音痴はなおる

2011年11月25日 | 日記
今日は新しい生徒さんをお迎えしました。来年70歳になられるTさんという男性で、先日入門されたYさんのご主人です。
Tさんは、小学校1年生の時に音楽の時間に先生から「あなたは小さい声で歌いなさい」と言われたことがトラウマになって、ご自分のことを音痴だと思っていらしたそうです。歌に苦手意識がある方は音楽自体を敬遠してしまう傾向があるようで、歌が大好きな奥様は結婚後、一番大切な趣味をご主人と分かちあえないとわかって大ショックを受けたそうです。「あわや離縁というところまで行ったんですよ」と笑いながら話して下さいました。
私は、音痴はなおると信じています。というのも、これまでにかなり重症の音痴の生徒さんのレッスンをしたことがあるからです。そのうちの一人、当時小学生だった男の子は、最初はお母さんと一緒にピアノを習いに来ていました。レッスンの一環としてソルフェージュをやったところ、親子ともどもリズムも音程もとれないし、テンポもキープできないことがわかったのです。お母さんの方は歌に対する苦手意識が強すぎて、音痴矯正のレッスンをするには至りませんでしたが、お子さんの方はとても無邪気で、音が多少はずれていても屈託なく大きな声で歌っていたので、こういう性格なら大丈夫かな、と私もトライしてみたのです。結果、この男の子はみごとに音痴を克服し、中学生の頃には友達とバンドを組んでボーカルを担当するほどになりました。
もう一人は60歳過ぎの男性です。やはり子どもの頃から音痴だったそうで、義務教育以来全く歌とは無縁に生活してきたとのこと。数年前、「気分転換にとてもいいから」と知人の方の手で私のもとに強制連行(?)されて来られた時には、ここがヴォイス・トレーニングをするところだという認識さえなかったそうです。
この方の初回のレッスンのことは忘れられません。話し声から判断してテノールかな、と思ったので、適当な高さの見当をつけてピアノのキーを叩きながら「ア~」と一声出し、「この音を出してみて下さい」と言ったら、全く違う音程で「ア~」と歌われたので、「あれ?音が違いますよ、この音ですよ」と言って再度ピアノのキーをポンポンと叩いたところ、またまた全然違う音程で「ア~」と来ました。「音が違うんですけど...」と言うと、何と今度は「イ~」と叫ばれたのです(笑)。
内心途方に暮れましたが、小学生のレッスンの経験が私に自信を与えてくれました。その方の出している声と同じ音程で「ア~」と声を合わせ、「今、私たちの声、同じ高さですよね?」と尋ねると、はい、と言われたので、「それでは、私の声についてきて下さいね」と言って少しずつ音程をずらしていきました。すると、何とか一緒について来られたのです。しめた!
3度以内で音程を動かす練習をしました。それ以上は声帯が固まっていて無理でした。そこで、声を出すのをいったん止めて、ストレッチ、呼吸の練習、喉頭蓋を開ける練習、上顎を挙げる練習などをしました。胸を軽く張ったままロングトーンの練習をしたりして、体を使って声を出す要領を少しずつ掴んでもらいました。数年たった今、その方はとても良い声になられ、立派にカンツォーネやイタリア歌曲を歌っています。
たった2つの事例ですが、先日、奥様のレッスンについて来られた時にTさんに「音痴はなおりますよ」と言ってこの話をしたところ、「勇気づけられますね」とおっしゃって本日の入門に至りました。
今日は初回でしたので、呼吸、発声、共鳴のしくみについてレクチャーをしながら、呼吸の練習や下顎の脱力、舌のストレッチ、喉頭蓋の開け方や上顎の挙げ方の練習などを一つずつ丁寧にやりました。体を使って声を出すということが少しわかったようです。お疲れになったかなと心配しましたが、「気分いいです」とおっしゃって、12月のレッスン日程を打ち合わせて帰られました。
歌に苦手意識を持っている方、それが原因で音楽に親しめないでいる方に、人生の楽しみを一つ増やして差し上げることができれば私も本望です。Tさんにも是非、歌う喜びを味わって頂きたいと思います。その日はそう遠くなさそうです。

外国から帰ってくると...

2011年11月24日 | 日記
今朝レッスンに来られたJさんは、先日、ドイツ在住の娘さん夫婦を訪ねてドイツへ行って来られたので、今日は約1ヵ月ぶりのレッスンでした。帰ってきてすぐにちょっと体調を崩され、まだ本調子ではないそうですが、いざ声を出してみるととてもいい響きです。口の奥がよく開いていて、息が喉に残らず、全部響きに変わっている感じです。高い声も全く問題なくきれいに出ます。「今日はすごくいいですね」と言うと、「はい、何の苦もなく声が出る感じです」とおっしゃいます。体調が万全でないのに声がよく出るとは不思議だな、と思いましたが、ハタと「そうだ、ドイツ帰りだからだ!」と思い当たりました。
私の師匠は3人の妹さんが皆ドイツ在住で、娘さんもドイツ人と結婚してドイツにお住まいです。それで時々ドイツに行かれますが、「ドイツに行って帰ってくると声がよく出るのよね」とおっしゃいます。「多分、ずっとドイツ語を聞いているからだと思うわ」とおっしゃていました。
そういえば、イタリアに留学していた同級生のO君も同じことを言っていました。帰国後の彼に久し振りに会った時、「イタリアのレッスンって日本とだいぶ違うでしょ?」と尋ねたら、「まず、しゃべっている言葉が違うからね。」と言うのです。あの朗々とした、世界で一番音楽的と言われるイタリア語の世界で生活をし、四六時中イタリア語を浴びているだけで自然と歌う時のフォームが変わってくるそうです。
もうひとつ面白い話があります。以前、語学研修のためドイツに1ヵ月ほど滞在した時、語学学校の同じクラスに日本人の留学生がいました。よもやま話のついでに、私がヴォイス・トレーナーであることや、日本人が西洋式の発声を学ぶ時に最も大きなハンディとなるのは音声学的な意味での日本語であることを話したところ、「そうなんですか。私は1年半前からドイツに住んでいるんですけど、こちらに来て半年目ぐらいに日本から母が訪ねて来た時、1週間ぐらい母と日本語ばかりしゃべっていたらアゴが痛くなって...なんでだろう、と思っていました。日本語ってアゴに力が入るんですか?」と言うのです。へえ~、半年間全く日本語をしゃべらないでドイツ語に浸っていると、日本人でもアゴの力が抜けるんだ、と改めて新鮮な驚きを感じたものです。
昨日レッスンにみえた韓国人のYさんも、「韓国語の母音の中に、日本語の発音ととても似ているけれど微妙に違うのが2つあるんですけど、私はもう23年も日本に住んでいるので、その発音ができなくなりました」とおっしゃっていました。日本語は母音の種類が少なく、eの発音が2種類あるイタリア語や、ウムラウトがあるドイツ語などと違って、口形を微妙に変えて様々な母音の違いを出す必要がないので、口の中が狭くなるのです。韓国語も中国語も、日本語より母音の数が多いそうです。
口の中が狭いことや、下顎に力が入っていることがどれほど声楽発声に悪影響があるかは案外知られていません。大学時代にイタリア人声楽家の公開レッスンを聴講した時、一人の受講生が「「ウ」の発音が違っています。あなたのは「ウ」じゃなくて「ユ」になっています。「ウ」と正しく発音しなさい」と注意されていました。しかし何度やってもなおらず、先生が途中であきらめてしまったのを覚えています。イタリア人には、なぜ日本人は「ウ」が「ユ」になってしまうのかわからないので、なおし方もわからないのです。日本語の「ウ」は口の前の方で発音しますが、イタリア語やドイツ語の「ウ」は、日本語の「オ」に近いぐらい口の奥行きを深くして発音します。口の中が広いのでとてもよく響きます。
昨日の中学生の独唱コンクールでも、イタリア語の「ウ」の発音が「ユ」あるいは「イ」に聞こえる人が何人かいました。音楽教育の中で日本語の発音特性についても少しは教えた方がいいような気がします。

高砂や~

2011年11月23日 | 日記
中学生の独唱コンクールを聴きに行ってきました。自分が中学生の時に受けて以来、実に32年ぶりです。
きれいな声の子が多いなあ、というのが第一印象。難しいイタリア語の歌をよく歌うなあ、というのが次の感想。私が受けた時は日本歌曲を歌う人がほとんどで、たまに「帰れソレントへ」など外国の歌を歌う人がいても、たいていは日本語の訳詩で歌っていたと思います。
次々と出てくる中学生たちの歌を聴いているうちに、唐突に今朝見た連続テレビドラマのワンシーンを思い出しました。主人公の父親が、娘の結婚式のために「高砂や~」とお謡の練習をしている場面です。なぜ突然中学生たちの歌うイタリア歌曲と謡曲がオーバーラップしたのか、一瞬不審に思いましたが、すぐにわかりました。中学生の声が胸に響いているんです。
私は一回きりですが謡曲を習ったことがあります。知人に誘われて、高名な謡曲の先生とさし向いでレッスン(と言うのかな?)を受けました。その時の先生の声の素晴らしかったこと、クラシックの声楽しか知らない私にとってはカルチャーショックでした。謡曲は丹田呼吸なんですね、下腹にぐっと力を込めて声を出すように言われました。これはわかります。ところが、響かせるところが違います。クラシックの声楽は頭に響かせますが、謡曲は胸板に響かせるのです。先生の声は、目の前に座っている私の体まで共振するぐらい朗々とした、文字通りしびれるような響きです。それで、その響きを真似しようとしましたが無理でした。声楽では頭蓋底の共鳴腔に呼気を届けるために、呼気をなるべくスピーディーに上へ飛ばす必要がありますが、謡曲は上へは抜かないのですね。しかし、どうすれば息のスピードを保ったまま胸に響かせることができるのか、1回のレッスンではちょっとわかりませんでした。多分、特別な技術があるのでしょう。
さて、今日の中学生たちの多くは胸に響いていました。それが「高砂や~」の連想につながったようです。謡曲風イタリア歌曲って、イタリア人が聴いたら違和感があるかもしれませんが、それはまあ懐石風フランス料理みたいなもので、好みの問題です。ただ、これはちょっとモンダイだなあ、と思ったのは、口から息が漏れて声の密度が薄くなっている人や、喉のあたりに息がまとわりつく音が声に混じっている人です。息は常に垂直にスピーディーに抜けないといけません。これは声楽発声の鉄則です。そのスピードが足りないと喉を傷めます。また、息が上に抜ける道が狭くなっていたり塞がっていたりすると、そこで息のスピードが落ちて、息も落ちてしまいます。
しかし、私もかつてはそんな発声をしていました。高校生の時、コンクールで審査員の先生から「あなたの声は全部下に落ちています」と指摘されてびっくりしたことが、私が「発声」に目覚めた最初のきっかけでした。そして、私を発声の重要さに開眼させて下さったその審査員の先生は、なんと今日も審査員席にいらっしゃいました!

歓喜の歌

2011年11月22日 | 日記
この季節の風物詩とも言える「歓喜の歌」。ベートーヴェンの「第9交響曲(合唱つき)」の第4楽章です。シラーの長大な詩をテキストとするこの曲は、クラシック音楽の中でもどうやら特殊な位置にあるようで、毎年暮には「第9」を歌わないと年が明けない、という人や「第9」だけは必ず毎年聴きに行く、という人は私のまわりにも何人もいます。
私は中学1年の時、この歌の一番有名な部分「フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン...」を、ホームルームの時間に担任の先生からドイツ語で教わりました。カタカナで呪文のように歌った「歓喜の歌」でしたが、思えばそれは、ドイツ語というものに触れた初めての経験でもありました。
音大時代にはNHK交響楽団と一緒に「第9」を歌いました。私の出身大学は声楽科の学生が3年次にN響と第9を共演するのが長年のしきたりで(今も続いています)、毎年NHKホールの舞台で演奏し、テレビでも放映されるので、第9を歌いたくてこの大学に来た、という人もいました。ちなみに、私たちの時の指揮者はヘルベルト・ブロムシュテット氏でした。
その時、第9が病みつきになる気持ちがよくわかりました。この曲はやはり特別な曲です。完全に聴覚を失ったベートーヴェンが、苦悩と失意のどん底を突き抜けて至った歓喜の境地。これは、クラシック音楽の傑作という枠を超えた、人間の精神の偉大さを示す人類の至宝であると思いました(ですから、中学校で音楽を教えていた頃、生徒たちにも是非この曲に触れてほしくて、毎年冬休みには「第9を聴いて感想文を書いてくる」という宿題を出していました)。
さて、月日は流れ、今年のクリスマス会ではこの「歓喜の歌」の一番有名な部分を皆で合唱しようと思っています。「カリオペくまもと」のクリスマス会は小さな会場でアットホームに行う茶話会付きのミニコンサートで、最後に全員合唱でしめくくります。例年は讃美歌を歌っていますが、今年は大胆にもこの「歓喜の歌」に挑戦してみようと思いたったのです。
そこで今月から、健康発声セミナーでも個人レッスンでも、皆さんにカタカナ付きの楽譜を配って一緒に練習していますが、一つ問題があります。それは、この曲は大人数で歌えば素晴らしくカッコいいけれど、小人数ではちょっとしょぼい(笑)、ということです。オリジナルの混声4部合唱は到底無理なので、いっそのことユニゾン(斉唱)にしようかともと思ったのですが、男声には高すぎます。ですから、まあ2部か3部(??)で歌うことになるかな、と思っています(アバウトだなあ!)。
今日レッスンにみえたテノールのIさんは、鼻炎で先週のレッスンをお休みされたのですが、まだ完治していないようで、今日は声が少し低めでした。普段より3度ぐらい低いところまでが限界で、それ以上は声帯が引っ張りきれなくなっています。病み上がりは誰でもそうなので、あまり無理をせず、体をきちんと使って出せる音域でリハビリ的なヴォイトレを何パターンかやった後、高音域を避ければ歌もいけそうだったので、「第9」のテノールパートを一緒に練習しました。
まず「ア」の母音で全部を歌ってみます。音が取れたら次に歌詞をドイツ語で読む練習をして、今度はドイツ語で歌ってみます。これが難物で、言葉に気を取られると音が狂うし、音符を追いかけていると言葉がはみ出す。ドイツ語の歌は言葉をつけるのが特に大変です。Iさんもちょっと苦労されましたが、何とか最後まで(といっても見開き1ページですが)歌えるようになりました。初めてにしては上出来です。
今月から来月にかけて、うちではこのようなレッスン光景が続くことになります。さて、12月23日のクリスマス会ではどんな「歓喜の歌」が響くでしょうか。興味のある方はどうぞご来聴下さい(笑)。

体を開く

2011年11月21日 | 日記
私たちの業界用語の一つに「体を開く」という言い方があります。「もっと体を開いて!」とか、「ああ、今日は体が開かない...」というように使います。
これが何を意味するか、私は長いことよくわかっていませんでした。以前は「心を開く」ことと混同していた(つまり精神論としてとらえていた)こともありました。しかし「体を開く」とは、いろんな説明の仕方があるでしょうが、現在の私の理解では「インナーマッスルを中心に内側から体を動かして、体の表面積が拡がるようにすること」で、現象面だけ見れば完全に身体レベルの話です(もちろん、体が動く時に心理的な動きが伴うことは否定しません)。
今日、障がい者福祉サービス事業所のヴォイトレで「小さい秋みつけた」の練習をした時、一番最後の「ちいさいあきみーつけたーーー」の「たーーー」と伸ばすところの音程が高いので、皆さんそこでリキんでしまって体が縮むようでした。喉も詰まっています。そこで、その部分だけ大きく伸びをしながら声を出してもらったところ、それまでとは打って変わってスーッと空間に広がる良い響きに変わりました。こういうことを(少なくとも私は)「体を開く」と表現しているのです。そうそう、その声です、と何度か繰り返して練習しました。そこだけ取り出して練習するとできるのですが、前の部分から続けて歌うとうまくいきません。コントロールが難しいのです。でも、良い時の感じはつかめました。
夕方、小4の姪のピアノのレッスンの時に、姪が「明日の地区音楽会で合唱をするんだけど、歌い過ぎて声がガラガラになっちゃった。どうしたらいいか教えて。」と言うので、ちょっと歌ってもらいました。確かに高音部がかなりハスキーになっています。どうやらこれまで喉だけで歌っていたようです。「高い音のところで、足のつま先をトウシューズを履くような形にしてお腹の下の方をぐっと引いてごらん」と言うと、ガラガラだった高音がきれいに響きました。見ていると、足のつま先とお腹に力を入れる瞬間、体がゴムのようにぐーんと伸びています。なーるほど、と妙に納得してしまいました。子どもの小さな体は、筋肉の動きが手に取るようにわかって面白いですね。