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のりぞうのほほんのんびりバンザイ

あわてない、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

そーゆーヤツ

2011年09月13日 00時11分19秒 | 教会生活
週末、教会友達にえらいことお世話になったため、
お礼も兼ねてお電話しました。

何回伝えても足りないぐらいの
「ごめんね。」と「ありがとね。」を伝えていたところ、
教会友達が不思議そうに「あれ?今、外?」と尋ねられました。

うん。今、帰りー。

とお答えしたところ、教会友達が
「俺も今、外。俺は今からバイトー。」
と答えてきたので、

あらまあ!今からバイト?!
そらまた大変ねー。がんばって!じゃあ、また今度!

と一気に「じゃあ、電話を切りますぜ」モードに突入し、
「はやっ!何?!即座に??余韻とかないの?!」
と教会友達から驚かれました。

・・・あー。ヨインねぇ。
そんな日本語もあったよねぇ。
あたしが使いこなすの苦手なヤツだよねー。
友達と会って食事するときも
「じゃあ、そろそろ」となったら、
一切の余韻なしで「じゃ、帰るから!」と宣言しちゃうもんねー。
即座に立ち上がっちゃうもんね。

「あれね。」とか「これ、お願いね、」とか
「じゃ、そーゆーことで!」「近いうちにまた!」などといった
日本語的曖昧表現は非常に大好きでよく使いまわしますが、
日本語的侘び寂的立ち居振る舞いは非常に苦手です。
余韻も何もなく、0か1で動きます。
眠いとなったら、眠い。
帰りたいとなったら、帰りたい。
飲み会のあとの
「次、どうする?2件目も行っちゃう?どうする?どうする?」
みたいなちょっぴりぐだぐだした感じの時間がちょう苦手。

というようなことをつらつらと思い出し、
ホント、私ってば
マイペース(=自分のペース=自分勝手)に生きてるのね、
とわが身を反省しました。わが身を反省しながら
「ごめん!ごめん!
 なんとなく切らなくっちゃ!というような気持ちに駆られてしまって」
と、大慌てで取り繕いました。
取り繕いながらも、
でも、もうこの自分のペースで行動する癖は変わんないだろうなー、
とこっそり開き直ったことは、教会友達には秘密です。

・・・ま、開き直ってることも
私が私を変えるつもりがないことも
教会友達には確実にばれているわけですが。
ホント、アリガトウ。

夢のまた夢

2011年09月03日 21時29分07秒 | 教会生活
教会お掃除当番のため、雨の中、教会へ。
相方さんより一足早く教会に着いてしまったため、
先にお掃除を始めていたところ、もんのすごい足音がして
教会友達のちびっこくんがやって来ました。
どうやら、教会で待ち合わせしている模様。

「のりちゃん、なんしよるん?」と聞かれたため
「今日、教会のお掃除当番なんよー。」とお答えすると
もんのすごい勢いで驚かれました。

「え?!のりちゃん、教会掃除しよると?」
そうよー。しよるよー。当番に入るようになったもん。
「ホントに?知らんかったー!いつから?」
いつからだっけ?もう結構、しよるよー。5回ぐらいはしたかなー?

という会話をしたところで、
ただでさえおっきな声のちびっこ君の声が更におっきくなり。

「え?!のりちゃん!結婚を5回もしとると?!」
と驚かれました。

してないよ!!1回も!!
と思わず条件反射でそっこー答えましたが。
どゆこと?
なにゆえに、いきなり結婚話?
しかも、5回ってその具体的な数字は一体、どこから?

と考えて。
あー、なるほどね。と納得しました。

「けっこん」と「けっこう」ね。
「結構しよるよー。5回ぐらいはしたかなー?」と
「結婚、しよるよー。5回ぐらいはしたかなー?」ね。

むしろね。
言ってみたいっす。そんなかっこいい科白。

祝☆1周年

2011年08月02日 23時24分24秒 | 教会生活
昨日、教会員の方から
「おめでとー!転入会1周年だね。
 ということで、のりぞうちゃんの信仰告白を読み返してみたよー。」
というぬくもり溢れるメールをいただきました。

そっかー。1周年でしたかー。
記念日とか誕生日を何ひとつ覚えられないもので
全然、意識してなかったわー・・・。
と、驚きつつも、覚えてくれている人がいることに感謝しました。
こういった気配りが人としてのあったかさなんだろうな。
すごく嬉しいことだな、と喜びつつ
私の中を隅から隅までひっくり返しても
こういった気遣いとか、思いやりとか、人への関心って
どうやっても出てこないなぁ・・・とちょっぴり反省もしました。

ま、反省したって、変われないんだけどね。

というわけで、あっさり気を取り直し、
私も1年前に書いた(らしい)信仰告白を読み返してみました。

・・・本当に1年前に私が書いた文章なのかしら?
と疑問を抱いたぐらい内容がすっかり記憶の彼方に飛び去っていました。
勿論、書いたっていう事実は覚えているし
内容だって、「クリスチャンになるまで」を思い返した前半は
ちゃんと記憶に残っているのです。
それなのに。
後半の「これからに向けての決意」はものの見事に忘れ去っていました。
むしろ、意図的に消し去っているとしか思えないほどの忘れっぷり。
そっかー。1年前の私はこんなことを決意していたのかー。
と新鮮な気持ちで(まるで他人事のように)読み返せました。

それにしても。
転入会からまだ1年なのね、とそのことにもびっくり。
初めて今の教会を訪れてから転入会を決意するまでに1年かかり
それから転入会をするまでの準備に半年かかり、と
転入会までに多くの時間を費やしたので
もう随分と今の教会の教会員として過ごしたような気になっていました。
この教会で過ごす日曜日も、教会員の方との交流も
今の私にとって「当たり前の日々」になっているからなんだろうな。
その「当たり前」がちょっぴり嬉しいな。

いい機会なので、転入会して何か変わったかな?と思い返してみましたが
どれだけ一生懸命思い返してみても、
自分の中に変化を見出すことはできませんでした。
何ひとつ変わってはないな、という結論に落ち着きした。
私にとっては「転入会」よりも
「バプテスマ」のほうが大きな変化であり、きっかけだったのかな。
そういった意味で、以前の教会は私にとって
これからもずっと大切なふるさとみたいな存在なんだろうな、と思います。

ただ、この教会に来て、変わることに対する恐れはなくなったかも、
と自分の信仰告白を読み返して思いました。
「変わりたくない」と肩に力を入れて過ごすことはなくなった気がします。
というか。
肩の力を抜きすぎている。気がしないでもないかな。
教会の中ですら、どんどん、ふてぶてしくなってきている。
気がしないでもない。かな。

年に一度ぐらい、自分の書いた文章を読み返してみるもんだな。
過去の自分と向き合ってみるもんだな。と深く深く思いました。

「変わることを恐れず、
 祈ることに責任を持ち、
 自ら行動する」
もう一度、自分自身に問いかけなおします。

ひとりはみんなのために

2011年04月10日 21時44分13秒 | 教会生活
月末にある教会のミニミニコンサートに、
学生会のみんなでも参加するため、礼拝後に練習をしました。

・・・撃沈。
なんで。なんでこんなにリズム感がないんだろー。
「誰でもできる」がコンセプトのはずのチャイム(ハンドベルのようなもの)に
四苦八苦で大苦戦を強いられております。
しかも、なぜかミスをするときに堂々とミスをしてしまう傾向にあるため、
両隣の音楽センスに恵まれている若者2名からは
困った顔をされたり、笑われたり、不思議がられたり、笑われたり。

うん。私のミスも「誰かを笑顔にしている」と思うと
ほんの少し私自身が勇気付けられるよね!と、自分を慰めていると、
練習後半、右隣の若者がしきりに首をかしげ始めました。
「おかしいな。これ、全然、難しくないのに。
 なんかつられてきた・・・。」

申し訳ない。
そらそーだよね。
隣でこれだけ間違い続けていると、集中力も乱れちゃうよね。
と恐縮をしつつ、あまりの自分のへたっぷりがおかしくてたまらなくなり
ひたすらに笑い続けた練習時間でした。
もうね、これだけ音をはずせるのもある意味、すごいと思う。
担当している音はたったの3つなのに。
出番も決して多くはないのに。(1番と3番のみ。)
1番から3番を通して練習して、まったく間違えることなく終わった練習が
ただの1度もないってどゆことだろう・・・。
と思ったら、おかしくておかしくて。
でも、みんなは真面目に練習しているのに!
こんな笑ってごまかすようなかっこ悪いことだけは避けなければ!!
と思えば思うほど、おかしくておかしくて。
笑いって我慢しようとすればするほど出てきちゃうんだな、と体感しました。

練習直後。
帰る私を見送りに来た指揮者さんから声をかけられました。
「のりちゃん。笑ってくれよったやろー。ありがと。
 練習がうまくいかんくて、ちょっといらいらしよった私を
 和ませてくれたんよね。」


・・・。
そんなふうに受け取ってくれて、こちらのほうこそ、ありがとう。
私は自分のミスの多さに自分で面白くなってしまっただけであって
周囲を見て、とか空気を読んで、とか、場の空気を和ませるために、とか
そんな高尚な意図があって笑ってたわけじゃないのに。
しかも、なんなら、そもそも指揮者さんをいらいらさせていた
最大原因といってもいいぐらいのミスを乱発していた張本人なんですけど。
と、色々と思いながら、来週もがんばろう、と決意を新たにしました。
月末の本番までに1回ぐらいはミスなく練習を終えたいなー。

ところで、練習中の曲の歌詞、音楽ともに大好きで
本日は一日中、頭から離れませんでした。
帰る道すがら、鼻歌どころか熱唱し続けていました。(迷惑甚だしい・・・)
自分で歌う分には、完璧に覚えたんだけどなー。
なんでチャイムだとタイミングが掴めないかなー。
歌詞がとてもシンプルで胸にすとんと落ちてきます。
(うまく音が合わせることができさえすれば)
チャイムの優しい音とうまく調和してとっても素敵なんだけどなー。
本当に。
月末の本番までに1回ぐらいはミスなく音を重ねたいなー。

地には平和を この時から
始めさせてください、神さま
どんな時も どんな場でも 永遠に
地には平和 このわたしから

自覚し始めました。

2011年04月03日 22時00分56秒 | 教会生活
今年から連合青年会の役員をすることになったため
金曜日はお仕事終了後、東八幡教会へ向かいました。
初めて話し合いに参加するため、ちょっぴりおどおどしつつ
「本当にできるのかしら。引き受けちゃうのかしら。」
とまだどこか後ろ向きな気持ちを抱きつつの参加でしたが。

30分後。
なぜか話し合いは私の機嫌を伺われながらの進行となっていました。
「のりさんが怖いけん、本題に戻るよ!話し合い始めるよ!」
「ほら!またずれとるし!のりさんが怒っとるよ!」

・・・ちょっと、ちょっと。
私をダシにするのやめてもらえませんか。
私、ちっとも怒ってないし!!
ただ、話し合いがあまりにぽんぽんと脱線するから感心して見てたというか
よくそんなにすぐ脱線できるもんだなー、と呆れてたというか
へぇ、またずれるんだー、とほんのぽっちり冷めた目線で見てただけですから。
まったく怒ってないのに、「怒った」なんて言われるのは心外ですよ!

と、たしなめたところ
「こわいね。」
「うん。こわいね。」
「話し合い、ちゃんと進めようね。」
「終了時間の目標をちゃんと決めようか。」
と背筋を正されました。


・・・なんでだろ。

そして、本日の礼拝終了後。
教会友達2名と「連合青年会」についての話になりました。

「連合青年会の楽しみはね、
 のりちゃんを観察すること、かな。
 笑顔で結構、ひどいこと言いよるもんね。」
「遠慮ないよねー。もうばったばったと人を切りつけるよねー。」
と意気投合する2名。

なんでー!?
心外ですよ!!
私は素直に思ったことしか話してないっていうのに。
それを「きりつける」だなんて。
ぶっそうな言葉はやめていただきたいっ。

と憤慨していると
「悪気はないっちゅーところがポイントやんね。
 悪気ないのは伝わってくるもんね。」
「より一層、たちが悪いよね。
 悪気がないけん、ひどいんよね。でも、そこがおもしろいんよね。」
と、なお一層、意気投合ぶりが盛り上がる2名。


・・・そんなにひどいこと言ってたかな。
と思い返し。
会社生活でも同期からは似たようなことを言われ続けているな。
と思い至り。
どうやら私の特技は「自覚なく悪口が言えること」らしいぞ。
と開き直ることにしました。
開き直ることしかできませんでした。

でも「無自覚」からの大きな一歩です。

メモ

2011年03月27日 22時48分39秒 | 教会生活
本日の礼拝にて。
被災地に入られた牧師からの報告レターが紹介されました。

被災地に入った当日、日頃から親しくしている当教会の牧師へは一言
「言葉がありません。」というメールが届いたそうです。
そのメールをもらってから数日後に書かれた報告レター。
報告内容は勿論ですが、その最後の一文に強く心を打たれました。
私もそうありたい、と強く祈りました。
自分のための備忘録です。

報告書は、写真がまだ間に合わないこと、
写真は後日、改めて送ることを伝え、次の一文で終わりました。

「写真よりも言葉が人の心を動かすキリスト教信仰を私は信じます。」

仕事と役割と生業

2011年02月21日 23時22分18秒 | 教会生活
昨日は礼拝終了後に学生会、教会研修、青年会と盛り沢山の日曜日でした。
各プログラムは単体企画でしたが、
それぞれのプログラム内容が少しずつリンクしあっていて
1日を通して「あ、そっか。なるほどね。」と腑に落ちた日曜日。
その腑の落ち方が非常に面白く、「メッセージだな」と思えました。

以下、数日後の私のための、私フィルターがかかっているメモです。
腑に落ちているのに、それぞれのメッセージがまだ未整理で
いつも以上に混沌としています。

・礼拝で心に残った言葉。
 人間には「役割」がある。
 信じている人間の役割は、信じていない人間が「ダメだ」と
 絶望しているときに、笑ってみせ、食べてみせ、生きてみせること。

・教会研修で心に残ったママさん教会員の方の言葉
 3人も子どもを連れて日曜の朝から出てくるのはきついときもあるけれど
 「やっぱり行かなきゃ」と思って出てくると、
 うちのちびっこと会って「癒される」とにこにこしてくれる人がいる。
 うちの子と遊ぶのを楽しみにしてくれる人がいる。
 そういった人たちが「来てくれてありがとう」と言ってくれる。
 その言葉を聞くと、
 私が礼拝に来るのは私のためだけじゃないのかもしれない、
 私が礼拝に来るだけで、私は誰かの役に立ってるのかもしれない
 って思えるんです。

・やっぱり「声を掛け合うこと」が大切。
 嬉しいときは「ありがとう」と言葉に出して伝える。
 伝えることで、その人も自分の役割(存在価値?)に気付くことができる。

・教会研修で心に残った言葉
 ⇒誰にでも「仕事」は必ず与えられる。
  その「仕事」を指し示す言葉はとてもかすかな声。
  けれど、絶対的で「嫌だ、面倒だ」と思っても従わざるをえない声。

 ⇒誰かに何かを与えられたら、その「与えられたもの」は
  与えてくれた人に返さなくてもよい。
  (与えてくれた人には、同じものを返せない。)
  私たちにできることは「与えられたもの」を次の人へ手渡すこと。
  与えられたものをもらいっぱなしで過ごさないこと。

 ⇒神様は、私たちがいただいたものと同じもの(与えられたものと
  見合ったもの)を返すことを期待してはいない。
  絶対的な「贈与者」。神様に同じものを返せるわけがない。
  自分にできることを見つけて、神様ではなく、自分の周囲の人に
  返していく。サイクルをまわしていく。これが私たちの仕事。

 ⇒仕事と役割と生業は違う。
  人間は生きて食べていかなければならないのでお金を稼ぐ
  「生業」は必要。その「生業」と「仕事」が同じものとは限らない。
  違うことのほうが多い。
  「生業」を理由に(疲れた、とか、忙しい、とか)
  「仕事」をさぼってはいけない。

うーん。
腑に落ちているのにうまくまとまらないのはなんでだろ。

信教の自由を守る会(メモ)

2011年02月11日 22時31分33秒 | 教会生活
2月11日、北九州のバプテスト教会は毎年、信教の自由について
考える集会を行っています。私は「靖国」とか「平和」「戦争」という言葉自体に
アレルギー反応があるため、今まで参加したことがなかったのですが、
今回は「交読文」朗読をお願いされたため、初めて出席しました。

出席してよかったな、と心から思いました。
以下、今回の講演会のメモ。

・信教の自由はあるべき。
・でも、信仰を持たない自由も大切にするべき。
・「仏教」や「イスラム教」など他の宗教を信じる自由もあるべき。
・私たちが信じる神の優位性を主張してはいけない。
・他の宗教の神様を尊重する心を大切に。
・天皇制度が「諸悪の根源」というわけではない。
・天皇や皇族が悪いと言うわけでもない。
・けれど、「その家庭に生まれただけで優位性が生じる」という
 システム自体はやはり問題なのではないか。
・何より、その家庭に生まれてしまった人たちの人権も
 無視されているのではないか。(逆差別が発生しているのではないか。)
・では、私たちにできることは何か、考えることから始めよう。
・身近なことからはじめよう。
・自分たちの弱さを自覚する。
・誰の目にも分かるほど「おかしい」と感じられるときは、
 すでに私達の手では流れを止められないところまで来ている。
・だからこそ、今、自由に意見が言えるときに思いを口にする。
・疑問点をうやむやにしない。
・クリスチャンである私たちは、主日礼拝から始める。
・かつて、主日礼拝で「国のために働くべき」という教えが
 牧師の口から語られたことがあった。そういった動きが来ないか
 礼拝が私達の手で守られているか、私たちが教会につながっているか
 そういったことを見定める。

それでも、やはり人に意見を伝えることも、意見を伝えたことによって
「クリスチャンって、こういうことに敏感で面倒くさい。」と思われること
どちらもとても怖いわけで、そういった思いを率直に「質問」として
ぶつけてみました。その質問に対する牧師のアドバイス。

・人とこういったことで意見を交わすとき、分かったような口をきかない。
・自分を「分かっている人」だと思わない。
・上から意見を述べない。
・それでも、人と意見がぶつかってしまうときはある。
・人との対立を恐れない。
・信念を持ち続ける。
・時代に左右されない価値観を持つ。

・・・どれも難しいなぁ、というのが私の率直な感想です。
でも、その場その場で、自分の思いを丁寧に伝えることは
大切なことだろうな、と思いました。

そういえば。
1月末に放送された「今夜も生でさだまさし」では
さださんが思いを伝えることについて、こんなことを言っていました。

「最近、日本人全体の日本語力がどんどん低下しているんだよ。
 だからね、自分で自分の気持ちをちゃんと伝えられない人が増えてるの。
 自分の中の感情を言葉にできなくて、言葉にできないから人に
 伝えられなくて、その結果、切れる人が増えてるんだよ。

 でね。日本語力が低下しているってことは、自分の思いを言葉に
 できないだけじゃなくて、人が話している言葉もきちんと理解できない
 人の話をきちんと聞けないってことなんだよ。
 だから、人と人との間でいろんな摩擦が増えてるんだと思うよ。」

言葉はすごーく曖昧ですが、こんな言葉でした。
今日の講演会を聞いて、特に講演の最後で「自分の意見や疑問点を
その都度、こまめに人に伝えることの大切さ」を聴いて、
まっさんのこの言葉を思い出しました。