おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

拝啓天皇陛下様

2024-01-31 07:18:37 | 映画
「拝啓天皇陛下様」 1963年 日本


監督 野村芳太郎
出演 渥美清 長門裕之 左幸子 中村メイ子
   高千穂ひづる 藤山寛美

ストーリー
山田正助(渥美清)はもの心もつかぬうち親に死別し世の冷たい風に晒されてきたから、三度三度のオマンマにありつける上、何がしかの俸給までもらえる軍隊は、全く天国に思えた。
意地悪な二年兵(西村晃)が、彼が図体がでかく鈍重だからというだけで他の連中よりもビンタの数を多くしても大したことではなかったが、ただ人の好意と情にはからきし弱かった。
入営した日に最初に口をきいてくれたからというだけで棟本(長門裕之)に甘えきったり、意地悪二年兵に仇討してやれと皆にケツを叩かれても、いざ優しい言葉をかけられるとフニャフニャになってしまう始末だった。
だが、中隊長(加藤嘉)の寄せる好意には山正も少々閉口した。
堀江中隊長は営倉に入れられれば一緒に付き合うし、出て来れば柿内二等兵(藤山寛美)を先生にして読み書きを習わせるのであった。
昭和七年大演習の折、山正は天皇陛下の“実物”を見た。
期待は全く裏切られたが、この日から山正は天皇陛下が大好きになった。
戦争が終るという噂が巷に流れ出すと、山正は天国から送り出されまいとあわてて「拝啓天皇陛下様」と、たどたどしい手紙をかこうとした。
が、それは丁度通り合わせた棟本に発見され、危うく不敬罪を免れた。
まもなく戦況は激化、満州事変から太平洋戦争へと戦線は拡がり、山正はその度に応召し、勇躍して戦地にむかった。
そして終戦、山正はヤミ屋をしたり開拓団に入ったりの生活をしていたが、懐かしい棟本を訪れた。
ところが、同じ長屋に住む未亡人(高千穂ひづる)に失恋した日から山正は姿を消した・・・。


寸評
日本の戦争映画は新兵が古参兵にいじめられるシーンを描くことで、軍隊はひどいところだと繰り返し描いてきたが、本作はそれとは真逆の作品である。
軍隊生活は、食うや食わずの元農民にとっては極楽だったという視点で描いているのだ。
幼い頃からの食うや食わずの苦しい生活に比べれば、地獄のような軍隊の訓練も楽なもので、おまけに村では正月だけ食べることができた白いオマンマが朝晩食べられる軍隊ほど結構なところはない。
何とかいつまでも兵隊でいられないもこかと考えた時、「そうだ、軍隊で一番偉い人、大元帥陛下に手紙でお願いしよう」となるというものである。
天皇は極楽をもたらしてくれる尊敬の対象で、イデオロギーから来ているものではない。
極楽だった軍隊に馴染みすぎた為に、戦後の日常に適応できなかった滑稽さを、もっと上手く描いていたら傑作喜劇になっていたのではないかと思う。

この作品は軍隊はあくまでも彼等が属していた社会の一部としての存在で、描かれているのはヤマショーこと山田正助と棟本の友情物語である。
人のよい彼等も古参兵となると新兵イビリをやらかすようになっているが、彼等のキャラクターや描かれている内容からして陰湿になるまで描かれることはない。
今まで彼等をいじめていた原一等兵も除隊する時には善人となって彼等と仲良く別れていくのだ。
ヤマショーがいざ除隊という時になって、覚えたての字で「ハイケイテンノウヘイカサマ」と天皇に軍隊に残してもらえるように手紙を書くところなどは、彼の悲惨な生活を想像させるに十分なのだがチョット物足りないかな。

ヤマショーこと山田正助の物語を戦友・棟本の視点から描いているが、その描かれている内容は男の友情の一つの美しい姿である。
戦地で死線を共にした戦友としてではない、ある時期を一緒に過ごした者の友情だ。
終戦後、浮浪者のような格好の山田が現れ、棟本夫婦は同居させてやっている。
ちょっとしたことで山田は追い出されてしまうが、やがて再会しまた交流を深める。
山田は失恋して姿を消すが、結婚相手が見つかり棟本夫婦に仲人を頼みに来る。
羨ましいような友人関係であるが、しかし結末は悲しい。
棟本は酒に酔った山田がトラックにはねられて死亡した死亡記事を目にする。
そして「背景天皇陛下様、あなたの最後のひとりの赤子がこの夜戦死をいたしました」とつぶやく。
多くの国民を天皇陛下万歳と叫ばせて死なせた軍国主義へのささやかな批判だろう。
戦争(軍隊)を扱っていながら、野村芳太郎監督はそれを前面に押し出すことのない喜劇に仕上げているのだが、風刺喜劇としては少し力感に欠けているように感じる。
一人の心優しい孤独な男を通した人間喜劇として、題名と共にではあるが記憶に残る作品だと思うが…。
でも、あの柿内二等兵という先生役は藤山寛美という天才喜劇役者である必要があったのかなあ。

僕等のような年代の者にとっては、中村メイコ、桂小金治、若水ヤエ子などのバイプレーヤーを見ることが出来るのは懐かしいし、街の人として山下清画伯が登場しているのはちょっとした驚きだ。

パーマネント野ばら

2024-01-30 07:01:12 | 映画
「パーマネント野ばら」 2010年 日本


監督 吉田大八
出演 菅野美穂 小池栄子 池脇千鶴 本田博太郎
   加藤虎ノ介 山本浩司 ムロツヨシ 霧島れいか
   汐見ゆかり 田村泰二郎 畠山紬 佐々木りお
   宇崎竜童 夏木マリ 江口洋介

ストーリー
海辺の町にある唯一の美容室“パーマネント野ばら”は、離婚して一人娘のもも(畠山紬)を連れて出戻ったなおこ(菅野美穂)と、その母まさ子(夏木マリ)が切り盛りしている。
町の女たちはここに集っては、甲斐性なしの男たちへの不満やグチをぶちまけ合う。
まさ子の夫カズオ(宇崎竜童)は、他の女の家に入り浸っている。
なおこはカズオに家に戻ってくるよう言いに行くが、むちゃくちゃな理屈で断られる。
なおこの2人の友だち、みっちゃん(小池栄子)とともちゃん(池脇千鶴)も男運は最悪。
みっちゃんは、フィリピンパブを経営している。
その夫ヒサシ(加藤虎ノ介)は店の女の子と浮気をしては、みっちゃんに金の無心ばかりしているのだが、みっちゃんは怒りながらも突き放すことが出来ない。
今度の浮気は愛があるのではないかと疑ったみっちゃんは、ラブホテルから出てきた浮気相手を車で轢き殺そうとするが、浮気相手をかばった夫とともに重傷を負ってしまう。
2人は病院でも罵りあって大暴れするが、みっちゃんはまた夫の金の面倒を見てしまう。
なおこのもう1人の友人ともちゃんは、ギャンブルに溺れたあげく行方不明となった夫の身を案じる日々を過ごしている。
ある日なおことまさ子は、ゴミ屋敷に住む老夫婦の髪を切りに行く。
その帰り道、廃人のようになり果てたともちゃんの夫ユウジ(山本浩司)と出会う。
ユウジはスロットのコインを、ともちゃんに渡すようなおこに託す。
その後、ユウジは帰らぬ人となって発見される。
なおこは、高校教師カシマ(江口洋介)とデートを重ねていたが、しかしその恋には秘密が隠されていた。


寸評
西原理恵子ワールドなのだろうが、出てくる女性はダメ男に悩まされながらもたくましく生きる女性たちばかり。
漁村の美容室にはそんな女性が集まっているのだが、話題はもっぱら男のことばかり。
おばちゃん達はチンポコの話をネタにして盛り上がっているし、やったもん勝ちとばかりに腕ずくで男をものにしている強者のおばちゃんもいる。
美容室の経営者のまさ子のダンナも家出して、美容院の客でもある別のおばちゃんの所に居ついている。
このダンナは再婚相手らしく、娘のなおこは「お父さん」と呼んだことがなくオジサンと呼んでいる。
そのなおこも離婚して、子ずれで実家の美容院に戻ってきている身である。

幼なじみで小さい時からずっと一緒に遊んできた友達のみっちゃんはフィリピンパブを経営しているが、夫は浮気性で店の女と出来ている。
みっちゃんは夫のヒサシにぞっこんなので、浮気の相手女性に突撃するが見事に失敗する。
「そんなにまで俺を愛していてくれたのか?」というギャグが笑わせる。
とにかくバカバカしくて笑ってしまうシーンが続出である。
電柱をチェーンソーで切り倒して薪として売ってしまい、電線も銅線として売り飛ばして金に換えているオヤジなどバカげた話もてんこ盛りだ。

もう一人の幼馴染のともちゃんも男に苦労していて、旦那はギャンブル狂で行方不明のところを、なおこに発見されるのだがみじめな姿。
そもそも、ともちゃんは次々と男を変えて付き合ってきたのだが、全員がともちゃんを足蹴にして別れていっているのである。
出てくる男という男はダメな男ばかりで、チョイ役の男でさえダメ男として描かれている。
したがって女たちはひどい状況に置かれているのだが、彼女たちはけっしてめげない。
何度ダメ男に引っかかっても、恋なしに生きられないわが身を熟知して、ひたすら前向きに生きていく。

周囲の女たちがたくましくバトルを繰り返しているのに、なおこの菅野美穂だけが高校教師のカシマと静かな愛をはぐくんでいる。
別れたダンナから娘のももにかかってくる電話に困っているが、他の女性に比べるとまだましな方である。
しかしカシマとの温泉旅行あたりで、この恋の裏が感じとれてしまうのは、ちょっと早すぎたような気がする。
学校の階段で女子高生が振り返った理由が明かされるなど、細かい演出もあっただけにちょっと残念。
最後のシーンで、なおこはともちゃんに「カシマと付き合ってるのを話したっけ」と問いかけると、ともちゃんは「何度も聞いたよ」と答え、みっちゃんはまさ子に「なおこは海辺でデート中」と応じている。
明るくなるシーンなのだが、もう一工夫あればもっとジーンときたと思うのだがなあ・・・。

女性陣はいい演技を見せていて、菅野美穂、小池栄子、池脇千鶴、夏木マリという4人の女優たちが映画を支え、美容室に集まるオバチャンたちもいい味を出していた。

ハーヴェイ

2024-01-29 07:17:39 | 映画
「ハーヴェイ」 1950年 アメリカ


監督 ヘンリー・コスター
出演 ジェームズ・スチュワート ジョセフィン・ハル
   ペギー・ダウ チャールズ・ドレイク
   セシル・ケラウェイ ヴィクトリア・ホーン
   ジェシー・ホワイト ウォーレス・フォード

ストーリー
米国中西部の小さな町グレンドーラ。
当地の名門ダウド家の主人エルウッドは、ハーヴェイと称する6フィートの白兎と大の親友であると自ら信じ込んでいる。
会う人毎に名刺を渡そうとし、この親友を紹介したがるので、彼と同居している姉のヴィタや彼女の娘マートル・メエは大いに閉口している。
ヴィタは、マートル・メエの婿探しに適齢の男性がいる婦人の茶会を催したが、エルウッドがチャーリーの酒場でいい御機嫌になって帰宅して兎を紹介しはじめたので、婦人たちは気味悪がって早々に退散してしまった。
ヴィタは遂に彼を精神病院に入れることにしたが、病院の若い医師サンダースン博士はヴィタの説明することが支離滅裂だったのでヴィタを患者と間違えた上、エルウッドにすっかり共鳴してしまった。
院長チャムリー博士はエルウッドが帰ってからやっと彼が狂人であることに気づき、ヴィタを釈放する一方でサンダースン博士をクビにしてチャーリーの酒場に彼を追って行くが、これまたすっかりハーヴェイ党になって馴れぬアヴァンチュールにまで発展した末、兎の幻想に追われながら帰院した。
看護人ウィルスンはエルウッドを探してダウド家を訪問するが、そこでメエはウィルスンといい仲になる。
一方エルウッドは酒場でサンダースン博士と看護婦ケリーを結び付けてやったのだが、ウィルスンに発見されて病院へ連れ戻され、ヴィタの願いで幻想の消える注射を打たれることになった。
しかしこの時乗ってきたタクシーの運転手から幻想の消えた患者が如何に平凡な人間になるかを聞いて、彼女も初めてエルウッドの良さを悟った。
入院はおろか注射も中止して、彼女とエルウッドは、見えざるハーヴェイともども心楽しく帰宅した。


寸評
この作品をコメディのジャンルに入れるとすれば、姉や姪がエルウッドを精神病院に入院させようとするシーンが最もそれらしいのだが、僕にはとてもこの作品をコメディとは思えなかった。
担当医としゃべっているうちに、医者は姉のほうを患者だと勘違いし強制入院させるくだりである。
間違いが分かり姉のヴィタは帰宅してくるが、病院で受けたひどい仕打ちをぶちまける。
病院が彼女を患者として扱ったための行為なのだが、彼女からすれば衣類をはぎ取られ水風呂に入れられるという、まるで娼婦に対する扱いを受けたとスゴイ剣幕なのである。
勘違いから生じた滑稽話で愉快な内容となっている。
しかしそれ以外は、彼が他の人には見えない大きなウサギのハーヴェイと一緒にいることで、他の人から気味悪がられるエピソードと、何処までも純真で穏やかで物事にポジティブなエルウッドと、そうではない人々とのすれ違いによる騒動を描いているだけである。
しかもエルウッドの性格を反映して、実にゆったりとした、ほのぼの感に満ちたシーンが続くので、作品は大笑いといった風ではない。
エルウッドはハーヴェイを隠しもせず閉じ込めもしない。
カウンターに座って隣にいるハーヴェイに話しかける。
バーにいた客は気味悪がって出て行くが、バーテンはいつものことだから気にしない。
そんなシーンが手を変え品を変えて繰り返されるが、僕はさして面白いとは思わなかった。
どうもアメリカ人と僕の間にはジョークに対する感性の違いが横たわっているように思う。

エルウッドの説明によるとハーヴェイはプーカである。
プーカはケルト神話にある動物の姿をした妖精で、特に変人・奇人が好きだということである。
エルウッドは決して変人・奇人ではない。
長年精神病院に患者を運んでいるタクシーの運転手はヴィタに、「病院に来る前は回りを見渡して素晴らしい光景を発見し、非常に優しくチップもくれた人が、治療を受けた後は横暴になって運転に文句ばかりを言うようになり、チップもくれなくなる」と言う。
それを聞いてヴィタはハッと気がつき、「弟は気が違っているのではない、犯罪を犯したわけでもない、白いウサギが見えると言っているだけだ。ウサギがみえているままで人をハッピーにする人間であるほうが、よほどまともな人間ではないか」と思い直す。
しかし、どうもこのヴィタにもハーヴェィが見えていたようなのである。
彼女はハーヴェイを否定しているのではなく、白いウサギがのさばって家を占拠しているみたいで気味が悪いから、ハーヴェイをどうにかしろと主張しているのだ。
病院の医院長もハーヴェイが見えだす。
彼も素直な気持ちになり、心に秘めたことをハーヴェイに聞いて欲しいと思うようになる。
目に見えない存在に話しかけるのはエルウッドだけではない。
亡くなった父や母、妻や夫や友達、あるいは犬や猫にだって話しかけることってあると思うし、そういう行為をおかしいとは思わないだろう。
人は見えない者に語り掛けるような優しさを持つべきで、好かれる人間であるべきだと言っているのだと思う。

バード

2024-01-28 07:23:20 | 映画
「は」行になりますが、先ずは「は」から。

「バード」 1988年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 フォレスト・ウィテカー ダイアン・ヴェノーラ
   マイケル・ゼルニカー  サミュエル・E・ライト
   キース・デヴィッド   マイケル・マクガイア
   ジェームズ・ハンディ  デイモン・ウィッテカー

ストーリー
1954年9月1日、自殺を図り精神病院に収容されたバードの脳裏に、18年前、16歳の時の故郷カンサス・シティでの記憶、ヘロイン中毒死した父の遺体、そしてレノ・クラブでのコンテストでシンバルを投げられた屈辱が蘇る。
それから8年後の43年、ニューヨークの52番街のクラブで<ビ・バップ>を創始して成功を収めつつあるバードの演奏に、観客は熱狂している。
その頃彼はダンサーのチャンと出会い、バードの音楽にはひかれてもプロボーズには応じない彼女に、サックスを質に入れ白馬を借りて、仲間の演奏をバックに颯爽とチャンを迎え、これによって彼女のハートを射止めた。
やがて彼らは西部に進出するが、そこではビ・バップは侵略者扱いされ、バードは酒浸りとなり入院、そんな彼が再びニューヨークで仕事に戻れたのはチャンの奔走のおかげだった。
49年はバードにとって飛躍の年となった。
パリでのコンサート、「バードランド」の開店、白人トランペッター、レッド・ロドニーを仲間に引き入れた南部の演奏旅行で成功を収めるが、レッドが麻薬捜査官に逮捕され、ニューヨークで仕事がしにくくなりロスに旅立った頃から、バードに影が差し始める。
娘ブリーの死、そして半年後には自殺未遂を企てた。


寸評
ジャズは僕が好きな音楽のジャンルの一つであるが、モダン・ジャズの父とも呼ばれるチャーリー・パーカーのことは全く知らない。
これはそのチャーリー・パーカーの伝記映画だが、出演者も内容も地味でチャーリー・パーカーを知らない僕はあまり楽しめなかった。
クリント・イーストウッドが音楽に造詣が深く、特にジャズが好きなのだろうなと言うのは感じられたが僕は作品に乗り切れなかった。
それでも演奏シーンだけは満足できるもので、夜のムードの中で映し出されていくライブハウスの雰囲気に酔いしれ、流れるジャズの調べを聞いているだけで楽しくなってくるのは音楽の持つ力だ。
それもそのはずで、演奏場面はチャーリー・パーカーのオリジナル音源からパーカーのサックス演奏だけを抜き出し、当時の若手ジャズ・ミューシャンによる演奏と合成したものを使用しているらしい。
チャーリー・パーカーの生き方は滅茶苦茶だ。
音楽で成功した人というより、麻薬とアルコールに依存して健康を損ない、幾度も精神病院に入院するなど破滅的な生涯を送った人という印象である。
それらを克服してモダン・ジャズというジャンルを確立した偉人物語ではなく、事実もそうだったのだろうが、才能が有りながら薬物で身を滅ぼして亡くなった人物を描いているようで気が滅入ってしまう。
カンザスシティで過ごした少年時代、チャン・リチャードソンとの結婚、麻薬使用による警察の追及、精神病による入院生活、人気を博す演奏場面などが入り乱れるように描くとによって、チャーリー・パーカーの人物像を浮かび上がらせようとしているようだ。
自分の楽器を質に入れ、その金で白馬を借りてチャンにプロポーズするような楽しい場面もあるのだが、全体としてはそのエピソードも覆いつくしてしまうほど暗く感じる。

音楽は時代と共に変化している。
我が国においても、もてはやされる音楽はその時々によって違っていて、そのたびに新しい呼び名で呼ばれる音楽が流行してきている。
僕が物心ついてからでも、ロカビリーなるものが熱狂的に支持されたことがあったと思えば、グループ・サウンズというものが大流行した時期もあったし、それに飽きたのか次はフォークソング・ブームがやってきた。
ニュー・ミュージックと呼ばれる音楽も誕生した。
世相や人々の暮らしが、当時の若者たちが目指す音楽に大いに影響を与えてきたのだろう。
アメリカにおいては黒人たちが愛する音楽が歴史を生み出してきたのだろうなと感じた。
彼らの持つ感性が新たな音楽を生み出していったのかもしれない。
チャーリー・パーカーは偉大な演奏家だったのかもしれないが、後半で描かれていたのはやがて台頭してくるロックン・ロールだった。
チャーリー・パーカーにはその音楽が理解できなかったのではないかと思う。
後年、秀作を連発するイーストウッドだが、「バード」はまだその域に達していないように感じる。
映画作りの本数をこなしたせいか、歳をとってからの方がいい作品を撮るようになった。
2000年代に入るといい作品ばかりである。

眠狂四郎 無頼剣

2024-01-27 08:37:16 | 映画
「眠狂四郎 無頼剣」 1966年 日本


監督 三隅研次
出演 市川雷蔵 天知茂 藤村志保 工藤堅太郎
   島田竜三 遠藤辰雄 香川良介

ストーリー
眠狂四郎(市川雷蔵)は武部仙十郎(永田靖)から、大塩忠斎の残党が不穏な動きを企てていると聞かされた。
江戸一番の油問屋弥彦屋と一文字屋が押込み強盗にあい、町辻では角兵衛獅子兄妹、女芸人勝美太夫(藤村志保)なるものが現われ、不思議な火焔芸を披露しているが、これは大塩一味と関係があるというのが仙十郎の推測だった。
というのは、越後の地下水から油精製を研究した大塩忠斎・格之助父子が、その権利を一万両でゆずり貧民救済資金にしようと計画したが、義挙は商人の裏切りによって、挫折し、大塩父子が処刑されていたからだ。
その帰途、狂四郎は弥彦屋お抱えの用心棒、日下部玄心(遠藤辰雄)の一党に襲われた勝美を救った。
勝美は狂四郎の顔をみて格之助と似ていることに驚いた。
狂四郎は勝美から、一文字屋と弥彦屋を襲ったのは愛染(天知茂)と名乗る浪人一味で、中斎の恨みを晴らさんため、老中水野忠邦をも狙っており、しかも、格之助から油精製の図録を盗んだのは、一文字屋巳之吉(上野山功一)に命じられた勝美であり、商人たちは図録を盗んでおいて大塩を幕府に売ったのだと知らされる。
勝美はその後で自分の罪の深さを知って、巳之吉に恨みを返さんため動いているとも聞かされた。
勝美を銀杏長屋に送った狂四郎は、そこで愛染一味に襲われた。
愛染一味は図録を盗んだ勝美を殺そうと狙っていたのだ。
愛染と対決した狂四郎は、愛染が自分と全く同じ円月殺法を遣うことに驚き、勝負は持ちこされた。
亥の子祝いの日、愛染一味は弥彦屋と一文字屋を焼き払い、忠邦を襲った。
そこには狂四郎が待ちうけていた。
愛染と狂四郎の一騎打ち。
同じ円月がゆっくり廻っていった。


寸評
眠狂四郎シリーズは時代劇ではあるがチャンバラ映画と呼んでも良い作品だと思う。
そしてチャンバラ映画ファンを喜ばせるのは円月殺法と言う剣技が創造され披露されることである。
眠狂四郎の剣は道を究めるための武士の魂ではなく、業念のままに宿命をほとばせる非情の凶器にすぎない。
つま先三尺をさす下段の剣先が左から円を描くと、その暗い虚無の業念に誘い込まれる敵は、狂四郎が完全な円を描き切るまで持ちこたえられない。
それが絵空事だと分かっていても僕たちはその剣法に酔いしれるのである。
「大菩薩峠」の机竜之介がニヒルストであるのに対し、眠狂四郎はスタイリストである。
キザな言葉を吐いたりするし、女の衣服をその剣技ではぎ取ったりする。
この作品でも裸で寝かされている藤村志保のために、布団を切り取って身にまとえるようにしてやっている。
もちろん吹き替えではあるが、真っ裸の藤村志保が敵を逃れて川に飛び込むシーンが用意されている。
ちょっとしたお色気シーンで、思春期の僕などはそれだけでドキリとしたものだ。
お決まりの演出ではあるが、飛び込んだ波間の上に布団から切り取った布が舞い落ちるシーンがピタリと決まる。

眠狂四郎が活躍する時代は徳川11代将軍家斉の治世、水野越前守忠邦が西丸老中として台頭する頃とされていて、その知恵袋的存在の側頭役武部仙十郎の隠密的な存在というのが彼の立場だ。
映画では説明がないので、それが頭にないとご老体と称して接している人物と狂四郎の関係が理解できないし、
どうして狂四郎が資料保管所のような所に立ち入って大塩平八郎の乱を調べることが可能なのかも疑問を持つことになる。
狂四郎を手助けしている工藤堅太郎が演じる回り髪結いの小鉄という男の存在も納得できる。
単発でこの作品を見ると狂四郎側の人間関係がよくわからない。
観客はすべてお見通しなのだということが前提となっているような脚本で、眠狂四郎ファンの作品ともいえる。
今回の見所は、狂四郎に敵対するのは愛染と言う浪人なのだが、この浪人が狂四郎と同じ円月殺法を使うという点にある。
もちろん愛染の天地茂も狂四郎に劣らぬ使い手だ。
プログラムピクチャの一作だが、セットはしっかりしているしカメラアングルなども職人技を感じさせる。
三隈研次は単純娯楽作品ばかりを撮った監督だが、ツボを押さえた演出で安心感を与える職人監督だと思う。

石油精製の利権が背景にあるので、最後にはその石油が大爆発を起こし火災が発生する。
火災現場のスペクタクルは描かれず、2軒で起こった火災の火柱を背景にして大屋根で展開する立ち回りが最後の見どころだ。
勝負の行方は分かっているものの、それを感じさせない緊迫感を生み出すのも三隈研次の職人技だ。
愛染が子供になつかれるキャラであることは冒頭で描かれているので、竹細工のエピソードが生きてきて、竹人形のようなものが屋根の上を滑り落ちるシーンが美しい。
それを子供に届けることを暗示しながら炎に照らし出される狂四郎の顔が赤く染まっていくところでエンドマークが出るのが雰囲気を出していた。
五社がまだまだ作品を量産していた時代の作品を感じ取るのには適した作品だと思う。

猫は逃げた

2024-01-26 08:43:19 | 映画
「猫は逃げた」 2021年 日本


監督 今泉力哉
出演 山本奈衣瑠 毎熊克哉 手島実優 井之脇海
   中村久美 伊藤俊介 芹澤興人

ストーリー
レディスコミックでエロティックな漫画を描いている亜子(山本奈衣瑠)と、作家志望だったが結婚を機に週刊誌記者の仕事に就いた広重(毎熊克哉)は今や離婚間近の夫婦。
夫婦関係は冷え切っていて亜子は離婚届に署名するが、飼い猫カンタの親権問題が残っていた。
広重の勤め先には、亜子との離婚の原因となった浮気相手の若いカメラマン真実子(手島実優)がいた。
亜子担当の編集者である松山(井之脇海)は、亜子に好意を持ち肉体関係があった。
カンタには近所の住人の飼い猫ミミという恋猫がいた。
真実子は「猫なんかあげちゃえばいいじゃないですか」と言うが、広重は未練があるように首を縦に振らない。
真実子は煮え切らない広重に、亜子のほうも浮気しているのではないかと言い、離婚話が進まないのなら弁護士でも雇えばいいと話す。
亜子の原稿を受け取りにやってきた松山と亜子がベッドになだれこんだところ、カンタは開いていた窓から外へ出ていき、それを最後に戻ってこなくなった。
カンタがいなくなったものの、広重が離婚もしないので真実子はあきれていた。
仕事終わりに広重から誘われた真実子は従姉妹が家にいるからと帰っていった。
しかたなく帰宅した広重が家でお茶漬けを食べていると、亜子が漬物を出した。
松山が漬けた漬物だと話す亜子に広重は関係を問いただそうとしたが、けっきょく言えずに終わってしまった。
亜子は食後の広重に地酒を勧め、亜子と広重はカンタを拾った日のことを思い出していた。
広重が逃げようと思っていたと話し、亜子もそれに気づいていたと言う。
「私、結婚できてよかった」と言った亜子の足がつり、広重は要領よく亜子を介抱する。
一方、カンタは意外なところにいた。


寸評
ありそうな浮気話である。
これは私の想像ではあるが、たぶん広重は家庭を壊す気持ちなどなかったのだろうが、浮気相手の女性が本気になってしまったように思う。
気の強い妻はそれを知ってそれなら私もやってやると、若い男にモーションをかけて関係を持ったようにも思う。

映画監督が愛について語る場面がある。
彼は愛には3種類あり、一つはキリストの無償の愛アガペイであり、二つ目はアリストテレスの友愛フィリアで、三つめはプラトンの自己愛エロースであると言っている。
プラトニックラブはプラトンの愛ということで精神的なものと捕らえられがちだが、相手を追い求めるのがエロースなのだとも語っている。
劇中にこのような会話があること自体が面白い。
この映画はエロースの世界にいた男女四人を描いていたのだと思えてくる。

円満離婚に二人とも同意しているが、広重と亜子はそれぞれどこか未練があるのだろう。
その微妙な関係が見ていて微笑ましくもある。
ちょっとしたことで離婚話になってしまっているが、もともとは肩の凝らない間柄なのだ。
亜子はよく足がつるが、介抱にかけては松山よりも夫婦だった広重が長けていることで二人の関係を著している。
松山が亜子の介抱に至る経緯は爆笑もので、広重の場面への伏線となっている。
二人の間に隙間風が吹き、相手に対して不満がつのる様になっても、夫婦には二人で積み上げたものがある。
我慢を重ねている夫婦は別として、特に長年連れ添った夫婦ならなおさらだろう。
時間を前後する描き方も技巧的過ぎず適度なアクセントとなっている。

大詰めを迎え4人が対峙する場面が10分近い長回しとなっており、俄然盛り上がりを見せてきて面白い。
特に真実子の手島実優のタンカとも言える口ぶりに思わず笑ってしまう。
亜子の山本奈衣瑠との掛け合いも抜群の間合があり、松山の井之脇海も加わり上質のコントを見ているようだ。
女の強さを見る思いがするのだが、そこにいくとこのような場面になると男は情けない。
広重は何も言わないし、松山も影が薄い。
亜子と広重がハモってしまうところなんか大笑いである。
それを見て松山は亜子を諦めてしまうという傑作シーンの一つとなっている。
修羅場のシーンだが、ユーモアに満ち溢れていてシリアスだった映画が喜劇に転換していて、その変化が小気味よい。
そこから先は想像の範囲だし、後日談も予想された内容であるが、まとめとしては良かったのではないか。
猫も逃げ出す人間関係だが、「猫が逃げた」ではなく、「猫は逃げた」としたタイトルの妙がうかがえる。
ネコのカンタとミミは中々の役者ぶりであった。
ミミが亜子の家に来た時のジャレ具合とか、カンタとミミが再会する場面など気持ちをくすぐられる。
動物プロダクションの実力を知らされた。

ニンゲン合格

2024-01-25 07:04:34 | 映画
「ニンゲン合格」 1999年 日本


監督 黒沢清
出演 西島秀俊 役所広司 菅田俊 りりィ 麻生久美子
   哀川翔 大杉漣 洞口依子 鈴木ヒロミツ 豊原功補

ストーリー
14歳の時に交通事故に遭い、昏睡状態が続いていた豊が10年の眠りから突然覚めた。
しかし、彼を出迎えたのは懐かしい家族ではなく、藤森という風変わりな中年男だった。
産廃処理業を営む藤森は豊の父・真一郎の友人で、離散した豊の家族に代わって数年前から東京郊外にある豊の家の一部を釣り堀に改造して暮らしているらしい。
藤森に連れられて、すっかり変わり果てた家に帰る豊。
彼は心のリハビリを兼ねて、かつての友人たちに会って失われた時間を取り戻そうとするが、既に成人している友人たちとの溝は埋められる筈もなく、ひとりやりきれなさに苛まれるばかりであった。
そんなある日、一頭の馬が豊の家に迷い込んできたので、豊は藤森に頼んでその馬を買い取り、かつて豊の家が経営していたポニー牧場を作り始める。
暫くすると、今は宗教活動をしている父やアメリカへ留学している筈の妹・千鶴が恋人の加崎と共に帰ってきた。
しかし、10年ぶりの家族の再会はどこかぎこちなく、数日後、彼らは再び家を出ていってしまう。
また、千鶴から母・幸子の住所を聞いた豊は、父と離婚し自立している母に会いに行くも、どうやら彼女には一緒に生活している誰かがいるようだった。
豊の努力が実りポニー牧場が完成し、それに合わせるかのように千鶴や幸子が戻ってきた。
父はアフリカに行ってしまったが、再び家族がひとつ屋根の下で生活を始められたことに豊は満足であった。
ある晩、家族でテレビを囲んでいると、アフリカへ向かう船の沈没を伝えるニュースの中に父親の名前が流れ、
心配する豊たちだったが、暫くして父の無事が確認されホッと胸を撫で下ろす豊たち。
しかし翌日、千鶴も幸子も再び家を出ていってしまう。
その上、豊を事故に遭わせた室田という男が、豊の幸せをやっかみ牧場を滅茶苦茶にしてしまった。
全てを破壊された豊は、10年間のブランクを埋めることばかりを考えて現実を見なかったと気付く。


寸評
14年間のj空白から帰ってきた豊は家族がバラバラになっていたことを知るのだが、彼が登場したことで再び家族が平和を取り戻すというような構成の作品は容易に想像できる。
それなら彼を行方不明にしておいて、何かの原因で帰宅させれば事済むわけだが、ここではあえて14年の昏睡状態から目覚めるという突飛な設定を講じている。
この設定の特異なことは彼の中で時間が欠落していることで、その事による世の中の変化を知らないでいること以上に彼の精神的成長を止めてしまっていたことだ。
豊は24歳という立派な青年のはずだが、留まっていた彼の幼児性は時に訳のない喧嘩を仕掛けたと思えば、道端に置かれた段ボールの山を踏みつぶす行為をしたり、衝動的に万引きを引き起こす。
生きる目的や希望は漠然としたもので、どこか無気力に見える時間を過ごさせているのも幼児性だ。
およそお目にかかれないような状況で登場した主人公を描いていく話はえてして重くなりがちだが、時にシュールなギャグを交えながら紡いでいく黒沢清の演出によって作品は肩の凝らないエンタメ性を生み出している。

豊の家族は消滅していたが、彼に深くかかわる他人が存在している。
一人は交通事故によって豊を昏睡状態にさせた加害者の室田で、彼は昏睡から覚めた豊に対して加害者と言う関係を断ち切ろうとするのだが、豊は14年の空白のせいか室田ほど事件に執着していない。
もう一人は父親の大学時代の友人という藤森という男で、父が所有する土地を借りていて釣り堀を経営している。
不法投棄という違法行為を行っているのだが、厳しいことを言いながらも豊の面倒を見る不思議な人物である。
この男は何者なのかという疑問を抱かせる登場の仕方だが、やがて父の友人だと判明するから父親とは相当親しい関係だったのだろうし、実際それを物語るような大喧嘩を釣り堀で展開している。
昏睡中に病院で家族がかりそめのパーティを開きながらも、やがて距離を置いていった中にあって、彼は他人とは関係を維持していたことになる。
父親の無事にホッとする家族の姿を見て、妹の彼氏は疎外感を感じるのだが、豊は今一度皆が一堂に会する機会を持ちたいとの願を抱くようになる。
ところが、妹はテレビに映る無事だった父親の音声を消してしまうという父の除外行動を起こし、もう一度集まりそうだった家族は再びバラバラとなって去って行ってしまう。
この家族の不安定さは一体どこからきているのか、家族の幸せとは何なのか。
家庭に存在している平穏は家族が自分勝手に描いている幻想に過ぎないのか。
豊の描く幸せという幻を壊し、現実社会を示すのが交通事故によって豊を昏睡状態にした加害者だ。
「お前も不幸になったが、俺も不幸になった。お互い様なのだ」と加害者の室田は叫ぶ。
確かにその言葉は交通事故を起こせば起きる現実を述べているものだ。
もう一度皆が集まることを夢見ていた豊はあっけなく死んでしまう。
皮肉なことに彼の葬式において家族は揃うことになるが、それでも葬儀が終わればそれぞれが思い思いの方向に帰っていってしまうのだから、家族とは何とも危うい存在なのかもしれない。
そして凡人の僕と同じような者が、この世の中での自分の存在を自ら証明するのは難しい。
普通の家庭なら、存在を証明してくれるのは家族なのだが・・・。
それを証明した藤森は豊にとって家族以上の存在だったのかもしれない。

日曜日が待ち遠しい!

2024-01-24 07:50:57 | 映画
「日曜日が待ち遠しい!」 1982年


監督 フランソワ・トリュフォー
出演 ファニー・アルダン ジャン=ルイ・トランティニャン
   カロリーヌ・シオル ジャン=ピエール・カルフォン
   フィリップ・モリエ=ジュヌー フィリップ・ロダンバッシュ

ストーリー
バルバラ・ベッケルは、南仏のニースに近い町にあるヴェルセル不動産のオフィスで秘書として働いている。
社長のジュリアン・ヴェルセルは狩猟好きで、その朝も鴨撃ちに行っていた。
留守中に社長夫人のマリー・クリスティーヌから電話が入り、預金を下ろして送って欲しいと依頼される。
オフィスを留守にできないことなどを理由にバルバラが断っているところへ、ジュリアンが戻って来た。
電話をかわった彼に、秘書の悪口を言う夫人。
結局、バルバラは、クビになってしまった。
その日、警察署長のサンテリと助手のジャンブロー刑事がオフィスにやって来て、ジュリアンの狩猟仲間のジャック・マスリエという男が、その朝やはり鴨撃ちに行って銃で撃ち殺されたことを知らされた。
バルバラは、素人劇団の団員で仕事を終えると、稽古に入る。
次の日曜日にヴィクトル・ユゴーの「王のたのしみ」が上演されることになっていて、バルバラは、道化師トリブーレの娘で小姓姿のブランシュ役だった。
道化師トリブーレを演じるベルトランは、バルバラとは一年前に離婚しているが、今でも時々関係を迫っていた。
バルバラにクビを宣告したはずのジュリアンが、自分の殺人の容疑を晴らすために無実を立証して欲しいと協力を頼みに来た。
ジュリアンの許に女性の声で脅迫電話がかかり、ヴェルセル夫人と恋愛関係にあったマスリエをジュリアンが嫉妬から殺したのだ、となじった。
その夜、ニースのホテルから戻った妻とその電話をめぐって口論するジュリアン。
遂に警察に呼ばれたジュリアンは、親友の弁護士クレマンのおかげで拘留はまぬがれたものの、家に帰ってみると、妻が惨殺されていた。
ジュリアンの頼みで、マリー・クリスティーヌの結婚前の行動を探ることになったバルバラは、ニースに向かった。


寸評
クレジット・タイトルがかぶるオープニングがとてもサスペンス映画と思えないところから、カットが変わって猟をする男が猟銃で撃ち殺されるのはミステリーの入りとしてはスムーズだったのだが、そこからのシーンは少し興味を削がれる描写だったと思う。
ベルセルが猟銃を持って出てきて止まっていたポルシャのドアを締めてやる。
このポルシェは殺された男のものらしいので、いかにもベルセルが犯人であるらしいことを匂わせるのだが、彼が犯人なら指紋を残すような締め方をしないだろうから、彼が犯人でないことは容易に想像がつく。
その後も、わざとらしいエピソードが多すぎるし、エピソード同士を絡ませすぎたために全体がぼやけてしまっている印象を持つが、ネストール・アルメンドロスのモノクロカメラも美しいので、二転三転しながら真相に迫っていくストーリーは楽しめる。
今見ると、僕がトリュフォーのファンだったこともあり、彼の遺作ということもあって感慨を持って見ることが出来た。

犯人として疑われ、警察の追及を受けているのがジャン・ルイ・トランティニャンのヴェルセルなのだが、作中での彼の影は薄い。
ファニー・アルダンのバルバラがやたら目立ち、完全に彼女の独り舞台と言った感じだ。
クビになったバルバラが、自分をクビにした社長のヴェルセルの為にどうしてそこまで必死になるのかわからず、少々興ざめしていたのだが、最後の方でその理由が明かされる。
その展開は唐突過ぎて盛り上がりに欠けている。
全体のまとまりに欠ける無理がちりばめられているとはいえ、ここまで見せる作品を最後まで作ったトリュフォーはやはりすばらしい監督だったのだと思わせる。
バルバラは素人劇団の団員で、稽古中の演目はヴィクトル・ユゴーの「王のたのしみ」であったり、マスリエが館主だった映画館“エデン”座にかかっている映画がキューブリックの「突撃」だったりするのはトリュフォーのこだわりだったのかもしれない。
演劇におけるバルバラは道化師トリブーレの娘で小姓姿のブランシュ役なのだが、艶めかしさを感じさせるそのコスチュームを時々見せるのは、ファニー・アルダンをヒロインとして盛り立てる為に一役買わせていたのだろう。

作品がモノクロで撮られていることで光や影の使い方が効果的な雰囲気を出している。
特に、真犯人が夜の電話ボックスで警官に捕まる映像演出は美しい。
「日曜日が待ち遠しい!」というタイトルの意味も明かされるが、ちょっと笑ってしまうようなハッピーエンドのための一言だった。
それぞれの殺人事件の関連が一気に明かされるのはミステリーの常道だと思うが、僕は真犯人とチケット売り場の女性の関係がイマイチ理解できなかったのだが、僕の見落としだったのだろうか。
タイトルバックで子供たちのものらしいらしい足元を蹴とばされていたものが、ああこれだったのかと知らせてくれる処理に、僕は送別の拍手を送った。
1970年の日本万博におけるフランス館で「大人は判ってくれない」を見てからトリュフォーに興味を持ち、名画座上映を含めて随分と彼の作品を見たのだが、もうトリュフォー作品を見ることが出来なくなってしまったのは、やはり淋しい思いがする。

NAGISA なぎさ

2024-01-23 07:05:02 | 映画
「NAGISA なぎさ」 2000年 日本


監督 小沼勝
出演 松田まどか 稲坂亜里沙 吉木誉絵 佐々木和徳
   片桐夕子 松本智代美 芦川よしみ 佳那晃子
   根岸季衣 つまみ枝豆 島村勝 出光元
   深水三章 石丸謙二郎 柄本明

ストーリー
1960年代の江ノ島。
12歳のなぎさ(松田まどか)は、4年前に漁師の父を亡くし、今は居酒屋を営む母(片桐夕子)とふたりで暮らしている元気な女の子。
彼女にとって、その年の夏休みは生涯忘れられない夏休みとなった。
なぎさはポータブル・レコード・プレイヤーを手に入れる為、伯母である吉岡のおばちゃん(根岸季衣)が経営する海の家でバイトを始めた。
慣れない客扱いもおばちゃんの指導で上達していく。
おばちゃんの娘の麗子(松本智代美)が帰ってきたが、アメ車を乗り回すイカした彼氏にゾッコンである。
なぎさは礼子に誘われ砂浜でのダンパに興じた。
東京から帰省してきたリッチな美少女・真美(稲坂亜里沙)の家に遊びに行き、真美のドレスをはじめて着た。
真美は母親の澄子(芦川よしみ)が浮気をしていると涙をこぼすので、二人に抗議をしたところ相手の男は甥で、それは真美のいたずらだった。
なぎさは友だちの典子(吉木誉絵)と映画を見に行き、キスシーンに興味を持った。
なぎさはある日、東京からやってきた病弱な少年・洋(佐々木和徳)と出会った。
砂浜で漂着物を収拾しているという洋に泳ぎを教え、彼と初めての恋、初めてのキスを体験した。
なぎさは麗子の影響を受け、典子の母親(佳那晃子)の美容院でパーマをあてた。
泳ぎを教えている場所に行ったが、パーマ姿を見られたくないなぎさは岩陰から今日は泳ぎを教えないと言い、その代わり明日は精一杯教えると告げて去っていった。
夏が終わり、切ない想いもしたけれど、いろんな経験もたくさんしたなぎさだった。


寸評
小沼勝といえば「日活ロマンポルノ」の監督と言うイメージで、実際ロマンポルノ以外の作品と言えばこの「NAGISA なぎさ」ぐらいではないか。
日活ロマンポルノは私の学生時代に始まったので、まさにドンピシャで随分とお世話になった。
1971年11月20日から上映開始となり、第一週が西村昭五郎監督、白川和子主演の「団地妻 昼下がりの情事」と、林功監督、小川節子主演の「色暦大奥秘話」だった。
第2週が加藤彰監督、白川和子主演の「恋狂い」と、近藤幸彦監督、片桐夕子主演の「女高生レポート 夕子の白い胸」で、第3週が曽根中生監督、小川節子主演の「色暦女浮世絵師」と、小沼勝監督、牧恵子主演の「花芯の誘い」で、小沼監督にとってはこれがデビュー作だから、まさにロマンポルノと共にあった監督と言うことになる。
当時女学生役をやれた唯一の女優と言われた片桐夕子さんがこの映画では主人公なぎさのお母さん役で出ていて懐かしい。
小沼監督はロマンポルノ作品を50本程撮っていると思うが、僕は残念ながら一本も見ていない。
晩年に撮った「NAGISA なぎさ」であるが、ロマンポルノからは想像できない瑞々しい作品となっている。

作品はなぎさの夏休みを追っている。
この年齢の子供にとっては夏休みは楽しみだ。
僕たちの頃は学習塾などもなかったし、本当に自由な40日間だったと思う。
いったい僕はどう過ごしていたのだろう?
思い出すのは川沿いの自宅だったので、魚釣りやら昆虫採集ぐらいで、それだけでは毎日過ごせるはずはないのだが他に思い出すことがない。
お盆などに親戚中が集まったりしていたが、それも皆でソーメンを食べたりしたことだけが想い出で、それに比べればなぎさは随分と充実した夏休みを過ごしている。
海辺の町の方が色々とあるのかもしれないが、描かれていることは思い当たるふしがあることばかりだ。
江の島が見えるから湘南海岸の近くなのだろうが、人々が生活している路地裏のような雰囲気がいい。
なぎさは海に泳ぎにやってくるが、そこは賑やかな湘南の砂浜ではなく、誰一人いない入り江の岩場である。
地元の人だけが知っている場所といったところだ。
アルバイトをしている海の家の喧騒と、そういった場所のギャップ感がこの映画の雰囲気を出している。
描かれているパターンは珍しいものではなく、むしろよくある設定とパターンである。
なぎさは大人への入り口に立って、大人の世界を見ている。
なぎさの母親は居酒屋をやっていて、男性客に愛想を振りまいている。
生きていくための方便だが、なぎさには母の姿に抵抗がある。
ちょっと大人の世界を見せてくれるのが麗子なのだが、麗子ははみ出し女で、この頃の子供なら憧れの気持ちを抱くであろう存在だ。
桑島親子が見せるのも、怪しい大人の世界であり、同世代への嫌がらせやイジメの気持ちである。
もちろん洋との出会いと結末がなぎさにとって一番の衝撃だったことは明白である。
しかし最後には少女があどけない態度を見せ、子供はたくましいのだと知らされる。
自虐的だが、僕はたくましいと言うより、したたかな子供だったように思う。

長い散歩

2024-01-22 07:21:03 | 映画
「な」行に入ります。

「長い散歩」 2006年 日本


監督 奥田瑛二
出演 緒形拳 高岡早紀 杉浦花菜 松田翔太
   大橋智和 原田貴和子 木内みどり 
   山田昌 津川雅彦 奥田瑛二

ストーリー
安田松太郎(緒形拳)は、昔ながらの厳格で規律を重んじる元高校の校長だが、教育者としての厳格さがアダとなって幸せな家庭を築けず、アルコール依存症だった妻(木内みどり)を亡くし、成人した一人娘(原田貴和子)とも親子の溝と心の壁が出来てしまっていた。
彼は家を娘に渡して自分は小さな別のアパートに引っ越すことにした。
引っ越し先のアパートには5歳の娘、幸(サチ)(杉浦花菜)を連れたシングルマザーの横山真由美(高岡早紀)が暮らしていた。
真由美は恋人の水口(大橋智和)と一緒になって幸を虐待していた。
幸は薄汚い同じピンクのワンピースに身を包み、腕や足には理不尽な暴力による傷跡が絶えなかった。
そして彼女は自分の身を守るように段ボールで作った天使の羽根をいつも背中に身に付けていた。
いっぽうで、真由美の彼氏の水口は幸の頭を撫でて優しく接しているが、その関わり方は彼女を「女」として見ているものだった。
ある日の午後、幸が水口に性的な目線を向けられ、足を触られているのを見た真由美は、娘に彼氏を盗られたと思い込んで激しい嫉妬心と怒りで幸を押し倒し、絞め殺そうとした。
痛々しい耳をつんざくような悲痛なSOSを隣室で聞いた松太郎は何とか助けねばと、母親に猛抵抗して難を逃れて家を飛び出した幸を追いかけた。
幸は樹海の中にある小さな洞窟のような空間に普段から買ってもらえない玩具や絵本を万引きして溜め込み、「小さな居場所」を作っていた。
そして、ついに見かねた松太郎は少女を救い出し、彼にとって数少ない家族との幸せな思い出の地である山を目指し旅に出た。


寸評
5歳の幸を演じた杉浦花菜ちゃんに大拍手である。
母親の高岡早紀から虐待を受け続けるが、その時に放つ目線がいい。
細やかな演技指導が行われたと推測できるが、あの年齢でそれを受け入れて見事に演じきっている事に驚く。
可憐さやあどけなさを表現するのなら何とかなりそうだが、役柄は虐待を受ける幼い少女である。
彼女の演技なくしてこの映画は成り立たなかっただろう。

母親の真由美は自分の親の育て方を見習っているだけだと言っているが、どのようにして我が子の虐待に至ったのだろう。
真由美は幸が幼稚園の頃には天使の羽をつけてのお遊戯会に出席していたようだが、どうやらその時に亭主(?)に去られたことが原因のようでもある。
シングルマザーとして水商売に身を投じたことも原因だろうが、ヒモ男と出会ってしまったことが大きかったのかもしれない。
内縁の男と一緒になって実の子を虐待する事件は度々報じられているから、描かれたような環境下に置かれている子供は結構存在していると思われる。
母性本能以上のものが生まれてしまう心理状態が僕には理解しがたい。
もっとも、真由美が言うように、僕が幸せなためなのかもしれない。

作品はある種のロードムービーでもあるのだが、目指しているのは松太郎一家が幸せに暮らしていた頃に訪れた青空が美しい山である。
松太郎にとっては贖罪の旅であり、心に傷を負っている幸にとっては再生の旅である。
店員がまったく気付かない事に違和感があるけれど、幸の万引きシーンや食品売り場での悪戯シーンにはゾッとする恐ろしさがあり、ゆがんだ心の表現としては強烈だ。
幸はなかなか松太郎に心を開かないが、やがて少しずつ打ち解け始め、ワタル(松田翔太)という青年の登場で急激に変化していく。
松太郎は娘と関係が上手くいっていないが、娘が万引きをした時に発した「校長の娘が万引きをするとは何事か!」とひっぱ叩いたことを原因としている。
つまり、妻子よりも自分の立場や名誉を重んじる利己的な人間だったという事だろう。
ワタルという青年もアフリカから帰国して世間に馴染めないでいる孤立者だ。
両親と共に過酷な状況のアフリカの地で暮していたようだが、帰国してからは精神的にも日本に溶け込ず、周囲も彼を受け入れなかったのかもしれない。
疎外者であることは幸も同様で、幸が松太郎より同類のワタルになついていくのは分からないでもない。
松太郎の行為は冷静に見れば誘拐であり、真由美が捜索願を出したことで手配されることになるが、真由美には幸を気遣う愛情がまだ残っていたと言う事だろうか。
誘拐犯として松太郎は刑に服するが、それぞれの者たちはその後どうなったのかまったく分からない。
特に幸は一体どうなったのだろう。
希望ぐらいは見せてくれても良かったのではないかと思う。

トリコロール/赤の愛

2024-01-21 06:56:15 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/7/21は「シャイアン」で、以下「シャイニング」「シャイン」「灼熱の魂」「社葬」「ジャッカルの日」「Shall We ダンス?」「シャレード」「十三人の刺客」「十三人の刺客」「十二人の怒れる男」と続きました。

「トリコロール/赤の愛」 1994年 フランス / ポーランド


監督 クシシュトフ・キエシロフスキー
出演 イレーヌ・ジャコブ ジャン=ルイ・トランティニャン
   フレデリック・フェデール ジャン=ピエール・ロリ
   サミュエル・ル・ビアン マリオン・スタレンス
   ジュリエット・ビノシュ ジュリー・デルピー

ストーリー
ヴァランティーヌは、イギリスにいる恋人の電話を頼りにモデルの仕事をしながら毎日を送っている。
通りを隔てたところには司法試験を目指しているオーギュストが住んでいた。
ある夜、仕事帰りに飛び出してきた犬を車で撥ねてしまったヴァランティーヌは、犬の飼い主である初老の元判事ジョゼフ・ヴェルヌに謝罪しに出向いた。
幸いなことに犬は大事には至らなかったのだが、ヴァランティーヌは当面の間、犬の面倒を見ることになった。
そんな矢先、ヴァランティーヌは新聞の記事で弟が麻薬で逮捕されたことを知る。
やがて傷の癒えた犬は自らジョセフの自宅に戻っていき、ヴァランティーヌが彼の自宅を訪れそこで彼女が見たのは、恋人同士の会話、麻薬密売人、妻子がありながらもゲイの愛人を持つ夫などの会話を盗聴しているジョセフの姿だった。
判事を辞めて以来、無気力に生きてきたジョセフはいつしか盗聴を生き甲斐にするようになっており、ヴァランティーヌの弟の麻薬問題のみならず、弟と彼女の父親が違うことすらも言い当て、盗聴を止めるよう促すヴァランティーヌを冷たく嘲笑した。
そんなある日、ジョセフが盗聴容疑で告発されたことが新聞に掲載され、ヴァランティーヌは自分が密告していないことを伝えるためにジョセフに会いにいった。
しかしそれは、ヴァランティーヌを呼び寄せるためにジョセフ自身が自首して仕組んだことだった。
やがてヴァランティーヌはファッションショーにジョセフを招待、ジョセフはヴァランティーヌに自分が人間不信に陥った理由を打ち明けた。
ジョセフは若き日に恋人が他の男と情事に及んでいたのを目撃して以来すっかり心が折れてしまい、判事の仕事をしているうちに心を閉ざしていったのだった。
それからというもの、ヴァランティーヌとジョセフは少しずつ心を通わせ合うようになっていった。


寸評
インターネットが普及しSNSによって人々がつながる世の中になっているが、描かれた時代においては電話が人と人をつなぐ重要なツールだった。
登場人物たちは電話を通じてつながっている人たちで、電話の内容はお互いの愛を確かめ合うものである。
ヴァランティーヌの恋人はドーバー海峡を隔てたイギリスにいるので遠距離恋愛である。
相手の男からは頻繁に電話がかかってくるが、相手が口にするのはヴァランティーヌの浮気を疑うような言葉ばかりで、やがてヴァランティーヌは恋人の愛しているという言葉に不信感を抱く。
司法試験に合格したオーギュストは恋人から万年筆を贈られ幸せ一杯だったのだが、なかなか恋人と電話連絡が取れないので彼女の家に出向いたところ、彼女は他の男と情事に及んでいてショックを受ける。
一見幸せそうな家庭の夫はゲイの愛人に焼きもちの電話をかけている。
電話を通じて一見濃密につながっていそうでありながら、実は希薄なものであるかのようだ。
それを見透かしているのが近隣の人たちの会話を盗聴しているのが元判事のジョセフである。
ジョセフはヴァランティーヌと弟は父親が違うこと、弟は麻薬の常習者であることを知っていてヴァランティーヌを驚かせるが、元判事の立場から個人情報を入手していたのだろう。
彼は裁判を通じての経験値なのか、盗聴を通じて感じ得たことなのか、あるいはそのどちらにもによって彼らの未来を予言している。
夫婦はゲイである夫の秘密を知って離婚するだろう、オーギュストの彼女は裁判に出たことで男と知り合い別れることになるだろうとヴァランティーヌに告げる。
盗聴裁判への出席が彼らを結びつけるのだが、それは運命とも言うべき偶然の出会いがもたらしたものだ。
三部作は運命あるいは偶然と言うこともテーマになっていたように思う。
ここではジョセフもオーギュストも同じような偶然の出来事で司法試験に合格している。

ヴァランティーヌはカーラジオに気を取られてジョセフの犬を轢いてしまう。
そのことで二人は運命的な出会いをすることになる。
二人を結び付けたものは、お互いに持っていた、あるいは持ち始めた「愛への不信」という感情であったろう。
ジョセフは今の自分がある理由をヴァランティーヌに語る。
ヴァランティーヌはジョセフに「人間はもっと寛容よ」と語るが、寛容であることは容易なことではない。
人が寛容であるためには慈悲の心や博愛の心を持たねばならない。
それがどんなに難しいことであるかは世界で起きていること、狭くは僕自身を含めた身の回りで起きることを思えば容易に想像できる。
しかし、それでも僕は出来る事なら寛容でありたいと思っている。
ジョゼフは新聞記事でヴァランティーヌの乗ったフェリーがドーバー海峡で転覆事故に遭ったことを知り、慌ててテレビをつける。
奇跡的に救出された生存者はわずか7人で、その中には一命を取り留めたヴァランティーヌとオーギュスト、「青の愛」のジュリーとオリヴィエ、「白の愛」のカロルとドミニクの姿がある。
三部作の完結編らしい終わり方で、ヴァランティーヌととジョセフの再会を感じさせながら、ヴァランティーヌのコマーシャル・フォトと同じアングル、同じ表情、同じ赤の背景で終わるラストは見事な演出であった。

トリコロール/白の愛

2024-01-20 08:58:51 | 映画
「トリコロール/白の愛」 1994年 フランス / ポーランド


監督 クシシュトフ・キエシロフスキー
出演 ズビグニエフ・ザマホフスキ ジュリー・デルピー
   ヤヌシュ・ガイオス ジュリエット・ビノシュ

ストーリー
美容師コンテストでグランプリを獲ったことのあるポーランド人美容師のカロルはフランス人の妻ドミニクとの離婚調停のために裁判所を訪れていた。
カロルは店も車も銀行口座も全てドミニクに取られてしまい、残されたのは旅行カバンひとつのみだった。
全てを失い、行く宛てのないカロルは同じポーランド出身のミコワイという人物と出会った。
ミコワイは「同じポーランド人で死にたがっている者がいる。手を貸す気はないか」と持ち掛けてきた。
カロルはミコワイと共に自宅マンションを遠くから見つめ、ドミニクに電話をしたのだが、彼女は情事に耽っている最中だった。
絶望したカロルはミコワイにポーランドに連れていってくれるよう懇願し、大きなトランクケースの中に隠れて飛行機に乗り込んだ。
ところが、カロルはトランクケースに入ったまま数人の男によって盗まれてしまい、殴られて雪原に置き去りにされてしまった。
手元にあったのはパリで手に入れた、破損した少女の陶器製の胸像だった。
ようやく兄が経営する実家の理髪店に辿り着いたカロルは胸像の修復を始め、美容師稼業に見切りをつけると、兄の店の常連客の紹介で両替屋の用心棒として働きはじめた。
ある時、両替屋と取引相手の交渉に同行したカロルは、車内で寝たふりをしながら二人が土地買収の交渉をしているのを盗み聞きし、計画を出し抜くため土地の所有者のもとに先回りし、信用を得ることに成功した。
カロルの出し抜き計画は両替屋にバレてしまうが、カロルは命がけで手に入れた土地を高値で売る商談を成立させ、大金を得たカロルはミコワイを共同経営者に迎えて会社を設立した。
会社は急成長しカロルは一気に大金持ちとなった。
しかし、ドミニクに電話をかけても相変わらず冷たくあしらわれるだけだった。


寸評
冒頭でカロルとドミニクの離婚裁判劇が描かれる。
カロルは性的不能を理由にドミニクから離婚を言い渡されるのだが、映画を最後まで見るとカロルの愛するドミニクへの復讐劇だと分かるが、当初はカロルの貧困ゆえの波乱の人生である。
カロルの身に起きる出来事はドラマチックであるが、現実的とは思えないどこか喜劇的なものである。
ポーランド人の彼はパリの地下道でミコワイと出会い、同じポーランド人で死にたがっている者がいるので手を貸す気はないかと持ちかけられる。
この提案自体が現実離れしているが、フランスからの脱出方法がトランクに隠れてポーランドへ向かうと言うもので、これまた喜劇的な方法なのだが描かれ方は喜劇的ではない。
同様の方法で海外逃亡を図る犯罪は起きてはいるが、仕掛けはもっと手の込んだものである。
カロルが事前に方法を語り、心配なのは盗難だと述べているが、サスペンスとしてなら余計な一言だったと思う。
荷物が出てこずミコワイがその事を訴えて、中身が友人だったと明かすが、その事が問題にならないのも不自然と言えば不自然なのだが、説明を省略するような形でストーリーはどんどん進んでいく。

カロルはやっとのことで兄が住むポーランドの美容院にたどり着くが、この兄は実に寛容で弟思いである。
感じるのは兄弟愛なので、カロルとミコワイの間にあるのは愛の一種である友情なのだと感じてくる。
カロルは兄の店の常連客である夫人の紹介で両替屋に勤めるようになるが、仕事内容は拳銃を渡されての用心棒稼業である。
この作品においてはシリアスな描かれ方をしているのだが、内容はきわめて喜劇的なのが特徴でもある。
両替屋と不動産屋を出し抜く手口も、喜劇的と言えば喜劇的なものとなっている。
そこからはとんとん拍子で事業に成功し、立派な社長に出世してしまう。
貧しかった者の出世物語のようでもあるが、省略的に描かれるのでその雰囲気はまったくない。
そこから予期せぬ展開でこの映画の本筋に入っていく。
何となく見ていた作品だったものが俄然興味を引く内容へと変質を遂げていく。
なんとカロルは自分の財産の一切をドミニクに譲る遺書を作成するのだ。
冷たくされてもドミニクへの愛が失われていないカロルの究極の愛情表現だと思えてきて、どこかにカロルに対する切なさのような感情が湧き上がってくる。
しかもカロルはその遺言を実行するために自分の死を選ぼうとする。
僕はてっきりカロルがミコワイに殺してくれるように頼むものだと思った。
その為にミコワイの殺人依頼があったのではないかと思えたからだ。
ところが物語はさらにジャンプアップしていくのだが、最終段階に至るまでの出来事はやはり突拍子もないもので、そんなことが本当にできるのかと思えるような内容である。
ラストシーンは刑務所で、以前にカロルがドミニクの姿を窓越しに見て絶望したシーンとダブるようなショットでドミニクが捕らえられ、そこでドミニクが手話でカロルに語り掛ける。
手話の内容はテロップで示されないが、何となく想像できる。
夫婦間に愛は完全に戻ったと思われるが、その愛は欺瞞の上に築かれたものだから、夫婦間の愛はそのようなものであろうと言うことで、その事が僕にとってはリアリティを感じさせた皮肉な映画である。

トリコロール/青の愛

2024-01-19 07:26:22 | 映画
「トリコロール」三部作です。

「トリコロール/青の愛」 1993年 フランス / ポーランド / スイス


監督 クシシュトフ・キエシロフスキー
出演 ジュリエット・ビノシュ ブノワ・レジャン
   エレーヌ・ヴァンサン  フロランス・ペルネル
   シャルロット・ヴェリ  エマニュエル・リヴァ
   ジュリー・デルピー

ストーリー
ジュリー(ジュリエット・ビノシュ)は自動車事故で夫と娘を失う。
夫は優れた音楽家で欧州統合祭のための協奏曲を作曲中だった。
ジュリーは、田園地帯にある屋敷をすべて引き払い、それまでの人生を拾ててパリでの新しい生活を決意する。
そして夫の未完の協奏曲のスコアも処分してしまう。
ジュリーは、空っぽになった家に密かにジュリーに思いを寄せていた夫の協力者であったオリヴィエ(ブノワ・レジャン)を呼び出し、一夜を共にするが、かれの目が覚める前に家をあとにする。
手には彼女と過去を結ぶ唯一のあかし、“青の部屋”にあったモビールを握っていた。
パリでの生活を始めるジュリーは静かな毎日を過ごしながらも脳裏にはあの旋律が甦ってきて、焦燥感と不安に駆られていた。
老人ホームにいる母親(エマニュエル・リヴア)もジュリーを虚ろな目で見ているだけだった。
そんなある日テレビをつけるとオリヴィエが処分したはずの楽譜を持ち、自分が曲を仕上げると宣言しているのを見る。
そして夫が見たこともない若い女性と写っている写真も公開されていた。
大きな動揺の後、ジュリーは、オリヴィエに曲の手直しを夫のメモを元に指示し、また夫の愛人で彼の子を身ごもっているサンドリーヌ(フロランス・ぺルネル)に屋敷をゆずる。
ついに完成した曲をオリヴィエは、ジュリーの作品として発表すべきであると言う。
ジュリーは、ひとしきり考え、彼の元に向かうことを、彼の愛を受け入れることを決意する。


寸評
冒頭でジュリーら一家が乗る車が道路から外れ巨木に激突する事故を起こし、夫と一人娘が死亡してしまう。
その前の映像からして、事故は恐らく故障によって操縦が効かなくなった為に起きたのだろう。
事故の瞬間が捉えられていないが、エンドクレジットの後で事故は架空のものであり、故障によるものではないとスポンサーへの配慮を見せていることが何よりの証である。
病院で目覚めたジュリーは喪失感に包まれ自殺を試みるが死ねない。
そこでジュリーが口にする「やっぱり死ねない」のひとことは、彼女が再生を目指す存在になったことを示し、物語はそこから始まる。

人は逃れようのない出来事にしばしば出会うことがある。
言いようのない体験を受け入れ難いとき、運命という便利な言葉に逃げ場を求める。
ジュリーは運命を受け入れ、全てを処分することで過去を切り離し再生を目指すが、過去の記憶が存在している限り彼女は自由になることができない。
映画は印象的なブルーの映像を散りばめながら、ジュリーの厭世的な生き方が描き続けられる。
ドラマ性は乏しいのだが、ジュリエット・ビノシュが醸し出す雰囲気と映像が僕をつなぎとめる。
運命は偶然という事象にもつながり、ジュリーの十字架のチェーンを届けに来る青年はそれを偶然見つけたのだろうし、娼婦と言われた女性にも偶然が訪れている。
風俗ショーに出演している彼女は、うつろな父親がショーの女性の下半身を見つめている姿に出会う。
見たくはない父親の姿に偶然出会ってしまった戸惑いだ。
いたたまれなくなった女性はジュリーに慰めを求め、ジュリーはそこで夫の作曲に関わるテレビ番組を目にする。
偶然目にすることになった番組を通じて夫の恋人の存在を知ることになる。
ドラマ性が少なかった映画はこのあたりから俄然輝きだす。
二人は対面することになるが、普通なら修羅場となりそうなものだが、二人とも冷静である。
亡くなった夫は二人を愛していたのだろうが、愛の中身は違っていたのだろうと思う。
妻への愛は完璧な女性として尊敬する気持ちから生まれたものだったと思うし、恋人であったサンドリーヌには癒されるものがあったのではないかと想像する。
ない物ねだりを二人にしていた身勝手な男だったのかもしれないが、二人はそんな男を許しているようだ。

未完であった夫の楽曲を完成させようと、最終的にジュリーが動き出す。
ジュリーが過去に背を向けるのではなく、受け入れることを意味している。
ズビグニエフ・プレイスネルの音楽がジュリーを後押しするように奏でられ、音楽映画の様相を呈してくる。
過去に起きたことを愛すべき記憶として受け止め、ジュリーは新たな自由を得ることが出来たのだろう。
いつまでもブツブツ言いたがる者にはたどり着けない境地でもある。
最後に残るのは信仰と希望と愛──この三つの中で最も尊いものは愛だと歌われる。
ここでの愛とは寛容さを示す優しさを言うのだろう。
ジュリーは夫を認め、恋人女性を認め、オリヴィエの愛を受け入れる。
僕には望みを叶えることが出来たオリヴィエに対する羨ましさが残った。

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

2024-01-18 07:17:34 | 映画
「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」 2015年 アメリカ


監督 ジェイ・ローチ
出演 ブライアン・クランストン アドウェール・アキノエ=アグバエ
   ルイス・C・K デヴィッド・ジェームズ・エリオット
   エル・ファニング ジョン・グッドマン ダイアン・レイン
   マイケル・スタールバーグ アラン・テュディック

ストーリー
第二次世界大戦が終結し、米ソ冷戦体制が始まるとともに、アメリカでは赤狩りが猛威をふるう。
共産主義的思想は徹底的に排除され、その糾弾の矛先はハリウッドにも向けられる。
ダルトン・トランボはアメリカ共産党員として積極的に活動していることから、コラムニストのヘッダ・ホッパーや俳優のジョン・ウェインなどのエンターテイメント業界における強硬な反ソ連の人物から軽蔑されている。
トランボは、ハリウッド映画における共産主義のプロパガンダに関して下院非米活動委員会(HUAC)で証言するよう召喚された10人の脚本家のうちの1人となった。
トランボたちの行動を支持するトランボの友人で俳優のエドワード・G・ロビンソンは、彼らの弁護士費用調達のためにゴッホの絵画を売却して手助けした。
しかし、リベラル派の判事二人が予期せぬ死去をしたことで、トランボの上訴する計画は叶わぬこととなり、1950年議会侮辱罪で収監されて最愛の家族とも離ればなれとなってしまう。
1年後、ようやく出所したトランボだったが、「ハリウッド・ブラックリスト」の対象が拡大し、トランボとその仲間たちは彼らとの繋がりを否認するロビンソンとプロデューサーのバディ・ロスによって見捨てられる。
彼は友人のイアン・マクレラン・ハンターに『ローマの休日』の脚本を渡し、ハンターが脚本の名義と報酬の一部を得るという手段をとる。
のどかな湖畔の家を売り、都会の家に引っ越した彼は、低予算のキング・ブラザーズ・プロダクションでペンネームを使った上で脚本家として働き、ブラックリストに載っている仲間の作家たちにB級映画の脚本執筆の仕事を回してやる。
彼が妻のクレオと10代の子供たちに仕事を手伝わせたことで家庭内不和が大きくなった。


寸評
僕はダルトン・トランボが係わった作品として「ローマの休日」、「ガンヒルの決斗」、「スパルタカス」、「栄光への脱出」、「いそしぎ」、「フィクサー」、「パピヨン」、監督作品として「ジョニーは戦場へ行った」を見ている。
半数にも満たないのだが、それらを見たころは主演が誰かと言うことが興味の第一であって、かろうじて監督が気になったこともあったぐらいで、洋画における脚本家を気にとめていなかった。
後年になって「ローマの休日」のゴーストライターがダルトン・トランボであった事を知った。
そして本作によって「スパルタカス」や「栄光への脱出」に、あのようなエピソードがあったのかと知識を得た。
「スパルタカス」のカーク・ダグラスがカッコいいところを独り占めしているのだが、演じた ディーン・オゴーマンの風貌は本物のカーク・ダグラスに似ていたなあ。
オットー・プレミンジャーが、いい場面ばかりだと映画はかえってつまらないと言うトランボに、「いい場面ばかりを書け、後は私がメリハリをつける」と語る場面も面白く思えた。

この映画におけるダルトン・トランボは迫害に屈することなく己の信念を貫いたヒーローとしては描かれていない。
カッコいいところはカーク・ダグラスに任せていて、彼自身は仕事に追われて家庭崩壊を起こしかねないダメ親父の側面を見せている。
彼を支えているのは寡黙な妻のクレオで、演じたダイアン・レインがなかなかいい雰囲気を出していて、寡黙だった彼女が唯一大声を上げる場面が活きている。
ダルトン・トランボが自分の作品を妻のクレオや娘のニコラと劇場で見ているシーンが何回か出てくるが、大変な環境下にあって幸せな時間であったろうと思わせる。
本当にそのような時間が彼らにあったのなら、少しは良かったかなと感じさせた。
刑務所で裏切り者のニュースを見た凶悪犯が「あんなチクリはここなら死体で出ていく」と言うのも面白いセリフで、凶悪犯によって裏切りにあった者たちの気持ちを代弁させていたと思う。

冒頭近くで述べられる「アメリカの好物は金とセックスだ」というセリフを伏線にして、フランク・キングに字も読めない観客いわゆるブルーカラーを相手にしたようなキワモノ映画を提供するために、トランボはブラックリスト仲間の脚本家たちとシナリオを書きながらタフに食いつないでゆく。
共産主義者として干されているはずのトランボが食いつないで行けたのは、資本主義社会のアメリカであったからであることが皮肉めいていて面白い。
フランク・キングは反共映画団体の男がオフィスへやって来て、ジョン・ウェインやロナルド・レーガンの名を語りながらダルトン・トランボの起用をやめなければスタア俳優の出演をボイコットさせると言われるのだが、彼は手近にあったバットを振り回しながら「われわれの映画は所詮クズだから、俳優は素人でいい。どこかに書きたてようが、われわれの映画の観客は字が読めないから大丈夫だ」と怒鳴りつけて男を追い払う。
本作で最も痛快な場面で、高圧的なメジャーの威力には猛然と反骨をもってのぞむ彼に思わず拍手したくなる。
悪役となっているゴシップコラムニストのヘッダ・ホッパーも、実は背後に若き日からの積年のスタジオ・システムへの怨念があるらしいことが匂わされているから、メジャーに反感を持っていた人たちもいたという事だろう。
ニュース映像を挟みながら伝記映画としてのリアリティを出しているが、映画関係者の伝記映画なので映画の一ファンとして楽しめる作品となっていた。

トランスポーター

2024-01-17 07:22:24 | 映画
「トランスポーター」 2002年 アメリカ / フランス


監督 ルイ・レテリエ / コリー・ユン
出演 ジェイソン・ステイサム スー・チー
   マット・シュルツ フランソワ・ベルレアン
   リック・ヤング ダグ・ランド
   ディディエ・サン・メラン ヴィンセント・ネメス

ストーリー
主人公のフランク・マーティンは、黒いBMW735i(E38)を愛車とする運び屋(トランスポーター)である。
高額な報酬と引き換えに、どんな品物も時間厳守で目的地に運ぶことを生業としている。
そして彼は自分の仕事に対して「契約厳守」「(依頼者の)名前は聞かない」「依頼品を開けない」の3つのルールを課し、同時に運び屋としての信用を売っている。
また、彼は特殊部隊に5年いた経歴を持ち、その天才的な運転技術と共に各種格闘術にも長けている。
フランクは、ある組織から仕事を請け負い、品物の大きなバッグを受け取る。
しかし、輸送中、依頼品に不審を抱き、自らに課したルールの1つ「依頼品は開けない」を破ってバッグの中身を開ける。
すると中には手足を縛られ口をテープで封じられた東洋人の女が入っていた。
そのことはすぐに組織に知れ、フランクは依頼品の女ライと共に組織に狙われることとなる。


寸評
映画の大半がカーアクションと格闘シーンで、印象として、その他はないという感じである。
それだけアクション映画に固執して徹底的に描いている。
冒頭からカーアクションが展開される。
主人公は何でも運ぶ運び屋で、人間でもOKらしく銀行強盗の犯人の逃亡を助けるのだが、契約人数より一人多いことで運転を開始しない。
プロフェッショナルとしての性格付けがそのやり取りで示される。
プロを描く作品としてはルール通りと言っても良いエピソードであるが、滑稽すぎてリアル感はない。
引き続き依頼されるところからメインストーリーが展開される。

ヒロインのライが登場するが、彼女がなぜカバンに入れられフランクによって運ばれたのかは推測するしかない。
最後の方で彼女の父親が登場することから、父親にとって邪魔になった娘を殺すわけにもいかず、仲間のアジトに監禁しようとしていたのではないかと思われる。
それならなぜ組織外の人間であるフランクに運ばせたのかよく分からない。
普通に考えるなら、ライを拉致して一味の誰かがアジト迄つれて行けば良さそうなものである。
フランクが相手の事務所で気絶させられるが、マフィアが駆け付けた警官隊にすんなりと身柄を渡してしまうのもおかしな展開に思える。
警察が来ているのに、フランクを別室に連れ出さずその場で仲間に始末させようとするなんて理解に苦しむ。
したがって警察がフランクの身柄を引き取ることに違和感が生じる。
おかしいんじゃないかとか、都合がよすぎるという描き方は随所にみられ、随分と雑な脚本だと思う。
僕はこの映画がシリーズ化された理由が理解できないでいる。

人物描写も非常に甘い。
一夜明けると人が変わったようにフランクに尽くしだすライの描き方はまだ許せるとしても、自分が人質になる偽装をしてまでフランクを逃すタルコニ警部の変節は可笑しな行動である。
冒頭では明らかにフランクを疑うようなそぶりを見せていたはずなのに、一体フランクとタルコニ警部の関係はどうなっているんだと言いたくなる。
人物描写が希薄なのでアクションだけの映画と感じてしまう。
アクションはブルース・リーかジャッキー・チェンのカンフー映画を見る思いのするシーンの連続である。
ジェイソン・ステイサムが平均的アクション映画の主人公になってしまっているが、唯一面白いのはオイルをまき散らしたところでの格闘場面だ。
上半身裸の体にオイルを塗っているので、相手が腕をつかもうとしても滑ってしまってつかむことができない。
相手側の者たちも滑りまくって格闘どころではない。
蹴とばすとオイルの上を滑っていくなど、この場面のアクションだけは楽しめる。
自転車のペダルを足につけて滑らなくするのも納得できる。
しかしアクションもカーアクションも新鮮味がなく、くどいように思えて、僕はあまり楽しめなかった。
再度思う。
シリーズ化されたことがわからん。