おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

未知との遭遇

2020-04-30 10:10:27 | 映画
「未知との遭遇」 1977年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 リチャード・ドレイファス
   フランソワ・トリュフォー
   テリー・ガー
   メリンダ・ディロン
   ボブ・バラバン
   ケリー・ギャフィ

ストーリー
砂漠。砂塵の中に第二次世界大戦に使われたらしい戦闘機の姿がみえる。
それは、真新しく、20数年前の消失当時と同じ姿だ。
調査団一行のリーダー、ラコームにより、発見の様子が語られる。
又、インディアナポリスの交信コントロール・センターのスクリーンに未確認飛行物体の姿が写し出され、TWA機より、不思議な物体を見たという連絡が入る。
同じ頃、インディアナ州のある人里離れた一軒家では、バリーという少年が周囲の物が震動するので目をさまし、何物かに引かれるように家をとびだしていき、母親ジリアンは彼のあとを追っていた。
そして、一方、同じ町に住む電気技師ロイは、この一帯の停電を調べるため車を走らせていた。
そこへ恐ろしい光が……。ロイは、この光を追い、バリーやジリアンに出会う。
やがて、ロイは怪光に夢中となり、会社もクビとなり、妻ロニーと子供達にまで逃げられる。
またラコーム達は、UFOとのコミュニケーションの可能性を見い出す。
ジリアンは失踪したバリーをさがし、一方ロイはこの異常なミステリーの原因を解こうとした。
そして、ロイのイメージは『山』にひっかかり、その山の模型を作るようになる。
ジリアンもイメージの山の絵を描いたが、それはワイオミング州にあるデビルズ・タワーであった。
そして今、その山は、毒ガス発生のため付近の住民に避難命令が下されていた。


寸評
原題の「Close Encounters of the Third Kind」を直訳すれば三種の閉じられた出会いという事になるのだろうが、日本語では第三種接近遭遇という何だかよくわからない言葉で訳されている。
調べてみると、第一種とは未確認飛行物体を至近距離で目撃した場合を言い、第二種とは未確認飛行物体がその周囲に何らかの物理的な影響を及ぼした場合で、そして第三種は未確認飛行物体の乗組員と接触した場合と分類されているらしい。
原題通り映画では主人公たちが俗にいう宇宙人と接触する様子が描かれるが、彼等の乗り物であるマザーシップが登場してからは迫力十分である。
映画は第一種から第二種に移り、そして第三種を迎えるというプロセスが興味深く描かれていく。

映画では三人の重要な登場人物がいる。
一人は宇宙人が放った光に取り付かれて頭に残った山の模型を作る続ける電気技師のロイだ。
今一人がフランス人UFO研究家ラコーム博士で、これをフランソワ・トリュフォー監督が演じている。
僕が彼の姿をこれだけ長く見るのは1970年の大阪万博におけるフェスティバルホールでの上映会でゲストだった彼を見て以来だ(トリュフォーはピエール・カルダンと共に僕の席の斜め前にいた)。
この映画における彼の存在は子供だましになりがちな作品を上質なものに押し上げている。
三人目が少年バリーだ。
未知の生命体と初めて接触し誘拐されるという難しい演技が要求される役だが、しかし演技を要求するにしてはバリー少年は幼すぎる年齢である。
しかしバリー少年はスクリーン上で見事に未知の生命体に驚き、怯え、笑い、そして涙している。
映画の魔術だ。
彼の演技を引き出すためにカメラに映らない場所でスタッフが涙ぐましい努力を行っていたことが伝えられているが、さもありなんと思う。

ラストシーンで主人公のロイは、妻も子供たちも、心の通じ合うジリアンも眼中になく、憑かれたようにマザーシップに乗って自分の夢をかなえるために宇宙へと旅立っていく。
彼は地球人の心をなくしてしまっていたのだろうか。
ためらうことなく宇宙船に乗り込むが、地球を家族をジリアンを捨てることにまったく躊躇しなかったのか。
宇宙人の子供たちに選ばれたとはいえ、ロイは悩むと言う人間的な心を失っていたような描き方だ。
とは言え、音楽で意思疎通を行うという発想から会話を極力抑えて地球人と宇宙人が交信するシーンは感動的。

過去に行方不明となっていた戦闘機や船が思いもかけぬ場所で当時のまま発見されるというエピソードが伏線となっているのもいいし、正義の地球人が宇宙人や宇宙生物の悪と戦うというドンパチ物にはない、大人が楽しめるSF映画となっていて、そのクオリティは高いものがある。
ここでの宇宙人の姿は「E.T.」に引き継がれている。
そりゃそうで、ここで人形を作ったのがカルロ・ランバルディという人で、彼は「E.T.」も手掛けている。
スピルバーグのSFとして、僕は「E.T.」よりもこの「未知との遭遇」の方がしっくりくる。

2020-04-29 08:49:22 | 映画
「道」 1954年 イタリア


監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 アンソニー・クイン
   ジュリエッタ・マシーナ
   リチャード・ベースハート
   アルド・シルヴァーニ
   マルセーラ・ロヴェーレ

ストーリー
貧しい上に少々足りない娘ジェルソミーナは、オートバイで旅まわりをする曲芸師ザンパーノの助手となって旅に出たが、ザンパーノは疑い深く、狡猾と欲情にこりかたまった男だった。
彼はさっそく暴力によってジェルソミーナを妻にし、金ができれば他の女を追いかけまわしている。
ジェルソミーナのやさしい心も彼には通じず、脱走してもつかまってしまう。
ちょうどその頃、二人は小さな曲馬団に参加した。
ところが、その一団にいる人々から「キ印」と呼ばれている若い綱渡りが、ザンパーノが気にくわないのか、ことごとにザンパーノをからかい、彼が怒るのを見て手をたたく。
しかしジェルソミーナは、「キ印」がひくヴァイオリンの哀しいメロディに引きつけられ、彼と親しくなる。
「キ印」は彼女に、この世のどんなつまらないものでも、役に立つ時があるのだ、と語った。
頭の足りないジェルソミーナも、この言葉には胸をうたれた。
「キ印」とけんかし、再び旅に出たザンパーノについて、彼女も苦しい日々を送りつづける。
ところがある日、途上でザンパーノと「キ印」は顔をあわせ、怒りのあまり「キ印」を殺してしまった。
誰も見てはいなかったので、ザンパーノはオートバイで旅から旅へと逃避行をつづける。
しかしこの事件はジェルソミーナに大きな打撃を与え、昼も夜も泣き通しである。
遂にもてあましたザンパーノは、雪の埋った山道に、彼女を棄てて去った。
それから数年後、年老いたザンパーノは、ある海辺の町で、ジェルソミーナが好んで歌った「キ印」のヴァイオリンのメロディをきいた。
その夜、酒に酔ったザンパーノは、海浜に出て、はじめて知る孤独の想いに泣きつづけるのであった。


寸評
フェデリコ・フェリーニという監督は俗にいう娯楽映画と呼ばれる作品を撮ってこなかった監督だと思う。
娯楽映画の対極にあるのが芸術映画だとは思わないし、娯楽と芸術が共存し得ないものとも思っていないが、少なくともフェリーニの映画は映画館を出る時に単純にスカッとする気分になれる作品ではないことが多い。
この「道」という作品も、暗くて重くて気が滅入ってくるような内容である。
それにもかかわらず観客を引き付ける力強いものがあり、最後まで釘付けになってしまうのはフェリーニの表現力のたまものだろう。
間違いなく映画史に残る名編である。

通常の映画だと主人公にはどこか認められるところがあって、たとえ悪人を描いていたとしてもどこかに感情移入できる部分があるものだが、この映画にはそれがないと言っても過言ではない。
ジェルソミーナは少々頭が弱い女で、ザンパーノの妻とは言え金で買われたようなもので、半ば奴隷のような扱いを受けている。
ザンパーノは無知で野獣のような腕力だけが取り柄の男である。
彼の仕打ちに耐えながら地に這いつくばるように生きる可哀そうな白痴女の姿に僕は暗い気持ちになっていく。
ジェルソミーナは器量が良くないし馬鹿っぽいのだが、心は純真無垢でひどい仕打ちを受けながらもザンパーノの助手として旅を続ける。
一度は彼から逃げようとしたが連れ戻され、結局ジェルソミーナは彼を見捨てることができない。
ザンパーノは見ているとからかいたくななってくるような無知さがある。
からかった男と偶然再会し恨みを晴らすため力任せに襲い掛かり、勢い余って男を殺してしまう。
事故を装って逃亡するが、そんな彼の姿を見ていたジェルソミーナが邪魔になって来て置き去りにする。
なんてひどい男なんだと思えて仕方がない。
その後ジェルソミーナは登場しない。
ジェルソミーナが愛したメロディが契機となって彼女のその後が伝えられる。
僕はニーノ・ロータのテーマ曲はもっと明確に流れていたような印象を持っていたのだが、再見するとテーマ曲の用いられ方は映画そのものと同様に案外と地味なものだったのだと気づく。
それなのに、このテーマ曲は本編と共に鮮烈なメロディが脳裏に残る名曲なのだと再認識する。

ラストでザンパーノは夜の浜辺に行く。
漆黒の海に真っ白な波が浮き立つ。
押し寄せる純白の波は穢れのないジェルソミーナを思い起こさせる。
懺悔、悔恨、孤独が白い波となってザンパーノに打ち寄せる。
ザンパーノは砂浜に顔をうずめて泣き叫ぶ。
野獣のようなザンパーノがこの映画で見せた唯一の人間らしい行動である。
それはわずかに残っていた神による救いの手だったのだろう。
映画が永遠のものとなるラストシーンである。
僕の耳には「ジェルソミーナ!」というザンパーノの叫び声が聞こえた。

水の中のナイフ

2020-04-28 10:48:45 | 映画
「水の中のナイフ」 1962年 ポーランド


監督 ロマン・ポランスキー
出演 レオン・ニェムチック
   ヨランタ・ウメッカ
   ジグムント・マラノヴィチ

ストーリー
アンドジェイは36歳でワルシャワのスポーツ記者として美しい妻クリスチナと安定した生活をおくっていた。
彼らは週末を郊外で過すのが常で、その日もヨットの上で週末を過すため湖に向って車を走らせ、途中ヒッチ・ハイクの青年を乗せた。
三人は出帆するが、青年の「若さ」とアンドジェイの「中年」が眼に見えない火花を散らすことになる。
アンドジェイは青年が妻に親切なのを見ると、彼に過酷な仕事をいいつけた。
ヨットが帰途についた時、青年のナイフをアンドジェイがかくした。
青年は彼に喰ってかかり、もみあううちにナイフは湖中に落ち、青年も足をすべらせ浮いてこない。
若者はブイの蔭に隠れており、アンジェイは殺してしまったとおびえる。
意外な成行きに、アンドジェイとクリスチナはののしりあい互いに幻滅と憎悪でいっぱいになる。
アンドジェイが警察に知らせに泳ぎ去った後に青年が姿を現わした。
クリスチナは最初は腹を立てたが、次第に青年の世話をやき、そして彼の接吻を受けた。
やがて湖畔に着くと、青年は走り去ってしまい、船着場にはアンドジェイが待っていて、二人は帰途につく。
妻は若者が生きていて自分と浮気をしたと告げるが、アンジェイは嘘だと言い、警察署へ行く道のところまで来て止まる。
やがて何事もなかったように、またもとの生活にもどるだろう……。


寸評
アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」がかぶる作品である。
1960年代は心象として水面と陽射しの変化というコントラストの強い素材がうってつけだったのかもしれない。
心象風景を表すショットや印象的なシーンもあるのだが、再見するまで僕の記憶の残っていたのは、青年が人差し指をかざして右目と左目を交互につむるシーンだった。
指が帆柱の右と左に行ったり来たりする。
やってみれば実際そうなのだが、そんなシーンに場内で失笑が起き、僕もニコリとしてしまったことを思い出す。
なぜそんな意味のないシーンを覚えていたのだろう。
特別に重要な場面でもないし、何かを暗示していたわけでもないと思うが、カメラのお遊びとして印象深かったのかもしれない。

登場人物は3人しかいない。
彼等はヨットに乗り込み週末を過ごすことになるが、アンドジェイは出会った時から青年への対抗心がありありだ。
妻の前で青年の若さに負けない自分を見せたかったのだろう。
ヨットではアンドジェイが船長としてふるまい高圧的な態度をとる。
妻に対しても青年に対しても命令口調である。
中年であるアンドジェイと青年が火花を散らせるのは安易なサスペンスを思わせるが、クシシュトフ・コメダの音楽とイェジー・リップマンのカメラはヌーヴェルバーグ的な深い描写を醸し出していく。
モノクロ作品であることも効果的だ。
アンドジェイと青年の対立はブルジョアとプロレタリアートの対立という側面もあったと思う。

アンドジェイが青年を溺死させたかもしれないと思う出来事が関係を一変させる。
夫と妻の関係も逆転したかのようである。
それまでの不満が噴出したかのように妻は夫を責める。
青年には若さがあるが、夫婦には経験を積んできた老獪さがあり大人の対応を見せる。
妻は青年と一線を越えた後、夫が戻る前に青年を去らせて何もなかったように夫を迎える。
夫は妻に聞かれてガラスの破片に裸足で立った水夫の話の続きを語るのだが、この話をする事で自らの過ちを認めるという大人の対応をとる。
妻は青年が生きていたことを告げ、青年と関係を持ったことがその証だと言う。
夫は自分を救うためにそんなウソをつかないでくれと言う。
アンドジェイは妻の不貞を信じたくないのだろうし、妻は夫の言葉で不貞に対する罪悪感を払拭したのだろう。
罪の意識の下で自分たちの保身のために皆が嘘をつき、その嘘を解っていながらも平和を維持するためにはあえて追求しないという大人のずる賢さである。
警察の方向を示す道路標識の前で車は止まったままで終わるが、おそらく何事もなかったように元の生活に戻るのだろう。
ラストシーンは思わせぶりである。

水の声を聞く

2020-04-27 08:37:14 | 映画
「水の声を聞く」 2014年 日本


監督 山本政志
出演 玄里 趣里 中村夏子 鎌滝秋浩
   小田敬 萩原利久 薬袋いづみ
   松崎颯 富士たくや 高木悠衣
   かわはらゆな 牛丸亮 村上淳

ストーリー
東京、新宿のコリアンタウン。
在日韓国人のミンジョンは、親友の美奈の誘いに乗り、軽くひと稼ぎしてから頃合いを見てやめるつもりでシンバン=巫女を始めた。
ところが、彼女に救いを求める人の数はどんどん増え、やがて彼女を教祖とする宗教団体“真教・神の水”が設立されると、後戻りできない状況になってゆく。
するとそこへ、金の臭いを嗅ぎつけたか、借金取りに追われる父親、それを追う狂気の追跡者、教団を操ろうとする広告代理店の男、教団に夢を託す女、救済を求める信者たちが現われる。
もはや自分ではどうすることも出来ないほど様々な人々の思惑が絡まり合い、がんじがらめになってしまったミンジョンは思い余って行方をくらましてしまう。
教祖がいなくなった“真教・神の水”では教団の沖田紗枝を代役に立てることで信者をつなぎとめようとする。
その頃、ミンジョンは在日韓国人が集う場所で彼等の祈りの現場を体験していた。
ミンジョンは聖と俗の狭間で苦悩し、偽物だった宗教に心が入ってくる。
やがて、大いなる祈りを捧げ始めるミンジョン。
不安定な現代に“祈り”を捧げ、“祈り”によって世界を救済しようとする。
いったい何が“本物”で、何が“偽物”なのか? 大いなる祈りは、世界に届くのか?


寸評
前半部分では擬似宗教的サークルが大きくなっていく様子が描かれ、そこでは主人公のミンジョンが教祖としてふるまう様子が面白いが、それ以上に面白い存在が村上純が演じる赤尾という広告代理店の男である。
新興宗教を描いた作品では大抵がいかがわしい強欲な男である事が多いのだが、この赤尾という男は全くの悪人という風ではなく、どこか軽薄さを感じさせる存在である。
宗教をビジネスととらえていて、“真教・神の水”とは違うコンセプトで別の宗教イベントをとりしきったりしている。
純粋な救済を求めながら、その一方で組織を大きくしていかねばならない矛盾を描くことは難しいところだろうが、赤尾という男が一人登場することでさらりと宗教のビジネス的側面を描いているのはなかなかの脚本だ。
ミンジョンは霊能力があるわけでもなく、教祖をアルバイト気分で務めている普通の女の子である。
カリスマ性があるかどうかは問題ではなく、カリスマ性があると思わせることが大事なのだと諭されている。
悩みを打ち明ける信者に対するミンジョンの言葉は教えられたとおりの抽象的なものである。
教祖的振る舞いを見せたかと思うと、それは仮の姿なのだと思わせる普段の姿との対比がリアルである。
新興宗教が信者を増やしていく過程を垣間見たような気がする。
肩が凝りそうな内容をストーリー的に面白くしているのが、ミンジョンの父親の存在と、その父親を負っているヤクザの男の存在である。
同時進行的に描かれるヤクザとその取り巻き連中のリアルで唐突な暴力描写、そして父親を追い詰めるシーンでゲリラ的に敢行されたロケなどがエンタメ性を加味している。
大人を翻弄する少年シンジや、教団に救われたことで人生の歯車を狂わせてしまう青年の登場などもエンタメ性を増幅させている。

映画の後半部分で大きな説得力を発揮するのが済州島四・三事件である。
済州島四・三事件とは1948年4月3日に済州島でおこった朝鮮半島分裂に反対する島民の蜂起に対して韓国軍と警察が、朝鮮戦争終結までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件で、数万人が虐殺された。
ミンジョンは済州島の巫女であった祖母の血を受け継いでいるのである。
彼女は在日韓国人の集う祈りの場所で、済州島の歴史を知ることになる。
生野を中心にして在日韓国人が大阪に多い理由が語られ、僕自身も彼等の歴史を初めて知った。
映画では新大久保のコリアンタウンが舞台となっているが、大阪在住の僕にとっても身近に感じることが出来た。
ミンジョンのもとには悩み苦しむ人々が救いを求めに来ていたが、祖母も母もミンジョンに自分たちが経験した苦難の過去を話すことはなかった。
苦しみや悲しみをじっとこらえ耐え忍んでいる人間は、悩みや苦しみを打ち明ける人以上に数多くいるのだ。
ミンジョンを演じた玄里(=ヒョンリ)の、特に後半部分の救済に覚醒してからの存在感は圧倒的だ。
美奈役の趣里(シュリ)は教団の実利を求めつつも、実利に走りすぎる流れに戸惑いも感じる微妙な立ち位置のキャラクターを丁寧に演じていて、こちらも魅力的である。
ミンジョンが受けた仕打ちは神が冒涜されたようなものだが、そのことを通じて脈々と続く血のつながりに祈りを捧げるミンジョンの姿に僕は打たれた。
最近は、我が家の、あるいは縁者の墓参りをするとなぜか清々しい気持ちになるのだ。
エンドロールで流れる美空ひばりの歌う「愛燦々」がこの作品にマッチしていいわ・・・。

ミスティック・リバー

2020-04-26 10:04:22 | 映画
「ミスティック・リバー」 2003年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 ショーン・ペン
   ティム・ロビンス
   ケヴィン・ベーコン
   ローレンス・フィッシュバーン
   マーシャ・ゲイ・ハーデン
   ローラ・リニー
   エミー・ロッサム

ストーリー
一度は犯罪社会に身を置きながら今は雑貨店を経営しているジミー(ショーン・ペン)、平凡な家庭人であるデイヴ(ティム・ロビンス)、刑事のショーン(ケヴィン・ベーコン)の3人は、ボストンのイーストバッキンガム地区で少年時代を共に過ごした幼なじみ。
しかし彼らが11歳の時、ある男にデイヴだけが誘拐されて性的な凌辱を受け、その日を境に3人は離れ離れになった。
それから25年後の現在、ジミーの娘が何者かに殺される殺人事件が勃発。
捜査にあたることになったのはショーンと、相棒のホワイティー(ローレンス・フィッシュバーン)であり、容疑者として浮かび上がってきたのは、なんとデイヴだった。
今も少年時代のトラウマに悩まされているデイヴ。
そして、事件当夜に血まみれで帰宅した彼に、妻のセレステ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)は不安を隠しきれず、ジミーに夫が犯人だと思うと心中を告白した。
ジミーは自らの手で娘の復讐を果たすべく、デイヴを呼び出す。
少年に悪戯をしていた男を殴り殺して血まみれになったと主張するデイヴに圧力をかけたジミーは、娘を殺したと言わせてデイヴを殺害し川に沈める。


寸評
もうひとつの「スタンド・バイ・ミー」といったキャッチコピーが見られたが、確かに1986年に作られたロブ・ライナーの「スタンド・バイ・ミー」と背景は同じような感じだ。
少年時代に印象深い出来事を共有体験するが、やがて大きくなってそれぞれの道を歩き始めることによって、以前のようにいつも一緒ということはなくなるけれども、共有体験をした仲間としてそれぞれの記憶の中にあるといった構成だ。しかし、その描き方は全く違う。「スタンド・バイ・ミー」は少年時代の友達の死を新聞記事で知り、主人公の言葉を借りる形で記憶をたどるように、自分の人生にあまりにも強烈な記憶を残した、少年時代に経験した2日間の出来事を振り返っていた。
一方この「ミスティック・リバー」は同じように、少年時代に経験した大きな共通の出来事を持ちながらも、やがて別れてそれぞれの人生を歩みながらも、過去の出来事の呪縛から逃れられないで、25年経った後のそれぞれの生き様を描いている。
公開から15年も経ってしまって、僕には「スタンド・バイ・ミー」はある種、少年時代の冒険物語というイメージで残っている。本作品は大人になってからの出来事を描いていることもあって、20数年も心の傷を持ちながら成長した3人の苦悩を描いていたと思う。その分、心理劇とも見て取れて中々見ごたえのある作品に仕上がっていた。
ダーティー・ハリーでトップ・スターとなったクリント・イーストウッドは監督としての才能も並々ならぬものがある。その力量は既に「許されざる者」や「マディソン郡の橋」、「スペース カウボーイ」等で実証済み。もっとも30年以上も監督をやって、20数作品も撮っているから、今や監督業の方が本職かも。

少年時代の友情に結ばれた仲間もいつしか別れを告げるし、それぞれの道を歩き出す事もわかっている。誰でも少年時代の友達との忘れる事の出来ない想い出を持っているし、時にはそれが悪戯心でやった万引きの想い出のように、心に重くのしかかかるものだったりする事もある。
ティム・ロビンス演じるデイブが少年の頃に受けた、幼児性的暴行犯の仕打ちは、当のデイブだけでなく、ジミーやショーンの心の傷になっていることがよくわかる。特にショーン・ペン演じるジミーがいい。彼はかつて服役していた事もあるが、仲間をチクルようなヤツは許さない分、捕まった時でも仲間の名前は絶対に漏らさない意志の強さを持っていて、愛する者のためなら何でもやる男だ。しかしそれでも、あの時連れて行かれたのが自分だったとしたらとの思いを引きずっている。ところが、そのジミーの持つ強さが終盤になって一気に映画を盛り上げる。それまでの全てがまるで其処に行くための伏線だったかのようだ。

無言電話を掛け続けるショーンの別居中の妻の存在もスパイスのようになっていて中々よいアクセントになっていた。成功者のように写るケビン・ベーコン演じる所のショーンも陽のあたる生活を送っているのではなく、これまた別の苦悩も抱えながら生きている一生の中における苦味を感じさせてよかった。
パレードに参加している息子を追いかけるセレステ、戻ってきた妻とパレードを見学するショーン、そして向かい側にいるジミーの姿が、物語はまだまだ続くのだとばかりに映画に余韻を持って終らせている。そして同じような重荷を背負って生きるであろう者も登場させて、さらなる余韻をもたせている。

昨今、CGを駆使したドンパチ映画が多い中にあって、カーク・ダグラスを髣髴させるショーン・ペンを初めとする性格俳優たちが繰り広げる人間劇と、演技力の共演を見ると何故か充実感を感じる。

ミクロの決死圏

2020-04-25 11:01:06 | 映画
終盤になってきました。
いよいよ「み」です。


「ミクロの決死圏」 1966年 アメリカ


監督 リチャード・フライシャー
出演 スティーヴン・ボイド
   ラクエル・ウェルチ
   アーサー・ケネディ
   エドモンド・オブライエン
   ドナルド・プレザンス
   アーサー・オコンネル
   ウィリアム・レッドフィールド
   ジェームズ・ブローリン

ストーリー
物体を細菌大に縮小し、長時間体内に浮遊しうる研究を完成した、チェコの科学者ヤン・ベネス博士がアメリカに亡命してきた。
しかしアメリカへ着くや敵側のスパイに狙われ、車に乗っているところを襲われ、博士は脳出血を起こし倒れた。
現在のアメリカの医学は博士の研究の初歩の段階で、体中に潜りこむことは1時間しかできなかったので、長時間潜行を知るためには1時間だけでも博士の脳内に潜り博士を助けねばならない。
医学史空前の試みがここに挙行された。
潜行艇に医師と科学者を乗せ、ミクロ大に縮小し、それを博士の頚動脈に注射することにより、博士の脳内出血部に到達させ、レーザー光線で治療する、というものであった。
潜行艇プロテウス号は、脳外科医デュバル、その助手コーラ、循環器の専門医マイケルス、海軍大佐オーウェンス、それに特別情報部員グラントの5人を乗せて博士の体内に潜入していった。
無論外部とはリモート・コントロールで絶えず緊密な連絡をとることは言うまでもない。
しかし、実際に潜行艇が血管内を潜行してゆくと思いがけないことが突発した。
血管の内皮壁に微細な割れ目があり、とかく艇の進行が遅れがちだし、心臓の鼓動は進行を妨げた。
彼らは60秒間博士の心臓を止めて、やっとのことで通過、さらにリンパ節内に入っていった。
しかしここでも海草のような網状ファイバーに絡まれ艇は壊滅寸前となった。


寸評
コンピュータ処理による映像技術が進歩した今から見ると随分と陳腐に感じるところもあるが、この作品を初めて見た時の驚きと感動を昨日のことのように思い出す。
「ミクロの決死圏」は僕が見た外国映画における最初のSF作品だったのだ。
兎に角、企画と言うか発想と言うべきか、誰もが見たことのない人体内部の映像と、そこで起きるトラブルが手に汗握るものとなっており最初から最後まで楽しめる。
登場人物が少ないこともあって、スパイの見当が早々と付いてしまいサスペンスの盛り上がりには欠けるが、それを割り引いても冒険映画としての面白さは失われることはない。

縮小化される手順は子供だまし的なところもあるが、体内に注入され動脈に入る時点から驚異の映像が続く。
動脈を辿っていく予定が静脈に入ってしまうところから難関に立ち向かう姿が描かれる。
肝臓や腎臓、すい臓など臓器はどれも大切だが、その臓器の持つ特徴を想像できる馴染み深いのが胃、心臓、肺だろう。
潜航艇はそれらの臓器を通るが、さすがに胃を通れば胃液で潜航艇が溶かされてしまうのでその場面はない。
最初の難関は心臓で、心臓の鼓動に立ち向かう姿と解決方法が見せるものとなっている。
心臓が鼓動する波動によって乗組員が揺れる描写のアイデアに感心する。

潜航艇にトラブルが発生し艇内の酸素が足りなくなって、それを肺から取り入れる発想も面白い。
レーザー光線銃が壊れ、無線機から部品を取り出したことで外部との連絡が取れなくなる描き方も無理がないものだが、面白いのは細かい部品による修理を外科医が手術よろしく行う描写だ。
この様なちょっとしたアイデアが詰まっていることも、娯楽作として成功に導いている。
抗体が異物と思ってコーラを攻撃する場面も楽しめる。
コーラを演じるのが肉体派女優として著名だったラクエル・ウェルチで、彼女のコスチュームが男性観客へのサービスとなっている。
「20世紀最高のグラマー」と称されて名前が随分と先行したのがラクエル・ウェルチで、僕が見た彼女の出演作としてはこの「ミクロの決死圏」のみである。
いやもう一本、「ショーシャンクの空に」の中でポスターとして登場していたな。

潜航艇は耳を通ることになるが、耳となれば音が重要な要素となることは明白で、起きる事態も予想されるものであり、観客の期待を裏切らない描き方で楽しませる。
最後は彼らが一体どこから脱出するのかということに興味が行くのだが、その方法はアイデアの勝利を締めくくるものとなっており満足感を与えるものだ。
白血球が潜航艇を襲うが、白血球は潜航艇のような物質も消滅させてしまうような力を持っているのだろうか。
アナログ的な体内セットだが、脳の中をパルス信号が飛び回っているなど、科学に裏打ちされたシーンが多いこともこの作品を支えている要因だが、白血球が潜航艇を飲み込むシーンだけは疑問を持った。
しかし、冒険映画としてもSF作品としても「ミクロの決死圏」は、僕の映画遍歴の中で記憶に残る1本であることに変わりはない。

万引き家族

2020-04-24 09:25:44 | 映画
「万引き家族」 2018年 日本


監督 是枝裕和
出演 リリー・フランキー 安藤サクラ
   樹木希林 松岡茉優 城桧吏
   佐々木みゆ 池松壮亮 柄本明
   緒形直人 高良健吾 池脇千鶴

ストーリー
再開発が進む東京の下町のなか、高層マンションの谷間にポツンと取り残されたように建つ古びた平屋の一軒家があり、そこに治(リリー・フランキー)と妻・信代(安藤サクラ)、息子・祥太(城桧吏)、信代の妹・亜紀(松岡茉優)、そして家の持ち主である母・初枝(樹木希林)の5人が暮らしていた。
治は怠け者で甲斐性なし。
彼の日雇いの稼ぎは当てにならず、一家の生活は初枝の年金に支えられていた。
治と息子の祥太は、生活のために“親子”ならではの連係プレーで万引きに励んでいた。
その帰り、団地の廊下で凍えている幼い女の子ゆり(佐々木みゆ)を見つける。
思わずゆりを家に連れて帰ってきた治に、妻の信代は腹を立てるが、女の子の体が傷だらけなことから境遇を察し、面倒を見ることにする。
翌日、治は日雇いの工事現場へ、信代はクリーニング店へ出勤する。
学校に通っていない祥太も、ゆりを連れて"仕事"に出かけ、駄菓子屋で店主(柄本明)の目を盗んで万引きするが、店主は祥太の万引きを知っていた。
亜紀はマジックミラー越しに客と接するJK(女子高生)見学店で働き、"4番さん(池松壮亮)"と名付けた客と共鳴するものを感じる。
ある日「5歳の女の子が行方不明」というニュースが流れ、ゆりは「じゅり」という名前だったことが分かるが、じゅりは「りん」と名前を変え元の家に帰ることを拒否する。
それでも一家には、いつも明るい笑い声が響き、家族全員で電車に乗って海に出かけることもあった。
だが祥太だけは"家業"に疑問を持ち始めていたのだが、そんな時、ある事件が起きる・・・。


寸評
この一家は疑似家族である。
信代は、ゆりが帰りたいと言えば戻すつもりだったが、ゆりはこのまま一家と暮らすと言う。
この一件を通して一家の絆がより鮮明になり、信代も絆は自分で選んだ方が強いのだと語る。
彼ら6人が本物の家族に見えてきたところで、どうやら血のつながりがないことががわかってくる。
それを通して「家族とは何か?」「血のつながりがなければ家族ではないのか?」といった問題が観客に提起されてくる。
ゆりの母親は「産みたくて産んだんじゃない」とわめいていたが、そんな親より信代のほうがよほど母親らしい。
信代が母親らしいのには理由があって、それには過去の犯罪が絡んでいて、祥太も関係していることが判明するというひねったものだが、結論は「血のつながりがなくても家族として成り立つ」という単純なものだ。
実際、この家族は幸せそうなのだ。

この映画にはミステリーとしての要素も内在しているのだが、信代とゆりが同じ傷を負っていることが示されるシーンとか、初枝と亜紀の関係が明らかになるシーンなどは観客をもっとハッとさせても良かったのではないか。
治や信代の過去が明らかになる場面でも劇的な演出は避けている。
この家族を静かに描きたいと言う是枝監督の演出だったのだろうか。
初枝は亜紀の実家をある理由から訪問しているのだが、幸せそうで理想的な家庭に見える。
しかし、両親は亜紀の実態を全く知らないでいる虚構の幸せの中にいる。
亜紀は今いる家庭に幸せを感じていて、両親がいる家庭を捨てているのだ。
この家庭の全容が明らかになる過程もドラマチックな演出を排除しているから、やはり是枝の意図を感じる。

治も、信代も人がいいし、人に対する優しさも持ち合わせている。
貧困ということ、万引きという犯罪を繰り返していることを除けば、いい家族なのだ。
家族で電車に乗って出かけた海辺のシーンは祖母の初枝が幸せを感じるシーンとなっている。
樹木希林のアップが映し出されるが、その口元は「ありがとう」と言っているように見える。
信代も家族を作ったことで得たものは、比べることなどできないほど大きかったと言う。
家族ほど煩わしいものはないが、家族ほど大切なものもないのだ。
最後に描かれる後日談で、単純な結末を示していないのがいい。

僕は犯罪一家の物語として、大島渚の「少年」を思い出していた。
あちらは"当たり屋"一家を描いていたが、うけた衝撃と映画としての迫力は「少年」の方が勝っていた。
随分と前の映画なので、僕の中で誇大化しているのだろうか?
「万引き家族」、僕は途中で少しダレたが、後半、よく盛り返したと思う。
でも是枝裕和監督の最近は水準以上の作品を撮って頑張っていると思っている。
ハズレがなくなってきたのは嬉しいことだ。
映画監督は脚本も書けないといけないと思うのだが、この作品は是枝裕和がすべて一手に引き受けていて、そのことも評価できる。

マルサの女2

2020-04-23 12:51:10 | 映画
「マルサの女2」 1988年 日本


監督 伊丹十三
出演 宮本信子 津川雅彦 丹波哲郎 大地康雄
   益岡徹 桜金造 マッハ文朱 南原宏治
   上田耕一 不破万作 高橋長英 中村竹弥
   小松方正 洞口依子 加藤治子 三國連太郎

ストーリー
地上げ屋同士の熾烈な攻防戦が吹き荒れるバブル期の東京。
オフィスビルの建設ラッシュを機に、政治家・建設業者・商社・銀行が結託して巨額の利益を上げんと欲望を燃え上がらせていた。
そんな中、代議士の漆原は宗教法人・天の道教団の管長・鬼沢に目をつける。
鬼沢は宗教を隠れ蓑に風俗業など数々の商売をし、さらにヤクザを操り地上げの嵐を吹き荒らしていた。
しかもそれらの商売による収益を宗教法人に入金して課税を免れていた。
「宗教活動での所得は課税対象とならない」という税法を盾に脱税している鬼沢に対し、やり手査察官・板倉亮子をはじめとする国税局査察部・通称マルサは内偵調査を行う。
亮子は大蔵省のエリート官僚・三島を引きつれ鬼沢の身辺調査に入ると、教団信者やヤクザ達の妨害に遭い調査は難航したが、ようやく脱税のシッポを掴んだマルサは強制調査に着手する。
鬼沢の取調べが行われるが、鬼沢は頑として脱税を認めず、逆ギレして地上げの正当性を主張する。
そんな中、鬼沢の手下が射殺される。
査察部は脱税を隠蔽するために鬼沢が「トカゲの尻尾」のように切り捨てたのではないかと疑うが、やがて鬼沢本人が狙撃される事件が発生。
危うく難を逃れたが、鬼沢も「トカゲの尻尾」、つまり使い捨てられる駒でしかなかったのだ。
鬼沢の地上げした土地ではビルの着工を前に地鎮祭が行われる。
鬼沢を背後で操って自らは手を汚すことなく利益を得た大臣・代議士・企業幹部が談笑していた・・・。


寸評
宮本信子の板倉亮子が活躍する「マルサの女」の第2弾で、娯楽性はぐーんと上がっている。
反面そのためにリアル感は薄れて、どこか現実離れしたスパイアクションの様な演出が多く見受けられる。
マルサの面々は脱税の内偵を進めているが、その内定の様子は受け狙いだ。
屋根に上って室内の様子を盗み聞ぎしたり、浮浪者を装って高性能マイクで相手の会話を傍受したりしている。
脱税側が押収された書類を奪うために、国税局に忍び込み保管室からその一部を盗み出そうとするなどだ。
まるで「007シリーズ」か「ミッション・イン・ポシブル」のような展開だ。
前作と同じなら、摘発者が違うだけで単なる二番煎じとなってしまうから、さすがにプライドの高い伊丹十三はそれを避け、今回は地上問題と宗教法人を前面に打ち出している。

1980年代後半から1992年にバブル経済が崩壊するまで、小さな地権者から土地が買い占められ、一区画にまとめられた大きな土地が高額で取引され、されにそれが転売されて巨額な利益が生み出されていた。
こうした中で、暴力団が関わり暴力的手段によって立ち退きを迫ったり、強引な手法で土地の売買を行う業者が目立つようになったので、地上げ屋という言葉はダーティなイメージを持つ。
しかし鬼沢が言うように「東京が世界と戦っていくためには大きなビルがいる。そんな土地はどこにあるんだ。政府ができない汚い仕事を俺たちが引き受けているんだ」という言い分にも一理はある。
個人の権利を強くすると、公共の利益が阻害される一面はあるのだから、個人と公共の共存は難しい。
一方の宗教法人は、その税制の有利性を悪用するための法人も多くあるようで、全国に信じられないほどの宗教法人が存在している。
信教の自由を縦にした寄付行為を悪用して巨額の資金を集めていたり、霊感商法などを行っている新興宗教法人が時々摘発されているが、それは氷山の一角なのだろう。
ここでも天の道教団が好き勝手をやっている。
鬼沢の妻で教祖とされている加藤治子が衝動買い名人として登場し、4500万円の毛皮のコートなどを買い、会館には何枚もの高級毛皮のコートを持っている。
信者からの寄付と言えば何でも通りそうなのも我々からすれば疑問だ。
それにしても今回登場する鬼沢は強烈なキャラクターで、演じた三國連太郎はやはりスゴイ役者だと再認識した。

暴力団が絡んだ地上げの手口も次々紹介されるが、これは本当に行われていたのかもしれない。
マンションの立ち退きを迫るために組事務所を開くなどの嫌がらせをしたり、立ち退きを渋る店主には脅しを入れ、トラックを突っ込ませるなどもやる。
もっともチビ政が言うように、借地人でありながら地主以上の金を得る権利の不当性は分からぬでもない。
僕の知り合いにも、借地でパン屋をしていた家族が営業権を含めた多額の立ち退き料をもらいアパートに引っ越したら、そのアパートがまた地上げにあい、わずかの居住期間で再び多額の立ち退き料を手にした人がいる。
この頃の金を巡る騒乱はひどいものがあり、この作品もその非合法性を描いている。
それでも最後は巨悪は眠らずのような結末で、庶民派代表の僕はは絶望感を感じてしまった。
土地バブルは治まったが、マネーをめぐる狂乱は景気に係わらず存在していて、資金を持たない僕は傍観しているしかない。

マルサの女

2020-04-22 14:39:40 | 映画
「マルサの女」 1987年 日本


監督 伊丹十三
出演 宮本信子 山崎努 津川雅彦 大地康雄
   桜金造 松居一代 室田日出男 汐路章
   上田耕一 小澤栄太郎 佐藤B作 橋爪功
   伊東四朗 大滝秀治 マッハ文朱 絵沢萠子
   高橋長英 芦田伸介 小林桂樹 岡田茉莉子

ストーリー
税務所の調査官、板倉亮子(宮本信子)は、小柄で顔がソバカスだらけの不美人だが、脱税を徹底的に調べるやり手だった。
ある日、彼女は一軒のラブホテルに目をつけ、そこのオーナー権藤英樹(山崎努)が売り上げ金をごまかしているのではないかと調査を始める。
権藤には息子の太郎(山下大介)と内縁の妻、杉野光子(岡田茉莉子)がいた。
権藤は一筋縄ではいかない相手で、なかなか証拠も掴めない。
そんな時、亮子はマルサと呼ばれる摘発のプロとして国税局査察部に抜擢された。
マルサとしての調査経験を積んでいった亮子は、上司の花村(津川雅彦)と組んで権藤を調べることになった。
ある時、権藤の元愛人、剣持和江(志水季里子)から、彼の今の愛人である鳥飼久美子(松居一代)が毎朝捨てるゴミの袋を調べろとタレコミの電話が入った。
亮子たらは清掃車を追いかけ、やっとのことで証拠の書類を見つけた。
権藤邸をガサ入れする日が決まり、当日の朝、出かけた光子を亮子は尾行。
権藤邸に花村たちが入った途端、連絡を受けた他の何人かが権藤の取り引き先の銀行、久美子のマンションを同時にガサ入れする。
光子の見張りを交代して権藤邸に向かった亮子は、権藤と喧嘩し、大金を持って飛びだした太郎を追いかけ慰め邸に戻ると、調査はほぼ完了で証拠は何もつかめていなかった。
権藤を中心にした暴力団・政治家・銀行が絡んだ大型脱税との戦いが始まった・・・。


寸評
マルサと言う言葉を一般化させた作品だと思うし、軽快な音楽が耳に残る一級のエンタメ作品である。
脱税捜査を行う通称マルサの活躍を描いているが、脱税者と査察のやり取りが内幕物としての面白さを十分すぎるぐらいに描いている。
板倉亮子は当初税務署の調査官だが、ソバカス顔でいつも寝ぐせの頭をしているシングルマザーというキャラクターが印象深い。
税務署時代は飲食店やパチンコ屋の売り上げ除外を摘発するが、飲食店の老夫婦なんか庶民かそれに毛が生えた程度で、巨悪に挑んでいると言う感じではない。
それでも店の総菜を自分たちの食事に供しているのは売り上げ除外で、ダンナへの売掛金として処理し会社(店)は修正申告、一家は店に代金を支払うことになる。
老夫婦は自分たちのような者からではなく、もっと悪どい奴から取ればいいと息巻くのだが、亮子は「悪どい奴はどこの誰だか教えてほしい!」と食って掛かる。
庶民側の気持ちも、税務署側の気持ちもわかるやり取りだ。

権藤と言う役名は山崎努のデビュー作である黒澤明の「天国と地獄」で彼が敵対視する男の役名で、伊丹十三は多分にそのことを意識してオマージュとしているのかもしれない。
この男は悪徳政治家やヤクザとも交流を持っている言わば悪者なのだが、キャラクターとして憎しみが湧かない。
彼は脱税を繰り返し蓄財しているのだが、一方で個人的贅沢をしているわけではない。
子供にも贅沢させていないし、持っていた大金を盗んだのではないだろうなと問い詰めている。
息子を愛してそうだし、どこかまともなところがあり、経営しているホテルへのこだわりにおいても夢を追いかけている男なのである。
見ていると脱税をするという行為そのものを楽しんでいるようでもある。
片や脱税のプロ、片や脱税摘発のプロで、お互いにプロ同士の尊敬の様なものが湧いてくるのが面白い。
権藤が「あんたプロだね。俺、そういうの好きだよ」という一言がそれを物語っている。

暴力団関東蜷川組の組長・蜷川喜八郎の芦田伸介は、交通事故で負ったトレードマークの様な傷を生かし、凄みのあるヤクザを見事に演じている。
「5000万が大金か大金でないかは感覚の問題だろ」と凄む姿が板についていた。
津川雅彦は中年の中間管理職を演じて、新たな境地を開いたように思う。
若かりし頃に演じた日活時代の優男のイメージは全くない。
査察が一斉捜査に入る状況も楽しませる。
査察とはこのようにやるのだなと言う内幕物の面白さを上手く描けていた。
権藤はプロとしての亮子に愛情を感じていたのだろう。
忘れていったハンカチをずっと持っていたし、彼女を誘い、断られると彼女に手柄をプレゼントしている。
権藤の足が悪いのはキャラクター上のものだったのだろうか。
不自由である必要性を感じなかった。
それにしても、これは内幕物としては一級の娯楽作品になっていることだけは確かだ。

マラソンマン

2020-04-21 09:02:07 | 映画
「マラソンマン」 1976年 アメリカ


監督 ジョン・シュレシンジャー
出演 ダスティン・ホフマン
   ローレンス・オリヴィエ
   ロイ・シャイダー
   ウィリアム・ディヴェイン
   マルト・ケラー
   フリッツ・ウィーヴァー
   リチャード・ブライト

ストーリー
ニューヨーク。銀行の貸金庫より出た老人は、雑踏の中で小箱をある男に手渡し、直後交通事故死した。
この事故を近くでマラソン・トレーニング中のベーブ(ダスティン・ホフマン)は見ていた。
彼の崇拝者はあのアベベであったが、ランニング中の事故は不吉なめぐり合わせの始まりだった。
ベーブの兄ドク(ロイ・シャイダー)はアメリカ政府機関の男。
例の箱を売り込もうとしたが、常に命を狙われていた。
ウルグアイにいるナチの残党ゼル(ローレンス・オリヴィエ)は、老人の事故死を知るやニューヨークへ飛ぶ。
ある日ベーブは図書館でエルザ(マルト・ケラー)と知り合うが、公園でデート中に2人の男に襲われる。
ベーブがこの事件を手紙でドクに書いた数日後ドクが帰って来て、エルザを交えた3人が食事を共にしたところ、エルザがドイツ人と知りドクの態度が変った。
その夜ドクはゼルと会う。
彼はゼルの運び屋も兼ねていたのだが、弟に手を出すなと言った矢先、ゼルにナイフで刺された。
ベーブは自分の住む下宿にたどりつき息切れた兄に驚く。
さらに、入って来たドクの同僚ジェニウェイ(ウィリアム・ディヴェイン)に兄の正体を告げられて驚いた。
ベーブは公園で二人の男に誘拐され、地下室に連れこまれ、拷問をうけることになる。
銀行の貸金庫にゼル自身が宝石を受け取りに行っても安全かどうか、ベーブから聞き出そうとしたのだ。
手下のすきをつき日頃のマラソンの訓練を生かしやっとの思いで、脱出に成功したベーブは、エルザの協力の下、郊外の家に隠れるが、そこはゼルの兄の家だった。
エルザも一味の1人だったのだ。


寸評
冒頭でビキラ・アベベの姿が映し出される。
「マラソンマン」というタイトルでもあるし、スポーツ映画かと思わせる出だしであるが、しばらくして老人が銀行の貸金庫から取り出した小さな缶を雑踏の中で秘密裏に手渡しするので全く違うサスペンス作品だと知らされる。
その老人は別の老人と車の運転を巡って言い争いを始めるのだが、頑固だが動作が緩慢な老人同士のカーチェイスは映画的な興味を引く愉快さがある。
二人はユダヤ人とドイツ人で、お互いに「ナチスめ!」、「ユダヤ人め!」とののしり合いながら、タンクローリーにぶつかって死んでしまう。
老人二人のカーチェイスとののしり合いは面白いのだが、これが後々の伏線となっていた。

どうやら犯罪組織が係わっていそうなのだが、彼らが何者なのか、何を企んでいるのかが全く分からない。
ベーブはランニングを日課のようにしていて事故現場を遠目で見るが、彼もなかなか事件に絡んでこない。
エルザと親しくなったベーブがデート中に公園で襲われるが、犯人の目的がエルザらしい雰囲気で描かれてしまっているのは、種明かしがちょっと早すぎたような気がする。
半ばごろになってやっとベーブが事件に絡んでくる。
ここからの展開が面白く感じるのはゼルのローレンス・オリビエが存在感を見せてくるからだ。
ゼルは歯医者の立場を利用して、収容所に入れられたユダヤ人の金歯を盗って財を成した卑劣な奴だ。
そんな男なので、この犯罪集団はプロフェッショナルなすごい組織ではない。
冷酷非情な集団ではあるが金に目がくらんだセコイ連中に見えなくもない。
ゼルはダイヤを隠し持っているようなのだが、そのダイヤの価値も良く知らない男なのである。
その価格を知るためにユダヤ人街の宝石商を訪ねダイヤの値段を知る。
宝石商の店員がユダヤ人らしく、その手に収容所時代の刻印をされている。
またゼルが通りに出たところで、かつて収容所にいたと思われる老婆から悪人がいると叫ばれる。
ナチスから迫害を受けたユダヤ人の憎悪があふれてきて、犯罪そのものよりこの場面が一番迫力があった。

サスペンス映画として見た場合、この作品はいくつかの欠点を持っている。
一番はドクが刺されて瀕死の状態でベーブの所へやって来て何か言い残したようなのだが、それが後半に生かされず、ベーブが何も聞いていなかったような終わり方をしていることだ。
ベーブの父は赤狩りの中で無実の罪によって自殺しているのだが、ベーブは論文を通じてその父の無実を証明しようとしている。
学生と言うには少し歳をとりすぎているダスティン・ホフマンに大学生の設定を押し付けているのはそのためだったと思うのだが、結局そのことは全く関係なかった。
教室での教授とのやり取り、図書館でのエルザとの会話、兄との言い争いなどは何のためのものだったのかと思ってしまう。
マラソン練習が幸いして、追いかけられたシーンでは追手をその脚力で振り切るのかと思ったら追いつかれてしまっているしなあ・・・。
原作者自身が脚本を書いているので面白かったけれど、もう少し突っ込んだ描き方が欲しかったところである。

真夜中のカーボーイ

2020-04-20 08:47:47 | 映画
「真夜中のカーボーイ」 1969年 アメリカ


監督 ジョン・シュレシンジャー
出演 ジョン・ヴォイト
   ダスティン・ホフマン
   シルヴィア・マイルズ
   ジョン・マッギーヴァー
   ブレンダ・ヴァッカロ
   ギル・ランキン

ストーリー
ジョー・バックは、カウボーイのいでたちでテキサスからニューヨークに出て来た。
彼は自分の肉体と美貌を武器に孤独なニューヨークの夫人達を慰め、富と栄光を得ようと考えていた。
彼の商売の皮切りの女性キャスは街娼上がりのパトロン持で、逆に金を巻きあげられてしまった。
そんな時、彼は足の不自由なペテン師ラッツオと知り合った。
彼の紹介でジョーはオダニエルにひき会わされたが、彼は狂言者であった。
ラッツオにだまされたと知ったジョーは、必死に彼を探し歩いた。
しかし、無一文で街の酒場にしけこんでいた彼を見て、ジョーは何も言えなかった。
逆に、ホテルを追い出されたジョーに、ラッツオは自分の室へ来るようにすすめた。
それはとり壊し寸前のビルの一室で、そこでラッツオは彼の夢、フロリダ行きの夢を語るのだった。
必死に、泥沼をはい上がろうと2人は力を合わせた。
ラッツオがマネージャーとなり、ジョーは再び男娼を始めたがうまくゆかなかった。
ジョーを買った最初の客は、ヘンゼルとグレーテルのパーティで出会ったシャーリーだった。
一方、ラッツオの体はその頃から急激に衰弱していた。


寸評
1960年代後半から1970年代中頃にアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群があったのだが、「真夜中のカーボーイ」はその初期の傑作である。
それまでのハリウッド映画が正義の味方による勧善懲悪の物語や、ウットリするような恋物語を主流としていて、結末はハッピー・エンドというのが多くを占めていたのに対し、ニューシネマと言われる作品は悲劇的な結末で幕を閉じるものが多い。
つまり映画の内容はアンチ・ヒーローでありアンチ・ハッピーエンドとなっていると思う。
ニューシネマが登場した背景は、おそらく当時の世相であったアメリカ市民がベトナム戦争の実態を目の当たりにしたことで政治への不信感とアメリカ政府の矛盾点に目を向け始めたことによるものだろう。

「真夜中のカーボーイ」は喜劇的な面を持ちながらも実に淋しい映画である。
ジョーが自分の精力を武器にニューヨークで一旗揚げようとするのがそもそも滑稽だ。
田舎者が精一杯背伸びして都会へ出てきたが、雑踏の中で人が倒れていても見向きもしないような街で夢破れていく様も滑稽である。
金をせしめようとした女に逆に金を巻き上げられたり、夢見た女性との関係ではなくホモを相手にしなければならなくなったり、ジョーの身に起きることは滑稽としか言いようがない。
ジョーのニューヨークへの思いは時代錯誤というよりも、あまりにも現実離れしたものであきれてしまう。

ラッツオは大都会のニューヨークに住み着いているが最下層の生活をしている。
足が不自由だし、利用してはいけないビルの一室を住居にしているが、生活の糧はスリと万引きという生活だ。
おまけに環境からきたのか肺を患っていて常に咳きこんでいる。
金がなくなった二人が一緒に寝起きするが、画面に映るのは惨めな二人の姿である。
モノクロシーンを挿入させながら過去の悪夢と未来の夢が交差する瞬間がシャープに描かれる。
ジョーの目指した方法でやっと金にありつけたときには、ラッツオの体は限界に来ていて、温かいフロリダへ旅立つことになる。
ジョーは再び長距離バスに乗ることになるが、希望に満ちたニューヨーク行と違い、マイアミ行はいわばニューヨークからの逃避行だ。
バスに中のラッツオの姿は痛々しい。
痛々しいが、このバスのシーンはこの映画そのものである。

主人公はジョーのジョン・ヴォイトだと思うが、ラッツオのダスティン・ホフマンが際立っている。
決してハンサムではないが個性が際立つ男優で、「卒業」で見せた以上の表現力でラッツオを演じている。
足の悪いラッツオが全速力で海岸を走り、マイアミではご馳走を美女たちに振る舞い豪勢な生活をしているなど、彼らが夢見た世界が絵空事として楽し気に描かれるが、結果は正反対である。
我々が夢見ていた世の中など存在せず、現実は惨めな生活が待っていたのだと言っているようでもある。
描かれていたのは当時の若者の心情の代弁だったと思うが、英国人のジョン・シュレシンジャーが見たニューヨークだったのかもしれない。

間宮兄弟

2020-04-19 21:17:53 | 映画
「間宮兄弟」 2006年 日本


監督 森田芳光
出演 佐々木蔵之介 塚地武雅 常盤貴子
   沢尻エリカ 北川景子 戸田菜穂
   岩崎ひろみ 佐藤隆太 横田鉄平
   加藤治子 高嶋政宏 中島みゆき

ストーリー
東京、下町のとあるマンションで間宮兄弟は一緒に暮らしている。
兄の明信(佐々木蔵之介)はビール会社の商品開発研究員で、弟の徹信(塚地武雅)は小学校の校務員だ。
彼らは自分たちの世界で、楽しく穏やかに何不自由なく暮らしている。
ある日、徹信が兄に「カレーパーティーをやろうか」と持ちかける。
招待客は、徹信と同じ小学校で働く葛原依子先生(常盤貴子)と、行きつけのビデオショップでアルバイトをしている大学生の本間直美(沢尻エリカ)だ。
パーティーは大成功に終わり、兄弟の“今日の反省会”は、史上最高に盛り上がった。
夏休み、間宮兄弟は、母と祖母の暮らす故郷・静岡に帰省する。
駅には母の順子(中島みゆき)が中古で買ったロールスロイスでお出迎え。
田舎に帰れば兄弟は今も子供のままで、お小遣いをもらい、ここでもやっぱり昼寝をし、海水浴を楽しんだ。
仕事帰りに時々、明信はビール会社の先輩である大垣(高嶋政宏)と安西(岩崎ひろみ)とバーに立ち寄る。
大垣は妻、さおり(戸田菜穂)に離婚を切り出して以来、家に入れてもらえないという。
そして離婚の原因は安西との不倫にあるのだった。
数日後、大垣家のリビングで向かい合う大垣と明信、そしてさおりだったが、離婚の話は平行線に終わった。
同じ夜、徹信はバーでぼったくりに遭っていた。
ある日、直美は明信から告白されるが、丁重にそれを断り、就職も決まったので、アルバイトを辞めると告げる。
落ち込む明信を徹信は慰め、これからもずっと一緒に暮らそうと宣言する。
その頃、直美は妹の夕美(北川景子)に、いつまでも姉妹で一緒に遊んでいていいのだろうかと言うと、夕美は「間宮兄弟を見てみなよ。あの年でもずっと一緒だよ」と答えるのだった。


寸評
僕には兄弟がいない。母一人、子一人で育った。
したがって兄弟の感情や関係がどのようなものなのかわからない。
兄弟喧嘩や兄弟の確執も知らないが、兄弟仲良く遊んだ経験もない。
特に兄弟を欲しいと思ったことはないのだが、幼少の頃にとても仲の良い兄妹がいて、その関係を羨ましく思っていた記憶はある。
僕には双子の孫が居る。まだまだ小さい。
二人はいつも一緒に遊んでいて、他の子とあまり遊ばないそうだ。
やがて別々の道を歩み始めるのだろうなと思っているのだが、この映画を見るといつまでもふたり仲良くいい子でいてくれたらなと思う。
この映画のように、いい歳をして、いつまでもぶらぶらと遊んでいるようなのは困るけど・・・。
他人だったらそれもありかとは思うんだけど、自分の孫たちとなると・・・。
だけど映画の世界になると随分と微笑ましいものだ。
しかしこの映画の終盤で、直美(沢尻エリカ )は妹の夕美(北川景子 )に、「私たちこんなふうにブラブラ散歩できるのも今だけかもしれないね」と言うと、夕美は「間宮兄弟を見てみなよ。あの年でもずっと一緒だよ」と答えていて、間宮兄弟の関係を肯定している。
最後のこの一言を言わせたいための映画で、いろんなエピソードはこの一言のためのコマに過ぎなかった。
明信(佐々木蔵之介 )と徹信(塚地武雅 )兄弟の母親(中島みゆき )も海辺ではしゃぐ二人を見て「いい子達でよかったわ」と満足気な笑顔を見せるのである。
もちろん帰省時に花札に興じていたお爺ちゃん、お婆ちゃんも彼らを子供の頃のように愛おしむ。
部屋にはその頃の写真が所狭しと飾ってある。
ぼくは母親の気持ちも、祖父母の気持ちも分かる年齢になってしまった。
滅多に姿を見せない中島みゆきだが、ここでは中古のロールスロイスを乗り回す呑気な母親の雰囲気を出していて、映画出演したことに驚かされた。

間宮兄弟は横浜ベイスターズのファンらしく、ふたりで野球中継を見てはスコアブックをつけている。
ポップコーンを食べながら二人並んでDVDを鑑賞している。
いつも一緒で、落ち込んだ時には慰め、寝込んでしまったらそっとタオルケットを掛けてやる思いやりを持っている。
お互いをいたわりあっている優しい兄弟。
それが間宮兄弟だと、ここでタイトルが出るのだが、最近よく見かけるようになった演出だ。
その間、ふたりの間に会話はない(徹信が校務員をしている小学校の依子先生(常盤貴子)も登場するが、彼女は徹信と言葉を交わしている) 。
会話はなくても通じ合っているのだと言っているようでもあった。

ドランクドラゴンの塚地武雅はここでもいい味を出している。
最近のお笑い芸人は芝居をさせてもいい味を出す芸達者な人が増えてきた。

まぼろしの市街戦

2020-04-18 09:38:50 | 映画
「まぼろしの市街戦」 1967年 フランス / イギリス


監督 フィリップ・ド・ブロカ
出演 アラン・ベイツ
   ピエール・ブラッスール
   ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド
   ミシュリーヌ・プレール
   フランソワーズ・クリストフ
   アドルフォ・チェリ
   ジャン=クロード・ブリアリ

ストーリー
第一次大戦中、パリ北方の小さな村を撤退するドイツ軍は時限爆弾を仕掛けた。
これを知った村人の一人は、進撃してくるイギリス軍にこれを告げた。
隊長バイベンブルック大佐は伝令兵プランピックを村に派遣し、爆弾を見つけて撤去せよと命じた。
村は、噂におびえ、大半が避難し、残されたのはサーカスの動物と、精神病院の狂人だけだった。
猛獣は往来をさまよい、解放された狂人は、空家に入りこんで夢のような生活をはじめていた。
公爵、公爵夫人は村の名士、僧正は寺院に納り、エバはコクリコたち、娘を集めて女郎屋を開業し、将軍は幻想の軍隊を編成した。
プランピックは、戦場のまっただ中で、陽気に優雅に暮らしている村人を発見して呆気にとられたが、彼をハートの王様にし、コクリコと結婚させると聞いて、初めて狂人の世界にふみこんだと覚った。
彼は善良な狂人たちを避難させようとしたが、誰も動かなかった。
彼は最後の数時間を皆と共に楽しむ決心をした。
プランピックは花嫁のコクリコから時限爆弾の隠し場所を聞き、無事撤去した。
そんな中で、この戦略的要地のこの村を、独軍、英軍が狙いはじめた。
両軍の偵察隊が乗りこんで来た。
両軍は激戦を展開したが、相撃ちで両方とも全滅した。
狂人たちは余りの狂気の沙汰にゲンナリして精神病院に帰っていった。
英雄となったプランピックは、進撃途上にある次の村の爆破を命じられた。
彼は遠ざかる心温まる懐しい村を見つめていた。
そして彼は脱走した。
鳥カゴを持ち、素っ裸になったプランピックは精神病院の門をくぐり友人の仲間に入って行くのだった。


寸評
ブラック・コメディの映画と言えば僕は一番にこの「まぼろしの市街戦」をあげる。
間違いなく反戦映画なのだが、戦争の悲惨さを訴えるのではなく戦争行為を徹底的にバカにしているのだ。
戦争をバカにしてしている映画は「M★A★S★H マッシュ」を初め案外とあるのだが、本作はまるで舞台劇を見ているような気分にさせてくれるファンタジー性も有している点を僕は評価する。
本来まともであるはずの英軍司令官や兵隊たち、独軍の司令官や兵隊たちまでもどこか滑稽である。
本当にまともなのはアラン・ベイツが演じる通信隊ハト班のブランピックだけなのだが、最後にはあちらの世界が狂っているのだという患者達の方がまともなのだと訴えている。
部下を何人も危険な目に合わせられないという将軍の意見で、ブランピックはフランス語が出来ると言うだけで一人で時限爆弾の撤去に行かされる。
ブランピックは戦争の一パーツでしかない。
ドイツの将校も簡単に射殺されるが、射殺が間違いだったことが分かっても「勲章をやっておけばよい」と言われる始末で、彼も戦争の一部品でしかないことを物語っている。

町が爆破されることが分かり住民がが逃亡し、ドイツ兵も撤退してもぬけのからになった町に取り残されたのは精神病の患者たちと、サーカス団の動物たちだけとなってしまい、彼らは町中に繰り出し思い思いの役を演じる。
司教になる者、軍人になる者、貴族になる者、美容師になる者、娼館のマダムになる者などになった者が繰り広げる騒動はまるでカーニバルのようで、彼等の生き生きとした姿は不思議な魅力を発散する。
思い思いの衣装に着替え、それらになりきって振舞う彼等の姿はファンタジックで、自転車を乗り回すシーンや、彼等が再び病院に戻っていくシーンなど、まるで童話の世界を見ているようだ。
彼らが発する言葉がどこか哲学者を思わせるものなのは、見ている我々が俗世間にいるせいに違いない。
狂人を演じた多くの役者達が生き生きと演じていて微笑ましい。
最後に閉じ込められているはずの狂人の一人がつぶやく「旅はいつでもできる、この窓さえあれば・・・」は心に響いたなあ。
あちらの世界がおかしいのか、こちらの世界がおかしいのか混とんとしてくる。
現実の紛争においても、一方の正義はもう一方から見れば悪で、それぞれの主張がぶつかって武力衝突が起きていることを思えばそれも当然かもしれない。
患者たちは町の入り口で立ち往生して「町の外には怖いものがたくさんあるから」という理由で、それ以上は一歩も動かないのだが、彼らの意見は間違いのないことだ。
彼等はあまりの狂気の沙汰に幻滅し「芝居は終わった、病院へ戻ろう」と言い始めるのだが、これだとどちらが精神を病んでいるのか分かったものではない。

ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドは、なぜかその名前を覚えている女優さんである。
可愛かったからか、この作品によってなのか記憶は定かでないが、僕にとっては忘れることのない名前となっているのが不思議で、理由は今もって分からない。
それにしても、ここまで戦争をバカにした映画も数少ないのではないか。
かくれた名作と言うには著名すぎるが、間違いなく映画史に残る作品だと思う。

まほろ駅前多田便利軒

2020-04-17 11:01:02 | 映画
「まほろ駅前多田便利軒」 2011年 日本


監督 大森立嗣
出演 瑛太 松田龍平 片岡礼子
   鈴木杏 本上まなみ 柄本佑
   横山幸汰 大森南朋 高良健吾
   松尾スズキ 麿赤兒 岸部一徳

ストーリー
東京から神奈川へ突き出るように位置する街“まほろ市”は都会でもなければ田舎でもない。
そんな街の駅前で便利屋“多田便利軒”を営むバツイチ男、多田啓介は淡々と仕事をこなす真面目なしっかり者だが、ある年の正月、客から預かったチワワに逃げられてしまう。
やがてバス停で見つけたチワワを抱く男は、中学時代の同級生・行天春彦だった。
行天と一緒にチワワを返しに行く多田だったが、依頼人は既に夜逃げ。
所在を突き止めたものの、新しい飼い主を探すよう頼まれてしまう。
さらに、半ば無理やり行天が多田の家に居候することになり、多田と行天、そしてチワワの奇妙な共同生活が始まる。
3月になり、自称コロンビア人娼婦ルルとルームメイトのハイシーがチワワの引き取りを申し出てくる。
多田はそれを断るが、行天は条件付きでチワワの受け渡しを約束してしまう。
行天の勝手な行動に苛立つ多田だったが、“犬は必要とする人に飼われるのが一番幸せだ。”という彼の言葉に心を動かされる。
6月。小学生、由良の塾の送迎を依頼された多田と行天。
親の愛情に飢える由良は当初、生意気な態度を見せるが、次第に2人になついていく。
その傍ら、由良が密かに覚せい剤の運搬に関わっていることを知った多田は、元締めの星と取引して由良を解放。
8月になると、行天の元妻、三峯凪子が現れ、多田は彼の秘密の一部を知る・・・。


寸評
掛け合い漫才の様な二人の会話が絶妙で、微妙な間でそれぞれの感情を表現する静かな映画だ。
派手さのないゆるい雰囲気のコメディといえるような作品ともいえる。
思わずクスクス笑ってしまう会話が多い中で、唯一大笑いをしたのが瑛太の多田が「何じゃこりゃ~!」と叫んで、行天の松田龍平が「誰それ?」と返すシーン。
ある世代の判る人には分かる松田優作を思い出させる楽屋オチ的な場面だった。
二人のキャラがすべてと言っていいほどの作品で、節度を守ってマジメに仕事をする多田(瑛太)と、それに対していい加減で強引な行天(松田龍平)の対比が面白い。

彼等はいつもふざけているわけではない。
いざという時には二人とも熱くなり、マジに行動して含蓄のある言葉を発したりする。
その言葉は説教臭さがなくてスンナリと耳に入る。
二人が処理するのは、依頼事項は簡単なものなのに、それが困ったものになってしまうものばかり。
預かったチワワの飼い主は夜逃げしてしまい、新しい飼い主を探すことになる。
戸の修理を依頼された売春婦にはDV男がいて、それを撃退するハメに陥る。
そして塾の迎えを依頼された小学生は、なんとヤクの運び屋だったというあんばいだ。
それらの漫画的なエピソードにしんみりとした話をからませゆったりしたテンポで物語が進んでいく。
カメラもどっしりと構えてその静けさを後押ししていた。

チワワの預け主である母親の所にいる女の子を連れ出す時に見せる行天の機転のきいたやり方で、この男がチャランポランでありながら、事に望めば見事な適応力を持っていることを我々に知らしめる。
多田の女の子を諭す言葉から、この男もチャランポランに見えてその実、真面目な男なのだと思わせる。
ワンシーンで二人の性格を表すテクニックも決まっていたように思う。

母からの愛に乏しく、ヤクの運び屋をやっている小学生の由良に多田が言う。
「人生をやり直せることは少ないが、しかし誰かを愛することは出来るし、自分が得られなかったものを人に与えることも出来る」
多田と行天にとって自分が得られなかった最大のものが愛だったのだと思った。
彼等はそれを人に与えようとしていたのだろう。
ある事件が起きて二人の背負った闇が明らかになり、彼らはそれに向き合うことになって、彼等に係わる人々を絡めて、人生の苦しさや悲しみ、特に親子関係を中心とした人間関係の難しさが描かれる。
二人は係わった人々の親子愛に否応なく触れることになる。
そして、多田、行天の二人にとっても親子の愛が覆いかぶさってきて、冒頭に行天が棄てた包丁の理由も判別する。なかなか練られた脚本だと感じさせた。
それでいながら、見ている間は多田便利軒ワールドに浸れるが、時間が経つとあまり残像が残っていない映画でもあった。終始一貫して静かに進んで行った作品であったことによるものなのかも知れない。
大森監督の父親の麿赤兒と弟の大森南朋が顔を出しているのがご愛嬌。

瞼の母

2020-04-16 10:19:16 | 映画
「瞼の母」 1962年 日本


監督 加藤泰
出演 中村錦之助 松方弘樹 大川恵子
   中原ひとみ 木暮実千代 山形勲
   原健策 夏川静江 浪花千栄子
   沢村貞子 阿部九州男 三沢あけみ

ストーリー
番場の忠太郎(中村錦之助)は五歳の時に母親と生き別れになり、それから二十年、母恋いしさに旅から旅への渡り鳥で、風の便りに母が江戸にいるらしいと知ったが、親しい半次郎(松方弘樹)の身が気がかりで、武州金町へ向った。
親分笹川繁蔵の仇、飯岡助五郎(瀬川路三郎)に手傷を負わせた半次郎は、飯岡一家の喜八(徳大寺伸)らに追われる身で、生家のある金町には半次郎の母おむら(夏川静江)と妹おぬい(中原ひとみ)がいる。
わが子を想う母の愛に心うたれた忠太郎は、喜八らを叩き斬って半次郎を常陸へ逃がした。
その年の暮れ、母を尋ねる忠太郎は母への百両を懐中に、江戸を歩きまわった。
一方、飯岡一家の七五郎(阿部九州男)らは忠太郎を追って、これも江戸へ出た。
仙台屋(明石潮)という貸元に助勢を断られた七五郎らに遊び人の金五郎(原健策)が加勢を申し出た。
金五郎は、チンピラ時代からの知り合いで、今は料亭「水熊」の女主人におさまっているおはま(木暮実千代)を訪ねたが、おはまの娘お登世(大川恵子)は木綿問屋の若旦那長二郎(河原崎長一郎)と近く祝言をあげることになっているので、おはまは昔の古傷にふれるような金五郎にいい顔をしない。
おはまの昔馴染で夜鷹姿のおとら(沢村貞子)も来た。
おとらから、おはまが江州にいたことがあると聞いて、忠太郎は胸おどらせながら「水熊」に入った。
忠太郎の身の上話を聞き、おはまは顔色をかえたが、娘を頼りの今の倖せな暮らしに、水をさして貰いたくないから、「私の忠太郎は九つのとき流行病で死んだ」と冷たく突き放した。
カッとなって飛び出した暗い気持の忠太郎を、金五郎一味が取り囲んだ。
「てめえら親はあるか。ねえんだったら容赦しねえぜ」と、忠太郎は一人残らず斬り伏せた。
一方、お登世と長二郎に諌められたおはまは、忠太郎の名を呼びながら探した。
「兇状もちの兄貴がいては、妹のためになりません。このままお別れします。おッ母さんに逢いたくなったら瞼をとじ合わせ、じっと眼をつぶります」といいながら、男泣きの忠太郎は風のように去っていった。


寸評
「上の瞼と下の瞼をぴったり閉じりゃ・・・」と母親を思い浮かべる典型的な母恋ものである。
幼い頃に生き別れた母親を探す話だが、なぜそんなにも母親を恋しがっているのかの説明はない。
母親のおはまは再婚しているが亭主は死亡していて、どのような経緯で夫婦になったのか、どのような夫であったのかも描かれていない。
母親のおはまは中居をして苦労したようだが今は立派な料理屋を営み成功しているが、その経緯も描かれていないので、金五郎やおとらとのかつての関係も想像するしかない。
文字が掛けない忠太郎が半次郎の母親に紙切れに字を書くのを手伝ってもらうシーンは見せ場の一つだが、それなら母親に代筆してもらえばいいじゃないかと思ったりする余地を含んだ、戯曲が原作らしい作品である。
突っ込みどころでいえば、飯岡から金を得るつもりで金五郎と共に忠太郎に挑んだ浪人(山形勲)が、飯岡一味が全滅しているにもかかわらず忠太郎と対決しているのも変だ。
金をもらう相手が全滅していたら戦う意味がないじゃないかと茶々を入れたくなる。
もっとも、そんなあら捜しをするのは野暮と言える作品でもある。

一番の見せ場はやはり忠太郎と母親のおはまとの対面シーンだ。
これを加藤泰はカメラをローアングルに構えた長回しでとらえ続ける。
カットが代わっても再び長回しとなる。
まるで舞台劇を見ているような大芝居が続く。
おはまは忠太郎を認めてやりたいが、お登世の祝言が近く、ヤクザの兄がいては婚礼に差しさわりがあると思い追い返してしまう。
忠太郎が出ていったあと、彼が座っていたところに手が行き、母親のおはまは忠太郎の体温を感じる。
中村錦之助もいいが、この時の木暮実千代は上手いなあと思わせる。

忠太郎が金五郎と浪人と対峙するのが跳ね橋につながる川沿いの道である。
ここで跳ね橋がバタンと倒れ飯岡一味が現れる。
この橋がすごく良い雰囲気を出していて、美術デザイナー稲野実さんの労作だと思う。
連中を斬り倒したあと、追いかけて来た母と妹を見て、忠太郎は木陰に身を潜める。
ここから、エンドマークが出るまでの約5分間が最後の見どころとなる。
お登世の結婚相手が「忠太郎さん!」と呼び、お登世も「兄さん!兄さん!」と叫ぶ。
ついにおはまも「忠太郎!忠太郎!」と呼びかける。
そう呼ぶのを聞いて、忠太郎は感極まり、合羽で顔を覆い、「おっかさん……、妹……」とつぶやき、涙を流すがこれは嬉し涙である。
忠太郎は飛び出していきたい気持ちを抑え、また涙を流すがこれは悔しさと悲しみの涙である。
忠太郎の特大アップは彼の万感胸に迫る思いを表わして、見る者を引っ張り込む。
最後にロングショットで橋を渡って行く忠太郎の姿をシルエットで映しエンドマークがでる。
オーソドックスな股旅ものだが、ヤクザな男の心の内はこの後に撮られた「沓掛時次郎 遊侠一匹」に凝縮されていく。