おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

日本の熱い日々 謀殺・下山事件

2021-08-16 06:39:40 | 映画
「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」 1981年 日本


監督 熊井
出演 仲代達矢 山本圭 隆大介
   井川比佐志 平幹二朗 浅茅陽子
   中谷一郎 岩崎加根子 橋本功

ストーリー
昭和24年7月、敗戦後の騒然とした雰囲気の中で労働運動は大きく高揚していた。
昭和日報の社会部記者・矢代は、上野に集結するシベリヤからの復員兵たちの集会を取材していたが、その時、下山国鉄総裁の行方不明を知らされた。
翌朝、下山の死体が発見されると、政府は他殺説の立場をとり、各新聞は自殺説と他殺説に分かれた。
この中で昭和日報は、他殺の線ですすめるべく、矢代に東大法医学研究室を取材させた。
矢代は遺体解剖を行なった和島博士の「死体轢断の鑑定は絶対に間違いない」という言葉で他殺説に自信を持つが、一方、事件現場近くで下山の姿を見たという証言者が現われたり、東大鑑定に対する慶応の異論も出て、自殺説がクローズアップされてきた。
しかし矢代は他殺の臭いを執拗に追い続け、東大研究室に通い続けるうちに、轢断現場近くに、下山の死体を運んだ時についたと思われる血痕を自らの手で発見する。
この発見と前後して無人電車の暴走という「三鷹事件」が発生。
矢代の背後に黒い妨害の手が現われ、ホームから突き落とされ、電車に轢かれそうになる。
事件から一ヵ月後、警視庁が自殺を発表することになったが、突然、その発表は中止された。
その二週間後、何者かによってレールがはずされ列車が転覆するという「松川事件」が起こり、政府はこれを利用して労働組合、左翼への弾圧を一層強め、やがて五年、十年と時間が走り過ぎていった。
そんな時、矢代は死体を現場で運んだらしいという男・丸山の存在を知った。
ある日、丸山は駅のホームから転落死してしまった。
事故死なのか、誰かに突き落とされたのか……。


寸評
1949年は僕が生まれた年なのだが、この年に下山事件、三鷹事件、松川事件という「国鉄三大ミステリー事件」が発生している。
翌年には朝鮮戦争が勃発しているから、第二次世界大戦が終わったとはいえ世の中はまだまだ戦後処理で混とんとしていた時代だったのだろう。
当然僕はそのような社会の混乱は知らないし、記憶にあるはずはない。
日本が連合国の占領下にあった1949年7月5日の朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に行方不明となり、翌7月6日未明に常磐線綾瀬駅付近の線路上で轢死体となって発見された事件が下山事件で、映画はその事件の闇を描いている。
事件当時の国鉄では占領政策によって大規模な労働者の解雇が予定されており、連日の労働争議が起きていたのだが、下山国鉄総裁の死が自殺にせよ他殺にせよ、この事件によって国鉄の労働争議が水を差され、大量解雇が容易に行われたのは事実だと思う。
下山総裁の死を喜んだ人間は大勢居たようにも推測する。

映画は2時間以上あるのだが、警察の事件捜査は始まってから1時間ほどで終わってしまう。
しかし、主人公である昭和日報の新聞記者・矢代はこの事件にこだわり続け、たとえ記事にできないとしても事件の真相を知りたいと事件を追う。
それまでの捜査や証拠調べで、下山総裁が何者かに誘拐されて殺されたことが示される。
自殺に見せるために総裁の替え玉が存在していたらしいことや、捜査にGHQから大きな圧力がかかっていたことも明らかにされていく。
事件の背後には何か大きな力が働いていたような描き方が続く。
映画から受ける印象は、どこまでが事実でどこからがフィクションなのかさっぱりわからなくなってくる。
結局、事件の黒幕が誰なのかわからないで終わっている。
実際にそのような事件だったのだろう。

映画の中では昭和24年から昭和39年までが描かれているが、その時代の変化をニュース映像に加えて、登場人物たちの服装やセットの違いで見せているのは細やかだ。
事件自体がミステリーだから、映画は自然とミステリータッチになっているのだが、熊井啓としてはミステリー作品として撮りたかったのではないだろう。
日本が厚く燃え上がっていた時に、政治的な圧力で世の中を押さえていったと思われる事件を描くことで、今においてもそのようなことが行われているのかもしれないと言う警告を発しているのだろう。
一方で、国鉄が民営化されて毎年のように行われていた鉄道のストライキはなくなったし、国会前の安保反対大規模デモのような政治的発言も少なくなったように思う。
平和ボケしてしまったのか、国民の政治的発言や行動は影をひそめてしまって、その事が政治家の劣化、ひいては政治の劣化を招いているような気もする。
オリンピックの開会式の日にラストシーンを迎えるので、余計にそのように感じる。
やがて日本は高度成長期を迎え、人々は働きバチと化していったと思う。

日日是好日

2021-08-15 07:05:31 | 映画
「日日是好日」 2018年 日本


監督 大森立嗣
出演 黒木華 樹木希林 多部未華子 原田麻由
   川村紗也 滝沢恵 山下美月 郡山冬果
   岡本智礼 荒巻全紀 鶴田真由 鶴見辰吾

ストーリー
大学生の典子(黒木華)は、突然母親(郡山冬果)から茶道を勧められる。
戸惑いながらも従姉・美智子(多部未華子)とともに、タダモノではないという噂の茶道の先生・武田のおばさん(樹木希林)の指導を受けることになる。
美智子は商社での採用を勝ち取るが、典子は希望の出版業に正社員としての採用はかなわず、アルバイトとして働く日々。
先にお茶をやめた美智子はその後、結婚して田舎に引っ込んだ。
大学を卒業しても、いまだに就職もせずに30代に突入した典子は、大学を卒業して茶道をやめ、すぐに就職をし、お見合いをするために退職し、婚約をして子どもも生まれた美智子との間に遠い距離を感じていた。
典子は家を出て一人暮らしをしながらのフリーライターとして日々を過ごしていたが、気が付くとお茶の教室では古株になったにもかかわらず、お茶として工夫や進歩がないと先生に厳しい一言も受けてしまう。
憧れの雪野(鶴田真由)には遠く及ばず、ずっと下の後輩として入ってきた10代のひとみ(山下美月)の持つ素質に驚かされてしまう日々を送る典子。
10年間辞めずに続けてきた茶道を通して大切なことをたくさん学んだ典子はやっと出版社に面接をしに行くことになったがそれもダメで、ずっと付き合っていた彼氏とも別れて落ち込んでいた中、疎遠になっていた父親(鶴見辰吾)の死を知り、武田のおばさんと泣いた。
典子も先生も年を取って日々を過ごしていく中で、それでも、お茶を続ける典子は、やがて何でもない日々、お茶を楽しめる幸せを感られることの素晴らしさを改めて感じていく。


寸評
典子の20歳から40歳過ぎ迄の姿を茶道を通じて描いている。
美智子は商社を退職し結婚し子供も生まれるが、典子は結婚直前で男の裏切りで破談になっている。
典子は美智子の結婚式に出席しているが、友人の結婚式にも出席していたはずで、結婚と言うことに関しても徐々に取り残されていくのを感じていたはずだ。
しかしそのような典子の姿は描かれず、典子の短い独白で終わっていて、映画はあくまでもお茶の稽古にいそしむ典子の姿を追っていく。
僕の叔父も裏千家のお茶の先生をしていて、家元さんが開かれる初釜にも招待されていたから、その道では相当なものだったと思うが、僕は指導を受けたことがない。
したがって、茶道のことに関しては全く無知なので、樹木希林が説明する袱紗捌きを初めとする説明に、逐一へええそうなのかと感心するばかりである。
女優の宮本信子さんがNHKのドラマで合気道の師範役をやることになって、僕の知人の通う道場に教えを請いに来られたことがあったらしい。
道場の師範は「長年稽古を積んでいる君たちより呑み込みが早くて姿勢も良く、合気道の型も見事に決めていた」と告げられたと知人は言っていたが、俳優さんにはそのような天賦の才があるのかもしれない。
本作における樹木希林を初め、黒木華も多部未華子も一夜漬けのような特訓だったらしいが、僕には立派な先生に見えたし、二人の上達の様子も納得させるものがあった。
夏のお点前と冬のお点前があることも初めて知った。
十分な稽古を積んでいる人には物足りない部分もあったかもしれないが、素人の僕には楽しむことができる稽古風景が繰り広げられている。
言い換えればお茶の稽古風景ばかりで、大きなドラマがあるわけではない。
出来事は典子の独白で処理されているだけなので、物語としてみると物足りないものがある。
何をやってもうまくいかない典子のあせりと悩みのようなものは全く伝わってこないし描かれていない。
しかし、それを補って余りあるのが季節の移り変わりと共に繰り広げられるほのぼのとした空気感だ。

典子にとって一番大きな出来事は父親の死だ。
父親が近くまで来たので典子の家に立ち寄りたいと電話を入れるが、典子はそれを断る。
夜に電話を入れると父親はすでに休んでいてそのまま帰らぬ人となってしまう。
父親はその日、家族皆で筍ご飯を食べようとしていたらしいがそれもかなわなかった。
典子は悔やむが、同じような気持ちになったことがある武田先生の樹木希林が典子を慰める。
このシーンはすごくいい。
桜の花が舞い散り、黒木華の典子が「ぱっと桜が散るように逝ってしまいました」と言うと、樹木希林は少し間を置き「ぱっ」とつぶやき、そしてまた少し間を置き「一人でしょい込むことはないのよ」と慰める。
あの「ぱっ」は樹木希林のアドリブ演技だったと思う。
晩年の樹木希林はこのような一瞬の表情や仕草に素晴らしい演技を見せた。
「日日是好日」とは、あるがままを良しとして受け入れることのようだが、僕はなかなかその境地にはなれない。
ところで、典子は新しい恋に出会っているが、その彼氏とはいったいどうなったのだろう? 気になった。

2010年

2021-08-14 07:53:37 | 映画
「2010年」 1984年 アメリカ


監督 ピーター・ハイアムズ
出演 ロイ・シャイダー
   ジョン・リスゴー
   ヘレン・ミレン
   ボブ・バラバン
   ケア・デュリア
   ダナ・エルカー

ストーリー
ボーマン船長が、モノリスが木星を回っているのを発見し「何てことだ。星がいっぱいだ」という言葉を残し行方不明となってしまってから9年が経った2010年。
ディスカバリー号の計画責任者で元アメリカ宇宙飛行学会議議長のヘイウッド・フロイド博士、HALの生みの親チャンドラ博士、ディスカバリー号を再生させる訓練を受けたエンジニアのカーノウの3人は、ソビエトのタニヤ船長らと共に宇宙船レオーノフ号に乗り込み、木星へと向かった。
世の中は、米ソ間の緊張が高まっていた。
やがてディスカバリー号とのランデヴーに成功したところで、カーノウは宇宙遊泳してディスカバリー号に乗り移り、ディスカバリー号を再始動させ、そしてチャンドラ博士の手でHALが蘇る。
いよいよ、木星軌道上でモノリスの調査の準備が始まった。
しかし、モノリスに近づいたソビエトの隊員のポッドが吹き飛ばされてしまった。
その頃地球では、米ソの関係が悪化し、いつ宣戦布告があってもおかしくない状況に陥っていた。
ついにはディスカバリー号とレオーノフ号に米ソの隊員が分かれる命令まで下された。
そんなある日、フロイド博士は、ボーマンの亡霊からの声を受けとった。
声は「あなたたちは2日以内にここを離れなくてはいけない」「すばらしいことが起ころうとしている」とくり返した。
すると突然モノリスが姿を消し、同時に木星表面に見慣れぬ黒斑が生じて巨大化していた。


寸評
「2001年宇宙の旅」がなければ普通のSF映画だと思うが、「2001年宇宙の旅」の続編だと思えば興味を維持させながら見ることが出来る内容となっている。
前作の経緯が語られた後、メインテーマである「ツァラトゥストラはかく語りき」に乗ってタイトルバックが流れ始めると、もうそれだけでワクワクしてしまう。
哲学的な謎を秘めていてあれこれ考えさせた前作に比べると「2010年」は分かりやすい。
ソ連が崩壊してしまって今となっては信憑性に乏しいが、米ソが一触即発という政治的背景が面白く取り入れられていて、宇宙空間における政治と科学のぶつかり合いは映像に加えてもう一つの見所となっている。

宇宙に行ったことがない僕は、画面に広がる宇宙空間に酔いしれる。
レオーノフ号とディスカバリー号の間に渡されたブリッジのシーンにおける、足元に広がる宇宙空間の無限の広がりを目にすると、僕もあのブリッジを歩いてみたいと思ってしまう臨場感だ。
チャンドラ博士とエンジニアのカーノウがドッキングしたディスカバリに入り、宇宙服のヘルメットを開けたとたんに変な匂いを嗅いで、もしかすると死体が腐敗した匂いではないかと気味悪がるが、それは食料の肉が腐った匂いだったというような人間臭いエピソードが盛り込まれているのも前作との違いだ。
不気味だったコンピューターのHAL9000は事態の真実を語ってくれたチャンドラ博士に感謝の意を示したように、今回は人間に対して従順である。
HALの反乱の原因も明かされるが、僕にはそれが劇的なものに感じ取れなかった。

ディスカバリー号の近くには9年前にボーマンが接触した巨大なモノリスが浮遊していて、ソ連側は作業ポッドで調査に向かうが、突如として放射された電磁波によって乗り込んでいたブライロフスキー共々破戒される。
ポッド消滅後に実体のないボーマン船長は地球に到達し、人間だった時の大切な人である元妻を訪ねているので、電磁波の正体はモノリスとの接触で実体を持たないエネルギー生命体となったボーマン船長だと思われる。
元妻が再婚していて幸せな生活を送ている事を確認しボーマン船長は宇宙へ帰っていくのだが、この一連の流れは分かりにくく、僕が想像を巡らせて理解するのに時間がかかった。

HAL9000は「自身の遺棄」という自殺に等しい命令に従うが、取り残されたHAL9000が実体のないボーマン船長と再会することでこの映画のメッセージが我々にも届けられる。
そのメッセージとは、「これらの世界は全てあなた方のもの。ただしエウロパは除く。エウロパへの着陸を試みてはならない。全ての世界を皆で利用するのだ。平和のうちに利用するのだ」というものである。
これを受けて米ソは和解を見せる。
モノリスは平和を愛する知恵の化身だったのではないか。
ディスカバリー号は破壊されてしまうが、HAL9000はモノリスによって導かれ、ボーマン船長と共にその一部となったのだろう。
エウロパには湿地帯が出現しジャングルが生い茂っているが、その中に一体のモノリスがそびえていて、その姿は月で人間と接触したように新たな知的生命体がやって来ることを待ち望んでいるようでもある。
もしかするとエウロパは原始地球の姿なのかもしれない。

荷車の歌

2021-08-13 05:49:49 | 映画
「荷車の歌」 1959年 日本


監督 山本薩夫
出演 望月優子 三国連太郎 左幸子
   水戸光子 左時枝 西村晃

ストーリー
明治二十七年--広島県の山奥の村。
地主(小沢栄太郎)の屋敷に奉公するセキ(望月優子)は、郵便配達夫の茂市(三國連太郎)に求婚された。
茂市は、一銭も月給の上らない配達夫を止めて、荷車ひきになると言った。
茂市に好意を感じていたセキは、勘当の身となりながらも嫁いだ。
二人は、一台ずつ荷車を引いては、車問屋になる日を胸に描きながら往復十里の道を町へ通った。
姑(岸輝子)はセキに冷たく、茂市の弁当箱には米の飯をつめ、セキの弁当には粟飯をつめるような人だった。
セキはやがてオト代を生み、オト代(左民子)は気性の勝った娘に育った。
祖母の荒い仕打ちに逆い、いびられ通しのオト代はコムラ夫婦(奈良岡朋子)に貰われていき、村を去った。
セキは次々と子供を生んだ。
姑が病気で倒れると、セキは心の底から看病をし、姑も、涙をこぼしセキの手を取って死んでいった。
やがて、茂市とセキは、車問屋を始めることが出来た。
が、間もなく鉄道が通じ、山奥の村からは荷馬車が荷を運ぶようになり、手車は時代の波に取り残された。
子供たちはそれぞれ一本立ちするようになった。
オト代(左幸子)と次女のトメ子(小笠原慶子)は結婚し、長男の虎男(塚本信夫)は鉄道の機関手、末っ子の三郎(矢野宣)は電車の運転手になった。
セキの上にも幸福な日が訪れたかに見えたのだが、茂市には隠し女があった。
茂市は、オヒナ(浦辺粂子)というその女を家に連れこんでしまった。
大東亜戦争が起こり、虎男も三郎も召集された。
そして戦争は終ったが、三郎は戦死し、茂市は泥田の中でセキの手を取り感謝しながら死んだ。


寸評
僕の実家は田舎の百姓家で、母は離婚して叔父夫婦が守る家で同居していた。
さすがに叔父に妾などはいなかったが、封建制の名残があって映画で描かれたような社会の雰囲気はあった。
結婚は家の思想に基づく家と家との結びつきが強く、嫁は農家の働き手であり、家事全般を司る女中でもあり、親の面倒を見る介護士でもあった。
祖母は茂市の母親のようなイジメを行っていなかったが、義理の伯母は祖母や小姑である僕の母には随分気を使っていることが子供の目にも顕著であった。
オト代は子供のいないコムラ夫婦に貰われていく。
今では滅多にいないと思うが、親しい人に貰われていく子は結構いたのだ。
僕の家は茂市の家程貧しくはなかったが、それでも藁でコモやムシロを編んだりしていて僕も手伝っていた。
セキが使っている墨俵を編む道具になつかしさを感じる。
この映画は農村婦人のカンパによって制作されたらしいが、カンパした農村婦人には思い当たる出来事が一つや二つはあっただろうと思われる出来事が描かれていく。
観客となった身に覚えのある農村婦人たちからは、すすり泣きが度々漏れただろうと想像される。

茂市とセキは車曳きの仕事を始め、その苦労は見ていても伝わってくるが、当時の農家の状況も多かれ少なかれ似たようなものだった。
後年に土地成金が誕生するなどとは想像も出来なかった。
セキの望月優子は農村の女そのもので、多くの農村婦人はその姿に自分を見ただろう。
彼女の苦労は自分の苦労と感じて同化したに違いないと思う。
茂市はセキをかばいながらも母親に逆らえない、正に嫁姑問題の板挟みで同情も寄せたくなる存在から、妾を同居させるなど身勝手な男に変身していく。
妾のヒナを演じた浦辺粂子も嫌われ役を好演である。
その間に見せる三國連太郎の老け振りはすごいなあと感心する。
本当に老人になり切っていく。

セツはナツノさん(水戸光子)からアドバイスを受け、姑への接し方を変えて懸命に看病に当たる。
姑も態度を変えて感謝を述べながら死んでいく。
僕にも嫁姑問題があって、お世辞にも上手くいっていたとは思えないが、映画と同様に妻は母を看病し、母は妻に感謝を述べて死んでいった。
プライドの高かった母で、自分の好印象の為に感謝を述べたのかもしれないが、そうだとしても母のプライドは保たれただろうし、妻の気持ちも救われた事だけは確かだ。
そんな風に思うのは、僕が母に対して冷たい息子であった為かもしれない。
セツは恨みのあったヒナも許す気になって、子供たちが反対する夫の遺影のある仏壇へのお参りを許す。
セツは荷車に孫たちを大勢乗せて若い頃のように曳く。
虎男が復員してきてセキが駆け寄り、虎男の妻と子供たちが駆け寄る姿を見て、やっと救われたような気持になったのだが、ちょっとお涙頂戴過ぎた作品のようにも思う。

肉体の悪魔

2021-08-12 06:30:19 | 映画
「肉体の悪魔」 1947年 フランス


監督 クロード・オータン=ララ
出演 ジェラール・フィリップ
   ミシュリーヌ・プレール
   ジャン・ヴァラス
   ジャン・ドビュクール
   ドニーズ・グレイ
   ガブリエル・フォンタン

ストーリー
1918年11月11日。大戦の終結でパリ中に教会の鐘が響き渡り人々が喜び騒ぐうち、一人哀しみに沈む少年フランソワ(G・フィリップ)がとあるアパルトマンから出てきた葬列を遠まきに忍んでいた。
そして、その建物の中の部屋に入って、鏡を見入っての回想が始まる。
戦時中、彼の学校は病院となって、そこへ篤志看護婦としてやって来たマルト(ミシュリーヌ・プレール)は、負傷兵の傷を見て失神し、これを介抱したのがフランソワだった。
彼女は出征兵ラコンブ軍曹(ジャン・ララ)と婚約中だったが、フランソワの強気な情熱に惹かれて動揺した。
マルトの母はその関係に勘づき牽制し、フランソワの父もマルトの手紙でそれを知って夏休みを田舎で過ごさせている間に、マルトはラコンブと結婚した。
半年後、再び学校でめぐり合った二人は再び燃上り、彼女は人の妻であることを忘れた。
マルトが少年の子を宿したので、すべてを戦線の夫に知らせようというフランソワと、それを良しとしないマルトの意見が食違いながらも、二人は肉体の魔にひきずられつづけたが、この恋が戦争の終結と共に断ち切られなければならぬという想いは同じであった。
生まれくる子はラコンブのものにすべしとの親たちの考えに運命は苛酷だった。。
別れの宴を過した二人は、はじめてデートしたカフェに出かけ、ここで終戦の国歌を聞かねばならなかった。
マルトは力つきて倒れ、駆付けた母によってフランソワは引離されてしまった。
赤ん坊を産み落とすと同時に何も知らない凱旋した夫に手をとられつつ息絶えるマルト。
最後に叫んだ少年の名はそのまま、新生児の名前とされるのだった……。


寸評
男子高校生と10歳以上も年上の軍人の人妻の不倫映画で、当時はセンセーショナルな内容だったのかもしれないが、今となればストーリー性に意外性のないありふれた不倫映画のように思える。
設定された状況はドラマチックなものだが、17歳の高校生にしてはジェラール・フィリップは歳を取り過ぎていて高校生には見えず、10歳以上も年上のはずのミシュリーヌ・プレールは若すぎる感じがして、年齢を超えた愛ということが僕には上手く伝わってこないのが残念だ。
それもそのはずで、この時ジェラール・フィリップは25歳ぐらいで、ミシュリーヌ・プレールは同い年だったのだ。
しかし、露骨なラブシーンなんか無くても充分に官能的で愛し合っている2人を描きだしていくのはこの頃の映画の描き方でもあり、ベッドシーンなんかなくても十分に表現できるのだと思わせてくれる演出は素晴らしい。
雨に濡れたフランソワを暖かく包み込むマルトは年上の女性を感じさせロマンチックなシーンとなっている。
約束の待ち合わせの場所でフランソワを1人で待っているマルトのシーンも非常に印象的だ。

息子の不倫の恋愛を肯定しているような父親の存在がユニークだ。
息子への手紙を盗み見して「マルトは本当はお前を愛しているんだろ」などと言ってフランソワを待ち合わせ場所に連れ出し、マルトとの恋愛を叶えさせようとしている。
父親は時に怒鳴りつけたりもするが、「困ったことがあれば相談しろよ」とアドバイスしたり、フランソワを問い詰めるようなことがあっても「お前が話してくれる時まで待っている」と物分かりの良いところを見せる。
家族には帳簿の検算ばかりしている無能な父親と思われているが、息子の責任は自分が取るという父親像を見せる立派な親父だ。

フランソワは積極的に婚約者のいる年上の女性に迫る17歳の高校生だが、同時に子供の頼りなさを見せる。
桟橋で待つマルトを橋の上から見つめるだけで、父親の後押しがあるにもかかわらず飛び出すことが出来ない。
そのくせ、夏休み明けには再びマルトの家に駆けつけ強引に迫りながらも腰の引けたところがある。
マルトの夫となったラコンブと対決する強がりを見せるが、いざとなれば喉がカラカラとなってしまう弱さがある。
若者特有の情熱を持ち合わせているが、すべてを乗り越えていくたくましさが感じられないのも若さなのだろう。
最初はフランソワが積極的だが、やがてマルトの方がフランソワに入れ込んでいく。
戦争による異様な高揚感と非日常感に浮かされる日々を送っている子供と女は、時代の空気に押されて刹那的な情事をひたすら繰りかえす。
歳をとってきたマルトが若い肉体に溺れていくと言った状況なのだが、若い二人の結ばれぬ恋に見えてしまうのは前述の要因による。
戦争が終わると夫が帰ってくることによる、戦争の終わりが恋愛の終りという悲恋なので、終戦が明日への希望を感じさせるものとはなっていないラストシーンである。
教会の使用人は「終戦後初めての葬式で、これからは女性が死ぬ番だ」などと言う。
母親によって引き裂かれたマルトは瀕死の状態で「フランソワ」と彼の名を呼び、それがフラソワと勘違いしたのか夫の手を握りしめる。
母親はずる賢く「あなたの息子の名前だ」と告げる。
この母親の恐ろしさを感じる実に残酷なシーンで、この物語の一番の衝撃となっている。

にあんちゃん

2021-08-11 07:06:46 | 映画
「に」に入ります。
前回の「に」は2019/12/4の「ニキータ」から2019/12/15の「人情紙風船」まででした。
バックナンバーからご覧ください。
今回は11~12本ほどになりそうです。

「にあんちゃん」 1959年 日本


監督 今村昌平
出演 長門裕之 吉行和子 松尾嘉代 中村武
   前田暁子 北林谷栄 小沢昭一 二谷英明

ストーリー
昭和二十八年の春。
佐賀県にある鶴ノ鼻炭鉱では、ストライキが行われていた。
そのさなかに、安本一家の大黒柱である炭鉱夫の父親が死んだ。
残されたのは20歳になった喜一(長門裕之)と、良子(松尾嘉代)、高一(松尾嘉代)、末子(前田暁子)の四人の子供たち。
安本一家が住んでいる山の中腹の長屋の人たちも、皆その日暮しの苦しい生活をしていた。
喜一が失業し、一家共倒れを防ぐため、高一と末子を辺見さん(殿山泰司)の家にあずけ、喜一は良子と長崎に働きに出かけたが、辺見家でも生活は苦しく末子は栄養失調になった。
赤痢が発生し末子も罹病したが保健婦のかな子(吉行和子)と、末子の担任教師桐野(穂積隆信)が働いた。
やがて、会社が炭鉱を廃坑すると宣言し、人々はやむなく家をたたみ、山を下りていった。
高一と末子も、帰って来た喜一に連れられて、閔さん(大森義夫)の家に引きとられた。
しかし、汚ない堀立小屋で異臭がひどく、夜逃げして炭鉱に戻った。
高一も漁港へ働きに出かけた。
喜一は佐賀のパチンコ屋に就職した。
かな子は東京に転勤になった許婚者の松岡(二谷英明)を追って鉱山から去った。
高一は東京へ行ったが、東京へ着くとすぐ警察に保護された。
中学生が、それも一人で九州から職を探しに来たという話に、不審に思った自転車屋の主人(高原駿雄)が警察に連絡したのである。
送り返されて高一は炭鉱村に帰った。
嬉し泣く末子の肩を抱きながら、高一はやはり兄妹一緒に生きていこうと思った。


寸評
僕の小学生時代は教室の暖房に石炭ストーブが使われていた。
校庭の隅っこには石炭小屋があって、日直の生徒が少し早く登校してバケツに石炭を一杯入れて教室に運び、石炭ストーブの火入れを行っていた。
石炭ストーブの上にはやかんが載せられていて、時間がたつとシュンシュンと音を立てだした。
その頃には石炭の需要もあったのだろう。
しかし落盤事故を始め炭鉱事故も発生していて、炭鉱夫は危険な仕事なのだと子供心にも思っていた。
そして石炭産業は斜陽産業なのだとの認識もあったように思う。

映画の舞台は鶴ノ鼻炭鉱という小さな炭鉱で、朝鮮人労働者も数多く働いている。
どうやら安本一家も在日朝鮮人一家らしい。
映画は冒頭で海辺のボタ山を中心にした小さな炭坑町を上空から映し出す。
カメラは、「スト決行中」と書いた貼り紙の下に座り物憂げに遠くを見つめている炭鉱労働者を映し、続いて石炭を掘るために入っていく坑口や石炭を積みだすトロッコ車を描写する。
今はどこにもないであろう、消えてしまった炭鉱の町がリアルに映し出される。
産業遺産とでも呼ぶべき光景は記録映画の様でもある。
この町の人々は誰もが貧しい。
母親はなく、父親を亡くした安本一家は今日食べる米もない。
生活苦でいらだっているオカミさんもいるが、親切な人も同時に存在している。
思い返せば、子供の頃の社会は少ないながらも相互扶助の風潮があったように思う。
知り合いとは言え、他人の子にご飯を食べさせてあげることもあったし、こまっていれば援助してやることもあったが、それは決して憐みの気持ちからではなかったと思う。
4兄弟姉妹は辛い目にあいながらも、たくましく生きていく。
辺見のおじさんは親切な男だが、辺見の家庭も食べるのが精一杯で、おばさんは高一達につらく当たる。
彼らに親切にしてくれるのは辺見以外にも、保健婦のかな子や小学校の教師である桐野などがいる。
桐野はかな子に好意を持っているが見事にふられてしまう。
しかし思いやりの心が健在で、そのことで二人の関係が気まずくなることはない。
桐野は教科書代が払えず学校に来ない末子に教科書をプレゼントする。
病気で学校に行っていないと思っていたかな子には想像できない理由だったろうし、桐野の優しさを知ったことも無下に桐野を避けるような行動をとらせなかったのだと思う。
桐野先生は遠足の行先を利用して姉の良子に会いに行こうとする末子に、「これで二人でなにか食べろ」とお金を渡してやるのだが、実際、僕の小学校にも桐野のような先生は居たように思う。
東京から撮れ戻された高一に、桐野先生は「「おまえは学校の成績も一番じゃ。やるんなら、どがんこともできるけん、どがんしても飛び出したかったら、もう少し大きくなって飛び出せ。焦ることはなか」と言う。
高一が末子とボタ山に登りながら強く生きることを決意する姿に救われる。
原作はこの末子が書いた日記で、大きくなった高一は慶応へ、末子は早稲田に進学したらしい。
後日譚を知ると嬉しくなる。

南極料理人

2021-08-10 07:38:59 | 映画
「南極料理人」 2009年 日本


監督 沖田修一
出演 堺雅人 生瀬勝久 きたろう 高良健吾
   豊原功補 西田尚美 古舘寛治 小浜正寛
   黒田大輔 小出早織 宇梶剛士 嶋田久作

ストーリー
1997年、南極。昭和基地から1,000キロ離れた高地にある南極ドームふじ基地では、8人の隊員が一年間の共同生活を送っていた。
その1人、西村(堺雅人)は隊員たちの毎日の食事を用意する調理担当だが、食材は冷凍、乾燥、缶詰が基本で、様々な制約を受ける中で、いかに隊員たちにおいしい食事を届けるかが彼の仕事だった。
西村は妻のみゆき(西田尚美)と娘の友花(小野花梨)、赤ん坊の航という家族を残してきている。
雪氷学者の本さん(生瀬勝久)の誕生日には、牛肉の丸焼きがテーブルに並ぶ。
時が経ち、次第に髪はボサボサ、髭も伸び放題、保存していた食材も次第に減ってゆく。
ラーメンがないと不満を漏らす気象学者のタイチョー(きたろう)。
仕事をサボって遊んでいた主任(古舘寛治)は、平さん(小浜正寛)に追いかけ廻される。
その騒動で揉み合う中、西村がお守り代わりに持ち歩いていた友花の乳歯がなくなってしまう。
フテ寝する西村だったが、自分で料理を作ろうと悪戦苦闘する隊員たちの姿を見て、再び厨房へ。
ある日、意を決した西村は、ありあわせの材料で手打ちラーメンを作る。
やがて帰国のときが訪れ、西村は食堂をきれいに片付け、包丁をしまってキッチンを後にする。
出迎えでごった返す空港で家族の姿を見つけた西村は走り出す。
そして、すべてがごく普通の日常へと戻っていくのだった。


寸評
南極を舞台にした物語といえば、シリアスな作品が多いが、こういうライトなコメディーは珍しい。
オープニングは過酷な勤務から逃げ出そうとしている隊員を別の隊員が励ますと思わせるシーン。
この時点ではシリアス作品とおもわせたのだが、次のシーンでは「麻雀のメンバーになりたくない」だけだったという話で、「ああなんだ、こういうタッチの作品なんだ」と知らされる。
男8人、まるで大学の男サークルの合宿風景みたいで、懐かしさを覚えると同時に楽しそうな彼等に羨望の気持ちが湧いてくる。
それもそのはずで、全編を通じて彼らの過酷な勤務状況は描かれない。
描かれているのは彼等の必死の作業ではなく、そこから逃れた自由時間の生活ぶりである。
これぐらいのバカをやらないと、とても男ばかりで生き物もいない極寒の地で1年半も過ごせないだろうと納得させられる。
そのバカぶりを南極での食事を中心に色んなエピソードでつないでいく。

南極料理人は、限られた食材なので同じ食材を工夫しながら別料理にするとかの話を耳にしたことがあるが、そのようなエピソードはなく、毎回違った料理が提供されてどれもが実に美味そうである。
日本国内の家庭で食べているものと違いはないのだと言いたいのか、家庭的な料理が多く登場してくる。
それでも信じられないような物も出てきて笑いを誘う。
伊勢海老のエビフライが筆頭だろう。
食材に前の調査隊が残していった伊勢海老があると判り、西村は刺身を提案するが隊員全員が「気分は皆エビフライだからね」と言ったためだ。
俺の体はラーメンでできていると言うタイチョウのラーメン騒ぎも笑わせる。

登場人物はユニークな風采の人間ばかりで、通信担当の黒田大輔やドクターの豊原功補なども、存在しているだけで笑わせる。
男ばかりで人目などを気にしなくていい状況なので、かれらの服装そのものが学生の合宿並みなのだ。
おまけに長期間家庭を留守にする彼らは家族にも見捨てられていて、西村は「お父さんがいなくてとても楽しいです」と言われるし、本さんは1分740円の電話を掛けても奥さんに「話したくない」と言われる始末である。
本さんがつぶやく「やりたい仕事がここにあるだけなんだけどなあ…」は男にとっては心に響く。
雪氷サポートの兄やんと呼ばれる高良健吾は究極の遠距離連来をしているが、彼女にフラれてしまう。
しかし帰るに帰れない。
それでも帰国すれば待ってくれていた人たちがいる。
本さんの奥さんは本さんにすがって涙を流すし、西村の家族も笑顔で迎えてくれている。
兄やんには国際電話受付担当の清水さんが迎えてくれた。
そんな愛情物語を描き込んでいたら、もう少し一本スジの通った作品になっていただろう。
しかし公開電話での西村と家族とのやり取りの終わり方を見ていると、意識的にそれらを排除したのだと思う。
そうすることで平凡な日常生活のありがた味を訴えたかったのかもしれない。
ドクターは言っていたとおり、非日常的なことをやっていたけど…。

名もなく貧しく美しく

2021-08-09 07:47:56 | 映画
「名もなく貧しく美しく」 1961年 日本


監督 松山善三
出演 小林桂樹 高峰秀子 島津雅彦 王田秀夫
   原泉 草笛光子 沼田曜一 松本染升
   荒木道子 根岸明美 高橋昌也 加山雄三
   藤原釜足 小池朝雄 多々良純 加藤武

ストーリー
竜光寺真悦(高橋昌也)の嫁・秋子(高峰秀子)はろうあ女性である。
昭和二十年六月、空襲の中で拾った孤児アキラを家に連れて帰るが、留守中、アキラは収容所に入れられ、その後真悦が発疹チフスで死ぬやあっさり秋子は離縁された。
秋子は実家に帰ったが、母たま(原泉)は労わってくれても姉の信子(草笛光子)も弟の弘一(沼田曜一)も戦後の苦しい時でいい顔をしない。
ある日、ろうあ学校の同窓会に出た秋子は受付係をしていた片山道夫(小林桂樹)に声をかけられたのをきっかけに交際が進み、結婚を申込まれた。
道夫の熱心さと同じろうあ者同士ならと秋子は道夫と結婚生活に入った。
二人の間に元気な赤ん坊が生れたが、二人の耳が聞こえないための事故から死んでしまった。
信子が家を飛び出し中国人の妾となりバーのマダムに収まったころ、道夫は有楽町附近で秋子と靴みがきを始め、ささやかな生活設計に乗り出した。
グレた弘一が家を売りとばしたので、母のたまが道夫たちの家に転がりこんできた。
秋子はまた赤ん坊を生み、たまは秋子たちのためにかんざしを手放した。
秋子はその金でミシンを買い内職を始めた。
子供の一郎は健全に育ち健康優良児審査で三等賞を受けた。
道夫は一郎の教育を考え靴みがきを止め印刷所の植字工になった。
しかし、一郎は成長するにつれ障害者である両親をうとんずるようになった。
内職の金をごまかされたり秋子の苦難の日はつづく。


寸評
聾唖者の夫婦が助け合いながら戦後の時代を生き抜いていく物語で、それだけを聞くとお涙頂戴映画だと思ってしまうが、泣けるシーンがあるもののむしろ励ましを受ける感動作品である。
聾唖者を初め身障者の社会への受け入れと理解は進んできたように思うが、描かれた時代では随分と偏見や差別が存在していただろうことは想像に難くない。
秋子は耳が聞こえないが、たどたどしいけれど何とか話すことができる。
道夫は全くの聾唖者であるが、いじけているような所はなく、常に秋子を励まし前向きに生きている。
そんな彼等を食い物にする連中が憎々しい。
耳の聞こえない彼等の家に泥棒が入り、物音に気付かない彼等を傍目に楽々と盗み出してしまう。
泥棒の物音に気付いたのは赤ん坊の子供だけで、這いだしたその子は玄関に転げ落ち死んでしまう。
泣き声が聞こえなかったために起きた悲劇で、切なくなってくる。
弟はヤクザな男で、義兄の給料を勝手に前借してしまうし、秋子のミシンも持ち出してしまうような男だ。
秋子の母親はそんな息子に愛想をつかせているのだが、母親たま役の原泉がいい感じだ。
顔立ちからすればイジワル婆さんに見えるのだが、子供に対する優しい心使いを見せるというギャップがいい。
家を飛び出し行方が分からなくなっていた信子を訪ねたところ、中国人の妾になっているという信子からいくばくかの金をもらう。
「娘のあんたがくれたものだからありがたくもらっておくよ」と言って去る場面には、娘の気持ちも母親の気持ちもわかるような気がして僕は泣けた。

弟の非道にたまらなくなり、秋子は弟を殺し自分も死のうとする。
それを思いとどまらせようとする道夫とのやり取りシーンは感動ものだ。
電車に飛び乗った二人は車両が違い、その窓越しに手話で会話する。
会話の内容は文字で示されるが、二人のやり取りは涙失くして見ることができない出色のシーンだ。
二人は「自分たちのような人間は一人では生きていけない」と言う。
そして「普通の人に負けないために・・・」という言葉を何度か言う。
ハンデを負った人には、普通の人に負けないという意識が少なからずあるのかもしれない。
僕の母親も、僕に父親の居ないことを気にかけていたのか「普通の人に負けないように」とか、「後ろ指を指されないために」などという意味のことをよく言っていた。
道夫と秋子の夫婦は搾取されるようなことがあっても文句を言わず真面目にけなげに生きている。
その姿に心打たれるものがある。
秋子は心優しい女性なので、戦争孤児のアキラを保護してくる。
その子供は最初の結婚相手であるお寺一家によって施設に入れられてしまうが、成人となったアキラ(加山雄三)が御礼にやって来る。
喜ぶ秋子だが、ここでまた耳が聞こえないために悲劇が起こる。
この結末はどうなんだろう。
一郎が立派になっていきそうなことを匂わせてはいるが、でもやはり救われない気持ちになってしまう。

名もなきアフリカの地で

2021-08-08 07:26:17 | 映画
「名もなきアフリカの地で」 2001年 ドイツ


監督 カロリーヌ・リンク
出演 ユリアーネ・ケーラー
   メラーブ・ニニッゼ
   レア・クルカ
   カロリーネ・エケルツ
   マティアス・ハービッヒ
   シデーデ・オンユーロ

ストーリー
1938年4月、イエッテルと幼い娘のレギーナは、ナチスの迫害から逃れるため、夫のヴァルターが先に渡っていたケニアの農場へやってくる。
ドイツでは弁護士をしていたヴァルターもここでは農場で働く一介の労働者である。
予想を超える過酷な生活に、お嬢様育ちのイエッテルは耐えられず弱音を吐いてばかり。
彼女とヴァルターの夫婦間の争いは絶えなかったが、そんな両親を尻目に、レギーナはアフリカの暮らしになじんでいく。
とりわけ料理人のオウアとは仲良くなり、またケニアの子どもたちともすぐに仲良くなって、アフリカの大地でたくましく成長していった。
やがて第二次大戦が勃発し、ドイツ人は英国軍に身柄を拘束されはじめ、ヴァルターも収容所へ入れられるが、まもなく一家でオル・ジョロ・オロクの農場に移ることができた。
そして成長したレギーナは、英国人の学校に入り寄宿生活をスタート。
だが学校が休みになると農場へ戻ってくる。
イエッテルもすっかり農場生活になじんでいた。
一方ドイツに残っていた親族は、どんどん消息が不明になっていった。
やがて第二次世界大戦は終わり、ヴァルターはフランクフルトの裁判所の判事に採用される。
ドイツに帰還することを望むヴァルターだったが、イエッテルはドイツの人々が怖いこと、家族を殺した国に帰りたくないと拒否する。
ある日、イナゴの大群がやってきて作物が全て食い尽くされそうになり、イエッテルやレギーナ、現地の人々は必死に追い払い、一人で行こうとしていたヴァルターも戻ってきて追い払うのに協力する。


寸評
レドリッヒ一家はナチスの迫害を逃れてアフリカにやってきたユダヤ人の一家である。
ユダヤ人がナチスの迫害を受ける作品は映画の中の一つのジャンルになっていると言っても過言ではないほど数多く撮られてきた。
それらの作品は、ナチスの非道と迫害を受けるユダヤ人の悲惨な姿を描くことで、ヒトラーの狂気とお涙頂戴の感動を呼ぶものが多かった。
この映画にはそういうところが全くない。
それは、舞台がアフリカのケニア、しかも首都ナイロビではない広大な大自然の中となっているからだ。
ヒトラーの名前は出てくるが、ナチスは登場しないしドイツ軍も出てこず、全体から受ける印象はおおらかで温かな雰囲気を感じる映画となっている。

物語は幼い娘の成長と自立、夫と妻の亀裂など、何度も取り上げてこられた話が展開される。
しかし、ナチスの迫害という背景があるから状況は深刻である。
ドイツには彼らの父母や親戚がいるが呼ぶことはできないし、もちろん自分たちが国に戻ることもできない。
しかし、夫のヴァルターが収容されたナイロビの収容所はアウシュビッツのようなひどいものではないし、妻のイエッテルと娘のレギーナが集められたホテルで受ける待遇が何ともおおらかなものであることが、この映画の雰囲気を如実に表している。
悲惨な話も抑制的に描かれているのだ。
農場では主人から逃亡者とののしられるし、学校ではレギーナたちユダヤ人は他の生徒と一緒にお祈りをさせてもらえないが、それらは悲惨な迫害を受けていると言う印象ではない。
一方で、ヴァルターが妻のイエッテルにアフリカ人に対する態度がナチスのようだと告げる皮肉な場面も描かれているから、単純なお涙頂戴という演出ではない。

なんといっても素晴らしいのがアフリカの自然や文化を映し込んだ映像だ。
ケニア人の生活を撮ったシーンや、いけにえを捧げる儀式のシーンはまるでドキュメント映画の様だ。
それがこの映画の中で見事なまでに溶け込んでいる。
料理人のオウアが話す言葉には胸を打つ。
そのオウアにレギーナはなついていて、二人の間にある心の交流が微笑ましい。
社会に適応する力は子供の方があるのだなと感じる。
それに比べれば、大人はなかなか変化に対応できない。
特にイエッテルはなかなかアフリカの生活に馴染めない。
それどころか英国軍人や、夫の友人であるジュスキントに心を許すような行動もとる。
イエッテルはバッタ騒動を経て夫の意見に従うようになるのだが、彼女が最初はアフリカを嫌っていたのにアフリカに残る気持ちになり、そして夫と共にドイツに戻る決心をする心の変遷をもう少し丁寧に描いても良かったのではないかと思う。
僕にはイエッテルに対して何とも勝手な女性だなあという印象しか残らなかった。
エピソードの継ぎのテンポはよく、レギーナの幼少時代と10代を演じた少女二人が素晴らしい存在であった。

浪花の恋の物語

2021-08-07 08:35:17 | 映画
「浪花の恋の物語」 1959年 日本


監督 内田吐夢
出演 中村錦之助 有馬稲子 雪代敬子
   花園ひろみ 植木千恵 日高澄子
   浪花千栄子 市川小太夫 香川良介
   白木みのる 中村時之助 織田政雄
   澤村宗之助 進藤英太郎 千秋実
   東野英治郎 田中絹代 片岡千恵蔵

ストーリー
忠兵衛は浪華飛脚問屋・亀屋の養子だった。
同業丹波屋八右衛門に無理やり新町廓に連れこまれたところ相方は梅川だった。
八右衛門が口裏を合わせ、無事に家へ入れたが、たちまち、その夜、廓へ足が向いていた。
義母の妙閑は彼の金遣いの荒らさに気づいき、大阪を離して為替の差額を取りに江戸へ向かわせる。
忠兵衛から梅川に江戸土産として櫛が届いた。
縁を切るとのなぞ言葉かと梅川は泣きくずれた。
藤兵衛という小豆島の醤油の大尽が北陸から帰ってきたら、梅川を身請することになっていた。
旅姿のままつい寄った忠兵衛はそれを聞かされ、持っていた八右衛門に届ける五十両を、身代金二百五十両の内金として入れ、いつづけを始めた。
八右衛門に見つかり、家へ帰った忠兵衛に武家の為替三百両を届ける用事が命じられた。
彼は金を懐ろに廓へ行ってしまう。
藤兵衛が帰阪してい、梅川の身請の祝宴を挙げようとしていた。
忠兵衛は口惜しく、思わず懐ろの小判を梅川の主人の前に置き、梅川を連れて去った。
武家のお蔵金の封印切りは獄門なので、忠兵衛の代りに妙閑が引っ立てられた。
二人はどこまでも一緒にいようと誓い合う。
新口村の入口で捕ったが、二人は実の親に会いに行くところだった。
近松はこの話を三幕の世話狂言に仕立てた。


寸評
東映の演技派といえば片岡千恵蔵、中村錦之助ぐらいなものではなかったかと思う。
その二人が台詞の少ない役柄で演技を披露している。
活発な役が多かった中村錦之助が珍しく気の弱そうな婿養子を演じている一方、御大の片岡千恵蔵は薄笑いと眼力だけの演技で中村錦之助以上に台詞はない。

何といっても廓の描写が秀逸で、古い日本の風俗を興味深く見せると同時に「男女の情感の風情」と「立ち振る舞いの美しい流れ」を見せて圧巻である。
そして、現代では顧みられることの少ない和楽や浄瑠璃、長唄が劇中に流れ、日本文化の奥深さを見せつける。
特にラストで中村錦之助、有馬稲子が見せる浄瑠璃を模した芝居は様式美の極致と言っても過言でない。
漆黒の中で白塗りの二人が舞うシーンは、その色彩的効果もあってうっとりとしてしまう。
日本人の根底にある情感と美意識を再認識させてくれるシーンだ。

梅川が少女の指があかぎれになっているのを見て、チリ紙を包帯代わりにして巻いてやるシーンなどはその所作に艶があった。
艶のある所作は梅川が遊女だからだけではなく、有馬稲子自身が身に着けていたものからにじみ出ていたように感じたし、中村錦之助も同様で俳優その人に備わっていた物なのかもしれない。
昔の役者さんはすごかったなあと思ってしまうのだ。
俳優は、中村錦之助、有馬稲子、片岡千恵蔵、東野英治郎、田中絹代、千秋実、進藤英太郎、浪花千栄子、等が綺羅星のごとくの名演のアンサンブルで、まるで俳優名鑑のようだ。

梅川は「金が仇の世の中」と言うが、金権主義に走る時代になってしまった今の世の中を呪っているようでもある。
二人は金では動かぬ情けの世界に生きようとするが、現実はそんなに甘くはない。
父親の手紙にあるように忠兵衛はカッとなる性格で、婿養子のためそんな性格を押し殺していたのに、梅川の身請け話時にその性格が出てしまい、「仇」と梅川が言った金のために横領という犯罪を犯してしまう。
変なところで意地が出て、使い込みの深みにはまり込んでいく。
忠兵衛は捕らえられて獄門磔になり、梅川は二度奉公となる悲惨な結末が待っている。
近松門左衛門はそれではあまりにもむごいのではないかと結末を書き換える。
人形浄瑠璃が演じられ、近松はその出来栄えにうっすらと涙をにじませるが、僕はもう一度中村錦之助と有馬稲子による浄瑠璃場面を見たかった。

自殺しようとした梅川を止めるくらいで、別段存在しなくてもいいような浄瑠璃の作者である近松門左衛門だが、本人が登場することでなんだか作品に風格が生じてしまうのだから映画って不思議だ。
ところで、近松門左衛門が執筆にかかる場面で片岡千恵蔵の小指の爪が伸びていたけれど、あれは一体どんな意味があったのだろう?
有馬さんは20代での市川監督との不倫と堕胎を噂され、その後中村錦之助と結婚・離婚をされ貫禄が出た女優さんだが、この頃の有馬さんは色気がある。

NANA

2021-08-06 07:04:29 | 映画
「NANA」 2005年 日本


監督 大谷健太郎
出演 中島美嘉 宮崎あおい 松田龍平
   成宮寛貴 松山ケンイチ 平岡祐太
   サエコ 伊藤由奈 水谷百輔
   能世あんな 高山猛久 玉山鉄二

ストーリー
パンクバンド“ブラスト”のヴォーカルとして成功を誓い、東京を目指す大崎ナナ(中島美嘉)。
何よりも恋を優先し、恋人・章司(平岡祐太)を追いかけて東京へ向かおうとしていた小松奈々(宮崎あおい)。
20歳同士で同じ名前のふたりが出会ったのは、東京に向かう新幹線の中だった。
クールなナナとキュートな奈々、見た目や性格は違うけどすっかり意気投合した。
その後、引っ越し先の部屋でも偶然の再会を果たし、結局2人は一緒に暮らすことに。
数日後、ギタリストのノブ(成宮寛貴)とドラマーのヤス(丸山智己)が、新曲を携え上京して来た。
メンバーにベースのシン(松山ケンイチ)を加えてブラストは活動を再開し、ナナは歌に賭ける気持ちを燃やす。
一方、奈々はつれない章司に不満を募らせていた。
実は、章司は思い込みの激しい奈々に疲れ、同じバイト先で知り合った大学の同級生でもある幸子(サエコ)に心変わりしていたのだ。
傷心の奈々に、人気バンド“TRAPNEST”のライヴ・チケットが届いた。
そのギタリストであるレン(松田龍平)が、かつてブラストのメンバーでナナの恋人だったことを知った彼女は、ナナを誘ってライヴに出かける。
レンが引き抜かれバンドを脱退した時に、愛し合いながらも別れた筈のナナとレン。
しかしライヴ当日、再会を果たしたふたりは愛を再燃させるのであった。
それから暫くして、奈々がバイトをクビになり、落ち込む彼女に、ナナが用意してくれたプレゼント。
彼女は、奈々の大ファンであるTRAPNESTのヴォーカリスト、タクミ(玉山鉄二)を部屋に招いてくれたのだ。
20歳を過ぎ、甘えてばかりいられない現実の中で、とびきり甘い夢を見せてくれたナナ。
それは、奈々にとってとても幸福な初恋みたいな時間だった。


寸評
公開時に劇場で見た時の僕は確か50代の半ばだったと思う。
記憶をたどれば、その時にはコミックが原作と言え、人物像やセリフ回しが極めてコミック的と感じ、それは意図されたものなのだろうと頭で理解しようとすのだけれど、どうしても受け入れられなかったように思う。
同じ名前、同じ歳のふたりの女の子の友情と恋を描くと言う点は理解できるのだが、それがリアリティをもって伝わってこなかった。
ただ、少しも美人じゃないけれど小松奈々の宮崎あおいが存在感を感じさせたと記憶している。
しかしそれから何年も経って更に歳をとっているはずなのに、再見すると不思議なことに瑞々しい青春友情ドラマとして受け入れている自分がいる。
僕の中に青春時代へのノスタルジーが生じてきているのだろうか。
ある種の老人病なのかもしれない。

物語は宮崎あおいの奈々が過去を回想する構成になっている。
その語り口はすっかり落ち着いて大人になった奈々を感じさせるが、しかし登場してから劇中で繰り広げる奈々の態度にはイラツクものを感じる。
奈々の友人が指摘するように、結局は自分が中心の女性で男からすれば重いと感じる女性なのだ。
自分では一生懸命やっていると思っているし、章司に対しても精一杯尽くしているのだが、相手から見れば仕事ができない女だし、親切の押し売りにはうんざりするものがある。
登場シーンにおける宮崎あおいはこうした奈々のキャラクターを的確なまでに表現している。
ナナの中島美嘉は台詞は下手だが、キャラ作りだけは完璧だ。
中島美嘉はもともと役者出身で雰囲気はあるのだけれど、役者としての才能より、歌い手さんとしての才能を評価したい。
パンク・ルックで粋がってるけれど、内にあるか弱さ、せつなさのようなものが表現しきれてなくて残念だったが、さすがにあまり多くはない歌を歌う場面は迫力あるシーンとなっている。
中島美嘉が歌うシーンだけでなく、音楽シーンはいい。
ヒロインの元カレが在籍するTRAPNEST(トラネス)が行うコンサートシーンは臨場感たっぷりだ。
ボーカルのレイラが魅力的だし、披露される歌も実にいい。

性格も育ちもファッションもまったく異なる女同士の青春友情ドラマとして十二分に楽しめる出来映えで、ナナのバンド仲間だった連中が集まって、奈々がファンであるアーティストを引き合わせる場面などは泣かせる。
最初は二人で小さなバスタブに入っていたナナとレンだが、最後では大きなバスタブに二人で入っている。
レンは小さなバスタブのあった今は住んでいない部屋を今も借りたままにしている。
そこが自分の原点だと言うことを忘れないためである。
二人もそこから始まっていたのだが、結局この二人は別れることになるのではないかな。
奈々は好いた惚れたで生きていける女性だろうが、ナナはそんな女性ではないような気がする。
初恋は大体において成就しないものなのだ。
初恋の相手は思い出の中にだけいるものだと思う。

嘆きのテレーズ

2021-08-05 07:21:07 | 映画
「嘆きのテレーズ」 1952年 フランス


監督 マルセル・カルネ
出演 シモーヌ・シニョレ
   ラフ・ヴァローネ
   ローラン・ルザッフル
   ジャック・デュビー
   シルヴィー

ストーリー
リヨンの裏町でラカン生地店の主婦になったテレーズ(シモーヌ・シニョレ)は、病弱なくせに傲慢な夫カミイユ(ジャク・デュビイ)、息子を溺愛するだけの義母ラカン夫人(シルヴィー)にはさまれ、家政婦のような扱いを受けながら冷たく暗い毎日を送っていた。
貨物駅に勤めるカミイユは或日イタリア人のトラック運転手ローラン(ラフ・ヴァローネ)と知り合い、意気投合して家に連れて来た。
逞ましく若々しいこの男の魅力にテレーズはみるみる惹かれ、ローランもまた彼女を思いつめて駆落ちを迫るようになったが、夫と義理の母に育ててもらった恩があるテレーズは別れ話を持ち出すことができず苦悩する。
しかし、幸せのかけらもないような日々に嫌気がさして、テレーズはカミイユに別れを切り出す。
カミイユはテレーズをパリに連れ出して監禁してしまえばローランと連絡もとれなくなると考え、パリに一緒に旅行に行けば別れることを承知してもいいともちかけた。 
テレーズはその言葉を信じて寝台列車に乗って夫と2人でパリに出かけたが、不審に思ったローランがこの列車に乗り込んでいた。
テレーズとローランが話し込んでいるのを見たカミイユは二人をひどくののしったので、かっとなったローランがカミイユを列車から突き落としてしまう。
ローランをかばうため、事件を疑うきびしい警察の訊問にもテレーズは口を割りはしなかった。
しかし、たえず彼女の脳裡を襲うのは惨死体となった夫の姿であり、息子の死以来全身不髄となってただ彼女を睨むだけのラカン夫人の眼であった。
一方、事件の夜、列車で夫婦と同室だった復員水兵(ローラン・ルザッフル)がいたが、彼は新聞でテレーズの住所を知ると同時にあの夜の記憶を呼びおこした。


寸評
よくある嫁と姑の物語のような雰囲気で始まる。
冒頭からこの三人の関係はよくないということがはっきりと描かれる。
テレーズは幼い頃に両親を亡くし伯母に引き取られて、伯母の息子でテレーズとは従兄にあたるカミイユと半ば強制的に結婚させられた。
病弱なカミユの看病と店と伯母の面倒を見ることが第一目的の結婚だった。
カミイユはマザコンで、義母は息子をネコ可愛がりして、息子にべったりである。
義母は姑根性丸出しで、何事につけても嫁はダメだと言い放っている。
カミイユは冴えない男だし、情けない男だと思うし、義母のラカン夫人に観客は憎悪の感情を持つだろう。
その意味で、嫌われ役ながらこの親子のキャスティングは成功している。
余分なシーンは描かずにテレーズとローランの恋を、シモーヌ・シニョレの押さえた演技を得ながら着実に描いていくことでこの映画を浮ついたものにしていない。
黒猫の描写から始まる初めての抱擁シーンは秀逸で、二人の恋が一気に燃え上がることを上手く表現している。
目を光らせる黒猫のアップから二人のキスシーンになり、倒れ込むように二人が画面から消えると窓から外の風景が見えるというカメラワークが素晴らしい。

ローランがテレーズとの関係をカミイユに打ち明けてからの展開は迫力を増す。
カミイユに打ち明けるシーンはなく、帰宅したカミイユがテレーズに詰めよる所から急展開を見せる。
カミイユはテレーズに別れないでくれと哀願するがテレーズは取り合わない。
弱い立場だった女が一旦覚悟を決めると強くなるといった風情である。
そこでカミイユはパリの叔母の家にテレーズを閉じ込めてしまおうと、とんでもない計画を実行しようとする。
親子が結託しての行いである。
そして列車での事件が起き、そのことで一時テレーズとローランの関係がおかしくなる。
お互いに非難し合う場面も用意されており、当然の成り行きのように思わせる描き方も心得たものだ。
ショックで口がきけなくなった義母だが、冷たい目だけは健在でテレーズを疑っているのを無言のうちに描く演出も決まっている。
電車でテレーズ夫妻と同室だった元水兵が登場し、二人をゆすりにかかり50万フランを要求してくる。
彼が偽証していたことも的確に描かれている。
このあたりは脚本の上手さだと思う。
脅迫してくる相手との対決があるなかで、彼らに有利な情報がもたらされるが、テレーズたちはそのニュースを知らないという展開に驚かされる。
そして思いがけないことが水兵に起きる展開はもっと驚かされる。
奇をてらった描き方ではなく、淡々と描いていることで逆にサスペンス効果をもたらしている。
水兵は自分は殺されるかもしれないと思っていたのだから、もちろんラストの描き方は予測されるものでありながらも余韻を感じさせる。
不倫物としても秀逸だが、サスペンス劇としても秀逸であり、極上のエンタテインメント作品になっている。
時代を超えて楽しめる作品だ。

凪待ち

2021-08-04 07:49:03 | 映画
「凪待ち」 2018年 日本


監督 白石和彌
出演 香取慎吾 恒松祐里 西田尚美 吉澤健
   音尾琢真 リリー・フランキー

ストーリー
ギャンブルとアルコール依存だった木野本郁男(香取慎吾)は、恋人の昆野亜弓(西田尚美)とその連れ子・美波(恒松佑里)と共に、亜弓の父親・勝美(吉澤健)を介護するために宮城県の石巻に帰郷することになった。
心機一転新しい生活を始めようと、郁男は近所に住む小野寺(リリー・フランキー)の紹介で印刷工場で働く事になり、亜弓は美容室の経営を始め、不登校だった美波も学校に通い始めた。
ある日、部屋で見つけたタバコがきっかけで、亜弓と美波が口論になり、美波は家を出ていってしまう。
一向に帰ってこない美波が心配になり、亜弓は車で探し回り、その後、郁男も交えて町中を探す。
郁男は亜弓を落ち着かせようと「すぐ戻る。大丈夫」と声をかけるが、逆にそれが亜弓の気に触り、苛立たせてしまい「自分の子供じゃないから」と辛辣な言葉をぶつけてしまう。
美波を自分の子供のように思っていた郁男は怒り、亜弓を雨降る夜道に降ろしてしまう。
気を取り戻した郁男は、酷いことをしてしまったと戻ってみたものの見当たらず、探していた美波を見つけた後、警察から亜弓が殺されていることを知らされた。
亜弓は防波堤の工事現場で発見され、首を絞められた跡があり、何者かに殺されたようだ。
事件は郁男が亜弓を降ろしてからすぐに起こっていて、警察や町全体から郁男が疑われた。
そのせいで郁男は仕事を失い、再びギャンブルに手を出すようになった。
競輪のノミ屋に入り浸り、負けが込んだ郁男はノミ屋で借金を繰り返してその額は250万に及んだ。
郁男はノミ屋を仕切っているヤクザから借金を返すように迫られるが返す当てはなかった。
病気が進み先が短い勝美は、自分の船を売って借金を返すようにと300万円を郁男に渡す。
郁男はヤクザに借金を返し、残った50万を競輪の11レースで1本買いする。
車券が的中したが、払戻金が大金になる為にヤクザはその金を払ってくれなかった。
祭りの夜、自暴自棄になって泥酔した郁男は町のごろつきに半殺しの目にあうが、そこを小野寺に救われる。


寸評
郁男はギャンブル好きのどうしようもない男だ。
こんな男のどこがいいのかと思うが、亜弓はこの男と何年も同棲生活をしている。
ひどい男だが優しい一面を持ち合わせていて、亜弓はその優しさに惚れていたのかもしれない。
僕の従兄もギャンブルにのめり込んで何億もあった財産を失ったのだが、ギャンブル依存症はどうしようもなく、ましてやそこにヤクザが絡んでいるとなれば尚更抜け出すことはできない。
甘い言葉に誘われて深みにはまり込んでしまい、気が付けば何もかも失くしているといった状態に追い込まれているというのが関の山なのだ。

郁男は同棲相手の亜弓の父親の面倒を見るために、亜弓と亜弓の連れ子の美波と共に津波被害の消え去らぬ石巻に帰郷して印刷工場で働くことになる。
石巻には競輪場はないのだが暴力団が仕切るノミ屋が存在している。
工員に誘われノミヤに行った郁男は最初はギャンブルはやらないそぶりを見せていたが、競輪の中継を見ているうちに心の虫が動き出して、つい手を出してしまう。
たまらず手を出してしまう描写はリアリティを感じさせるし、郁男を演じる香取慎吾は雰囲気を出している。
アイドル時代の彼とは違う一面を見せて、この映画におけるダメ男の演技はなかなかのものである。

郁男は負の連鎖を背負っている男だ。
印刷工場をリストラされ、再就職した先では足を洗っていたギャンブルに誘われ、おまけに窃盗の濡れ衣まできせられて解雇されてしまう。
連れ子の美波への愛情は持ち合わせているが素直に表現することはできない。
その為に亜弓からは「自分の子供ではないから」とひどい言葉を投げかけられてしまう。
オマケに自分が車から降ろしたばかりに亜弓は殺されてしまった。
その事に対する自責の念を持って耐え続けているのだが、同じく自責の念を持つ美波からは自分が苦しんでいるのを知っていながら事実を告げなかったと責められる始末である。
信用して亜弓とのことを話せば、その男は亜弓の元夫で、養育費を止められてしまうようなことにも出くわす。
人を信用しては裏切られ続ける郁男にしてみれば、「俺の一体どこが悪いのだ」と叫びたくなるだろう。
映画はそんなどうしようもない男の負の連鎖をこれでもかと描き続ける。

ヤクザに拉致された郁男を勝美が助けに行くのだが、その時不破万作演じる勝美の友人が仲間を集めようかと飛び込んでくる。
どうやらこの二人はもとヤクザのようであるが、彼らの結束は強い。
いざという時に、社会的に立派な人間は助けてくれないが、悪さを一緒にやった人間は助けてくれるという知人の言葉を思い出した。
そのことは勝美に義理を感じている暴力団組長の麿赤兒にも言えることで、彼はきっちりと義理を返している。
映画として最後は希望を感じさせるが、どうもハッピーエンドと言う風には思えない作品で、白石和彌らしいと言えば白石和彌らしい作品である。

眺めのいい部屋

2021-08-03 05:08:05 | 映画
「眺めのいい部屋」 1986年 イギリス


監督 ジェームズ・アイヴォリー
出演 ヘレナ・ボナム=カーター
   デンホルム・エリオット
   マギー・スミス
   ジュリアン・サンズ
   ジュディ・デンチ
   ダニエル・デイ=ルイス

ストーリー
1907年。イギリスの良家の令嬢ルーシー・ハニーチャーチ(ヘレナ・ボナム・カーター)は、年上の従姉シャーロット(マギー・スミス)に付き添われ、イタリアのフィレンツェを訪れる。
イギリス人観光客がよく利用するペンション“ベルトリーニ”についた二人は、部屋が美しいアルノ河に面した側でないことにがっかりする。
シャーロットが苦情を言いたてるのを聞いたエマソン(デンホルム・エリオット)は息子のジョージ(ジュリアン・サンズ)と共に泊っていた眺めのいい部屋と交換してもいいと申し出てくれた。
一度はためらったシャーロットであったが、偶然に同宿していたハニーチャーチ家の教区のビーブ牧師(サイモン・カラウ)に説得され、申し出を受ける決心をする。
翌朝一人で町を見物していたルーシーは、サンタ・クローチェ寺院でエマソンとばったり出会い、一緒に礼拝堂の壁画を見て回った。
シニョーリ広場を通りかかったルーシーは喧嘩で胸を刺された男が血だらけになっている場面を目撃しその場で失神してしまうが、そんな彼女を介抱したのは、通り合わせたジョージであった。
二人の心に、この時から特別な感情が芽生えはじめた。
二人の仲に気づいたシャーロットは、急遽、ルーシーをイギリスに連れ帰ってしまう。
数ヵ月後、ルーシーは、高い教養の持ち主であるシシル・ヴァイス(ダニエル・デイ・ルイス)と婚約する。
そんな矢先、偶然に美術館でエマソン父子と会ったシシルは、ルーシーの家に近い貸家の世話をする。
やがてルーシーはジョージと再会し、ルーシー家の人々はジョージとテニスに興じる。
傍でラヴィッシュ女史(ジュディ・デンチ)の書いた小説を読み上げるシシル。
再びジョージから熱いキスを受けたルーシーは、シシルとの婚約解消を決意する。


寸評
オープニング・タイトルと、その時流れるプッチーニのオペラはこの作品の格調を感じさせるものとなっている。
出だしはいいし、衣装、美術、時代を感じさせるフィルムの色調もいいのだが、僕は少し間延び感を感じた。
イギリス良家の令嬢ルーシーが、旅先のフィレンツェで出会った労働者階級のジョージと、イギリスに戻ってから婚約した貴族階級のセシルとの間で揺れ動く心を描いているが、ルーシーの悩む姿が物足りなく感じる。
もっともだえ苦しむと思うんだがなあ・・・。
プッチーニのアリアが流れる麦畑で、激情の運命にそってジョージとルーシーがキスするシーンが良かっただけに、その後の展開を期待しすぎてしまった。

一番気にいった場面はルーシーに振られたセシルが精一杯の見栄をはるまでの一連のシーンだ。
ジョージが自分の思いを吐き出すようにルーシーに迫る。
ジョージに手をつかまれたルーシーは「今すぐ帰って。いやよ!何も聞きたくない!」とその手を離し、ジョージを拒絶する。
ここでは、拒絶する態度の中に自分の思いを封印する女の複雑な心情が見て取れる。
そして思いを隠し切れなくなったルーシーは、教養をひけらかすシシルのようなタイプの男の妻に、自分がふさわしくないことを悟り、婚約解消を申し出る。
シシルは「君は本当に私を愛していないようだ。残念ながらね。その理由が分れば、痛みも和らぐんだが・・・」と冷静を装って問いただす。
そして最後に「君に感謝したいと思ってるんだ。自分が見えてきたよ。君の勇気には感心した」と、男としての精一杯の見栄をはる。
失恋し、恥辱を受けたにも拘わらず冷静に振舞わせたのは、恐らくどのような状況下でも感情を荒げる行為をすまいと言い聞かせて自我を作り上げてきた男のプライドがそうさせたのだろう。
ジョージの持つ八方破れ的な自我の表現が出来ない貴族階級の弱さでもある。
僕は貴族階級でも何でもないが、シシルのとった態度だけは、何となくわかるような気がする。
セシルに感情移入できたから、一連のシーンを気に入ることが出来たのかもしれない。

年配の登場者が多いが、婆さんの一人がルーシーが婚約しているとは思えないと勘を働かせる。
輝きが感じられないからだと言うのだが、ここで年の功を見せるために婆さん姉妹は居たのかもしれない。
そしていい味を見せるのがエマソン・パパだ。
「唯一、不可能なこととは、愛していながら別れることだ」などとキザな言葉でルーシーを説得する。
エマソンの後押しもあって二人は結ばれ、再びフィレンツェを訪れる。
「似た者同士」であるルーシーとジョージが、「眺めのいい部屋」で激しく求め合うラストシーンは、本当の二人の旅の始まりを示していたと思う。

観光映画的なフィレンツェの景色と、のどかなイギリスの田園風景を写し撮るカメラもいい。
アカデミー賞で、衣装賞、美術賞を受賞しているのも納得である。

ナイロビの蜂

2021-08-02 07:43:18 | 映画
漏れていた「と」だったので、紹介が続きました。
今日から「な」になります。
前回は2019/11/26の「ナイル殺人事件」からでした。
興味のある方はバックナンバーからご覧ください。

「ナイロビの蜂」 2005年 イギリス


監督 フェルナンド・メイレレス
出演 レイフ・ファインズ
   レイチェル・ワイズ
   ユベール・クンデ
   ダニー・ヒューストン
   ビル・ナイ
   ピート・ポスルスウェイト

ストーリー
ジャスティン・クエイルは英国出身の高等弁務官で、ケニアのナイロビに駐在していた。
職務の最中、妻テッサが旅先の湖で亡くなったことを同僚のサンディから聞かされる。
テッサと同行していた知人で医者のアーノルドの仕業と見ていたが、彼は行方知れずだった。
テッサの所持品などが葬式の最中に警察当局によって押収されたことを知り、彼はサンディとともに荒らされた内部をまとめていたところ、そこでジャスティンが見つけたのはサンディのテッサへの恋文だった。
ジャスティンはテッサと関わりのあるキオコという男児に会いに行った。
ジャスティンはそこで製薬会社が非合法的に治験を行っていることを知る。
イギリスに戻るや否や、上官のペレグリンにテッサの死の原因を追求しないように警告され、更にパスポートを取り上げられてしまう。
彼はテッサの調査を引き継いでナイロビに戻るため、テッサのいとこで弁護士のハムに会うことにした。
ハムに用意してもらったパスポートと身分証明書を携え、一度ドイツに入国、テッサと連絡を取り合っていた製薬会社の監視団体とコンタクトをとることにした。
しかし本部は荒らされ、生命の危機を感じた代表の女性は情報をあまり多く語らなかった。
製薬会社の差し金であろう男たちに暴行を受けたが、彼はあきらめずナイロビへと移動した。
ジャスティンはペレグリンの右腕ティムから英国に帰還するよう説得されたが断った。
ペレグリンと製薬会社それにケニア政府が結託して国民をないがしろにしているのがはっきりと分かってきた。
ジャスティンは治験の書記に関わっていたロービアという白人医師を訪ね、例の薬が危険であることを聞き、それを証明するレポートを受け取った。


寸評
ケニアに住むガーデニングが趣味の英国外務省一等書記官ジャスティンと、アフリカ救援活動に取り組むテッサは夫婦なのだが、オープニングから間もなく、そのテッサが死んでしまう。
テッサとの愛に満ちた幸せな日々を回想するような形で、物語の随所に挿入される。
そこだけを見ていると死んだ妻と遺された夫の愛の物語と思えるのだが、実はメロドラマなんかじゃなくて、国際的な陰謀が渦巻くスケールの大きいサスペンスなのだと判明してくる。
始めの頃に描かれたシーンが再度挿入されたりして、後半になるにしたがって面白くなり目が離せなくなる。
その分、前半は少しまどろっこしいところがあり、主人公夫妻の愛の物語も深みに欠けていると感じる。

後半は俄然面白くなる。
アフリカの内部に入り込み、手持ちカメラを中心にしたドキュメンタリータッチの映像によってスリルに加えて怪しさも高まっていく。
テッサが体と引き換えにサンディから重要な書簡を手に入れる場面などは怪しさ感たっぷりだ。
彼女はハニー・トラップという女の武器を使って証拠の品を手に入れるしたたか女だったのかと思わせる。
そうだとしたら外交官のジャスティンに近づいたのは妻となってアフリカに行きたいが為だったのかとの疑問が湧いてくる構成もニクイ。
さらに、サンディからの愛の手紙を発見してしまっては、ジャスティンならずともテッサを疑ってしまう。
夫婦関係に関してはたいしたドラマじゃないのに、挿入される回想形式の映像処理の力によって「やっぱり二人の間には確かな愛があったんだ」と思わせる描き方は上手い。
サスペンスが盛り上がっていくのと同時並行で、アフリカの現状が次々と描かれていく。
アフリカが抱える貧困、内紛、難民問題がリアルに描かれることで、サスペンスも深みを増していく。
貧困は言うまでもないが、別の部族が村を襲ってきて虐殺と子供たちの誘拐を行う様子が描かれる。
国連を初め支援者たちは、その事に無力で助けることはできない。
子供は国連の飛行機から降ろされ、運が良ければ難民キャンプにたどり着ける道を選ぶ。
最初は何となく頼りないジャスティンだったが、現実問題に触れることによって徐々に変化を来たし、この頃には鬼気迫る表情を見せるようになっているのも、ありきたりとは言え印象的である。

そしてついに、貧しいアフリカの人々を食い物にする製薬会社の非道が明らかになっていく。
製薬会社は人道支援と言いながら税金対策の為に使えない薬を寄付している。
こうなってくると、企業の慈善活動も疑ってしまうなあ。
新薬の開発には長い年月と巨額が必要だが、企業は開発にかかった費用を回収し利益を上げなけれならない。
製薬会社も営利企業である以上、その宿命に抗うことが出来ないのだろうが、人の命を預かる業態だけに利潤追求のみに目が行くのは問題で、政府も絡んでいるとなれば尚更だ。
製薬会社は新薬の治験をアフリカで行っている。
アフリカでの治験理由は、もともと死亡率が高いとか、副作用が生じた場合は再研究よりも安くつく買収による隠ぺいがやりやすいというもので、利益追求のみを目指すための身勝手な理屈は許せない。
その糾弾だけは出来ているし、ラスト処理も上手くできている。