おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

アウトロー

2020-08-31 07:40:12 | 映画
「アウトロー」 1976年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド
   チーフ・ダン・ジョージ
   ソンドラ・ロック
   ビル・マッキニー
   ジョン・ヴァーノン
   ポーラ・トルーマン

ストーリー
南北戦争も終わろうとしていた1860年代なかば、ミズリーの丘を越えてやってきたカンサス・レッドレッグ(北軍秘密軍事組織)の一隊が、罪もない農夫ジョージー・ウェールズの妻と息子を殺し、リーダーのテリル大尉の剣で重傷を負ったジョージーを残して立ち去った。
幸い命をとりとめたジョージーは、復讐の一念から鋤を捨てて銃をにぎり、フレッチャー率いる反逆者の一団に加わってテリルを捜すうち、戦争は終わった。
ほどなく反逆者たちに対する恩赦が発令され、フレッチャーたちはそれに応じたが、実はこれはテリルの策略で、少年ジェイミーを除いて全員が射殺され、仲間に加わらなかったジョージーはジェイミーを救って逃げた。
ただちにジョージー追撃の一隊が組まれ、命だけは助けられたフレッチャーも、しぶしぶそれに加わった。
その頃、ジョージーの努力の甲斐もなくジェイミーは死に、彼はひとりインディアンの土地に向かった。
やがてインディアンへの武器密売で稼いでいるならず者の群れコマンチェロスに、美しい娘ローラ・リーとその祖母サラが襲われているのを目撃し救い出した。
行きがかり上、死んだ息子が残してくれた牧場に行くというサラとローラを連れて行くことになった。
牧場に1番近い町、サント・リオでは酒場の女ローズを始めとする5人の人間が死んだように生きていた。
ローズの案内でめざす牧場に向かう途中、コマンチ族の酋長テン・ベアーズの姿をみかけて一同緊張したが、翌朝早く、ジョージーは単身テン・ベアーズに会いに行き、二人は義兄弟の儀式をとりおこなった。
その夜、牧場では呑めや歌えの大騒ぎが続き、ジョージーとローラは結ばれたが、執拗に追跡してきたテリルとその部下、フレッチャーが牧場をとり囲んだ。
しかし、一致団結して追跡隊を倒し、ジョージーは1人残ったテリルを町に追いつめて殺した。


寸評
南北戦争を扱った作品では北軍が正義の様な描き方をする作品が多いが、ここでは北軍の中にもひどい奴がいたのだという視点で描いている。
製作年の1976年はベトナム戦争の影をまだ引きずっていたころで、正義をかざした北軍がひどいことをするのはラルフ・ネルソンが1970年に撮った「ソルジャーブルー」などでも描かれていた。
理不尽な暴力は個人だけに存在しているのではなく、時には国家もその過ちを犯す。
主人公に土地を追われた先住民を同行させることによって、国家の政策もまた理不尽な暴力に過ぎないということを浮き彫りにしていて、いかにもベトナム戦争の傷を背負っていたころの作品らしい。
もっとも主張はオブラートに包んだものとなっていて、極めてエンタメ性の高い、ユーモアを含んだ作品である事には間違いない。

映画はジョージーが農耕生活を送っているところから始まり、いきなり妻と息子を殺されてしまう。
時代は南北戦争末期の頃で、南北戦争における両軍の熾烈な戦いはクレジットの後ろでさらりと流されていて、本筋が始まると南軍はいきなり敗戦ムードである。
ジョージーは北軍に屈することを潔しとせず追われる身となる。
妻子を殺されて復讐を果たそうとしているというよりも、北軍の追跡隊から逃げる逃亡者のように見える。
ジョージー・ウェルズは名前の知れたガンマンの様で、身には何丁かの銃を携えている。
どうやらこの時代の銃は、弾丸を装填するのにいちいち火薬を詰め直さなければならない「雷管式」と言われるシロモノだったので、一人で大勢を相手にする時には何丁もの銃が必要だったらしい。
一応の時代考証はなされているようで、ジョージーは見慣れた西部劇のガンマンとは少し違う拳銃使いである。

南軍の若い兵士に自分の息子を重ね合わせるのだが、一緒に逃亡したその兵士も死んでしまう。
このあたりまでは北軍による虐殺シーンなど派手な場面もあるが総じて内容は暗いものだ。
ジョージーが孤独の逃亡と復讐を行うのかと思いきや、むしろここからはユーモア満載の娯楽作品に転じていく。
成り行きから老インディアンが同行することになるのだが、寡黙なジョージーに対して老インディアンは雄弁で、まるで珍道中の様相を呈してくる。
さらに、ジョージーに助けられたインディアンの娘や野良犬まで加わり、果ては、ジョージーに向かって説教をタレる頑固ばあさんとその孫娘まで一緒になっての旅となり、なんだかほのぼのとしていて楽しい旅に見えてしまう。
家族を殺されて復讐の鬼になった男が、再び家族を得て少しずつ人間性を取り戻していく姿を感じるので、行く手を阻む事件が色々と起きても楽しい旅と見えてしまう。
戦闘的なコマンチ族と一触即発の事態に陥った時、ジョージーは単身コマンチ族の所に行き、リーダーの戦士に向かって、「人間にとっては死を選ぶ方が簡単だ。しかし生を分かち合うことだってできるはずだ」と訴え、「自分は生を選びたい」と言う。
ジョージの生き方が変わったと分かるシーンでもあり、これは一人の男の再生物語でもあったと思わせる。
国家に疑問を感じていた当時の世相心情は南軍兵士に、「合衆国に従うことを誓います」と言わせておいてから銃殺する場面に一番現れていたような気がする。
それでもこれはメッセージ映画と言うよりも完全な娯楽作品だと思う、特に後半は。

アウトレイジ ビヨンド

2020-08-30 09:53:10 | 映画
「アウトレイジ ビヨンド」 2012年 日本


監督 北野武
出演 北野武 西田敏行 三浦友和 加瀬亮
   中野英雄 松重豊 小日向文世
   高橋克典 桐谷健太 新井浩文
   塩見三省 中尾彬 神山繁 田中哲司
   名高達男 光石研

ストーリー
関東最大の暴力団・山王会は5年前の内部抗争を経て二代目会長の座に着いた加藤(三浦友和)の掲げる実力主義の下、政界にまで影響を及ぼすほどの規模に拡大しつつあった。
元は大友組の金庫番でしかなかった石原(加瀬亮)は、二代目会長に経済ヤクザとして重用され、若頭の地位にまで昇りつめているが、逆に古参の幹部組長たちは冷遇されて現体制に不満を抱いていた。
そんな中、現役大臣の愛人と、潜入捜査をしていた組織犯罪対策部の山本刑事が車ごと海に沈められ、一緒に殺害される事件が発生。
現内閣の行く末までも左右しかねない山王会の影響力に、業を煮やした警察上部組織はついに動き始める。
組織犯罪対策部の刑事・片岡(小日向文世)は、山王会の古参の幹部の一人の富田(中尾彬)が関西最大の暴力団・花菱会の若頭・西野(西田敏行)と兄弟分であることに目を付け、富田と共に花菱会の布施会長(神山繁)に助けを求めるたところ、片岡と富田の加藤失脚作戦が布施の密告で加藤に伝わってしまい、弟分の白山(名高達男)と五味(光石研)にも裏切られた富田は山王会幹部の舟木(田中哲司)に殺されてしまう。
花菱会と山王会は兄弟の杯を交わしていたのだ。
立場が危うくなった片岡は次の山王会壊滅作戦の駒として、自身の流した嘘の噂により死亡したことになっていた山王会に恨みを持つ元大友組組長・大友(北野武)を仮釈放させる。
その後、すでに出所している元村瀬組若頭の木村(中野英雄)にも会い、大友に会ってくれないかと頼む。
出所後、ヤクザの世界から距離を置いた大友であったが、再会した木村の復讐心も感じ取った上、ヤクザとしての武闘派魂も捨てきれず、片岡の策略である山王会撲滅を図るための花菱会とのヤクザ同士の”仁義なき戦い”の渦中に、否応なしに巻き込まれていく。


寸評
物語は前作からの引き継ぎであるが、作品としての出来栄えは断然こちらのほうがいい。
山王会に新旧交代が起きている。
やり手の加藤が新会長になって勢力を拡大しているが、その実力主義に古参の幹部たちがついていけない。
しかもNo2についているのが、大友を裏切った石原である。
石原は古参幹部を馬鹿にしているが、古参幹部たちは石原の進める経済活動が分からない。
その構図は終身雇用と引き換えに、滅私奉公だけで日本の発展を支えてきた社会そのものだ。
その発展を支えた企業戦士たちは、やってきたバブル経済によってジャパン・アズ・ナンバーワンとなっていく社会についていけず、バブルがはじけ効率を求める会社からはリストラの対象となっていく。
山王会で起きていることは日本社会そのものだ。
中小企業でもコンピュータ化がすすみ過去のやり方は通じなくなっていったし、社会の変化に伴って企業活動も以前とは違っていった。
その変化に彼らの世代は対応することができなかったことを目の当たりにしていて、山王会の内部抗争を見ていると思い当たるフシがあちこちに見え隠れする。
それをデフォルメするためにヤクザ社会という極端な場面を用意しているようだった。

実社会では石原のような人物は存在しなかったが、この作品では石原の存在が際立っている。
構成員をいつも怒鳴りつけ、殴りつける成り上がり者だが、裏切った大友の存在には怯えているキツネのような男で、それを加瀬亮が目一杯で演じている。
力の弱いものには高圧的だが、力の強いものにはペコペコする姑息な人物だが、山王会の古参幹部たちも大同小異で関西の花菱会の連中にいいようにあしらわれる。
力=正義という彼らの社会で繰り広げられるやり取りが面白い。

そんな社会で上手く泳ぎ回ているのが刑事の片岡なのだが、ボクシング部の先輩である大友とのやりとりは相変わらず愉快だ。
今回は片岡と行動を共にする松重豊の繁田刑事が登場しているのだが、この繁田は片岡のやり方に疑問を持っている。
そして出世なんかしたくないと片岡のもとを去っていくのだが、彼らの所属している警察組織もヤクザ社会と大して違わない。
実績を追い求め体裁を取り繕う世界で、それは替え玉男の取り調べシーンに象徴されている。
出世を望まない繁田は今の若者たちの姿でもある。

権力の座から落た者の姿は哀れで、加藤会長は引退と同時に子分だった白山や五味になじられ、ただのオッサンに落ちぶれてしまうし、肩で風を切っていた石原はバッティングセンターで無残な姿を晒す。
そして一番悪と思われる男も銃弾に倒れていく。
次から次へと死んで行くのは命の安売りの感があって、少し説得力に欠けていたように思う。
しかし、人物描写は前作よりは断然スケールアップしていて、北野武監督の復活を感じさせた。

アイリス

2020-08-29 10:28:33 | 映画
「アイリス」 2001年 イギリス


監督 リチャード・エア
出演 ジュディ・デンチ
   ジム・ブロードベント
   ケイト・ウィンスレット
   ヒュー・ボネヴィル
   ペネロープ・ウィルトン
   サミュエル・ウェスト

ストーリー
アイリス・マードックとジョン・ベイリー。
二人は1950年代、オックスフォード大学で出会った。
あまり目立たない存在だった講師のジョンは、豊かな知性と魅力的な容姿を兼ね備えたアイリスに、一目見た時から恋をする。
恋愛経験豊富なアイリスは、モーリスら複数の男性と同時に関係を持っていたが、ジョンの純粋さに惹かれていき、やがて二人は結婚する。
その後のアイリスは次々と小説を発表し、文学界の寵児となる。
そして現在。
40年の歳月を経て、2人の絆はより深く強固なものとなっていた。
老人となったアイリスとジョンの愛は穏やかに深まっていたが、ある日、アイリスは同じ言葉を繰り返したり言葉につまることで、脳に異変が起きていることに気付く。
精密検査の結果、現代の医療では治すことの出来ない病アルツハイマーと診断される。
どんどん物忘れがひどくなっていくアイリスに、混乱しながらも心温かく接するジョン。
だが彼一人の看護は限界に達し、ジョンは彼女を施設に入れる決意をする。
やがてアイリスは、静かに息を引き取るのだった。


寸評
現在のアイリス・マードックを演じたジュディ・デンチと、ジョン・ベイリーを演じたジム・ブロードベントがいい。
俳優さんはすごいなあと思わせてくれる。
奔放に生きる若い頃のアイリス・マードックを演じたケイト・ウィンスレットもいいが、この映画においては何といってもジュディ・デンチとジム・ブロードベントだ。

老人となったアイリスとジョンは仲睦まじく暮らしていて、アイリスは講演に引っ張りだこのようだが、やがてアルツハイマーを発症する。
彼女のような言葉を駆使する小説家であっても、言葉を思い出せなくなっていく過程がリアルに感じる。
そしていつか自分もアルツハイマーを発症するかもしれないと想像すると恐ろしくもある。
アルツハイマーの夫婦を描いた作品は何作かあるが、ここでの夫婦は仲睦まじくジョンはアイリスに献身的だ。
一度だけ限界を越えてしまったジョンがアイリスに怒鳴りつける場面があるが、総じて温和でいたわりをもって接していて、施設への入院を拒んで面倒を見ている。
アルツハイマーを題材にした作品においては、壮絶な闘病生活が描かれることが多いが、ゴミ屋敷のようになった部屋などが描かれているものの、看病する側の悲惨さはそれほどのものではない。

この映画はアルツハイマーになったアイリスを描いているが、基本にあるのはジョンとアイリスの愛の物語だ。
アイリスは交友関係が広く、関係した男性も多い。
反対にジョンは純粋で、アイリスが初めての女性のようである。
二人が結ばれるシーンではアイリスがリードしている。
映画は過去の二人と、現在の二人が交差するように描かれ続ける。
若い頃は自由で奔放なアイリスの姿と、純粋で一途なジョンの姿が、場面を代えながら描かれ続ける。
歳をとってからの二人は、ひたすらアイリスに尽くすジョンといった内容である。
もしも家人がアルツハイマーになってしまったら、僕はジョンの様に優しさと愛おしさをもって接することができるだろうかと思う。
高い教養を持つ二人だからできたのか、ジョンのアイリスへの愛情がそれほど深かったためだったのだろうか。
アイリスは「教育によって幸せがもたらされるわけではない」と言う。
たぶんアイリスは幸せな一生だったと思うが、それは彼女の受けた教育や、身に着けた教養によってもたらされたものではなく、ジョンと言う素晴らしい伴侶を得たことによると思う。
ジョンと同様にジャネットという素晴らしい友人を持てたことも、彼女にとっては幸せなことだったと思う。
それが分かっているから、アイリスはアルツハイマーを発症していてもジャネットの葬儀では、ジャネットとの別れを惜しんで暴れまくったのだ。
施設で静かに息を引き取ったアイリスに対して、ジョンはどのような気持ちだったのだろう。
ほっとした気持ちはなかったのだろうか。
年老いた夫婦が一人になるのはどのような形にせよ淋しいものがある。
仲睦まじかったジョンとアイリスの夫婦なだけに、尚更そう思う。

逢びき

2020-08-28 07:58:52 | 映画
2019年1月1日から始めましたが、間口を広げると「あ」で始まる映画はいっぱい漏れていました。

「逢びき」 1945年 イギリス


監督 デイヴィッド・リーン
出演 シリア・ジョンソン
   トレヴァー・ハワード
   スタンリー・ホロウェイ
   ジョイス・ケイリー
   シリル・レイモンド
   イヴァーリー・グレッグ

ストーリー
ローラは平凡な勤め人フレッド・ジェッソンの妻で、娘と息子と一人ずつ二人の子の母として、住宅ばかりの郊外に住んで、平ぼんな、しかし幸福な生活を送っている。
彼女は毎週木曜日に近くのミルフォードという町へ朝から汽車で出かけ、一週間分の買物をし、本屋で本を取替え、簡単な昼食をとり、午後は映画を見物したりして、夕方の汽車で帰宅する習慣である。
ある木曜日の夕方、目にすすが入ったのを、ミルフォード駅の喫茶室で一人の医師にとってもらった。
彼はアレック・ハアヴィーという開業医で、ローラとはミルフォード駅から反対の方向に住んでおり、木曜日毎にミルフォード病院に勤めている友人のリンがロンドンへ行くのでその代理にやって来るということが分かった。
二人は互に相手に何か心をひかれる思がして、アレックは次の木曜日にぜひ会ってくれとたのむのだった。
次の木曜日、ローラは心待ちに待ったが彼は来なかった。
会えないのがわびしく、物足りぬ気持で汽車を待っていると、アレックはかけつけて、手術が手間どってぬけられなかった、次の木曜日にはぜひと言った。
次の木曜日、ボートハウスで、二人は愛の告白をし合ったが、帰ると息子が頭にけがをしていた。
ローラは神の戒めのような気がして自責の念にかられた。
次の木曜日ローラはまたアレックと会い、彼にさそわれてリンのアパートに行くと、思いがけずリンが帰宅したので、彼女は屈辱にたえず夜の町を歩きまわった。
駅で彼は心配していたが、彼も妻子ある身の自責にたえず、南アフリカ、ヨハネスブルグの病院に勤務することに決めたと言った。


寸評
結末が最初に示され、回想形式で物語が展開するパターンは時々見受けられるが、この作品ではそれが見事に決まっている。
観客は結末が分かっているので、二人が恋愛感情を高めながらもやがて別れを迎える過程を楽しむことになる。
ローラのナレーションに導かれながら、その様子が描かれていく。
これだけナレーションが多いとシラケても良さそうなものだが、そうはならないのだからナレーションと映像が上手くかみ合っていたという事だろう。
二人の最後の時間を邪魔するドリーにたいするローラのナレーションが入るのだが、一瞬ドリーの口元をアップにするなどして二人の心情を観客に植え付ける導入部が、その後の物語のけん引役を見事に務めている。
何気ない出会いが二人を引き付けていく過程も自然でいい。

医者だというアレックの家庭は描かれないが、ローラの家庭は物語を補完するように描かれる。
そこでは情熱的ではないが妻を思いやる夫の存在と、子供を愛おしむ夫婦の姿と、母親としてのローラの姿が描かれ、彼女の家庭はごく平凡で平穏な家庭なのだとわかる。
しかしローラにとっては平和を感じても幸せを感じることに飢えていたのだろう。
長い夫婦生活はその時間経過のゆえに、青春時代ような幸せを感じウキウキする気持ちを、ましてや人に恋する気持ちを奪っている。
時間の経過とともに、どこかでお互いがどこかで物足りなさを感じたり、ちょっと違うのではないかという違和感を生じさせてきても不思議ではない。
しかしそれを打ち破るために平穏な家庭を壊すことなど出来ないことを大抵の人は自覚している。
満足ではないが不満ではない家庭を、それだけの理由で捨て去ることが出来ないことを知っている。
失うものの大きさもあるだろうし、離婚するにしても解決せねばならない問題が多いことも分かっているからだ。
欲を言えばキリがないが、自分は幸せなのだと満足を自分に言い聞かせる。
それがごく普通の人なのだと思うし、ローラは正にそのような女性だ。

しかしある時、忘れていた感情を思い出し、その感情は失った時間を飛び越えていく。
ローラとアレックが感じた気持ちは誰もが持ち得る感情で、そうだからこそ観客がローラに同化できる作品となっているのだろう。
二人の秘めた関係と対になるように、駅員と喫茶店のマダムを登場させている。
駅員はマダムに好意を持っているようだし、マダムは強がりを言っているがまんざらでもなさそうで、彼等は二人と違いあけっぴろげだ。
狂言回し的に登場し、愛し合ったことだけを胸に秘めて別れていく二人を浮かび上がらせている。
自分にとっては人生の中の大きな思い出だが、それは誰にも語れないし、特に伴侶に対してはそうだろう。
自己嫌悪に陥りながらも一時心を燃え上がらせる普通の人妻を演じたシリア・ジョンソンが素晴らしい。
アレックのトレヴァー・ハワード もかすんでいた。
ローラのアップが、駅で呆然とするところから切り替わるシーンはラストにふさわしいいいショットだ。
夫のフレッドがローラに掛ける言葉はちょっとあざとかったけど、メロドラマとしてはいい出来だ。

愛のむきだし

2020-08-27 09:14:07 | 映画
「愛のむきだし」 2008年 日本


監督 園子温
出演 西島隆弘 満島ひかり 安藤サクラ
   尾上寛之 清水優 永岡佑 広澤草
   渡辺真起子 渡部篤郎 板尾創路
   岩松了 ジェイ・ウエスト 吹越満

ストーリー
角田ユウ(西島隆弘)は幼いころに母を亡くすが、神父の父・テツ(渡部篤郎)と2人で幸せに暮らしていた。
そして、母の思い出を胸に、理想の女性“マリア”に出会う日を夢見ていた。
ある日、自由奔放で妖艶なサオリ(渡辺真起子)が現れる。
テツはサオリに溺れていくが、サオリはテツの元を去る。
サオリを失ったテツは人が変わり、神父として、ユウに毎日“懺悔”を強要するようになる。
ユウは様々な罪を時には創作して懺悔したが、女性の股間を狙う盗撮だけは、父に許されなかった。
しかし、それこそが父への愛だと感じたユウは、盗撮に没頭していく。
ある日ユウは盗撮仲間とのゲームに負け、女装して女性をナンパすることになる。
そして、街でチンピラに絡まれていたヨーコ(満島ひかり)と出会う。
ヨーコも、女装したユウである謎の女・サソリに恋をする。
ヨーコと出会って数日後、父がサオリと再婚することになり、サオリは連れ子としてヨーコを連れてくる。
ヨーコはサソリに恋していたが、ユウのことは毛嫌いする。
女装すれば愛され、兄としては嫌われるユウは混乱し、盗撮を続けていく。
そのころ、狂信的な信者を増やし、営利を貪る新興宗教団体“ゼロ教会”が世間を賑わせていた。
ゼロ教会教祖の右腕・コイケ(安藤サクラ)は角田家に近づく。
コイケはユウの行く先々に現れたり、ヨーコに自分がサソリだと思わせ、家庭の中に入り込んでいく。
コイケはユウの盗撮をばらし、ヨーコのユウへの憎悪を増加させ、テツやサオリもコイケに洗脳されていく。
家族の不信感を払拭できず、ユウは家を出る。
時が経ち、ユウが家に戻ると、家族やコイケは姿を消していた。


寸評
この作品に対する感想として、一気に見ることができたという意見も多々目にするが、僕はどうしてもそんな気になれず、やはり長いと感じてしまう。
兎に角、映画のタイトルが出るまでに1時間ほどを要している特殊な作品だ。
その小一時間で描かれるのはユウの盗撮だけと言ってもいいほどで、なぜにここまで必要に描かねばならないのか、感受性の乏しい僕は戸惑ってしまう。
ユウは神父である父に懺悔することで父親の愛を感じるという歪んだ父子関係だ。
懺悔するには罪を犯さねばならず、ユウは盗撮を繰り返すが、なぜか父親は盗撮の罪だけは認めようとしない。
そんな中でユウがヨーコと出会うまでのカウントダウンが開始される。
ユウは女装してサソリと名乗るのだが、そのコスチュームといいサソリという名前といい、これは梶芽衣子のサソリそのものだ。
梶芽衣子のサソリは信じた男に裏切られ利用されたことによる復讐劇だったが、このサソリはというか、サソリを演じているユウはヨーコに一途の愛を捧げている。
ちょっとは面白くなってきたかなと思えるようになったのは、この満島ひかりが演じるヨーコと、安藤サクラが演じるコイケという女性が登場してからだった。
ヨーコはサソリに妄信的な愛を感じるが、ユウには憎悪を募らせていく。
これは愛の二面性だと思うが、その感情はヨーコの義母であるサオリに凝縮されている。
サオリは神父のテツに猛アタックをかけ愛の押し売りを行うが、それが受け入れられるやたちまち冷たい態度に出ることの繰り返しをやっている。
その無秩序な行為を実感させるためか、これに関わるシーンも長い。
僕はまたまた退屈してくる。
これは拷問に等しく、まだ半分の2時間しか経っていない。

ユウはついにヨーコに告白するが失敗する。
ここからは面白い。
なんだかんだと登場したストーリーだが、最終的には純愛へと移っていく。
あれだけ訳の分からん物語を描きながら、ラヴェルやベートーヴェンの曲に乗って最後にここに持ってくるのはかなりの根気がいっただろうし、見る側の我々も根気を要求された。
最後の到達点がこれなら、今までの話はなんだったのだろうと、またまた感受性の乏しい僕は思ってしまう。

愛のむきだしという過激なタイトルだが、ベッドシーンも出てこないし、裸のシーンも登場しない。
やたらとパンティが登場する映画だったなあというのが正直な印象。
しかし出演した満島ひかりと安藤サクラはいいわあ。
満島ひかりはアイドル女優にはなれないが(なる必要もないけど)ニューヒロインの登場を感じさせる。
安藤サクラは今時このような狂気を演じられる女優はいないだろう。
この若さにしてこの表現力はすごい。
日本映画界の至宝になるかもしれない。

愛の渇き

2020-08-26 07:43:08 | 映画
「愛の渇き」 1967年 日本


監督 蔵原惟繕
出演 中村伸郎 浅丘ルリ子 山内明
   楠侑子 小園蓉子 志波順香
   岩間隆之 石立鉄男 紅千登世

ストーリ
悦子(浅丘ルリ子)は夫良輔の死後も杉本家に住み、いつか義父の弥吉(中村伸郎)とも関係をもっていた。
杉本家は阪神間の大きな土地に農場をもち、広い邸宅の中には、元実業家の弥吉、長男で大学でギリシャ語を教える謙輔夫妻(山内明、楠侑子)、園丁の三郎(石立鉄男)、女中の美代(紅千登世)、そして悦子が、家庭のぬるま湯の中で、精神の飢えを内にひめながら暮していた。
その中でも悦子は弥吉との関係を断ちがたく、その心は愛に渇ききってしまっていたが、ある日ふと心を動かしたのは若くひきしまった身体粗野なたくましさを持つ園丁の三郎であった。
悦子は女の直感で女中の美代が三郎と恋仲であることを見破り、美代が三郎の子供を妊ごもったことに、深い嫉妬を覚えていた。
胎児を始末させた悦子を恨みながら美代は郷里へ帰った。
邸宅では、財産とられた謙輔夫妻を中心に、人間の空虚なうめきが狂い泣いていた・・・。


寸評
浅丘ルリ子がほぼ出ずっぱりの状態で作品を昇華させている。
三島由紀夫の作品は数多く映画化されているが、出来栄えの良さから言えば市川崑監督、市川雷蔵主演で撮った「金閣寺」を原作とする「炎上」と、この作品が双璧だと思う。
そう言わしめるほど、この作品における浅丘ルリ子の頑張りは称賛されてよい。
デビュー作「緑はるかに」の役名ルリ子を芸名にした浅丘ルリ子だが、しばらくはいわゆるカワイコチャン女優に過ぎなかったところ、共演を続けていた小林旭との事実婚状態が破局したことが良かったのか、その後石原裕次郎の相手役となってから成長していったように感じる。
男性スターの彩り的存在から脱皮したことを、100本出演記念映画となった「執炎」で証明し、本作でそれを決定づけたと思う。
両作品とも監督が蔵原惟繕だったことを思うと、浅丘ルリ子の演技開眼には蔵原惟繕監督の功績が大だと言わざるを得ない。

スローモーション、顔のアップ、大胆な構図などが前衛的に思えるが、内容は難解なものではない。
オーバー露出によるハイキ―な画面などを駆使した撮影の間宮義雄も称賛されてよい。
藤田敏八監督が改名する前の藤田繁矢で脚本に参加しているのも今となっては特筆すべきことかもしれない。
オープニングの空撮からタイトルが出るまでの導入部もなかなかいい。
途中で小説の一節らしい文章を出したり、坂道での悦子と三郎が会話するシーンで二人の会話を文字表現して雰囲気を変えているのだが、このような演出は型にはまると独自の雰囲気を出して何かいわくありげに見える。

悦子は夫に裏切られたが病死したので夫の実家に舞い込んでいて、義父をお父様と呼びながらその義父の愛人となっている。
義兄夫婦も同居しているのだが義兄は秘かに悦子に思いを寄せていて、妻もそのことを感じ取っている。
使用人の三郎も悦子にあこがれを抱いているが、身分違いの為その気持ちを抑えている。
義父はこの家にあって暴君のような振る舞いだが、悦子は愛人という立場を利用して君臨しているように見える。
若い三郎の肉体に惹かれたのか、本心を見せない三郎への支配欲がもたげてきたのか、そんな気持ちが高じて悦子は三郎に傾倒していく。
彼らが暮らす杉本家は魑魅魍魎がうごめいている空間だが、そのドロドロ感を表立って描くことなく乾いた演出となっているのは三島由紀夫の世界を意識したものなのかもしれない。
垣間見えるのは悦子の嫉妬である。
三郎の子供を身ごもった美代への嫉妬であり、自分を見下しているような態度を見せる三郎の精神への嫉妬だ。
僕は小説を読んだわけではないが、三島が描き出した悦子のイメージを見事なまでに演じていたのではないかと思わせる浅丘ルリ子の存在感だ。
演技派女優としての可能性を見事なまでに示した作品でもあり、彼女の代表作と言っても過言ではない。
現阪急宝塚線の服部駅が服部霊園駅だったころが映り、「ああ、そうだった、そうだった」と思い出す。
旧の阪急梅田駅も映っていて懐かしかった。
古い映画はそんな楽しみもある。

愛と追憶の日々

2020-08-25 07:55:07 | 映画
「愛と追憶の日々」 1983年 アメリカ


監督 ジェームズ・L・ブルックス
出演 シャーリー・マクレーン
   デブラ・ウィンガー
   ジャック・ニコルソン
   ジェフ・ダニエルズ
   ジョン・リスゴー
   ハックルベリー・フォックス

ストーリー
1948年、赤ん坊のエマを心配そうにみる母親のオーロラ。
56年、夫が死亡し、心細くなったオーロラはエマのベッドにもぐり込む。
64年、隣家に宇宙飛行士のギャレット・ブリードラヴが、引越して来た。
69年、エマは自室で親友のパッツィーと一緒にマリファナをふかしている。
明日はエマが結婚する日だが、オーロラは娘の夫となるフラップ・ホートンが気にくわない。
結婚式の翌日、娘にそむかれたという思いのオーロラが、窓から覗くと、隣のギャレットが女をつれて家の中に入って行った。
パーティでエマは妊娠したことを告げるが、オーロラは喜ばない。
70年、フラップはアイオワ州の大学に迎えられることになり、エマはオーロラ、パッツィーに別れを告げる。
ヒューストンでは、オーロラがふとしたことから、ギャレットと会話をかわし、昼食に誘われた。
78年、エマは3度目の妊娠で家計が苦しくなり、オーロラに借金を頼むが、オーロラは拒否する。
5歳になった次男のテディが、パパが帰って来たと告げるが、今日も朝帰りだ。


寸評
母と娘の人生を綴るドラマで面白いのだが、僕の偏見だとは思うがアメリカ人には受ける内容かも知れないが、日本人の僕には理解できないことが多い。
夫が死亡して一人娘を育てるオーロラは娘を溺愛しているが素直になれない。
娘も母親に反抗しながらも切っても切れない関係である。
二人の関係はありそうなもので、シャーリー・マクレーンもデブラ・ウィンガーも生き生きと演じている。

オーロラは結婚を控えた娘に、夫となるフラップが気に入らないから結婚をやめろと言う。
付き合い始めたころならわかるが、今になってと言うタイミングでの宣告で、エマでなくても喧嘩したくなる。
その挙句に、オーロラは娘の結婚式に出席していないのだから、どこまで我儘な母親なんだと思ってしまう。
そこまで嫌われたフラップもたまったものではない。
それでも毎日のようにエマに電話するオーロラ、エマも何かと言えば母と電話で無駄話をする。
お互いに意地を張り合っているように見えるが、何でも話し合える一卵性親子なのだ。
エマは自分の浮気をオーロラに話しているようだが、オーロラもその浮気を止めたりしていないようだ。
母親の血を受け継いでいるのか、エマも自由奔放である。
夫の浮気に対して自分も浮気をし、そのことを隠しながら夫には何度も怒る姿には共感出来ないのだが、それは僕が男だからなのか?

たんたんと進んでいく母娘の物語なので、ドラマチックな展開はないが、時の流れをテンポよく上手く見せているし、子供を産んでどんどん所帯っぽくなっていくエマの変化も自然でリアリティを感じさせる。
エマとフラップの夫婦間のゴタゴタはありそうな問題だが、ドラマらしいのはオーロラの家の隣に著名な元宇宙飛行士のギャレットが引っ越してくることで、ギャレットのジャック・ニコルソンが、シャリー・マクレーンに負けず劣らずの面白い人物として描かれている。
変な男なのだが、見終ってみると案外とこのギャレットが一番まともな人物に思えた。
ギャレットが足でハンドル操作し、オーロラがアクセルとブレーキを担当する車を海岸で激走させるシーンは見応えがあったし、可笑しかったなあ・・・。

エマにはパッツィーという親友がいて、養子制度が定着しているアメリカならではなのだろうが、エマの末娘はパッツィーが引き取って育てることになるのだろう。
親友となれば、そこまでする関係というか、社会環境と言うのか、それが文化だと言うのか、兎に角素晴らしいと思うし、二人の関係が羨ましくもある。
フラップはオーロラから子供たちを自分とパッツィーで引き取る提案を受けるが、フラップはそんな権利はないと拒否するのだが、結局申し出を受けることになる。
タンカをかっこよく切っているのだが、この男にはどうもいい加減なところがあるように見える。
オーロラは先のない母に対して未だに反抗的な態度を取り続けるトミーを平手打ちすると、「ママの悪口は許さない」と告げて固く抱きしめるのだが、やはりオーロラはエマを愛してやまなかったのだ。
娘を見送らねばならない親ほどつらいものはないと、僕はシンミリしてしまった。

愛と青春の旅だち

2020-08-24 08:14:09 | 映画
「愛と青春の旅だち」 1982年 アメリカ


監督 テイラー・ハックフォード
出演 リチャード・ギア
   デブラ・ウィンガー
   デヴィッド・キース
   リサ・ブロント
   ルイス・ゴセット・Jr
   リサ・エイルバッチャー

ストーリー
ワシントン州、シアトルの朝、ザック・メイオは、全裸で寝ている父バイロンと娼婦を見ながら、少年時代を思い出していた。
海軍の兵曹だった父の不実をなじって母は彼が13歳の時に自殺。
ザックは父の駐屯地であるフィリピンにゆき、悲惨な思春期をすごしたのだ。
目覚めた父に、彼は子供の頃からの夢だったパイロットになるため、海軍航空士官養成学校に入ると告げると、父は軍隊なんかに入って苦労するのは馬鹿げたことだという。
しかし、彼の決意は固く、シアトルの近くにあるレーニエ基地内の学校に入学する。
彼を含め34人の士官候補生を待っていたのは訓練教官の黒人軍曹フォーリーのしごきであった。
フォーリーは「娘たちは士官候補生をひっかけようと狙っているから注意しろ」という。
ザックとシドは、パーティーで製紙工場の女工であるポーラとリネットと知りあう。
週末になると2組のカップルはデートした。
ポーラはザックの内面の屈折した影が気になりながら、彼を愛するようになる。
フォーリーは、仲間と溶けあおうとしないザックを特別しごきにしごき、任意除隊(DOR)を申請せよと迫る。
ついに、極限状態に達したザックは「ここ以外に行くところがない」と叫ぶ・・・。


寸評
原題は"An Officer and a Gentleman."で、日本語に直訳すると、「ある士官と、ある紳士」だから、やはりタイトルは映画の中身を表している。
邦題を「愛と青春の旅だち」としたのは、これが一種のシンデレレラ・ストーリーだからだろう。
若い女性はラストシーンにグッとくるのだろうが、男の僕は訓練教官の黒人軍曹フォーリーの態度にグッときた。
海軍航空士官養成学校なので卒業したものは少尉となり、教官だったフォーリーの上官になる。
巣立っていく彼等に「おめでとうございます、少尉殿」と送り出す彼の姿に感動する。
次のシーンでは、ザックたちを迎えた時と同じように、フォーリー軍曹は次期新入生に対して罵声を浴びせていて、どこまでも任務に忠実な軍曹と思わせる描き方はアメリカ人好みと思われ、ルイス・ゴセット・ジュニアがアカデミー助演男優賞に輝いたのもうなずける。

ザックは父の不実と母親の自殺という過去を背負い、居場所を求めて厳しい士官養成学校に入ってきている。
シドはリネットという女性と親しくなるが、出身地のオクラホマには恋人がいて結婚を約束しているようなのだが、その彼女は戦死した兄の元カノで、兄の身代わりという対場である。
二人にある影の部分を描きながらも、話はザックとポーラ、シドとリネットのラブ・ロマンスに重点が置かれる。
ザックとシドの内に秘めた苦しみのようなものがもっと描かれていたなら、違った感動を呼んだような気がする。
フォーリーの厳しい指導も描かれるが、地獄の特訓と呼ぶには迫力不足である。
厳しい訓練がそのように映るのは、二組の物語が中心となっているからだ。

製紙工場に勤める彼女たちは玉の輿を狙っているのだが、ポーラは打算抜きでザックを愛しあ締めるが、リネットは自分の夢を捨てきれない。
リネットの夢は悲劇を引き起こすが、シドのとった行動はやや説明不足というか、十分に描き切れていないかったように感じるし、事件後のリネットの感情も枠外に置かれている。
メインはザックとポーラなので、こちらの描き方はシドとリネットに比べれば丁寧だ。
ポーラの母は再婚していて、ポーラは前夫との間に出来た子で、実の親は士官候補生だった。
おそらくポーラの母親は、ポーラと同じように士官候補生と恋に落ちポーラを生んだ末に捨てられたのだろう。
そのこともあって、再婚相手の父親はザックに不審の目を向ける。
母親もポーラを理解しながらも関係の深まりを心配する。
物語を大きく膨らませる要因であったと思うのだが、それもあまり展開されることはない。
ザックとフォーリーが遺恨をもって行う格闘はイマイチ感動を呼ばなかったけれど、アメリカ映画らしく、女性の訓練生を助けるエピソードを交えながら彼等は巣立っていき、ラストの感動シーンにつながっていく。
どんな映画でもそうなのだが、純白の海軍の制服はカッコイイ。
工場に現れたザックの白い制服がチラチラするだけでドキドキしてしまう。
そして工場の従業員たちの姿が、「あー、これがアメリカ映画だ」と思わせたのだった。
それまでのモヤモヤを忘れさせるラストシーンだった。

愛と哀しみのボレロ

2020-08-23 11:05:53 | 映画
「愛と哀しみのボレロ」 1981年 フランス


監督 クロード・ルルーシュ
出演 ロベール・オッセン
   ニコール・ガルシア
   マニュエル・ジェラン
   ジェラルディン・チャップリン
   ジェームズ・カーン
   ダニエル・オルブリフスキ

ストーリー
1936年モスクワ。ボリショイバレエ団のプリマのオーディションで惜しくも敗れたタチアナは、選考委員のボリスに声をかけられ、それをきっかけにやがて二人は結婚するが、スターリングラード攻防戦でボリスは戦死。
残された幼い息子セルゲイはボリショイ・バレエ団の名ダンサーに成長し、最高の人気を得るが60年のオペラ座の公演を機に西側に亡命、母のタチアナは再婚しモスクワでセルゲイの成長を見守る。
1937年、パリ。人気を集めるキャバレエのバイオリニスト、アンヌはピアニスト、シモンと結婚し、二人は幸せに酔いしれるのもつかの間、ユダヤ人であったためナチのパリ占領で収容所送りとなる。
乳のみ子を抱いて列車に乗った二人は、子供だけは助けたいと、ある駅で列車の外に赤ん坊を置いていった。
シモンはガス室で死亡し、終戦を迎えたアンヌは音楽隊で地方を巡りながら置き去りにした子供の行方を探す。
その子供はパリで作家として成功していて、精神病院に入っていた生みの母アンヌと奇蹟の再会を果たす。
同じパリ。ナイトクラブの歌手エブリーヌは、パリに来ていたナチの軍楽隊長カールと出会い、彼の子を宿すが、敵に身を許した卑しい女と蔑まれパリを追放され故郷で子供を産む。
私生児として祖父母に育てられたエディットはパリに出て、やがてTVのニュース・キャスターになる。
エディットの実の父であるカールは、1938年、ベルリンでヒトラーの前でベートベンを演奏し認められてパリでの軍楽隊長としての仕事を終え、戦後指揮者として成功した彼は米初演を果たすが、ユダヤ人によるチケット買い占めで、観客わずか二人という屈辱を味わう。
1939年、ニューヨーク。人気ジャズミュージシャン、ジャック・グレンは、ヨーロッパ戦線に参加後、アメリカに戻って妻で歌手でもあるスーザンを交通事故で失うが、娘のサラは歌手として成功した。
そして、81年、パリ。これらの芸術家たちが、ラベルの“ボレロ”のもとに結集されるのだった。


寸評
戦争によって音楽家たちが数奇な運命をたどっていくが、印象深いのはヒトラーの前で演奏したことで戦後に批判を受けることになる指揮者のカールと、敵国人である彼の子を宿したことで白眼視されて自殺するエブリーヌの物語と、ユダヤ人であるために子供を捨てざるを得なかったアンヌの物語である。
ヒトラーは登場した当初はドイツ経済を復興させ世界中から賞賛を受けていたのだが、その後の狂気的行為で最も忌み嫌われている独裁者である。
従って、カールが総統の前で演奏し好評だったと狂喜しているのは、モデルとされるカラヤンもナチ党員であった時期があったのだから、ある時期においては当然の感情だったのだろう。
カールが戦後のアメリカで、ヒトラーが迫害したユダヤ人によって屈辱的な仕打ちを受けるのは、ユダヤ人とドイツ人の関係を象徴しているのかも知れない。
ユダヤ人であるための悲劇を味わったのがアンヌである。
彼女は何年にもわたって捨てた我が子を探し求めているが出会うことが出来ない。
息子に自分の存在が伝わった時には精神を病んでいて息子を認識できないでいるという悲しい女性だ。
自動車王ヘンリー・フォードや空の英雄リンドバーグ、ファッション・デザイナーのココ・シャネルなど、初期のナチを支持する人は少なくなかったが、やはりナチはとんでもない集団だったと思う。

エディットはカールとエブリーヌの間に出来た子供だが、母親のエブリーヌがエディット・ピアフが大好きだったことからエディットと名付けられている。
しかし彼女からエディット・ピアフを連想することはない。
エブリーヌは戦後にドイツ男性と関係を持ち、アメリカ兵と躍ったいい加減な女として頭を丸められる仕打ちに会うが、パリ解放後にはナチに協力した女性の頭が丸められたというのは実際にもあった出来事のようである。
ジャズミュージシャンのジャック・グレンはグレン・ミラー、タチアナの息子セルゲイはバレーダンサーのルドルフ・ヌレエフがモデルと思われるが、彼等の伝記を描いているわけではないので、それぞれのモデルに起きた出来事を描いているわけではない。
実際、グレン・ミラーは慰問演奏旅行中に行方不明となり、撃墜されたのではないかとの説もある。
グレン・ミラーにサラのような子供がいたのかどうかは知らない。
妻スーザンの交通事故死がグレン・ミラーの消息不明を物語っているのかもしれないなとは思う。

作品を振り返ってみると、個々の話が絡み合っているという風でもなく、それぞれの音楽家、あるいはその子供たちが吸い寄せられるように赤十字のチャリティ・コンサートに集結してくるという盛り上がりにもかけている。
果たしてこれだけのエピソードが必要だったのかと思うし、これだけの長さが必要だったのかとも思う。
個々の演奏シーンやダンスシーンにはなかなかいいシーンもあったのだけれど、どうもそれが上手くつながっておらず冗長な感じがしてしまうのは残念だ。
それでも最後に歌い踊られれる「ボレロ」はいい。
「ボレロ」自体が徐々に盛り上がっていく曲だし、それもあって名場面となっている。
このラストのチャリティ場面があるからこの映画が存在し得ていると言っても過言でない。

愛と喝采の日々

2020-08-22 10:23:43 | 映画
「愛と喝采の日々」 1977年 アメリカ


監督 ハーバート・ロス
出演 アン・バンクロフト
   シャーリー・マクレーン
   ミハイル・バリシニコフ
   レスリー・ブラウン
   トム・スケリット
   マーサ・スコット

ストーリー
ウェイン・ロジャースと妻のディーディーとの間には長女エミリア、長男イーサン、二女ジャニナがある。
この2人は元アメリカン・バレエ団のダンサーであったが、ディーディーがウェインとの恋愛中に妊娠したために正式に結婚し、バレエ団から身を退いたのだった。
エミリアは容姿も美しく、父母の血をひき、バレリーナになる才能を充分に具えていた。
オクラホマ・シティにアメリカン・バレエ団が2日間の公演を行なうためにやってくることになった。
アデレイドをオーナーとするこのバレエ団の1人エマはディーディーの親友であり、ディーディーがプリマ・バレリーナをやめたのはエマに勧められてエミリアを生んだからであった。
エマはディーディーに代って舞台でアンナ・カレーニナの役をやり、今の地位にのぼることができたのだった。
ロジャース一家は、この公演をこぞって見に行き、ディーディーは久方ぶりのエマの舞台姿に感激するが、内心には複雑な思いが交錯していた。
エミリアがエマに勧められ、アメリカン・バレエ団に入ったのはそれから間もなくであった。
夏のシーズンを控え、エミリアは「ジゼル」で初舞台を踏むことになった。
そして団員の1人で、ソ連生まれのユーリを知り愛するようになるが、キャロリンというバレリーナといい仲になったということを知り失望したところ、エマはそんなエミリアをやさしく慰め、だんだんと2人の仲は深まっていく。
やがてバレエ団が4年毎に行なうギャラ公演の日が近づく。
エマは出演するエミリアに衣裳を贈るが、このことでエミリアとディーディーの間に微妙な亀裂ができてしまう。
ディーディーはエミリアをエマにとられたくない気持でいっぱいだったのだ。


寸評
人生は決断の連続である。
高校、大学受験はどこにするか、自分は何になるか、就職はどこにするか、結婚相手は誰にするか・・・。
あの時ああしていればと思うことは誰にでもあるが、悔いることがあっても引きずって生きては何も生まれてこないし、ましてや人を恨んで生きては幸せはやってこない。
ここに登場するシャーリー・マクレーン演じるディーディーとアン・バンクロフトのエマには確執がある。
ディーディーは、かつてエマとプリマドンナの座を争っていた頃に妊娠し、その時エマが「産まないとウェインとの仲が壊れる」と言って結婚の道を選ばせ、自分は主役を射止めスター街道を駆け上ったと思っているのだが、実際にエマ自身が「あの役を得るためなら、多分、何でも言ったと思うわ」と述べているから、まんざらディーディーの思い過ごしとは言い切れないものがある積年の恨みである。
しかし作中で言われているようにディーディーは結婚を選んだのだ。
それでいながら、手段はともかくとして主役の座を奪われたことを未だに根に持っているということは、ディーディーはウェインとの結婚生活に満足していないということなのか。
結果として自分の夢はとん挫したのかもしれないが、そのことによって3人の子供にも恵まれ新たな幸せを得ることが出来たのではないかと思うのだが、そんなにポジティブでは映画にならないのだろう。

一方は家庭で幸せを得たがプリマドンナとしてのスターの座を失っている。
他方はスターの座を得たが家庭を築くことが出来ず子供に恵まれていない。
はたしてどちらが良かったのか。
エマは持てなかった子供への愛情を名付け親としてエミリアに注ぎ、エミリアもエマのその愛情を受け入れる。
プリマドンナの座を奪われたと思っているディーディーは再び娘を奪われてしまうという気持ちに襲われる。
過去にあった確執に対する感情を大人である二人は抑えている。
それは冒頭の公演が終わったあとの夫婦の会話に現れている。
夫が優しく「大丈夫?楽屋に行くことはないんだよ」と声をかけると、妻は「いいえ、行くわ」と答える。
楽屋では懐かしい顔がティーティーを笑顔で迎え、ディーディーとエマの20年ぶりの再会の時が訪れる場面だ。
お互いに抑えていた感情が爆発するのが、二人が罵り合い、髪を振り乱して取っ組み合う場面であり、この映画の圧巻となっている。
叩きながらわめいているうちに、その声は笑い声に変わり、二人の雪解けを暗示する名場面となっている。
手に入れたものに満足せず、失ってしまったものに思いを馳せるのが人と言うものなのかも知れない。
ディーディーとエマは正しい選択と決断をしていたのだが、それにもかかわらず漠然とした不満をいだいている。
ラストシーンは自分たちの選んだ道を納得するしかないということを悟ったのだと訴えている。
夢と希望と後悔、そして前に歩むのが人生なのだ。

バレーのシーンは美しいし、バレリーナたちの躍動は目を見張るものがあるが、バレーに造詣の深くない僕はそのシーンが少々長いように感じてしまい、逆に母親と同じ道を歩むかもしれないエミリアとユーリの関係をもう少し深く描いて欲しかったなあという気持ちが湧く。
それにしても、シャーリー・マクレーンとアン・バンクロフトは年齢相応の貫録で、いいわあ~。

アイズ・ワイド・シャット

2020-08-21 08:46:50 | 映画
「アイズ・ワイド・シャット」 1999年 アメリカ


監督 スタンリー・キューブリック
出演 トム・クルーズ
   ニコール・キッドマン
   シドニー・ポラック
   マリー・リチャードソン
   レード・セルベッジア
   トッド・フィールド

ストーリー
ニューヨークの開業医ビル(トム・クルーズ)とアリス(ニコール・キッドマン)は結婚して9年目。
7歳になる娘ヘレナをもうけ、しょう洒なアパートメントに暮らしている。
倦怠期を迎えている夫妻は、ビルの患者で友人のジーグラー(シドニー・ポラック)が開いたクリスマス・パーティーに招かれる。
このパーティでビルはピアニストであり旧友のニック(トッド・フィールド)と再会し、アリスはビルと別れて個別にパーティーを楽しむことにした。
ビルは女性たちに誘惑され、一方でアリスはハンガリー人の紳士に誘惑される。
自宅に戻ったビルとアリスはふとしたことから口論になるが、そこへ患者のネイサンソン(マリー・リチャードソン)が急死したという知らせが入り、ビルは患者の家へ向かう。
しかし、その道中で、ビルはアリスが海軍士官とセックスをしているという妄想を抱き、懊悩する。
患者の死を見届け帰宅している最中に、ビルは再び妄想に取り付かれ、深夜のニューヨークを徘徊する。
ビルはニックのホテルへ向かったが、ニックはいなかった。
不審な人物に尾行されていることに気づいたビルは喫茶店へ逃げ込む。
そこで読んだ新聞に、ミスコンの前女王がドラッグの過剰摂取で倒れたという記事が載っていた。
ビルが安置所で対面した遺体はジーグラーの家で命を救ったマンディーであり、そして昨日の乱交パーティーでビルの命を救った謎の女性だった。
ジーグラーは乱交パーティーの参加者であり、パーティーの後でビルを尾行させたのも、ニックを連れ出させたのも自分だったと明かす。
ビルとアリスは夫婦の絆を確かめ合うことは出来るのだろうか・・・。


寸評
撮影時においてトム・クルーズとニコール・キッドマンは実生活においても夫婦だった。
冒頭で彼等の家庭での姿もこうなのではないかというシーンが描かれる。
全裸になってドレスを着るニコール・キッドマン、着替え終わったトム・クルーズが財布の在りかを聞いている。
妻であるニコール・キッドマンは便器に腰かけ用を足しているようだ。
夫が妻の顔を見ないでステキだという倦怠期なのだが、7歳の子供がいる夫婦にとっては普通の様子だ。
ベビーシッターに子供を預け、パーティに出かける夫婦の暮らしは裕福なようである。
つまり、冒頭で描かれたシーンは、この夫婦は何処にでもいるごく普通の夫婦なのだと言っている。
パーティに参加した二人はそれぞれ別の男性、別の女性から言い寄られるが、それに応じることはない。
夫のビルは主催者のもめ事に呼ばれたこともあったのだが、根底には家庭を壊したくないという思いがある。
誘惑がありながらも家庭を守るために思いとどまるのも大抵の人々がとる選択肢だ。
無関心でいるようで独占欲だけは残存しているから、妻に言い寄る男性、夫に近づく女性のことが気になる。
見ていないようで、しっかりと相手のことを注視している。
しかしどこかで伴侶以外の人に心惹かれているのは、男女を問わず存在していることは想像に難くない。

この映画の分岐点となるのが妻のアリスが夫のビルに告白するシーンである。
アリスは家族と出かけた時にエレベータで見た士官に惹かれ、家族を棄ててもいい衝撃に襲われたし、夫とのセックス中でも彼を想像していたと告白する。
よき妻であり7歳になる娘ヘレナの母親でもあるアリスが、そのような裏切り行為を思い描いていたことは、ビルにとっては想像もしなかったことで、その後ビルはそのことで妄想を膨らませていく。
別の人物を思い浮かべながらセックスにふけるのは想像できなくもない。
しかし、その事を告げられればショックだろうし、相手を見る目が変わってしまうのは当然だと思う。
ビルはアリスが見る夢も聞かされ、なおさら良からぬ妄想が膨らんでいく。
夫のビルは品行方正なのかというと、そうではない。
父親を亡くした娘から言い寄られているし、町で声をかけられた娼婦にもその気になっている。
友人のニックに無理やり頼んで仮装と仮面が条件の乱交パーティに飛び入り参加しているのである。
この乱交パーティシーンはかなり濃密に描かれていて、成人指定も仕方がない。
そしてこのシーンはアリスが見る夢の伏線でもある。
参加者が誰であるのかわからない秘密パーティだが、一人の女性はビルの正体を見抜いているようで、このあたりから物語はサスペンス性が加味される。

間違いを犯しそうになった女性がHIV感染者だったり、一度は命を救ったことのある女性に助けてもらったりと、ビルは一歩間違えば結婚生活が破たんしかねない状況からきわどいところで逃れている。
これも人生の彩で、そんな場面はだれでも1回や2回は経験しているのではないかと思う。
ビルは最後に居たたまれなくなって妻にすべてを告白する。
アリスは、お互いが危機を乗り越えたのだと言い、今やることは「ファック」という。
夫婦間に潜む嫉妬心を観念的に描いた作品だと思うが、最後のアリスの一言は見事と言うほかない。

愛情物語

2020-08-20 08:15:29 | 映画
「愛情物語」 1955年 アメリカ


監督 ジョージ・シドニー
出演 タイロン・パワー
   キム・ノヴァク
   ジェームズ・ホイットモア
   ヴィクトリア・ショウ
   グローリア・ホールデン
   ラリー・キーティング

ストーリー
ピアニストとして身をたてるべく、エディ・デューチンは有名なセントラル・パーク・カジノのオーケストラの指揮者ライスマンを訪れたが採用されない。
ところがその調べを聞き入る1人の令嬢、大資産家の姪マージョリイ・オルリックスが事情を聞いて同情し、ライスマンにオーケストラ演奏の合間にデューチンのピアノ演奏を入れてくれるように頼んでくれた。
このようなことからデューチンとマージョリイの間も発展し、祝福を受けてめでたく結婚する。
しかもデューチンの楽壇での地位は益々重くなり、愛児ピーターが生まれる。
クリスマスの夜、デューチンはマージョリイが重態であることを知る。
マージョリー亡き後の彼は叔父夫婦にピーターをあずけ、バンドを率いて演奏旅行に出かける。
第二次大戦が勃発し、デューチンは海軍に入り、亡妻を一時でもはやく忘れようと軍務に精励する。
やがて終戦となり、ピーターは既に10歳になっていたが、長い間面倒を見なかっただけにピーターは彼になついてこない。
その反対に英国の戦災孤児の美しい娘チキータに非常になついていた。
しかし間もなく、父子の愛情は音楽を通じて温かいものが流れるようになる。
デューチンは昔日の人気をとり戻したが、それと同時にチキータに対して愛情を抱きはじめる。
ところがある日、医者の診断を受けたところ白血病で余命いくばくもないと宣告をうける。
チキータは結婚を承諾し、彼女との結婚生活によってデューチンは幸福をとり戻したのだが・・・。


寸評
布施明が唄うバラードに「愛情物語を観ましたか」というのがあって、その歌い出しは ”覚えていますか リバイバルの愛情物語に 二人で行った 時のことを” という歌詞である。
「愛情物語」は1956年度の作品だから僕はまだ7歳で、当然リアルタイムでは観ていない。
リバイバル上映が行われていたかどうかも知らず、僕がこの映画を見たのはずっとずっと後のことである。
しかしカーメン・キャバレロがこの映画の中で弾くショパンの「夜想曲第2番」をアレンジした「トゥー・ラブ・アゲイン」というピアノ曲は映画音楽として何度も耳にしている。
僕にとっては音楽が先にあった映画というのがこの「愛情物語」である。

エディ・デューチンの伝記映画だが、僕はエディ・デューチンを知らない。
それでも音楽映画として「愛情物語」は素直に楽しめる。
流れる音楽が映画にマッチしていていいのは当然のような気がするが、エディ・デューチンがニューヨークにやって来て成功し、マージョリイ・オルリックスと出会って結婚するまでをテンポよく描いているのがいい。
そしてエディ・デューチンを演じるタイロン・パワーの指裁きの素晴らしいことに感心してしまう。
タイロン・パワーがピアノの名手で本当に弾いているのかと思うほどで、言われなければカーメン・キャバレロが弾いているとは思えないものだ。
よくあるのが主人公がピアノを弾く恰好をしてカメラが引き、手元がピアノで隠れたところで画面が切り替わり、吹き替えのピアニストが弾く指先をアップでとらえるというものだ。
しかしこの映画ではタイロン・パワーの全身を映し込み、ピアノを弾く彼自身の指先を映し込んでいる。
聞くところによると、タイロン・パワーは随分と練習したとのことで、その上達ぶりに敬服してしまう。

タイロン・パワーとキム・ノヴァクのラブ・ロマンスシーンにはうっとりしてしまう。
魅かれ合っていく二人の様子、セントラル・パークをデートする二人のシルエットが流れるように描かれ、年甲斐もなく羨ましい気持ちで眺めている自分に気が付く。
僕はエディ・デューチンを知らないし、ましてや彼の人生も知らないので、この時点では「愛情物語」はこの二人が年老いても信頼し合い、愛し合っている姿が描かれていくのだろうと想像したのだが、以後の展開は全く違うもので、映画を楽しむには前もってあらすじなど知らない方がいいだろう。
そう言いながらネタバレを承知で書き綴る。
エディはマージョリイを愛するあまり、愛妻の死は息子ピーターの誕生のせいと自分を追い込んでいる。
演奏旅行があるとはいえ何年も叔父夫婦に預けっぱなしである。
その結果として父親と子供の間に溝が出来てしまう。
避けているとしか思えない行動で、それほどマージョリイを愛していたのかもしれないが、僕はそんな理由で子供から逃避する精神構造が理解できなかった。
やがて父子の間の溝は埋まるが、描き方は重苦しいものではなく楽しくなってくるものだ。
子供を交えた演奏シーンや、ホテルでの演奏を見た息子が父親の偉大さを感じ取るシーンなど、音楽映画に相応しい描き方で楽しませてくれる。
エンディングも胸が詰まるもので、これが物語ではなく実話であるから余計に込み上げて来るのかもしれない。

愛されるために、ここにいる

2020-08-19 08:34:15 | 映画
「愛されるために、ここにいる」 2005年 フランス


監督 ステファヌ・ブリゼ
出演 パトリック・シェネ
   アンヌ・コンシニ
   ジョルジュ・ウィルソン
   ライオネル・アベランスキ
   シリル・クトン
   アンヌ・ブノワ

ストーリー
50歳を過ぎたジャン=クロードは、父親から継いだ、人情を殺して裁判所の決定を伝える執行官の仕事を長年続け、心身ともに疲れている。
彼のオフィスの窓からはタンゴ教室の様子が見え、タンゴのメロディが聞こえてくる。
毎週末に彼は老人ホームにいる高齢の父を訪ねている。
しかし気難しい父親からはいつも文句ばかり聞かされている。
ある日、医師から何か運動を、と勧められたジャン=クロードは思い切ってタンゴ教室に入ってみた。
そこには、数週間後に控えた自身の結婚式でタンゴを踊るためにレッスンを受けに来たフランソワーズがいた。
偶然ジャン=クロードの車で送ってもらったフランソワーズは、車の中の忘れ物を受取りに彼の家に行く。
タンゴのステップをうまく踏めないジャン=クロードは、彼女にレッスンしてもらう。
頬と頬が触れ合う程そばで踊るうちに、お互いの気持ちが高揚するのを感じる二人。
ある夜タンゴのステージを観た帰り、お別れのキスから抑えられない熱いキスを交わすのだった。
しかし偶然から、ジャン=クローズは彼女の結婚のことを知る。
彼女は彼に何も話していなかった。
事実を知ったジャン=クロードは彼女の説明も聞かず去る。
数日後フランソワーズは、ジャン=クロードのオフィスを訪れ、結婚することを黙っていたことを詫びた。
自分はマリッジ・ブルーなのだと説明し、友達でいようと言うも、ジャン=クロードは彼女を冷たく拒絶。
各々に空しい日々を過ごす二人。
ジャン=クロードは、ある日、秘書の女性から、彼女が言ったことは本心ではないと助言され、驚くのだった…。


寸評
フランス版「Shall we ダンス?」のような感じだけれど、さすがにフランス映画と言いたくなる小粋な作品だ。
会話は極めて少なく、タンゴ教室のシーンやタンゴの発表会などタンゴを踊るシーンが結構占めているし、会話のないシーンではタンゴ音楽が流れている。
アルゼンチン・タンゴに対する僕のイメージは情熱的で、ダンスは欲情的というもので、この物語にはタンゴがよく似合っている。
フランソワーズはジャン=クロードの母親に子守りをしてもらったと言っていて、その事をジャン=クロードも覚えていたところから二人の関係が始まる。
二人の間には年齢差があるが、フランソワーズが言うよりも年齢差があるように見える。
フランソワーズの アンヌ・コンシニは魅力的だ。
男目線で言えば、晩年にこのような出会いがあれば嬉しいし幸せだなと思ってしまう。
音楽に乗って二人の間に恋の炎が燃え上がるのが感じられて、感動と共にうっとりとしてしまう。
二人の表情とカメラワークはすこぶるいい。

ジャン=クロードは他の兄弟が顔も見せない病気の父親の面倒を見ている。
この父親は頑固者で素直に自分の気持ちを表すことができない。
父は息子のことが気になってしようがないのだが、家路につく息子を病室の窓からそっと見下ろしていて、息子が窓を見上げると身を隠すわずかなシーンでそのことを表現している。
父親の感情を見せるシーンとしては上手くできていて、だから想像通りのテニスのトロフィーの話が輝いてくる。
父親は息子が誇りで自慢だったのだが、それを素直に息子に伝えることが出来なかった不器用な男だった。
しかし、その不器用さは今のジャン=クロードにもつながっていると言う描き方で、これも想像力を働かさせてくれるなかなか上手い演出である。

フランソワーズはマリッジ・ブルーの時期だったのだろうが、それにしては婚約者に魅力がない。
彼女の心変わりを納得させるために、風采の上がらない男を用意している。
フランソワーズの結婚式が近づき、婚約者を交えて家族で披露宴の席順を決めている場面で、フラソワーズは思わず泣き崩れてしまう。
しかしその結末は描いていなくて、観客の想像に委ねている。
ジャン=クロードは事務所の女性従業員から、フランソワーズの言った言葉は本心ではないと言われる。
年齢のこともあるが、それを聞いてジャン=クロードが我に返ったように直情的な行動をすぐに起こさない描き方で、これからどうなっていくのだろうという観客の想像を掻き立てていく上手い描き方となっている。
そこに前述のトロフィーの話がかぶさってくるのだ。
相手に理解してもらいたい、自分からは言い出せないけれど、でも気持ちを読み取ってほしい。
そんなじれったい恋を、僕たちは長い人生で一度くらいは経験しているのではないか。

ラストシーン。
「ここで終わるのか、さすがはフランス映画!」と唸ってしまう。

愛がなんだ

2020-08-18 08:25:10 | 映画
「愛がなんだ」 2018年


監督 今泉力哉
出演 岸井ゆきの 成田凌 深川麻衣
   若葉竜也  穂志もえか 中島歩
   片岡礼子  筒井真理子 江口のりこ

ストーリー
28歳のOL山田テルコ(岸井ゆきの)は、猫背でやせ型のマモちゃんことマモル(成田凌)に一目惚れしてから5ヶ月間、自分の時間のすべてを彼に捧げてしまっている。
愛しすぎるあまり、全てがマモル最優先の日常を送っていた。
仕事中であろうが真夜中であろうがマモちゃんからの電話にはすぐさま対応。
呼び出されたらどこにいようと駆けつけ、平日デートに誘われれば仕事をすっぽかし、クビ寸前。
親友にもあきれられている。
それでも彼がいてくれたらテルコはこの上なく幸せではあるが、マモちゃんにとって彼女はただ都合のいい女でしかなかった。
そこのことを十分自覚しているテルコだったが、それでもマモルが大好きで、幸せだと思っていた。
マモルは優しいが、テルコが少しでも踏み込もうとすると突如拒絶する。
テルコは今の関係を保つことに必死で、自分からは連絡せず、気持ちを伝えることもできない。
朝方まで飲んでマモちゃんの部屋に泊まってから二人は急接近し、恋人に昇格できるのではと舞い上がるテルコだった。
頼まれてもいないのに家事などの世話を焼いた挙句、マモちゃんからの連絡が途絶えてしまう。
それから3ヶ月後、マモちゃんから電話が入り、会いに行ったところ、マモちゃんの隣りには年上の女性すみれ(江口のりこ)がおり……。


寸評
今泉監督は様々な恋愛の持つ様々な側面を描き出しているのだが、登場人物それぞれの恋愛の心模様に自分の経験と重ね合わせて共感、あるいは理解することが出来れば、イアライラ感からスタートした映画を最後は苦笑でもって見終えることができるだろう。
僕は思い当たるふしがあり、大いに共感できた。
マモルはテルコと自分の都合だけで付き合っているが、テルコはマモルが大好きなので盲目的に尽くしている。
二人の関係を危惧しているのがテルコの友人・葉子である。
葉子は口ではテルコに警告を発していが、実はカメラマンのアシスタントをしているナカハラの自分に対する好意を利用して、都合のいいように利用している。
葉子は自分の矛盾に気が付いていないが、しかしそれもまた恋愛の一つの側面だろう。
いいように扱われるテルコに情けないじゃないかとイライラしながら見始めたが、やがて恋愛には冷静に理性を働かせて対処できないことが必ずあるのだと感じてくる。
今泉演出は、被写体に寄り添うのでもなく突き放すのでもなく、絶妙の距離感で彼らを描き出している。

テルコにマモルが急接近したかと思うと、そこから二人の心はすれ違いが生じ、テルコの前にすみれという年上の女性が現れる。
すみれは、テルコとは正反対のガサツで口の悪い女性なのだが、そのすみれに惚れたマモルが、今度は逆にすみれに振り回される。
なんだ、結局惚れた側が相手に振り回されるだけじゃないかということなのだが、しかし本当に好きになってしまうと相手の一挙手一投足に右往左往してしまうのは仕方のないことで、それが惚れた弱みと言うものだろう。
気に入られようとして取る態度がどこかちぐはぐで、「私、お見合いをするかも」などと言われると、それだけで頭が真っ白になってしまったりするのが片思いの可愛いところだったりするものだ。
そういった恋愛の側面から見ると、僕はナカハラという男に一番自分を投影できる。
ナカハラは本当に葉子のことが好きだったのだろうが、テルコに指摘されたように高根の花と感じて葉子を諦め逃げていったのだろう。
ダメ元でぶつかって「好きだ」と言えばいいのだが、まぶしく感じる女性にはそれが言えないという恋愛感情をリアルに表現できていたように思う。

思い込みで暴走するテルコを演じた岸井ゆき、そんなテルコをもて遊んでいるように見えるマモルの成田凌もいいのだが、すみれを演じた江口のりこの存在感はスゴイ。
タバコをふかし上から目線で意見を言い、時に相手を無視するふてぶてしい態度を見せる。
だらしなさそうな女性だが、ナカハラ相手に雰囲気が悪くなった時に「よし、ナカハラの為にパスタを作る」と言って雰囲気を変える機転もきく大人の女性でもある。
まさに、「これがすみれだ!」と叫んでいるようなたたずまいで魅力があった。
描かれた恋愛模様をリアルと感じるか、物語としての作りごとと感じるかは人それぞれだろうが、ラストの動物園はテルコはやはりテルコだったとわかり、思わず苦笑。
いつまでもマモルを引きずっているんだなあ。

あゝ結婚

2020-08-17 07:58:28 | 映画
最後までたどり着きましたが、振り返ればあれもあった、これもあったで、随分と漏れていたように思います。
再度振り返って、思い出した作品を掲載していきます。
先ずは「あ」行からです。


「あゝ結婚」 1964年 アメリカ


監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
出演 ソフィア・ローレン
   マルチェロ・マストロヤンニ
   アルド・プリージ
   マリル・トロ
   ジョヴァンニ・リドルフィ

ストーリー
女手一つでパンやケーキの工場を切り盛りする中年女性フィルメーナ(ソフィア・ローレン)が病で倒れた。
内縁の夫ドン・ドメニコ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、親子ほど年の離れた若いレジ係ディアナ(マリル・トーロ)との結婚式を控えて大忙しだったが、下男アルフレード(アルド・ブリージ)に急かされて病床のフィルメーナのもとへ駆け付けたところ、医師から回復の望みは薄いと言われた。
肩を落とすドメニコは、彼女との想い出をふと振り返るのだった。
それは第二世界大戦の真っ只中でのことだった。
当時まだ17歳の初心な娘だったフィルメーナは、貧しさゆえ娼館に身売りをしたのだが、そこで空襲の晩に裕福な御曹司ドメニコと知り合い、爆撃にも全く動じないドメニコに惚れてしまう。
それから2年後、終戦後の荒廃したナポリで2人は再会する。
フィルメーナのことなどすっかり忘れていたドメニコだが、見違えるほど美しい大人の女性へと成長した彼女を見て気に入り、自分の妾にするのだった。
といっても、たまに店に寄っては外へ連れ出して密会するだけの関係。
不満を募らせたフィルメーナが別れを切り出すと、ドメニコは渋々ながら彼女を自分の所有するアパートへ引っ越させる。
さらに彼は、経営するバールの切り盛りをフィルメーナに任せ、自分は放蕩三昧で遊びほうける始末だった。
ドメニコから母親に紹介すると言われ、ようやく妻として認めてもらえると喜んだのもつかの間、昔働いていたメイドの姪っ子という名目で年老いた母親の世話を押し付けられることに。
さらに、ドメニコが開業したパンやケーキの工場の管理までさせられてこき使われる。
そんな彼女を尻目に、ドメニコは従業員の若い娘たちと浮気ばかりで、いつしか22年の歳月が過ぎていた。
そして現在。死ぬ前にあなたの妻になりたいと言われ、嫌々ながらも承諾するドメニコだったが・・・。


寸評
解説書とか映画紹介を見るとコメディと説明されていることが多いけれど、僕にはとてもコメディと思えない。
イタリアは長く男尊女卑の国だったと何かの書物で読んだことがあるのだが、ここで描かれていることは女性の権利取得の正当性を主張しているように思う。
原題は「イタリア式結婚」となっているが、イタリアの女性はこの様にして強くなったのだと言っているようだ。

ドメニコは事業に成功しているプチ・ブルジョアのようだが、フィルメーナの扱いはひどいものがある。
娼婦のフィルメーナに適当なことを言って、都合の良いようにもて遊んでいるように見える。
ドメニコにとって無学なフィルメーナは便利な女性だったのだろう。
不誠実なドメニコだがフィルメーナにも打算はある。
アルフレードにプロポーズされたフィルメーナだが、アルフレードにないものをドメニコは持っていると言って申し出を拒否している。
ドメニコが持っているものとは財力である。
ある時期からフィルメーナはドメニコへの愛から、母親としての愛へと愛情の矛先を変えている。
不誠実なドメニコは自分の子供にしか愛情を注がないだろうことを予期して、三人のうち誰がドメニコの子供なのかを明かそうとしない。
ドメニコは必死で自分の子供が誰であるかを突き止めようとするが、途中でフィルメーナが「二男は別の男の子供だ」と言っていたことをドメニコは忘れていたのだろうか。

デ・シーカは余分なシーンを省略して次々とドメニコの不誠実な行いを描いていく。
フィルメーナはドメニコを愛するがゆえに、その行いに甘んじていく。
一芝居打ってドメニコの前に姿を現す場面のみが喜劇的だが、デ・シーカの狙いはここからだったのだと思う。
フィルメーナは一転して強い女に変身し、ドメニコを攻めまくる。
アルフレードやメイドのロザリアもフィルメーナを応援しているように見える。
肉感たっぷりなボディにシースルーの衣装をまとうソフィア・ローレンもいいが、ここからの強い女の表情を見せるソフィア・ローレンが彼女の持つイメージと一致して素晴らしく思えた。

言い争っていたドメニコとフィルメーナだったのだが、お互いに心の底ではいまだに愛し合っていたと言う展開なのだが、それを示すシーンがあまりにも唐突過ぎて違和感を持ったのだが、このあたりが喜劇と評される部分なのかもしれない。
最後にはこれがイタリア式結婚なのだとハッピーエンドで終わるが、途中でフィルメーナが「幸せを失った時に涙を流す」と言っていたのだが、ラストでは幸せを得て涙を流す。
どこが喜劇なのだと言いたくなるラストシーンで、僕は感動した。
しかし、原題もそうだが「あゝ結婚」という邦題もどうなんだろう。
僕は大学祭の模擬店で、この映画のポスターを販売していたのだが一向に買い手がつかなかった。
他のポスターは売れるのに「なぜか残るアアケッコン!」と叫んでいたことを思い出す。
ポスター・デザインと言い、もう少し違ったアピールの仕方もあったような気がする作品だ。