おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ナチュラル

2019-11-30 11:14:45 | 映画
「ナチュラル」 1984年 アメリカ


監督 バリー・レヴィンソン
出演 ロバート・レッドフォード
   グレン・クローズ
   ロバート・デュヴァル
   キム・ベイシンガー
   ウィルフォード・ブリムリー
   リチャード・ファーンズワース
   バーバラ・ハーシー
   ロバート・プロスキー

ストーリー
1918年の春、ネブラスカの静かな草原でキャッチ・ボールをする父と子の姿があった。
農民のエドは妻を亡くした後、幼いロイをずっとコーチし続けてきた。
彼は生まれついての天才児で、投・打・守備のどれをとっても大リーグ並みのプレーをしていた。
そんなロイの姿を幼なじみのアイリスは優しいまなざしでみつめていた。
20歳になったロイは、将来を誓い合ったアイリスに別れを告げ、スカウトマン、サムと共に街を出た。
キャンプに向かう夜行列車の中で、名物バッターとして知られるウォンボルト、スポーツ記者のマックス、それに黒いドレスに身を包んだセクシャルな女ハリエットの3人連れに会った。
サムはウォンボルトにロイなら君を3球3振にさせるぞと賭けを挑んだ。
勝負はその通りになったが、サムはロイのボールを受けそこね、後に心臓発作で急死してしまう。
シカゴに着いてホテルに入ったロイの許にハリエットから電話がくる。
彼女の美しい毒に気がつかないロイは、言われた通りに部屋に行く。
その時、ハリエットの手に握られていた拳銃から火が吹いた。
16年後のニューヨーク、常に下位で低迷しているニューヨーク・ナイツのベンチに35歳のルーキー、ロイ・ハブスが現われ、ロイのお陰でニューヨーク・ナイツは勝ち続け、野球界は奇跡のルーキーの登場で大揺れとなる。
ナイツのオーナーである判事は、自分のチームが負ける方に賭けていたので慌て、マックス、愛人のメモらを仲間に引き込み、ロイの秘められた過去を暴こうとやっきとなる。
ロイはやすやすとメモの誘惑にのり、スランプ状態に陥ってしまう。


寸評
いわゆる野球ファンタジー映画で、野球のプレーシーンは迫力のあるものではないが、当時の野球のレベルと雰囲気を出すためにあえてそのような描き方をしていたのかもしれない。
弱小球団にヒーローが登場して優勝に導くというストーリーはよくありそうだし、その球団内部に優勝されては困る人物がいてなんとか勝ち続けることを妨害しようとするのも、この後デイヴィッド・ウォード監督の「メジャーリーグ」などでも描かれたように映画的には格好の設定である。
引退まじかと思われる年齢になったロイ・ホッブスが新人として登場し、ダメ球団のナイツを蘇らせて優勝争いに加わっていくのだが、この映画にそれとは別の雰囲気を与えているのが3人の女性の存在である。
一人目は列車で乗り合わせて事件を引き起こすハリエットという謎の女性である。
どうやら有名スポーツ選手を射殺している殺人鬼の様でもあるが、なぜ彼女がそのような行動を取っていたのかは最後まで不明のままだ。
ロイが被害にあった時の写真が後半で示されるが、彼女の行動の意味が全く分からない。
しかし、兎にも角にもロイはその女に心を動かし、前途を棒に振るような被害にあったことだけは確かだ。
二人目は刺客の一人としてロイのもとに送られたメモという女性である。
悪役三人組のひとりといった立場なのだが、どこかでロイに惹かれているふしもある女性である。
満足な生活を保障してくれるパトロンのためにロイに仕掛けを施すが、その行為に悩んでいる風でもないようなところがあって女の怖さを出している。
三人目はというより、彼女こそ一番目の女性なのだが、ロイを救うことになる幼なじみのアイリスである。
恋人でもあったアイリスとの音信不通になってしまった経緯がよくわからないが、登場する女性の中にあって聖女の役割を担っていて、再登場後に見せる彼女の振る舞いが作品を格調高くしていた。

3人の女性と同じように三人の少年も登場して、3人が少年の夢の象徴として描かれていて趣を出していた。
バット・ボーイのサヴォイにとってロイはあこがれのスター選手だ。
彼のロイへのあこがれの結実として登場するのが、ワンダーボーイに変わって使用されるサヴォイスペシャルというバットで、ロイの一打は共同作業を行ったサヴォイの一打でもある。
そして賭けに勝ったロイにあこがれを抱き、汽車に飛び乗るロイからボールをもらった少年こそ、ラストゲームでリリーフとして出てくる剛速球投手だ。
彼はあこがれの選手と対決するまでになり、自分の夢を実現した少年の象徴でもある。
もう一人は言うまでもなくアイリスの息子で、彼の登場がドラマを締めくくる重要なファクターとなっている。

9回裏にランナーを置いてバッターボックスに入るロイだが、ここで打たなきゃ映画にならない場面と分かっていながらも、ここでのホームランは何度見ても感動する。
もちろんラストシーンは締めくくりにふさわしい、親子を思わせるいいシーンだ。
ここで疑問を二つ。
ロイはメモに「君は正しい。君とは以前に会っていた」と告げるのだが、あれはどういう意味だったのかなあ。
9回裏にナイツのバッターが1塁手の落球でセーフになるのだが、彼は1塁ベースを踏んでいなかったように見えたんだけど・・・。

嘆きのピエタ

2019-11-29 09:47:33 | 映画
「嘆きのピエタ」 2012年 韓国


監督 キム・ギドク 
出演 チョ・ミンス
   イ・ジョンジン
   ウ・ギホン
   カン・ウンジン
   クォン・セイン
   チョ・ジェリョン

ストーリー
生まれてすぐに親に捨てられ天涯孤独に生きてきたイ・ガンドは、法外な利息を払えない債務者に重傷を負わせ、その保険金で借金を返済させる極悪非道な借金取り立て屋をしている。
そんなガンドの目の前に、母親を名乗るミソンという女が突如現れた。
ミソンの話を信じられず、彼女を邪険に扱うガンド。
しかし彼女は電話で子守歌を歌い、捨てたことをしきりに謝り、ガンドに対し無償の愛を注ぎ続ける。
当初は疑念を抱くガンドだったが、女性から注がれる愛情に次第に心を開いていく。
だが生まれて初めて母の愛を知った矢先、姿を消したミソンから助けを求める電話がかかってきた・・・。


寸評
情け容赦のない取立ての様子が次から次へと映し出される。
借金返済は当人が障害者になって、その保険金で行うというとんでもない方法だ。
ガンドは自らも手を下してそれを実行していく極悪非道な男である。
相手の男たちは町工場の零細事業者ばかりで、同じような環境で働く彼等が次々その餌食となっていく。
それはくどいと思えるほどの描きっぷりなのだが、後半で彼等の復讐を疑う展開になるので、これだけの暴力シーンは必要だったのだろう。
その間に鶏をさばいた後の肉片と血の残りなどを映し出して、殺伐とした雰囲気を表現していく。
動物は前半部分で時々登場して鶏、ウサギ、ウナギなどが処分される(ウサギは食用にはならなかったが)。
主人公の暴力の源泉にあるのは、母親に捨てられたということ、そしてその後の孤独な人生だ。
この手の男にしては力づくで支配している女もなく、そちらの面でも満たされていない若者であることが自慰行為を通じて描かれる。
突如、母親として現れたミソンがそれを助けるシーンは、今までにない愛情表現として「そこまでやるか」とインパクトがあった。
そのミソンを演じたチョ・ミンスが時として非常に美しい姿を見せて非常に良い。
そしてガンドが行う過酷な取り立てを哀しげに見つめる表情も何ともいえず淋しげで心にしみる。
後半で明らかになる彼女の思い(目的)を知った時、それまでに見せたガンドの行為を阻止できない悲しみ、あるいはガンドに足を折られ障害者にされた男が浴びせる罵声に「息子の悪口を言うな!」と、彼女もその足を蹴りつけた意味を知ることになって、一つ一つのシーンが奥深く思えた。
ミソンが姿を消してから俄然サスペンス仕立てになるが、ミソンは意外にも早く姿を現す。
しかし、そこから一気にラストに持って行く手並みはそつがなく、「なんだ、そうだったのか」になってからも間延びすることはなかった。
初めて愛を知り、暴力的な取り立てを躊躇するガンド。
はたして彼は救われたのだろうか?
最後は衝撃的なアートとも言えるシーンになるが、ガンド及びミソンの行為と結果は「暴力は何も生まない」と言っているようで、こちらの方が本テーマだったと思う。

中山七里

2019-11-28 08:45:53 | 映画
「中山七里」 1962年 日本


監督 池広一夫
出演 市川雷蔵 中村玉緒 大瀬康一
   杉田康 富田仲次郎 沢村宗之助
   柳永二郎 近江輝子 瀧花久子
   伊達三郎 市川謹也 寺島貢

ストーリー
江戸は深川の名物男、木場の政吉(市川雷蔵)は材木商の元締、総州屋の安五郎(柳永二郎)の若い衆で、材木の目利きにかけては並ぶ者がないほどの腕だ。
勝負ごとの好きな彼は今日もある料亭でサイコロの最中、岡っ引に踏み込まれ、困ったところを女中のおしま(中村玉緒)に救われた。
すっかりおしまが好きになった政吉は、やくざな生活から足を洗うことを条件に彼女と結婚の約束をした。
だが、おしまに気のある安五郎が力ずくで彼女を女にしたため、政吉は彼を刺し殺してしまった。
一方、おしまも安五郎とのことを苦にして自害した。
それから一年、旅鴉となった政吉は道中、病に苦しむおなか(中村玉緒)という女を助けた。
彼女がおしまと瓜二つなのを見た政吉は、胸が高鳴るのだったが、彼女には徳之助(大瀬康一)という恋人がいるのを知ってあきらめるのだった。
その頃、徳之助があるやくざに金を借りたため、借金のかたにおなかは無理やり彼らに連れ去られた。
事の次第を聞いた政吉は彼らの本拠へ乗りこみ、無事おなかを救い出した。
徳之助、おなかを伴った政吉は、知人の吉五郎(荒木忍)を頼って飛騨高山へ向った。
途中、二人の仲を疑った徳之助は殺気をおびてきたが、どうすることも出来ずに従うのだった。
ようやく一行が吉五郎のもとにたどりついたころ、政吉を追う岡っ引の藤八(杉田康)が例の一味とやって来た。
月明りの中山七里谷には、たちまち血しぶきがとび散った。
そして数刻、おなかと徳之助に幸せにと言い捨てたまま、政吉は足早に立ち去るのだった。


寸評
中山七里は岐阜県下呂市三原から金山町までの美しい自然と急峻な山々と奇岩怪石で形成される渓谷美に富んだ景勝地とのことである。
物語の発端は江戸深川の木場であるが、政吉、おなか、徳之助の三人が飛騨高山を目指す中で通り抜ける渓谷や、最後の決戦場が中山七里だろう。

単純娯楽作品として、話が込み入っていそうでも案外と単純で分かりやすいのがいい。
政吉は材木の目利きでは並ぶものがいないという腕利きだが、呑む打つ買うの三拍子そろった遊び人でもあり、真面目一辺倒の職人男ではない。
政吉が賭場で遊んでいると手入れが入り、張り客たちは一目散に逃げるが、この一件には悪人たちがグルになっての狂言と分かる。
悪人たちの顔ぶれが明らかになり、以後の展開は予想を裏切るものではない。
所帯を持とうとしたおしまが非業の死を遂げ、政吉が渡世人の旅鴉となり道中を行くまでの描き方もさっぱりしていて好感が持てる。
旅先の町で、亡くなったおしまと瓜二つのおなかという女性が登場するのもオーソドックスな展開で、特に驚くような脚本でもない。
政吉がそのおなかに、亡きおしまの面影をダブらせ思いを寄せるのも予期したとおりである。

ひねってあるのは、そのおなかに許婚者がいる事で、許婚者の徳之助が政吉に焼きもちを焼く描き方が面白い。
徳之助はおなかと政吉の仲が気になって、政吉と別れて二人で旅することを何回も提案するが、おなかは政吉に世話になっているからと中々承知しない。
しかし、ついにおなかは三人での旅を終える決断をするのだが、その理由は政吉の目が怖いからだと言う。
この頃になると、政吉はおなかに好意を寄せ始めていて、おなかもまんざらでもないという状況である。
政吉が強引におなかに迫れば、おなかは承知したかもしれないが、それでは徳之助の立場がない。
おなかはそれを苦にして、あるいは政吉と徳之助の板挟みになり、自らの命を絶つかもしれない。
それではおしまと同じ運命をたどることになってしまうではないかと政吉は思いいたる。

想いを寄せた女性と瓜二つの女性に気持ちが傾きながらも、その女に許婚者がいる事で後ろ髪をひかれながらも、二人の幸せを願って去っていくという、俗に言う三角関係の顛末が情緒たっぷりに描かれ、池広一夫としては脂がのって来たなという感じの作品だ。
圧巻は最後の大立ち回りで、山中に残された廃村のセットが素晴らしい。
多勢に無勢なので、政吉は建物を利用して逃げながら相手を切りまくる。
朽ちかけた大きな家が倒れるという迫力あるシーンも用意されている。
市川雷蔵と中村玉緒が軽妙に演技しているが、中村玉緒は二役ではおしまの方が良く、おなかには揺れ動く気持ちをもう少し出して欲しかった。
池広監督作品として「沓掛時次郎」から「中山七里」ときたが、股旅物の集大成は1968年の「ひとり狼」だろう。

永い言い訳

2019-11-27 08:31:27 | 映画
「永い言い訳」 2016年 日本


監督 西川美和
出演 本木雅弘 深津絵里 竹原ピストル
   藤田健心 白鳥玉季 堀内敬子
   池松壮亮 黒木華  山田真歩
   岩井秀人 康すおん 松岡依都美
   戸次重幸 淵上泰史 小林勝也

ストーリ
“津村啓”というペンネームでテレビのバラエティなどでも活躍する人気小説家の衣笠幸夫(本木雅弘)。
幸夫は野球界で大活躍した広島カープの鉄人と同じ名前に大きなコンプレックスを持って生きてきた。
長年連れ添ってきた妻・夏子(深津絵里)との間に子どもはおらず、夫婦関係も最近はすっかり冷え切っていた。
ところがある日、その妻が旅先でバス事故に遭い、一緒に行った親友・ゆき(堀内敬子)と共に亡くなってしまう。
間の悪いことに、そのとき幸夫は不倫相手の福永智尋(黒木華)と密会中だった。
世間に対しても悲劇の主人公を装い、涙を流すことすらできなかった。
後ろめたさは感じつつも、素直に悲しむことができない幸夫。
葬儀の時も、世間に対しては悲劇の夫を装っていたが涙ひとつ出ることがなかった。
そんなある日、遺族への説明会で、幸夫とは対照的に激しく取り乱すゆきの夫・大宮陽一(竹原ピストル)とその子供たちに出会う。
トラック運転手として働く陽一は、まだ手のかかる2人の子どもを抱え、途方に暮れていた。
すると幸夫は自分でも驚いたことに、子どもたちの世話を自ら買って出るのだった。
保育園に通う灯(白鳥玉季)と、妹の世話のため中学受験を諦めようとしていた兄の真平(藤田健心)。
一緒に料理を作って食べたり、妹の灯を自転車の後ろに乗せて長い坂を一生懸命に登ったり、中学受験をしようと思っていた真平に勉強を教えたりした。
子供を持たない幸夫は、誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き出すのだが……。


寸評
西川美和さんはたぐい稀な作家&監督である。
文学賞の候補になるなど上質の小説を書き(僕は読んだことがないが)、その作品の脚本を書き起こし、そして映画監督も務める。
自らの思いを表現する事において、これほどの才能を持ち合わせている人は昨今では思い当たらない。
僕は西川監督作品を見ていて感じていることなのだが、どうもこの作家&監督は人間が生まれながらに持ってしまっている嘘をつくという残念な本質に興味を抱かれていると思う。
単純な嘘、詐欺の様な悪意の嘘、思いやりにつながる善意の嘘、自分を偽る欺瞞などを通じて、人間の弱さ、優しさを見つめているように感じるのだ。

幸夫は反省のない利己的な人間である。
国民栄誉賞に輝く衣笠と同姓同名だということにコンプレックスを抱くような男だ(広島カープの衣笠は衣笠祥雄で字が違うが)。
よくもこのようなことが思いつくものだと言いたくなる設定である。
幸夫は出版社を辞めて20代で作家になったものの中々芽がでず、売れっ子になるまで美容師の妻が生活を支えていたようである。
そのことへのコンプレックスも持ち合わせているようにも思える。
自身が出演するテレビ番組に関しても、そんな感情がチラチラ出てきてしまう。
直接描かれてはいないが、妻の夏子は彼の才能が開花することを期待して幸夫を支えてきたが、幸夫の成功はその自負を奪い、彼に対する嫉妬心を彼女に芽生えさせていたのではないかと思う。
この夫婦は表面上を取り繕っているが、欺瞞に満ちた夫婦なのである。
幸夫は妻に興味がないのか、旅行の行先も知らないし、連絡を取ることもしないし、着ていった服の記憶もない。
遺骨を抱いてマスコミの前に登場した幸夫は神妙な態度をとるが、乗り合わせたタクシーの中ではバックミラーで自分の髪の乱れを気にする仕草を見せる。
それを同乗した若い社員の岸本がそっと見るシーンなどは上手いなあと思う。
社会の最小単位である家庭とかけ離れた幸夫の本質を際立たせるため、大宮陽一という対照的なキャラクターを登場させている。
トラック運転手をしていてどこか強面で今にも殴り掛かりそうな態度であるが、笑うととたんに愛嬌が出てくる人物を竹原ピストルがいい味を出して演じていて本木雅弘を食っているところがあった。
幸夫と違い、彼は家庭を愛し、妻を愛し、子供たちを愛している。
そんな大宮だが、長男の真平からは「死ぬんだったらお母さんよりお父さんの方がよかった」と思われている。
そんな気持ちもあって真平は母の葬儀で涙が出なかった。
子供も欺瞞の中で生きているのだ。
妻のいなくなった幸夫の家は片付けもおろそかになり、大宮の団地の一室と同じように乱れていくが、それは散らかっているというより荒廃していっているようにも見える。
大宮の家と、幸夫の家は裕福さとは別に全く違うものなのだと分かる。
幸夫は灯を自転車乗せて母が登っていた坂道を、同じようにヨタヨタしながらチャレンジしている。
ふらふらしながらも自転車を走らせる姿は、幸夫の生き方が変わってきた象徴でもあった。
ハッピーエンドに向かうのかと思った時に幸夫が目にするのが「もう愛していない。ひとかけらも。」という妻から自分宛ての未送信メールだ。
それを知った幸夫は、大宮の家族との食事シーンで酒に酔い、荒れる。
幸夫がぶちまけることで起きるハラハラ感は下手なスリラー以上のものがあった。
愛すべき日々に愛することを怠ったことの代償は大きい。
幸夫は創作ノートに「人生は他者」としたためる。
話の筋からすれば、大宮親子との生活が幸夫に欠けていた他者への思いやりを教えてくれたとなるのだろうが、僕には違った感情が湧き上がってきた。
確かに自分の人生は自分一人のものと思っていても、他者とのかかわりの中で存在しているし、他者によって支えられているものでもあると思う。
しかし湧き上がってきた疑問は、自分が歩んできた人生は自分の本質とは違う欺瞞に満ちたものだったのではないのかということである。
人は、時として装い、時として思いと違う言葉を発し、時には偽善者ぶりながら自分を演じてきているのではないかという疑問である。
人それぞれが本音で言い合い、行動すれば軋轢を生じてしまうのが社会というもので、なかなか正直のみでは生きにくい。
自分の人生は自分そのものではなく、本来の自分とは別の他者だったのではないかということだった。
もっとも、そのようにして過ごしてきた人生もまた自分であったことも事実なのだが・・・。
従来作品に比べると少しパンチ不足を感じたけれど、男性の僕は十分に楽しめた男性映画だったように思う。
たぶん西川美和監督のファンとなってしまっていたことにもよるものだろう。

ナイル殺人事件

2019-11-26 12:04:34 | 映画
「な」行の映画に入ります。


「ナイル殺人事件」 1978年 アメリカ


監督 ジョン・ギラーミン
出演 ピーター・ユスティノフ
   ジェーン・バーキン
   ロイス・チャイルズ
   ベティ・デイヴィス
   ミア・ファロー
   ジョン・フィンチ
   ジョージ・ケネディ
   デイヴィッド・ニーヴン
   マギー・スミス
   オリヴィア・ハッセー

ストーリー
アメリカ生まれの美女リネット(ロイス・チャイルズ)は巨額の遺産相続人となった。
リネットは旧知の親友ジャクリーン(ミア・ファロー)から、ジャクリーンの婚約者であるサイモン(サイモン・マッコーキンデール)が失業し、生活に苦しんでいるため、手を貸してほしいとの相談を受ける。
リネットはサイモンと会うが、その直後に彼女はサイモンとの電撃結婚を発表する。いわば略奪婚だった。
いまや若き富豪となった夫妻は、新婚旅行でエジプトに赴くが、行く手にジャクリーンが姿を現した。
ジャクリーンは夫妻と同じ豪華客船に乗り合わせ、ことあるごとに暴言を浴びせるなど妨害行為を繰り返す。
リネットは船の乗客に、旅行中の私立探偵ポアロ(ピーター・ユスティノフ)がいることを知り、「ジャクリーンを遠ざけてほしい」と頼むがポアロは依頼を受けなかった。
一夜が明けた朝、リネットは銃殺されていた。
Jの血文字が残されていたことから、ジャクリーンが真っ先に疑われたが、彼女にはアリバイがあった。
船内には他にも怪しむべき人々がひしめきあっていた。
リネットの叔父で財産の管理者でもあるアンドリュー(ジョージ・ケネディ)、リネットを彷彿させる登場人物をネタに小説を執筆した作家サロメ(アンジェラ・ランズベリー)、サロメの娘でリネットに嫉妬心を抱くロザリー(オリヴィア・ハッセー)、リネットの真珠のネックレスを欲しがるバン・スカイラー(ベティ・デイヴィス)、リネットに藪医者呼ばわりされた医師のベスナー(ジャック・ウォーデン)などは、いずれもリネットと揉め事を起こしていた。
さらにはメイドのルイーズ(ジェーン・バーキン)はリネットに自身の結婚を破談されたと信じているし、看護師のミス・バウアーズ(マギー・スミス)は父がリネットの祖父に破産させられていて、社会主義シンパの学生ファーガスン(ジョン・フィンチ)はそもそもブルジョア階級を憎悪していた。
ポアロは旧友レイス大佐(デイヴィッド・ニーヴン)とともに船上で捜査を開始する。


寸評
アガサ・クリスティのミステリ物としてはよくできた作品で、一番いい出来かも知れない。
知人がエジプト旅行に行ったことがあって、その時にはナイル川のクルージングが一番良かったと言っていたのだが、描かれたようなクルージングなら一度は参加してみたいと思う(殺人事件はお断りだが)。
ピラミッドでも撮影が行われているが、超人気観光地と思われる場所に観光客がいないのはどうしたわけか?
あの場所で観光客を排除した撮影隊の苦労が想像できるというもので、変なところに感心した。

リネットがジャクリーンの婚約者であるサイモンを横取りする描き方は無駄な説明をすることなくスピーディでいい。
そこからジャクリーンの嫌がらせが始まり、やがてクルージング客船でリネットが”J”の文字を残して殺される。
ポアロが推理した通り、これは犯人がジャクリーンでないと言っているのと同様で、観客もそれを推測する。
やがてポアロが犯人探しを始めるのだが、船の中とあって容疑者は乗船客に限られている。
この設定は「オリエント急行殺人事件」と同様だ。
そしてそれらの人々にすべて殺人の動機があるのはミステリー作品の常である。
この作品で描かれる各人の動機は言ってみれば単純なもので根深いものではない。
一番妥当な人物はリン達に付きまとって嫌がらせを続けていたジャクリーンなのだが、彼女は真っ先に犯人から除外されている。
さて、この謎解きをポアロはどのようにして解決するのかが後半のメイン・ストーリーになってくる。
ポアロは個別尋問を続けていくが、その中でそれぞれに殺人の動機とチャンスがあったことを示す。
観客である我々もその説明に付き合わされるわけだが、それらはやはりあまりにも単純すぎるもので、この手の映画を見慣れたものなら、その内に真の犯人は誰なのかは推測がついてくる。
あとはどのようにして犯行に及んだのかとなってくるのだが、それは流石にポアロが明かすまで想像できない。
物語はご都合主義のところもあるが、ナイル河畔と探偵ポアロを演じるピーター・ユスティノフの雰囲気が映画を引っ張っていた。
存在感があったのはそのピーター・ユスティノフとジャクリーンのミア・ファローだった。
ミア・ファローの持つ異様さはこの役にぴったりで印象的だった。
僕は「オリエント急行殺人事件」におけるアルバート・フィニィのポアロより、この映画でのピーター・ユスティノフの描き方の方が好きだ。

ところで、真珠のネックレスはリネットが寝ている間に部屋に忍び込んだ者によって盗まれたのだと推測するが、そのことに対するポアロの指摘はなかった。
単に犯人たり得るためだけの小道具に過ぎなかったのだろうか?
犯人はアンドリューの持つ拳銃を取りに彼の部屋を訪ねるが、そこに彼がいたらどうしたのだろうと思う。
都合よく彼が在室していなかったものだと思うけれど、それがまあストーリーというものだろう。
また犯人は遺跡の上からあの大きな石を落とすことは可能だったのだろうか?
もし二人が死んでしまっていたなら遺産はどうなっていたのだろうか?
あれはリネットだけを殺すための行為にしてはと疑問が残る。
でもまあ推理映画としては古いパターンを感じさせるが上出来の映画だった。

天然コケッコー

2019-11-25 09:36:04 | 映画
「天然コケッコー」


監督 山下敦弘
出演 夏帆 岡田将生 柳英里沙
   藤村聖子 森下翔梧 本間るい
   宮澤砂耶 黒田大輔 佐藤浩市
   廣末哲万 夏川結衣 大内まり

ストーリー
山と田んぼが広がる木村町。
方言丸出しの中学2年生の右田そよは、小中学生合わせても全校生徒たった6人という小さな分校に通っていた。
そんなある日、東京から一人の男子生徒が転校してくる。
彼の名は大沢広海。
初めて出来た同級生との楽しく過ごす毎日に期待に胸ふくらまし、都会の匂いをまとったかっこいい男の子の登場に心波立つそよだった。
一方、面倒見のいいそよとは正反対で、ちょっと意地悪でとっつきにくい大沢。
やがて、そよはそんな大沢が気になりだして・・・。


寸評
右田そよをやった夏帆(かほ)がすごくいい。
面倒見がよくて、皆から慕われている性格の良い少女を好演している。
夏帆あっての映画だ。

映画はいつまでも残っていて欲しい風景を映し出して進んでいく。
ファーストシーンは青々とした稲が写され、広々とした田んぼの広がりから、山々の景色へと移っていく。
それはまだ残っているであろう日本の原風景でもあった。
流行のCGではない本物ののどかさが感じられて何だかホッとする映画だった。
少女が自分のことを「わし」と言ったり、「行って帰りまーす」と出かけるなど、方言の持つぬくもりが伝わってきた。
海へ行く子供たちに「いってらっしゃい」と声をかける村人がいる。
病院もないさびれた村だが、人が見えないからホッとする場所であり、皆が触れ合って生きている場所だ。

中学2年生のそよちゃん、中学一年生の伊吹と篤子、小学六年生の浩太郎と小学三年生のかっちゃんと一年生のさっちゃんの6人の分校。
さっちゃんはまだオシッコが頼りなく、さよちゃんの世話になっていて、まわりの皆もそれを受け入れている。
そんな所へ東京から中学2年の大沢君が転校してきて、そのことで起きるちょっとした気持ちの変化をみずみずしく描き出している。
学年の違う7人がいつも一緒にいて皆で遊んでるシーンや、さっちゃんが膀胱炎になったことに責任を感じたそよちゃんが訪ねた時に、そよちゃんに飛びつくさっちゃんと、その後に食べ終わったスイカの皮でさっちゃんいに顔を撫でてもらっているそよちゃんの姿を見て、なぜだかすごーく懐かしくて、ほっとして、じーんときて、少年時代を思い出した。海水浴シーンでの水たまりで冷やした真っ赤なトマトの何と綺麗だったことか。

大きな出来事など起こらなくて、それでも少しずつ環境も変わっていって、やがては分校もなくなって、この村も村人がその変化に気づかないように静かに変わっていくのだろう。
だからさっちゃんのお父さんと、大沢君のお母さんの色恋の部分は深く描かれなかったんだろうな。
郵便局で女同士が静かに火花を散らすシーンと、美容院の裏でそよちゃんに目撃されたぐらいで、そよちゃんのお母さんはドンと構えたままなので何事も起こらない。

耳に手を当てると田舎で聞こえた音が都会でも聞こえる。
それはそよが田舎の方が好きとわかっただけでもいいじゃないかと言われた後だった。
そこで育った者には場所がどこであれ、そこが故郷だと思うのだが、映画はこんな田舎の世界がいつまでも残っていて欲しいと祈っていたのかも知れない。
ラストシーンで、中学を卒業していくそよが黒板にお別れのキスをして「さいなら、またくるけえ」と言って教室を出て行く。カメラがパンしていくと日差しを受けた白いカーテンがあり、高校生となったそよが窓から教室をのぞき込んでいる。映画だ!
真新しい高校の制服を着たそよを囲んで皆が集まっている。
いいラストだなあ。
こんな映画好きだなあ。

天国と地獄

2019-11-24 09:57:10 | 映画
「天国と地獄」 1963年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 仲代達矢 香川京子
   山崎努 江木俊夫 佐田豊
   島津雅彦 石山健二郎 木村功
   加藤武 三橋達也 伊藤雄之助
   中村伸郎 田崎潤 志村喬
   藤田進 土屋嘉男 三井弘次

ストーリー
ナショナル・シューズの権藤専務は、明日まで五千万円を大阪に送らないと、次期総会で立場が危くなるというのに、息子の純と間違えて運転手の息子進一を連れていってしまった誘拐犯人から、三千万円をよこさないと進一を殺すという電話を受ける。
苦境に立った権藤は結局金を出すことになるが、権藤邸に張りこんだ戸倉警部達は権藤の立場を知って犯人に憎しみを持った。
金を渡す場所は、明日の第二こだまに乗れということだったが、犯人は戸倉警部達を嘲笑するかのごとく、巧みに金を奪って逃げた。
進一は無事にもどったが、権藤は会社を追われ、債権者が殺到した。
青木は進一の書いた絵から、監禁された場所を江の島附近と知って、進一を車に乗せて江の島へ毎日でかけていった。
田口部長と荒井刑事は、犯人が乗り捨てた盗難車から、やはり江の島の魚市場附近という鑑識の報告から江の島にとび、そこで青木と合流した二人は、進一の言葉から、ついにその場所を探り出した。
その家には男と女が麻薬によるショック死で死んでいた。
誘拐犯はインターンの竹内銀次郎とわかったが、今竹内をあげても、共犯者殺人の証拠はむずかしい。
戸倉警部は、殺人犯として検挙するために竹内を泳がすのだが・・・。


寸評
「ご・ん・ど・う・さん・・・」とふてぶてしく呼びかける犯人が、最後のシーンでブルブルと振るえながら話す変わりようを、山崎努さんが抜群のセンスで演じている。
この人は、若いときから性格俳優だったんですねぇ。

窓のあかない特急こだま(旧国鉄の東海道線)で、どうして現金を受け取るのかと刑事達が車内に張り込みますが、犯人は少しだけ開くトイレの窓からカバンを投げさせる。
犯人が指定したカバンの厚さはそのためであり、車窓からは誘拐された進一の河原にたたずんでいる姿が発見され・・・と、中々スピィーディな展開で、車内の撮影は緊迫感に満ち満ちていた。
車内シーンだけでなく、物語の展開や画面の切り替えもスピーディで、そのスピード感が一級のサスペンス劇を支えている。

前半は誘拐事件の発生と、社内の権力争いが並行して描かれる。
敵対する重役たちが冒頭にだけ登場し、その後は権藤の腹心である三橋達也さんだけを登場させて、権力を巡る暗躍は想像に任せているところなどは巧みだ。
もちろん債権者達の登場も一回きりで、会社のことはそれらで苦境を描きながら脇に置く配慮が徹底していた。
一方の誘拐事件は取り違えの発生、それによる権藤の対応の変化、犯人の要求などがテキパキと描かれていく。
職人上がりの専務を三船さんがタフネスに演じているが、全体を通じていささかヒーロー的すぎるようなきがする。
権力掌握を目指す野望を持つ反面、運転手の子供を見捨てられない人間性の両面をもつ人にしては、いささか強すぎて葛藤しているような雰囲気がそがれていたような気がするのだが・・・。
それでも、すべてを割り切って子供の救出に向かった後の権藤氏を演じた力強さは三船さん独特のものだろう。

後半は犯人の追求と逮捕に至るまでの逮捕劇に変化する。
犯人を特定するまでの捜査員たちの活動もさることながら、オロオロとする運転手がはまり役だった佐田さんも活躍し、新事実が発覚する。
ここからの盛り上がりの大きな要因は、犯人を誘拐犯としてではなく、殺人犯として逮捕しようという警察側の思惑だ。
尾行場面などもエキストラを存分に使い、尾行の苦労を描きながら随分と緊迫感を出している。
それを指揮する戸倉警部役の仲代達也さんもヒーロー的だが、石山健二郎さんや木村功さん、加藤武さんらがバタクサくサポートしてバランスを取っていた。

この作品をまねた誘拐事件が実際に起こったせいか、黒沢プロの意向かテレビではまったく放映されなかった。
黒澤作品としては、初めてのパートカラー作品で、カバンを燃やしたときに出るピンクの煙だけを特殊処理してピンクに染めていた。
差し押さえ場面で、張り紙をされた椅子から腰を浮かせるという愉快なシーンも取り入れている。
エンタテインメントに富んだ時代を超えた一級のサスペンス映画と言える。

転校生

2019-11-23 08:56:57 | 映画
「転校生」 1982年 日本


監督 大林宣彦
出演 尾美としのり 小林聡美 佐藤允
   樹木希林 宍戸錠 入江若葉
   志穂美悦子 山中康仁 中川勝彦
   井上浩一 岩本宗規 大山大介

ストーリー
広島県・尾道市。
斉藤一夫は8ミリ好きの中学三年生で、悪友たちと女子更衣室をのぞいたり悪ガキぶりを発揮するごく普通の少年である。
そんな彼のクラスにある日、斉藤一美という、ちょっとキュートな少女が転校して来た。
一美が大野先生に紹介された途端、一夫を見て叫んだ。
「もしかしてあなた一緒に幼稚園に行っていたデベソの一夫ちゃんじゃない?」
二人は幼馴染みだったのだ。
久しぶりに一夫と再会した一美は大喜びだが、子供の頃の自分の恥部を知られている一夫にとっては大迷惑。
その日の帰り道、神社の階段の上で、一夫はつきまとう一美めがけてコーラの空缶を蹴飛ばした。
驚いた一美は階段から落ちそうになり、一夫は押さえようとするが、二人はそのままころげ落ちた……。
しばらくたって二人は意識をとり戻し、それぞれの家に帰るのだが、二人の体が入れ替っていることに気がつき、愕然とする。
男の体になってしまった一美は泣き出すが、とりあえず、お互いの家族、友人の中で生活することにした。
突然、男っぽくなった一美や、逆に女っぽくなった一夫にそれぞれの家族は戸惑うが、まさか入れ替っているなどとは考えてもみない。
学校でも一夫が突然勉強ができるようになって周囲も驚くのだが・・・。


寸評
男と女の身体が入れ替わるというキワモノ映画なのに、見事な青春映画に昇華させているのが素晴らしい。
尾道の町を写し込んで撮りあげた大林監督の力も評価されるべきものだが、何と言っても男になった斉藤一美をやった小林聡美の頑張りが大きい。
女優魂というのか見事に脱いで男を演じた彼女なくして、この作品の存在はなかったと言って過言でない。

一夫が趣味で撮った8ミリの映写で始まるが、写っているのは尾道水道をはじめとする尾道の風景で、物語はこののどかな町で繰り広げられていくことを示していた。
冒頭が8ミリの映写シーンということもあって、ずっとモノクロ画面が続く。
やがて一夫たちの学園生活が描かれるが、異性に対して興味を持ち始めた彼らの姿が面白く、取り巻いている生徒たちの等身大の姿が微笑ましい。
下校シーンなどは当然ながら通学路を写し込んでいるが、この映画全体においてはそのような生活に密着したロケ地が採用されている。
観光名所案内的な要素は全くと言っていいほど排除されていたと思う。
そして二人が入れ替わる転落シーンとなり、踏切で立ち尽くす一美(実は一夫)のシーンでカラーに切り替わっていく。
最後で再びモノクロ画面にもどるが、一夫と一美が入れ替わっている間だけがカラーになっていた事に気づく。
家に帰った一夫が鏡に映る自分の姿を見て胸の膨らみに気が付き、ここからが本格的な物語の始まりとなるのだが、このシーンは可笑しい。
そしてここで見せた小林聡美の頑張りがこの映画の雰囲気を決定づけた。

映画は8ミリの映写で始まり、8ミリの映写で終わる。
一美が淋しそうに一夫を見送り、やがて楽しげにスキップして帰っていく。
その一美の姿は二人だけにあった青春の思い出に対する賛歌のようでもあり、なかなかどうして素晴らしい青春映画だったと思う。
「さよなら、私」「さよなら、俺」は映画史に残るラストシーンだ。
大林さんは人と人の出会いやかかわりを暖かく見つめ、見守ってる監督さんだと思う。
そんな触れ合いや出来事をデフォルメして表現しているが、いつも未来に向けて明るい勇気をもたせるのがいいと思う。

尾道は坂の町だ。
その路地裏とも言える細い坂道が風情を醸し出していた。
ロケ地の尾道を一族で旅したことがある。
発端となる御袖天満宮の階段にたたずんで空き缶が転がった屋根を見下ろしていると、ここから落ちれば女の子に変身できるのかなとつい思ってしまった。
御袖天満宮の境内は思っていたよりも狭く、カメラ位置を想像するのも楽しいものだった。
映画に郷愁を感じない人にはつまらない坂道だったと思うが、僕には映画のシーンを思い出すいい旅だった。

天使のはらわた 赤い教室

2019-11-22 08:27:32 | 映画
「天使のはらわた 赤い教室」 1979年 日本


監督 曾根中生
出演 水原ゆう紀 蟹江敬三 あきじゅん
   水島美奈子 堀礼文 河西健司
   草薙良一 佐藤恵子 影山英俊
   藤波怜子 小島洋子 織田俊彦

ストーリー
息抜きに来た温泉町でブルーフィルムを観たポルノ雑誌の編集者村木哲郎は、迫真の“演技”でレイプされる女に釘付けになってしまった。
その女の“顔”は村木の使っているモデルからは想像も出来ないものだった。
東京に帰った村木は、早速女の居所をつきとめようと心当りを捜すが、結局見つからなかった。
ある日、撮影でラブホテルに行った村木は、そのホテルで受付をしているあの“女”士屋名美に出会う。
村木は名美に、ブルーフィルムで観たあなたの顔が忘れられない。
雑誌のモデルになってくれと頼むが、彼女にとって、そのブルーフィルムは忌わしい思い出でしかなかった。
それは、彼女が学生時代に実際に強姦されたとき撮られたもので、その後、それを見た男たちは、それをネタに彼女に近づいてくるのだった。
拒む彼女をなんとか説得した村木は明日の再会を約束して別れた。
しかし、翌日、村木は雑誌のことで警察に呼ばれ、名美との約束の場所に行くことが出来なかった。
それから三年が過ぎ、村木は結婚をして、女の子も生まれた。
ある日、仲間と場末のバーに繰り出した村木はそこで、街頭の女になり果てた名美に出くわした。
しつこく追う村木を、名美は、ヒモのマー坊を使って店から叩き出すのである。
翌日、二日酔の頭を抱え、名美のいる店を尋ねた村木は、マー坊に手ひどく痛めつけられてしまう。
名美が止めに入ったときには意識も薄らいでおり、目覚めたとき、村木は店の二階で寝かされていた。
そして、隣室から洩れる異様な声に気づき、ふすまの隙間から覗くと、そこで、名美とマー坊が客の前で白黒ショーを演じていた。


寸評
冒頭でブルーフィルムが映し出される。
今でいうところのアダルトビデオである。
当時は8ミリという撮影機材が有って、撮影されたフィルムを暗くした部屋で専用の映写機を使ってカタカタと音を立てながら上映するノスタルジックな代物である。
上映されているブルーフィルムはレイプシーンを撮影したものだが、話の発端と言う割には、下着の後始末シーンから、テニスをする女子高生を写して「完」の字を出すまでを描き、結構丁寧な描き方をしている。
何かしら本作の雰囲気を先取りするような導入作品の描き方だった。

村木はそのフィルムに写った女に一目ぼれする。
同様の仕事をしている自分が使っているモデルにはないものを感じたからなのだが、じつはそれはモデルではなく本当にレイプされている素人女性だったせいによる。
その女性、名美はそのことが原因で転落人生を歩み始めているのだが、対するポルノ雑誌の編集者村木もどこか学生運動闘士のなれの果ての様な雰囲気のある男だ。
名美ほどでないにしても、彼もまた転落人生を歩んでいるような描き方だ。
だから、これは見方によっては転落者同士がお互いの傷を慰め合うメロドラマでもあるのだが、そのことでやがて光が見えてくるという展開にはならない。
現実の非情を冷酷に描き出していく。

やっと居場所を突き止めた村木は、名美に誘われるまま温泉宿らしきところに入る。
過去を嗅ぎつけた男がまた自分の体を目当てに言い寄ってきたと思っての名美の行動なのだが、ワンショットで撮り続けるこの部屋のシーンはいい。
村木はそれが目的ではないので名美を抱かない。
女の名前が名美であることを村木は初めて知り、今日は出会い方が悪いので明日又会おうと去っていく。
その間、名美役の水原ゆう紀は背中を見せているだけである。
村木役の蟹江敬三の一人芝居が続くと言っていい。
障子を染める明かりが夕日に照らされ刻々と変わっていく。
低予算のロマンポルノにしては随分と手の込んだ演出だ。
名美は自らの人生にわずかながらの光明を期待するが、現実は非情でそうはならない。

やがて村木は結婚し、子供も生まれている。
再会した名美に村木はその生活から抜け出せと言うが名美は抜け出せない。
水たまりに立ち尽くすショットもいい。
村木には村木の生活が始まっているし、最下層に落ちた名美にもそこでの生活があると言っているようでもある。
時々出てくるロマンポルノの傑編のひとつだ。
村木と名美では「天使のはらわたシリーズ」以外に、「ラブホテル」という作品が後に撮られたが、僕としてはそれが一番の出来だったように思う。

デトロイト

2019-11-21 08:20:37 | 映画
「デトロイト」


監督 キャスリン・ビグロー
出演 ジョン・ボイエガ
   ウィル・ポールター
   アルジー・スミス
   ジェイソン・ミッチェル
   ジャック・レイナー
   ベン・オトゥール
   オースティン・エベール
   ジェイコブ・ラティモア

ストーリー
1967年7月23日、人々の関心がアフリカ系の退役軍人の功績を讃える式典に向いている隙を突いて、デトロイト市警察は違法酒場の摘発を行った。
酒場の経営者が逮捕されたとの一報を受けて、摘発現場にいた人々が警官隊に石を投げ始めた。
こうして始まった暴動はどんどん規模を拡大し、ついには食料品店の略奪や銃撃戦が発生するに至った。
翌日には、略奪犯の捜査が始まっていたが、暴動の混乱の中では思うように捜査ができるわけもなかった。
捜査に当たっていた警官の一人、クラウスは規則に反して男性を背後から銃撃し死亡させてしまう。
その頃、地元デトロイトの黒人によって結成されたバンドがデトロイトを訪れていた。
音楽堂でのライブ・パフォーマンスが行われる直前に、警察が音楽堂のある通りを封鎖し、バンドメンバーにデトロイトから退去するように命じた。
彼らはバスでデトロイトを離れようとしたが、暴徒にバスが襲撃されてメンバーは離れ離れになってしまった。
ボーカルのラリー・リードとその友人であるフレッド・テンプルはプールサイドにいたジュリーとカレンという白人女性に声をかけ、友達がいるという別館の部屋に誘われて行くと、そこにはクーパーら数人の男がいた。
なにげなく外を見たクーパーは、州兵や警官隊が集結しているのを見て、「ちょっと怖がらせてやろう」くらいの安易な気持ちでスターターピストルを数発鳴らした。
モーテルに狙撃手がいると確信した州兵たちは激しい銃撃を始めた。
知らせを受けて現場に到着したクラウスが警官隊とともにモーテルを窺うと、ちょうど階段を逃げ降りていたクーパーを見つけ、またも後ろから射殺してしまう。


寸評
キャスリン・ビグロー監督作品としては、イラク戦争における爆弾処理班を描いた「ハート・ロッカー」と、オサマ・ビンラディンを狙うCIAの女性分析官を描いた「ゼロ・ダーク・サーティ」の2本しか見ていないが、とても女性監督とは思えない題材と描き方であった。
そしてそれが僕のキャスリン・ビグロー監督に対するイメージ付けとなっている。
そんな印象を持ちながら見た「デトロイト」だったのだが、思いは変わることはなかった。
相も変わらずの黒人差別問題映画だが、暴動が起きているデトロイトの街に叩き込まれたようなの緊張感がみなぎっている。
大阪在住の者としては西成暴動を思い出すが、それにしてもデトロイトで起きたような略奪は起きていなかったのではないかと思うし、災害時などでも暴動、略奪が起きず整然とコンビニに列を作る日本人の態度に各国の称賛が起きているのは誇りである。
まるでニュースの映像のような暴動、略奪の様子が描かれ、知らず知らずのうちに臨場感のある世界へ導き入れられていくのだが、その映像の中で三人の人物がクローズアップされていく。
丸腰の黒人青年を射殺してしまった白人警官のクラウス、ある店の警備員を務める黒人青年のディスミュークス、
モータウンとの契約を狙うボーカルグループのリードシンガーであるラリー。
暴動を角度を変えながら描いていき、この三人を同じ現場で遭遇させるのは映画として当然の展開だ。

警官たちがモーテルになだれ込んできてからの展開はおぞましい。
警官による黒人容疑者への暴行はニュースでも伝えられて承知しているが、その実情の一端が描かれるとその知識が上辺だけのものであることを痛感する。
くどいと思うほどの暴動シーンと、その間で暴動とは関係なく生活している人々の姿を並列で描いてリアル感を生み出しているのはキャスリン・ビグロー監督らしい演出だと思う。
人種差別主義者の警官クラウスの尋問はどんどんエスカレートしていくのだが、この警官を演じたウィル・ポールターの演技はすごいと思う。
鬼気迫るというより、何なんだこの男はと思わせ、絶対にこんな人間にはなりたくないと思わせる。
現場を偽装して射殺を正統化することなど朝飯前なのだ。
単純な人種差別主義者ではない異常な性格の男として描かれている。
アメリカの警官の中には絶対こんな警官がいるのだと思わせるに十分な描き方で、ウィル・ポールターは悪役ながら完全に画面を圧している。

アメリカの恥部を描きながらもキャスリン・ビグロー監督は同時にアメリカの良識も描いている。
黒人の警備員に抑制的な行動で黒人たちを守らせているし、州兵が尋問されている黒人を逃がしてやる場面にも感じ取れる。
その後の顛末がテロップされるが、ラリーの行動とその後の顛末もアメリカへの信頼なのだろう。
しかしながら、1967年が遠い昔となった今もってこのような暴行がニュースとして伝わってくるという事実は、人種問題に関してアメリカ社会はまだまだ病んでいるということを表している。
人種問題の根深さを身を持って感じることがない日本に生まれて良かったと僕は思っている。

テス

2019-11-20 08:50:50 | 映画
「テス」


監督 ロマン・ポランスキー
出演 ナスターシャ・キンスキー
   ピーター・ファース
   リー・ローソン
   デヴィッド・マーカム
   アリエル・ドンバール

ストーリー
19世紀の末、イギリスのドーセット地方にある村マーロット。
ある日の夕暮時、なまけ者の行商人ジョン・ダービフィールド(ジョン・コリン)は、地方の歴史を調べている村の牧師に声をかけられ、ダービフィールドが、実は征服王ウィリアムに従ってノルマンディから渡来した貴族ダーバヴィルの子孫であることを告げられた。
ジョンからダーバヴィルの子孫であると聞かされた妻(ローズマリー・マーティン)は、早速美しい長女テス(ナスターシャ・キンスキー)をダーバヴィルの邸に送りこみ、名のりをあげて金銭的な援助を受けようと考えた。
家族の為にダーバヴィル家を訪れたテスは、着く早々その家の息子アレック(リー・ローソン)に会った。
彼は美しいテスを見るなり夢中になり、いやがるテスを無理やり森の中で犯した。
アレックの情婦になったテスは、ある日の夜明けダーバヴィル家をぬけ出した。
両親のもとに戻ったテスは、やがてアレックの子供を産むが、わずか数週間でその子は死んだ。
ある酪農場で働くことにしたテスはそこで、農業の勉強をしに来ている牧師の息子エンジェル(ピーター・ファース)と知り合いになり、このまじめで静かな青年に心を惹かれた。
彼もテスに恋心を抱き、ある日、彼は正式に結婚を申し込んだ。
式を終えハネムーンを過ごすためにやってきた別荘で、エンジェルが過去の誤ちを告白し、それに続いてテスもアレックとの一件を告白すると、エンジェルは別人のように冷たくなり、一人外に出てしまった。
エンジェルの理想生活は崩れ、テスに別れを告げブラジルの農場に発っていった。
絶望にくれるテスは、昔の同僚マリアン(キャロリン・ピックルズ)をたよりに農仕事に戻った。
そんなある日、アレックがテスを求めてやって来た。
彼の申し出を拒むテスだったが、貧しさに苦しむ家族のことを考えると、アレックに従うよりなかった。
やがてブラジルから戻ったエンジェルはテスの住む所を探しだし、その豪華な家のべルを鳴らした。


寸評
貧しさゆえに不幸を繰り返す女性テスの半生を描いた作品だが、全体はいくつかのパートに別れている。
最初のパートで家族の為にダーバヴィル家を訪れたテスが、その家の息子アレックに犯され情婦となる。
怠け者の父が牧師から自分の家が渡来した貴族ダーバヴィルの子孫であると知らされたことで、母親が同じ名前の裕福な家に親戚の者としてテスを送り込んでいたのだ。
もちろん金銭的援助を期待してのものであるが、じつはこの裕福なダーバヴィル家は家名を買っただけで旧家でも何でもない。
もしかするとテスの先祖が家名を売っていたのかもしれないが、イギリスの文化を知らない僕は家名って売買される価値のあるものなのかよく知らない。
テスはアレックの情婦になっているのだが、情婦として虐待されている様子がもっと描かれていたら僕の印象は違っていて、アレックに対する嫌悪感は増しただろう。

第二パートといえるのが、ダーバヴィル家をぬけ出したテスが子供を出産し、農場で働いているなかで子供を死なせてしまうエピソードである。
子供は犯されたアレックの子供であることは言うまでもないから、二重の悲劇と言える。
過酷な労働を強いられているのだが、背景となる田園風景は絵画的で印象深い。
この絵画的な映像は作品を支えている重要な要因の一つである。

第三のパートがこの作品のメインとなっていて、起承転結でいえば転に相当する部分だ。
酪農場で乳しぼりの仕事をすることになったテスは、ここで牧師の息子で酪農経験を積んでいるエンジェルと出会い恋に落ちる。
結婚を申し込まれたテスは、アレックの子供を産んで死なせたことを打ち明けられず結婚を拒む。
思い切って告白の手紙をしたためエンジェルの元に届けたところ、翌朝のエンジェルはいつも通りで屈託がなくテスはエンジェルの愛を感じ、観客の僕も「あー、良かった」と安堵の胸をなでおろしたのだが、実は・・・という展開。
結局、エンジェルはテスを許すことが出来なかった。
実は僕の親戚の男も見合い相手に対し同じような行為をとっている。
お互いに結婚しても良いと思うようになってきたところで、女性の方が堕胎した過去を打ち明けた。
しかし男の方はそれを許すことが出来ず、大事なことを隠していたとして縁談は破談となった。
その話を聞いた時、僕なら僕を信じて打ち明けた彼女の気持ちを思って受け入れたのではないかと思った。
きれいごとすぎるか?
エンジェルにその寛容さがあれば悲劇は起きなかったはずだ。

結にあたる最後のエピソードは悲しすぎる。
しかし、アレックはどうしてあれほどテスに対して執着したのだろう。
アレックのゆがんだ精神構造は描き切れていなかったように思う。
貧しいものが救われることなく悲劇のままで終わるのは後味が悪い。
3時間弱の映画だが所々に雑なところがあり、すこし間延び感があるのだが、映像と音楽がそれを救っている。

テキサスの五人の仲間

2019-11-19 14:25:35 | 映画
「テキサスの五人の仲間」 1966年 アメリカ


監督 フィルダー・クック
出演 ヘンリー・フォンダ
   ジョアン・ウッドワード
   ジェ-ソン・ロバ-ツ
   バージェス・メレディス
   チャールズ・ビックフォード
   ケヴィン・マッカーシー
   ジョン・クォーレン

ストーリー
西部きっての5人のギャンブラーがホテルに集まり、年に1度の恒例のポーカー・ゲームを開く日だった。
集った面々は、金持の葬儀屋トロップ、裁判の途中で法廷をぬけでてきた弁護士のヘイバーショウ、娘の結婚式を中断してかけつけたドラモンド、牛買いのビュフォード、それにウィルコックスである。
ゲームもたけなわの頃、旅の途中のメレディスと妻のメリー、息子のジャッキーがホテルに立ち寄った。
馬車の車輪をなおすためだった。
小休止で部屋を出たヘイバーショウから、ポーカーの話を聞いたとたんにメレディスの目の色が変わった。
実は、彼は大変なポーカー狂で、せめて見物だけでもさせてほしいと頼みこむしまつ。
夫の性分を知りつくしているメリーは息子を看視役につけて、見物だけを許し、自分はカジ屋へ出かけた。
最初のうちこそ、遠慮がちにゲームを見ていたメレディスだったが、勝負が熱してくるにつれ、ついにがまんならなくなり息子のとめるのもきかず、ゲームに加わってしまった。
賭金は、一家が農場を買うために貯めた4000ドルのうちの1000ドル。
またたくまに、すってしまい残りの3000ドルもつぎこんだがだめ。
そこへ帰ってきたメリーは驚いた。
4000ドルを失くしたばかりか、ゲームに居残るため、500ドルに四苦八苦している夫。
その時メレディスは持病の心臓病の発作で倒れてしまった。
医者のスカリーが呼ばれて彼を別室へ運びこんだ。
虎の子の4000ドルを取り戻すため、メリーは身代わりでポーカー続行を宣言したものの、ゲームの方法などまるで知らない。
どうやら方法だけは仲間から教わったが先立つものは500ドル。
トランプ・カードを担保に、銀行に借りに行き、1度は断わられたものの、ホテルへ追ってきた銀行主はメリーに500ドルを貸し、さらに1000ドルにつりあげた。


寸評
テキサスきっての五人の富豪が年に一度行うポーカーの大勝負に居合わせ、勝負に巻き込まれていく旅の夫婦の物語で、大ドンデンがえしの面白さはB級西部劇の醍醐味なのだが、B級というには惜しいぐらい面白い出来。

テキサスで一番の葬儀屋トロップが馬車を飛ばしてやって来る。
途中で家族が止めるのを振り切ったウィルコックスを拾ってさらに馬車を飛ばす。
裁判中の弁護士ヘイバーショウも法廷を放り出し合流する。
町では牛買いのビュフォードが到着が少し遅れた取引相手を無視してホテルの一室へ向かう。
待ち受けていた牧場主のドラモンドを加えてポーカーの勝負が始まる。
ドラモンドは娘の結婚式の途中で、その式を投げ出しても駆けつけたことが後程判明すという大博打で、参加者はこの日のために1年間働き、金を溜め込んでいるという出だしは軽快だ。

ヘンリー・フォンダとジョアン・ウッドワードの夫婦が登場し雰囲気が変わるが、ポーカー好きのヘンリー・フォンダがその勝負に加わるのは、映画を見ている者からすれば当然の成り行きである。
その展開も無理はなく、描き方も無駄がない。
奥さんはしっかり者だが、どうもダンナの方はポーカーに目がないダメ男の雰囲気で、案の定ダンナは奥さんの留守中に負けに負け続けてしまう。
分かっている展開だが描き方は小気味よい。
5人の大富豪のキャラクターの描き方は、雑な人もいるがヘイバーショウのケヴィン・マッカーシー、ドラモンドのジェイソン・ロバーズのキャラはしっかり描けている。
ヘイバーショウは紳士の代表格で、ヘンリー・フォンダのメレディスをポーカーの勝負に参加させる重要な役割だし、メレディス夫婦に理解を示す良識派といったところ。
反してドラモンドはこの勝負だけに生きている粗野な男である。
このキャラクターがラストで生きてきている。

勝負の大詰めで皆にいい手が来たようなのだが、それは仕組まれたものなのか偶然なのかはわからない。
偶然に皆が勝負を諦めないスゴイ手がくるのはインチキかと思ってしまうが、どうやらそうではなさそうだ。
奥さんが引き継いだ手は最強のカードとなっているが、一瞬写る手の内のカードはそうではなかった。
まさか撮影のミスではないだろうから、それは気付く人には気付かせるという演出だったのだろうか。
僕はこの時点である程度の筋書きは読めたので、やはりまずかったと思う。
銀行家がついたことで彼女は勝利するのだが、凛とした女性を演じたジョアン・ウッドワードはこの作品で一番輝いている。
ここから大ドンデン返しが始まるのだが、僕の見た映画の中では3本の指に入るドンデン返しの一つである。
気丈な奥さんに感心し、牧場に帰った牧場主がしょんぼり待っていた婿殿に「もっといい女を嫁にもらえ」というところなどは泣かせる。
最後はもう少しドラマチックな締めにしても良かったとの思いは残るエンディングに感じる。
B級作品に違いないと思うが、僕は「テキサスの五人の仲間」はもっと評価されてもいいような作品だと思う。

ティファニーで朝食を

2019-11-18 14:24:15 | 映画
「ティファニーで朝食を」 1961年 アメリカ


監督 ブレイク・エドワーズ
出演 オードリー・ヘプバーン
   ジョージ・ペパード
   ミッキー・ルーニー
   パトリシア・ニール
   マーティン・バルサム
   バディ・イブセン
   
ストーリー
ホリー(オードリー・ヘップバーン)はニューヨークのアパートに、名前のない猫と住んでいる。
鍵をなくす癖があり、階上に住む日本人の芸術写真家(ミッキー・ルーニー)に開けてもらう。
ホリーは、いつかティファニーで朝食をとるような身分になることを夢見ていた。
ある日、ホリーのアパートにポール(ジョージ・ペパード)という青年が越してきた。
作家ということだが、タイプライターにはリボンがついていない。
室内装飾と称する中年女がいつも一緒にいて、夜半に帰って行く。
ポールはホリーと知り合い、そのあまりに自由奔放な暮らしぶりに驚き興味を持つ。
ホリーも、ポールの都会の塵にまみれながらも純真さを失っていない性格に惹かれたようだ。
ある夜、ポールの部屋の窓からホリーが入ってきて“ティファニー"のことや、入隊中の兄のことを語った。
時計が4時半になると「わたしたちはただの友達よ」と断わりながら、ポールのベッドにもぐり込んだ。
ホリーには多くの男性が付きまとう。
過去、弟と二人生きていく為に結婚していた夫は今でも諦められず追って来るし、金持ちの男とは多く付き合いがあり、金をもらうこともある。
ポールと友達以上恋人未満の中途半端な関係を続けながらも、ホリーは南米の大富豪ホセともうすぐ結婚するところまできていた。
ところが、ホリーが麻薬取引に関わっているとして捕えられたことで、ホリーは捨てられてしまう。
弟の死の知らせも相まって、ホリーの心はボロボロになる。
そんな時、自分を支え愛してくれるポールのことを考える。
一方、ポールもパトロンの女と手を切った。
そんなとき、彼の短編が50ドルで売れたお祝いにホリーはポールを“ティファニー"に誘った。


寸評
オープニングから流れるヘンリー・マンシーニの「ムーン・リバー」は映画史のこる主題歌のひとつだと思う。
人出も少ない早朝に現れたヘプバーンがティファニー宝石店の雨でパンをかじり紙コップのコーヒーを飲む。
題名となった「ティファ―にーで朝食を」そのままだが、このタイトルも作品のムードに貢献している。
ヘップバーン演じるホーリーは娼婦の様でもあるが、その実態ははっきりとしない自由人である。
当初この役をマリリン・モンローがやる予定だったが、セックスシンボルとしてのイメージがつきすぎるとして辞退し、オード―リー・ヘプバーンに白羽の矢が立ち、彼女用に脚本が書き換えられたと伝え聞いている。
脚本の書き換えが全くの事実だろうと思わせるヘップバーンのための映画だ。
彼女のアップでは徹底してソフトフォーカスが用いられており、どこまでも美しいヘップバーンを追い続ける。
彼女はキュートな女性を演じ続けているが、僕はこの映画のオードリー・ヘプバーンが一番好きだな。
「ローマの休日」や「麗しのサブリナ」のヘプバーンもいいと思うが、この映画のホリーがなんと言っても素敵だ。
少し大人で、気品があって、何か無頓着で・・・それがたまらなくかわいい。
ポールじゃなくたって何とかしたくなる。
この頃、現代の妖精という言葉は彼女のためにあるとさえ思っていた。

ドレスアップしたオードリーが一番優雅に見えて、この映画に出てくるジバンシーの衣装の素敵さは「マイ・フェア・レディ」なんか目じゃない。
黒のドレスに、黒い手袋とサングラス。
白いネックレスをした彼女が、ティファニー宝石店の前で紙コップのコーヒーを飲みながらパンをかじる所なんかとってもエレガンスだ。
軽快な音楽に乗ってニューヨークの街を闊歩する姿に微笑みが漏れてしまう。
ああ、僕がジョージ・ペパードと入れ替われたらなあという気分である。
雨のニューヨークの下町で、ずぶぬれになった猫チャンを抱きしめている姿は少女そのものだ。
映画自体は何てことない映画だと思うのだが、これがオードリー・ヘプバーン主演だとこうなってしまうと言う完全なスター映画となっている。
したがって彼女が登場しないシーンは退屈だ。
彼女の部屋でパーティが催されるのだが、その様子は滑稽な場面を挿入されながらのドンチャン騒ぎなのだが、描かれた滑稽シーンに僕は素直に笑えなかった。
なにか白々しいものを感じて、ドタバタ喜劇を見ているような気分になった。

ホリーは麻薬取引の片棒を担がせられていたようなのだが、あの暗号は何だったのだろう。
ミッキー・ルーニーが演じるユニヨシとかいう男は日本人もしくは日系人と思われるのだが、背が小さく眼鏡をかけて出っ歯である。
道化役とは言え、アメリカ人の日本人イメージはこうなのかと唖然とさせられる。
突っ込みどころは満載の映画なのだが、そんなことを吹き飛ばしてムードに浸れる作品になっていることだけは確かで、若いカップルが見る分にはもってこいの作品だ。
もっとも現実の彼女は見劣りしてしまうだろうが・・・。

ディストラクション・ベイビーズ

2019-11-17 08:47:48 | 映画
「ディストラクション・ベイビーズ」


監督 真利子哲也
出演 柳楽優弥 菅田将暉 小松菜奈
   村上虹郎 池松壮亮 北村匠海
   松浦新 三浦誠己 でんでん

ストーリー
2011年の愛媛県松山市、両親を早くに亡くし港町で喧嘩に明け暮れる芦原泰良(柳楽優弥)は、ある日、同居していた弟の将太(村上虹郎)の元から姿を消す。
繁華街に現れた泰良は、道行く人々に次々と喧嘩を仕掛ける。
高校生の北原裕也(菅田将暉)は泰良に興味を持ち、彼と行動を共にするようになる。
泰良と裕也は自動車を盗み街を立ち去ったが、その車に乗っていたキャバクラ嬢の那奈(小松菜奈)が拘束されて彼らに同行する羽目となる。
同じ頃、商店街を訪れていた将太は兄を捜そうとするが、友人たちと仲間割れする。
翌日、泰良たちを乗せた車が農村に着き、自分たちがテレビ番組やインターネットで取り上げられて警察に追われている身だと知った裕也は、苛立ちを募らせて那奈に運転を代わらせる。
那奈は、殴り倒された農夫が車の前に横たわっていることを知らず、農夫を轢いてしまう。
彼女は、農夫の体をトランクに押し込むよう裕也から指示されるが、その作業の最中、農夫が息を吹き返す。
とっさに那奈は農夫の首を絞めて、彼の息の根を止める。
その夜、泰良と裕也が乗った車を運転する那奈は、意図的に速度を上げて、対向車と衝突させる。
瀕死状態で車を降りた裕也は、那奈に何度も蹴られた挙げ句、命を落とす。
泰良は、対向車に乗っていた男性を殴り倒し、行方をくらます。
入院した那奈は、警察からの事情聴取に対して、全ての責任を泰良と裕也に負わせる。
将太は港町に帰ってくるが、兄が事件を起こしたことにより、友人たちから侮辱を受ける。
逆上した将太は友人たちに暴力をふるう。
将太は、地元で開催される喧嘩御輿を見に行き、その壮観に目を奪われる。


寸評
スゴイと言えばスゴイ映画。
中身は何もなくて、ただただ泰良(たいら)のふるう暴力が描かれているだけだ。
泰良に引きずられるように裕也も暴力的になり、那奈も最後には暴力性を発揮するようになるという暴力一辺倒の内容と、それによってもたらされる傷口の画面が見る者を圧倒する。

泰良の柳楽優弥はほとんどセリフをしゃべらない。
ただ誰彼構わず喧嘩を吹っかけて、時に殴られ自らも傷つくが大抵は相手を血ヘドを吐くまで痛めつける。
僕にはナイーブなイメージのあった柳楽優弥だったが、この作品における彼の凶暴性は見応えがあり、その存在感は圧倒的である。
泰良は喧嘩が趣味というより、喧嘩が彼の生きていくための糧のように思えてくる。
泰良に興味を抱いた裕也は弱いくせにイキがっている男だ。
強い者には向かっていけず、やられている仲間を助けに行くこともできない意気地なしである。
その反動か、弱い女性には襲いかかって足蹴にするという卑怯な輩だ。
彼がイキがっていられるのは強い泰良が側にいるからで、いわば泰良に住み付く寄生虫だ。
通りがかりの女を殴って裕也は「一度、女を殴ってみたかった」と言っているが、その後の彼は泰良の後ろ盾があるとはいえ凶暴性を増しているから、おそらく女を殴る行為で裕也の心が解放されたのだろう。

泰良の暴力性はどこから来ているのかはよくわからない。
両親がいないという境遇によってもたらされたものかもしれないが、通りがかりの者を無差別に襲うという凶暴性を境遇だけでは片づけられないものを感じる。
通り魔による無差別殺人事件が時々発生しているが、彼らと共通するものを持ち合わせているのかもしれない。
通り魔の口からは「誰でも良かった」という言葉をよく聞く。
泰良の言によれば「面白ければいいんだろ」ということになる。
喧嘩神輿は神事で罪にならないし、そこでのぶつかり合いも認められたものだ。
祭りは人々のエネルギーのはけ口である。
泰良にとっての喧嘩は、他に吐き出すものを見つけられないためのエネルギーのはけ口なのかもしれない。
最後に「ディストラクション・ベイビーズ」とタイトルが出るが、distractionと綴られれば気晴らしだから、気晴らしをするガキ共となるし、destructionと綴られれば破戒するガキ共となる。
いづれにしても、気晴らしのために破壊しまくる赤子の精神しかもたない若者がいるということで、そんな男に出会ったら災難としか言いようがないのだが、予備軍を含め案外と存在しているのかもしれない。
ひたすら寡黙な泰良に対して、とにかくしゃべりまくる裕也の対比が面白い。
若手ながら菅田将暉の演技力は抜群だ。
直前の裕也が那奈を叩きまくるシーンが効いていて、キャバ嬢の那奈がキレまくって暴れまくる姿、さらに警察の取り調べでカマトトぶりを見せる姿が暴力しかない作品にドラマ性を見せている。
飽きてきてもよさそうな内容なのに最後まで引き付けられたのだが、ラストシーンを見終ると「いったいこの映画は何だったんだろうな?」、「これで終わっていいのか?」という思いが沸き起こる。

ディア・ドクター

2019-11-16 10:21:00 | 映画
「つ」が終わりましたので「て」に入ります。


「ディア・ドクター」


監督 西川美和
出演 笑福亭鶴瓶 瑛太 余貴美子
   香川照之 八千草薫 松重豊
   岩松了 井川遥 笹野高史
   中村勘三郎

ストーリー
八月下旬。山あいの小さな村から村の唯一の医師・伊野が失踪した。
伊野は数年前、長く無医村だったこの地に着任し、様々な病を一手に引き受けて村人たちから絶大な信頼を受けていた。
すぐにベテラン刑事二人が捜査を進めるが、伊野の生い立ちを知る者は村の中に一人もいなかった…。
遡ること約2ヶ月前。東京の医大を出たばかりの相馬が研修医として赴任してくる。
看護師の大竹と一緒に診療所を切り回しているのは伊野という中年医師。
最初は慣れない僻地医療のやり方に困惑していた相馬だったが、伊野と共に働くうち次第に都会では味わったことのない充実感を覚え始める。
そんなある日、鳥飼かづ子という未亡人が倒れ、伊野が診療する。
胃痛持ちの彼女は長らく診療所を避けてきたが、都会で医師として勤務する末娘・りつ子の手を煩わせたくないがため、次第に伊野に心を開いていった。
ある晩、玄関で伊野を見送ったかづ子はひどい吐き気でうずくまってしまう。
駆け戻って背中をさする伊野に、かづ子は娘が来るので何とかしてほしいと必死に訴えた。
八月下旬。帰省しているりつ子が診療所を訪ねてきた。
胃潰瘍にしては症状が長引きすぎではないか、と問い質すりつ子に伊野は懸命な説明を試みる。
やがて自分なりに納得した彼女は非礼を詫び、来年の今頃まで帰ってこられないので、母をお願いしますと頭を下げた。
すると伊野は突然、原付バイクに飛び乗って診療所を後にし、そのまま彼は二度と戻らなかった。
九月初旬。刑事たちは、まだ伊野の消息を追っていた・・・。


寸評
コミックやテレビとのタイアップ作品などが氾濫する中で、オリジナル脚本を自ら手掛けて監督する西川美和さんに拍手。
決して無医村問題を前面に出しての社会映画ではないが、それでもその事を考えさせられるし、そして人間の身勝手さもじわじわと伝わってくる。
爺さんの死を看取る時の手を握りしめるショットとか、吹きわたる風とか、二匹のカエルとか、アイスキャンデーとか、時折挿入されるショットがそのじわじわ感を増幅させる。
こういう映像でやんわりと迫ってくる作品は映画らしくって、僕は好きだな。

コミカルな診療風景が絶妙で、伊野という医師の人柄を固めていく。
笑福亭鶴瓶が大阪出身の人の良い医師を好演し、なによりも看護婦役の余貴美子さんが実によい。
処置を渋る伊野を励ますように、目でもって背中を押す表情なんか「この女優さんはいいなあ」と思わせる。
先生は神や仏よりも大事なのだという村人にとって、法的には完全に罪なのだが村のために尽くした伊野はやはり神様だったと思う。
今、母を見送ろうとしている井川遥の娘が「あの人だったらどのように母を見送ったか聞いておいて欲しい」と言うところなどは、肉親の死をどのように迎えるかと訴えかけてきた。

医師不足の地方の村、金儲け主義に走る医療関係者、本当の医師とは何なのか、医療とはどうあるべきかという問を投げかけているが、僕はむしろ慕っていた人々が手のひらを返すようになるのをサラリと描いていたことに、西川監督の光るものを垣間見た。
伊野が「俺でなくてもよかったのだ」という叫びと共鳴してきてゾクッとした。
人間は実に身勝手な生き物だ。

製薬会社の斉藤正芳も看護婦の大竹朱美も伊野の素性を見抜いている。
それでも今の伊野の存在が自分にとっても村人にとっても良い選択だと判断していると思われる。
彼らは彼らの理由において一蓮托生なのだ。
最初に伊野の失踪があり、過去と現在を行き来する形で物語は展開するが、なんとなく伊野が失踪した理由や伊野の身分は想像できる。
そう思うと骨折した男の治療時に漂う、医師の伊野と看護婦の大竹による緊迫感を実に巧みに描いていて感心させられる。

「ゆれる」で俄然注目した女流監督だが、一発だけという監督も多い中で今回も裏切らなかった。
この女流監督は「ゆれる」でもそうだったのだが、人間のつく嘘に興味を持っているのではないかと思わせるフシがある。
この作品では、嘘は基本的には良くないけれど、こんな嘘なら許されてもいいのではないかと言っているように感じ取れた。