おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

クライマーズ・ハイ

2019-04-30 07:51:19 | 映画
「クライマーズ・ハイ」 2008年 日本


監督 原田眞人
出演 堤真一 堺雅人 尾野真千子 高嶋政宏
   山崎努 遠藤憲一 田口トモロヲ
   堀部圭亮 マギー 滝藤賢一 皆川猿時
   でんでん 中村育二 螢雪次朗 野波麻帆
   西田尚美 小澤征悦

ストーリー
1985年8月12日、群馬県御巣鷹山で死者520人という世界最大の航空機事故が起こった。
地元の地方紙「北関東新聞」の遊軍記者である悠木(堤真一)は、社長の白河(山崎努)から事故の全権デスクを任される。
そんな悠木の母は白河のかつての愛人であり、その縁故で入社したという関係に二人はあった。
県警キャップの佐山(堺雅人)らは現地へと飛ぶが、白河がすべての権限を握る社内には複雑な人間関係が渦巻き、編集局と販売局の対立もあって、佐山の現場レポートは握りつぶされてしまった。
熱くなった悠木は、この状況が興奮状態が極限まで達した時こそが、最もミスを犯しやすい登山における「クライマーズ・ハイ」に近いと感じる。
そして、それを悠木に諭してくれた登山仲間であり親友の安西(高嶋政宏)がクモ膜下出血で倒れた。
一方、編集局部長である等々力(遠藤憲一)と悠木の対立も、日に日に深まっていく。
女性記者の玉置(尾野真千子)は、墜落の原因に関するスクープのネタを得る。
そんな玉置に佐山をつけて、確実なウラを取るよう悠木は命じたが完璧なウラは取れなかった。
悠木がその掲載を見送ると、翌日、別の新聞がその特ダネを抜いた。
退社を決意した悠木は、白河の罵声を浴びながら社を去る。
それから22年、安西の息子である燐太郎(小澤征悦)とクライミングに挑んだ悠木は、そこで離別した息子の話を聞く。
悠木は、息子が暮らすニュージーランドを訪れるが、そこには成長した息子の姿があった。


寸評

飛行機事故といえば、1985年8月12日羽田発伊丹行きのジャンボ機が御巣鷹山に墜落した史上最大の航空機事故を思い出す。
日航の腐敗を描いた小説に山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」があり、その中でも御巣鷹山の惨事が描かれていて、日航の対応のまずさが指摘されている。
しかし、この映画はその裏にあった日航の腐敗ぶりを描いたものではない。
あくまでもその事故を全国紙よりも詳しく報道しようとした地元紙の記者達の物語である。

新聞社の裏側を描いた作品としては「社葬」などが記憶にあるが、この作品も我々が知らない新聞社の内部事情を描いて面白かった。
前述の「社葬」が、社葬という会社行事を背景にした後継者争いの中のサラリーマン物語であったのと同様に、こちらも日航機事故を題材にして、会社と言う組織の中にいる個人の立場と人間関係を描いたサラリーマン物語だった。
特に多くの記者が所属する社会部が属する編集局と、新聞社の事業を支える収益部門である広告局や販売局のぶつかり合いが興味深い。
販売局も広告局も登場する局長はまるでヤクザかと思わせるような人物で、誇張して描いているだろうことを想像するのだが、それでもリアリティを感じさせた。
記事あっての新聞だとの自負を持つ記者たちと、誰がお前たちにメシを食わせてやっているんだという自負を持つ収益部門の者たち言い分は、会社なら必ずあるセクションの言い分の違いで面白かった。
この作品では、平時にはピラミッド型に保たれている組織と人間関係が、とてつもない異常事態が起きると、安定していたと思われたピラミッドが崩れ落ちることだってあるのだと語っているようでもあった。

全体としては多くの登場人物がいたために、それらの人間関係や人物像が散漫になってしまっていたことは否めなかった。
それぞれの人物には血が通った個性が描き出されていたと思うが、彼等の背景にあるものへの切込みが少しばかり希薄だったように感じたのだが・・・。
ワンマン社長の白河はともかくとして、連合赤軍事件をものした螢雪次朗が演じた追村の、前半はリードしたが後半は全国紙にやられた屈辱感が今にどう影響しているのか。
また悠木との確執がある遠藤憲一演じる等々力の悠木に対する確執原因も稀薄だったような気がする。
安西が尻拭いをさせられていたセクハラ事件の当事者の野波麻帆演じる黒田美波が受けたセクハラのひどさも伝わってこなかった。
ただ主人公は悠木であり、社会部県警キャップの堺雅人が演じた佐山であり、スクープに燃えるキーパソンの野波の玉置千鶴子だったはずで、かれらは頑張っていたと思う。
スクープへの執念と、挫折の象徴として描かれた神沢の悲惨な運命は痛々しい。

原田監督の演出は「突入せよ!あさま山荘事件」と同様で、世間を騒がせた大事件の裏側の知られざる世界の描き方は職人的なところがあって、随分とのめり込まさせて頂いた。


蜘蛛巣城

2019-04-29 10:43:07 | 映画
「蜘蛛巣城」 1957年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 山田五十鈴 志村喬 久保明
   太刀川洋一 千秋実 佐々木孝丸 清水元
   藤木悠 土屋嘉男 高堂国典 上田吉二郎
   三好栄子 浪花千栄子 加藤武 木村功
   宮口精二 中村伸郎

ストーリー
戦国時代、難攻不落を誇る蜘蛛巣城の城内では城主都築国春(佐々木孝丸)を中に軍師小田倉則保(志村喬)ら諸将が北の館藤巻の謀叛に遭い籠城の覚悟を決めていた。
その時使者が駆込み、一の砦の鷲津武時(三船敏郎)と二の砦の三木義明(千秋実)が敵を破ったと報じた。
主家の危急を救った武時と義明は主君に召され蜘蛛巣城に帰るべく城の前にある蜘蛛手の森に入った。
ところが道に迷い雷鳴の中、森を抜け出そうと進むうち二人は一軒の小屋を見つけ、中から老婆(浪花千栄子)が現れた。
驚く二人に老婆は「武時は北の館の主に、やがて蜘蛛巣城の城主になり、義明は一の砦の大将に、また義明の子はやがて蜘蛛巣城の城主になる」と不思議な予言をした。
その夜、武時は北の館の主に、義明は一の砦の大将に任ぜられた。
武時の妻浅茅(山田五十鈴)は、義明が森の予言を国春に洩らしたら一大事と、夫に国春を殺し城主になれと唆かす。
悪魔のような囁きに武時は遂に動揺、国春を殺し蜘蛛巣城の城主となる。
子のない武時は、予言に従いやがて義明の子義照(久保明)を世継ぎにしようと考えた。
ところが欲望にとりつかれた浅茅に反対され、更に彼女が懐妊を告げて再び唆かすと武時は義明を討った。
主君と親友を殺した武時は良心の呵責に半狂乱となり城中にも不安が漲った。
大嵐の夜、浅茅は死産し重態に陥ったその時、一の砦から使者が来て、武時の手を逃れた国春の一子国丸(太刀川洋一)を奉じて小田倉則保と義明の子義照が大将となって城に押寄せたと告げた。
凶報相次ぐ蜘蛛巣城内の部将たちは戦意も喪失したが、武時は森の老婆を思い出し武運を占わせようと蜘蛛手の森に駈け入った。
老婆が現われ、「蜘蛛手の森が動き城へ押寄せぬ限り武時は敗れぬ」と再び予言した。
狂喜した武時は城に帰ったが、将兵は依然不安におののき浅茅は遂に発狂したその時・・・。


寸評
堂々たるセットと、構図に圧倒されてしまう。
城門を閉ざす蜘蛛巣城に入場するため、国主の棺を運び込むと伝えて城に入るまでの流れるようなシーンなどは、威風堂々と言った形容詞がピッタリで、兵達の配置やカット割の見事さはなども完璧だと感じさせられた。
戦国時代の山城のオープンセットは立派で、今ではこのような金のかかったものを見ることはできない。
反面、城内のセットはいたってシンプルで、おそらくこれは能舞台を意識したものだろうと思う。
三船敏郎、山田五十鈴の動きも能を舞っているような所作になっている。

黒澤映画には霧やモヤがよく使われるが、黒澤映画のすごいところはその霧を天気待ちしたということだ。
もちろん効果を上げるためにスモークを炊いたりしたということだが、霧の場面の本当らしさのために天気待ちすれば制作費はかさむことになるのは明白だ。
それでも当時はそれをやり遂げようとする熱気があったのだろう。
ここでも霧が効果的に使われている。
霧の中から浮かび上がってくる蜘蛛巣城。
霧の中で道に迷った鷲津武時と三木義明が徐々にその中から姿を現す場面。
霧にまみれて山が動き出す場面。
どれもこれもモノトーンだからこその魅力を際立たせている名シーンだ。
モノトーンといえば森の中で出会う老婆のシーンも印象的。
外国映画だと間違いなく暗闇の中に浮かび上がってくる存在だと思うが、この作品では老婆を極めてハイキーに撮っていて、モノトーンだけに余計に怪奇映画的になって怖くなってくる感じがするのだが、この恐ろしさを画面に出したかった演出であり撮影方法だったのではないかと思う。
これから起こる恐ろしい出来事の前触れ役を果たすシーンのように思う。

鷲津武時の三船敏郎は無論なのだが、この映画で抜群の働きを見せているのは山田五十鈴さんだ。
山田五十鈴さんが静かで動きのない仕草で夫をそそのかす所など、悪女としてバツグン。
夫を国主殺しに行かせた直後、一転して鼓の早打ちにをバックに舞うようなすばやい動作に転じる所や、発狂して血に染まった手を洗おうとするシーンなど、彼女の表現力は並々ならぬものがある。
山田さんの映画は「祇園の姉妹」や「猫と庄造と二人のをんな」などの名作も随分と見てきたが、僕の脳裏に焼き付く演技を見せていたのはピカイチでこの「蜘蛛巣城」の浅茅役だ。

目ん玉をむいて、妻に頭の上がらぬ武将を演じる三船の、その目ん玉がさらに強調されるのが、最後の矢を浴びせられるシーンで、どうして撮影したのだろうと思う。
無数の矢が飛んできて、三船さんの周りの板塀に突き刺さるのだが、特撮ではない本物の矢が飛んできている命がけのシーンで、恐怖感はバンジージャンプどころではなかったはずだ。
そのうちの一本が、首を真横に打ち抜く所などは、まさに映画の醍醐味だった。
館の階段を上へ下へと動き回る三船さんを追いかけるカメラワークも、又、まさに芸術的だった。
このような時代劇はもう撮られることはないだろう。

グッバイ、レーニン!

2019-04-28 09:07:31 | 映画
「グッバイ、レーニン!」 2003年 ドイツ


監督 ヴォルフガング・ベッカー
出演 ダニエル・ブリュール カトリーン・ザース
   マリア・シモン チュルパン・ハマートヴァ
   フロリアン・ルーカス

ストーリー
舞台はベルリンの壁崩壊直前の東ドイツ。
アレックス(ダニエル・ブリュール)は、家族を残し一人西ドイツへ亡命した父親のせいで必要以上に社会主義に執着し、「社会主義と結婚」して祖国功労賞をもらうほどの熱心な共産主義者になった母親クリスティアーネ(カトリーン・ザース)と、子供を抱えた姉アリアーネ(マリア・シモン)とともに暮らしていた。
母は、地域の人々に奉仕することを生きがいとしていたが、歴史は変わりつつあった。
そんなある日、アレックスは反社会主義デモに参加して捕えられた。
そんな彼を見た母親は、ショックで心臓発作を起こし、8か月の昏睡状態に陥ってしまう。
必死で看病するアレックスだが、彼の喜びはデモの時であったララ(チュルパン・ハマートヴァ)が偶然にもその病院で働いていることだった。
二人はやがて恋に落ちるが、その時奇跡的に母は蘇生する。
しかしアレックスは医師から、ショックを与えて次に心臓発作を起こしたら命の保証はないと宣告される。
彼女が眠っていた8ヶ月の間にベルリンの壁は崩壊、ドイツは劇的に変化していた。
そのことを知ったら母の心臓は持つまい。
そこで今はベルリンの壁崩壊以前の東ドイツなのだと母に信じ込ませるため、アレックスの奮闘が始まる。
かくして東ドイツが健在である事を演じ続ける子供たちの涙ぐましい努力が続く事になるのだが…。


寸評
東西ドイツが統一されたというより、東ドイツが西ドイツに吸収されていく過程での東ドイツ市民の戸惑いが伝わって実に面白い作品だ。
深刻感を感じさせずに笑い飛ばしている所がいい。
当時の東ドイツの実態が垣間見えて、社会主義国家の実態を知らない僕にとっては、その実情を感じれただけでも価値がある映画となっている。
映画の中で、西ドイツマルクへの換金終了期間が迫ってきて、子供達が母が溜め込んでいたお金を出させるために、「3年で車が手に入ってお金がいるようになった」とウソをつき、そのことを母親が喜ぶシーンがあった(母は記憶喪失で、お金の隠し場所を忘れてしまっているのだけれども)。
調べてみると、東ドイツの国民車「トラバント」は計画経済のために、注文してから購入までに12~15年もかかったそうだ。
だから、たった3年で手に入ったと喜んでいたらしい。
統一後、東ドイツの人々がスーパーで先ず最初に買ったものが、バナナとオレンジとチョコレートだったという話もうなずけたりする。
キューバからのバナナなどが不味かった為らしい。
そう言えば、東ドイツのピクルスの瓶詰が駆逐されてオランダ製に変わっていて、昔のラベルに貼りなおすシーンなども挿入されていた。

アレックスがビデオ撮影を行い、偽番組を作って必死にごまかすくだりは本当に可笑しい。
しかし、どこかで何の疑いもなく過ごしていた、かつての東ドイツの生活にアレックス自身が喜び浸っているような感じを受けたのは私だけだったのだろうか?
昔の劣悪食品なんかをみつけて飛び上がっていたのは、ごまかしの小道具が出来たためだけだったのだろうか?
ちょうど昭和20年代のデコレーションで飾ったフード・テーマパークが全国で人気を博しているように、過去を懐かしんで、回顧に浸っていたのかも知れないなと思ったりしたのだ。
ララが東西ドイツの統一をクリスティアーネに告げるシーンがあるが、あれは現実だったのか、あるいは幻影だったのか?
巧みな情報操作でクリスティアーネはベルリンの壁の崩壊を知らないで、又東ドイツが西ドイツを吸収したと信じて亡くなったと、アレックスのナレーションが入るけれど、クリスティアーネは知っていたのかもしれないし、東が西を吸収し、西ドイツの難民を東が受け入れて統一を果たすと信じたかったのはアレックスの方なのかもしれない。
そのあたりを少しぼかしていることで映画自体は深みを持ったと思うので、この演出は非常に良かった。

8ヶ月の昏睡から目覚めるクリスティアーネは、東ドイツ市民の象徴で、現実の彼らにとっては毎日毎日がクリスティアーネ状態だったのではないか。
国家として存在している限りは、そこには長年にわたって培われてきた生活習慣があるわけで、ものが豊富にある自由な社会の良さはわかるけれど、急激な変化を与えられたショックや軋轢もまた想像に難くない。
思えば、将軍様を唯一と信じている狂信的集団が近くにあるわけだし、軍部独裁政権の解放はやはり必要だと思うのだけれど、この映画を見ると「大変だわなあー」とも感じてしまう。
ましてやイラク解放のつまづきを見るとなおさらだ。
最後の大芝居で、元国民的英雄で今はタクシーの運転手をやっている宇宙飛行士が新しい東ドイツのリーダーとなった設定で、彼がその会見を模した偽番組中で行う演説は、西も東もなく世界中の人々が平和に暮らす理想を語り、万感胸に迫るものがあり秀逸なシーンだった。
そしてクリスレィアーニが「我が家にも西ドイツの難民を受け入れてやって」とつぶやく優しい態度が印象に残る。
歩行訓練のつもりで表に出たら町の様子が一変していて戸惑うクリスティアーニの前を、ヘリコプターに吊り下げられたレーニン像が空中を飛んでいくシーンは圧巻だった。

グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち

2019-04-27 10:45:40 | 映画
「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」 1997年 アメリカ


監督 ガス・ヴァン・サント
出演 ロビン・ウィリアムズ マット・デイモン
   ベン・アフレック ステラン・スカルスガルド
   ミニー・ドライヴァー ケイシー・アフレック

ストーリー
ウィル・ハンティングは、マサチューセッツ工科大学で清掃員のバイトをしている。
親友のチャッキー、モーガン、ビリーらとつるんで、たびたび警察沙汰の事件を起こしたしてタチが悪い。
しかし、実は彼は特に数学に異様な才能を見せる天才だった。
ウィルはある日、MITの掲示板に書かれた難解な数学の証明問題を人目を盗んでこっそりと解く。
出題者のランボー教授は問題を解いたのがウィルと知り、傷害事件で拘置所にいた彼をたずねて、週2回彼と共に研究室で勉強し、さらに週1回セラピーを受けることを条件として身柄をあずかる。
フィールズ賞受賞のランボーでさえ手こずる数学の難問をあっさり解いて周囲を驚嘆させるウィル。
しかし、孤児で里親を渡り歩き、虐待までされた不幸な過去を送った彼は、誰にも心を開かないのだ。
ランボーは大学時代のルームメイトだったショーン・マクガイアをたずね、ウィルと境遇が似ている彼なら、ウィルの相手もつとまるのでないかとセラピーを依頼する。
マクガイアの言葉をウィルは黙って聞くが、セラピーでは沈黙を守った。
ウィルはハーヴァード大学の女子学生スカイラーをデートに誘い、やがて結ばれるが、自分の素性だけはどうしても告白できない。
西海岸の医学校に進学を決めたスカイラーは、一緒に来てとウィルを誘うが、混乱する彼は拒否した。
ウィルは傷心を抱えてセラピーもすっぽかし、刑務所に逆戻りの危機まで訪れるなかで、ショーンにも虐待の過去があったことを知る・・・。


寸評
登場する3人の性格設定が映画を面白くしている。
ウィルは孤児で転々とした里親からの虐待を経験し、そのトラウマから抜け出せないでいて、捨てられる前に捨てるという孤独の世界にいて人と打ち解けないでいる。
ショーンも妻と死別して、そこから立ち直れずかつての生気をなくしてしまっているのだが、過去にウィルと同じような経験も有している。
ランボー教授は数学のノーベル賞とも言われるフィールズ賞を受賞している有能な数学者なのだが、そのことを鼻にかけているような所があり、上から目線の態度を見せる。
そして、ランボー教授とウィルの関係はまるでサリエリとモーツァルトの関係みたいだ。
ウィルの才能を惜しみ、彼の将来に道を与えようとしていながら、ウィルの才能の前に自分の無力を知り嫉妬に駆られたりしている。
彼は威厳を保つために、ウィルの出した解答に間違いがあるようなことを言う。
それに反発したウィルが答案用紙を燃やすと、答えが消え去ってしまうのに慌てた教授が必死で火を消し止めたが答えが消失してしまっていて愕然とする場面などは二人の関係を面白く描いていた。
ランボー教授は自分のために彼を利用しようとしているフシも見受けられたが、ショーンとの関係はそうではない。
ショーンが描いた絵から心理学にも長けていたのだろうウィルに心の傷を言い当てられてしまう。
そこでショーンが妻への侮辱は許さないと感情をあらわにしたことで二人の距離は近づいたようだ。
上から目線の相手より、自分と同じような傷、あるいは欠点を持った人間との方が打ち解けあえる典型のようだ。
その場面での会話は興味がわいた。
女子大生のスカイラーと出会う場面で、知識を見せびらかす男子学生に「受け売りのエセは50年後に自分の正体を知る」と言い放つ。それと同じようなことをウィルはショーンから言われていて、ウィルの知識も書物からの知識にすぎず、自ら確認したものでないと指摘される。
ショーンはそのことを通じて、あるいは自分の経験を通じてスカイラーとの関係のあり方を説くいい場面だ。

ウィルの心を許していそうな友人たちとの生活は、単純労働の世界であり、警察沙汰を起こすすさんだものだ。
しかしその中の一人であるチャッキーは「才能のあるお前が、もしずっとこの町にいたら、俺はお前を殺す。ここにいるのは俺たちへの侮辱だ」と忠告する。
不良仲間だけど、友達っていいよなあと思わせる感動的な場面だった。
彼等の精一杯の気持ちでポンコツ車をプレゼントする仲間の交流は心が和むものだった。
提示された難問とされる問題が一体どのような命題なのかは観客にわからないままだが、その命題を示されたところで僕にはその意味すら理解できなかっただろうけどね。
ラストはある程度予測されたものだったが、驚いたのは、知らなかったことだけどマット・デイモンが名門ハーバード中退のインテリだったことだ。
ハーバード大学はマサチューセッツ工科大学の近くにあるということを、ウィルがスカイラーと出会ったことで知った次第。
変なところに興味がいった。

グエムル -漢江の怪物-

2019-04-26 06:28:38 | 映画
「グエムル -漢江の怪物-」 2006年 韓国


監督 ポン・ジュノ
出演 ソン・ガンホ ピョン・ヒボン パク・ヘイル
   ペ・ドゥナ コ・アソン イ・ジェウン
   イ・ドンホ ユン・ジェムン キム・レハ
   パク・ノシク イム・ピルソン

ストーリー
パク・カンドゥたちパク一家は、漢江の河川敷で行楽客相手の売店を営んでいた。
そこに突如、河底から巨大な怪物“グエムル”が現れ、河川敷に集う行楽客を襲った。
次々に怪物の餌食にされていく人々の中に、カンドゥの娘・ヒョンソもいた。
犠牲者の合同葬儀で数年ぶりに会するカンドゥとその妹・ナムジュ、弟・ナミル、老父・ヒボンのパク一家。
パク一家はグエムルを宿主としたウイルスに感染している可能性があるとされ病院に収容された。
やがてヒョンソがまだ生きていることがわかり、パク一家は病院から脱走し独自にヒョンソ捜索を始めた。
一家は下水道でグエムルに遭遇し銃で追いつめるが、逆襲されてヒボンが殺されてしまう。
怪物騒ぎの解決に乗り出す在韓米軍は、漢江の周辺数十キロ内のウイルスを駆除すべく化学物質“エージェント・イエロー”を散布する計画を進行させる。
再び警察病院に隔離されてしまったカンドゥは、ウイルス騒ぎがグエムル回収に米軍が介入する為の捏造である事を知った為に、ウイルスの被験者に仕立て上げられてしまっていた。
カンドゥは再び病院から逃亡し、グエムルと応戦する準備をしていたナミルたちと合流し、ヒョンソ救出に向かう・・・。


寸評
導入部はスピーディで、全体としてはコミカルな要素を盛り込みながらテンポよく進んでいく。
ホルマリンの影響を受けて怪物が誕生するのだが、この展開はどうしても水爆実験で誕生した「ゴジラ」を連想してしまう。
環境汚染によってこの怪物は誕生したが、そのことに対するメッセージ性は低く、緊迫感も「ゴジラ」の方が高かったと思う(もっとも、それは僕がゴジラファンの為かも知れないが)。
「怪物にやられたら、そいつを叩き潰して敵を討つ」という、爺さんのもらす言い伝えの盛り上がりには少し欠けたきらいはある。
結局、どちらのテーマも中途半端で最後の方をもう少し丁寧に描いていたら大傑作になっていたかもしれない。

この怪物は全く人間が手におえない無敵の怪物としては描かれていない。
結構、一家の反撃を受けて逃げ出したりするのだ。
そして、「ゴジラ」や「ジョーズ」を初めとして、いわゆる怪獣映画が被害を出しながらもなかなかその姿を見せなかったのに比べ「グエムル」はいきなりその姿を現す。
その意味でも、怪物に興味を引き付けることを意図した単なる怪物映画ではないことは確かだ。むしろ家族愛のようなものが全面に出ていたと思う。

娘を救うために駆け付ける父親とその兄弟たち。大学は出ているがダメ男のナミルが作った火炎瓶を、ナムジュがアーチェーリーで放つ場面は感動的で、冒頭の競技での失敗が伏線となっていた。
家族の強い絆というテーマは韓国映画特有のものなのかも知れない。

まさかとは思うが、最近の米国離れを反映した反米映画を狙っていたと思えるフシもあった。
汚染を承知でホルムアルデヒドという毒物を漢江に流す在韓米軍のいい加減さを描いていたり、怪獣の処理につけこんで米軍が軍事介入してきたりするのだ。
あるいは韓国のワイロ社会の一面を見せたりして、安っぽいドタバタ劇の形を取りながら、その中に微妙なメッセージを盛り込んでいるのを僕は評価する。
ソン・ガンホの主演作としては「殺人の追憶」や「大統領の理髪師」などを見ているが、この役者さんは実に面白い。
イケ面の韓流俳優とは一線を画すユニークな俳優さんで存在感がある。
捕われる娘役コ・アソンの恐怖演技も絶妙。

それにしても、あらゆるジャンルに秀作を投入してくる韓国作品の全体としてのパワーには恐れ入る。
かつて戦後の日本映画が黒澤、溝口、小津、成瀬、衣笠などを擁して秀作を連発していた時代の熱気と同様のものを感じるのだ。
統制が解除された映画人たちが、溜めこんでいた情熱を一気に吐き出しているような気がする。

苦役列車

2019-04-25 08:57:11 | 映画
「苦役列車」 2012年 日本


監督 山下敦弘
出演 森山未來 高良健吾 前田敦子
   マキタスポーツ 田口トモロヲ
   高橋努 中村朝佳 伊藤麻実子

ストーリー
1986年。中学校を卒業して以来、孤独な日々を過ごしていた19歳の北町貫多(森山未來)。
中学校を卒業した彼は、港湾での荷役労働に従事することで一人暮らしをしている。
日当の5500円は即座に酒代とソープランド代に消えていく。
将来のために貯金するでもなく、月の家賃のため金を取り置くわけでもなく、部屋の追い立てを食らうことも一度や二度ではない。
稼いだ金もあっという間に酒と風俗に費やすような自堕落の日々を送っている。
ある日、職場に専門学校生の日下部正二(高良健吾)が入ってくる。
スポーツで鍛えた肉体と人懐っこい笑顔を持つ日下部に、貫多は好意を抱き始める。
一緒に過ごすうちに、貫多にとって日下部は初めて友達といえるかもしれない存在になる。
そんな中、古本屋に立ち寄った貫多は店番をしていた桜井康子(前田敦子)に一目惚れをする。
やがて貫多は日下部に協力してもらい、秘かに想いを寄せる康子とも友達になることに成功、思いがけず人並みの青春を謳歌し始める。
しかし友達という存在に慣れていない不器用で屈折した貫多の態度により、3人の間に亀裂が生じる……。


寸評
主人公の北町貫多は自堕落を絵に描いたような生活を送っている。
中卒で日雇い労働者をやっているが、家賃を滞納して稼いだ金は酒と風俗につぎ込む日々を過ごしているダメ男だ。
自分を卑下する一方で、そのくせ職場の同僚を馬鹿にしまくる最低な性格の持ち主でもある。
負け組を代表するような存在で、何なんだこの男はと思わせるのだが、ところが映画とは不思議なもので時間がたつにつれて次第に魅力ある人物に見えてくるのだ。
その原因は、彼はデタラメな生活を過ぎしているのだが、父親が性犯罪者で一家離散した暗い過去を持つ苦しみを初め、彼の苦悩や人間らしさがチラチラ垣間見えてくるからだと思う。
やがて彼が根っからのダメ人間というよりも、生きるの に不器用な人間なのだと感じさせるようになり、本人は自分に忠実に生きているのに周りと軋轢を生んでしまっているのだと見えてくる。
ダメダメ人間だけど、結構いい奴じゃないかと…。
まるっきり同化はできないけれど、でもちょっと理解することはできるかなという気持ちになってくる。
そこには多分に同情めいた気分もあって、かれとは少なからず反対側にいる自分を感じてのことでもある。
それはこの「苦役列車」という原作が内在しているテーマの一つであるのかもしれないなと思ったりした。

職場で初めてできた友達との交友や、その友人である日下部の手引きで親しくなった古本屋でバイトする女性との楽しい時間は、まさに彼らの年齢時にはだれもが経験したであろう青春映画そのものだ。
三人が海辺で戯れるシーンは原作にないらしいが(僕は原作を読んでいない)、ずっと路地裏を歩んできた北町貫多への救いのシーンだったような気がする。
そんなシーンを描いたのは山下監督の優しさなのかもしれない。
現実社会では負け組にはそのようなオアシスをも提供しないほどの格差を生んでいるのかもしれない。

やがて貫多にもそんな厳しさが迫ってくる。
彼の不器用ともいえる生き方によって、せっかくできた友達や女友達との関係もうまくいかなくなってくるのだ。
ラストに近づくにしたがって、再び彼の行き場のないドン詰りの生活がやってくる。
3年後、やっぱりこいつは抜け出れないんだと思わせる。
ここで終わったら、なんだダメ人間はいつまでたってもダメ人間なんだとでも言いたいのかとなってしまうのだが、さすがに映画はそれでは終わらない。
ラストで必死に原稿用紙に向かう貫多の姿が、未来へのかすかな希望を感じさせるのだ。
それでこそ映画だ!

ヘタをすれば只のイヤな奴にしか見えない男に息吹を吹き込んだ森山未來の演技が見事であった。
前田敦子はアイドル出身者らしくなくていい。

空中庭園

2019-04-24 08:48:36 | 映画
「空中庭園」 2005年 日本


監督 豊田利晃
出演 小泉今日子 板尾創路 鈴木杏 広田雅裕
   今宿麻美 勝地涼 國村隼 瑛太 ソニン
   永作博美 大楠道代

ストーリー
“ダンチ”と呼ばれる東京郊外のニュータウン。
そこに暮らす京橋家では、“家族の間で隠し事をつくらない”というのが一家のルール。
「何事もつつみ隠さず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合う」それが、母親らしいことを何ひとつしてくれなかったさと子への反発から、いつも笑顔で幸せな家庭であり続けようと絵里子が決めたのだ。
だが、絵里子の意に反して、家族はそれぞれに秘密を持っていた。
夫の貴史は麻子とミーナと言うふたりの愛人の間を行き来している。
娘のマナは不登校を続け、ショッピングセンターや見知らぬ男とラブホテルに行き、弟のコウも学校をサボりがちである。
妻の絵里子はベランダのガーデニングにいそしみながら、母との長年の因縁に悩んでいた。
建築物に興味を持つ引きこもりがちな息子のコウは父の愛人と知らずにミーナを家庭教師に迎えてしまう。
そんなある日、絵里子はさと子とミーナの合同誕生パーティを開く。
ところが、酔っ払ったミーナのお陰で家族の秘密が次々に露呈、絵里子の築き上げてきた家庭はもろくも崩れ去った。
しかし、自身の誕生日。
さと子からのバースデイ・コールによってわだかまりの解けた絵里子は再生することが叶い、プレゼントを抱え帰宅して来た家族を温かく迎えるのであった。


寸評
この作品が公開される直前に豊田利晃監督が覚せい剤所持で逮捕されたのだが、まさか撮影中に覚せい剤を使用していたとも思われない。
それでも、もしかしたらと思わせる独特のカメラワークとシュールな映像が随所で展開される。
時々斜めになる画面、広角レンズや望遠レンズを使った画面、植物の葉にあいた穴から空を見上げグーンとズームアウトしていくカメラワークなどである。
高層団地の上の方に住んでいる京橋家の主婦絵里子(小泉今日子)は、広々としたベランダで色々な植物を育てていてまるでガーデンの様だ。
各階が階段状になっていて、それはまるで世界の七不思議のひとつバビロンの空中庭園の一角の様である。
しかしそのガーデンは大地に根付いたものではなく疑似ガーデンである。
京橋家も家族の中では内緒ごとは作らないと言いながらもガーデン同様の疑似家族である。
意思疎通が十分なようでありながら、すぐさまそれが演じられたものだということがわかる。
夫(板尾創路)は麻子(永作博美)やミーナ(ソニン)と浮気している。
長女のマナ(鈴木杏)と長男のコウ(広田雅裕)は学校に行った振りをしてブラブラしている。
絵里子はいつもニコニコしているが、その笑顔の裏で鋭い顔を見せる。
母親(大楠道代)との確執から、絵里子は母と違ったいつも笑顔の幸せな家庭を夢見てそれを演出している。
しかし隠し事のない家庭なんて無理な話で、ひとはそれぞれ秘密を持っているし、墓場まで持っていかねばならないことだってあったりするのだ。
家族にだって明かせない秘め事の一つや二つは持っているものだと思う。

前半は突拍子過ぎてリアル感に欠けていたのだが、夫の不倫相手が家庭教師として出現したのをきっかけに映画は俄然面白くなってくる。
隠し事をつくらないをルールにしていた家族のほころびが少しずつ大きくなっていくのだ。
特に幸せな家庭を演出していた絵里子が壊れていく姿の描き方は圧巻である。
ここからの小泉今日子はスゴクいい。
静かでありながら鬼気迫るものを感じさせ「死ね!」のセリフが強烈だ。
バイト仲間を売る行為もスゴイが、その女と喫茶店で別れた後のけだるい表情などはゾクッとさせられる。
小泉今日子に輪をかけたのが母親役の大楠道代で相変わらず存在感にあふれた演技を見せる。
板尾創路も頑張っていたが、それ以上に小泉今日子と大楠道代の掛け合いは見所だ。

真っ赤な雨に打たれて叫ぶクライマックスシーンには背筋をゾクゾクさせられるし、息を飲むほど迫力あるそのシーンを経て、さりげなく家族の再生を示唆する結末にも好感が持てた。
母親も含めて疑似家族の様であったが、家族の誕生日は覚えているのに自分の誕生日を忘れてしまっている絵里子への家族の心使いが、この家族はこの家族のやり方で結びついているのだと思わせた。
見終ると、クスリでもやってなきゃこんな映像撮れないないよなと思ってしまう作品で、豊田利晃にとっても渾身の一作と言えるのではないか。
映像でも迫ってくるこんな映画は僕好みである。


空気人形

2019-04-23 09:29:26 | 映画
タイトルが「く」で始まる作品に入っていきます。

「空気人形」 2009年 日本


監督 是枝裕和
出演 ペ・ドゥナ ARATA 板尾創路 高橋昌也
   余貴美子 岩松了 星野真里 丸山智己
   奈良木未羽 柄本佑 寺島進 山中崇
   オダギリジョー 富司純子

ストーリー
空気人形は、古びたアパートで持ち主の秀雄と暮らすラブドール。
空気だけで身体の中は空っぽだったが、秀雄が仕事で留守のある日、瞬きをしてゆっくりと立ち上がる。
軒先の滴に触れて“キレイ…”と呟き、秀雄が買ったメイド服を身に着けると、街中へ出てゆく。
初めての町で様々な人間に出会う空気人形。
戻らぬ母の帰りを待つ小学生とその父親、執拗に若さを求める女性の佳子、死の訪れを予感する元国語教師の敬一などで、誰もが心に空虚さを抱えていた。
レンタルビデオ店に立ち寄った彼女は、店員の純一と出会い、この店でアルバイトを始める。
空気人形は心を持ち始め、純一に自分と似た空虚感を感じ取って、彼に惹かれていく。
彼女は、街で生活するうち、次第に自分のように空虚さを抱えた人間が数多くいることを学んでゆく。
ある日、彼女は店で釘を引っかけて穴が開いてしまうが、純一は必死に息を吹き込んで人形を救う。
誰もいない店内で思わず2人は抱き合うのだった。
愛する人の息で満たされて幸福な人形だが、帰宅すればラブドールとしての秀雄との生活が待っていた。
自分の運命にジレンマを覚える彼女は、秀雄が新しい人形を手に入れたことを知り、家を飛び出す。
心を持ってしまったがゆえに傷つく人形。
何故自分が心を持ったのか自問自答を繰り返し、生みの親である人形師の園田のもとへ。
園田の家で、回収された人形たちを見て、心を持つことの意味を理解する。
彼女は、園田に感謝の言葉を告げると、純一の元へ向かうのだった。


寸評
人形に息吹が吹き込まれ擬人化するというのはピノキオを初め時々登場する題材であるが、ここに登場する人形はダッチワイフという男の性欲発散のためのビニール人形だ。
そのためにエロチックなシーンもあるのだが、ファンタジックな要素を残しつつ、擬人化している人形を通して社会の中の孤独な人間を浮かび上がらせ、切ない恋の顛末を描く力作だ。
朝、人形が動き出してファンタジックな世界に誘われていく。
人形は雨の雫を手のひらにうけ、やがて人体へと徐々に変化していき主演のペ・ドゥナに変わる。
透明感のある美しさと、繊細な感情表現、そしてコミカルな味わいは彼女ならではのもの。
彼女が演じなければ、この映画はここまで素晴らしいものにはならなかったはずだ。
ペ・ドゥナの言葉の弊害もここでは効果的だし、実に人形らしい顔立ちなことも幸いしている。
のぞみと名付けられた空気人形の取る態度が面白く、変身したことによって引き起こされる小ネタ的笑いがくすぐったい。

人形が外の世界へ踏み出すと、目にする人間社会は孤独な人々で溢れている。
買主の秀雄は人形に話しかけ、一緒に風呂に入り、散歩に出かけ、まるで夫婦のように過ごしている。
おまけに空気人形ののぞみ相手に処理を済ませ、その後始末を自分自身で行うという、そちらに関してもさみしい生活を送っている。
若い派遣社員がモテモテで、注目を浴びることがないOLは留守電に自分を慰めるメッセージを吹き込む。
過食症の娘、フィギュアのオタク、解決した事件のことで交番を訪れ、警官を話し相手としている老婆にも出会う。
彼女は刑事から「あなたには関係ない事件でしょ」と言われ、社会からの疎外感を感じてしまう。
ビデオ店の店長も、中年となっているが未だに一人暮らしで、侘しい食事に思わず食器を投げつける。
公園で出会った代用教員だった老人からは、体の中に何もないカゲロウの話を聞き、空っぽなのは私も同じだと告げられる。
社会の中で生きている人の中には、空気人形と同じ空っぽの人間が存在しているということだ。
しかし、命は自分自身では完結できない。
花の交配は虫によってもたらされ、命は他者から欠如を満たしてもらっている。
互いに欠如を満たしていることは知らないが、そのようにしながら人は生きていると教えられる。
心をもってしまったのぞみは、恋人を亡くしたらしいレンタルビデオ店の純一に恋をする。
純一はのぞみが空気人形であることは知らないが、あることでそのことを知る。
その時の様子が可笑しくもあり、エロチックでもあり、その中にも切なさのあるファンタージーな世界だった。
空気人形ののぞみは、自分がしてもらったことを純一にも施すが、それは悲しい結末をもたらす。

人形師のオダギリジョーは戻ってきた人形を前にして「この子たちは燃えないゴミとして処理される。人間はもえるゴミだ」と言い、「人間世界で見たものは悲しいものだけだったのか、美しいものはなかったのか」と聞く。
のぞみはあったと頷き、「産んでくれてありがとう」と返事する。
のぞみはゴミの中から綺麗な空き瓶を集めるが、見過ごしてしまうゴミの中にも美しいものがあるということだろう。
そしてその美しい瓶の中に美しい心を持った自らを置いたのだと思う。

金融腐蝕列島 〔呪縛〕

2019-04-22 08:21:30 | 映画
「金融腐蝕列島 〔呪縛〕」 1999年 日本


監督 原田眞人
出演 役所広司 椎名桔平 矢島健一 遠藤憲一
   中村育二 仲代達矢 根津甚八 本田博太郎
   石橋蓮司 風吹ジュン 若村麻由美
   もたいまさこ 多岐川裕美 黒木瞳 佐藤慶
   木下ほうか 丹波哲郎

ストーリー
1997年、東京・日比谷。
丸野証券の利益供与事件による総会屋・小田島(若松武史)の逮捕により、300億円という不正融資疑惑が持ち上がった朝日中央銀行本店に大野木検事(遠藤憲一)率いる東京地検特捜部の強制捜索が入った。
ところが、朝日中央銀行の上層部は責任を回避しようとするばかり。
そんな上層部の姿勢に腹を立てた"ミドル4人組"と呼ばれる企画本部副部長の北野(役所広司)、同部MOF担の片山(椎名桔平)、同部副部長の石井(矢島健一)、広報部副部長の松原(中村育二)らはボード(役員)を総辞任させ、"ブルームバーグ・テレビジョン"のアンカーウーマン・和田(若村麻由美)の力を借りて新頭取に中山常務(根津甚八)を推すと、真相調査委員会を結成。
朝日中央銀行を闇社会や古い慣習などの"呪縛"から解き放ち、再生させようと東奔西走する。
しかしそんな事態に至っても、佐々木相談役(仲代達矢)だけは最高顧問として朝日中央銀行に居座ろうとしていた。
佐々木の娘婿でもある北野は、身内と対決しなければないないことに苦悩しながらも、小田島と佐々木の癒着が記された自殺した久山相談役(佐藤慶)の遺書を武器に彼を辞職、逮捕へと追い込む。
それから数日後、 朝日中央銀行の株主総会が行われた。
中山新頭取を中心に、一条弁護士(もたいまさこ)などの協力のもと、北野たちは闇社会との繋がりや行内の膿を放出することを株主に確約してこれを乗り切ることに成功。
こうして、朝日中央銀行は再生への一歩を歩き始めるのであった。


寸評
1997年の第一勧業銀行による不正融資事件をモデルにしていることは間違いない。
第一勧業銀行は1971年に第一銀行と勧業銀行が合併してできた銀行で、2000年に富士銀行、日本興業銀行とも合併し現在はみずほフィナンシャルグループを形成している。
不正融資事件とは、小池隆一という総会屋への利益供与事件で本店を家宅捜索され、近藤克彦頭取の退任、頭取経験者の多数逮捕や宮崎邦次元会長の自殺という事態を引き起こし、社会的に非難された事件ことである。
宮崎元会長の遺書は劇中でも紹介されており、調べてみると内容は実際の遺書通りであった。
その内容は、
今回の不祥事について大変ご迷惑をかけ、申し訳なくお詫び申し上げます。
真面目に働いておられる全役職員そして家族の方々、先輩のみなさまに最大の責任を感じ、且、当行の本当に良い仲間の人々が逮捕されたことは、断腸の想いで、六月十三日相談役退任の日に、身をもって責任を全うする決意をいたしました。
逮捕された方々の今後の処遇、家族の面倒等よろしくお願い申し上げます。
スッキリした形で出発すれば素晴らしい銀行になると期待し確信しております。
永年のご交誼に感謝いたします。 宮崎
というものであった。

さて映画だが、MOF担の椎名桔平とマスコミ代表とでも言うべきキャスターの若村麻由美がカッコイイ。
大蔵省は東大出身者が多いので、大手銀行のMOF担(大蔵省担当)は彼らと同期の東大卒が選ばれるらしい。
椎名桔平の片山は当時流行っていたノーパンしゃぶしゃぶの接待などを駆使して大蔵省の課長補佐(本郷弦)と人脈を築いているが、内心では彼を馬鹿にしている。
その接待疑惑も捜査対象になって銀行を去っていくが、その姿は颯爽としている。
課長補佐にガツンと一発くらわせて、ノーパンしゃぶしゃぶ狂いが摘発されることをほのめかせているが、その後に起きた大蔵省スキャンダルを想像させる。

若村麻由美のニュースキャスターはキャリアウーマンの象徴的存在だ。
まだまだ社会的地位を得ている女性が少なかった当時の先駆者的存在で、キャリアウーマンの登場を切望している言動が時々描かれている。
そのキャリアウーマンの象徴としてペットボトルが使われていて、彼女は缶コーヒーなどではなくミネラルウォーターを格好いいホルダーで愛飲するヘルシー思考な女性であることが分かる。
キャリアウーマンとしての能力の高さを表現していたのがペットボトルだったと思った。

銀行の役員て本当にこうなのかと疑ってしまうが、中堅幹部にこれだけの人材を抱えているのはさすがに大手銀行だと変なところに感心した。
彼等の銀行を辞めたあとの身の振り方に関する雑談の様子は、僕のサラリーマン時代を思い出して微笑ましく、彼らほどの実行力はなかったが、一杯やりながら会社の未来を語り合った時代が懐かしい。
3Sと称されたが、S1君、S2君が若くして他界し、S3の私は映画三昧である。

金環蝕

2019-04-21 09:41:26 | 映画
「金環蝕」 1975年 日本


監督 山本薩夫
出演 仲代達矢 三國連太郎 宇野重吉 京マチ子
   高橋悦史 中村玉緒  山本学  神山繁
   内藤武敏 中谷一郎  安田道代 加藤嘉
   峰岸徹  夏純子   大滝秀治 久米明
   北村和夫 鈴木瑞穂  前田武彦

ストーリー
昭和39年5月12日、第14回民政党大会で現総裁の寺田政臣は、同党最大の派閥酒井和明を破り総裁に就任したが、この時、寺田は17億、酒井は20億を使った。
数日後、星野官房長官の秘書・西尾が、金融王といわれる石原参吉の事務所を訪れ、二億円の借金を申し入れたが、石原は即座に断り、星野の周辺を部下と業界紙の政治新聞社長・古垣に調査させ始めた。
政府資金95%、つまりほとんど国民の税金で賄っている電力会社財部総裁は、九州・福竜川ダム建設工事の入札を何かと世話になっている青山組に請負わせるべく画策していた。
一方、竹田建設は星野に手を廻して、財部追い落しを企っていた。
ある日、星野の秘書・松尾が財部を訪れ寺田首相夫人の名刺を手渡したが、それには「こんどの工事は、ぜひ竹田建設に」とあり、首相の意向でもあると言う。
その夜、財部は古垣を相手にヤケ酒を飲んだが、古垣は財部の隙を見て首相夫人の名刺をカメラにおさめた。
昭和39年8月25日、財部は任期を一カ月前にして総裁を辞任した。
新総裁には寺田首相とは同郷の松尾が就任し、工事入札は、計画通り竹田建設が落札し、5億の金が政治献金という名目で星野の手に渡された。
数日後、西尾秘書官は名刺の一件で、首相夫人に問責され、その西尾は自宅の団地屋上から謎の墜落死を遂げ、警察は自殺と発表した。
昭和39年10月6日、寺田首相が脳腫瘍で倒れ、後継首班に酒井和明が任命された。
昭和40年2月23日、決算委員会が開かれ、福竜川ダム工事の参考人として出席した松尾電力会社総裁らは神谷の追及にノラリクラリと答え、財部前総裁は、古垣と会ったこと、名刺の一件を全て否定した。
一部始終をテレビで見ていた石原は、星野らが自分を逮捕するであろうことを予測して対策を企てるのだが…。


寸評
これがアメリカ映画だったら多分実名で制作されていたのではないかと思われる政治劇だ。
もちろん汚職とか権力争いとかに係わる政治と財界の癒着に係わる暗部の部分である。
実名を当てはめると話は分かりやすい。
寺田首相は定期検診で癌が発覚した池田勇人であろう。
となれば京マチ子の寺田首相夫人は池田勇人夫人の池田満枝さんがモデルということになる。
したがって、後継首相となった酒井は佐藤栄作だ。
宇野重吉の石原は吹原産業事件で逮捕された森脇将光であり、仲代達也の星野官房長官は立件を免れたものの事実上失脚した黒金泰美となる。
殺されたと思われる山本学の西尾内閣秘書官は自宅官舎屋上から転落死したとされる中林恭夫がピタリと当てはまる。
三國廉太郎の神谷代議士は田中彰治で、田中は後に小佐野賢治国際興業会長を脅迫して手形決済を延期させたとしてたとして逮捕されている。
汚職の対象となっている九州の福流川ダムは福井県の九頭竜ダムのことで、竹田建設は鹿島建設、青山組は
間組のことだろう。
そんな風に推測してみても、浮かび上がってくるのは政界と財界の癒着ぶりで、描かれた内容を補足するに足るもである。
金環蝕で見られるように、また冒頭で語られたように、周りは輝いているが中は真っ暗な金環蝕現象と同じだと言う事に変わりはない。
それほど、政界と財界の間には庶民には推し量れないドロドロとしたものが有ると分かる。

金融王の石川参吉や日本政治新聞社の古垣常太郎など、なにか現実離れした登場人物を配してエンタメ性を高めているかと思っていたが、調べてみると彼等にもモデルがいたのだから、現実は恐ろしい。
しかし、その現実の怖さ、恐ろしさ、無気力感などといったものは少し描き方に迫力を欠いていたと思う。
国家権力は無実の者を抹殺することなど平気でやりそうだし、僕などが冤罪で逮捕されたら抗うすべを知らない。
映画「KT」にみられるようなことが実際にも行われているのだということは、実際の現場を見たわけではないが信じさせるものが有るのだ。
この作品では、そんな恐怖感が乏しい。
古垣の真の暗殺指示者は誰だったのか、真の実行犯は誰だったのか、指示者と実行犯の関係はどうだったのかなどは闇の中である。
現実にもそれは闇の中に葬り去られたのであろうが、それを描いてこその映画ではなかったかと思うのだ。
山本薩夫監督は実録物とも思える作品を何本か撮っているが、「白い巨塔」や「華麗なる一族」などに比べると、そのエンタメ性は乏しいように感じる。
現実を意識しすぎたのかもしれない。
作中で法務大臣に「現総理に前総理を追及させるようなことは避けたい」と言わせているが、日本映画が年数が経ったとしても実名でそれを描くことを避けているのは、死者にムチ打たない国民性が影響しているのだろうか?
何食わぬ顔で弔辞を読む総理の姿に嫌悪感を抱くまでに至っていなかったように思う。 惜しい!

キル・ビル

2019-04-20 08:42:29 | 映画
「キル・ビル」 2003年 アメリカ


監督 クエンティン・タランティーノ
出演 ユマ・サーマン デヴィッド・キャラダイン
   ダリル・ハンナ ルーシー・リュー
   千葉真一 栗山千明  ヴィヴィカ・A・フォックス
   ジュリー・ドレフュス マイケル・マドセン
   マイケル・パークス  ゴードン・リュウ
   麿赤兒 國村隼 北村一輝

ストーリー
毒ヘビ暗殺団で最強と言われた元エージェントの女、ザ・ブライドが、4年間の昏睡状態から奇跡的に目を覚ます。
彼女は自分の結婚式の最中に、かつてのボス、ビルとその手下たちに襲われ、頭を撃ち抜かれたのだ。
ザ・ブライドはかつて、世界中を震撼させた暗殺集団の中にあって最強と謳われたエージェント。
5年前、彼女は自分の結婚式の真っ只中に、かつてのボス“ビル”の襲撃に遭い、愛する夫とお腹の子どもを殺された上、自らも撃たれて死の淵をさまよった。
いま、目覚めた彼女の頭の中はビルに対する激しい怒りに満たされていた。
ビルに復讐することだけが彼女の使命であり運命となった。
復讐の鬼と化したザ・ブライドは、自分の幸せを奪った者すべてを血祭りに上げるため、たったひとりで闘いの旅へと向かうのだった…。
まずはナイフの使い手であるヴァニータ・グリーンの自宅で彼女を殺す。
そして沖縄へ飛び、服部半蔵から刀を手に入れて東京へ。
青葉屋に乗り込み、暗殺集団クレイジー88を皆殺しに。
少女の殺し屋ゴーゴー夕張、さらに日本刀の名手オーレン・イシイも苦闘の末に倒す。
そして飛行機の中、ビルの名で終わる復讐リストを書き記すのだった。


寸評
冒頭に深作欣二に捧げると出るが、見終わった時にこれは伊藤俊也に捧げるか、篠原とおるに捧げるだと思った。
最後のクレジット・タイトルの部分で、梶芽衣子さんの「怨み節」がフルコーラスで流れる。それで確信してしまった。
これはビッグコミックに連載されていた篠原とおるの劇画「さそり」で、1972年に伊藤俊也監督、梶芽衣子主演で映画化された「女囚さそり」シリーズだと。
ユマ・サーマン演じる主人公はその「さそり」の主人公である松島ナミの再来だ。もっとも松島ナミはもっとクールな感じがしたけど・・・。

荒唐無稽、A級映画とB級映画というジャンル分けが正式に有るのかどうかは知らないが、有るとすれば正しくこればB級映画の傑作だ。
B級映画なのだから、どうしてここで日本語をしゃべる必要があるのかなどと、細かい事に疑問をはさんだり、変な理屈をこねて見たりしてはいけない。
しかしどこかで「それは変だ、おかしい」とケチをつける部分も持っていないといけない。その量が多過ぎてもいけないし、逆に少なすぎてもいけない。
 この映画はその辺のころあいが丁度良くて、なつかしいチャンバラとかカンフーとか西部劇のガンファイトを見るつもりで肩の力を抜くと、事実アクションシーンは本当にそれらのミックスで、そのミックスさ加減がなかなか味わいがあって面白い。
ここまで徹底的に殺戮シーンを描かれると、見ているほうはだんだんと慣れてきて快感すら感じるようになる。
 腕が叩き切られ、手首が飛ぶのはざらで、果ては首が飛び、血しぶきが吹き上がる。
最後には切られて上部が無くなった頭蓋骨から脳みそが見えていた。
なんだかグロテスクな映画だな・・・。おっと、そんなことも気にしてはいけない。B級なのだ、B級なのだ。

クエンティン・タランティーノ監督は梶芽衣子ファンなのかな?きっと彼女の「修羅雪姫」も見ていると思う。
多分、鈴木清順や山下耕作あたりのプログラム・ピクチャもたくさん見ているのではないか。大立ち回りのシーンのセットや、ライティングの感じなんかは以前に何回か見たような気がした。
 70年代の歌がカバーバージョンとして今の歌い手さんでヒットしてたり、その頃の歌をバックにCMが作られていたりしているのと同じ線上で、リメイクというか悪く言えばパクリをやって楽しい作品作りをしているように思えた。
実は、それはそれでより一層の面白さを感じる事が出来るのがB級映画の面白いところで、まさにそれがB級映画の一番の醍醐味だと思う。

映画館を出たら「花よ 綺麗とおだてられ 咲いてみせれば すぐ散らされる 馬鹿な 馬鹿な 馬鹿な女の 怨み節」と無意識のうちに“怨み節”の口笛を吹いていた。
この「怨み節」、劇場版では「月に一度は血を流しゃ」ときわどい歌詞があったのですがレコードになった時には割愛されていた。
実のところ僕は梶芽衣子さんのファンだったのです。

キリング・フィールド

2019-04-19 10:41:50 | 映画
「キリング・フィールド」 1984年 イギリス


監督 ローランド・ジョフィ
出演 サム・ウォーターストン ハイン・S・ニョール
   ジョン・マルコヴィッチ ジュリアン・サンズ
   クレイグ・T・ネルソン ビル・パターソン
   スポルディング・グレイ グレアム・ケネディ
   パトリック・マラハイド ネル・キャンベル

ストーリー
1973年8月。ニューヨーク・タイムズの汽車シドニー・シャンバーグは、特派員としてカンボジアの首都プノンペンに来た。
当時のカンボジアはアメリカを後楯にしたロン・ノル政権と、反米・救国を旗印に掲げた革命派勢力、クメール・ルージュとの闘いが表面化した時期でもあった。
カンボジア人のディス・プランが、現地で彼の通訳・ガイドとして仕事を助けてくれることになった。
翌74年に入って、革命派のプノンペン進攻は目前に迫った。
外国人や政府関係者は、必死に国外へ出ようとかけずりまわり、プランの家族も、シャンバーグの手を借りて、無事にアメリカへ旅立った。
同年4月、プノンペン解放、ロン・ノル政権はついに崩壊、新しくクメール・ルージュを率いるポル・ポト政権が誕生した。
シャンバーグ、プラン、そしてアメリカ人キャメラマンのロックオフ、イギリス人記者のジョン・スウェインは、最後の避難所であるフランス大使館へと逃げ込むが、やがて、カンボジア人であるプランだけが、クメール・ルージュに引き立てられ、どこかへ連行されていってしまう。
ニューヨークに戻ったシャンバークは、プランの身を案じながらも、カンボジアの取材記事でピューリツッァー賞を受賞したが、ロックオフがシャンバーグを訪れ「あの賞が欲しくてプランを脱出させなかったんだな」となじる。
その頃、プランは、過去の身分を隠し、クメール・ルージュの監視下で労働していた。
やがて、辛くも脱走したプランは累々たる屍を踏み越えてタイの難民キャンプにたどりついた。


寸評
前半はドキュメンタリー風に描かれ、後半になって一気にドラマ性を帯びてくる構成がいい。
前半部における内戦の様子と悲惨な映像は、いったいどうやって撮影したのかと思わせるぐらいの真実味で迫ってくる。
プノンペンでの混乱ぶりの描写は迫力が有って、その現状を見せられると戦場カメラマンなどと自ら名乗ってテレビに登場する人などはマユツバに思えてくる。
その極限状態でアメリカ人ジャーナリストのシドニーと現地人助手プランとの友情がはぐくまれていき、プランは自分もジャーナリストだとの意識を持ち始める。
しかし、プランがシドニーのことを思っているのに対して、シドニーはスクープのことを思っているという二人の関係が微妙で、それがまた映画に深みを帯びさせている。
そのことは後日、同じジャーナリストのロックオフからも指摘されることになり、シドニーの心の傷にもなっているのだが、そのことをくどくどと描いていないので、この映画の焦点をぼけさせず、むしろラストの感動をもたらしていると思う。

凄まじいのは強制労働に従事させられているプランが脱走し戦禍の大地をさまようシーンと、それに至るまでの虐殺シーンだ。
ここに描かれたジャーナリストたちがあのような行動を本当にとったのかどうかは疑わしいところもあるが、しかし彼らの努力によって300万人を虐殺したと言われるポル・ポト政権の理不尽な行為が映像化されるに至っていると思う。
その虐殺ぶりとは、無抵抗な人間をいとも簡単に撃ち殺してしまう麻痺性なのだ。
そして知識階級もどんどん処刑されていき、前政権に毒されていない子供こそが絶対だとして、子供をリーダー化してしまうなどと、実に狂気じみていることだ。
20世紀の後半になってもポル・ポト政権の様な社会が存在したことが信じられない。
僕たちはポル・ポト政権がどんなにひどい政権だったかを知っている。
クメール・ルージュについての背景説明がほとんどないし、ポル・ポト政権による殺戮と文明破壊の実態は十分に描ききれているとは思えないが、それは我々の知識に委ねているのかもしれない。
あくまでもアメリカ人記者と現地人助手の絆がメイン・テーマだったのだと思う。

偽造パスポートの一件、「ドイツ車NO1」のエピソード、プランがフランス語や英語を理解するのではないかと疑われカマを掛けられるところなど、ドラマ性も持たせているのでお堅い作品ながら十分に楽しめる出来栄えだ。

ラストシーン。
「許してくれ」とシドニー。
「許すことなどないよ」とプラン。
抱き合う二人をカーラジオから流れるジョン・レノンの“イマジン”が優しくつつみ込んでいた。

桐島、部活やめるってよ

2019-04-18 09:03:32 | 映画
「桐島、部活やめるってよ」 2012年 日本


監督 吉田大八
出演 神木隆之介 橋本愛 東出昌大 大後寿々花
   清水くるみ 山本美月 松岡茉優 落合モトキ
   浅香航大 前野朋哉 高橋周平 鈴木伸之
   榎本功 藤井武美 太賀

ストーリー
いつもと変わらぬ金曜日の放課後。
バレー部のキャプテンで成績優秀、誰もがスターとして一目置いていた桐島が突然部活を辞めたというニュースが学校内を駆け巡る。
学内ヒエラルキーの頂点に君臨する桐島を巡って、バレー部の部員にも動揺が拡がる。
動揺は同じように“上”に属する生徒たちにも広がっていった。
いつもバスケをしながら親友である桐島の帰りを待つ菊池宏樹(東出昌大)たち帰宅部のイケメン・グループもその一つだった。
桐島の恋人で校内一の美人・梨沙(山本美月)率いる美女グループも同様だった。
梨沙でさえ彼と連絡が取れないまま、桐島と密接に関わっていた生徒たちはもちろん、ありとあらゆる生徒に波紋が広がっていく。
さらにその影響は、菊池への秘めたる想いに苦しむ吹奏楽部の沢島亜矢(大後寿々花)や、コンクールのための作品製作に奮闘する映画部の前田涼也(神木隆之介)ら、桐島とは無縁だった“下”の生徒たちにも及んでいく。
人間関係が静かに変化し徐々に緊張感が高まっていく中、桐島とは一番遠い存在だった映画部の前田が動き出す……。


寸評
ほとんどの人達が高校生活を経験していると思うのだが、それらの人々にとっては思い当たる節があちこちにある映画だと思う。
学園のヒーローとも言うべき桐島がバレーボール部を退部し、さらに連絡が取れなくなってしまったことは、この映画の中では事件なのだろうが、そのミステリーを追いかけているわけではない。
そのチョットした出来事によって動き回る高校生たちをグループごとに時間軸を戻したりしながら追い続けているだけの映画である。
しかしながら、観客のだれもが登場人物の誰かに自分自身を投影できるような作りになっていると思うのだ。
僕自身は帰宅部だったので、当然同じような帰宅部の彼等にウンウン…となる。
他の連中にしても、そう言えばあんな奴らもいたな…と。
単なるノスタルジー映画になっていないのは、わずらわしい人間関係の渦中にありながら、クールに状況を見てお互いの距離感を保とうとする彼らの姿勢が、少なからず何十年も生きてきた私にも当てはまることだからではないだろうか。
うまくおさまっていた社会が、桐島という一つのピースが抜けることによって、なんとかその穴を埋めようとして動き出す周りの人間の人間らしい動きがくすぐったい。

描かれているのは帰宅部、運動部、文化部など様々なグループに分かれ、それぞれ微妙なバランスの中で、毎日の学校生活を送っているありふれた高校生たちのリアルな日常(だと思う)。
その中に友情、恋愛、ケンカ、劣等感などの青春アイテムが散りばめられていて小気味良い。
しかし、この映画は学園を舞台とする青春映画ではない。
桐島が現れたらこの作品は青春映画として成立するが、桐島は現れない。
青春映画を成立させるための取り巻き連中は、桐島の存在が自分達を存在させていることを感じている。
一見上位者と思われている自分達が存在するためには桐島が必要なのだ。
一方で落ちこぼれ組と見受けられる映画部のオタク男子らは桐島を必要としていない。
彼等は青春映画の脚本を拒否してゾンビ映画を撮っている。
この学園では青春映画は撮れないのだ。
なぜなら体育会系、文化部系、イケイケ女子グループ達が交わることなく、表面上の言葉とは違うそれぞれのホンネが見え隠れする。
だから彼等それぞれの視点で、同じ場面が反復して描かれる。
それが同じ日の出来事であることを示すために、曜日のクレジットが度々入る。
そして始まるそれぞれのシーンの切り替わりがこの映画に新鮮さを感じさせる。
特に女子高生たちの内に秘めた思いと、仲間と交わる為にとっている虚飾の態度が面白く描かれている。
ラストでは皆から見下されていた映画部の連中が最後に輝きを見せる。
一方で、何においても万能だった桐島は姿を消す。
そして、そこにしか俺たちは存在しないのだと、乱闘の後にそれぞれが屋上から自分たちの場所に向かう。
それに比べると、桐島も出場を拒否された菊池も向かう場所がなくなったのかもしれないなと僕は感じた。

いまどき珍しい8ミリカメラで撮影しているのもノスタルジーをそそるが、しかしそれはフィルム映画への賛歌でもある。
映画を守るために起こした屋上の乱闘(?)騒ぎは興奮させられた。
姿を見せない桐島を中心に物語が展開し、スローなエピソードがアップテンポでつながれていく味わいのある映画で、吉田大八会心の一作だった。

嫌われ松子の一生

2019-04-17 08:07:56 | 映画
「嫌われ松子の一生」 2006年 日本


監督 中島哲也
出演 中谷美紀 瑛太 伊勢谷友介 香川照之
   市川実日子 黒沢あすか 柄本明
   木村カエラ 柴咲コウ ゴリ 谷原章介

ストーリー
53才で殺害死体として発見された川尻松子(中谷美紀)の半生を、甥の笙(瑛太)がたどっていく。
福岡で生まれ、病弱な妹の久美(市川実日子)と育った少女時代を経て、松子は中学の教師となった。
しかし、教え子の龍(伊勢谷友介)が起こした窃盗をかばったことでクビになり退職。
その後は実らぬ恋愛を繰り返しながら堕落し、ようやく得た新たな仕事は中州にあるソープ嬢だった。
松子は努力を重ねて店のトップへ登りつめるが、風俗業界の変化の波に追われ雄琴の店へと移る。
そこで同棲していた男の浮気を知った松子は、逆上して殺害してしまう。
逃亡して上京した松子は理髪店を営む島津(荒川良々)と出会い、彼の優しさに触れて同棲を始める。
ようやく得たささやかな幸福もつかの間、殺人事件を捜査していた警察に逮捕される松子。
8年間の刑期を終えた松子は島津の店へ向かうが、すでに彼は家庭を築いていた。
落胆した松子を支えるのは、刑務所内で同じ囚人仲間だった沢村めぐみ(黒沢あすか)との友情だった。
そして松子が、いまではヤクザとなった教え子の龍と再会する。
お互いにすがる相手のいない二人は激しく求めあうが、その関係も龍の逮捕によって断ち切れた。
ひとりアパートに閉じこもるようになった松子は、アイドルの追っかけだけを楽しみに生きる。
無残に肥満化した松子は、公園で不良中学生たちから撲殺されるが、死体から離れた松子の魂は故郷へと向かって飛翔する。
そんな松子の人生は不幸だけではなかったのだろうと、甥の笙は安堵した。


寸評
松子は客観的に見れば不幸な人生だったと思うが、常に前向きで、人を愛し、人につくしている。
怨む事もある人間を許し、そして愛する事が出来た神様的人間だったのだ。
やたらと登場する花は、その希望に満ちた人生の象徴だったのではないかと思う。
観客の女性客からはすすり泣きが漏れていたけれど、それは同姓として松子に同化し、そのかわいそうな切ない人生に対する憐れみの気持ちがあったせいだと思う。
異性の僕としては涙はなくて、むしろ彼女の生きていくバイタリティに感心し、引きこもりの彼女が中学生に注意する凛とした態度に、教師だったこともある彼女の人生に対するプライドのようなものを感じて感動した。

彼女にも、慕う妹がいて、陰ながら心配していた父があり、そして最後まで心配してくれた親友も居たのだ。
人はけっして一人ではないのだと思う。
僕は人からつまらない人生を送った奴だったとか、不幸な人生だったとか言われたくない。
少なくとも自身においては満足な人生だったと言って死にたいものだと思っている。
晩年になった今はそうありたいと悪戦苦闘しているのも事実なのだが・・・。
原作はどうなのかは知らないけれど、荒川を見ては故郷の川を思い出して泣いていた彼女が、落ちぶれても尚且つ希望を見出した所で息絶えるエンディングは、悲惨な結末としては救いを持っていて良いと思う。
人の幸せは他人によって測れないからからなあ~。

「下妻物語」の中島哲也監督は前作と同様にポップな映像処理で刻んでいき、流れる挿入歌と相まって、暗く落ち込む話を希望に満ちたものに変化させていたと思う。
本作の映像も視覚効果に強い中島監督らしく、原色を鮮やかに使ったポップかつ現代的なものだ。
松子視点の世界はミュージカルシーンとして表現され、中谷美紀が明るく楽しく歌い、踊る。
松子がヒモのためにソープ嬢となり体を売るエピソードも、BONNIE PINKの明るい曲に乗せた2分間の踊りにしてしまっていて暗さはまったくない。
このような手法を使いながら松子の悲惨な人生を中島監督は明るく描いている。
その結果、僕は悲壮感を全く感じなかった。
中谷美紀が、男を見る眼がない為にろくでもない人生を送った松子を熱演しているので、このヒロインを「バカだったかもしれないが、純粋に愛を求め続けた愛すべき女」として、観客の共感を得るだけのキャラクターに昇華させていたと思うし、それが冒頭に書いた女性観客のすすり泣きにつながったのだろう。

とにかく、遊び心が満載された作品だった。
一見コメディ風でありながら、ファンタジー風でもあり、エロティックでもあり、サスペンス性もあり、ヤクザ映画的でもあり、ミュージカル風でもある。
片平なぎさのサスペンス劇場はやりすぎだと思うけど・・・。
中谷美紀は僕の中では伊東美咲や仲間由紀恵などと同一線上の女優さんなのだが、彼女たちよりは断然いい。
中谷美紀はこの作品で女優として開花したと思う。

恐怖の報酬

2019-04-16 09:50:49 | 映画
「恐怖の報酬」 1953年 フランス


監督 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
出演 イヴ・モンタン  シャルル・ヴァネル
   ペーター・ヴァン・アイク  フォルコ・ルリ
   ヴェラ・クルーゾー  ウィリアム・タッブス
   ダリオ・モレノ  ジョー・デスト
 
ストーリー
中央アメリカのラス・ピエドラスという町は世界各国の食いつめ者が集るところだ。
コルシカ人マリオもその例外ではなかったが、彼には酒場の看板娘リンダという恋人がいた。
そんな町へ、パリで食いつめた札つき男ジョーが流れてきてマリオと親しくなった。
ある日町から500キロ先の山の上の油井が火事になり、多くの犠牲者が出た。
石油会社では緊急会議の結果、山上までニトログリセリンを運び上げ、それによって鎮火することにした。
危険なニトログリセリン運搬の運転手は賞金つきで募集され、多く集った希望のない浮浪者の中からマリオ、ビンバ、ルイジ、スメルロフの四人が選ばれ、選に洩れたジョーは大いに不服だった。
翌朝三時、マリオとルイジとビンバは約束通りやって来たがスメルロフは姿を見せず、ジョーが現れた。
ジョーが代りに加ってマリオとジョーの組が先発、三十分遅れてルイジとビンバの組が出発した。
マリオの組は、ジョーが意外に意気地がなくて後から来たビンバ組に追いこされてしまった。
ビンバ組の車は道路をふさいでいる大石のためストップしてしまったが、沈着なビンバは少量のニトログリセリンを使用して大石を爆破し、無事に通りぬけることができた。
そのあとは坦々とした行進がつづいたが、突如ビンバの車が大爆発を起し、跡かたもなくけし飛んだ。
爆発のあとは送油管が切れて石油がたまりかけていた。
早くここを通りぬけないと油に車をとられて二進も三進も行かなくなるとマリオの悪戦苦闘が始まる。
やがてニトログリセリンのおかげで火事は消しとめられ、マリオは賞金四千ドルをもらったのだが・・・。


寸評
物語は食い詰め者がたむろしている中米の発展途上国の町から始まる。
マリオとジョーは口笛がきっかけでお互いがフランス人であることを知り仲良くなる。
この出会いは二人の最後の会話をしんみりとさせるための伏線となっている。
ルイジは余命が幾ばくも無いと医者から診断され故郷へ帰ることを夢見ているが、その事はその後あまり描かれてはいない。
マリオ、ジョー、ビンバ、ルイジにマリオの恋人リンダという登場人物が紹介されていくが、この人物紹介ともいえる導入部分の描写はちょっと長い気がする。
映画が始まって30分ばかりの間に描かれたことが後半に上手く生かされていたようには思えなかった。

いよいよ二組がトラックにニトログリセリンを積んで出発するが、それからの描写はこの映画の見どころ感タップリでスリルとサスペンスに富んでいる。
油田火災を消すためにわずかの衝撃で大爆発を起こすニトログリセリンを運ぶというだけの話なのだが、どうしてどうして観客を引き込む力を持った演出がなされている。
油田火災やニトログリセリンの爆発があるが、いわゆるそれらを描くスペクタクル映画ではない。
ニトログリセリンを使った爆破に関するエピソードは度々登場するが、そのどれもが直接的に描くことをしていなくて、例えば事務所の所長がニトログリセリンがどれほど危険かを示すために一滴落として爆発させるシーンがあるが、その爆発シーンは音だけと言ってもいいものだ。
また行く手を阻む巨石の爆破シーンでも、直接巨石が爆発によって粉砕されるシーンはない。
先行するビンバ達の車が大爆発を起こすシーンも然りである。
しかし巨石の爆破シーンにおける観客をハラハラドキドキさせる演出は上手い。
ビンバが息をつめてニトログリセリンを注ぎ込む。
見守る3人にも緊張感が漂うが、3人が行う仕草を短いショットで何度も挟み緊張感を盛り上げていく。
見ている僕たちも思わず拳に力が入ってしまうシーンとなっていた。

さらに最終目的であったニトログリセリンを使って大火災を沈下させることにおいては、報奨金をマリオに渡すシーンによって計画が成功裏に終わったことを示し、ニトログリセリンを設置する場面や、その爆発によって油田火災が終息すると言うシーンは全く描かれていない。
一大スペクタクルシーンとなる場面がすべて割愛されているのは監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの意図に他ならないと思うので、彼は登場人物の描写、とくにマリオという男の描写に重きを置き、サスペンス性を追求したかったのだろうと僕は推測する。
描かれた男たちは、命を懸けて一攫千金を夢見て吹き溜まりに生きているのだが、彼らが醸し出す生き様も見所の一つとして成功している。
彼等の人物描写が単調となりがちな道中物語を上手くつないでいる。
最後は歓喜に沸く町の人々のダンスとマリオの運転がシンクロし最後を迎えるが、結末が予測できてしまうのが少し残念な気がしないでもない。