはいけませんし、必ず伴奏者との共演ですから、常に他人が意識に入っています。嫌でも外向型にならざるを得ません。
受験生のレッスン、特にピアノ専攻の方の副科の受験科目としての声楽のレッスンは、歌を歌いたいという気持ちを最初から持っている方とは少しスタンスが違うので少々気骨が折れます。内向と外向のどちらの要素も皆持っているものですから、歌のレッスンによって両方のバランスがとれてくれば理想的だと思いますし、実際にそうなる場合もありますが(私自身がかつてはかなりの内向型でした)、一筋縄ではいかないケースもあります。まあ、そこがレスナーの腕の見せどころでもあるのですが。受験のために仕方なく(?)声楽を習う人たちにも歌うことの快感を知って頂きたいと願っていますし、そのために微力を尽くしたいと思います。

春への憧れ

2012年05月12日 | 日記
「春への憧れ」というドイツ歌曲があります。モーツァルトの作品で、日本の「早春賦」とよく似た曲です。大学1年生のドイツ語のクラスで毎年5月に歌っています。歌詞が「おいで、いとしい5月よ」で始まるので5月の歌に相応しいし、あまり音楽に縁のない学生さんにも覚えやすいシンプルな曲の作りなので。
今年担当しているクラスの学生さんたちはノリが良くて、4月に歌った「かえるの歌」をとても楽しんでくれました。でも「春への憧れ」は一応芸術歌曲なので、「かえるの歌」とは少し違ったアプローチが必要です。
まず最初に歌詞カードを配り、ドイツ人のテノールがこの曲を歌っているCDを聴いてもらいました。聴き終わった後で「この曲を知っている人、いますか?」と尋ねると、予想通りゼロです。そこで「これはモーツァルトの歌曲なんですよ。今月はこれを歌えるようになろうね」と言って、歌詞の読み合わせをしました。一度通して読んでから「何か気づくことはない?」と訊いてみると、一人の女子学生が「各行の終わり方に規則性があります」と言うではありませんか。「それに気づくなんてスゴイ!他の人たち、わかる?」と言うと、他の学生さん達も目を凝らして歌詞をチェックし始めましたが、なかなかわからない様子です。「奇数行は最後の単語が全部eで終わり、偶数行はnで終わっているでしょ?」と言うと、「あ、ホントだ」という声がちらほら。もう一度声に出して読んでもらうと、全員が納得してくれました。
脚韻の法則に先に気づいてくれるとは予想外だったので「もうひとつ、もっとわかりやすい特徴があるんだけど...」と水を向けましたが、皆が首をひねっています。ドイツ語を始めてまだ1ヵ月ですから無理もありません。「アクセントの位置に規則性があるのよ。奇数行は弱―強―弱―強―弱―強―弱、偶数行は弱―強―弱―強―弱―強になっているでしょ、奇数行は最後が弱拍で終わり、偶数行は強拍で終わるけど、いずれにしてもすべての行が弱拍で始まり、弱と強が交互に繰り返され、且つ一行に強拍が3つある。わかるかな?」と説明して、アクセントを意識しながらもう一度一緒に読み上げてみました。男子学生の一角から、感心したような驚いたような声が上がったので、「ヨーロッパの詩には韻律形式というものがあって、基本的にはその形式に従って詩を作るのよ。いくつかのパターンがある中で、これは一番シンプルな形なんです。日本では小学校の国語の時間に詩を作ったりするけれど、ヨーロッパでは小学生にはちょっと無理だよね。詩は作るより暗誦するもの、って感じらしいよ」。こんな話を身を乗り出して聞いてくれるので、ついでに「詩に曲をつける時も、その韻律をなるべく壊さないように、メロディの強拍に歌詞の強拍が来るように作ってあるんだよ」と言ってもう一度CDを聴いてもらいました。ますます感心したような顔つきです。「それじゃ一緒に歌ってみよう」と言って、一節ずつ練習しました。曲のリズムが韻律に則っているので、初心者の彼らにも歌いやすいようです。通して歌ってみると、なかなかサマになっています。
こういう角度からの語学学習には新鮮味があるだろうと思うので毎年やっているのですが、今年は何をやっても打てば響くような反応で、授業をしていて本当に楽しいですね。これからがますます楽しみになってきました。