おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ローマの休日

2020-07-31 08:29:38 | 映画
「ローマの休日」 1953年 アメリカ


監督 ウィリアム・ワイラー
出演 オードリー・ヘップバーン
   グレゴリー・ペック
   エディ・アルバート
   ハートリー・パワー
   ハーコート・ウィリアムス
   マーガレット・ローリングス

ストーリー
ヨーロッパの各国を親善旅行中のある小国の王女アン(オードリー・ヘプバーン)がローマを訪れたとき、重なる固苦しい日程で王女は少々神経衰弱気味だった。
侍医は王女に鎮静剤を飲ませたが、疲労のためかえって目が冴えて眠れなくなって、侍従がいないのをよいことに王女はひとりで街へ出て見る気になった。
が、街を歩いているうちに薬がきいてきて広場のベンチで寝こんでしまった。
そこへ通りかかったアメリカの新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリー・ペック)は、彼女を王女とは知らず、助けおこして自分のアパートへ連れ帰った。
翌朝、彼女が王女であることを知ったジョーは、これこそ特ダネ記事をものにするチャンスと思い、ローマ見物の案内役をひきうけた。
一方、王女失踪で大使館は上を下への大騒ぎ、しかし、世間に公表するわけにも行かず、本国から秘密探偵をよびよせて捜査に当らせた。
その間に、2人の胸には深い恋ごころが起っていた・・・。


寸評
オードリー・ヘプバーンに始まってオードリー・ヘプバーンに終わるといしか言いようのない映画だ。兎に角、可憐でチャーミングな仕草がくすぐったくなるような心地よさを提供してくれる。皇室の堅苦しさを理解している日本人にとっては、無条件に飛びつける作品となっている。オードリーなくしてはあり得ない作品で、リメイクなどは考えられない作品だ。
ワイラーはグレゴリー・ペックに自分が目立つのではなく、どうしたらオードリーの魅力が引き立つかという演技を要求しているが、それに応えたオードリーは正に妖精。可憐で汚れなき王女をスクリーン一杯に歌い上げた大人のお伽噺だ。
イタリア観光の宣伝映画かと思うくらい名所旧跡が登場する。先鞭をつけるようにそれらを背景にクレジットが流れて、否応なく行ったことのないローマに誘われる。そして作品中ではダイジェストのように見せてくれる。
王女がイギリスを訪問した時のロンドンでのパレード、フランスを訪問した時のパリのパレードなどはニュース映画か何かの借り物だとは思うが、王女がすごい歓迎を受けている雰囲気は出ていた。
続く舞踏会でのシーンで、出席者の挨拶を立礼で受ける王女がドレスに隠れた中で靴を脱いで足を休めるシーンが出てくる。このシーンを見れば、この作品がシリアスドラマではなく、ちょっとお転婆なお姫様の物語だということが分かり、作品が持つ雰囲気の世界へ導かれる。
つまらないスケジュールに追われる彼女がお抱えの医者に睡眠剤を打ってもらい、医者から「当分きままにすることが体のために良い」と声をかけられている。それに従ったわけではないが、彼女が起こした騒動の正当性を担保する会話で気が効いている。
王女が宿泊先の宮殿から抜け出し、ピザ屋の車に隠れて夜のローマに出かけてからはオードリーの魅力が爆発。
スペイン広場の階段シーンでアイスクリームを食べる姿、観光名所をスクーターに乗って走り回る姿も目に焼き付く。これに寄り添うように走るカメラマンの小型自動車もメルヘンチックでなかなか味がある。
真実の口での驚きの表情は忘れられない。
この真実の口シーンは、グレゴリー・ペックがアドリブで手を失くして、オードリーが本当に驚いた表情を撮ったらしい。それが真実なら、この頃のオードリーは本当にイメージ通りの女性だったのかもしれない。
ヘプバーンと言えば、アメリカではキャサリンらしいが、日本では断然オードリーだと言うのはこの「ローマの休日」の彼女によるところが大きいと思う。

閑話休題
スペイン広場で2人が語り合う場面がある。時間にして1分にも満たないが、その時に階段下から撮ったカットで、後景に教会の鐘楼の下の時計が映っていた。カットのたびに時計の針が大きく動いており、このカットが何時何分に撮影されたかが分かり、広場の撮影に2時間以上も要していたことが分かる。
しかしデジタルリマスターされた時に、この時計の針は修整されたらしく今では確認することは困難ではないかな。
かつて「ローマの休日」を語るときに必ず映画ファンの間で話題になったスペイン広場の時計であった。
デジタル処理と言えば、脚本家名がアナログ時にはイアン・マクレラン・ハンターだったのに、デジタル版ではダルトン・トランボとなっている。
デジタル処理は何でも出来てしまうんだなあ・・・。

ロード・トゥ・パーディション

2020-07-30 08:35:07 | 映画
「ロード・トゥ・パーディション」 2002年 アメリカ


監督 サム・メンデス
出演 トム・ハンクス
   ポール・ニューマン
   ジュード・ロウ
   タイラー・ホークリン
   ダニエル・クレイグ
   スタンリー・トゥッチ

ストーリー
1931年、雪の降るイリノイ州ロックアイランドの町。
妻と2人の息子と共に暮らすマイケル・サリヴァンは、良き夫・良き父でありながらアイルランド系マフィアの殺し屋という裏の顔も持っていた。
マフィアのボスであるジョン・ルーニーは、サリヴァン一家を自分の家族のように溺愛していた。
サリヴァンの2人の息子にも実の孫のように接するジョン。
その一方で実の息子であるコナーに対しては冷ややかで、コナーはそれを苦々しく思っていた。
ある日、組織の幹部会で父から激しく自分のミスを攻め立てられたコナーは、父への恐れと、そんな父に自分以上に溺愛されるサリヴァン一家への嫉妬と憎悪の念を抱くようになり、サリヴァンの妻と次男を殺害してしまう。
それを知ったサリヴァンは生き残った長男と共にコナーへの復讐を決意。
実の息子と、それ以上に愛したサリヴァン父子との間に板挟みになったジョンは実の息子を選び、サリヴァンの許に一流の殺し屋であるマグワイアを派遣。
マグワイアの度重なる襲撃から逃れたサリヴァン父子は、かつて自分たちを愛してくれたジョンと、妻子の敵であるコナーを射殺。
心身ともに憔悴しきったサリヴァンは息子と共に海辺の小さな家で一時の休息を過ごしていたのだが・・・。


寸評
互いに父親としての息子への愛情をそそぎながらも苦悩する二人の名優、トム・ハンクスとポール・ニューマンがたまらなくいい。
二人の置かれた立場、あるいは二人の年齢差から来る苦悩の違いを見せながら、静かにそれを演じ切ったのは流石としか言い様がない。

音楽のみで無音の中で行われるジュン・ルーニーの殺害シーンは物悲しい。
降りしきる雨の中の銃撃戦、振り返りもせず立ち尽くし、銃弾に倒れていく護衛の者達にも目もくれず、「お前でよかった・・・」とサリヴァンに撃たれるルーニー=ポール・ニューマンと悲しげな眼差しをおくるサリヴァン=トム・ハンクス。
お互いに敬愛しながらも息子への愛と、自身へのけじめを現す秀逸なシーンになっていたのではないか。
暗闇の中で大きなスクリーンに映し出されたこのシーンは、大スペクタクルとはまた違った種類の映画館で見てこそのものだった。

CGや特撮を駆使したドンパチ映画より、僕はどちらかと言うとこの作品のような落ち着いた映画のほうが好きだ。
そしてシカゴの町並みに見られるような、多くのエキストラを使い何気ない雰囲気をかもし出すシーンが好きだ。
あるいはレールの上を走っているであろう移動カメラ、それをカメラマンや助手達が大勢で押しているだろうことを想像させるようなシーン。
手前には何気なく座っている人が画面の左から右へ流れ去る。
吹き抜けの向こう側を歩く主人公を流れるようにとらえる。
撮影現場の息詰まる雰囲気が感じ取れて、テレビでは味わえない「これはやはり映画なんだ」と僕には思える瞬間なのだ。

僕がポール・ニューマンと出会ったのは随分と前で、「動く標的」のルウ・ハーパーだった(パンフレットの記録を見ると1966年7月12日になっている)。
ハード・ボイルドタッチで、まだ子供だった自分には少し早すぎたかもしれないけれど、でもちょっと面白い映画だったと記憶している。
それ以来、僕にとっては好きな俳優さんの一人となった。
その後も何本か主演作を見たし、夫人のジョアン・ウッドワードを主人公にして撮った監督デビュー作「レーチェル・レーチェル」も見ることが出来て、非凡な才能に感心したりもした。
 残念なのは、ロスに行く機会があってビバリー・ヒルズの彼の家を早朝探しに行たのだけれど、出発時間がせまってきて結局訪問できなかった事かな・・・。
いわゆるファンなのです。
さすがにその彼も年をとったなと感じたけれど、それでも出来の悪い息子を叱り飛ばした時の迫力などは捨てたものではなかった。
もう出演作も限っていると噂されるポール・ニューマンだけれど、いつまでも健在振りを見せて欲しいものだ。

老人と海

2020-07-29 07:41:26 | 映画
いよいよ終盤。
「ら」行の最後「ろ」です。

「老人と海」 1958年 アメリカ


監督 ジョン・スタージェス
出演 スペンサー・トレイシー
   フェリペ・パゾス

ストーリー
彼はメキシコ湾流に小船を浮かべ、魚をとる歳を取った漁師だ。
しかし、もう84日も1匹も釣れない日が続いている。
はじめは少年がついていたが、不漁が続くので親のいいつけで別のボートに乗り組んでしまった。
しかし少年は老人が好きだ。5つの時生まれてはじめて漁につれていってくれたのは彼だった。
少年と老人は小舟を海に押し出す。
沖に出て1人になると、老人は餌のついた4本の綱を水中に下し、汐の流れに船を任せた。
綱がぐっと引かれる。信じられぬほどの重みだ。老人は綱を引くが魚は引寄せられない。
魚と、それに引かれる老人の舟は、静かな海を滑っていく。「あの子がいたらなあ」--老人は声に出した。
魚はその姿を海面に現わしたがそれはダイビングの選手のような鮮やかさで、再び水中に消えてしまった。
夜、老人は突然眼が覚めた。
魚は物凄い勢で海上に跳ね上がる。ボートは引きずり廻される。こうなるのを待っていたのだ。
3度目の太陽が上る。一晩中続いた死物狂いの暴れようが落ちついて、老人は綱をたぐりはじめる。
そして両手を血だらけにしながら、銛をぐさりと魚の胴体に打ちこむ。気がつくと海は一面に血汐で真赤だ。
頭をへさきに、尻尾を艫先に結びつける。1500ポンドはあるだろう。
最初に鮫が襲ってきたのは、1時間後のことだった。
夕暮近く2匹、日没前に1匹、また2匹、銛をふるっての応戦に老人が力尽きた時、魚の身に、もう喰う所は少しも残っていなかった。


寸評
原作者アーネスト・ヘミングウェイの名前も「老人と海」という小説のタイトルも知っているが、僕はヘミングウェイの作品を読んだことがない。
原作を読まなくてもその内容を教えてくれるのが映画のいいところの一つだ。
ただし、原作の世界を忠実に表現できているか、原作が伝えたかったことが描けているかどうかはまた別問題。
読んでいないから何とも言えないが、本作はかなり原作の世界を表現しているのではないかと感じる。
そう思わせる一つに、小説を朗読しているかのようなナレーションが随分あって、それに映像が乗っかているような演出方法が取られていることがある。
大半は老人を演じるスペンサー・トレイシーの一人芝居なので、言葉と言えば主人公の老人が発する独り言かナレーションだけである。
大きなカジキマグロがかかった釣り糸(ロープといってもよい)を引っ張るだけの老人の姿を映しているだけなのだが、その単純な光景を飽きさせないのはスペンサー・トレイシーの名演と演出にある。
もちろん実写風景とプールを使った撮影とをうまく融合させたジェームズ・ウォン・ハウ、フロイド・クロスビー、トム・タットウィラーのカメラが寄与していることは言うまでもない。

少年が老人にあこがれを抱き慕う姿は「ニューシネマ・パラダイス」などでも見られた関係で微笑ましい。
老人が上位にいると思われる二人の関係は時として逆転している。
老人は少年にビールをおごってもらい、食事も提供してもらっているようだ。
しかし老人はそれを恥じることはないし、少年もそれを恩着せがましく思っていない。
少年は老人とコンビを組んで漁をしていたようだが、老人の不漁続きで今は別の舟に乗っている。
そこで大きな魚を釣り上げているというから、漁師としての技術は老人から受け継いだものなのだろう。
老人はこの場に少年がいてくれたらと度々思っているが、それは少年がいれば助かると言ったものを超えて、少年ならこの大物を引き上げることができるだろうと言う思いがあったのではないか。
老人は妻もなくした独り身だが自分の人生に悔いはないのではないか。
自分の持てるものを少年に伝えることができたという満足感がそうさせていると思う。

老人は「人間は殺されることはあっても負けるように造られてはいないんだ」と独白する。
観客である僕たちを叱咤激励している言葉でもある。
老人はキリストの再来なのかもしれない。
帆をたたんで背負いながら坂道を自宅へ帰る姿はゴルゴタの丘へ向かうキリストにダブル。
もう一つ、老人が度々見るのがライオンの夢だ。
彼が一番活躍していたであろう時期に見た光景でもある。
全盛時の思い出と懐かしみ、たくましさへのあこがれが夢となって表れているのかもしれない。
そう思うと、老人が巨大カジキマグロを仕留めたのは彼が見た夢だったかもしれないとの思いも湧いてくる。
波打ち際に残った骨格を見た観光客がサメだと言っていることがそれを後押しする。
人生は夢のまた夢なのだろうか。

レ・ミゼラブル

2020-07-28 08:10:22 | 映画
「レ・ミゼラブル」 2012年 イギリス


監督 トム・フーパー
出演 ヒュー・ジャックマン
   ラッセル・クロウ
   アン・ハサウェイ
   アマンダ・サイフリッド
   エディ・レッドメイン
   アーロン・トゥヴェイト

ストーリー
格差と貧困にあえぐ民衆が自由を求めて立ちあがろうとしていた19世紀のフランス。
ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、パンを盗んだ罪で19年間投獄され監獄の中で生きた。
仮釈放されたものの生活に行き詰まり、施しをしてくれた教会で再び盗みを働いてしまい警官につかまるが、その罪を見逃し赦してくれた司教(コルム・ウィルキンソン)の優しさにに触れ、生まれ変わろうと決意する。
過去を捨て、マドレーヌと名前も変えながらも正しくあろうと自らを律して生きていくバルジャン。
工場主として成功を収め、市長の地位に上り詰めたバルジャンだったが、法に忠誠を誓う警官のジャベール(ラッセル・クロウ)は彼を執拗に追いかけてくるのだった。
そんな中、以前バルジャンの工場で働いていて、娘を養うため極貧生活を送るファンテーヌ(アン・ハサウェイ)と知り合い、バルジャンは彼女の幼い娘コゼット(イザベル・アレン)の未来を託される。
コゼットは宿屋を営むテナルディエ夫婦(サシャ・バロン・コーエン、ヘレナ・ボナム・カーター)によって虐待されていたが、バルジャンは夫婦に金を払いコゼットを引き取る。
ジャベールは市長がバルジャンだと見抜きパリ警察に照会していたが、バルジャンが逮捕され裁判を受けるとの知らせを受け取り、市長を疑ったことを詫びた。
バルジャン逮捕の知らせを耳にした彼は、法廷で自分の正体を明かし再び追われることになり、ジャベールの追跡をかわしてコゼットを連れてパリへ逃亡する。
バルジャンはコゼット(アマンダ・セイフライド)に限りない愛を注ぎ、父親として美しい娘に育てあげていた。
だが、パリの下町で革命を志す学生たちが蜂起する事件が勃発、マリウス(エディ・レッドメイン)はリーダーのアンジェルラス(アーロン・トヴェイト)と共に戦っていた。
マリウスと出会ったコゼットたちはたちまち恋に落ちるが、テナルディエ夫婦の娘であるエボニーヌ(サマンサ・バークス)は秘かにマリウスを慕っていた。


寸評
ビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル(ああ無情)」は僕が知る数少ない外国小説の一つである。
小説自体を読んだわけではなく、作家名と作品名を知っているということで、トルストイの「戦争と平和」、ドストエフスキーの「罪と罰」、ヘミングウェイの「老人と海」などと変わらない。
主人公のジャン・バルジャンは知っていても、彼を追いかけるジャベールの名前は記憶にない。
パン1枚を盗んだ罪で投獄され、脱獄を繰り返したために19年間も服役したという内容だけが、なぜか知識として持っていた。
原作物の映画化は無知な僕に小説のあらすじを提供してくれるのでありがたい。
それが文学史上の名作となれば、ずぼら性の僕には尚更である。
原作にある少年から金を盗むエピソードや、数度に渡る脱獄などは割愛されているとのことだが、ミュージカル形式で描かれる内容は十分に鑑賞に堪えうる内容だ。

映画ならではのスケールで圧倒される。
冒頭の囚人の労働場面の迫力などはなかなか日本映画では見られないし、その他にも後半の民衆の蜂起など迫力のシーンが満載で映画らしい。
時系列を相当省略してその間のエピソードを割愛していることは想像できるが、オペレッタ仕立てなので原作に盛り込まれたエピソードをすべて描いていたら時間がいくらあっても足りないということになっただろうから、それもやむを得なかったのだろう。
ただそのために人生の悲惨さ、無情さは薄まってしまっているように思われる。
割愛されたエピソードによるものが大きいし、マリウスが危篤状態のバルジャンのもとに駆けつける経緯も美談にすぎる描き方となってしまっていた。
原作のあらすじを読むと中身はもっと深いような気がした(ここでも僕はずぼらで、あらすじしか読んでいない)。
目立った曲目やダンスナンバーが有るわけではないが、ミュージカル映画としてのツボはしっかりと押さえられている安心できる内容で、映画版と思えば納得できる出来栄えである。

ラッセル・クロウが驚いたことに歌がうまい。
この映画で一番印象に残ったのが、このラッセル・クロウの歌声だった。
オペレッタで全編歌で語り継がれるが、その音楽と映像が見事で158分と言う長尺を感じさせない。
その正統性が2時間半を一気に見せた理由だと思う。
ジャン・バルジャンの愛の他、ファンテーヌ、コゼット、マリウス、エポニーヌのそれぞれの愛や愛おしさも伝わってきて、映画館で見た時には両隣のご婦人二人は終盤にかかるとハンケチを盛んに目に運んでおられた。
僕はエポニーヌの秘めた愛が心にしみた。
エポニーヌは狡猾なテナルディエ夫婦の娘で、幼い頃にコゼットと共に暮らした仲である。
大人になって立場は逆転していて、エポニーヌは貧しい生活に甘んじているが、性格は両親に似ず純真だ。
その彼女がコゼットを愛し始めたマリウスに秘かな恋心を抱いているという人生の皮肉。
秘めた愛で献身的に尽くしながら死んでいくエポニーヌこそ無情な人生の代表だったように感じる。
前半と同じ足元を映すシーンを挿入しながら描いたジャベールの投身自殺シーンも映画的だった。

レスラー

2020-07-27 06:23:05 | 映画
「レスラー」 2008年 アメリカ


監督 ダーレン・アロノフスキー
出演 ミッキー・ローク
   マリサ・トメイ
   エヴァン・レイチェル・ウッド
   マーク・マーゴリス
   トッド・バリー
   ワス・スティーヴンス

ストーリー
ランディ(ミッキー・ローク)は若いころ、ザ・ラムというニックネームで知られる人気プロレスラーだった。
しかし今はどさ回りの興業に出場し、スーパーのアルバイトでトレーラーハウスの家賃を稼いでいる。
ある日の試合後、ランディは心臓発作を起こす。
そして、次にリングに上がったら命の保証はないと、医師から引退を勧告される。
ランディは場末のクラブを訪れ、なじみのストリッパー・キャシディ(マリサ・トメイ)に発作のことを話す。
キャシディはランディに、家族と連絡を取るように勧める。
ランディは、唯一の身内である一人娘のステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)に会いに行く。
しかし今まで父親らしいことをしてこなかったランディに、ステファニーはあからさまな嫌悪を示す。
心臓発作の話も、彼女の怒りに火を注ぐだけだった。
その話を聞いたキャシディは、ステファニーへのプレゼントを買いに行くランディに付き合うと申し出る。
2人は古着屋でプレゼントを買い、パブでビールを飲むと勢いでキスを交わす。
ランディはその日から、スーパーの総菜売場でフルタイムの仕事を始める。
ランディがプレゼントを手にステファニーを再び訪ねると、彼女は彼を許してくれる。
しかしランディはキャシディに交際を断られ、行きずりの女と一夜を過ごした挙句、ステファニーとのディナーをすっぽかしてしまい、激怒したステファニーは絶縁を宣言する。
ランディは仕事を放り出し、自分はプロレス以外に生きる道はないのだと悟り、カムバックを決意する。
全盛期の宿敵・アヤトラ(アーネスト・ミラー)とのリターン・マッチのチャンスを掴んだランディは、試合が行われるウィルミントンへ出掛けた・・・。


寸評
クレジットタイトルのバックにあるのは全盛時のランディの活躍を伝えるタブロイド紙で、その間は栄光の時代の実況放送が流れ続ける。
場面が変わると20年後のランディの姿で、彼はすっかり歳をとり疲れ果てたレスラーとなっていて、客の入りが悪いこともあって、わずかばかりのファイトマネーを受け取る。
自宅に戻れば家賃を払えていないので入ることができない。
まったく落ちぶれてしまったことが分かるが、近所の子供たちはなついていて嫌われ者にはなっていないようだ。
ざっと今のランディの状況が描かれるが、登場した時からミッキー・ロークのランディは雰囲気全開である。
ミッキー・ロークなくしてはありえないような映画で、彼はランディそのものと思わせるし、本職は役者ではなくプロ・レスラーではないかと思わせる。
もっとも映画を見ていると、役者もレスラーも似たところがあって、ショーを盛り上げるために小道具を用意し、試合前には対戦相手と周到に試合展開の打ち合わせを行っている。
楽屋裏とでも言うべき控え室の雰囲気は、プロレス興行の実態を上手く描いていたと思う。
僕の少年時代にはゴールデンタイムにプロレス中継があり、力道山をはじめとする日本人レスラーの活躍に心躍ったものだ。
プロレスは八百長だとわかってはいるのだが、彼等の多彩な技と流血などを目の当たりにすると、つい本物思ってしまう錯覚の世界に引きづり込まれてしまっていた。
そのあたりが彼等のエンタテナーとしての腕の見せ所なのだろうが、映画ではその為の打ち合わせシーンがよく出てきて興味深い。
流血の興奮のためにカミソリを忍ばせ、自ら額に切り傷を入れて出血を引き起こす。
見た目にはエグイけれど、傷穴は小さくて出血もあまりしないステープルという巨大なホッチキスで針を体にバンバン打ち込んだりもする。
治療シーンと試合のシーンがフラッシュバックされて、プロレスラーが過酷な職業であることが分かる。

せっかく人生をやり直そうとしても現実には簡単ではない。
いったん仲直りした娘とも再び仲違いして、転職した仕事でもトラブルを起こし、もはやカムバックするしかなくなったランディ。
リングにしか自分の居場所がないことを悟って、再び元の場所に戻ろうとする姿が、言いようのない切なさと哀愁を漂わせる。
ラストシーンは死へのダイブだったのか、それともワン、ツー、スリーのカウントが聞こえたのか?
ストリッパー役のマリサ・トメイもよくて、ランディと同様に忍び寄る歳と闘いながら必死に生きる女を好演していた。
彼女の心の動きも微妙に描かれランディの試合に駆けつけた彼女が見せる表情は実によかった。
生きることは切なくもある。
生活の糧を得なければならないし、生きる気力も必要なら、自分の居場所も必要だ。
忍び寄る年齢とともに体力の衰えを感じながらも、リングに戻っていくランディの姿はほとんどの男たちが味わうものなのかもしれない。
そんな切実感もこの映画に引きつけられる要因の一つなのだろう。

レオン

2020-07-26 09:58:38 | 映画
「レオン」 1994年 アメリカ / フランス


監督 リュック・ベッソン
出演 ジャン・レノ
   ゲイリー・オールドマン
   ナタリー・ポートマン
   ダニー・アイエロ

ストーリー
ニューヨークで孤独に生きるイタリア系移民のレオンは、プロの殺し屋として、レストランの店主という表の顔を持つイタリア系マフィアのボス、トニーを介した依頼を完璧に遂行する日々を送っていた。
一日2パックの牛乳と肉体のトレーニングを欠かさない彼の唯一の楽しみは、安アパートで自分と同じように根っこを持たない鉢植えの観葉植物に水を与えることだった。
彼の隣の部屋に住む12歳のマチルダもまた、家族から疎ましがられる孤独な少女。
ある日、不気味な男スタンフィールドと部下たちが彼女の父親を訪ねて、預けたヘロインをかすめ取った奴がいると言い、明日の正午までに盗んだ奴を捜せと告げて帰る。
翌日、スタンフィールドと仲間たちはマシンガンを手にアパートを急襲し、たった4歳の弟も含めてマチルダの家族を虐殺した。
ちょうど買い物に出掛けて留守だったマチルダは帰ってみて、何が行われたか気づいた。
彼女は涙をこらえながら部屋を通り過ぎると、レオンの部屋のドアベルを鳴らし続けた。
突然の訪問者にとまどうレオンに、マチルダはしばらく匿ってほしいと頼む。
さらに彼が殺し屋だと知ったマチルダは、最愛の弟を殺した相手に復讐するために、自分も殺し屋になりたいと懇願する。
始めは断ったレオンだが、自分の正体を知った少女を殺すことも追い出すこともできず、彼女との奇妙な共同生活を始めることになる。
安ホテルに移り住んだ彼らは、互いに心の扉を開き始める。
ある時、マチルダは弟を殺した男の正体を突き止め、復讐を決行するが・・・。


寸評
冒頭でレオンがスゴ腕の殺し屋であることが描かれる。
そして孤独な彼のキャラクターが描かれ、マルチダと出会ってからイタリア系の移民である彼は無学で 文盲であることも判明する。
男がガンマンであったり、孤独な裏家業の男だったりしても、勝気な少女の敵討ちを助けるという話はシチュエーションを変えて度々描かれている。
本作もその部類の作品であり、男と少女が心を通わせていく過程がまず最初に描かれていくのはどの作品にも共通する描き方である。
特異なのは少女のマルチダが殺し屋になりたがって、レオンに銃の扱い方や射撃訓練を受けることで心を通わせていくという描き方である。
マルチダがレオンと生活を共にするようになったのは、マルチダの父親であるジョセフが麻薬を横領したことを見抜いた密売組織のスタンスフィールドとその一味によって家族全員を射殺されたからである。
一味は住民を気にする様子もなく銃をかざしてアパートに乱入してきて、ジョセフと銃撃戦になる。
他の部屋から何事かと住民は出てこないのは恐れおののいていたのかも知れないが、その様子は描かれていないのでまるで他の部屋には人がいないような感じだ。
そこで一人のお婆さんが出てくるのだが、一味の一人が脅かして部屋に追いやる。
その時に発する言葉が伏線になっていて、後ほどああそうなのねとなるのはニクイ。
スタンフィールドはジョセフの銃弾によってかすり傷を負うが、スーツをダメにされたと怒りを爆発させる異常な性格の持ち主で、悪役プンプンなのが単純明快でいい。
ゲイリー・オールドマンがキレまくってるスタンスフィールドという悪役を楽しそうに演じているのが印象的だ。
マルチダは父親から虐待を受け、母は後妻で、腹違いの姉とはウマが合わず、家族の中では孤独なのがレオンと共通している。
唯一マルチダになついていた4歳の弟を殺されたことで復讐を誓うというまでのストーリーの運びはスキがない。
自分は殺し屋だと素直に認めてしまうのだけは違和感を感じたけど・・・。

マルチダが一人で復讐を決行するところからアクションが全開となっていく。
レオンは捕まったマルチダを救出に行くが、余りにもあっけなく助け出してしまうのは拍子抜けしてしまう。
その分、最後に襲撃される場面はレオンが超人的活躍を見せ最高の見せ場となっている。
もっとも襲撃側は人質となったマルチダを盾にすればいいじゃないかと思う場面もあるが、レオンの脱出方法はグッドアイデアだ。
ダニー・アイエロが演じるトニーはレオンの理解者なのか、利用しているだけの悪人で最後に裏切っているのかよく分からないような描き方だが、最後の対応を見ると多分こっちだったのだろうなと思わせる描き方もいい。
そして学校に戻ったマルチダが、先生から嘘を言ってはいけないと言われて告白した内容に、先生が驚きの表情を見せるが、それもそんな大変な目に会っていたのかという驚きなのか、またそんなウソを言ってというあきれた表情だったのかが分からず、見る人の判断にゆだねているのも上手い演出だ。
スタンスフィールドがレオンの後ろに迫り、その後に建物の外の光景が斜めに変わるだけという演出もいい。
アメリカで撮った作品かも知れないが、フレンチ・ノワールを感じさせる演出が冴えた一遍だ。

レインマン

2020-07-25 06:54:08 | 映画
「レインマン」 1988年 アメリカ


監督 バリー・レヴィンソン
出演 ダスティン・ホフマン
   トム・クルーズ
   ヴァレリア・ゴリノ
   ジャック・マードック
   マイケル・D・ロバーツ
   ラルフ・シーモア

ストーリー
26歳の中古車ディーラー、チャーリー・バビットは、恋人スザンナとのパーム・スプリングスへの旅の途中、幼い頃から憎み合っていた父の急逝の訃報を耳にし、葬儀に出席するため、一路シンシナティへと向かう。
そしてその席で、チャーリーは父の遺言書を開封し、自分に遺されたものが車1台と薔薇の木だけという事実に衝撃をうける。
同時に300万ドルの財産を与えられたという匿名の受益者の存在を知った彼は、父の管財人であるウォルター・ブルーナー医師を訪ね受益者の正体を聞き出そうとするが、医師はそれを明かそうとはしなかった。
諦めて帰ろうとするチャーリーは、スザンナの待つ車の中にいたレイモンドという自閉症の男と出会い、やがて彼こそが受益者であり、自分の兄であることを知るのだった。
記憶力に優れたレイモンドをホームから連れ出したチャーリーは、スザンナも含めて3人でロスヘ旅することにしたが、ある日、チャーリーが遺産を自分のものにするためレイモンドの面倒を見るつもりでいることを知ったスザンナは愕然とし、チャーリーのもとを去る。
兄の後見人となることで遺産の半分を所有しようとするチャーリーは、飛行機嫌いのレイモンドとともに車で旅をすることになった。


寸評
僕は自閉症のことをほとんど知らなくて、この作品と2005年のチョン・ユンチョル監督作品「マラソン」によって知ったと言っても良い。
自閉症は病気ではなく傾向なのだと言われる先生もおられるようだが、特徴を見るとある種の障害を抱えていると言えそうで、常識や社会の暗黙のルールから外れた行動を取ってしまうようである。
1つのことを集中して行うのは得意だが、複数のことを同時進行するのは難しいとされている。
感覚の偏りもあって、聴覚、視覚、味覚などすべての感覚において敏感あるいは鈍感という傾向があるらしい。
僕がらしいとしか言えないのは、自分の周りには自閉症の人はいないし、出会ったこともないからである。
したがって作品を通じて自閉症の人の症状を知ることになるが、ある意味で超人のような気がしてくる。
この作品でもレイモンドは驚異的な記憶力を見せ、この映画に変化をもたらしていく。
もちろん記憶力が一番発揮されるのはラスベガスのギャンブル場のシーンであるのだが、レイモンドの子供の頃の記憶によってチャーリーが兄への愛情を芽生えさせていくという役割も担っている。
ギャンブルで得た金でチャーリーは会社のピンチを助けてもらい、弟は兄に感謝するようになっていく。

オープニングで高級車のランボルギーニが運ばれてきて、チャーリーは車のディーラーをやっていることが示されるが、ハッタリを効かせた販売をやる彼はかなりいい加減な男であり、台所も火の車であることが分かる。
チャーリーが300万ドルの遺産に触手を伸ばすのも判ろうと言うものである。
最初は半額の権利を主張していたが、途中からレイモンドの後見人になることで資産管理を任される立場を得ようとするのだが、どちらにしても父が残した遺産を狙っていることに違いはない。
物事を自分の思い通りにしようとする面があり、それは恋人のスザンヌに対しても同じだ。
チャーリーは父の厳格さで疎遠になったように言っているが、原因は彼のこの性格にあたのかもしれない。
物語的にどこかで彼の性格に変化がみられるようにならなければならないが、それも兄が自閉症であることによってもたらされるので違和感なく受け入れることができる。

レイモンドは自閉症で自分を上手く表現できないが、根は心優しい人物である。
多分、子供のころからそうだったのだろう。
レイモンドが施設に入れられた原因がそれとなく語られるが切ないものを感じる。
スザンヌがレイモンドに優しくするエレベーターのシーンは微笑ましい。
レイモンドは言われたことに忠実だ。
自閉症の人に「この書類に間違いがないか調べてくれ」と命じると、間違いは発見できるが訂正も報告も出来ないらしいのだが、それは訂正しろとも、報告せよとも言われていないからだとのことである。。
交差点の途中で信号が「止まれ」に変わっとき、レイモンドが渡るのをやめてしまってその場所で立ち止まってしまうシーンはそんな様子を表している。
ダスティン・ホフマンの言動がが兎に角面白く、それを引き出してしまうトム・クルーズのいらだったツッコミも愉快ではあるのだが、何といってもダスティン・ホフマンで、彼の演技なくしてこの映画はない。
数々の名シーンももちろんいいが、エンド・クレジットと共に写し出される、二人だけしか共有することが出来ないレイモンドが撮った旅の写真が醸し出す切なさが一番だ。

レイダース/失われたアーク《聖櫃》

2020-07-24 09:26:33 | 映画
「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」 1981年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 ハリソン・フォード
   カレン・アレン
   ウォルフ・カーラー
   ポール・フリーマン
   ロナルド・レイシー
   ジョン・リス=デイヴィス

ストーリー
時は1936年、第2次大戦勃発直前の混乱期。
勢力を増しつつあるナチス・ヒトラーが、最大の武器として多大な力を発揮するという伝説的なアーク<聖櫃>の行方を執拗に追っていることを知ったアメリカ側は、阻止すべくあらゆる手段を用いる覚悟でいた。
その困難な任務を受けることになったのは、インディアナ・ジョーンズ博士。
大学で考古学を教える教授である彼はアメリカ政府から、アーク発掘の要請を受け、早速エジプトに渡った。
彼は、恩師の娘で、かつて恋人だったマリオンとネパールで再会した。
早くもナチス一派の攻撃を受けた彼らは、必然的に行動を共にすることになるが、インディのかわりにマリオンが襲われ、彼女が死んで初めて彼女を深く愛していたことに気がつくインディ。
ナチス側は、腹黒いフランス人の山師ベロックを味方につけ、砂漠の廃城に発見されたアークの埋蔵地点発堀を開始したので、インディは現地へ急行する。
そこで、彼は、マリオンがまだ生きており、ドイツ軍の捕虜となっていたことを知る。
そして、敵の裏をかき見事アークを手にしたインディだったが、それもつかの間、アークを奪われると、マリオン共どもヘビの群がる神殿の奥底に閉じ込められた。
そこから脱出した2人は、軍用トラックを駆使して、再びアークを取り戻しカイロからアメリカへと向かった。
しかし、ナチスは、Uボートでインディらの乗る貨物船を襲撃、アークとマリオンをとある島へと奪い去ってゆく。
島に追いついたインディは、マリオンを助けようとして、敵に捕われてしまう。


寸評
子供だましのような映画だけれど、子供だましでもここまで本気で撮られると十分すぎるくらい楽しめる。
息をもつかせぬ活劇の連続で、映画は娯楽だと結論付けているような作品となっている。
過去に隠された宝物を見つけ出すというアドベンチャー作品はときどき見かけるが、ここでは考古学者を絡ませ、しかもその学者は腕っぷしも強くてムチを振り回す行動派として、アクション映画の主人公を強く印象付けさせている。
その学者を演じたハリソン・フォードの雰囲気が作品を盛り上げていた。
同じメロディが繰り返されるテーマ音楽も気分を高揚させた。

ナチスドイツのヒトラーが考古学的趣味と、最大の武器となる伝説的のアークを掘りだそうとしているということから、この作品は単純な冒険活劇なのだとわかる。
しかもそのアークには、モーゼの十戒が刻まれた石片が治められているというのだ。
もうこれはおとぎ話の世界である。
それを真面目にやっているから面白いし、こちらも作品にのめり込んで見ることが出来る。

インディはネパールに飛んで、この作品のヒロインであるマリオンと出会うが、ヒロインとは言ってもマリオンは極めて行動的で積極的な女性で酒にも滅法強い。
彼女はアークの存在を知るためのメダルを所持していて、そのメダルをめぐる争奪戦で活劇が開始される。
見るからに悪人と言うナチスの一派が登場してメダルを奪おうとするが、炎の中に落ちたメダルをつかんだところ大やけどをしてしまい奪うことに失敗する。
面白いのは、その悪人がメダルをつかんだ際に手のひらにメダルを写しとったような火傷を負っていたことだ。
そのことでナチスはメダルの複製品を作ることに成功している。
ところがそれは火傷痕から作った為に片面だけの複製品だったというオチがついている。
このような手の込んだ小ネタを随所に散りばめている。
登場した猿の行動にも笑ってしまう。

舞台がカイロに移ると活劇も本格化するし、ラブロマンスの様相も呈してくる。
宝物の発掘物らしく、埋蔵場所は怪奇的なものとなっている。
ドクロがたくさんあったり、毒蛇が無数にうごめいているなど趣向に事欠かない。
光が差し込んで秘密の場所を示すと言うアイデアもときどき見かけるものだが、定番として描かれていた。
インディは考古学者だが、考古学者にしては遺跡を平気で壊してしまっている。
アークが収められている石の蓋だって貴重な遺跡物だと思うが、アークを取りだすために投げ捨てている。
もはやインディは考古学者ではなくなっていて、まるで007のジェームス・ボンドだ。
そう、これは考古学に名を借りたスパイアクションで、「007/失われたアーク」としてもいいような内容の作品だったように思う。
後日、スピルバーグが007の様な作品を作りたかったと言っていたとの記事を見て納得した。

「レイジング・ブル

2020-07-23 08:44:30 | 映画
「れ」は少し思いつきました。


「レイジング・ブル」 1980年 アメリカ


監督 マーティン・スコセッシ    
出演 ロバート・デ・ニーロ
   キャシー・モリアーティ
   ジョー・ペシ
   フランク・ヴィンセント
   ニコラス・コラサント
   テレサ・サルダナ

ストーリー
1964年、ニューヨーク、バルビゾン・プラザ・シアターの楽屋で、映画「波止場」のシナリオの一節をくり返すジェイク・ラモッタの姿があったが、彼はかつて「怒れる牡牛」と呼ばれた世界ミドル級チャンピオンに輝いた男だ。
--1941年、クリーブランド。
弟ジョーイがセコンドを務めるジェイクは、黒人のミドル級ボクサーとの闘いで、相手を叩きのめしたにも拘らず判定負けをした翌日は昼間からやけ酒を飲み、彼は妻に八ツ当りをする。
そして、ブロンドの美女ビッキーと出会い、やがて2人は愛し合うようになり結婚する。
1943年、デトロイトでシュガーをKOするが、同年に行なわれた彼との対戦で今度は判定負けをした。
彼ら兄弟には、八百長試合を強いる組識という逃れられない敵がいた。
やがてその大物トニー・コモの誘惑に負けた2人は1947年、遂にマジソン・スクエア・ガーデンでの八百長試合を承諾した。
しかし1949年、デトロイトで、ジェイクはフランスの英雄に挑戦するチャンスを得る。
この世界タイトル・マッチで、ジェイクは見事チャンピオンに輝いた。
しかし、そのころから彼には、ジョーイとビッキーに対する強い嫉妬心が根ざし出し、心は沈んでいった。
1950年、辛くも防衛を果した彼は1951年、シュガーとの6度目の試合でKO負けし、1954年遂にリングを去りナイトクラブ経営をフロリダで始めた。
そんな彼からジョーイもビッキーも去り、1956年には未成年者をホステスに使った罪で独房に入れられた。


寸評
ボクシング映画には傑作が多いのだが、この「レイジング・ブル」もその中の1本であることは疑いもない。
オープニングのクレジットにかぶさって、試合前のリング上でガウンを着たままウォーミングアップのシャドーボクシングをしているジェイクの姿が映し出され、その映像にピエトロ・マスカーニのオペラが流れる。
このオープニングの身震いするくらいの美しさによってリング上でのボクサーの孤独感を出し、一気に映像の世界に引き込まれる名シーンとなっている。
この映画はストーリー云々よりも、その映像表現に凄さを感じる。
何と言ってもモノトーンの画面がいい。
白黒の映像によって試合のシーンがカラーでは表現できない迫力を生み出している。
試合会場の煙りが漂うシーン、そして殴られて血を吹き出すシーンはカラーでは表現出来ないものだ。
血が飛び散るシーンは、カラーだとオーバーになり過ぎてむしろあざとく感じてしまうことがあるが、ここにおける白黒画面は異様な迫力を生み出している。

最初の妻とステーキが焦げるぞと言って喧嘩するシーンで、崩壊する夫婦関係を描きあげ、同時にジェイク・ラモッタは根っから野獣のような粗暴さ持っている男であることを短時間のうちに示す。
そしてジェイクが弟に顔を殴らせるという無意味な行為を強要し、弟が殴りつけているのをジャズの流れる隣の部屋のドアの隙間から覗いてぞっとしている妻の姿をそっと映し込む演出にドキッとしてしまう。
この妻を捨てジェイクはヴィッキーを見染て結婚するが、ヴィッキーがある意味ジェイクにとっては運命を狂わせる発端となったのかもしれない。
ジェイクは異常なほどの焼きもち焼きで、対戦相手が二枚目だと言っただけで怒り出す。
ヴィッキーが他の男に愛想を見せると、なぜそんな態度をとるのだと食って掛かる。
挙句の果てには、弟に対してもヴィッキーと寝たのかと言い出す始末である。
美しいヴィッキーを手に入れた彼は、他の男もヴィッキーを手に入れたいはずだとの思いで彼女に猜疑心を持ち始めるのだが、それがあまりにも異常で見ていてもなんて気持ちの小さい男かと思ってしまう。

全編白黒映像の中でカラー映像が一部分に挿入される。
試合の状況はスチール写真で伝えつつ、夫婦生活の幸せをカラー映像で伝えている。
ジェイクに幸せな人生を感じないが、幸せな時期があったとすればヴィッキーと結婚したころの一時期だけだ家だったのかもしれない。
しかし、カラーになるとヴィッキーの操り人形のような存在感が透けて見えてくるから、この場面だけをカラー化したセンスに唸ってしまう。

引退後のぶくぶく太った肉体を見せるために30キロも太ったというデ・ニーロの根性にも感心させられ、やはりデ・ニーロあっての映画だ。
不本意な八百長試合をやらされ、ロッカールームで泣き崩れる姿は、直前のふてぶてしい姿を見せていただけに胸に迫るものがあり、それを感じさせるデ・ニーロの演技もスゴイ。
男の転落人生を描いているとも言えなくもないが、それだけを感じさせないのもデ・ニーロならではだろう。

ルーム

2020-07-22 09:12:13 | 映画
「る」になりますが「る」は一つしか思い当たりませんでした。

「ルーム」 2015年 アイルランド / カナダ


監督 レニー・アブラハムソン
出演 ブリー・ラーソン
ジェイコブ・トレンブレイ
ジョーン・アレン
ショーン・ブリジャース
ウィリアム・H・メイシー
トム・マッカムス

ストーリー
5歳の誕生日を迎えたジャックは、狭い部屋に母親と2人で暮らしていた。
外の景色は天窓から見える空だけ。
母親からは部屋の外には何もないと教えられ、部屋の中が世界の全てだと信じていた。
夜、二人がオールド・ニックと呼んでいる男がやってきて、服や食料を置いていく。
ママは7年前にこの男に誘拐されて監禁されていて、ジャックはこの男との子供だったのだ。
男が来るとジャックはママの言いつけで洋服ダンスの中にいる。
ママは「息子にもっと栄養を」と抗議するが、半年前から失業して金がないとオールド・ニックは逆ギレする。
さらに真夜中にジャックがタンスから出てきたことで、ママとオールド・ニックは争う。
翌朝、部屋の電気が切られ寒さに震えるなか、生まれてから一歩も外へ出たことがないジャックに、ママは真実を語る。
ママの名前はジョイで、さらに外には広い世界があると聞いたジャックは混乱する。
電気が回復した部屋で考えを巡らせたジャックは、オールド・ニックをやっつけようとママに持ち掛ける。
しかし、ドアのカギの暗証番号はオールド・ニックしか知らない。
ママは『モンテ・クリスト伯』からヒントを得て、死んだフリをして運び出させることを思いつく。
ママは、“ハンモックのある家と、バアバとジイジがいる世界”をきっと気に入ると励ます。
脱出劇は失敗しかけるが、ジャックの記憶力と出会った人たちの機転で思わぬ展開を迎える。
翌朝、ママとジャックは病院で目覚める。
ママの父親と母親が駆けつけるが、二人が離婚したことを知ってママはショックを受ける。
数日の入院後、二人はバアバと新しいパートナーのレオが暮らす家へ行く。
しかし意外な出来事が次々とママに襲い掛かる。
一方、新しい世界を楽しみ始めたジャックは、傷ついたママのためにある決意をする…。


寸評
日本でも子供が誘拐されて何年も軟禁状態に会いながら脱出し救助されたとのニュースを時々目にする。
ジョイに起きたことはもっと悲惨で、ジョイはその男に犯され子供を出産し、今もその男の慰み者となっていたのだ。
予備知識なしに見ていると冒頭の様子は仲の良い親子のやり取りのように見える。
やがてこの親子が監禁されていることが判明し、少女と思えた子供も実は男の子であることが分かる。
ジョイは部屋の外には何もなくて部屋の中だけが真実だと教えていくが、ジャックはテレビを見て知識と想像を膨らませていく。
監禁によるイライラから親子は時々ぶつかるが愛情でつながっていることが読み取れる。
悲惨な状況をこれ見よがしに見せるとか、脱出を試みるスリルを見せつけるとしないで、冷徹な目で二人の様子を描いていく演出は素晴らしいものがあった。

オールド・ニックが登場すると異常な生活が浮き彫りとなるのだが、狭い納屋が監禁場所なので男が来るとジャックは小さなタンスの中に入る。
タンスの隙間からのぞき見する様子もゾッとさせられるものだ。
男はジョイの体目当てにやってくるが、ジャックにはその行為を見せるわけにはいかない。
その為にジャックをタンスに入れているし、はやく事を終わらせるようにしている。
ジャックを守ろうとする母親の姿が痛々しい。

サスペンス劇なら、二人がどのようにしてここから脱出するのかに力点が移っていくのだが、本作ではそこを物語のピークとはしていない。
男に対する憎しみも湧いてくるし、ジャックの脱出へのトライもスリルがあり、母子が再会するシーンにも感動するのだが、それは前半の終わりに過ぎない。
それはあくまでも一つのターニングポイントで、そこからは無事に脱出した二人が部屋の外の世界に適応できず悩み苦しむ日々が描かれて、ここからが本題なのだという構成で描き方は秀逸だ。

第一は7年の間にジョイの両親が離婚していたことだ。
ジョイはその事実に困惑するし、父親はジョイ親子にどう接していいか戸惑う。
娘のジョイは、自分が苦しんでいた時に母親は楽しんでいたのだと責める。
母親は苦しんでいたのは貴方だけだったのかと叫ぶ。
両親の離婚は娘の誘拐事件に原因があったのではないかと想像させる上手いシーンだ。
マスコミも興味が先行する対応で、父親のことをどう話すのかと詰め寄るが、ジョイはこの子の親は自分だけだと突っぱねる。
それも狙いであったのだろうが、僕はマスコミの態度に嫌悪感を覚えた。
同情しているようでもありながら、市民も含め当事者以外は興味本位でしか事件を見ていないということへの弾劾でもある。

もちろんメインは初めての世界に溶け込んでいくジャックの成長だ。
脱出時にトラックの荷台から見上げた空が、部屋の天窓から見上げたものと違う驚きの表情に感動する。
何事も母に頼るジャックの姿、バアバとの交流、レオとの触れ合いなどをキッチリと丁寧に描いていく。
母の起こした事故にジャックが取る態度は彼の変化を感じ取らせるし、母に依存していた彼が母親よりも友人を選択する姿で彼の成長を物語った。
この些細な演出に僕は唸ってしまう。
ラストシーンは物理的に自由になっただけでなく、心も解放されたことを暗示する。
かつての記憶と対峙する二人を抑制的に描き、新たな世界に歩き出そうとする姿は中盤の脱出劇とは違う静かな感動をもたらした。


リンダ リンダ リンダ

2020-07-21 07:49:37 | 映画
「リンダ リンダ リンダ」 2005年 日本


監督 山下敦弘
出演 ペ・ドゥナ 前田亜季 香椎由宇
   関根史織 三村恭代 湯川潮音
   山崎優子 りりィ 藤井かほり
   甲本雅裕

ストーリー
とある地方都市にある芝崎高校。
高校生活最後の文化祭に向けて、オリジナル曲の練習を重ねて来た軽音楽部のガールズ・バンド。
文化祭を翌日に控え、恵、響子、望の3人は途方に暮れていた。
本番まであと3日と言う時になってギターの萠が怪我で、ヴォーカルの凛子が喧嘩で抜けてしまった。
その時、偶然ブルーハーツの「リンダ リンダ」を耳にした恵たちは、これなら3人でも演奏できると、急にやる気を取り戻す。
そこで、残されたドラムの響子、キーボードの恵、ベースの望は、ちょうど目の前を通りかかった韓国からの留学生ソンをボーカルに引き入れ急造バンドが誕生した。
彼女達は伝説のロック・バンド”THE BLUE HEARTS“のコピーを演ることにする。
恵の元カレのトモキが手配してくれたスタジオや、深夜の学校に忍び込んでの猛練習。
次第に4人の絆も深まっていく。
しかし文化祭3日目の本番当日、スタジオで最後の練習をしていた4人は、連日の疲れがピークに達し、ついつい居眠りして出演時間に遅刻してしまう。
だが、萠や留学生の田花子らが時間稼ぎをしてくれていたお陰で、ギリギリ持ち時間内に間に合い、こうして即席バンド”ザ・パーランマウム“は大勢のオーディエンスを前に、様々な想いを込めて演奏を開始するのであった!


寸評
ソンさん役のペ・ドゥナのキャラが断然光っている映画だ。
不機嫌そうな顔はもちろん、他人の恋愛話に興味津々な表情を示すユーモラスなかわいさも披露している。
ライブ前夜に体育館の舞台で、1人でメンバー紹介するシーンはまさに名演。
典型的な青春映画のネタで、文化祭を目前にしたボーカル不在の女子高生バンドが、本番までわずか数日の猛特訓を重ねて当日を迎える物語なのだが、スゴイ映画だったというわけではないが何故か心に残る。
どぶネズミみたいにぃ~という「リンダ リンダ」を歌うペ・ドゥナの声が耳にこびりついているのだ。
ブルーハーツの「リンダ リンダ」というシンプルながら力強さを感じさせる楽曲がこの映画の魅力高めている。
「リンダ リンダ リンダ」とリンダがひとつ多いタイトルを何となく納得させられてしまう雰囲気がある。
女子高生のバンドにかける思いと友情を等身大で描いた青春バンド・ムービーだが、入れ込むことなくちょっと間延びしたような感じとユーモアで描いている。
たわいのない会話や、一歩下がった視点で描くバンドの練習風景などが等身大の女子高生を感じさせた。
クライマックスを除けば盛り上がる場面もほとんどないし、高校生映画につきものの恋愛ごっこも深く描かれない。
恵(香椎由宇)が付き合っていたらしい男との関係も深く描かれないし、響子(前田亜季)の恋の行方もアッサリした決着のつけ方だ。
恵と凛子(三村恭代)の仲違いの詳しい背景などもはっきりと描かれていない。
それなのに、見事に少女たちのキラキラと輝く青春の一ページを切り取っていると思う。
序盤に漂う不安定な空気が次第に晴れていく感じがするのだ。
それは女子高生たちの変化とうまくリンクしていたからだと思う。
夜間練習している一連のシーンなどは、どうでもいいような会話が続けられるが、彼女たちの体温が伝わってきて青春を感じさせた。

ユーモアシーンはペ・ドゥナが独り占めしていて、筆頭は留学生ソンと彼女に好意を寄せる男子生徒( 松山ケンイチ)とのやりとりだ。
男子生徒の槙原は留学生のソンに韓国語で告白するのだが、韓国からの留学生であるソンは日本語で答える。
そして「嫌いじゃないけど、好きじゃない」と、バンドメンバーを選ぶ彼女の姿に抱腹絶倒だ。
夜間に学校に忍び込む場面でも、下から「パンツ見えてる」と言ったり、そういえばバンドに加わる時のシーンも可笑しかったなあ。 カラオケボックスでのやりとりも思わず笑ってしまった。
彼女の存在なくしては成り立たない映画だった。

雨が最後の盛り上がりを手助けするが、雨宿りのため模擬店をやっていた連中が体育館に集まってくる理由にもなっていて、わざとらしさがないのがいい。
そして、会場が「リンダ リンダ」で盛り上がった次に、彼女たちは同じくブルーハーツの「終わらない歌」を演奏するが、その歌詞がいい。
「終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため、終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために、終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため、終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように」
その歌は「リンダ リンダ」以上に彼等の心情を表していたと思う。

リリイ・シュシュのすべて

2020-07-20 09:52:53 | 映画
「リリイ・シュシュのすべて」 2001年 日本


監督 岩井俊二
出演 市原隼人 忍成修吾 伊藤歩
   蒼井優 細山田隆人 松田一沙
   高橋一生 阿部知代 市川実和子
   大沢たかお 稲森いずみ 杉本哲太
   田中要次 上田耕一 鷲尾真知子

ストーリー
カリスマ的アーティスト・リリイ・シュシュに心酔する中学2年の雄一。
学校でイジメを受けている彼は、自らが主宰するリリイのファンサイト”リリフィア”の中で交わす、青猫というハンドルネームのリリイ・ファンとのチャットに心癒されていた。
雄一をイジメているのは、星野という同級生。
1年の頃は、剣道部の部員として仲の良かったふたりだが、夏休みに仲間と出かけた沖縄旅行を経た新学期、星野は突然豹変した。
クラスの悪ガキを倒し、飯田と辻井を子分に従え、雄一に万引きなどで得た金を上納させるようになったのだ。
星野のイジメの対象は雄一だけに留まらない。
詩織もまた星野の命令で援助交際させられ、そのあがりを星野に渡していた。
更に、雄一が秘かに心寄せる陽子もまた、彼女を嫌う女子同級生の企みで星野一派にレイプされてしまう。
12月8日、リリイのライヴが代々木で開かれることになった。
チケットをゲットした雄一は、青猫と会う約束をして会場へ向かう。
ところが、そこにいたのは星野。
雄一がリリフィアの管理人であることに気づいていない彼は、雄一のチケットを奪うとひとりでライヴを楽しんだ。
会場に入ることの出来なかった雄一は、ライヴ終演後の雑踏の中、どさくさに紛れて星野を刺し殺す。
そして2001年、15歳になった雄一は淡々とした日々を送っている。


寸評
美しいピアノの旋律が流れ、美しい光景やショットも散りばめられているのに、見ていくうちに何かしら辛くなってくるし、見終っても重苦しい気持ちが残る。
ここで描かれれていた少年少女たちはリアルな14歳なのだと言えばそうなのかも知れないが、やはり異常な世界を感じてしまう。
僕が彼らの年齢の頃には経験しなかったようなことが今は起きているのかもしれないと感じさせる作品である。
イジメによる自殺、あるいは教師側の誤った指導、無責任さによって命を絶つ生徒のニュースは1年のうちに何度も目にするようになってきている。
我々の想像を超えた世界が彼らの周りに広がっているのかもしれない。

この映画に大人はあまり登場しない。
出てくる少年少女は全体の中では少数派だと思うが、ほめられた連中ではない。
それでも屈託のない明るい姿を見せるシーンもたくさんある。
夏休みに沖縄旅行を楽しむ姿などはその代表なのだが、新学期が始まると突如星野(忍成修吾)は変身する。
楽しそうに凧揚げに興じた津田詩織(蒼井優)は自ら命を絶つ。
詩織は援助交際をしているが、大人を手玉に取っているような所がある。
雄一(市原隼人)からの電話にも、下着をどうしようかと言い出す始末であるが、流す涙は切ない。
久野陽子(伊藤歩)は美人でピアノが上手いことをねたまれているのか、同級生の手引きでレイプされてしまう。
そのことに一枚かんでいる雄一の流す涙も切ないものがある。
抜け出したくても抜け出せない姿で、僕は僕自身の中に恐怖心を感じた。

星野はなぜ豹変したのかは不明である。
もしかすると家業の倒産が影響していたのかもしれないが、色んな理由で突然不良になってしまう少年はいる。
小山内先生(吉岡麻由子)は言う。
「頑張りすぎると中だるみすることがある。同じように勉強していても結果がついてこない。そうなるとズルズルと成績が下がっていく。下がればやる気がなくなって、もういいやとなってしまう」
もういいやとなると、金属疲労の針金のように突如ポキンと折れてしまう。
「先生からは、がんばれとしか言えない。今がんばらないとね」
そう言われても、どう頑張ったらいいのかわからない。
もう帰るように伝えてと言われたピアノを弾く久野にさえ雄一は言葉をかけることが出来ない。
先生は雄一と久野の間にあったことなど知らないのだ。
雄一はコンサートチケットを星野に投げ捨てられたことで、ついに行動を起こしてしまうが、星野もそうするしかない精神状況に追い込まれていたのかもしれない。
一歩違えば雄一も詩織の後を追ったかもしれないし、それを思わせるようなシーンもある。
そんなことを経験しながらも、ネット社会で何事もなかったように生きていく姿こそ恐ろしいと僕は感じてしまう。
中学生のリアルな姿を描いていたのかもしれないが、なにか未来が見えない作品だ。
なのに、どう表現していいか分からない瑞々しさがある作品でもある。

竜馬暗殺

2020-07-19 08:29:59 | 映画
「竜馬暗殺」 1974年 日本


監督 黒木和雄
出演 原田芳雄 石橋蓮司 中川梨絵
   松田優作 桃井かおり 粟津號
   野呂圭介 田村亮 外波山文明
   山谷初男 田中春男 川村真樹

ストーリー
慶応3年11月13日。氷雨の下、京の街並を走り抜けていく男がいた。
海援隊の常宿“酢屋”から“近江屋”の土蔵へ身を移す、坂本竜馬(原田芳雄)である。
佐幕派はもちろん、大政奉還後の権力のせめぎあいから、勤皇派からもさえ竜馬は“危険な思想家”として狙われていたが、近江屋へ移った竜馬は意外なほど悠然とかまえていた。
竜馬はすぐ隣の質屋に囲われている幡(中川梨絵)と知り合い、急速に接近した。
だが、幡の許に通っている男が、新撰組隊士・富田三郎(粟津號)であることは知る由もなかった。
竜馬を狙わざるを得ない立場に追い込まれたのは、友人でもある陸援隊々長・中岡慎太郎(石橋蓮司)である。
竜馬への友情を棄てきれない慎太郎は、竜馬を自分以外の男の手にはかけさせない、と決心していた。
その慎太郎には近江屋の娘・妙(桃井かおり)という恋人がいたが、妙は竜馬のかつての恋人である。
一方、竜馬を狙う薩摩藩士・中村半次郎(外波山文明)配下のテロリストに右太(松田優作)という瀬戸内の漁村から出奔した少年がいたのだが、右太は幡の弟であった。
11月14日。集団舞踏“ええじゃないか”を待つ町人や百姓たちをよそに、竜馬を狙う右太、慎太郎、そして幕府の密偵たちがいたが、狙われていることを知りながら慎太郎への友情を棄てきれない竜馬は、慎太郎に会うために女装して“ええじゃないか”の群にまぎれ込んだ。
一方、幡は痴話喧嘩のはずみで富田を殺害していた。
その頃、“権力”は慎太郎をも抹殺することを決意していた。
11月15日。この日、土蔵から近江屋の二階に移った竜馬と慎太郎は、何者かの手にかかって暗殺された。
竜馬と慎太郎を殺し、右太をも葬り去ったのは、一体何者だったのか。
“竜馬暗殺”を目撃した唯一の証人、幡は、折から叶屋になだれこんだ“ええじゃないか”にまぎれ込んで、二度と姿を現わすことがなかった……。


寸評
僕はこの映画を公開時にATGの専門映画館だった北野シネマで見たのだが、僕と黒木和雄の初めての出会いでもあり非常に衝撃を受けたことを覚えている。
坂本龍馬(作品では竜馬と表記)の暗殺については全貌が明らかになっておらず、犯人も特定されていなくて謎が多い暗殺事件である。
それだけに幕末の人気者の最後に対して自由な解釈ができる題材でもある。
黒木和雄は彼なりの解釈で薩摩暗躍説をとっている。
薩長勢力が竜馬の政治力に脅威を感じ、竜馬を生かしておくと維新を遂行した薩長勢力が追い落とされてしまうという危惧が、大久保ら薩摩の指導者に竜馬の暗殺を決意させたという推察である。
冒頭近くで薩摩藩邸が出て来て、そこで大久保ら薩摩の連中が坂本竜馬を殺す計画をたてるところが描かれる。
そこには中村半次郎もいて、自分の息のかかったものに暗殺の実行を命じているのである。
映画は1867年11月13日に殺されるまでの三日間における坂本竜馬と中岡慎太郎の行動に焦点を当て、これに想像上の人物である竜馬を狙う薩摩藩の下っ端と、その姉という女をからませ話を面白くしている。
竜馬を狙うもう一人の男として中岡慎太郎が登場する。
中岡は竜馬の盟友としてのイメージが強いが、ここでは路線の違いから敵対関係にあるとしている。
中岡は薩長に協力して武力討幕を目指しているが、竜馬は侍の権力を奪うことが目的で、薩長も倒して侍とは別の権力をたてなければならないと思っている。

公開された時期が時期だけに、僕はどうしても当時の世相と照らし合わせて見ていた。
公開日は学生運動が路線の違いから対立、内ゲバを繰り返して力をなくし衰退していっていた時期と重なる。
作中で交わされる会話も世相を感じさせるものである。
そしてモノトーンの荒い画質と無声時代劇の呼吸を字幕のリズムに重ねる手法が効果的で、近眼、革靴履きの竜馬像も新鮮である。
原田芳雄の飄々とした演技は、本物の竜馬はこうだったのではないかと思わせる。
中岡を演じた石橋蓮司は、中岡の神経質そうな雰囲気を上手く出していて、この映画は二人の演技によるところが大きい。
冒頭でフンドシ姿の原田・竜馬が桃井かおりの妙の手助けにより近江屋へと隠れ場所を移す場面が描かれるが、このワンシーンを見ただけでこれから描かれる竜馬像が推測される演出でこの映画の虜になれる。
妙を巡る竜馬と中岡との三角関係も面白い。
竜馬に乙女という竜馬が慕っていた姉さんがいたことは有名な話だが、右太は妙と近親相姦の関係にあるような描き方で、竜馬と右太の対比になっているのかもしれない。
竜馬は拳銃を修理しながら 野呂圭介の藤吉にこれからの世の中を語り、中岡慎太郎にも自分が目指す維新を語っているが、一方、屋根上では右太と「おまはんは無口じゃのう」と言いながら姉さん談義をしている。
天下国家を論じ、くだらない話もしている若者の姿は、維新の頃も公開当時の若者たちも同じだと思わせる。
竜馬暗殺の真犯人を見た妙は「ええじゃないか」で踊り狂う大衆の中に身を投げ消え去る。
かくして竜馬暗殺犯を知る人物はいなくなってしまったということだ。
ATG作品が描く友情映画の傑作でもあり、黒木の最高傑作とも言える一本だと思う。

理由なき反抗

2020-07-18 10:31:19 | 映画
「理由なき反抗」 1955年 アメリカ


監督 ニコラス・レイ
出演 ジェームズ・ディーン
   ナタリー・ウッド
   ジム・バッカス
   アン・ドーラン
   ロチェル・ハドソン
   ウィリアム・ホッパー

ストーリー
17歳の少年ジムは泥酔のため、集団暴行事件の容疑者として警察に連行された。
彼は、そこで夜間外出で保護を受けた少女ジュディや、仔犬を射って注意されたプラトン少年と知り合った。
翌朝、新しい学校であるドウスン・ハイ・スクールへ登校の途中、ジムはジュディに会ったが、彼女は不良学生のバズ、ムーズ、クランチ等と一緒であった。
その日の午後、学生たちはプラネタリウム館へ星の勉強に出掛けたが、不良仲間の反感を買ったジムは彼等のボスのバズに喧嘩を売られた。
2人はプラネタリウム館の外でナイフを手に決闘したが守衛の仲裁を受け、その夜、ボロ自動車を崖の端にフル・スピードで走らせる“チキン・ラン”と称する度胸試しをやることになった。
ジュディやバズの不良仲間が見守る中で、ジムは巧く崖際で車から脱出したが、飛び出しそこねたバズは、そのまま谷底へ落ち込んだ。
呆然としたジムはプラトンとジュディに助けられて帰宅し警察へ届けようとしたが、事なかれ主義の両親は許可しなかった。
強いて警察に出向いたジムは少年保護係レイの不在を知り、釈然とせぬまま警察を出て、秘かに空家でジュディと会った。
ムーズとクランチはジムが警察に届けるのを恐れ、プラトンを脅してジムの住居を知った。
プラトンは怒りのあまり、父親の拳銃を持ち出すと闇の中に駈け出していった。
空邸のジムとジュディは、跡を追ってきたプラトンを1室に残し、激しい抱擁を重ねた。
数刻後、ジムを追い求めるムーズたちが空家をみつけ、プラトンは発見された。
彼は家から持ち出した拳銃を追手に放ち、クランチを倒した。
間もなく附近には大掛りな警備網が張られジムやプラトンの家族や、少年保護係のレイも駈けつけた。


寸評
ジェームズ・ディーンはわずか二年のうちに撮った3本、「エデンの東」(1955)、「理由なき反抗」(1955)、「ジャイアンツ」(1956)を残してこの世を去った。
芸歴はたったの4年間、主演俳優になって半年足らずという短いキャリアと突然の死が彼を伝説のスターとした。
顔立ち、雰囲気だけで若者が持つ満たされない精神状態を表現できた稀有な俳優である。
世界的に根強いファンがいるものと思われる。
日本ではよく売られていたジェームズ・ディーンがプリントされたTシャツを着てロサンゼルスに旅行した時、お店の女性にそのTシャツを指さされ「ジミーだ」と言われたことを思い出す。
その女性もジミーことジェームズ・ディーンのファンだったように思われた。

ここでのジムも少し皮肉れたような態度を見せるが、その姿が魅力的である。
ジミーは父親を愛しているが、祖母と妻に頭が上がらない軟弱な父に失望している。
ジミーの祖母と母は父に対して尊大だが、父親は従っておいた方が家庭が円満にいくとでも思っているのか、彼女たちに気を使って生きている。
ジミーはそんな父親を情けなく思うし、意気地がないと感じている。
祖母や母は父に対して高圧的な態度をとるが、父親はそれに反抗せず、口をつぐんで従っておく方が家庭に波風を起こさないと思ているように感じ取れて、どこかでは同情する気持ちもある。
しかし強くありたいジミー、男のプライドを見せたいジミーにはダメ親父に見えてしまう。
大好きな親父なだけに尚更なのである。
一方のジュディはまだまだ父に甘えたい気持ちがあるのだが、父親は「もう大人だから」とそれを拒絶するような所があり、ジュディにしてみれば甘えることが出来る家庭がないとの気持ちになってしまっている。
理由はどうあれ、ジュディの父親の態度はひいき目に見ても間違っていると思うし、そりゃあ反抗するわと思われるような態度で、僕には父親を弁護する気持ちは湧いてこない。

親たちは自分の時代とは変わってしまった子供たちの思春期の気持ちを理解できないでいるが、子供たちはそれなりの関係を築いていく。
それは不良グループのボスであるバズがジミーを認めて気に入った態度を見せることで示されるし、バズが秘かにジミーにリクエスト曲を送っていたことで明確に示される。
しかし男の意地とプライドはそれを許さず、対決姿勢を示さねばならない。
この二人の関係こそが悲劇だ。
プラトンの誤解もあって本当の悲劇が起きるが、それを乗り越えるように親子がお互いを理解し合えるようになったという結末なのだろうが、とてもそのように思えるようなラストにはなっていない。
僕はあのラストシーンを見ると、どうしてもこの親子が分かり合えるようになったとは思えないのだ。
どこかに希望を見せるのがアメリカ映画だとの思いもあるので、どうもこのラストはしっくりこなかった。

ナタリー・ウッドはたくさん出演したけれど、僕には本作とウエストサイド物語だけがあり、その二作で印象に残る女優となっているし、ジェームス・ディーンに至ってはたった三作だけで永遠のスターとなった。

竜二

2020-07-17 09:03:32 | 映画
「竜二」 1983年 日本


監督 川島透
出演 金子正次 永島暎子 もも
   北公次 佐藤金造 岩尾正隆
   小川亜佐美 菊地健二 銀粉蝶
   高橋明 檀喧太 大塚五郎

ストーリー
花城竜二(金子正次)は新宿にシマを持つ三東会の常任幹事だった。
新宿近辺のマンションに秘密のルーレット場を開き、舎弟の直(佐藤金造)とひろし(北公次)に仕切らせ、そのあがりで優雅にやくざ社会の中を泳ぎわたっている。
その彼も、三年前は器量もなく、イキがったり暴力を誇示した結果、拘置所に入れられていた。
妻のまり子(永島暎子)は竜二の保釈金を工面するため九州の両親に泣きつき、両親は竜二と別れるならという条件で大金を出してくれた。
竜二の器量があがったのはそれからだ。
安定した生活がつづいたが、充たされないものが体の中を吹きぬけて行く。
竜二はかつての兄貴分で、今は夫婦で小料理屋をやっている関谷(岩尾正隆)にその思いをぶっつける。
「金にはもうあきた。子供や女房に会いたい」という竜二に関谷は「俺はそう考えた時、俺自身を捨て、女房・子供のために生きようと決めたんだ」と言う。
そんなある日、竜二は、新宿のある店の権利金をめぐってこのトラブル収拾を組の幹部から頼まれた。
このトラブルを見事に解決した後、竜二はカタギの世界へ踏み込んでいった。
小さなアパートを借り、妻と娘とのごくありふれた生活が始まった。
かつてとは較べものにならないほどの安月給だが、竜二にとって生まれて初めての充実した生活だった。
三ヵ月経ったある日、かっての兄弟分・柴田(菊池健二)が、竜二をアパートの前で待っていた。
シャブ中で見る陰もなくやつれ果てている彼は、竜二に金を借してくれという。
これを期に、竜二の心の中に、焦りと苛立ちが芽生えるようになった・・・。


寸評
ヤクザ映画ではあるが縄張りをめぐる抗争や、その中で行われる凄惨な殺しの連鎖が一切描かれていない。
竜二は確かにヤクザ者だが、小市民でもあり、家族を持ったことで悩む男の姿を別角度から新鮮に描いている。
優しい笑顔を見せたかと思うと一転して凄んで見せたりするのだが、そのギャップの表情がすごくいい。
竜二がヤクザな男でいる時は眉間にしわを寄せるらしくて、娘のあやが同じ表情をするシーンが愛らしい(あやを演じたのは金子正次の実のお嬢ちゃんのももちゃんである)。
僕は学生時代に配送業のアルバイトをしていたことがあり、仕事仲間に今は堅気となりトラックの運転手をしているヤクザ上がりのAさんという方がおられた。
消した刺青が消えきれなかったのか夏でも黒い七分袖のシャツをいつも着ていて、普段は実に大人しい方だったがある時、丁寧なお願いをしたにもかかわらず無視する態度をとった相手を怒鳴りつけたことがあった。
その迫力にそれまで粋がっていたチンピラのような男が震え上がって車をどけたのだが、その時僕は普段の物言いとは違う本物のヤクザの怖さを垣間見たのだった。
竜二はその時の体験を思い出させてくれる人物である。
俺も昔は悪かったと嘘吹き、若頭に可愛がってもらったと自慢気に言う男の手の甲に煙草を押し付ける竜二の表情は素晴らしい(というよりスゴイし、怖い)。
竜二はこの時、堅気は無理だと悟り、堅気の生活と決別したのだろう。
まり子があやを連れて他の主婦と共に店に並ぶ姿を見て去っていくが、その前に竜二はすでに堅気生活との決別を決めていたのだと思う。

妻子は妻の実家に帰っていたが、竜二は妻と子供の為に足を洗って堅気になろうとする。
組に引退を宣告した竜二は舎弟の直とひろしと別れのグラスを傾けている。
切断に失敗した小指を見せる直は突然、大声で泣き出す。
竜二は直の肩を叩き、酒をついでやり、両脇の2人の頭を撫でてやる。
そして竜二のつぶやく声だけが流れてくる。
「花の都に憧れて、翔んで来ました一羽鳥、ちりめん三尺ぱらりと散って、花の都は大東京です。金波・銀波のネオンの下で、男ばかりがヤクザではありません、女ばかりが花でもありません。六尺足らずの五尺のからだ、今日もゴロゴロ、明日もゴロ、ゴロ寝さ迷う私にも、たった一人のガキがいました。そのガキも今は無情に離ればなれ、一人淋しくメリケンアパート暮らしよ。今日も降りますドスの雨、刺せば監獄、刺されば地獄。…私は本日ここに力尽き、引退致しますが、ヤクザモンは永遠に不滅です…」。
なんか心に響くつぶやきだなあ。
父親は借金を頼みに来たヤクザを夫に持つ娘に、長男やその妻の手前、無条件で金を渡してやれない。
男との手切れ金の金だと偽って渡している。
母親は挨拶に来た竜二に、正座して「何があっても・・・」と声を詰まらせ娘のことを頼む。親とはつらいものだ。
ヤクサ賛歌の映画ではないが、やはり人は自分が能力を発揮できる場所で生きるべきなのだ。
竜二は住み慣れた世界でイキイキすることを、妻のまり子はひろしと会った時の竜二に感じていたのだろう。
個性と能力を発揮できる場所がヤクザ社会なのはいただけないのだが・・・。
真っ暗なスクリーンに流れるショーケンの「ララバイ」を目をつむりながら聞いた。