おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ウィンチェスター銃'73

2020-10-31 13:20:22 | 映画
「ウィンチェスター銃'73」 1950年 アメリカ


監督 アンソニー・マン
出演 ジェームズ・スチュアート
   シェリー・ウィンタース
   ダン・デュリエ
   スティーブン・マクナリー
   ミラード・ミッチェル
   チャールズ・ドレイク

ストーリー
1876年の7月、リン・マカダムとハイ・スペードの2人はダッチ・ヘンリーを追ってワイアット・アープが保安官を務める町、カンサス州ドッジ・シティにやってくる。
酒場に入ったところ、その目当ての男と遭遇するが、拳銃をワイアットに預けているためにその場は治まった。
リンは独立記念日の射撃大会に出場し、最後にダッチに勝って賞品の名銃1873年製造のウィンチェスター銃を得て部屋に戻るが、そこにはダッチとその仲間たちが待ち構えていた。
ダッチたちはウィンチェスター銃を奪って逃走。
ダッチたちはアープに銃を預けていたために丸腰で、彼らは銃を手に入れるために銃商人とポーカーをし、ウィンチェスター銃を巻き上げられてしまう。
銃商人は名銃を手にしたものの、アメリカ原住民との取引がうまくいかず、銃を奪われた上で殺されてしまう。
アメリカ原住民たちは騎兵隊を見つけるとその周りを取り囲み、そこには旅の途中で彼らに襲われたローラとその婚約者のスティーヴも避難し、リンたちも襲撃を受けたためそこに逃げ込んできた。
翌朝になって原住民たちが攻撃をかけくるが、リンの奮闘もあって何とか撃退。
打ち捨てられていたウィンチェスター銃はスティーヴが手に入れることになった。
今度はスティーヴが知合いのワコ・キッドの撃ち合いに巻き込まれて死亡。
ローラはウィンチェスター銃とともに連れ去られ、行き着いた先はダッチの家だった。
ダッチたちはテスコサという町で強盗を働く計画を立てていた。


寸評
ウィンチェスターM1873は飛ぶように売れ、「西部を征服した銃」と呼ばれるライフル銃の歴史に残る大ヒット商品だったらしいのだが、ここではその中でも特別に出来の良い銃が持ち主を変えて転々としていくうちに、手にした人が非業の死を遂げていく話となっている。
ありそうな筋立てで、日本でも妖刀「村正」をめぐる話としてありそうなものだ。
「ウィンチェスター銃'73」はストーリーの引継ぎに無理がなく、楽しめる西部劇となっている。
リン・マカダムとハイ・スペードがドッジ・シティにやってくる。
ここでは僕たちになじみのある人物が登場してきてワクワクさせるものがある。
すなわち、保安官のワイアット・アープであり、弟のバージルである。
バット・マスターソンも登場する。
さすがにワイアットはそれなりの役割を担っているが、バージルやバット・マスターソンは顔見世程度にかかわらず、名前があるだけで何となく楽しくなってくる。
モノクロ作品なのでシルエット的に捕らえられる映像にも惹き付けられる。

町では独立記念日を祝って射撃大会が催され、優勝の景品がタイトルとなっているウィンチェスター銃である。
優勝争いはリン・マカダムと、彼が追っているらしいダッチの二人になる。
二人は甲乙つけがたい腕前で、銃の師匠が同じらしいことが語られる。
このことは大きな伏線となっていて、最後にリン・マカダムがダッチを追っている理由と、さらに大きな秘密が明かされることになる。
そのシーンになってはじめて、あそこで語られていたことはそう言うことだったのかと納得する。
ダッチたちはドッジ・シティから逃げる時に銃をアープに預けていたために銃も弾丸も持っていない。
そこで銃の売人の居る店に行ってポーカー勝負を挑む。
売人のラモントは大きな勝負は嫌だと言いながら、ダッチから持ち金をすべて巻き上げてしまう。
どう見てもイカサマをやっているように見えるのだが、その事は描かれていない。
ラモントは賭けに勝ってウィンチェスター銃'73を手に入れるが、先住民に殺され銃は先住民に渡ってしまうのだが、ここでもカスター将軍の名前が出てきて全滅したことが語られている。
インディアンの襲撃は西部劇の見せ場の一つで、この作品でも描かれているが、攻撃前に整列するインディアンのショットが壮観である。

ヒロインとしてローラという女性が登場するが、彼女の婚約者らしいスティーブは意気地のない男で、ローラの気持ちが離れつつあることを描いるのは、リンとの関係を考えると当然なのだが、意気地がない描き方はインディアンの襲撃を受けた時と合わせて上手い脚本だ。
しかしローラは席をはずせと言われてはいたが、銀行襲撃の話を聞いていなかったのだろうか。
酒場でピアノを弾いているが、酒場にいる人たちに銀行強盗のことをどうして知らせなかったのだろう。
本当に何も知らないでピアノを弾いていたのだろうか。
リンに左手に注意と警告しているが、ワコ・キッドの左手にどのような危険性があったのかよく分からなかったが、名銃をめぐる物語としてまとまっている西部劇の佳作といえる。

ウィスキー

2020-10-30 09:01:41 | 映画
2019/1/24~1/31まで「う」を掲載していましたが
それの追加できょうから再び「う」を始めます。


「ウィスキー」 2004年 ウルグアイ / アルゼンチン / ドイツ / スペイン


監督 フアン・パブロ・レベージャ / パブロ・ストール
出演 アンドレス・パソス
   ミレージャ・パスクアル
   ホルヘ・ボラーニ
   アナ・カッツ
   ダニエル・エンドレール

ストーリー
ウルグアイのとある町でハコボは、父親から譲り受けた小さな靴下工場を細々と経営している。
その工場では、控えめだが忠実な中年女性マルタが彼の片腕として働いている。
二人は長年仕事をしていても、必要な会話を交わす以上の関係になることはなかった。
1年前に亡くなった母親の墓石の建立式に、疎遠になっていたハコボの弟エルマンが来ることになる。
ハコボは弟が滞在する間、マルタに夫婦の振りをして欲しいと頼むと、意外にも彼女はすんなりとその申し出を受け入れる。
そして、エルマンがウルグアイにやってきた。
兄弟はサッカー観戦に行き、その途中立ち寄ったハコボの工場を見たエルマンは、工場の改装を勧め、力になると言う。
エルマンは、お礼にハコボとマルタをピリアポリスに招待すると言い出し、ハコボはしぶしぶ同意する。
滞在の最後の夜、エルマンはハコボに対し、母親の介護を任せきりにしていたことを謝り、お詫びとして札束の入った包みを渡そうとする。
そして夜中、部屋から抜け出したハコボはもらったお金を全てカジノで賭けて、大儲けしてしまう・・・。


寸評
とぼけた味の辛辣なコメディとも言える映画である。
見れば何故これが「ウイスキー」という題名なのかが納得できる。
年に何本も製作されないらしいウルグアイ映画だが、数少ない中にこのような映画が存在していることに驚く。
会話は少ないけれど、見終われば、偽装夫婦、真実を隠しての旅となかなか劇的な設定だったことが分かる。
そして、最後に起こる静かな大事件など、描き方によってはいくらでも劇的に描ける素材を有していながら、それをオフ・ビートな感覚で料理しているところが、かえって物語をドラマチックにしている。
最後まで声高に叫んでいないところが首尾一貫していて、この映画を味わいある作品に仕立て上げていた。

登場人物は3人といってよく、話としては兄のハコボとその妻を演じることになったマルタの物語と考えていい地味な映画だが実に面白い。
ハコボがやっている小さな工場の中で、単調な日常を飽きることなく毎日繰り返しているふたり。
長年一緒に仕事をしているのに、会話らしい会話はまるでないのだが、しかし互いを同類だと認め合うような気安さと信頼感があるようだ。
その単調さが結構丁寧に描かれるので、その後のマルタの変化が静かな変化なのにインパクトを持ってくる。
これはウルグアイの映画だが、高齢者を取り巻く状況は洋の東西を問わない。
変化することから切り離され、変わりばえのしない時間を生きるようになってしまうのが高齢者だ。
しかしそれでも尊厳を全て失ってしまうわけではない。
まだまだ、世の中に、誰かに、必要とされていることを実感したいと思うようになるのではないかと思うのだ。
ハコボやマルタは擬似夫婦を演じることでそれを感じたのではないかと思う。
面白いのはマルタがエルマンからも必要とされるようになり、輝きを見せ始めることだ。 面白い! 上手い!

ハコボの弟のエルマンがやってくることで、かりそめの夫婦役をやることになるのだが、エルマンがやってくる直前、美容院に行ったりおしゃれをしたり、身ぎれいに装うマルタの姿が描写される。
渋々引き受けた妻役なのだが、どこか今までの平凡な生活と違う何かを期待していることをうかがわせて、なかなかうまい演出だと感じた。
普通だと、ハコボとマルタが夫婦の真似事をするうちに、互いを意識するようになって最後は結ばれるという展開なのだろうが、しかしこの映画はそれとはまったく逆なのがユニーク。
マルタは憂鬱そうな表情を見せるし、ハコボも苛立ちを隠せない。
それはあたかも相手が自分の想像していた人ではなかったという失望の表れのようでもある。
女はいくつになってもしたたかで、あんたの思い通りにはならないのだよと言っているようなラストはくすぐったい。

BRICSと呼ばれる中の一国として経済発展が目覚ましいブラジルだが、ウルグアイから見ればブラジルは本当に裕福な国で、その国力の差がハコボとエルマンの兄弟にものしかかっていることも描いていて社会性を加味している。
そのくせ靴下を巡るエピソードなどには苦笑させられ、決して陰湿でないところが良い。
いい作品てどこの国にもあるもんだなあ。

インビクタス/負けざる者たち

2020-10-29 07:55:34 | 映画
「インビクタス/負けざる者たち」 2009年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 モーガン・フリーマン
   マット・デイモン
   ザック・フュナティ
   グラント・L・ロバーツ
   トニー・キゴロギ
   マルグリット・ウィートリー

ストーリー
1990年、アパルトヘイトに反対し27年間も投獄されていたネルソン・マンデラがついに釈放される。
そして1994年、初めて全国民が参加した総選挙が実施され、ネルソン・マンデラは南アフリカ初の黒人大統領に就任する。
しかしアパルトヘイト撤廃後も、白人と黒人の人種対立と経済格差は依然として解消されず、国家はいまだ分断状態にあった。
マンデラ大統領にとって国民の統合こそが悲願であり、自ら寛容の精神で範を示し、国民に和解と融和を呼びかける。
ある日、ラグビー南ア代表の試合を観戦したマンデラの頭の中で何かが閃いた。
そして、翌95年に南アフリカで初開催されるラグビーW杯を国民融和の絶好のチャンスと捉える。
彼は、長らく国際試合から閉め出され弱小化していた代表チームのキャプテン、フランソワを官邸に招き、国を一つにまとめるためにW杯での優勝が欠かせないと訴えかける。
南アではラグビーは白人が愛好するスポーツで、黒人にとってはアパルトヘイトの象徴。
しかし、1年後に南アで開催されるラグビーのワールドカップで南アのチームが勝てば、それが人種間の和解につながるかもしれない…と。
戸惑いつつも、大統領の不屈の信念に心打たれたフランソワは、やがて誰もが不可能と考えた優勝目指してチームを引っ張っていくのだが…。


寸評
この映画の魅力の一つは人間マンデラのもつ大きさである。彼は27年間も投獄され独房生活を強いられたのだが、それでも人を許し受け入れる心の広さを持つ人物である。そのマンデラをモーガン・フリーマンが飄々と演じて、まるでマンデラその人であるが如くであった。
思い起こせば、スティーヴン・フリアーズ監督作品の「クイーン」でエリザベス女王を演じたヘレン・ミレンにもそのように感じたのだが、役者の凄さを思い知らされるようで、それだけでも一見の価値ありである。
人間的にも偉大な人物であることを描きながらもその一方で、マンデラと家族との確執なども描いて、その人物像に厚みを出しているのだが、その確執の詳細は描かれていないので、物語としての重苦しさはない。換言すれば深みがないといえる。

もうひとつの魅力は、マンデラの指導者としての高い理想と行動力、実行力で、国民の融和にむけて突き進む彼の姿であった。自身の危険も顧みず、それを恐れれば指導者としての資格はないと突き進む誇り高き姿は、指導力をなくし、国家の方向性すら示しえない我が国の指導者と照らし合わせると、その違いがあまりにも歴然としていて、公開がタイムリーすぎると感じてしまった次第でああった。
やがて彼の思いが、ラグビーチームが黒人の子供たちにラグビーを教えるエピソードや、大統領の警護担当の白人と黒人の対立と和解など、いくつものエピソードを積み重ねることで、叶えられていくようすを描き出す。
しかしこれらも執拗に描き続けるのではなく、実にあっさりと描いている感がある。
その為、ここでも政治映画的な息苦しさをもたらすことはない。

魅力の圧巻は何と言ってもスポーツ映画としての魅力であった。
イーストウッドはラグビーファンだったのかと思わせる演出であった。
イングランド代表、ワラビーズ(オーストラリア代表)とのテストマッチや、大会での西サモア戦やフランス戦などが割と簡単に描かれていたので、決勝戦のオールブラックス戦(ニュージーランド)の迫力がことさら際立つことになった。
ボールをキックする力強い音響とともに、ロムーの突進を止めるタックルやスクラムの迫力が、ぶつかり合う効果音によって手に汗握らせた。実話なので試合結果は分かっているのにこの熱の入れようを引き出したのは凄い。
試合は両チームともペナルティゴールのみで同点のまま終わり、初の延長戦となり、これまたお互いペナルティ・ゴールのみですすむ。
そもそも強いチーム同士が試合をするとなかなかトライは生まれないものなのだ。
ドラマならここで起死回生のトライが生まれるのだろうが、事実はそうはならなかった。
それでも劇的なドロップゴールが決まり南アが逃げ切った。
キャプテン・フランソワのキャプテンシーも描かれてラグビーファンとしては、滅多にない題材だけにずいぶんと楽しめた。

もっともチームのモチベーションも低下していた弱い(日本よりは相当強い)ラグビーチームが、マンデラのバックアップを受けて、どんどん力をつけて奇跡を起こしていくという感じはしない。
これは、ラグビー映画とは言え、人間マンデラを描く手段として使われているためだろう。アパルトヘイトでの黒人の苦しみや新政権での改革と融和というものが、もう少し重ければもっと重厚な作品になっていたかもしれない・・・。
もっともイーストウッド作品はどのような映画でも水準を超える映画になることを知らしめた作品でもあった。

インサイダー

2020-10-28 07:58:41 | 映画
「インサイダー」 1999年 アメリカ


監督 マイケル・マン
出演 アル・パチーノ
   ラッセル・クロウ
   クリストファー・プラマー
   ダイアン・ヴェノーラ
   フィリップ・ベイカー・ホール
   ジーナ・ガーション

ストーリー
CBSの人気報道番組『60ミニッツ』のプロデューサー、ローウェル・バーグマンはタバコ産業の極秘資料を入手し、この資料に対して調査する価値があると考える。
彼は全米第3位の企業ブラウン&ウィリアム(B&W)社の元研究開発部門副社長ジェフリー・ワイガンドと接触を果たす。
彼はB&W社が利潤追求のために、タバコに不正な手段で人体に有害な物質を加えているという秘密を握っていたが、病気の娘の医療手当をはじめ家族の生活を守るため、B&W社の終身守秘契約に同意していた。
彼は以前働いていた誠実な会社であるヘルスケア会社と現在のタバコ会社を比較し、秘密をどうにかしようとするも、家族のことを思うと決断ができずにいた。
彼がマスコミと接触したことを知ったB&W社は、陰日向に彼とその家族に圧力と脅迫を加える。
ヴィンガードはこの件を連邦捜査局に通報したが、捜査担当者は彼に敵対的な態度をとった。
信念と生活への不安の板挟みでワイガンドは苦悩するが、ついに『60ミニッツ』のインタビューに応じ、法廷で宣誓証言することを決意。
番組の看板ジャーナリスト、マイク・ウォレスのインタビュー収録も終わったが、ここで問題が発生。
CBS上層部はタバコ産業との訴訟沙汰を恐れ、番組ではワイガンドのインタビューをカットして放映する決定を下したのだ。
さらにタバコ産業はワイガンドの旧悪を暴露するネガティブ・キャンペーンを展開。
バーグマンも『60ミニッツ』を降板させられた。
だが、彼は事件の真実を『ウォールストリート・ジャーナル』にリーク、全てを表ざたにして、ついに番組の放映を実現させるのだった。


寸評
日本において実話をモデルにしている作品では仮名を使うことを常としているが、アメリカ映画では実名で描かれることがほとんどである。
ここで描かれているB&W社はブラウン・アンド・ウィリアムソンというノースカロライナ州に拠点を置いていたタバコの製造販売会社で、現在のブリティッシュ・アメリカン・タバコの前身でもある。
ニコチンのしへき性を知っていた証拠となる内部文書を曝露されたことでも知られているが、本作はその事件をモデルにして描いている。
内部告発を行うのはラッセル・クロウが演じるジェフリー・ワイガンド博士であるが、彼は退職金や喘息を患っている娘の医療保険の継続の為に守秘義務契約を結んでいる。
家族の生活を守るために苦悩する彼の姿が痛ましい。
ニュース番組のプロデューサーであるアル・パチーノ演じるローウェルは「家族を養うために金を稼ぐことのどこが悪い」とジェフの行為を擁護する。
サラリーマンなら誰しもが思うことで、家族を守る為に所得が減るようなことはしたくないし、身分や所得が守られるなら会社の要求を飲むのが普通の感情だと思う。
一方で、不都合な内部告発を表ざたにしたくない潜在的な気持ちはどの会社にもあるだろう。
匿名を維持する内部告発の窓口を設けておきながら、実際に内部告発が寄せられると事実確認と共に告発者を推測しだしたりするもので、告発者がむしろ会社側から白い目で見られたりすることも有る。

B&M者には法務部門があり、有能な法律事務所も抱えており資金力もある。
内部告発をしようものなら、彼らは退職金のカット、保険の停止、ネガティブキャンペーンを張って告発者の証言を疑わしいものとするイメージ作戦もやるし、法に触れない範囲での脅迫行為も行う。
ジェフは妻にクビになったことは伝えているが、自身の置かれている立場を言いそびれている。
ニューヨークに行った時の夫婦間の気まずい雰囲気は身につまされる。
夫婦と言えども言いにくいことはあるものだ。
ジェフは完璧な人間ではなく妻を殴ったこともあるし、怒りっぽい性格もあるようだ。
ごく普通の人間だと思うが、そのジェフリー・ワイガンドという男をラッセル・クロウが見事に演じている。

一方のアル・パチーノは情報源は必ず守るということを信条としているジャーナリストだ。
その信条の為にかれは会社を辞める決意をするので、ローウェルもまた葛藤しながら仕事をしていたのだ。
情報源を守るために人脈を使ってリークしていく様子は、ジャーナリズムの凄さを見る思いがする。
テレビという映像メディアのプロデューサーである彼が、ニューヨーク・タイムスなどの紙ベースのメディアを頼るのが面白いが、現実にもそうだったのだから持ちつ持たれつの所があるのかもしれない。
彼の活躍によってインタビューは放送されて人々の関心を買い、ジェフの名誉も回復されたようだが、奥さんとはどうなったのだろう。
彼の言う「名声はすぐに忘れ去られるが、汚名は長く忘れられない」は含蓄のある言葉である。
名声は忘れ去られても、個人にとってそれは誇りであり生きてきた証でもある。
人は死して名を遺す・・・彼らが名声を得たのは当然だ。

いまを生きる

2020-10-27 08:40:13 | 映画
「いまを生きる」 1989年 アメリカ


監督 ピーター・ウィアー
出演 ロビン・ウィリアムズ
   ロバート・ショーン・レナード
   イーサン・ホーク
   ジョシュ・チャールズ
   ゲイル・ハンセン
   ディラン・カスマン

ストーリー
1959年、バーモントの全寮制学院ウェルトン・アカデミーの新学期に、同校のOBという英語教師ジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムス)が赴任してきた。
学生たちはノーラン校長(ノーマン・ロイド)の下、厳格な規則に縛られていた。
キーティングの風変わりな授業に学生たちは最初はとまどうものの、次第に行動力を刺激されて新鮮な考えに目覚めてゆくのだった。
ある日生徒のニール(ロバート・ショーン・レナード)は学校の古い年鑑に、キーティングが学生時代に『デッド・ポエッツ・ソサエティ』というクラブを作っていたことを見つけた。
ニールは、ダルトン(ゲイル・ハンセン)やノックス(ジョシュ・チャールズ)らと共に、近くの洞窟でそのクラブを再開させる。
ニールの同室である転校生のトッド(イーサン・ホーク)も、誘われるままそれに加わった。
そして彼らは自らを語りあうことで自分がやりたいものは何か自覚してゆくのだった。
ノックスはクリス(アレキサンドラ・パワーズ)という娘との恋を実らせ、ニールは俳優を志し『真夏の夜の夢』の舞台に立った。
しかし父親(カートウッド・スミス)に反対され、陸軍士官学校に転校させられることになったニールは自ら命を絶った。
この事件を捜査する学校側は、退学処分を切り札にデッド・ポエッツ・ソサエティのメンバーに証言を強要し、やがてそれは煽動者としてキーティングの責任問題に結びつけられ、彼は退職を余儀なくされる。
キーティングが学院を去る日、トッドたちは校長の制止も聞かず机の上に立ちキーティングを見送る。
それは彼らのせめてもの抵抗の証しであった。


寸評
ニューイングランドの景色が美しい。
雪景色もいいし、自転車でカモの大群の中に突っ込んでいくシーンなども感動する。
そんな中に全寮制の男子校があり、どうやら名門の進学校であるらしい。
伝統校にありがちだが、規則には厳しく学校方針に反する行為を許さない体質がある。
新入生たちと新任教師の交流を描いていくが、新任教師キーティングの授業は一風変わったものだ。
彼は教科書を否定し、押し付けられたものだけを信じるのではなく、自らの考えで行動することを指導していく。
詩を数学的に解析する教科書を生徒たちに破り捨てさせる。
教壇の上に立つと見える景色が違ってくると自ら机の上に立ち、生徒たちに実践させる。
中庭を自分の意志で自由に歩かせるような授業も行う。
歩かないのも自由だと言う生徒の意見も尊重する。
たしかに変わった先生である事には違いはなく、かれのユニークさは観客にも伝わってくる。

キーティングはこの学校の卒業生で、在校時に学校によって禁止されたサークルを主導していたことがある。
生徒たちは復活させたサークルを通じた交流と、キーティングの指導で自らの意思に芽生えていく。
或る者は恋に、或る者は演劇にと突き進んでいき、仲間たちはその行為を応援する。
そんな学園生活は微笑ましくもあるが、ちょっと散漫で端折りすぎたきらいはある。
もう少し描き込んでいたら終盤の出来事はもっと怒りと悲しみと感動を呼んだだろうと思う。

彼等に対抗するのは学校側ではなく、ニールの父親がその役割を担っている。
学校側の権威主義、事なかれ主義は最後にしか出てこない。
父親は入学時から息子に対して高圧的で、息子を自分の思い通りに導こうとしている。
親の気持ちとしては普通の気持ちでもある事は分かりもするが、あまりにも自分の意思を息子に押し付けて過ぎていることは間違いない。
子供を導くのは親の責任でもあるが、この責任の果たし方の難しさを知らされる。
話の都合上、この父親は極端ではあるが、息子もその父を恐れていて良い子であろうと努めているようだ。
しかし息子はいつかは親の庇護のもとから巣立っていく。
親は子供の変化に気がつかず、毎年同じ立派な学習備品を誕生日プレゼントとしている。
これも極端と言えば極端な描き方ではあったが、親子の断絶を描くエピソードであった。

演劇を志望したニールの自殺の責任を取らされる形で新任教師のキーティングが学園を去っていく。
内気だったトッドは机の上に立てば違う世界が見えると言うかつてキーティングが教えたことを思い出し机の上に立ってキーティングを見送る。
やがてそれに賛同した教え子たちが次々と好調の制止を振り切って立ち上がる。
どうしてここで僕は大粒の涙を流したのだろう。
それは年老いてしまった僕が、若者たちが自ら判断する力を身に着け、従来の因習を打ち破ろうとする若者の成長した姿に感動し、彼等に拍手を送ったからに他ならない。

イヴの総て

2020-10-26 08:06:22 | 映画
「イヴの総て」 1950年 アメリカ


監督 ジョセフ・L・マンキーウィッツ
出演 ベティ・デイヴィス
   アン・バクスター
   ジョージ・サンダース
   セレステ・ホルム
   ゲイリー・メリル
   ヒュー・マーロウ

ストーリー
アメリカ演劇界最高の栄誉であるセイラ・シドンス賞が、新進女優イヴ(アン・バクスター)に与えられた。
満場の拍手のうち、イヴの本当の姿を知る数人の人達だけは、複雑な表情で彼女の受賞を見守るのだった。
8ケ月前、劇作家ロイド(ヒュー・マーロウ)の妻カレン(セレステ・ホルム)は、毎夜劇場の楽屋口で大女優マーゴ(ベティ・デイヴィス)に憧れの目を向けている田舎娘イヴを知り、マーゴに紹介した。
その哀れな身上話はひどくマーゴを感動させ、イヴはマーゴのアパートに住込んで秘書の役をすることになったのだが、イヴの利発さにマーゴは愛情とともに次第に警戒心を抱きはじめた。
ある夜、マーゴの恋人である演出家のビル(ゲイリー・メリル)に対するイヴの厚かましい態度に、マーゴは怒りを覚えるのだが、カレンにとりいったイヴは、マーゴの知らぬうちに批評家アディスン(ジョージ・サンダース)に真価を認められるに至った。
マーゴはビルやロイドに当り散らし、その横暴さはカレンまで立腹させ、カレンはマーゴをこらしめるため自動車旅行の途中でわざと車のガソリンを抜いてマーゴを欠勤させ、イヴを舞台に立たせた。
処女出演は大成功で、アディスンは殊更マーゴの老齢を当てこすってイヴへの賛辞を書きたてた。
この記事でカレンも態度をひるがえしかけたところ、ビルに言い寄って失敗したイヴは逆にガソリン事件を種にカレンを脅迫し、ロイドのマーゴ用脚本をせしめた上、彼を籠絡した。
しかしロイドと結婚してブロードウェイを征服しようとしたイヴは、過去の偽りにみちた正体と汚ないヤリ口の証拠をすべてアディスンが握っていることを知った。
かくしてイヴは、1枚上手のアディスンにあやつられたまま、ほかの人々を踏台にして、栄誉の席についたのだったのだが、受賞の夜、アパートに帰ったイヴは、フィービー(バーバラ・ベイツ)という演劇志望の少女が部屋に座りこんで彼女の用を足すのをみたのだが、少女は8ケ月前にイヴがマーゴの衣裳でしたのと同じことをする。


寸評
体力が基本にあるスポーツの世界を初め、どの社会にも世代交代はある。
この作品でも人気女優の座を巡って新旧の交代劇が描かれているが、その内容は若い娘が取り入った人々を踏み台にしてのし上がっていくというもので、イヴという野望を秘めている美人で聡明な若い娘が豹変していく様をアン・バクスターが好演している。
それでも僕は40歳になって不安を感じている大女優マーゴを演じたベティ・デイヴィスに興味が行った。
ベティ・デイヴィスという女優というより、マーゴと言う女性にこの映画の魅力を感じる。
実力派としての地位を確立しているマーゴには演出家のビルという年下の恋人がいるのだが、マーゴはこれから歳を取っていった時の自分を思うとビルとの関係に不安を感じている。
マーゴは紛れもない本物の大女優だが、年齢からくるキャリアへの不安と結婚という安定を求める気持ちの間で思い悩んでいるのだ。
悩んでいるのはマーゴだけではない。
脚本家の夫を持つカレンは芸術家としての夫を支えてきたけれど、夫がいなければ一体自分は何者なのかという不安を覚えている。
年齢、役割、人生に対する女性の悩みが適量で盛り込まれていて、物語に深みを感じさせる脚本は素晴らしい。
大女優の傲慢さからくるマーゴの態度にはイラ立つものがあるが、それを大喧嘩をしながらも優しく包み込むビルが心の綺麗な男として描かれており、イヴと反対側にいる人間として得な立ち位置に居る。

対比と言えば、ニューヨークのブロードウェイとロスアンゼルスのハリウッドという二つの世界も見て取れる。
ブロードウェイを去ってハリウッドを目指すといった例は、現在に至るまで珍しくもないだろうし、生粋の演劇人からすれば苦虫をかみつぶしたくなることもあるだろう。
作品中でもその事が描かれ、イヴもハリウッド進出を果たしている。
年齢が若い設定の役を、マーゴのような大物が演じ続け、客を呼べるネームバリューを過度にありがたがることの是非も述べられ、そのために若い俳優が活躍できないのだと弾劾する主張も盛り込まれている。
ジョセフ・L・マンキウィッツ監督の演劇界への問題提起なのかもしれない。

人を踏み台にするといった明らかな悪意はなくとも、同情をかうことで自分の立場を優位にするとか、誰かの好意を利用する形で物事を推し進めるなどは想像の範囲内だ。
その意味では「イヴの総て」には時代を超えた普遍性があるともいえる。
ラストのシーンは、第2第3のイヴあるいはその予備軍は無数に存在することを表現している。
女優がもてはやされるのは虚飾の世界なのだろうが、その中で女優を目指す女性の醜い部分を描きながら、一方でそれでも女優は魅惑的な職業なのだと女優賛歌しているように僕には思えた。
女優の卵を演じるのが当時無名だったマリリン・モンローだ。
大した役ではなく、着飾ってマーゴのパーティを訪れる大根役者の役である。
有力者に顔を売るよう同伴者にけしかけられて、いそいそと男性陣の方へと向かうシーンがある。
セックス・シンボルとして大スターの仲間入りをしたモンローを僕たちは知っている。
それを思うと何かしら思わせぶりで切ないものを感じる場面だった。

いつか晴れた日に

2020-10-25 08:25:41 | 映画
「いつか晴れた日に」 1995年 アメリカ


監督 アン・リー
出演 エマ・トンプソン
   アラン・リックマン
   ケイト・ウィンスレット
   ヒュー・グラント
   グレッグ・ワイズ
   イモジェン・スタッブス

ストーリー
19世紀初頭、イングランド南西部はサセックス州の私園ノーランド・パークの主ヘンリー・ダッシュウッドは臨終の床で、先妻の息子の長男ジョンに、現在の妻ダッシュウッド夫人と3人の娘たちの世話を託して死ぬ。
ジョンは彼女らの世話をしようとするが、強欲な妻のファニーがそれを阻止、父の遺言は反故になる。
ファニーはノーランド・パークに乗り込み、ダッシュウッド夫人らを新しい家に追い立てようとする。
分別ある長女エリノアは礼を尽くすが、多感な次女のマリアンヌはあからさまに嫌悪の情をみせ、おてんばな三女マーガレットは隠れているばかり。
そんな折り、ファニーの弟エドワード・フェラースがパークを訪れ、礼儀正しく控え目な彼にエリノアはひかれ、二人はやがて親密な仲になった。
二人の結婚を夢見るダッシュウッド夫人だったが、ファニーは「貧乏娘が金持ちにたかろうとしている」と彼女を侮辱し、怒った夫人は従兄のジョン・ミドルトン卿の申し出を受け、彼の小さな別荘バートン・コテージに引っ越すことを決めた。
つましい生活をはじめる母娘の前にジョン卿の親友で隣人のブランドン大佐が来訪し、マリアンヌに会うや一目で彼女を愛するようになる。
ところがその矢先、マリアンヌは彼女の前に現れた若く魅力的な紳士ジョン・ウィロビーに虜になる。
ある日、ウィロビーはマリアンヌに明日重要な話をすると語り、皆はプロポーズを期待。
翌日、マリアンヌを残し教会へ行った一家が戻ると、泣きじゃくるマリアンヌの姿があり、ウィロビーは理由を言わず、資産家の叔母レディー・アレンの言いつけでロンドンに戻ると逃げるように去っていった。


寸評
「いつか晴れた日に」というタイトルもいいが、原作のタイトルが「分別と多感」ということで、分別を姉のエリノアが受け持ち、多感を妹のマリアンヌが担当している。
その他に彼女たちを取り巻く重要な人物がそこそこ登場してくるのだが、それぞれの人物描写には粗さがある。
長女を演じたエマ・トンプソンが脚色しているのだが、彼女の脚本が描き切れていないのか、それともアン・リー監督の描写不足なのかは判断しかねる。
しかし彼女たちの多難な恋を描き、最後には「ああよかった!」と思わせるのだから、納得の演出である。

人物描写ではっきりしているのが、財産を引き継いだジョンの妻であるファニーの欲に目がくらんだ、観客からは嫌われる姿である。
ジョンとファニーの夫婦は完全に妻のファニーが主導していて、エリノアたちに渡す遺産の額をどんどん下げていく提案に、父親との約束はどこ吹く風でジョンは簡単に同調してしまう。
風貌からして白雪姫に出てくる魔女のような感じで、描き方としては一番単純だ。
ファニーは兄のエドワードが相当かわいかったらしくて、当初はかわいがっていたルーシーが弟を選ぶと手のひらを返して鬼の形相となるのだが、この親子の関係は描き切れていないので僕はしっくりこなかった。
ルーシーもファニーと似たような所があり、この二人は似た者同士で先が思いやられる。

マリアンヌが思いを寄せるウィロビーも登場した時点からあやしい男を感じさせる。
ラストでマリアンヌの結婚式を遠くから見守る姿を描くことで、マリアンヌに対する愛情は本物であったことを表現しているのだろうが、持参金付きの令嬢を選択せざるを得ない心情がイマイチわかりにくい。

三姉妹の母であるダッシュウッド夫人はなんだか日和見的な人物で、当初は持ち上げていたウィロビーを最後には「ウィロビーは時々嫌な目をしていたもの」と言い出す始末である。

ジェニングス夫人とその娘であるパーマー夫人は兎に角、人は良さそうなのだが賑やかな人である。
夫パーマー氏は眼力鋭く、無口で一見すると怖い人なのだが、実はとても親切かつ気配りのできる好人物で、この人がジェニングス夫人の娘と結婚した理由が想像もつかない。

ブランドン大佐のアラン・リックマンは儲け役で、あの「ダイハード」における憎らしい役からかけ離れた誠実な男を好演している。
大佐はどう見ても四十代でマリアンヌが嫌がる気持ちもわからぬでもないが、それにしてもマリアンヌから不憫な扱いを受け続けるのでかわいそうになる。
状況が変わると態度を変えるのは偽りの愛で、状況が変わっても態度を変えないのが本当の愛なのだと、書物の一節が紹介され、それがこの映画のテーマでもあったのだろう。
きめ細やかに描いていたら、最後はもっと盛り上がったような気もするが、予想通りの結末で観客であるこちらまで幸せな気分にさせてくれているので満足感はある。
それにしてもイギリスの貴族社会って変な社会制度の下にあったんだなあとの印象が僕には一番だった作品。

一枚のハガキ

2020-10-24 09:32:10 | 映画
「一枚のハガキ」 2011年 日本


監督 新藤兼人
出演 豊川悦司 大竹しのぶ 六平直政 大杉漣
   柄本明 倍賞美津子 津川雅彦 大地泰仁
   川上麻衣子 絵沢萠子 麿赤兒 渡辺大

ストーリー
戦争末期に召集された100人の中年兵は、上官がくじを引いて決めた戦地にそれぞれ赴任することになっていた。クジ引きが行われた夜、松山啓太は仲間の兵士、森川定造から妻・友子より送られてきたという一枚のハガキを手渡される。
検閲が厳しくハガキの返事が出せない定造は、生きて帰って来られないことを覚悟し、宝塚へ赴任する啓太に、もし生き残ったらハガキを持って定造の家を訪ね、そのハガキを読んだことを伝えてくれと依頼する。
戦争が終わり100人いた兵士のうち6人が生き残った。
その中の一人、啓太が故郷に帰ると、待っている者は誰もおらず、家の中は空っぽだった。
啓太が戦死したという噂が流れ、恋人同士になってしまった妻と啓太の父親は、啓太が生きて帰ってくるとわかり二人で出奔したのだった。
生きる気力を失った啓太だったが、ある日、荷物の中に定造から託されたハガキを見つける。
一方、夫を亡くした友子は悲しみに浸る間もなく、舅姑から自分たちは年老いて働けないのでこのまま一緒に暮らしてほしいと頼まれ、その上、村の習わしで長男が死んだら次男が後継ぎとなることが決められており、友子には次男の三平と結婚をしてほしいという。
他に身寄りのない友子は、愛する夫との幸せな人生を奪った戦争を恨みながらも、定造の家族と生きていくことを承諾していたのだったが・・・。


寸評
このたぐいの映画としてはテンポが良い。定造、三平の出征と死を伝えるシーンは良くありそうな演出だが、簡潔で余計な説明が入らず良かったと思う。
舞台はすごい田舎を想像させるが、山道のシーンがあるだけで、村そのものを映し出すことはない。そのくせ、この貧しい一家の母屋と小屋だけで周囲全体をイメージさせてしまう。この雰囲気を醸し出したこの農家のセットは功績大であった。

豊川悦司が叫ぶ「戦争はまだ終わっちょらん!」は経済白書が1956年に「もはや戦後ではない」と記述したことを思い起こさせた。啓太の叫びは、今に至るまで日本自身が先の戦争の総括をしないままに復興を遂げ、そのため戦争の呪縛から逃れられず矛盾を抱えたままの現社会への叫びでもあると僕は感じた。
生き残ってしまったものの苦悩は時々描かれるテーマだが、クジで生き残ったような主人公の場合などはなおさらなのだろう。「もう一度クジを引かせてくれ」と懇願するが、当たりクジであることを願わずにはいられない。だとすると、生き残りくじははたして当たりくじであったのだろうかと思わせるが、しかし生き残っていなければ次のクジを引くことは出来ない。
”生きて帰る”の思いは戦死者全てが抱いた気持ちだったのだと知らされた。友子をめぐる二人の男の殴り合いは、国家のために争うより、女のために争う方が人間らしいのだと言っているようでもあった。(そうかも知れないが、それでだけでいいのかなあ…)
出色は松山啓太が友子から「なぜあんたは生きているのか」と責められ、妻からは「なぜ死ななかったのか」と対照的に責められるシーンと、家の思想に犠牲となっていく女を表すシーンとして、友子が迎える三平との初夜の場面。どちらも時代に翻弄されるあわれな人間を表現した秀逸な場面だった。

二人が天秤棒を担いで水汲みをするシーンは「裸の島」へのオマージュだったのだろうか?大竹しのぶに乙羽信子さんが重なることはなかったが、「裸の島」の乙羽さんに匹敵する熱演であった。あちらはセリフが全くなくて乙羽さんの泣き叫ぶシーンだけが彼女の発声シーンだったが、こちらは大竹しのぶさんが時に静かに、時に大声で叫びで好対照だったが、それにしても大竹しのぶさんの一人芝居と言っても良いくらいの存在感であった。悟りきったような表情を見せたかと思うと、したたかな女の強さも見せるし、相手を叩きのめすような叫びも発する。この人の普段ののほほんとした雰囲気(演技ではないと思うが)とは全く違う表情を見せる。役者さんだと感じさせる。
僕は見ていて同監督の「午後の遺言状」を思い出していた。
一つは、この地方の土着民族芸能である大蛇が舞い、首を切り落とされるシーン。「午後の遺言状」でも足入れ婚の儀式が有り、土着芸能が執り行われる中で若い二人が結ばれるシーンがあった。どちらも古い因習に縛られながらも、それを乗り越えていく力の様なものを感じさせて、新藤監督にはそのような感覚が根付いていたのではないだろうかと想像した。
もう一つは、大杉漣の治安隊長が狂言回し的に登場している点で、「午後の遺言状」では警察署長がその役回りだったように思えた。もっとも、こちらは登場シーンも多くて、場内からは数シーンで失笑が漏れていた。彼の登場は暗くなりがちな映画をエンタティンメント化していたと思う。この辺は同じく復員兵を扱った「キャタピラー」などとはスタンスが違うと思うし、僕がイメージしている新藤監督の演出とはかけ離れたものだった。もっと、もっと新藤作品を見たい気もするが、ご苦労様でしたの声もかけたい気がする。

一番美しく

2020-10-23 07:39:58 | 映画
「一番美しく」 1944年 日本


監督 黒澤明
出演 志村喬 矢口陽子 清川荘司 菅井一郎
   入江たか子 谷間小百合 山口シヅ子
   尾崎幸子 西垣シズ子 鈴木あき子
   登山晴子 増愛子 人見和子

ストーリー
兵器に搭載される光学機器を生産している東亜光学平塚製作所では、戦時非常態勢により生産の倍増を計画発令する。
男子工員は通常の2倍、女子工員は1.5倍という目標数値が出されるが、女子組長の渡辺ツル(矢口陽子)を筆頭とする女子工員達は、男子の半分ではなく2/3を目標にしてくれと懇願、受け入れられる。
奮発する女子達だが目標達成は生易しくはなく、一時的に上昇した生産高は疲労や怪我、苛立ちから来る仲違い等により下降する。
しかし、女子工員達の寮母や工場の上司達の暖かい協力、そして種々の問題を試行錯誤しながら解決し、更に結束を強めた彼女達の懸命な努力は再び報われ始める。


寸評
制作公開された時期を思うとまだ本土爆撃は受けていなかっただろうが、戦況は敗戦の道をたどっていた時期の筈で、本土への爆撃は直前に迫っていた頃だと思う。
したがってこの映画はプロパガンダ映画と認識しても良い。
実際、彼女たちは映画の中で「お国のために少しでも尽くしたい」というようなことを何度も言っている。
そして少々の病気なら無理をしてでも働きたいという姿勢を見せるし、自分達からノルマを上げることを申し出ているので、彼女たちはこんなにも頑張っているんだから我々もお国の為に頑張ろうと訴えているようには見える。
内容がそうであれ、僕は1944年の4月時点で人々はまだこの映画を見ることが出来ていたと言うことに驚く。
戦後生まれの僕としては、この時期の国内は厳しい統制のもとで映画など見ている雰囲気ではなかったとのイメージなのだが、それは大空襲の状況を示したニュースフィルムやドラマを見過ぎているためかも知れない。
敗戦の1年前の日本で、一体どれだけの人が映画館に足を運び、この映画と言う娯楽を楽しむことが出来ていたのだろう。

今、一歩引いてこの映画を見ると、どうして「お国のために少しでも尽くしたい」というようなことを思えたのかとの疑問がわく。
世の中の雰囲気だったのだろうか。
戦時下に置かれた多くの日本国民と同様に生きている一俳優として、その言葉は彼女たちの本音の言葉だったのかもしれない。
その事によって演技ではない迫真性が映し出され、あたかも勤労動員された女学生たちのドキュメンタリーの如くの雰囲気を出しているのであろう。
彼女たちに起きる問題は、当時としてはごく当たり前の出来事だったのかもしれない。
この映画に出てくる登場人物は、ひたすら外には優しく内に厳しいという人物像として描かれている。
優しすぎる寮母と理解を示す工場の経営者達の姿はリアリティを感じさせないのだが、この映画の大人たちは内剛外柔の人物像として描かれている。
勤労奉仕をする女性達も自分には厳しく他人には優しさを見せる。
この映画は、こうであってほしいと願望する姿を描いていて、内に厳しく外に優しい人間の在り方を「一番美し」いものとして描いている。

黒澤は日本人が映画を見るどころではないという状況を知りながらこの映画を撮ったのだろうか。
黒澤ならば戦時体制下に於ける戦意昂揚を図るプロパガンダ映画の体裁を取りながら、秘かに訴えたいことを盛り込んでいたのではないかと、飛躍的に想像してしまう。
木下恵介はこの作品を黒澤作品の中で一番いいと言っているのだが、どこに良さを見出しているのだろう。
作中に「軍神につづけ」という工場の壁に貼ってある横断幕が時々映し出される。
このスローガンによって死んでいく兵士や普通の人たちが現実世界には大勢いたのだ。
女子工員たちの行進途中で「タラワ」、「マキン」、「クエゼリン」、「ルオット」の文字が挿入される。
僕は何のことか分からなかったので調べてみると、日本軍の玉砕地であることが分かった。
プロパガンダの体裁をとっているが、実は反戦映画なのかもしれないと思うに至った。

一条さゆり 濡れた欲情

2020-10-22 07:55:11 | 映画
「一条さゆり 濡れた欲情」 1972年 日本


監督 神代辰巳
出演 一条さゆり 伊佐山ひろ子 白川和子 粟津號
   高橋明 小見山玉樹 中平哲仟 小沢昭一
   絵沢萠子 中田カフス 中田ボタン

ストーリー
大阪の下町野田にある吉野ミュージック劇場での一条さゆり(本人)の引退興行には、若いストリッパーはるみ(伊佐山ひろ子)も出演していた。
はるみは関西ストリップの女王・一条さゆりに対抗意識を燃やす新人ストリッパーで、レスビアンショーから脱皮し一人立ちするという目的がある。
そんなはるみにはやくざの恋人大吉(粟津號)がいた。
はるみはレズショウのコンビであるまり(白川和子)にコンビの解消をせまるが、まりのヒモである勇(高橋明)はめしの食いあげだと反対した。
一度言い出したらあとには引かないはるみに怒った勇は、はるみを殴り倒す。
そんな勇を大吉はドスで刺し、刑務所へ入る。
やがてはるみは必死にローソクショーに取り組み、一本立ち出来るストリッパーに成長していった。
そして吉野ミュージック一条さゆり引退興行へ出演することになったのである。
さゆりは次々とおハコの“花笠お竜”“緋牡丹お竜”“ローソクショー”を演じ、ラストのオープンをした瞬間、フラッシュがたかれた。
曲の終了後、刑事に踏み込まれさゆりは楽屋で逮捕され、はるみもまた逮捕された。
現在一条さゆりは引退し、ささやかにすし屋を開きながら、被告として裁判を待っている。


寸評
猥褻物陳列罪で何度も警察に検挙されながら、毅然と最後の舞台に立つ関西の名ストリッパー一条さゆり狂言回しに使っている。
タイトルとは違って事実上の主人公と言えるのが、一条に張り合う伊佐山ひろ子演じる新人ストリッパーのはるみである。
何とか彼女の芸を盗もうとする踊り子と、いちずに尽くすヒモの哀しみやおかしさがなんとも言えない。
ワーンピースをだらしなく着こなして、日傘をさしながらだらしなく歩く伊佐山の後ろをついてくるヒモの粟津・・・。
やっぱり映画はファーストシーンがドキドキする。

はるみは表向きはおべんちゃらを言いながら、陰では悪口を言いまくる。
ライバル心から一条の草履を隠したり、楽屋の鏡に落書きしたりするが、本心では一条に憧れているのが分かる。
見方によってははるみは一条その人なのかもしれない。
一条は権力への反抗心が根底にあった人だと思う。
安っぽい服を着ているケチで男にだらしない女を演じた伊佐山ひろ子が抜群に上手い。
初期のロマンポルノの傑作である。

公然猥褻罪で上映禁止作を出していた日活が、これまた公然猥褻罪で逮捕される事になる、現存の一条さゆりを引っ張り出してくるところなどは喝采物だ。
一条さゆりは吉野ミュージックの花形スターで、その舞台は大衆演劇の雰囲気があった。
引退される頃はだいぶとお年をとられていたと思うが、その演技は迫真(?)のものがあった(ご当人は演技ではないと言っておられたのを聞いた事がある)。
僕の学生時代にはそこそこあったストリップ劇場は次々閉館していき、大阪の野田にあった吉野ミュージックも今はない。
お世話になった東洋ショー劇場は今のところまだ存在している。
特集上映など精力的な活動をしておられる「シネ・ヌーヴォ」さんに行った時に、近くにある九条OS劇場がどうなっているか行ってみたが、当時とは違うひっそりとした入り口であった。
ストリップ劇場は消えゆく文化なのかもしれない。

ロマンポルノが世に送り出した一番の監督がこの神代辰巳ではないだろうか?
その後も色々撮っているが圧倒的にロマンポルノの作品群に面白いものがあるように思う。
宮下順子さんなんかを使った作品なんて傑作がずらりと並んでいる。

遺体 明日への十日間

2020-10-21 07:51:26 | 映画
「遺体 明日への十日間」 2012年 日本


監督 君塚良一
出演 西田敏行 緒形直人 勝地涼 國村隼
   酒井若菜 佐藤浩市 佐野史郎 沢村一樹
   志田未来 筒井道隆 柳葉敏郎

ストーリー
2011年3月11日、日本観測史上最大の地震により発生した津波が岩手県釜石市を襲った。
一夜明けても混乱状態が続く中、廃校となった旧釜石第二中学校の体育館が遺体安置所として使われることになるが、次から次へと運ばれてくる遺体に警察関係者や市の職員も戸惑いを隠せない。
釜石市職員の松田信次は次第に言葉を失い、葬儀社に勤める土門健一も経験したことがない犠牲者の数にただ立ち尽くすしかなかった。
一方、医師の下泉道夫や歯科医師の正木明、歯科助手の大下孝江らは、いつ終わるのかもわからない検案や検歯の作業に取り組んでいく。
そんな中、地区の民生委員として働く相葉常夫が遺体安置所を訪れボランティアを願い出る。
定年前は、葬祭関連の仕事に就いていた相葉は遺体の扱いにも慣れ、遺族の気持ちや接し方も理解していた。
運び込まれてくる遺体ひとりひとりに生前と変わらぬような口調で優しく語りかけていく相葉。
それまでは遺体を“死体”としてしか見られず、ただ遺体を眺めることしかできなかった釜石市職員・平賀大輔や及川裕太たちも率先して動くようになっていく。
照井優子も複雑な気持ちを乗り越え、安置所に祭壇をつくろうと提案、地元の住職・芝田慈人も駆けつけ供養をすることになった。
震災から10日目。
残された人々は今自分が出来ることをやり遂げ、一人でも多くの遺体を家族の元に帰すことだけを考えていた……。


寸評
東日本大震災が発生して2年が経ったが、これは報道されなかったその時の過酷な状況を描いた作品だ。
市民、医師、歯科医、市役所職員などがごく普通の平穏な日常生活を送っている姿が映し出される。
そして14:46に津波が起きたとテロップされるが、流石に記憶がまだまだ生々しく地震と津波のスペクタクルは元よりなく、地震のあとの家財道具の散乱が映し出される。
そして、遺体安置所に次々運び込まれてくる遺体と、それを世話する人々、やがて荼毘に付されるために出棺されるまでをエピソードを交えながらドキュメント風に描き続けている。
そこに映し出される風景は想像を絶するもので、安置所に並べられた遺体は津波の被害にあった方たちばかりで、床は泥だらけ、運び込む人たちも泥だらけで災害現場そのものの如き様相を呈している。
遺体安置所の様子はリアルで、泥まみれになったブルーシートの匂いが漂ってくるようだ。
余震に怯える姿があれば、検案に臨む医師の姿や立ち尽くす市職員の姿などが我々に迫ってくる。
やがてお棺を市の方で1000個用意し、葬儀会社には1000個用意するように伝えられる。
当座の数としての多さに絶句してしまうが、現実はもっと必要だったのだ。
火葬場も被害を受けていて使用できないことなども描かれるが、そんなこともあっただろうことは想像でき、発生当時の混乱をあらためて知らされた。

ことに当たる職員も精神的におかしくなってきて、ついには子供の遺体を見た女子職員が泣き出してしまう。
あれだけの惨状を見れば誰だってそうなっても不思議ではない。
僧侶が遺体安置所にやってきてお教を上げるが、この僧侶も胸が詰まってまともにお教を上げられない。
居合わせた職員、遺族は立ち上がって合掌している。
僕は宗教を熱心に信じる信者ではないが、でもこのシーンではやはり心の中で手を合わせていた。
市職員の松田は相葉に「どうして遺体に話しかけるのか」と問うが、相葉は「遺体が人としての尊厳を取り戻すからだ」と答える。このような人がいないと、とてもじゃないが収まりのつかない現場だったのだと思う。

自分だけ生き残ってしまった、なぜ助けてあげられなかったのかと自責の念にかられる人々の姿、やがてそれを受け入れ出棺に立ち会う人々に、元気に生きてと声援をおくりたい。
あの時起きていた混乱と人々の悲しみと奮闘した人々の姿を知らされて、上映中涙を流しっぱなしの私は、上映が終わると思わず目をつむり手を合わせていた。
時間の経過は、直接の被害者でない我々の記憶を薄めていってしまうが、深い悲しみを経験した同胞のことを決して忘れてはならないし、支援といち早い復旧復興を祈らずにはいられない。
自衛隊、警察、消防、市職員をはじめ、地元の医師や歯科医師や葬儀社の人々が、数多くの犠牲となられた人々とご遺族の尊厳を守っていく姿に胸が詰まった。
被害に遭われた方々や、親族・知人を失くされた方々はこの映像を正視することはできないのではないかと想像するが、これもまた事実の中の真実だと私達に知らしめてくれた映画ではあった。
それを思うと、当時の政府の対応のまずさや、政局に明け暮れた政権下にあった不幸を恨めしく思わざるを得ない。
久しぶりに泣いた映画だった。

異人たちとの夏

2020-10-20 10:20:10 | 映画
「異人たちとの夏」 1988年 日本


監督 大林宣彦
出演 風間杜夫 秋吉久美子 片岡鶴太郎 永島敏行
   名取裕子 入江若葉 林泰文 奥村公延
   角替和枝 原一平 栩野幸知 桂米丸
   柳家さん吉 笹野高史 ベンガル 中山吉浩

ストーリー
原田英雄(風間杜夫)は40歳のシナリオ・ライター。
妻子と別れ、今はマンションに一人暮らしをしていた。
友人・間宮(永島敏行)は原田の別れた妻に告白したいと原田に告げた。
ある晩、若いケイ(名取裕子)という女性が飲みかけのシャンパンを手に部屋を訪ねてきた。
「飲みきれないから」という同じマンションの住人である彼女を原田は冷たく追い返した。
ある日、原田は地下鉄のゴースト・ステーションを見学中に仲間とはぐれてしまったので、その帰りに幼い頃に住んでいた浅草に出かけ、偶然、死んだはずの両親(片岡鶴太郎、秋吉久美子)に会ってしまう。
二人は原田が12歳の時に交通事故で死亡したが、なぜかその時の年齢のまま、浅草に住んでいた。
原田は懐かしさのあまり、浅草の両親の家へたびたび通うようになる。
一方で、原田は胸に醜い傷跡を持つケイと愛し合うようになっていた。
彼女は、もう両親には会うなという。
異人(幽霊)に近づくと、それだけ自分の体は衰弱し、死に近づくというのだ。
原田はようやく両親と別れる決心をし、浅草にあるすき焼き屋で親子水いらず別れの宴を開いた。
暖かい両親の愛情に接し、原田が涙ながらに別れを告げると、二人の姿は消えていった。
しかし、原田の衰弱は止まらない。
その後、原田の衰弱の原因が間宮によって明らかにされ、原田は一命をとりとめる。
体調の回復した原田は両親のもとに花と線香を手向け、静かな夏の日の不思議な体験を回想するのだった。


寸評
物の怪に取り付かれて衰弱していく男の話は雪女を初めよく見かけるが、対象が必ず男であるのは衰弱していくというシチュエーションを考えると当然と言えば当然の設定である。
ここでも風間杜夫が幽霊と出会って衰弱していくが、その幽霊が幼い頃に死別した両親であると言うことが得意な設定となっている。
ゴースト・ステーションの見学シーンから怪奇映画の雰囲気が出てくるが、恐ろしいものではなく描かれる世界はほのぼのとしたものだ。
浅草の風景を赤味の帯びた照明で撮ることによって、ノスタルジックな雰囲気を醸し出し、描かれている世界がこの世のも出はないという空気を生み出している。
場面の切り替えに一工夫しているが、このような遊び心とも思える演出にはくすぐられるものがある。

風間杜夫は12歳の時に両親を事故で亡くしているが、父親の片岡鶴太郎、母親の秋吉久美子が当時の年齢で幽霊となって出てくる。
そこで親子水入らずの生活が再現されるのだが、子供が40歳ぐらいになった時の交流としては羨ましいものだ。
僕は母親の離婚によって父親の顔を知らずに育ったから、良好な関係の両親と描かれたような雰囲気でビールを酌み交わせればどんなに良かっただろうと、無いものねだりの感情が湧いた。
男の僕としては秋吉久美子のような女性が母親だったら良かったのにと思ってしまう。
主人公は12歳の時から泣いたことがないのだが、両親と出会ってそれ以来の涙を見せる。
感激の涙であり、別れの辛さの涙である。
風間杜夫は「自分はいい父親ではなかった。お父さんやお母さんの方が立派な両親だった。自分は親孝行のように見えているが、両親が生きていれば親孝行などしなかっただろう」と告白する。
亡くなった親に対する気持ちとしては、相手が存在しない状態なので正直な思いだろう。
もっと親孝行しておけばよかったとは過ぎ去ったことへの言い訳だが、親子関係も厄介な時があるものだ。
子供が手のうちにある時は猫かわいがりできるが、自分の意志を持ち自分の思い通りにならなくなってくると軋轢が生じてくる。
風間杜夫の原田はいい時の両親の思い出しかない、逆説的に言えば幸せな男だったのかもしれない。

最初は戸惑っていた原田だが、やがて親子としての自然な関係になっていく。
名前を聞いていなかったと秋吉久美子に言うと、「原田に決まっているじゃないか」と返され両親であることを確信
するという描き方から、いつの間にかお父さん、お母さんと呼び、秀雄と呼ぶ関係になっていく。
その自然な流れがいい。
名取裕子の藤野桂が必死で原田を止めるのも当然と思える描き方で違和感もない。
最終局面の展開はまるでホラー映画だが、最初の出会いが伏線となっていたという凝ったストーリーは原作の山田太一の案か、脚色の市川森一の案か知らないが納得の動機だ。

原田と桂が見ているテレビに「カルメン故郷に帰る」が映っていたが、なぜその作品だったのだろう?
気になったが、大林宣彦作品としては僕の好みから言えば上位にランクされる作品である。

石内尋常高等小学校 花は散れども

2020-10-19 08:33:22 | 映画
「石内尋常高等小学校 花は散れども」 2008年 日本


監督 新藤兼人
出演 柄本明 豊川悦司 六平直政 川上麻衣子
   大竹しのぶ 角替和枝 りりィ 大杉漣
   根岸季衣 吉村実子 原田大二郎 上田耕一
   大森南朋 松重豊 田口トモロヲ

ストーリー
大正の終わり。広島市から山一つ奥に入ったところに、石内尋常高等小学校があった。
良人、みどり、三吉は五年生の同級生で、クラスの担任は市川先生だった。
市川先生は、授業中に三吉が居眠りをしても、田植えの手伝いをしていたと判ると許し、奈良への修学旅行では、遭遇した映画撮影隊に田舎者と罵倒されて喧嘩をやらかすような熱血先生である。
良人の母親の死には一緒に泣いてくれる、全身全霊で生徒にぶつかっていく人間だった。
やがて、良人の家が倒産し、みどりは良人を心配するが、三人は卒業と同時に別れてゆく。
30年後。良人は東京で売れない脚本家になっていた。
市川先生の定年祝いの集まりが開かれることになり、村の収入役になっていた三吉が良人を呼ぶ。
会場はみどりが女将をする料亭で、戦争をはさんで集まった同窓生には、それぞれの30年があった。
夫を戦争で失った者、原爆被爆に今も苦しむ者…。
語っても語り尽くせない人生に良人は圧倒され、自分の不甲斐なさを思わずにはいられなかった。
その夜、良人はみどりから、何も告げずに村を去った理由を問い詰められる。
そして、二人は夜の海で関係を持つ。
定年と同時に小学校の目の前に家を借りた先生。
教職を離れても、生徒たちの声を聞くことを楽しみにしていたのだ。
だが5年後、脳梗塞に倒れる。
病床に駆けつけた良人を、呂律が回らない口で“オマエノドラマヲミテイル、エエモノカケ”と逆に励ます。
だが、闘病の甲斐もなく、やがて亡くなる。
良人はみどりに結婚を申し込むが、みどりは“あなたは脚本家でしょう。田舎の料亭の主人になるのか”と拒絶し、そして良人は一人東京に帰ってゆくのだった。


寸評
95歳にしてこれだけの作品が撮れるのに驚嘆する。
「頑張れ新藤兼人監督!」である。
話は二階建てになっていて、一階部分は恩師と教え子たちとの交流である。
二階部分は山崎良人と藤川みどりの恋の顛末である。
恩師と教え子の交流は喜劇タッチだが、良人とみどりの関係はシリアスに描いている。
先ずは市川先生の人となりが描かれるが、柄本明がオーバーアクションでその人柄を強調する。
授業中に三吉がいびきをかいて眠り込んでいるのを市川先生は咎め、罰として三吉にバケツを持って立たせる。
昨夜は何をしとったのかと問いただすと、三吉は農家の手伝いをして徹夜していたことが判明する。
それを知った市川先生は涙を流し、「ワシが悪かった。それを知らなかったから、まちがった罰を科した。許してくれ。机に戻れ。そして、いくらでも居眠りをしろ」と指示するのだが、僕は冒頭のこのシーンで早くも涙を頂戴してしまった。
市川先生は熱血先生だが生徒たちと心を通わせている。
道子先生との結婚話や、道子先生が自習中の生徒を心配して花嫁衣装にたすき掛けをして自転車で駆けつけるなど、始まってしばらくはその漫画の様な描き方にあっけにとられる。

それから30年後、市川先生が定年を迎え謝恩会兼同窓会が開かれると、雰囲気はがらりと変わる。
中年に差し掛かった教え子たちが自己紹介をはじめ、その苦しい生きざまを語りだすと迫ってくるものがある。
戦争を挟んでいるので夫が戦死した女性たちは苦労を背負って生きてきていた。
原爆にあった藤田芳夫は顔に大きな火傷を負ったままだ。
自分は終戦後百姓をして米を作ったが、日本人はパンを食べ始めたので百姓をやめ、今は木材所で働きパンを食べていると嘆く。
会場となった料亭の女将になっている藤川みどりは「思い続けた人がいたが、その人は去ってしまい、15年間待ち続けたが連絡が来なかったので、この料亭の若旦那と一緒になった」と打ち明ける。
もちろのその相手が良人であることは観客には分かる。
久しぶりに再会した二人は、幼い頃の思いを語り合って気持ちを確かめ合う。
良人の意気地のなさもあって、少年期にはお互いの気持ちを伝え合うことが出来ていなかったのである。
どんなに思っていても打ち明けられない意気地のなさは僕にはよくわかる。
良人は級長をやっているからリーダーの一人だったのだろうが、しかし押しがない、粘りがない少年で、ましてや好きな子に思いを告げる勇気など持ち合わせていなかったのだろう。
女の子としてのたしなみか、みどりも思いを告げることが出来ず二人は別れ別れになってしまった。
みどりは15年間、いや結婚した後もずっと良人を思い続けていたのである。
生涯でただ一人思いを寄せた人をずっと思い続け、それを心の奥にしまい込んで今に至るという気持ちが僕にはすごく理解できる。
グズで決断力に欠ける良人と、肝がすわり決断力のあるみどりとの対比が面白い。
とりわけ、大竹しのぶの芸達者ぶりが際立っている。
少女はおそらく良人との間に出来た子だと思うが、結婚しないまでも交流を続けてほしい二人ではあった。

生きる

2020-10-18 09:01:24 | 映画
「生きる」 1952年 日本


監督 黒澤明
出演 志村喬 日守新一 田中春男 千秋実
   小田切みき 左卜全 山田巳之助
   藤原釜足 小堀誠 金子信雄 中村伸郎
   渡辺篤 木村功 清水将夫 

ストーリー
某市役所の市民課長渡邊勘治は三十年無欠勤という恐ろしく勤勉な経歴を持った男だったが、その日初めて欠勤をした。
彼は病院へ行って診察の結果、胃ガンを宣告されたのである。
夜、家へ帰って二階の息子たち夫婦の居間に電気もつけずに座っていた時、外出から帰ってきた二人の声が聞こえた。
父親の退職金や恩給を抵当に金を借りて家を建て、父とは別居をしようという相談である。
勘治は絶望した心がさらに暗くなり、そのまま街へさまよい出てしまった。
そしてその翌朝、買いたての真新しい帽子をかぶって街をふらついていた勘治は、彼の課の女事務員小田切とよとばったり出会った。
彼女は辞職願いに判をもらうため彼を探し歩いていたという。
なぜやめるのかという彼の問いに、彼に「ミイラ」というあだ名をつけたこの娘は、「あんな退屈なところでは死んでしまいそうで務まらない」という意味のことをはっきりと答えた。
そう言われて、彼は初めて三十年間の自分の勤務ぶりを反省した。
これでいいのかと思った時、彼は後いくばくもない生命の限りに生きたいという気持ちに燃え・・・。


寸評
渡邊(志村喬)は妻を早くに亡くしていて、一人息子の光男(金子信雄)を男手一つで育ててきた。
光男の応援に学生野球にも行ったし、兵隊として送り出したこともあったが、彼にとっては自慢の息子であった。
しかし息子の方は結婚し妻(関京子)を迎えたとなると、彼らは自分たちの生活を一番に考えてどこか冷ややかであり、父親の遺産を人生設計の中に入れ込んでいる。
一見平和そうに見える家庭に吹くすきま風のようなもが前半で描かれる。
渡邊の胃癌宣告とともに描かれる導入部の親子関係の描写は批判的だ。
渡邊は意を決して息子に病気のことを伝えようとするが、放蕩生活をなじられ切り出すことができない。
堅物生活からの脱却を試みてか、小説家(伊藤雄之助)と遊びまくるのは通り一遍の描き方だが、その満たされぬ思いは部下のる女子職員、小田切とよ(小田切みき)の前向きな明るさを引き立てる役割だったと思う。
と同時に小田切とよは、ただでさえネクラで、死の宣告を受けてさらに落ち込む陰気な渡邊とは好対照の存在で、物を作ることの素晴らしさを話して、物語に転機を与える重要なパートを担っていた。
彼女は一見軽薄そうに見えるが優しい娘で、その優しさで渡邊の若い彼女かと間違われる愉快なエピソードを受け持っている。
実に暗い映画における明るい部分だった。

一念発起して、陳情があった公園造りに意気込んだところで渡邊の葬儀が始まり、あとは渡邊の生前の様子が参列者から回想形式で語られていく。
しかしそこで描かれるのは役所の縄張り意識や、事勿れ主義、権威主義である。
助役(中村伸郎)の人の手柄を我が物にする横暴や、その助役に媚を売る取り巻き連中の醜さが描かれ続ける。
彼らと比較することで渡邊の立派さが浮き彫りになるのだが、単純に美化しているわけではないのがこの作品のいいところだ。
組織を飛び越えた行動が、かえって公園造成を遅らせたのだと通夜に参加している同僚たちに言わせている。
それを聞いている喪主である光男夫婦の様子はあまり映らない。
役所の人間たちの勝手な言い分に抗議する形で登場するのが、陳情に訪れていたオバサンたちだ。
彼女たちは焼香に訪れ、渡邊さんは立派だったとか、あの公園は渡辺さんが造ったものだなどとは言わない。
ただ故人を思いながら泣き、焼香をすませて帰っていくのだが、これが無言の抗議のようでいい描き方だった。
このオバサンたちが陳情に来た時に、各課をたらい回しされるエピソードが挿入されていて、お役所仕事に対する不満があっただけに、この無言の抵抗は効果があった。
渡邊を批判する同僚の中にあって、ひとり木村(日守新一)だけは彼を弁護し、その行いの立派さを訴える。
通夜の席で、ひとり涙をこぼしていた彼を描くことでバランスをとっていた。
人が生きるということは一体何なのかという一大命題を描いた作品ではあるのだが、僕にはお役所批判の意味合いの方が強く感じる作品だった。
この作品を生涯のベストワンに上げる方も大勢おられるが、僕はこの映画をあまり買わない。
テーマがあまりにもストレートすぎるように感じるのだ。
とは言え、志村喬は実年齢をはるかに超えた初老の男を好演し、一世一代の名演技を見せている。
俺たちもやるぞと叫んだ男たちが、次の日には事勿れ主義に戻っている皮肉も効いていた。

生きものの記録

2020-10-17 10:54:46 | 映画
「生きものの記録」 1955年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 三好栄子 東郷晴子 清水将夫
   佐田豊 千石規子 千秋実 青山京子
   根岸明美 上田吉二郎 水の也清美
   米村佐保子 太刀川寛 志村喬
   加藤和夫 大久保豊子 東野英治郎
   藤原釜足 清水元 左卜全 中村伸郎

ストーリー
都内に鋳物工場を経営し、かなりの財産を持つ中島喜一は、妻とよとの間に、よし、一郎、二郎、すえの二男二女がある。
他に二人の妾とその子供、それにもう一人の妾腹の子の月々の面倒までみている。
その喜一は原水爆弾とその放射能に対して被害妾想に陥り、地球上で安全な土地はもはや南米しかないとして、近親者全員のブラジル移住を計画、全財産を抛ってもそれを断行しようとしていた。
一郎たちはこの際喜一を放置しておいたら、本人の喜一だけでなく近親者全部の生活も破壊されるおそれがあるとして、家庭裁判所に対し、家族一同によって喜一を準禁治産者とする申立てを申請した。
家庭裁判所参与員の歯科医原田は「死ぬのはやむをえん、だが殺されるのはいやだ」という喜一の言葉に強く心をうたれるのだった。
その後も計画を実行していく喜一に慌てた息子たちの申請により、予定より早く第二回の裁判が開かれた。
その結果、申立人側の要求通り喜一の準禁治産を認めることになった。
喜一の計画は、この裁定にあって挫折してしまい、極度の神経衰弱と疲労で喜一は昏倒した。
近親者の間では万一の場合を考えて、中島家の財産をめぐる暗闘が始まった。
その夜、意識を回復した喜一は工場がなければ皆も一緒にブラジルへ行ってくれると考え、工場に火を放った。
灰燼に帰した工場の焼け跡に立った彼の髪の毛は一晩の中に真白になっていた。
数日後、精神病院に収容された喜一を原田が見舞いに行くと、彼は見ちがえるほど澄み切った明るい顔で鉄格子の病室に坐っていた。
地球を脱出して安全な病室に逃れたと思い込んでいる喜一を前にして原田は言葉もなく立ちつくすのであった。
彼の気が狂っているのか、それとも恐ろしい原水爆の製造に狂奔する現代の世界が狂っているのか。


寸評
日本は核保有国に取り巻かれている。
国連安保の常任理事国であるロシアと中国は保持しているし、どうやら北朝鮮も保持しているようである。
見方を変えれば、日本だって原子力発電所という核設備を多数有しているのだ。
それらに対する恐怖は我々にはないのか?
福島原発の惨状を目の当たりにしても、核に対する恐怖感は我々の中では希薄であると言わざるを得ない。
おそらくそれは「核爆弾を使用すれば、同時に世界からの攻撃を受け、その国も亡びることになるから発射することはないだろう」という漠然とした思いからきていると思う。
福島原発事故も、教訓を得た後に二度と起こらないという思いであり、また離れた場所にある原発には他人事でいられる多くの人々の立地条件もあるように思う。
しかしそれらは「起きてほしくないことは、起きないのだと思い込む」人間の希望的欲求による浅はかなものから来ていることは間違いない。
多くの人がそうであるのだから、ここで描かれた内容は突飛なものである。
中島喜一のように、核の恐怖で移住をしかも南米への移住を企てる人など皆無であろう。
日本は広島、長崎に始まり、第五福竜丸、福島原発事故と4度も被ばくを経験しているのにである。
映画の中でも発せられる「どうしようもない」という気持ちが自然と支配してしまっているのだ。
21世紀はテロとの戦いの世紀とも言われている。
テロリストが原発を襲えばどうなるのかと想像するだけで恐ろしいことなのだが、ではそこを逃れて移住できるのかとなると、それもまた難しい。
福島原発事故を経験したことで、黒澤の先見性を改めて知らされた気がする。
核は神が我々与えた試練なのかもしれないとも思う。

内容からすれば主人公の中島喜一は志村喬の方が適役のようにも感じるが、生活力が旺盛で動物的生命力の強い男というイメージから三船敏郎になったと聞く。
たしかに生命力の強い男が恐怖を抱くことで核に対する恐怖感を強めていたことは伝わってきた。
一代で会社を大きくし財を築いたのだが、一概に利己的な暴君としては描かれていない。
移住をめぐっては家族と対立しているが、本当は家族思いのいい男なのだ。
それは裁判所の廊下で待つ家族にジュースを買ってきてやるシーンに象徴されていた。
こういうシーンの挿入、あるいは脚本は上手いと思う。
と同時に、もう一方の軸が家族における人間関係、心の通じ合いにあると思わせるシーンでもあった。
複雑な家族構成であるが、かろうじて人間的な心を持つ人物として末娘の青山京子と喜一の四番目の妾である根岸明美を登場させている。
強欲、利己的な家族の中にあって父を擁護するのがすえの青山京子であり、喜一に意見し自分の立場を恥じ入る栗林朝子の根岸明美である。
すえは父の思いつめた真の姿を知り悲しみ、朝子は皆が見放した喜一を見舞う。
救いの人物を登場させて光明を描いたのだろうが、映画は最後まで暗い。
本編終了後の真っ黒な画面に流れる陰鬱な音楽がさらに観客の気持ちを暗くさせた。