あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛の鞭は存在しない(自我その51)

2019-03-07 08:31:36 | 思想
愛の鞭は存在しない。暴力は、全て、憎しみから発する。愛情があれば、鞭は使えない。愛情があれば、暴力を振るうことはできない。愛の鞭は、地位の上の者が地位の下の者に対して振るう暴力、年齢の上の者が年齢の下の者に対して振るう暴力を正当化した言葉である。日本では、愛の鞭という偽善的な言葉を使って、地位の上の者や年齢の上の者が、これまで、暴力を振るい続けてきたのである。しかも、愚かにも、暴力を振るった者の中には、自分の振るった暴力は愛の鞭だと信じ、暴力を振るわれた者の中には、自分が振るわれた暴力は愛の鞭だと心から信じている者が、少なからず存在するのである。なぜ、彼らは、そのように信じるのか。加害者の罪、被害者の恥から逃れようとするためである。フロイトは、「人間は、過去に嫌な出来事があると、無意識のうちに、記憶を修正して、自己正当化を図ろうとする。」と言っているが、この無意識の記憶の修正と同じことを、暴力の加害者も被害者も行っているのである。また、子供を暴力で殺した親が、皆、「あれはしつけのつもりだった。」と証言するが、しつけという言葉で自らの暴力を正当化しているのである。愛の鞭という言葉と同じである。また、生徒を暴力で怪我をさせた教師が、時々、「あれは教育のつもりだった。」と証言するが、教育という言葉で自らの暴力を正当化しているのである。愛の鞭という言葉と同じである。体罰という教師の暴力を容認した言葉もあるが、これもまた、愛の鞭と同じく、偽善者をはびこらせる要因になっている。また、部員に暴力を振るった監督が、よく、後で、部員に対して、「おまえに期待しているから、思わず、手が出たのだ。期待していなければ、無視している。」と言う。それは嘘である。期待していようと期待していまいと、自分の言いつけを守らなかったならば、監督は部員を殴るのである。憎しみによる暴力である。それでは、なぜ、親、教師、監督が暴力を振るうのだろうか。それは、彼らは、皆、自らの自我を傷つけられたから、その復讐が暴力となって現れたのである。親は我が子から親という自我を、教師は生徒から教師という自我を、監督は部員から監督という自我を傷つけられたのである。人間、誰しも、いついかなる所でも、自我を持ち、他者から自我を認めてもらおうと行動している。これが人間の「対他存在」のあり方である。「対他存在」が満足できれば、つまり、他者から自我が認知されていることが実感できれば、大きな喜びを得、幸福感に満たされるのである。誰しも、無意識にしろ意識的にしろ、常に、自我の充足を目標に生きているのである。ところが、子供が親の言うことを聞かず、生徒が教師の言うことを聞かず、部員が監督を言うことを聞かないと、彼らは自らの親、教師、監督という自我を認めてほしいという思いが打ち砕かれ、その中に、復讐心を暴力という形で表す者が出てくるのである。その者たちに都合の良いことに、しつけ、教育、体罰、無視しないこと、そして、愛の鞭という言葉があり、暴力を振るうことにためらう必要は無いのである。それでは、なぜ、暴力が人間界から消滅しないのだろうか。それは、人間の深層心理には、誰しも、機会があれば、ニーチェの言う「力への意志(権力への意志)」を発揮しようという思いがあるからである。先に述べたように、人間、誰しも、深層心理に、「対他存在」という、いついかなる時でも他者から自我を認めてもらおうという思いが存在している。しかし、「対他存在」は、他者の目を気にして行動するから、主体は他者にある。ところが、「力への意志(権力への意志)」は、他者からの自我の認知という点では「対他存在」と同じであるが、「対他存在」はこちらの自我が他者に認知されることを望むということで主体が他者にあるのに対して、「力への意志(権力への意志)」は他者が他者自身の自我の認知をこちらに求めるということで主体がこちらにあるのである。つまり、「力への意志(権力への意志)」とは、他者が他者自身の自我の認知をこちらに求めるというあり方なのである。そして、暴力は、復讐心が動機だが、「力への意志(権力への意志)」が満足しないと収まらないのである。子供に暴力を振るう親は、子供から自我が傷つけられたので、対他存在が失われたと感じ、その復讐心とともに一挙に対他存在を取り戻そうとして、暴力を振るったのだが、子供が自分の非を求めて親に詫びるという「力への意志(権力への意志)」が満足しないと気持ちが収まらないのである。なぜならば、子供が自分の非を求めて親に詫びない限り、主体は子供にあり、いつ子供に復讐されるかわからないからである。また、子供が第三者に暴力にあったことを訴えれば、自分が罰せられる可能性が大きいからである。暴力は、「力への意志(権力への意志)」が満足するか、誰かが止めに入らない限り、続くのである。それは、生徒に暴力を振るう教師、部員に暴力を振るう監督も同じである。この世には、常に、暴力が起こる可能性がある。それは、誰しも、いついかなる時でも、自我があるから、常に、自我が傷つけられる可能性があるからである。そして、その暴力は、第三者がいなければ、被害者が心から謝罪するまで続くのである。被害者が、加害者の「力への意志(権力への意志)」を満足させるまで暴力を受け続けるとは、何という理不尽なことであろうか。それゆえに、暴力の起こりそうな場所、暴力の起こりそうな人間関係に対して、加害者になる可能性のある人も被害者になる可能性のある人も第三者も警戒と監視を怠ってはならないのである。そして、愛の鞭などいう、暴力を助長する、偽善の言葉をはびこらせてはならないのである。

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