おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

スミス都へ行く

2022-09-30 08:04:06 | 映画
「スミス都へ行く」 1939年 アメリカ


監督 フランク・キャプラ
出演 ジェームズ・スチュワート ジーン・アーサー
   クロード・レインズ エドワード・アーノルド
   ガイ・キビー トーマス・ミッチェル

ストーリー
あるアメリカの州の上院議員が在任中に死亡し、知事がその後釜となる人間を選ばなければならなくなった。
ホッパー知事はダム建設での不正に関わりを持ち、やはり議員であるペインや、新聞経営者のテイラーと気脈を通じていた。
新聞以外に手を広げているテイラーは州の土地を買い占め、そこにダムを誘致することで利益を得ようともくろんでいたのだが、死んだ議員はその仲間で、新しい議員も自分にに協力する人間でなければならなかった。
しかし改革派の突き上げも厳しく、知事は改革派からの批判も少なく、経験がないことからテイラーたちの意見に素直に従うだろうと考えボーイスカウト団長であるジェフ・スミスという政治とは無関係な若者を後任に選んだ。
議員となったスミスはワシントンへ出向くことになり、女性秘書のサンダースが彼をサポートした。
政治の道へ足を踏み入れたスミスだったが、海千山千のベテラン議員たちが権謀術数を弄する国政の場では、理想ばかり立派な無邪気なスミスは鼻も引っ掛けてもらえなかった。
彼は亡くなった父の親友でもあったペインに辞職の相談に行ったのだが、ペインはテイラーの一味で、スミスはあくまでダム建築の法案のためのコマとして議員でいてくれればいいと考える彼はスミスをうまくなだめて辞職を思いとどまらせた。
スミスは再びやる気を出し、故郷であるウイレット河一帯にキャンプ地を建設する法案をサンダースと共に作成したのだが、しかしその土地はダム建設予定地であった。
それを知ったペインはあわてて態度を翻し、スミスの除名動議を提出した。
信頼していたペインがテイラーと組んでいた事を知り、絶望したスミスはいよいよ辞職を覚悟したのだが、サンダースに励まされ、翌日の議会に出席することにした。
彼は発言を求め、上院の規定を利用し、延々と演説を続ける。
こうすれば彼を止めることはできず、したがって辞職させることもできないからである。
演説は24時間を越え、この様子にペインは反省して議場においてテイラーたちや自分の行為を認めた。


寸評
ジョージ・ワシントンやエイブラハム・リンカーンは様々なランキングでも常に上位に入っている大統領である。
この作品でもその名前が度々登場し、特にリンカーンに対しては特別な思い入れがあるようだ。
僕も社会科の授業で「government of the people, by the people, for the people 人民の人民による人民のための政治」というリンカーンが演説で述べた言葉を習った。
演説で述べた言葉が思い浮かぶのは上記のリンカーンと、「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」と述べたケネディだけである。
スミスはワシントンやリンカーンを尊敬している善良なアメリカ人の代表である。
秘書のジーン・アーサーを始めとする助演陣が充実しているが、ジェームズ・スチュワートがこれぞ.アメリカという印象を残す演技を見せている。
後半で延々と続けざるをえないスミスの弁論シーンには、現実離れしているが心打たれるものがある。

しかし、僕はこの映画は重大な欠陥を持っていると思う。
利権を目論んでいる悪徳政治家などが最初に示されることで政治サスペンスとしての醍醐味はなくなっている。
テイラーが州の実力者でホッパー州知事などを支配しているのは良いとしても、ペイン上院議員が彼らの一味であることを冒頭で明らかにする必要はなかったように思う。
スミスが信じていたように観客である我々もペインを信じるような描き方をして、スミスと時を同じくして彼の裏切りを知った方が政治ドラマとして盛り上がっただろう。
スミスは議会の規定を利用して延々と弁明を含めた演説を行うが、彼が第一に弁明しないといけないのは、自分は利益を得るためにキャンプ場建設を提案しているのではなく、土地譲渡に関する契約書は偽物と言うことだったはずで、先ずは自分は土地など所有していないことを立証すべきだったのではないか。
長い演説の進め方に工夫があっても良かったように思う。

スミスはペインの娘であるスーザンにぞっこんだった事を利用し、娘にそんな役はさせられないと言っていたペインが、結局娘を利用してスミスをピンチに陥れている。
その行為を行ったスーザンとのその後の関係が不明のままなので、サンダース秘書がスミスに想いを抱くようになっているらしいという描き方が、ラブストリーとしての盛り上がりを欠けさせてしまっているように思う。
スミスがキャンプ場の素晴らしさを語り掛けるシーンで、サンダース秘書である ジーン・アーサーのアップがソフト・フォーカスでとらえられる。
そのことで、サンダース秘書がスミスに愛情を感じ始めたことが分かるようには描かれているのだが、スーザンがその後登場しないので、スミスを巡る女同士の戦いはなかったように思われてしまう。

スミスはアメリカの良識を演じたと思うが、それ以上にアメリカの正義を見せたのは上院議長のハリー・ケリーで、彼は常に微笑みを見せながらスミスを見つめている。
議会妨害をする若者として嫌悪をすることもなく、彼の自由な発言を保証し、まるでこの様な若者の登場を待ち望み喜んでいるように見える。
僕には、彼こそがアメリカの良識の代表者だったように思え、ハリー・ケリーはもうけ役だった。

スパルタカス

2022-09-29 07:55:05 | 映画
「スパルタカス」 1960年 アメリカ


監督 スタンリー・キューブリック
出演 カーク・ダグラス ローレンス・オリヴィエ
   チャールズ・ロートン ジーン・シモンズ
   ピーター・ユスティノフ トニー・カーティス
   ジョン・ギャヴィン ウディ・ストロード
   ジョアンナ・バーンズ

ストーリー
紀元前1世紀、ローマ共和国が隆盛を誇っていた頃。
奴隷のスパルタカス(カーク・ダグラス)はバタイアタス(ピーター・ユスチノフ)の剣闘士養成所に売られた。
彼はそこで女奴隷バリニア(ジーン・シモンズ)を知った。
ローマの名将クラッスス(ローレンス・オリヴィエ)がバタイアスを訪ねた。
バタイアスは余興にスパルタカスと親友の黒人奴隷ドラバとの真剣勝負を命じた。
ドラバは試合に勝ったが、スパルタカスを殺さずクラッススに襲いかかり殺された。
クラッススはバリニアを買い本国に送れと命じた。
スパルタカスは同僚クリクサスと共謀して反乱を起した。
首領スパルタカスと奴隷の集団は、つぎつぎに貴族の所領を襲い奴隷を解放し、ベスビアスの山腹に大奴隷軍の本拠をかまえた。
ローマの政界ではクラッススとグラッカス(チャールズ・ロートン)が主動権を争っていた。


寸評
スパルタカスの反乱は古代ローマ史の中でも記される出来事のようで、その出来事は小説の題材として歴史的ロマンも有していたのだろう。
「ローマ人の物語」というローマ帝国史とも言える歴史絵巻を記された塩野七生さんも「勝者の混迷」の巻でこの事件に触れられており、この映画にも言及されている。
スパルタカスの反乱が奴隷の反乱であったことは事実のようなのだが、スパルタカスがトラキアの王子という伝説は出来すぎとしても、並立する部族の長の息子ぐらいであったかもしれないと女史は推測されている。
もちろん映画であるからその構成上、彼を奴隷の剣闘士としてドラマティックにしていることは理解できる。
この時代のヒーローであるカエサルを登場させたのも同様の理由だろう。
当時カエサルはまだ若く元老院の議席は与えられていなかった筈だ。
さらにクラッススの政敵であるグラックスも同様で、一族は絶えていたはずだがグラックス兄弟は歴史にその名を残しているので登場となったのだろう。
史実のスパルタカスはアルプスを越えて故郷のトラキアに迎えたはずなのに、なぜか反転してシチリアを目指し、内部分裂もあり最後にはクラッススの率いるローマの大軍団に敗れ去ったようだ。
その後のローマは、映画でも描かれれていた援軍に駆けつけたポンペイウスの時代となり、やがてカエサルの登場となる。 いやいや、これは歴史の話で映画の話ではない。

さて映画だが、人間の自由と尊厳の死守の訴えは時代を超えて響くものがある。
映像的にもCGがない時代にありながら膨れ上がる反乱軍や、ローマ軍の威容などが巧みに処理されていた。
背景が絵画であることはすぐにわかるのだが、その前に組まれたセットの大きさと、融合させるカメラワークに感心させられた。
もちろん群衆、軍団はCGがないので総てエキストラであることが想像できる。
その映画的努力に敬服してしまう作品だ。
その敬服には監督がスタンリー・キューブリック であることも寄与しているとは思うのだが、流石に彼の作品だけあって手抜きはない。
スパルタカスのカーク・ダグラスは主演者として当然なのだが、敵役として描かれることになったクラッススを演じたローレンス・オリヴィエは流石の貫禄だった。
顔立ちそのものに風格があった。

捕虜となった6000名の奴隷は本当にアッピア街道で十字架にかけられて晒されたようで、古代の残忍性を思い知らされた。
剣闘士の試合で生き残った者は磔刑になるというので、そちらを選んだ方が「楽に殺してやるから剣を下ろせ」という場面などは、その処刑の過酷さを物語っていた。
飽きさせることのない歴史スペクタクル映画で、3時間以上もある長編だが十二分に堪能できる。
懐かしさを呼び起こされる映写ではあるが、かつてはこのような映画作りをやっていたんだと感じ取れる作品で、郷愁をそそられる作品でもあった。

素晴らしき日曜日

2022-09-28 07:18:40 | 映画
「素晴らしき日曜日」 1947年 日本


監督 黒澤明
出演 沼崎勲 中北千枝子 渡辺篤 中村是好 内海突破
   並木一路 菅井一郎 小林十九二 水谷史朗 日高あぐり
   有山緑 堺左千夫 河崎堅男 森敏

ストーリー
雄造と昌子はある日曜日楽しいランデヴーを計画したが、現実はあまりにもはかなく惨めだった。
たった35円の日曜日、スピードくじも無駄だった。
十万円の住宅見本も彼らにとっては夢の彼方のもので、アパートの借間も行ってみれば手が出ない。
子供の野球に飛び入りすれば、雄造の打ったボールは露店に飛び込み損害賠償を払わせられる。
ふと兵隊の時の戦友がいまキャバレーの社長をしているのを思い出した雄造は、その友人をダンスホールに訪れたが、街の紳士なみに扱われくさって出てくる。
昌子は残った20円でコンサートを聞きに行こうと勧め、二人は公会堂に駆けつけたが切符は売り切れ。
雄造はたまりかねて闇切符売りに食ってかかったが、その仲間に手もなくのされてしまった。
乱れた髪、汚れた服、冷い雨、黙々と歩く雄造の姿を昌子は悲しく追ってとうとう雄造の下宿まで来た。
下宿の一室で気重い沈黙が続いた。
昌子はこんな風にして別れたくないと思い、雄造は惨めな自分がつくづくいやになった。
誰もかれも自分に背中を向けている、残っているのは昌子だけではないか。
彼は急に熱情的に昌子を求めた。
本能的な怖れで室を出た昌子が意を決して再び戻ってきた時の悲痛な顔を見て雄造は強く心打たれた。
二人は雨上りの街へ出た。
二人が舗道に面した焼跡で何年か先の理想の小さな喫茶店の計画を夢中で話し合っているとき、ふと見るとずらりと人だかりがして人々がこちらを見ていた。
二人は月の出た公園へやって来た。
そして森閑と静まり返った音楽堂で二人だけのコンサートが始まる。


寸評
戦後間もない頃の作品で世相を表している。
雄造は復員兵で貧しい生活を送っているが、昌子も破れた靴を履いていて恵まれているとは言い難い。
恋人同士が日曜日に待ち合わせをして、わずかの金を持ってデートに出かけた一日を描いているが、雄造は終始一貫して情けなくて愚痴っぽい男である。
反して昌子の方は明るくてポジティブな女性で、雄造とは対照的だ。
彼らは容姿やスタイルからして何処にでもいるごく普通の一般的なカップルである。
だからこの頃にはこの様な人は珍しくはなく大勢いたのだろう。
彼らはモデルハウスに行くが、目的は結婚後の家探しではなく、お金がかからずに楽しめるからである。
もちろん彼らには手が出る物件ではない。
しかたなくアパートの下見に行くと、それはとんでもない部屋だったが、それでも彼らには高根の花だ。
結婚するためには住む家が必要だが、それはいつになるやらと言う状況が描かれる。
浮浪児に10円でおにぎりを売ってくれと頼まれ、昌子は金を受け取らず与えてやるのだが、浮浪児でさえ持っている10円に事欠いている二人なのだ。

行くところがなくなった雄造は昌子を自分の部屋に誘うが、昌子は男の部屋に行くことをためらう。
この頃の女性の道徳観として若い女性が男の部屋に行くことに罪悪感が生じていたのだろう。
それでも結局昌子は雄造の部屋を訪れるが気まずい雰囲気が流れる。
気まずさを雨漏りの雫を受け止める洗面器の金属音が高める。
そう言えば僕が住んでいた部屋も激しい雨が降ると天窓の隙間から雨漏りがして洗面器を置いたもので、当時は雨漏りのする家がかなりあったと思う。
昌子が部屋から出て行き、雄造一人になったために長い沈黙が続く。
無言の雄造をとらえたシーンが続くが、これが結構長い。
この長さは雄造の心の内を感じさせる。
帰ってきた昌子が泣きじゃくるシーンも長い。
ストーリーを追うだけならもう少し短くても良さそうだが、二人の心情を示すには必要な長さだったのだろう。

重苦しいこの映画の見せ場はやはり音楽堂のシーンだ。
仮想で雄造が未完成交響曲を指揮しようとするのだが、風が吹いてきてその音が気分を害す。
雄造はやる気をなくすこと度々で、何処までも意気地がない雄造だ。
雄造を励ますために昌子が誰もいない客席に向かって「拍手をしてやってください。恵まれない私たちのような恋人を応援してやってください」と呼びかける。
必死の昌子のアップが迫るが、語り掛けているのは我々観客に対してである。
仮想で演奏しているのは未完成交響曲だが、彼らのこれからの人生は完成に向かうだろうと思わせる。
又次の日曜日にと言って別れる二人だが、前途多難であることも想像できる。
でもきっと二人は「ヒヤシンス」という店を開くことができるだろう。
昌子の明るさがそう感じさせた。

スパイの妻

2022-09-27 07:05:00 | 映画
「スパイの妻」 2020年 日本


監督 黒沢清
出演 蒼井優 高橋一生 坂東龍汰 恒松祐里
   みのすけ 玄理 東出昌大 笹野高史

ストーリー
1940年。神戸生糸検査所にやってきた憲兵たちが、イギリス人のドラモンドを軍機保護法違反容疑で逮捕する。
その日、津森泰治(東出昌大)は軍服を着て、幼なじみの聡子(蒼井優)の夫、福原優作(高橋一生)を彼の経営する福原物産のオフィスを訪れたが、それは神戸憲兵分隊に分隊長として赴任した挨拶のためだけでなく、ドラモンドの友人である優作に注意を促すためでもあった。
横浜から神戸に引っ越し、今は洋館に妻と暮らす優作。
妻に仮面の女スパイの役をさせたアマチュア映画を甥で福原物産に勤める竹下文雄(坂東龍汰)と作って楽しみながらも、優作はドラモンド釈放のために手を尽くし、ドラモンドは福原家に挨拶に来てから上海へと去った。
優作は聡子の心配をよそに、文雄をともなって満州へ出張する。
夫の留守中、聡子は女中の駒子(恒松祐里)を連れて山に自然薯を掘りに行った時に偶然、天然の氷を取りにきた泰治と会う。
福原邸に通された泰治は、聡子も女中も執事も洋装、ウィスキーも舶来ものという福原家の暮らしぶりに、世間の目が厳しくなると心配する。
予定より二週間遅れて優作と文雄が帰国する。
港に出迎えた聡子は再会を喜ぶが、二人が一人の女を日本に連れてきたことに気づかなかった。
その年の忘年会で社員たちに優作が聡子や文雄と作った映画が披露される。
その後、文雄は社員たちを前に退社することを告げる。
聡子は泰治から旅館たちばなの草壁弘子(玄理)という仲居が殺された事を告げられ、嫌疑がかかっているのは文雄だが彼女を満州から連れてきて仲居の仕事を世話したのは優作だと言われる。


寸評
もとはNHKのBS8Kで放送されたテレビドラマで、2020年にスクリーンサイズや色調を新たにした劇場用映画として公開された。
お茶の間向けのテレビドラマとしては十分に評価できる内容だが、、映画となると深みが少ない印象を持つ。
その原因は物語の中で最も重要な人物の蒼井優演じる福原聡子の突飛な行動の必然性が薄い点にある。
彼女の価値観は夫への愛が一番で、夫との安定した幸せな生活を至上としている。
これは当時の女性の一般的な思いであろう。
実際に彼女は彼女が理想とする世界に居て、夫はそれに応えてくれていると信じている。
しかし、憲兵隊の泰治から勇作が満州から草壁弘子という元看護婦を連れてきて仲居の仕事を世話したと教えられ、夫への不信感が生まれる。
聡子は夢で夫と弘子の不倫関係を見るようになるのだが、描かれている時間が少ないこともあって草壁弘子の存在感は薄い。
この時点における聡子の価値観を観客に納得させる為の弘子の存在を描いておくべきだったように思う。
彼女の価値観が僕の脳裏に十分な量で刷り込まれていなかったので、ある種のどんでん返しとも取れる彼女の行動の変化に違和感が残ってしまった。
彼女のとる行動も夫への愛の産物なのだが単純すぎる展開である。
聡明な女性ながら夫への愛の為に思いもよらない行動をとる女としては少し弱い描き方に感じる。
「あなたがスパイなら私はスパイの妻になります」と言い放つ聡子に今までにない充実感が芽生えるという訴えかけが弱いのだ。
人妻に思いをよせる男を東出昌大が演じるというだけで緊張感が生まれるのだが、そのままスリリングな三角関係になるといった展開にはならない事を理解しながらも、聡子と泰治の関係は希薄に感じる。

聡子は「お見事です」と言って気を失うが、このドンデン返しはやはり見せ場だ。
密航を企てていた聡子は密告によって発見されてしまう。
密告者は誰だったのか。
サスペンスとしてのその疑問はすぐに分かってしまう。
聡子は優作を愛していたが、優作は聡子を愛していたのだろうか。
愛していたゆえの行動だったのだろうか。
優作のような純粋に正義感のある人物はいつの世でもいるのだろう。
おりしも、妻を愛しながらも汚れ仕事を押し付けられ罪悪感から自殺する赤木氏(安倍政権下での文書改ざん問題)のような人が出ている。
黒沢清は本来まともな人間が生きにくい舞台の象徴として、戦前の日本を選んだのだろうと推測する。
退院できるように取り図ろうと言う野崎に聡子は「先生だから申しますが私は一切狂っていません。それが狂っているということなのです。この国では」と言う。
まともな人間がまともに扱われない今の世を描いた政治映画と見るのは深読み過ぎるか?
終戦になり、翌年優作の死亡が確認されるが、報告書には偽造の疑いがあった。
聡子の渡米は優作と出会うためだったのか、それとも聡子は日本を見捨てたと言うことなのだろうか。

砂と霧の家

2022-09-26 07:45:44 | 映画
「砂と霧の家」 2003年 アメリカ


監督 ヴァディム・パールマン
出演 ジェニファー・コネリー ベン・キングズレー
   ロン・エルダード ショーレ・アグダシュルー
   フランシス・フィッシャー ジョナサン・アードー

ストーリー
亡き父が残した海辺の一軒家に住んでいる女性キャシー・ニコロ。
結婚生活に失敗し、夫に去られた彼女は、仕事もなく一人ぼっちで失意の日々を送っている。
遠くに住んでいる母にはそのことを言えず、「幸せにしている」と電話で嘘をつくキャシー。
そんなとき、たった数万円程度の税金未払いから、家を差し押さえられてしまう。
後に、それが行政の手違いであったことが判明するが、すでに家は他人の手に渡っていた。
新しく家主になったのは、政変でイランを追われ、アメリカに亡命したベラーニ元大佐の一家だった。
祖国ではかつて優雅な生活を送り上流階級だったベラーニは、今は異国アメリカで肉体労働に身をやつしている身の上だが、献身的な妻ナディと愛するひとり息子のためにも、新しい家でもう一度、人生をやり直そうと心に誓っていた。
一方、父との想い出が詰まった家を失ったキャシーは、レスター警官の力を借りてベラーニに家を返すように詰め寄るが、応じてもらえない。
父との想い出を守ろうとするキャシーと、新たな生活へ希望を託すベラーニ。
それぞれの思いで家に固執する2人の対立は、その固執ゆえに徐々に激化していく。
そんなとき、2人の目を開かせたのは、ベラーニの妻ナディと息子の無償の優しさだった。
本当に求めていたものは、家ではなく家庭であることに気付いた二人は互いに共感し、和解に至るが…。


寸評
決してハッピーな映画ではないし見ていても気が重くなってくるのだが、映画としての映像と音楽に支えられて描かれたドラマにのめりこむことができる。
夫と別れたショックで茫然自失の日々を送るキャシー(ジェニファー・コネリー)は亡き父が残した海辺の美しい家で一人暮らしている。
母親には心配をかけたくない気持ちなのか離婚したことを伝えておらず、元気でやっている風を装っている。
行政の手違いで彼女の家は競売にかけられてイランからの移民一家に買われてしまう。
家を買ったのはベラーニ(ベン・キングズレー)というイラン革命により米国へ亡命してきたイランの元大佐で、軍の高官だったことが誇りで非常にプライドが高く、イスラム社会に育ったためか横暴な亭主でもある。
彼は、昼は肉体労働者として働き、夜はコンビニの店員として働く屈辱の日々を送っている。
彼は泥だらけの作業着のままホテルの駐車場を利用し、ホテルの洗面所で髭をそり、スーツに着替え身だしなみを整えてから家に帰る。
彼のプライドを物語るシーンで、映画に引き込まれる事になる最初の場面となっている。

一方の元所有者であるキャシーは、この家は愛する父が30年ローンという人生をかけて残してくれたものだから守りたいし、家がなくなればホームレスになるしかない身の上だ。
この家で過ごした楽しい思い出だって染み付いているし、何よりも行政のミスで競売にかけられたのだから、なんとか元通りの自分の家にしたいと奔走する。
ベラーニは購入と同時に4倍の値で転売を試みているのだが、それは故郷と同等の暮らしに戻る為なのだ。
愛する息子の教育費も捻出しなければならない。
それは米国民として最下層から這い上がる手段でもある。
お互いに引くに弾けない事情があり、激しい対立が始まる。
この対立軸に深くかかわってくる重要人物である地元の警官を含め、登場人物すべての描写が非常に的確でわかりやすい。
さらに、対立する彼らの立場と言い分もそれぞれに理があるため、いったいどう解決すればいいのか観客も悩む。
そのやり取りのセリフもいい。

ジェニファー・コネリーはいい演技を見せているが、母国での暮らしに戻る最大のチャンスとして購入した家にかける執着がハンパではないベン・キングズレーの元大佐が風貌もあって脳裏に焼き付く。
レスター(ロン・エルダード)という警官がキャシーに薬物中毒の夫から暴力を受けている妻を助けたエピソードを語る場面があるが、この何でもない会話シーンはベラーニ夫妻の関係を暗示している細かい演出となっている。
ベラーニの妻ナディ(ショーレ・アグダシュルー)も夫に殴られたりしているが、それでも夫を愛する気持ちはあるという米国人にはないイスラム社会の夫婦関係で、彼らが米国における異邦人であることも同時に示している。
それに逆らうように母国の誇りを示すベン・キングズレーの存在感が圧倒する。
ベラーニは傲慢なだけではない優しさも持ち合わせているのだが、その優しさは一家にもある。
しかしそれがそれぞれに幸せをもたらすわけではなく、最後は悲劇的で救いようもない。
それなのに気難しさのないエキサイティングな人間ドラマとして成り立っている本作は秀作と呼ぶにふさわしい。

ステキな金縛り

2022-09-25 07:23:49 | 映画
「ステキな金縛り」 2010年 日本


監督 三谷幸喜
出演 深津絵里 西田敏行 阿部寛 竹内結子 浅野忠信 草なぎ剛
   中井貴一 市村正親 小日向文世 山本耕史 戸田恵子 浅野和之
   生瀬勝久 近藤芳正 中村靖日 大泉洋 佐藤浩市 深田恭子
   篠原涼子 唐沢寿明

ストーリー
若手弁護士エミは失敗続きで後がない三流弁護士。
彼女が新しく担当になったのは、資産家の妻を殺害した容疑で捕まった男の弁護。
そんなエミに対し、男は完璧なアリバイがあると無実を主張する。
なんと事件当夜、旅館の一室で金縛りにあっていたというのだ。
無実を証明できるのは一晩中彼の上にのしかかっていた落ち武者の幽霊だけ。
早速、旅館に確かめに向かったエミは本当に金縛りに遭い、なんと落ち武者の幽霊・更科六兵衛に遭遇してしまうのだった。
無実を確信したエミは、六兵衛に法廷での証言を依頼する。
こうして幽霊が証言に立つという前代未聞の裁判が始まる。
しかし、六兵衛の姿はすべての人に見えるわけではなかった。
しかもエミの前には、一切の超常現象を信じない敏腕カタブツ検事、小佐野が立ちはだかる。
人生のどん詰まりに立たされたダメダメ弁護士と、421年前に無念の死を遂げた落ち武者の間に生まれた奇妙な友情。
果たして彼らは、真実を導き出す事ができるのか……?


寸評
幽霊が法廷の証言台に立つと言うバカバカしい話なのだが、このバカバカしさに食いつけるかどうかが三谷作品を評価する上での大きな分かれ目だ。
バカバカしさを堪能できない者にとってはくだらなさゆえに正視できないだろう。
そこが三谷ワールドのファンにとってはたまらないのだと思う。
僕は映画自体を評価するわけではないが、少しは楽しむことが出来た。
楽しめた理由は、出演者がどの役でどの場面に登場するかを楽しみにして見ることが出来たからだ。
モノローグは妹の鈴子(竹内結子)が夫(山本耕史)と浮気しているのを知った姉の風子(竹内結子)がその場に怒鳴り込んできて逆に殺されてしまうという場面だ。
いきなり竹内結子の二役である。
落武者幽霊の更科六兵衛(西田敏行)は自分も無実の罪で粛清されたので、無実を訴える矢部五郎(KAN)を弁護する宝生エミ(深津絵里)を助けることになるのだが、ここからはチョイ役と言ってもいいような役で色んな俳優が登場してきて、監督も俳優もその役を楽しんでいるようだ。

エミが訪ねた旅館「しかばね荘」の女将が三谷幸喜作品では常連の戸田恵子である。
旅館の主人である 浅野和之が旅館の場所を教えるのだが、変な動きをしてミステリー性を出す。
帰りのタクシー運転手が生瀬勝久で、これがとんでもないロングヘアで六兵衛と対比される。
途中で入ったレストランのウエイトレスが深田恭子なのだが、ここで客の一人が見えないはずの六兵衛を見て驚くことで、なぜこの客には見えたのかの疑問を残して謎解きを高める。
居てもいなくても良いような人物も登場するが、それなりの存在意義だけは設定してある。
六兵衛の子孫で歴史学者なのが浅野忠信で、六兵衛は裏切り者ではないと証言する。
安倍晴明の子孫である安倍つくつくが市村正親で、六兵衛が見えた女として篠原涼子が登場し、夫婦共演を果たしている。
まだ売れていない役者として佐藤浩市が登場し、医者役で唐沢寿明が少しだけ顔を見せる。
向こうの世界から来た管理局公安が小日向文世なのだが、この男は映画好きでフランク・キャプラ監督の「スミス都へ行く」を称賛し、同監督の「素晴らしき哉、人生!」が見たいなどと言い出す。
映画ファンへの楽屋落ちのようなエピソードだ。
エミの上司である阿部寛の結末は漫画だが、それをフォローするようにエミの父親(草彅剛)を登場させしんみりさせる。
あれ? 誰か忘れていなかったかな?
裁判長が小林隆さんで、幽霊が見える法廷画家が山本亘さんで、テレビ出演していた心霊研究家が近藤芳正だったな・・・。

幽霊はものを食べたり触ったりできないが、息を吹きかけることはできると言う伏線をあちこちに張っていたのは細かい演出だった。
エミは恋人の売れない役者(TKOの木下隆行)と険悪ムードになったので、どうなったのかと思っていたら、エンドロールで写真が挿入され結婚して子供が生まれたらしいことがほのめかされる演出は小粋だった。

スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃

2022-09-24 08:57:04 | 映画
「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」 2002年 アメリカ


監督 ジョージ・ルーカス
出演 ユアン・マクレガー ナタリー・ポートマン
   ヘイデン・クリステンセン イアン・マクディアミッド
   ペルニラ・アウグスト アンソニー・ダニエルズ

ストーリー
エピソード1より10年後。
オビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)と、彼の熟達したジェダイの弟子へと成長したアナキン・スカイウォーカー(ヘイデン・クリステンセン)は、いまや高名な元老院議員となったパドメ・アミダラ(ナタリー・ポートマン)と久々に再会。
パドメは暗殺の標的にされているのだが、その謎を突きとめようと、オビ=ワンは銀河の辺境へと旅立つ。
そこで出会ったのは、かつては崇敬されたジェダイ・マスター、しかしいまは分離主義運動の主導者となっていたドゥークー伯爵(クリストファー・リー)。
一方、残されたアナキンはパドメを警護するが、二人の間には恋心が芽生えていき、恋愛を禁止されているアナキンは苦悩する。
また、彼は自分の母親シミ(ペルニラ・アウグスト)が捕われているのを助けに行くが、自分の腕の中で母が死んでしまい、悲しみに暮れる。
やがてオビ=ワンがジオノージアンの闘技場に捕われているのを知ったアナキンとパドメは彼を助けに行くが、敵にあっさり捕まってしまう。
が、メイス(サミュエル・L・ジャクソン)率いるジェダイ騎士団が闘技場に突入、またヨーダ(フランク・オズ)がクローン兵士を大量に引き連れ登場、闘技場は大乱戦に。
そしてオビ=ワンとアナキンは、ドゥークー伯爵と対決。
オビ=ワンは傷つき、アナキンは右腕を切り落とされるが、そこにヨーダが現われ応戦。
ドゥークーは逃げ去り、ヨーダはクローン戦争が始まったと呟くのだった。


寸評
惑星ナブーの女王だったパドメは任期を終えてナブーの元老院議員として議会に出席しようと首都惑星であるコンサントにやってくるが、到着して宇宙船から出てきたところをいきなり襲われてしまう。
一撃をくらった爆発で、身代わりだった女性護衛官が犠牲となってしまうがパドメは無事というオープニング事件で、今回の重要な登場人物がパドメ・アミダラであることを認識させられる。
「スター・ウォーズ」シリーズの中では珍しくラブ・ファンタジーが描かれているのだが、一方で色んな戦闘場面が描かれていくのでアナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラの恋模様は物語の一環と言った感じで、その描き方は安直なものとなっていて、感情移入できるものではなかった。
もとより恋愛映画ではないので、彼等の恋はファンタジックなものにとどまっているが、物語上は非常に大きなウェイトを締めるものとなっている。

パドメはワームを放った暗殺者によって殺されそうになるが、間一髪で救われるが、犯人の女は何者かが放った毒矢によって死んでしまう。
その毒矢をもとに犯人の追及がはじまり、これが一方の話のスタートとなっている。
変化を思わせるのがアナキンの母親の死である。
アナキンは母親の苦しみを感じて救いに行くが、盗賊の村でボロボロにされた母親は衰弱しており「アニー?立派なジェダイになったわね…。もう、思い残すことはないわ」と息子の腕の中で死んでしまう。
母の死でアナキンの怒りは最高潮に達し盗賊の村を絶滅させてしまうのだが、そのことでアナキンに暗黒面の要素が芽生え始めていることを示し、これ以降は徐々にアナキンが変化を見せていく。
共和国では全権をパルパティーン最高議長に与える議決が通り、パルパティーンが危険人物であることがはっきりとしていくなど、登場人物の最終的な立場が徐々にベールを脱いでいく。

集団戦も楽しませてくれるが、1対1の対決もライト・セーバーを駆使して堪能させてくれる。
オビワンとアナキンがドゥークー伯爵と戦うシーンではアナキンが右腕を失ってしまう。
のちのダース・ベイダーとなる彼が右腕を失った理由がここにあった。
そしてヨーダがその場に現れて絶大なフォースの力を使ってドゥークー伯爵を圧倒する。
ヨーダはフォースだけでなくライトセーバーの腕前も達者でスピードもあってまさかの動きを見せるのが新鮮だ。
ヨーダはやはり強いのだ。

アナキンとパドメが結婚し、ジェダイの中の裏切り者がはっきりし、アナキンとパルパティーンがその姿を変化させていくなど、まさに「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」はタイトル通り、エピソード1を引き継ぎ、エピソード3につなぐ役割を担っている。
その性格が強いので描かれた内容は僕には希薄に思えた。
もともとシリーズは内容が奥深いものではなく壮大な物語という描かれ方をしてきたので、ここでも単純なストーリーをキャラクターを駆使して面白みを保ちながら迫力ある映像で見せる超娯楽作を追及している。
エピソード1が好きな人と、エピソード2の方が好きな人に別れるような気がするが、新シリーズの中ではちょっと中途半端な感じを受けた。

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス

2022-09-23 06:42:09 | 映画
「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」 1999年 アメリカ


監督 ジョージ・ルーカス
出演 リーアム・ニーソン ユアン・マクレガー
   ナタリー・ポートマン ジェイク・ロイド
   イアン・マクディアミッド ペルニラ・アウグスト

ストーリー
遠い昔、はるか彼方の銀河系で、平和だった銀河共和国に混乱が訪れていた。
通商連合は辺境の惑星との交易ルートヘの課税問題に決着をつけるべく、武装艦隊で惑星ナプーを武力封鎖した。
即位間もない若き女王アミダラは連合の要求を拒否し、事態は悪化。
元老院は調停のため、ふたりのジェダイの騎士クワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービを派遣するが、背後では暗黒卿ダーク・シディアスによって巨大な陰謀が進行していた。
交渉の場から追われたふたりのジェダイはドロイド軍によって侵略されるナプーに降り立ち、そこで出会った水中の種族グンガン族のジャー・ジャー・ビンクスの導きでナプーの宮廷にたどりつく。
ふたりは事態を打開すべく女王に脱出をすすめ、元老院の調停を求めるため、銀河共和国の首都コルサントを目指す。
一行は辺境の惑星タトゥイーンに逃れ、そこでクワイ=ガン・ジンは、器用で才気あふれる奴隷の少年アナキン・スカイウォーカーと出会う。
彼の内面に尋常ならざるフォースの力を感じ取ったクワイ=ガン・ジンは、彼の母親シミに説いて、彼をジェダイの騎士として教育することを決意。
ようやくコルサントに到着した一行だが、元老院では勢力を伸ばして新たに最高議長となったパルパティーンが、アミダラに都にとどまることをすすめるが、彼女は自らの星に帰って戦う決意を固めた・・・。


寸評
僕は「スター・ウォーズ」ファンではなかったが、宇宙物のシリーズとしては金字塔の一つとの認識はある。
本作は一応の完結を見た全三部作の前段階を、時代をさかのぼることによって示す物語の第一章と言える。
やはり「スター・ウォーズ」ファンのための作品となっていて、初めて見た人は面白さ半減かもしれない。
それは「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」がジェダイの騎士であるクワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケビーノの活躍を描きながらも、アナキン・スカイウォーカーをメインに据えているからである。
なぜなら、このアナキン・スカイウォーカーこそが、あのルーク・スカイウォーカーの父であり、また暗黒の世界に堕ちてダース・ベイダーになるのだから。
そうすると、これからの物語はこの可愛らしい少年のアナキン・スカイウォーカーがどのようにして悪の世界に堕ちていったのかに焦点があてられるはずである。
と言われても、本作で初めてスター・ウォーズに触れた人には何のことか分からない。
やはり前シリーズを見ておかないといけない作品だ。

ジェダイの騎士としてクワイ=ガン・ジンが登場し、オビ=ワン・ケビーノは彼の弟子である。
奴隷の母から生まれたアナキン・スカイウォーカー少年もまた奴隷であるが、やがて彼はクワイ=ガン・ジンに超能力を見出されオビ=ワン・ケビーノの弟子となる。
母のシミ・スカイウォーカーは、アナキンに父親はいなくて自然に身ごもった子だというが、僕にはまるでキリストの再来とでも言っているように思えた。
そしてロボットキャラのC-3POがアナキンによって作られたことを知るが、ここでのC-3POはまだ配線むき出しの透けた状態で存在している。
パルパティーンが奸計を用いて最高議長に就任する経緯も描かれている。
そのように、登場人物の背景が簡単に説明されて、いかにもとっかかり編といった感じで、僕は物語としてのふくらみを感じなかった。

年数を経ているので、コンピューターによるグラフィックス技術は格段の進歩を遂げており、戦闘場面や登場してくるキャラクター描写はよくできている。
ただし、それは技術の問題であるから、さらに年数を経て見た場合には陳腐なものと化しているかもしれない。
直接対決するのはダース・シディアスの弟子であるダース・モールでグリップの両端から双方向に光刃を出すダブルブレイド・ライトセーバーを扱う。
ライト・セーバーによる戦いは、真剣勝負の凄みはないけれど、このシリーズの名物だけに見せ場ではある。

少年のアナキンがパイロットとしての高い素質をしめすポッドレースも時間を使って描かれるが、コンピューター・グラフィックスの技術進歩に酔いしれている所がある。
タイトルの「ファントム・メナス」とは見えざる脅威ということで、タイトル自体が序章を言い当てている。
したがって、観ている側としては歯がゆい感じがする作品になっていた。
先ずは新シリーズの幕開けと言ったところかなと思う。

スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲

2022-09-22 08:10:58 | 映画
「スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲」 1980年 アメリカ


監督 アーヴィン・カーシュナー
出演 マーク・ハミル ハリソン・フォード
   キャリー・フィッシャー アンソニー・ダニエルズ
   ビリー・ディー・ウィリアムズ デヴィッド・プラウズ

ストーリー
前作で勝利を治めた反乱軍だが、帝国のダース・ベイダーによる総攻撃奇襲によって逃れていた雪の惑星ホスからの撤退も余儀なくされる。
ルークは戦列を離れ、修行を積むべくジェダイの師ヨーダが隠棲する惑星ダゴバへ向かう。
ハン・ソロとレイア達は雲の惑星ベスピンへ逃れるが、そこにもダース・ベイダーの罠が待ち受けていて、二人は捕えられる。
それまでハン・ソロに対する恋心を素直に言えなかったレイア姫も、冷凍人間にされる寸前のハン・ソロに「あなたを愛しています」と愛を告白し、その言葉を聞いたハン・ソロは、静かにうなづくとやがて冷凍器の中に姿を消した。
その頃、瞑想にふけっていたルークは、ふと雲の都市でのレイアらの苦境を感知し、2人を救い出すべく雲の都市に向ったが、そこでダース・ベイダーこそ、ルークの父であると意外な言葉を聞くのだった…。
愕然とするルークだったが、共に宇宙を支配しようというダース・ベイダーの申し出をつき放した。


寸評
SFXが進歩を見せて帝国軍との戦闘シーンが迫力を増している。
SFXの進歩なくしてこの映画シリーズの進歩はないと思わせる。
テーマ音楽と共に簡単なストーリーが宇宙のかなたに吸い込まれていく最初のシーンはやはりワクワクする。
登場人物をはじめ怪獣もどきなど色々なキャラクターが登場するのもこのシリーズの特徴で、本作でもジェダイの師であるヨーダが登場する。
このヨーダの登場で、このシリーズで存在感を示すのはルークやハン・ソロ、レイア姫ではなく、ダース・ベイダーとヨーダであることが印象付けられる。

先ずは反乱軍が秘密基地としている雪の惑星ホスの様子が描かれる。
ファンタジックな雪景色の中で帝国軍の接近が描かれ、ルークが隊長になっていることや、ルークとハン・ソロの友情が深まっていることなどが描かれ、前作からのつなぎとなっている。
やがて反乱軍と共和国軍の戦闘が展開されるが、反乱軍も善戦するものの圧倒的に帝国軍が強い。
戦力、兵器にそれほどの差があるとは思えないのだが、そこは映画的というか、ストーリー的にと言うべきか、兎に角帝国軍に追いまくられ、反乱軍は辛うじてその攻撃から脱出する。

脱出したハン・ソロ達が小惑星の集団の中に逃げ込んだり、その小惑星の中の一つにある洞窟に逃げ込んだら実は・・・といった趣向があって楽しませる。
子供だましと言えばそれまでなのだが、このシリーズは子供の心を持って見ないと楽しめない。
わずかにレイア姫とハン・ソロの恋物語が描かれるが、あくまでも添え物であっさりとしたものだ。
二人が何かにつけて言い争いをするものだから、二人はやがて結ばれるのだと感じてくる。
その間にルークがヨーダと出会って、ジェダイになる訓練を受けるシーンが並行して描かれるのだが、ヨーダは愛嬌のあるキャラクターだ。
その仕草が聖人を思わせるに十分なもので、実はすごいパワーを持っていることも描かれる。
憎しみや恐怖心を抱くとフォースが失われ、ダース・ベイダー達に勝てないとする哲学的な教示も語る。

ダース・ベイダーとルークの戦いも描かれるが、手に汗握るものではない。
ライト・セーバーを振り回す、ゆったりとしたアクションがこのシリーズの特徴でもある。
ハン・ソロは冷凍されてどこかへ連れていかれるが、レイアと愛を確かめ合ったハン・ソロの救出劇が次回のオープニングだなと思わせて終わるのはシリーズ物らしい。
フォースを継承する人間がもう一人いることが語られるが、謎めかしている割には登場人物からしてその対象者は一人しか思い当たらず見え見えである。
多分、次回作ではそのことも明らかにされるのだろうが、ダース・ベイダーがルークの父であることをもう少しドラマチックに描けなかったものかと思う。
ところで、ランド・カルリシアンがどうしてそんな簡単にいい子になってしまったのかよくわからない。
もともといい人だったのか、もしかして彼もレイア姫に惚れていたのか?
中身は何もない映画なので、突っ込みだしたらきりがない。それでも楽しいのが「スターウォーズ」だ。

助太刀屋助六

2022-09-21 07:44:14 | 映画
「助太刀屋助六」 2001年 日本


監督 岡本喜八
出演 真田広之 鈴木京香 村田雄浩 鶴見辰吾 風間トオル 本田博太郎
   友居達彦 山本奈々 岸部一徳 岸田今日子 小林桂樹 仲代達矢

ストーリー
17歳で江戸へ出ようと故郷・上州を飛び出した助六(真田広之)は、その途中、ひょんなことから仇討ちに巻き込まれ助太刀を買って出たことが病みつきとなり、以来、江戸へ行くのも忘れて助太刀屋稼業に精を出し、全国を流れ流れて七年が過ぎようとしていた。
久しぶりに故郷の宿場町へ戻り、母の墓に詣でた助六だが、町の様子がどうもおかしい。
幼なじみで小役人になっていた太郎(村田雄浩)によると、もうすぐ仇討ちがあると言う。
兄の仇を討とうとしているのは脇屋新九郎(鶴見辰吾)と妻木涌之助(風間トオル)。
だが、助六の助太刀は必要としていないらしい。
自分の出番がないと知り、昔なじみの棺桶屋(小林桂樹)に向かった助六は、そこで元八州廻りの役人・片倉梅太郎(仲代達矢)という侍、即ち新九郎と涌之助の仇と出会う。
既に戒名も貰い、泰然自若としたこの侍は、どうも敵面には見えない。
暫くして、仇討ちの検分役、関八州取締出役・榊原織部(岸部一徳)が到着し、いよいよ仇討ちが始まった。
果たして、片倉は斬られ仇討ちは終わる。
ところがこの侍、実は助六の父親だったのである。
そのことを棺桶屋から聞かされた助六は、父親の仇討ちをと思うのであったが、又敵は御法度。
そこで、父親の位牌に助太刀を頼まれたということにして、織部たちを斬っていく助六。
そうして、見事位牌の助太刀に成功した彼は、しかし織部の供揃えによって射殺されてしまう。
助六の遺体は、彼と秘かな想いを通わせていた太郎の妹・お仙(鈴木京香)ひとりで弔われる……筈が、実は生きていた助六。
お仙と一緒に暮らすべく、ふたりして江戸へ向かうのであった。


寸評
これが岡本喜八監督の遺作とはちょっと寂しい気がするが、どの監督にあっても遺作は過去の作品に比べるとガッカリさせるものが多いような気がする。
それはとりもなおさず、過去の作品の素晴らしかったことの証明で、遺作と聞くと一層の期待感を持たせてしまうことも原因の一つかもしれない。
おそらく岡本喜八はこの作品をドタバタ調の軽快な活劇にしたかったのだろう。
見始めてすぐにそう感じたのだが、それにしてはテンポがあまりにも遅すぎだ。
そのことはこの作品においては致命的な欠陥だ。
テンポが遅い割には端折った部分が多くて大雑把な感じを受ける。
仇討の助太刀をやっていた助六が父の仇討を繰り広げることになる。
この映画の最大の見せ場だ。
しかし登場人物の動きが、良く分からない。
役人の一人を斬った助六はお仙のいる二階に逃げたはずだが、お仙はどうしたか、助六はどのようにして外に逃げたのかが分からない。
また何処をどう動いて敵に近付いてきたのかも分からないので緊迫感が全く湧いてこない。
助六が狙撃手に撃たれて倒れると、助六の死を悼んだのか、町の人たちが大勢出てきて屋根の上の二人に石を投げつけるのだが、何か変な展開で違和感がある。
ドタバタ劇だから手抜きが許されるわけではない。
脚本のまずさかもしれないが、岡本監督は脚本にも参加しているのだからやはり責任はある。
17歳で江戸へ出て、7年ぶりに故郷に帰ってきたっという設定にも無理がある。
それだと真田広之は24歳と言うことになるし、幼なじみの村田雄浩も同年代と言うことになる。
だとすれば村田雄浩の妹である鈴木京香はもっと若いと言うことになる。
ただでさえ鈴木京香は老け顔なんだから・・・。
ちょっと、皆が歳をとり過ぎていないか?
設定年齢をもう少しあげればよかったのにと思う。
棺桶屋が登場してくるが、棺桶屋と言えば「用心棒」における藤原鎌足を思い出すが、キャラクターに彼ほどの厚みはないし、悪役にしてはコミカルな岸部一徳の織部も中途半端なキャラクターとなってしまっている。
サブストーリーもないので、どうしても間延びした印象を受けてしまう。

真田広之のオーバーアクションと衣装は見せるものがある。
舞台の大芝居を見ているようで、鉢巻きをイキに締めた姿などは歌舞伎役者を思わせる。
映画としては活劇の部類に入るのだろうが、殺陣の凄さはないし、いわゆる“チャンバラ”も見られない。
真田広之が錆びついた刀を研いで仇討ちに出かけたのだから、やはり彼の大立ち回りを期待してしまった。
それがないのはチョット淋しい。
それでも、いろんなジャンルの映画で僕たちを楽しませてくれた岡本喜八監督の遺作と聞いただけで見る気になるのだから、やはり喜八監督は偉大な監督だったのだ。

醜聞(スキャンダル)

2022-09-20 07:00:09 | 映画
「す」は2019/8/22からの「スウィングガールズ」「スケアクロウ」「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」「スタンド・バイ・ミー」「スティング」「ストリート・オブ・ファイヤー」「スピード」「スペース カウボーイ」「スラムドッグ$ミリオネア」「砂の女」 と
2021/4/14からの「スイミング・プール」「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの復讐」「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」「スタア誕生」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」「砂の器」「スポットライト 世紀のスクープ」「スラップ・ショット」「スワロウテイル」で紹介しています。 バックナンバーからご覧ください。

「醜聞(スキャンダル)」 1950年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 山口淑子 桂木洋子 千石規子 小沢栄 志村喬
   日守新一 三井弘次 岡村文子 清水将夫 北林谷栄 高堂国典
   上田吉二郎 縣秀介 左卜全 殿山泰司

ストーリー
新進画家青江一郎(三船敏郎)は、ある日愛用のオートバイを飛ばして伊豆の山々を写生に出掛けた。
やがて派手な格好をした人気歌手西條美也子(山口淑子)が山を登って来た。
バスが故障で歩いて来たが宿屋までが大変だと嘆くので、オートバイの相乗りで二人は宿屋まで素ッ飛ばした。
風呂に入った美也子の部屋に青江が挨拶に来る。
二人は庭に面した手すりにもたれて話を始めた。
その時、カメラマンがこれを見つけて、パチリとシャッターを切って逃げてしまった。
現像を見た社長の堀(小沢栄太郎)は編集長に命じて、青江と美也子のラブロマンスをでっち上げさせた。
恋はオートバイに乗って!煽情的見出しでこの雑誌は飛ぶように売れた。
一万部刷り、堀は図に乗って大々的宣伝をやり出した。
青江一郎は仰天し、憤怒の形相物凄くアムール社に乗り込み、堀の顔に青江の拳固が一発飛んだ。
この事は雑誌の売れ行きを更に増した。
青江は遂に訴訟問題にしようと定め、ちょうど、ひどくはやらない弁護士蛭田乙吉(志村喬)がわざわざ一肌ぬいでやろうと現れたので、彼に弁護を頼んだ。
彼の一人娘の正子(桂木洋子)は胸を病んで長らく寝たままであった。
堀は蛭田に手を廻して自分の有利に裁判を導こうと札ビラを切って彼の丸め込みに成功した。
二回、三回と公判は進み青江の立場はいよいよ微妙な所に追い詰められていった。
そんな時、正子が遂に不帰の客となったのである。
最終の公判に臨む蛭田の面上には今迄とまるで違う気魄が感じられた。


寸評
今で言うところのパパラッチ裁判の顛末映画だが、あっけない結末で盛り上がりにはかける。
ユーモアを交えた作品のせいもあるが、東宝争議の真っ只中で黒澤が松竹で撮らざるを得なかったことで、どうも黒澤と松竹の歯車が合わなかったのではと思わせるような中身になっていて、僕はこの作品をあまり評価しない。
黒澤明と菊島隆三が脚本を書いているが、テーマや事件の背景が面白いのにどうも脚本が練れていない。
主役になるのは三船なのか、それとも志村なのかはっきりしない。
主役の三船を志村が食ってしまっているような印象なのだが、演技力によるものとかではなく、特に前半ではシリアスなテーマの中で軽妙な演技をする志村が目立ってしまっている。
終盤では法廷での弁護シーンがリアリティに欠けいて、法廷劇としての緊迫した雰囲気が全くと言っていいほど出ていない。
裁判所で西條美也子が発言する場面は一度もなかった。
蛭田弁護士の娘が青江の勝利を信じて死亡し、その姿に打たれた蛭田が改心するシーンは見せ場だと思うのだが、青江のアトリエに突然現れた蛭田が「正子は死にました」と一言発しただけでは物足りない。
青江は蛭田の娘正子を天使だと言っているのだが、画面から感じる正子の天使性も物足りなかったなあ。

スキャンダルになった二人はアーティストとアイドルによる恋愛沙汰として週刊誌ネタにされたわけだが、実のところ好き合っているような雰囲気だ。
特に西條美也子が母親と言い合うシーンでの彼女の表情からは青江に対する好意が見て取れる。
それだったら、そのまんま付き合っちゃえよと言いたくなる。
当時としては珍しかったであろうオートバイの疾走を度々写しているので、時代を先取りする形で自由に恋愛に突っ走ったらどうだとも思ってしまう。
しかしまあ、テーマは若いふたりの恋愛ではないのだから、それは出来ないよな。

ところで西條美也子をやった山口淑子だが、僕は彼女の映画を他に見た記憶がない。
しかし李香蘭という中国名も持っていた時期が有り、最後は参議院議員も努めた女性で、その数奇な人生に興味が沸いてしまう。
中国生まれの日本人で、完璧に中国語を話せたので最初は日本のプロパガンダ映画に出演していたとのこと。
中国人のふりして満州映画に出て、中国人のふりして日本映画に出て、中国人のふりして中国映画に出て、戦後は日本人として日本映画とアメリカ映画と香港映画に出たという。
日中戦争が起きると日本人からは敵国の中国人だと迫害され、戦争が終わると中国からは中国人のくせに敵国日本のプロパガンダ映画に出たと処刑されそうになった為、今度は日本人であることを証明しなければならなくなった悲劇の女性だ。
僕にとっては、そのような女優を垣間見ることが出来る貴重な作品ではある。

青江が「われわれは今日、星が誕生するのをはじめて見た」と言って、最終的には本来の職務に対して忠実になった弁護士を美化する内容で終えているが、志村喬にとっては「生きる」の予行演習になったかもしれない。
いつもはスレた役が多い千石規子だが、本作では青江を理解するモデルのいい役割をもらっていて光っていた。

新・仁義なき戦い

2022-09-19 07:55:41 | 映画
「新・仁義なき戦い」 2000年 日本


監督 阪本順治
出演 布袋寅泰 豊川悦司 佐藤浩市 岸部一徳
   哀川翔 村上淳 小沢仁志 松重豊 大和武士
   曽根晴美 大地義行 志賀勝 織本順吉
   佐川満男 早乙女愛 余貴美子

ストーリー
大阪。跡目争いで揺れる左橋組では、四代目候補として若頭補佐の粟野(岸部一徳)と世代交代を訴える中平(佐藤浩市)の名が挙がっていた。
粟野組の幹部・門谷(豊川悦司)は、粟野を組長に押し上げるべく奔走。
一方の中平側は、コリアン実業家として手広くビジネスを張る洪昌龍(布袋寅泰)の地下銀行に目をつけ、彼を取り込もうと躍起になっていたが、昌龍は徹底したヤクザ嫌いで、中平の誘いには乗ろうとしない。
そんな昌龍の動向を、門谷は注視していた。
実は、ふたりは貧民街で育ち、なんでも分け合った幼なじみだったのだ。
さてその後、跡目争いは中平に有利に動いていき、中平の策略で粟野は孤立を深めていく。
彼は、遂に門谷に中平撃ちを命じるが、居合わせた昌龍によって計画は失敗。
粟野は失脚し、四代目は中平が継ぐこととなる。
ところが、昌龍の店で開かれた襲名パーティに再び門谷が乗り込んで銃を乱射した。
しかし、またしても致命傷を与えることの出来ない門谷。
そんな彼の代わりに命を落としてまで中平を撃ったのは、洪昌龍こと栃野昌龍だった。
この事態に、大慌ての組の幹部は粟野を担ぎ出すことを決意。
そんな組織に嫌気がさした門谷は、傷ついた体を引きずって実家へ帰るのだった。


寸評
僕はこの映画を今はなくなってしまった梅田新道の東映会館で見た。
帰りに買ったパンフレットの中で坂本監督がいみじくも語っておられる事がこの映画のすべてだと思う。
曰く、「どのようにやっても、こんなの『仁義なき戦い』じゃないと言われるだろうし、自分が監督を断れば他の人がやって嫉妬するだろうし・・・。気分は真っ暗でマイナス要素ばかりでした・・・」と。

それでもやっぱり言ってしまう。
こんなの仁義なき戦いじゃないと・・・。

1972年の夏。
当時は光化学スモッグが発生すると児童は運動場に出ることが出来なかった。
目まいを起こし倒れる児童が続出したための処置だが、二人の少年は先生の注意を無視してつるんでいる。
子供の頃の洪昌龍と門谷甲子男である。
ヤクザに家を追われた洪一家の仕返しに、少年の門谷はヤクザ事務所に放火する。
追いかけられ殺されそうになった門谷の耳元で洪が拳銃を発射し相手を殺す。
その轟音で門谷の右耳は聞こえなくなってしまう事が描かれたところで、タイトルが出て懐かしのテーマ音楽が流れ出した時きはワクワクしたが、それは一節だけですぐに新しいテーマ教が流れだす。
やはり「仁義なき戦い」に名前を借りた別物なのだろうとこの時点で感じる。

しばらくして予想通り何か違う気がしてきた。
どうも、時代に吠える若者といったようなパッションが感じられなかったのだ。
それとも観客である僕自身が変わってしまっていたのだろうか?
タイトルにあまりにもノスタルジーを感じてしまっていたのだろうか?
かつてと同じように東映の映画館で座席に浅く腰を掛け、背もたれの後ろに頭を乗せて寝そべるようなスタイルで、最終回のどちらかと言えば寂しい映画館で見たのだが、時間は過去に戻る事はなかった。
「仁義なき戦い」は深作欣二と菅原文太の映画だったことを悟ることが出来た。

ヤクザ組織の義理も人情もない仁義のない争いを描いた新作として見た場合、目立っていたのは粟野の岸部一徳で、凄みを利かす彼の姿が印象に残る。
「あいつは死に様、俺は生き様」という栃野昌龍の言葉はこの映画の象徴なのだろうが、そのテーマが上手く描かれていなくて、少年時代に別れた二人の歩み、すなわち生きざまがよくわからない。
在日朝鮮人の存在が匂わされるが民族の悲哀が前面に出てくることはない。
物語の周辺を飾る状況にとどまっているし、布袋虎泰のいかつい顔が生かされていなかった。

「あんた、誰や」とつぶやいて実家に戻るラストは良かったけどなあ…。
この終わり方も「仁義なき戦い」とは一線を画していた。
やはり別物映画なのだ。



新宿泥棒日記

2022-09-18 07:54:42 | 映画
「新宿泥棒日記」 1969年 日本


監督 大島渚
出演 横尾忠則 横山リエ 田辺茂一 高橋鐡 佐藤慶 渡辺文雄
   戸浦六宏 唐十郎 麿赤兒 大久保鷹 四谷シモン 不破万作
   九頭登 藤原マキ 李礼仙

ストーリー
真夏の新宿で蒸し蒸しする雑踏の中から、突然「泥棒だ!」という声が起った。
捕った少年は、追手の前で素裸になり、ひらきなおった。
その有様を見ていた一人の学生が、紀伊国屋書店へ入ると、数冊の本を抜きとった。
その手首をしっかりとつかんだのは厳しい表情の女店員ウメ子(横山リエ)だった。
紀伊国屋書店の社長田辺氏(田辺茂一)は叱りもせず学生を許し、女店員は三度目までは大目にみるのだと笑った。
学生は再び、万引を宣言し、実行した。
ところが田辺氏は、岡ノ上鳥男(横尾忠則)という学生を許したばかりか金まで与えた。
それから、ウメ子もネグリジェを盗み、そして鳥男を挑発し、鳥男は彼女を抱いた。
しかし、鳥男との情事は彼女の想像とは違った空しいものだった。
その夜、ウメ子はスナックで暴れ、田辺氏が彼女をもらい下げに留置所を訪れた。
田辺氏は、二人を性科学の権威高橋氏(高橋鉄)のもとへ連れて行き、高橋氏は「人間の根元的な性」について語るのだった。
田辺氏はつづいて新宿のバーへ二人を案内し、そこにいた俳優の佐藤氏(佐藤慶)や渡辺氏(渡辺文雄)に紹介した。
両氏は、二人を料亭へ連れ、友人の戸浦氏(戸浦六宏)が女性を口説く様子を見せた。
その料亭では、お客のためにわざと「やらずの雨」を降らせたりしていたが、この作られた性の世界に二人は失望し、ますます虚しさを覚えるのだった。
その反動から、鳥男はウメ子に乱暴をした・・・。


寸評
さっぱり分からない。
これは見る映画ではなく、感じる映画である。
前衛的でもあるが時代性を感じさせる作品でもある。
容易に想像がついても実名を出さないのが日本映画で、大学ならば城西大学、新聞社なら毎朝新聞と言った具合なのだが、この作品においては紀伊国屋書店という実に現実的な書店が舞台の一つになっているし、創業者である田辺茂一も実名で登場する。
その他にも高橋鐡、佐藤慶、渡辺文雄、戸浦六宏などもドラマの中にそのままで登場していて、現実と虚構の世界が入り混じっているという演出がとられている。
感覚で見る映画なのでモノクロ画面が突如カラーになっても何故なのか考えることはない。
僕にはさっぱり分からないのだから、考えてもしようがないのだ。
それでも、この時代に生きた僕は何となく感じるものがあるが、そうでない人はおそらく受け付けないだろうと思う。

イラストレーターの横尾忠則は当時のある種の若者にとってカリスマ的存在であった。
役者ではないのでセリフはたどたどしいが、それがかえって妙にリアル感をだしている。
タイトルが出る前の冒頭で、長髪の唐十郎が飛び出してきて、路上で取り囲まれた男たちの前で裸になり、ふんどし一丁で腹を見せると、そこにバラの花の刺青があり、取り囲んでいた男たちがは逆立ちをする。
状況劇場によるパーフォーマンスである。
あの頃の僕には民芸や文学座などの劇団よりも、演劇実験室とでもいうべき唐十郎の「状況劇場」、寺山修司の「天井桟敷」のほうが馴染み深かった。
僕は社会人となって東京支店に出張した時に、支店のN君に案内されて夜の花園神社に行ったことがある。
ここに唐十郎の赤テントがあって、寺山修司と乱闘をやったんだと説明を受けた。
その唐十郎の舞台がドラマの中にたびたび映し込まれてくる。
そこだけを見ていれば面白いけれど、それが何の意味を持っているのかは分からない。
夜の街、どこかの酒場であるのか佐藤慶や渡辺文夫たちがセックス談義をやる。
相当酔ってそうだがその談義が面白い。
僕たちもあの頃、酒を酌み交わしながら下らぬことを話題にして真剣に議論したものだった。
僕たちがそうであったように、彼らの議論は延々と続く。
そのあと戸浦六宏が和服の女性と性行為に及ぶシーンがあるかと思えば、鳥男とウメ子が舞台の役者になったり、ウメ子が佐藤慶たちにレイプされたりするシーンもある。
紀伊国屋書店の本が積み上げられたところで、鳥男とウメ子が抱き合おうとしたら、田辺茂一がが止めたりするシーンもあり、見終った僕はどのシーンが先で、どのシーンが後だったのかさえ分からなくなっている。
ましてやウメ子は書店の店員だと名乗っているが偽者なのだ。
繰り返されることは幻想なのかフィクションなのかさっぱり分からない。
そして新宿騒乱事件と思われるようなシーンが出てきて、男が逮捕されるシーンで映画は突如終わる。
映写機の故障かと思われるような終わり方で、エンドクレジットもない。
あの頃は、人を喰ったようなこの様な作品が評価された時代でもあったのだ。

シンシナティ・キッド

2022-09-17 08:41:34 | 映画
「シンシナティ・キッド」 1965年 アメリカ


監督 ノーマン・ジュイソン
出演 スティーヴ・マックィーン アン=マーグレット
   カール・マルデン エドワード・G・ロビンソン
   チューズデイ・ウェルド ジョーン・ブロンデル
   ジェフ・コーリイ リップ・トーン

ストーリー
シンシナティ・キッドは渡り者の賭博師。
ニューオーリンズの町の小さな賭け金稼ぎに嫌気がさしたころ、ポーカーの名人ランシーがやって来た。
キッドはいつか、ランシーと手合わせを、と考えていたので、長老格シューターにその機会を頼んだ。
シューターは血気の勝負師だった時代があり、キッドの自信過剰をたしなめたが結局、2人は対戦した。
キッドにはクリスチャンという情婦がいた。
彼女はキッドを深く愛しているが、もっと安定した生活、家庭、そして子供たちを欲していた。
キッドの方は、彼女を愛してはいたが、シューターの妻メルバに求められ、その魅力にとりつかれるような、曖昧さも持っていた。
大手合わせは全国から人を集めて大きな興奮のうちにスタートした。
1人ずつ脱落していき、最後に残ったランシーとキッドの決戦我始まった。
キッドは敗れ、完全に孤独だったが、クリスチャンだけが彼を暖かく迎えた。
彼女は彼が勝ったのか負けたのかも知らなかった。
賭博師の女の、暗黙のルールで、カードのことに関しては一切係らないのだ。
彼が文なしだとわかると、彼女は持ち金のすべてを彼に渡した。


寸評
スティーブ・マックイーンはカッコいい俳優である。
僕が子供の頃に楽しみにして見ていたテレビ映画に彼が主演する「拳銃無宿」があり、その頃からスティーブ・マックイーンはカッコいいと思っていた。
決定付けたのは「大脱走」だったが、彼の演じる役はどれもがカッコいい男である。
この映画におけるスティーブ・マックイーンもカッコいい男である。
イカサマに頼らず真剣勝負で相手に勝とうとする男で、シューターがイカサマで良い手を配った時にはそれを察知して勝負を降りている。
ポーカー勝負を描いたギャンブラー映画で、ビリヤードを描いた「ハスラー」などと似た作品なのだが、出来栄えは「ハスラー」に及ばないものの、スティーブ・マックイーンの魅力が出ているし、ポーカーの勝負も上手く描けていて十分堪能できる内容となっている。

物足りなく思えるのは登場する女性の描き方が淡白なことだ。
キッドにはクリスチャンという恋人がいるが、演じているチューズデイ・ウェルドの影が薄い。
彼女は何をしている女性なのか、キッドがギャンブラーであることを両親に話していたのか、両親は彼を気に入っていなかったのか、キッドのどこに惚れこんでいるのかなどがよくわからない。
アン=マーグレットのメルバもよく分からない女性で、セクシームードを振りまいているが、夫との関係は冷えているようでもあり、かと言って別れる風でもなくという存在である。
シューターは彼女に相当金をつぎ込んでいるようだが、惚れた弱みなのか強く意見することができない。
またメルバは悪女としての過去があるようなのだが、過去に何があったのかは不明で、彼女の悪女ぶりは雰囲気だけのものとなっている。
土地の資産家ウィリアム・スレイドの妻も少しだけ登場するが、彼女はスレイドのしもべのような存在である。
スレイドは妻に対して命令調だが、妻は夫に対してご機嫌を取っているように見える。
資産家の妻でありたいための行動なのかもしれない。
その事を強調すれば資産家としての思い上がりを持つスレイドの傲慢さがもっと出ただろう。
レディ・フィンガーズの   ジョーン・ブロンデル は面白い存在だが、雰囲気作りにとどまっている。

男たちの登場シーンは上手く描けていると思う。
キッドの登場シーンでは少年が登場し、最後にも活かされている。
ランシーの登場シーンは彼の人となりを示していて、サルにチップをやる場面は面白い。
シューターやスレイドが登場するシーンもそれぞれの人物像が描けていて、主な登場人物である男たちは上手く描けているのでこれは男たちの物語なのだと思う。
したがってラストシーンはちょっと甘い気がする。
ザ・マンと称されるランシー・ハワードは発作持ちのようだが、それはほんの少し描かれるだけで、ストーリー上大きな意味を持っていない。
肝心なところで発作起きるのかと思っていたが、そのシーンは用意されていなかった。
何のためにあのシーンを入れたのかなあと思ってしまう。

眞実一路

2022-09-16 07:50:45 | 映画
「眞実一路」 1954年 日本


監督 川島雄三
出演 山村聡 淡島千景 桂木洋子 須賀不二夫 佐田啓二
   水村国臣 毛利菊枝 多々良純 市川小太夫 三島耕 水木涼子

ストーリー
守川義平(山村聡)の十八になる娘しず子(桂木洋子)は大越護(三島耕)との見合いの報告に弟の義夫(水村国臣)を連れて伯父河村弥八(市川小太夫)を訪れたが、そこで家出した母のむつ子(淡島千景)に会った。
何の事情も知らない義夫はけげんな眼で彼女を見るのだった。
むつ子は以前の愛人との間に出来たしず子を腹に抱えて、義平の許に嫁いで来たのであるが、世間体を飾るだけのこの結婚は義平にとってもむつ子にとっても不幸であった。
間もなくむつ子は家出し、現在は浅草でカフェーを経営しながら、今の愛人隅田恭輔(須賀不二男)の螢光燈の研究を助けていた。
この様な理由で大越家から破談されたしず子は傷心の身をむつ子の弟の絵描きの叔父河村素香(多々良純)に訴えた。
「姉さんも気の毒な人だよ。みんなが言うようにふしだらな女じゃない、自分の本当の生き方をしたいともがいていたんだ」素香はそう言って「真実一路の旅なれど」と言う白秋の詩を呟いた。
義平の死で葬式に訪れたむつ子は、続いて起った義夫の盲腸の看護に当り、そのまま守川家に居ついた。
母親の居ない寂しさを味わっていた義夫はよく懐いた。
しかしむつ子は矢張り隅田を思い切れず、その事からしず子と折合ず家出した。
隅田が生活苦と失敗から自殺すれば、むつ子も後を追うより仕方なかった。
子供を産めても母親になれない女--これが彼女の真実一路の人生だった。
母を失くして再び寂しい義夫は運動会の選手に選ばれた。
懸命に力走する義夫の耳に、死んだむつ子の声が聞えて来た。
亡き母の声援に義夫はテープ目指してまっしぐらに走った。


寸評
僕の偏見かもしれないが川島雄三監督作品にしては、大人と子供の世界をそれぞれきっちり描いているすごく真っ当な映画のように思う。
山本有三の原作のテーマでもあるのだろうが、自分の正直な気持ちを貫き通し生きていけば、回りの人たちに悲しみを与えていかに辛く苦しいことか、また一方でよかれと思って嘘をつき通す人生もまた辛くて悲しい事なのだと映画は訴える。
テーマや物語は重いものだが、川島監督らしくスマートにテンポよく描いていくので重苦しくは感じないし、見ていて分かりやすい。
僕の母は離婚して実家である叔父夫婦の住む家に戻っていた。
幼い僕は叔父を父親と思い長い間「おとうちゃん」と呼んでいたのだが、小学校の中ごろになると自然と自分の父親ではないと感じてきて「おとうちゃん」と呼ぶのをやめるようになった。
小学校6年の終わりの頃に、叔父の家から出て転居したので、それ以降は「おっちゃん」と呼ぶようになっていた。
実の父親でないと分かっても僕は悲しくなかったし、後年に実の父親と出会うことがあった時も特別な感情は沸かなかった。
僕が真っ当な人間なら義夫に同化できて、この映画にまた違った印象を持ったかもしれないなと思う。

むつ子は以前の愛人との間に出来た子をお腹に抱えて義平の許に嫁いで来たのだが、生まれた子供を義平は大事に育てる。
責め立ててくれた方が気が楽なむつ子は義平のその優しさに耐えられず、更に義平との間に出来た子供も置いて家を出ている。
義平の優しさは彼の気真面目過ぎる性格から来ているもので、むつ子はある意味で欺瞞を感じていたと思われるのだが、義平の山村聡には彼のキャラクターからむつ子が感じるいやらしさを感じ取れない。
むつ子が自分の気持ちに正直に生きたというより、彼女の単なる我儘と思えてしまう。
むつ子の淡島千景はいい女過ぎて、真実一路で生きていると言う風には見えなかったなあ。
印象に残る斬新なシーンもある。
むつ子が隅田にすがって玄関を飛び出して追うシーンで、カメラは躍動し画面は斜めに切り取られる。
激しく言いあう場面でも真正面に構えていたカメラは、このシーンだけは激しく動く。
激しく動くカメラは、むつ子の激しく動く気持でもある。
自殺した隅田の後を追う淡島千景の超アップもなかなか良かった。
最後に多々良純と桂木洋子が遺骨を抱いて並木道を歩いてくるシーンは、キャロル・リードの名作「第三の男」を髣髴させた。

人は色んなしがらみを抱えているから、自分の正直な気持ちで生きていくことはなかなか難しい。
家族も家庭も社会的な地位も名誉も捨てる気にならないと貫けないものだと思う。
むつ子にも、しず子にも、多々良純のような人がいてよかったと思う。
叔父が生きていればそのような存在になってくれただろうか。
自分の娘と同じように扱ってくれた叔父は早逝してしまって、再び甘えることは出来なかった。