おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

チャップリンの黄金狂時代

2021-05-31 08:15:57 | 映画
チャップリンの映画を3本ほど。

「チャップリンの黄金狂時代」 1925年 アメリカ


監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン
   ジョージア・ヘイル
   マック・スウェイン
   トム・マーレイ
   ヘンリー・バーグマン
   マルコム・ウェイト

ストーリー
アラスカの金鉱が発見されて人々が潮の様に金堀に赴いた頃の一挿話である。
一人ぼっちのチャーリーは吹雪に遭って小屋に駆け込む。
金を掘り当てたビッグ・ジムも避難する。
小屋にいたお尋ね者は食物を探しに出て役人に出会い、役人2人を殺してジムの金鉱を掘った。
吹雪がやんで帰って来たジムがお尋ね者に頭を殴られ記憶を失った。
金を奪ったお尋ね者は谷底に落ちて自然の裁きを受けた。
チャーリーはとある町にやって来て、酒場の踊り子ジョージアに一目惚れをしてしまう。
彼はカーティスの小屋の留守番を頼まれた。
彼は自分が町中での笑い者にされている事に気付かず、ジョージアが彼に好意を持っていると信じて大晦日の晩餐に彼女を招く約束をしたが、ジョージアは彼の事を忘れ酒場で騒いでいた。
ビッグ・ジムがこの町にさ迷って来て、小屋へ連れていってくれれば自分の金山へ行けると言ったが気狂いと思った人々は相手にしない。
チャーリーは彼に遭って小屋へ連れていってくれと言われジムを伴って小屋に行った。
金鉱を発見し千万長者になったジムとチャーリーは帰りの船に乗った。
チャーリーは船上でジョージアに邂逅した。悦び。


寸評
この映画には一般上映用のサイレント版など種々の版があるようなのだが、僕が見たのは音楽とナレーション的に音声が入っているもので、サイレント版とは受ける印象が違うかもしれない。
原題が「ゴールドラッシュ」、邦題が「チャップリンの黄金狂時代」なので、金に群がる人々の醜さを滑稽に描いた作品かと思っていたら、中身は大分違った。
チャプリンは雪山にもかかわらず、山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキというトレードマークとなったおよそ雪山にはそぐわない扮装で登場するが、その姿を可笑しいと思わない。
それがチャプリンだと思って見ているからだ。
そこからいくつかのエピソードをつないで物語を進めているが、演じられているのはギャグのようなアクションで、無声映画では喜ばれたであろう喜劇映画としてうまく構成されている。

最初に描かれるのは金鉱を掘り当てようとしているビッグ・ジムとお尋ね者を交えたドタバタである。
ここでは、飢えに襲われながらも黄金を求めて狂奔する人々をチャップリンならではのギャグで面白おかしく描いている。
冒頭のチルクート峠を越える大勢の探掘者を映し出したシーンのエキストラはすごいと思わせる。
コンピューター処理が出来ず、人力に頼った時代のことで、あれだけの人数を動員するのは容易なことではなかったと思われる。
空腹のあまり、チャップリンが履いていた片方のドタ靴をゆでてかじりつき、靴ひもをスパゲティのように食べる愉快なシーンなども用意されている。
極度の飢餓感からチャプリンが鶏に見えてしまうシーンも可笑しいが、チャプリンが隠した筈のナイフが場面転換後に再び机の上に置かれている編集ミスも今となってはおかしく思える。。
お尋ね者はビッグ・ジョンの金を奪うが、天罰が下って谷底に落ちてしまうのはチャプリンの正義感だろう。

チャプリンが町の酒場にやって来てジョージアに巡り合うのだが、これが第2幕といった感じで描かれる。
ヒロインの登場で、金の話はどこへ行ったのかと言う展開である。
留守番を頼まれた山小屋にジョージアが訪ねてきて、そこでの食事シーンがあるのだが、チャプリンはロールパンにフォークを刺して足に見立てたダンスを披露する。
これが見事なフォーク裁きで、チャプリンの芸達者を垣間見た気がする。
それらの食事シーンを見ると、金の亡者を描いているより、飢えと言うものに焦点を当てているように感じる。

第3幕と言えるのがビッグ・ジョンと共に、発見していた金鉱場所を探しに行くパートである。
ここでの見せ場は、風吹に吹き飛ばされた山小屋が崖下におちそうなところで、辛うじて踏みとどまっている場面で繰り広げられるチャプリンとビッグ・ジョンのドタバタである。
チャプリン映画のドタバタは、今見るとそれほど楽しめるものではないが、サイレント映画時代では大いに楽しめたものだっただろうことは想像に難くない。
最後にハッピーエンドになり、バンザイ、バンザイで終わるのがチャプリン映画なのだろう。
ギャグ映画の古典として歴史的価値のある作品となっていると思う。


チャイナ・シンドローム

2021-05-30 07:36:21 | 映画
「チャイナ・シンドローム」 1979年 アメリカ


監督 ジェームズ・ブリッジス
出演 ジェーン・フォンダ
   ジャック・レモン
   マイケル・ダグラス
   ダニエル・ヴァルデス
   ジム・ハンプトン
   ピーター・ドゥナット

ストーリー
キンバリーはロサンゼルスのKXUAテレビ局の人気女性キャスターで、ある日、彼女は、カメラマンのリチャードと録音係のヘクターをともなって、ベンタナ原子力発電所の取材に出かけた。
広報担当のギブソンの案内で取材を開始した時に突然震動が起こり、大騒ぎの制御室の中では技師のジャックが冷静に指示を与えていた。
やがて、放射能もれがわかって原子炉が緊急停止され、その様子をリチャードが秘かにカメラに収める。
しかし、プロデューサーのジャコビッチは、このニュースを流すことに反対した。
調査の結果、その後の発電所に異常が認められないため、運転が再開されることになるが、ただ1人、ジャックだけは不安な予感を抱いていた。
ジャックは、かすかな震動を感じ、原子炉を調べにいくと、やはりポンプの一つにもれがあった。
もう少し様子をみてから運転を再開すべきだというジャックの忠告に、所長は耳をかそうともしなかった。
クビを言い渡されたリチャードのフィルムを見た物理学者のローウェル博士は、もう少しでチャイナ・シンドロームになるところだったと断言した。
チャイナ・シンドロームというのは、原子炉の核が露出した時、溶融物が地中にのめりこんでいき、地球の裏側の中国にまで達するという最悪の事故のことだ。
事故の原因追求に悩みぬいた末、ジャックは世論に真相を訴える決意をするが、何者とも知れぬ者たちが動き出し、ジャックも命をねらわれたので、彼は残された1つの手段を決行することにした・・・。


寸評
原発事故をサスペンスを持ち込んで描いた作品だが、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、東京電力福島第一原子力発電所で電源喪失が起こり冷却不能となり水蒸気爆発の可能性が高まったため、弁を開いて放射性物質を含んだ水蒸気を大気中に放出し、燃料棒も一部が溶解するメルトダウンを起こした事故を目の当たりにしているだけに、原発事故の恐ろしさをそれほど感じない内容となっているように思うが、 ジェーン・フォンダ、ジャック・レモン、マイケル・ダグラスと役者をそろえたエンタメ性豊かな作品となっている。

チャイナ・シンドロームはこの作品によって用いられるようになった造語であるが、原発事故においては度々使用されていて珍しい言葉ではなくなった。
核燃料が溶け落ち、その高熱により圧力容器や格納容器の壁が溶けて貫通し、放射性物質が外に溢れ出すことはメルトスルーとも呼ばれている。
米国の原子炉がメルトスルーを起こしたら、核燃料が溶けて地中にのめりこみ、地球の裏側にある中国にまで達する事態になるのではないかということから、チャイナ・シンドロームというネーミングになっているが、米国の裏側は中国ではないし、地球を貫くようなことは現実には起こらないのでジョークの一種と言える。

描かれたことは恐ろしい出来事なのだが、現実の原発事故ではもっと恐ろしいことが起きている。
この映画が製作された頃にはセンセーショナルだったかもしれないが、今見ると甘いものに見えてしまう。
制御室では暴走を始めたシステムに慌てふためくシーンが用意されているが、福島原発事故時の事務所の様子は僕の知りうる限りの報道においてもはるかに緊迫の度合いは高いものだったように思う。
本社や政府から飛び込んでくる間違った指示に対して、当時の吉田所長が電話応対で了承の返事をしながら、部下には適切な指示をしていた事実などはまさにそれだ。
手作業の操作が必要となり、放射線濃度の高い場所へ行かねばならなくなった時に、自らの命を懸けて向かった職員の存在などもその一端である。
水蒸気爆発を避けるためにベントを行うかどうかの判断も迫られていた。
文字起こしをするだけでも、映画で描かれた以上の緊迫感が伝わってくるのだ。
福島原発の事故を目の当たりにした後にこの作品を見ると、原子力発電の危険性そのものの恐ろしさと、そしてそれを隠そうとする「組織」の隠蔽体質の恐ろしさが、まさに現実のものとそっくりなのに驚いてしまう。
組織とは東京電力であり日本政府だ。
映画では娯楽的要素を盛り上げるために電力側は人殺しまで試みる。
現実がそこまでは行くことはないにしろ、とにかくどんな手を使ってでも自分たちにとって不都合・不利益な真相は揉み消したいという願望は映画も現実も似たようなものだろう。

電力会社の会長を初めとする経営陣、トップからの命令に従わざるを得ない組織人の発電所の所長、同じく会社人間の広報担当者などが、抗うことを忘れてひたすら事故の隠ぺいに走り出す。
組織と言う見えない魔物の恐るべき力だ。
会長はテレビカメラや記者たちを現場に入れるが、同時にSWATも要請しジャックを射殺させている。
この両極端を同時に行うアメリカという社会は、別の意味で恐ろしい社会のような気がした。

チェ 28歳の革命

2021-05-29 10:41:26 | 映画

「チェ 28歳の革命」 2008年 アメリカ / フランス / スペイン


監督 スティーヴン・ソダーバーグ
出演 ベニチオ・デル・トロ
   デミアン・ビチル
   サンティアゴ・カブレラ
   エルビラ・ミンゲス
   ジュリア・オーモンド
   カタリーナ・サンディノ・モレノ

ストーリー
1955年7月、メキシコ。
持病の喘息を抱えながらも、ラテン・アメリカの貧しい人々を救いたいと南米大陸の旅を続けるアルゼンチンの医師エルネスト・ゲバラと、独裁政権に苦しむ故国キューバの革命を決意するフィデル・カストロは、フィデルの弟ラウルを介して運命的な出会いを果たす。
キューバで革命を起こすことを決意した二人は翌年の11月、わずか82人で海を渡りキューバに上陸するが、壮絶な緒戦の末、生き残った仲間は12人。
一方、迎え撃つ独裁者バティスタ将軍の軍隊は2万人であった。
しかし、カストロ率いるゲリラ軍は、次第にキューバの人々に受け入れられていく。
その中心にいたのは、チェという愛称で呼ばれ、軍医としてゲリラ軍に参加したチェ・ゲバラだった。
彼は、山中にあっても農民たちに礼節を尽くし、女性と子供には愛情を持って接し、若き兵士に読み書きを教え、裏切り者には容赦ないが、負傷兵には敵味方の区別なく救いの手を差しのべた。
やがてその類まれなる統率力を認められ、司令官として部隊を率いるチェ・ゲバラ。
後に妻となる女性戦士アレイダ・マルチにも支えられながら、彼の部隊はカストロからキューバ革命の要となる戦いを任せられる。
それは、大都市サンタクララを陥落しキューバを分断せよ、という指令だった。
そして1959年1月1日、チェ部隊がサンタクララを占領。
バティスタ独裁政権は崩壊する。
彼らはこの瞬間、強者の圧制がまかり通る世界の現実を変えたのであった。


寸評
エルネスト・ゲバラ、通称チェ・ゲバラの名は革命家として僕の脳裏に刻まれているが、それが何故なのかよく分からない。
ゲバラは日本にも来ているが、それは1959年のことで子供の僕はそのことを知るよしもなく、日本歴訪によって彼の名が植え付けられたものではない事は確かだ。
思い起こせば彼の名を忘れさせないのは、20世紀において最も多くの複製が行われた写真とも言われるアルベルト・コルダが撮影した「英雄的ゲリラ」と題されたチェ・ゲバラの写真だったのではないかと思う。
あるいはそれを基にしたポップ・アートかイラストだったのかもしれない。
エルネスト・ゲバラがいかなる人物なのか、キューバ革命はどのようなものだったのかも知らずにチェ・ゲバラの名前だけは記憶された。

この映画では軍医としてゲリラ軍に参加したゲバラが革命軍の司令官となって進軍していく様が描かれている。
モノトーン映像が挿入されるがそれは革命後にキューバ主席として国連総会に出席している姿である。
進軍の様子は過去を振り返るような形を印象付けながらカラー映像で描かれていく。
見ている限りにおいては、革命軍はたいした戦闘もせずに戦いの分岐点になるキューバ第2の都市サンタ・クララに突入している。
それまでは森や山中を進んでいく姿や、野営地での様子などが描かれ続けるが至って平穏だ。
時に政府軍の爆撃などもあるが、学校を開いたり識字が出来ない兵士に勉強を進めるゲバラの人となりが描かれている場面が多い。
裏切り者には厳しいが、農村部の人々や味方は勿論、敵にも慈悲を見せるゲバラだが、画面から伝わってくるのは土や草の匂いで、ドキュメンタリー風な映像は観客である僕を彼らと同じ場所に導いてくれる。
彼らが存在している場所の空気を感じさせる映像が迫ってくるのだが、それでもやはり前半は間延び感がある。
間延びを感じてしまうのは多分僕がキューバ革命にそれほどの興味を抱いていないせいかもしれない。

後半に入り、ゲバラが率いる部隊がサンタ・クララに近づいてくると、市街戦の模様が俄然迫力を出してくる。
当時の市街戦はこの様なものだったのだろうと思わせる描き方がとてもリアルに感じる。
砲弾が飛び交う派手なものではなく、銃撃によって路上で一人がバタッと倒れるのがリアリティをだして、銃撃戦の恐怖を感じさせる。
作中にキューバを率いることになるフィデル・カストロと弟のラウル・カストロも登場するが、深く描かれておらずゲバラとの関係はよく分からなかった。
ラウル・カストロは2021年4月、共産党トップの第1書記から退任すると明らかにし、キューバ革命以来60年余りにわたって兄のフィデル・カストロと共にキューバを率いてきたカストロ兄弟による統治が終わることになった。

サンタ・クララを制圧した革命軍はハバナを目指すが、途中で赤いスポーツカーを奪ってきた兵士と出くわす。
ゲバラは敵のものでも盗んではいけないと言い、引き返して返却するように命じる。
ゲバラが「なんてことだ・・・」とつぶやくが、革命が成功したときからすでに革命軍の中にゆるみが生じていることを示していて興味深いし、スポーツカーの赤い色は革命の成就を感じさせ強烈だった。

第2部として「チェ 39歳 別れの手紙」がある。

チェイサー

2021-05-28 07:30:21 | 映画
「チェイサー」 2008年 韓国


監督 ナ・ホンジン
出演 キム・ユンソク
   ハ・ジョンウ
   ソ・ヨンヒ
   チョン・インギ
   パク・ヒョジュ
   キム・ユジョン

ストーリー
デリヘルを経営している元刑事のジュンホは、店の女の子たちが相次いで失踪する事態に見舞われていた。
やがて最後に会ったと思われる客の電話番号が同じ事に気づくジュンホ。
そして、その番号は直前に送り出した子持ちのデリヘル嬢ミジンの客とも一致していた。
ほどなくミジンとの連絡が取れなくなり、心配したジュンホはミジンの行方を追う。
すると、通りで不審な男ヨンミンと遭遇する。
そして、男が問題の電話番号の持ち主であることを突き止めたジュンホは、格闘の末に男を捕縛、2人はそのまま駆けつけた警官に連行されていく。
「女たちは俺が殺した」と告白するヨンミンだが、自供のみで物的証拠はない。
そして右往左往する刑事たちに、ヨンミンはミジンがまだ生きていることをほのめかす。
ヨンミンの拘束時間はわずか12時間。
刑事たちが死体を捜すことに躍起になる中、ジュンホだけはまだ生きているはずのミジンを必死に探しまわる。
そして証拠があがらぬままヨンミンが釈放される。
ヨンミンの行く場所に必ずミジンがいる。
ヨンミンVSジュンホの決死の追撃戦がはじまった。


寸評
登場人物にすごくリアリティ感があった。
美男美女が登場する犯罪映画ではない(ミジンのソ・ヨンヒは美形だが)。
生々しい人間たちが動き回る。
韓国の街の雰囲気が映画とマッチして緊迫感を出すことに貢献していた。

官僚組織の権威主義やメンツ主義と警察の失態なども描かれるが、それらを告発する映画ではない。
たしかに元刑事で、いまは出張ヘルスを経営しているジュンホが警察のやり方を非難し自らミジンを探し回るが、その事は警察の無能ぶりを際立たせるのではなく、むしろジュンホ自身のバイタリティやキャラクターを際立たせていた。
彼は自分の経営するデリバリーヘルスの商品である女たちを取り返すために奔走していたが、やがてそれは元刑事の本能を呼び起されてミジンを探しているように思われてくる。
ミジンの娘の存在がそんな変化を補佐していたし、キム・ユジョンがそのしっかり者の娘好演していて後半を盛り上げる。
気の強いその少女が泣き叫ぶ車中のシーンは心を打った。

ハ・ジョンウが演じた犯人のヨンミンはどこか「羊たちの沈黙」のレクター博士を思わせるところがあって興味深かった。
婦人警官の生理を嗅ぎわけるその道の異常者振りを普通に演じていて不気味さを一層醸し出していた。
演出はスピーディでオープニングから一気にたたみかけて飽きさせることがない。
シーンごとのカット割りも素晴らしく音楽も効果を盛り上げる。
エンディングも実にいい。
絶望でもあり、希望でもある、余韻を残すエンディング処理だった。

実話をモデルとした連続猟奇殺人事件だが残酷シーンを直写して射幸心をあおるような安易な演出をしていないところが良い。
これがデビュー作だというナ・ホンジン監督の力量は並々ならぬものがある。
まさか、この一作で終わってしまう監督ではない事を祈って次回作を楽しみにしたい。

チィファの手紙

2021-05-27 06:03:14 | 映画
「チィファの手紙」 2018年 中国


監督 岩井俊二
出演 ジョウ・シュン
   チン・ハオ
   ドゥー・ジアン
   チャン・ツィフォン
   ダン・アンシー
   タン・ジュオ

ストーリー
姉チィナンが死んだため、妹チィファは姉の同窓会に出かけてそのことを伝えようとするが、機会を失っているうちに姉に間違えられてしまう。
途中で帰ったチィファを、チィファが憧れていたイン・チャンが追いかけてきた。
チャンが姉に恋していたことを知るチィファは姉のふりを続け、連絡先を交換する。
チャンが送ったスマホのメッセージを見たチィファの夫ウェンタオは激昂し、スマホを破壊してしまう。
そのため、チィファはチャンと連絡がとれなくなってしまった。
チィファは住所を明かさず、チャンからもらった名刺を頼りに一方的に手紙を送る。
チィナンをモデルにした小説で小さな文学賞を受賞したチャンは、今も彼女のことが忘れられず小説家として低迷していた。
チャンはチィファがチィナンでないことを見抜いていた。
チィナンの死を知らないチャンは、チィファが姉のふりをしていることを不思議に思う。
チィファの娘サーランは冬休みの間、祖父母の家でチィナンの娘ムームーと過ごすことになる一方で、ムームーの弟チェンチェンは、チィファのもとで冬休みを送ることになった。

チャンはチィナンたちの実家に手紙を送ってみた。
しかし、その手紙をサーランとムームーが開封し、無邪気にチィナンの名で返事を書き始めた。
手紙のやりとりを通して、中学生時代の二人の恋が浮かび上がる。
転校生だったチャンは、学校一の美少女チィナンに一目惚れし、チャンの妹と親交のあったチィファを通してラブレターを届けてもらおうとしていた。
ところが、何通渡しても返事がない。


寸評
岩井俊二が1995年に撮った「Love Letter」とよく似たシチュエーションの映画である。
現在のチィファとイン・チャン、過去のチィファとイン・チャンに加えてチィナンとの間に起きた出来事を、岩井自身の手になる音楽にのせて紡いでいく。
思春期の淡い恋を描いた作品は歳を取っても懐かしさも手伝って微笑ましく見ることができる。
中学時代のイン・チャンは秘かにチィナンに思いを寄せているが中々言い出せない。
やっとの思いで妹のチィファに手紙を託すが、イン・チャンに気のあったチィファは手紙を渡していない。
この三角関係はよくわかる。
チィナンはイン・チャンが思いを込めて見つめていたことを気付いていたのも分かる。
大学で二人は再会していたことが語られているが、その時の二人はどんなだったのだろう。
イン・チャンは思いが強すぎて、上手く話せなかったし何もできなかったのかもしれない。
チィナンはそんなイン・チャンをじれったく思って、強引なジャン・チャオと一緒になってしまったのかもしれないなと、勝手な想像をめぐらした。
もしかしたら誰もが疑似体験しているような事ではないかとも思う。
まったく描かれていないイン・チャンとチィナンの学生時代はぎこちない恋の日々だったのだろうか。
この様な話には、つい自分を重ね合わせてしまう。

イン・チャンがチィナンを秘かに思っていたのと同様に、チィファも秘かにイン・チャンを思っていて、その思いを初めて伝える場面は分かっているとは言えほろ苦いものだ。
告白して拒絶されるのは辛いものだが、その結果を予想しながらの行動が切ない。
そして物語にはチィナン、チィファ姉妹の子供たちである、ムームー、チェンチェンとサーランが登場する。
彼らにも思春期の悩みや思いがある。
ムームー、チェンチェンには母親を亡くした悲しみがある。
サーランには好きな人が居て、その人の前に出るのが怖くなって不登校になりそうなのである。
ムームー、チェンチェンは母親の遺書ともいえる手紙によって勇気づけられ新たな生活に踏み出すだろう。
サーランは小説の内容を聞いて登校を決意し、もしかしたら告白するかもしれない。
若者たちに希望が湧く結末は、見ていて清々しい。
ホッとしてしまう結末である。

二人が結ばれなかった理由は何処にあったのだろう。
イン・チャンはチィナンをモデルに、題名もストレートにして小説を書いている。
チィナンはその小説と、イン・チャンから貰った手紙を後生大事に持っていた。
そこまで思いあっていたのなら結ばれても良かったのに、一体彼らの間に何があったのか。
ジャン・チャオの言葉からしか想像できないが、やはりイン・チャンは優柔不断だったのだろう。
ムームーが「あなたがお父さんだったらよかったのに」という言葉と、ジャン・チャオがイン・チャンに浴びせる言葉は対極にあるように思う。
イン・チャンが持つ彼の二面性をそれぞれが言っているのかもしれない。

日本版として「ラストレター」がある。

地上最大のショウ

2021-05-26 08:03:31 | 映画
「地上最大のショウ」 1952年 アメリカ


監督 セシル・B・デミル
出演 チャールトン・ヘストン
   ベティ・ハットン
   ジェームズ・スチュワート
   コーネル・ワイルド
   ドロシー・ラムーア
   グロリア・グレアム

ストーリー
世界最大のサーカスとして知られているリングリング・ブラザース=バーナム・アンド・ベイリー一座に、新しく空中曲芸の名人セバスティアンが加わることになった。
この一座にはもともとホリーという空中曲芸のスターが人気を集めており、ホリーはやがて来るセバスティアンに中央のリングを譲ることを快く思わなかった。
ホリーを愛している座長のブラッドにしても同じ気持ちなのだが、サーカスのためには仕方のないことだった。
負けん気のホリーは芸の力でセバスティアンに勝とうと激しい稽古に励んだが、彼女の姿をいつも心配そうに見つめているのは道化師のバトンズだった。
彼は普段も扮装をおとしたことがなく謎の人物であった。
一座に加わったセバスティアンは芸にかけても女にかけても相当の腕前で、踊り子のフィリスなどは彼の関心を買おうとつとめた。
リングのホリーとセバスティアンの芸争いは1日ごとに激しくなり、とうとう無暴な芸を試みたセバスティアンは負傷してしまい、ホリーはまた中央のリングに返り咲いた。
この頃からホリーはセバスティアンに同情をよせるようになり、ブラッドから遠ざかった。
この様子を見た象使いの女エンジェルはかねてからの想いを果たそうとブラッドに言いよったが、これを嫉妬した象使いのクラウスは、ある日彼女を象に踏みつぶさせようとして、その場でクビになった。
恨みに思たクラウスによってサーカス列車は衝突事故を起こして多数の死傷者を出し、猛獣が逃げ出した。


寸評
これぞ娯楽作と叫びたくなるような作品で、ミュージカルを髣髴させる演出があったと思えば、スペクタクルあり、ロマンス有りで、2時間半という上映時間を堪能出来る。
僕が知るサーカス団と言えば、子供のころから存在している「木下大サーカス」で、今でも近くの緑地公園で時々1か月公演にやってきているのだが、この映画で描かれたようなスケールのものではない。
作品中のサーカス団はまるで遊園地のような遊戯施設も併設できるような規模を持った組織であるようだ。
1000人以上の人員を擁し、彼らが会場を設営していく様子はドキュメンタリー番組を見ているようで、映画のストーリーと離れて興味津々で見ることができるシーンとなっている。
出し物の紹介として描かれるショーの映像も楽しむことができ、サーカスとはこのようなものなのかという臨場感を生み出していて、これまたストーリーと離れて楽しめるシーンとして挿入されている。
小気味よい編集で本筋を上手い具合に補完している。

本筋はサーカスの花形である空中ブランコのトップを巡るホリーとセバスティアンの争いに加え、持て男のセバスティアンを巡る恋模様だ。
中央リングを巡る争いは文字通りの主軸だが、それを補う男女の絡みが色物として趣向を凝らして描かれる。
ホリーと座長のブラッドとは恋仲なのだが、ブラッドはサーカス団のことで頭がいっぱいでホリーにのめり込むことはなく、その事にホリーは不満である。
最後でこの立場が逆転する描き方は、常道的と言えばそれまでなのだがスカッとする描き方で面白い。

以前にセバスティアンと関係があったと思われる女性団員は何人かいて、象使いのエンジェルもその一人の様なのだが、ホリーに冷静なアドバイスを与える姿には嫉妬のようなものは感じ取れない。
登場する女性の中では、至極まともな女性に見える。
それに比べれば、この映画のヒロインともいえるホリーは、一時はセバスティアンになびくような所があってちょっと意外な描き方である。
まともと思えたエンジェルもブラッドに言い寄る一面が描かれ、この一団の男女関係は乱れているんじゃないのかと思ってしまう。
これにエンジェルに一方的な思いを寄せる象使いの男クラウスなども絡んで、ホリーとセバスティアンのトップ争いと違い、男女の関係を描いたパートは入り組んでいて、展開があっちへ行ったりこっちへ行ったりだ。
もともと男女の関係はそのようなものなのかもしれない。

そしてもう一つ、欲張り的に描かれるのがジェームズ・スチュアートの道化師を巡る物語である。
早い時期に彼の母親との対面場面が描かれ、母親によって彼が警察に追われている身であることが明かされる。
センチメンタルな描き方で締めくくられるが、彼が追われていると言う緊迫感は出ていない。
盛り込み過ぎるような演出からすれば、サスペンス要素としてもっと描き込んでも良かったのかもしれない。
クラウスが列車を襲う話も緊迫感は薄いから、サスペンス要素は意図的に削いでいるのかもしれない。
制作された時代を考慮すると、よくできた作品だと思うし、今では作られることのないだろうなと思わせる雰囲気を持った懐かしさを感じさせる作品となっている。

小さな恋のメロディ

2021-05-25 07:25:02 | 映画
「小さな恋のメロディ」 1971年 イギリス


監督 ワリス・フセイン
出演 マーク・レスター
   ジャック・ワイルド
   トレイシー・ハイド
   シーラ・スティーフェル
   ジェームズ・コシンズ
   ロイ・キニア

ストーリー
舞台はイギリス。
伝統的な価値観を受け継ぐパブリック・スクールで、ささやかな対立がはじまっていた。
厳格な教えを説く教師たちや子供に干渉する親たちと、それらに従うことなくそれぞれの目的や楽しみを見つけようとする子供たち。
どちらかと言えば気の弱い11歳のダニエルもそんな生徒の一人だったが、同じ学校に通うメロディという少女と出会う。
二人はいつしか互いに惹かれあい、悩みを打ち明け、はじめて心を許す相手を見つけたと感じた。
純粋ゆえに恐れを知らない恋の激しさはやがて騒動を巻き起こし、旧弊な大人を狼狽させる。
事情を聴くこともなく押さえつけようとする大人たちに対し、二人は一つの望みを口にする。
それは「結婚したい」という驚くべきものだった。
「どうして結婚できないのか」と問うが当然親も教師もとりあわない。
ある日、教師が授業を始めようとすると教室はほとんどもぬけらの空であった。
自分達の手で2人の結婚式を挙げようと同級生らが集団でエスケープしたのである。


寸評
高校生や大学生の恋模様を描いた作品は数多くあるが、これはもっと若い小学生の淡い恋心を描いている。
マーク・レスターは白人特有の真っ白な肌と、愛くるしい顔立ちが可愛く日本でも大人気となり、チョコレートのテレビコマーシャルが評判だった。
ダニエルのマーク・レスター、メロディのトレイシー・ハイド、トムのジャック・ワイルドはその後の作品にも恵まれず役者をやめていったが、やめてからも友人としてずっと交流を持ち続けたということを聞き及ぶと何だかうれしくなってくる。
マーク・レスターはこの前にキャロル・リードの「オリバー!」を初め何本かの作品に出ていているのだが、あえて言えばこれ1本という感じ。
「小さな恋のメロディ」は映画史に燦然と輝く作品ではないが、ザ・ビー・ジーズの歌声と共に僕たちの世代の者にとっては何故か記憶に残る作品となっている。
僕はビートルズ世代だが、ビー・ジーズもまた青春時代のグループだった。

少年たちはイタズラ好きで、少女たちは何処の国でもそうなのだろうが男の子より少しおませである。
そろそろ異性を意識し始める年代で、誰にでもあった少年少女の頃を瑞々しく描いていて微笑ましい。
彼等の純真さを際立たせるように、登場する大人たちは少々だらしない。
ダニエル一家が食事する場面では、大人たちは卑猥な会話や税金をごまかす話などをしているし、ダニエルの母親は福祉活動をしているが訪問した家庭を誹謗中傷しているといった具合だ。
ダニエルは気の弱い11歳の男の子だが、メロディに恋い焦がれてしまう。
彼にとってはメロディは初恋の相手だ。
ちなみに僕の初恋の相手は小学4年生の時のクラスメイトのⅠさんだった。
この頃に子供たちは初恋を経験しているのかもしれない。
宿題をやってこなくてお仕置きを受けたダニエルが泣きべそで出てきた後、友達のトムを振り切ってメロディと初デートに出かける。
メロディが好きだと言いまくっているダニエルのときめきが伝わってくるし、好きだと言うのを人づてに最後に聞くのは嫌で直接最初に聞きたいというメロディの大人びた言葉に胸キュンとなってしまう。
二人は学校をさぼって遊園地や海岸で遊ぶが、見ている僕たちは完全に二人に乗り移ってしまっていて、あの頃の自分を重ね合わせている。
僕もこんな思い出を作っておけばよかったと・・・。

二人にとっての結婚とはずっと一緒に居たいということなのだが、大人たちに諭されても「適齢期まで待っているとつまらない大人になってしまう」と言う。
そして分からず屋で気取っているだけの大人たちへの子供たちの反乱が始まる。
子供たちの中でなぜ一人だけ教室に残っていて、正直に皆が集まっている場所を告げてしまうのか疑問に思うけれど、彼の作った爆弾が子供たちの勝利を宣言する。
二人が漕ぎ出すトロッコは草むらを突っ走っていくが、二人がこれから迎えるであろう社会の荒波を表しているように思えてくるので、思わず「いつまでも仲良く、頑張れよ!」と声をかけたくなる。

小さいおうち

2021-05-24 09:09:20 | 映画
「ち」の続きです。
第1弾は2019年10月27日の「チェンジリング」から11月7日の「「沈黙 SILENCE」」まででした。
興味のある方はバックナンバーからご覧ください。

「小さいおうち」 2013年 日本


監督 山田洋次
出演 松たか子 黒木華 橋爪功 吉行和子
   室井滋 中嶋朋子 あき竹城 松金よね子
   笹野高史 ラサール石井 林家正蔵
   吉岡秀隆 妻夫木聡 木村文乃 夏川結衣
   米倉斉加年 小林稔侍 倍賞千恵子

ストーリー
大学生の健史(妻夫木聡)は、亡くなった大伯母・布宮タキ(倍賞千恵子)から彼女が遺した自叙伝を託される。
タキは東京郊外にあった少しモダンな三角屋根の家で女中として働いていた当時の思い出を大学ノートに書き記していた。
そこには、健史が知らない戦前の人々の暮らしと若かりしタキ(黒木華)が女中として働いた家族の小さな秘密が綴られていた――。
昭和11年、山形から東京へと女中奉公に出たタキは、小説家の屋敷に1年仕えた後、東京郊外の平井家に奉公することに。
その家は、赤い三角屋根が目を引く小さくもモダンな文化住宅。
そこに、玩具会社の重役・雅樹(片岡孝太郎)とその若い妻・時子(松たか子)、そして幼い一人息子の恭一(秋山聡、市川福太郎)が暮らしていた。
3人ともタキに良くしてくれ、タキはそんな平井家のためにと女中仕事に精を出し、とりわけ美しくお洒落な時子に尽くすことに喜びを感じていく。
ある年の正月。
平井家に集った雅樹の部下たちの中に、周囲から浮いた存在の青年・板倉正治(吉岡秀隆)がいた。
美術学校出身の心優しい板倉に恭一がすぐに懐き、時子も妙にウマが合って急速に距離を縮めていく。
タキと時子の穏やかな暮らしは、この青年の出現により変化する。
時子の気持ちが揺れ、恋愛事件の気配が漂う中、タキはある決断をする…。


寸評
映画を見終わって僕は、冒頭の部屋の後片付けのシーンを思い出し、タキは復員した板倉に会っていたのではないかと想像した。そして板倉はいまでも時子を愛していることを知ったのではないかと思ったりした。
彼女が長く生きすぎたと嘆くのは、自分の犯した罪への贖罪だったのか、自分の思慕の感情に対する欺瞞だったのか…。
おもえば、この映画は伏線があちこちに張られていた。
小説家の小中先生はタキに、女性から来た手紙を奥様に見つからないようにそっと引きだしに入れていた気のきいた女中がいたという話を聞かせている。時子の友人のユキには「好きになってはいけない人を好きになってしまったのね」と語らせている。それらはタキの行動の暗示でもあり、板倉の気持ちを言っているようでいて、タキの気持ちを言い当てているようでもあった。
それらの想像の世界が上手く処理されていて、山田洋次の職人芸を感じさせた。
貧しくても懸命に生きる家族は山田監督の永遠のテーマだと思うのだが、この作品では初めてと言ってもいい家族の中の秘密をテーマにしている。
「たそがれ清兵衛」で見た時と同様で、その新鮮さが作品の出来を押し上げている要素になっているなと感じた。
実は前作の「東京家族」を見て、これで山田洋次の時代も終わったかなと感じていたのだが、この作品を見ると円熟味を増した職人の雰囲気を感じることが出来て、やはり安心して見ることが出来る数少ない監督の一人だと再認識した。

描かれている世界は、中の上といえるプチブルジョアの家庭で、往年の小津映画の世界を髣髴させる。
そしてその世界は、健史が度々「そんなわけないだろ」と言うように、一般的な時代認識とは違う世界なのだが、多分現実にはこんな家庭もあったのかも知れない。
事実、私の母も戦時中に食べ物や品物で困ったことはなかったと言っていた。
百姓家で食べ物は豊富だったし、それと引き換えることで日用品は手に入ったとも言っていた。
時代の変遷は語られるが、日本が逼迫していく状況は描かれることはない。それでもラストで年老いた恭一が語るように不幸な時代だったのだ。時代がそれぞれの幸せを奪っていったのかもしれない。
そんな時代に決して逆戻りしてはいけないという山田監督のメッセージでもある。
時代が許さなかった恋愛を静かにみつめるまなざしを強く感じる作品に仕上がっていたと思う。

常務である板倉の家に、度々社長が訪問して騒いでいるのになぜか違和感があった。
普通は常務が社長の家を訪問するんじゃないかな?僕が長くサラリーマンをやりすぎたのかな…。
時子はどんな思いでダンナである雅樹と抱き合って焼死していったのかな?
僕はどうせ死ぬなら最も愛した人に抱かれて死にたいなあと思ったりした・・・。
黒木華がこの作品でベルリン国際映画祭の最優秀女優賞を取ったとのことで、この話題が僕をしてこの映画にいざなったのは事実。「日本昆虫記」の左幸子、「サンダカン八番娼館」の田中絹代、「キャタピラー」の寺島しのぶに続く4人目ということなのだが、4人並べると黒木華だけが少し路線が違うような気もするが、でも彼女はむしろこれからが楽しみな女優さんである。
松たか子はますます艶っぽくなってきて良くなっている。二人とも飛びきりの美人でないのがいい(ゴメンナサイ)。

暖流

2021-05-23 10:41:41 | 映画
「暖流」 1957年 日本


監督 増村保造
出演 根上淳 左幸子 野添ひとみ
   小川虎之助 村田知栄子 船越英二
   清水谷薫 品川隆二 大山健二
   小杉光史 春本富士夫 丸山明宏

ストーリー
日疋(根上淳)は病床にいる恩人の志摩博士(小川虎之助)から病院の建てなおしを依頼され何年ぶりかで東京の土を踏んだ。
病院内は院長の息子泰彦(船越英二)の無能をよいことに、その腐敗は目にあまるものがあった。
日疋は看護婦の石渡ぎん( 左幸子)と知り合い、彼女から病院内の情報を手に入れることになった。
やがて日疋はぎんから愛情を寄せられるようになったが、彼は院長の娘啓子(野添ひとみ)に憧れに近いものを抱いていた。
啓子の婚約者笹島(品川隆二)の素行をなかば義務のように調べたが、その女性関係は乱脈をきわめていた。
日疋はそれを啓子にありのまま伝えたが、啓子はかえって日疋を軽蔑した。
そんな啓子も笹島の情事の現場に出あってから笹島の求愛を退けるのだった。
院長の死は病院乗っ取り派の連中にはもっけの幸だったが、日疋は関西の資本家を動かすことに成功、新院長も決定し、乗っ取り派を追放することができた。
病院が新しい組織と陣容で立ち直ったのを見た日疋は辞表を提出することに決めた。
病院をやめて派出看護婦となった石渡ぎんは、最後の機会にと啓子を呼び出したが、啓子も今では日疋に愛情を抱くようになっていた。
二人は互いに日疋との結婚を胸に秘めて、冷い空気の中で別れた。
志摩家を訪れた日疋は、陽の傾いた波打際で、啓子から愛情を打ち明けられたが、「あなたは僕のことなんか考えないで、どこまでもあなたの夢を育てなさい。今日あなたとこんな静かに会えるのは、きっと僕が、石渡君と結婚の約束をしたからなんですよ」こう語るのだった。


寸評
非常に有能な男が何不自由なく育った令嬢にひかれながらも、ひたむきな愛情を注ぐ下層の女性と結ばれると言う恋愛ドラマの王道のようなストーリーなのだが、受ける印象はまったく別なものである。
登場人物たちは皆、どこか嫌味のある者たちばかりである。
日疋は孤児だった自分を援助してくれた病院長に恩義を感じて志摩家の借財の整理と病院の立て直しに辣腕を振るうが、当人は自信過剰で感情を表に出さない男だ。
啓子は清楚な令嬢なのだろうがブルジョア娘のいやらしさがある。
石渡ぎんは病院で起きていることを嗅ぎまくるしたたかな女で、下品とも思える笑い声を発する。
病院長の妻は後妻で優柔不断、何事にもオロオロするばかりでまともな判断が出来ない。
院長の息子泰彦は見るからに道楽息子という感じで、義理の母をよいことに金をせびるダメ男である。
もちろん病院の乗っ取りを企む事務長や医師たちは論外だ。
それぞれのキャラクターは際立って強調されている。

中心は根上淳の日疋、野添ひとみの啓子、左幸子の石渡ぎんである。
この三人の性格は正三角形の頂点に居るような感じで、それぞれに際立った差異がある。
日疋は偶直なまでに感情をコントロールする男である。
自分が納得していないことでも金の都合をつけてやるし、志摩家に忠告はしても強要することはしない。
啓子に対する思いも顔に出すような所がない。
啓子も日疋と同じように感情を押し殺す女性だが、その時にとる態度は日疋とは全く別で自分の気持ちと反対の言動、態度を取ってしまう。
啓子とは逆に感情を思い切り表に出すのが看護婦の石渡ぎんである。
野心的なものを感じさせる女性で日疋に取り入っているように見えるが、それは純粋に日疋への愛ゆえだったのだとわかる展開に、僕は意表を突かれた思いがした。
同様に高慢だった啓子が日疋に愛を打ち明けるながら拒否されて去っていく展開も予想外だった。
どちらも僕の読みが甘いと言わざるを得ない。
スッキリしない感情を持ちながら見ていた作品だが、一番感動をもたらしたのは、去っていく啓子の後姿を映し続け、そしてそのあと義母とかわす一連のやりとりのシーンだった。
お嬢様としての清らかさと、自我を持った強い女性を感じさせた。
このシーンい出会って、僕はやっとのことで、この映画のヒロインは啓子の野添ひとみだったのだと改めて知らされた思いがした。
日疋は結局石渡ぎんを選ぶことになる。
この期に及んでの石渡ぎんはやけにしおらしい。
今迄の彼女と全く違う女の姿である。
強い! 雑草のような女である。
この後、彼らはどのような生活を送るのだろう。
平穏で幸せな家庭なのか、それともドロドロの人生になってしまうのだろうか。
ドロドロを連想させる描き方があっても面白かったかもしれない。

探偵はBARにいる

2021-05-22 10:36:45 | 映画
「探偵はBARにいる」 2011年 日本


監督 橋本一
出演 大泉洋 松田龍平 小雪 西田敏行
   田口トモロヲ 波岡一喜 有薗芳記
   安藤玉恵 並樹史朗 竹下景子
   吉高由里子 カルメン・マキ
   石橋蓮司 松重豊 高嶋政伸

ストーリー
札幌・ススキノ。
この街の裏も表も知り尽くした“俺”(大泉洋)は、グータラな男・高田(松田龍平)を相棒に探偵稼業を営んでいる。
探偵は、いつものように行きつけのBAR“ケラーオオハタ”で相棒兼運転手の高田と酒を飲みながら、オセロに興じていた。
携帯電話を持たない彼との連絡手段は、もっぱら彼が入り浸るBARの黒電話。
ある夜、その黒電話に“コンドウキョウコ”と名乗る女からの奇妙な依頼が舞い込む。
職業柄、危険の匂いには敏感なはずが、簡単な依頼だと思い引き受け、翌日実行。
だがその直後に拉致され、雪に埋められ、半殺しの目に遭ってしまう。
怒りが収まらぬ探偵の元に、再び“コンドウキョウコ”から電話が入る。
その依頼を渋々こなし、自力での報復に動き出した探偵と高田は、知らず知らずのうちに事態の核心に触れていくことになる。
調べを進めていく探偵は、その過程で謎の美女沙織(小雪)と大物実業家・霧島(西田敏行)を巡る不可解な人間関係と陰謀の匂い渦巻く複数の事件に行き当たる。
そして、探偵は4つの殺人事件にぶつかる……。
果たして“コンドウキョウコ”は何を目論んでいるのか。
事件と事件のつながりは何なのか……。


寸評
映画が始まるといきなり主人公の探偵"俺"が逃亡しているシーン。
紙切れの札束で依頼された写真を買い取ろうとしたところ、それがバレてボコボコにされているのだ。
そこに突如、松田龍平の高田が助けにやってくるが、高田は滅茶苦茶強い。
冒頭のこのシーンは、主人公の探偵"俺"とその助手高田のキャラクターを強烈に印象付けるアクションシーンだ。
とにかくこの映画の面白さはこの二人、大泉洋演じる探偵と松田龍平演じる助手のキャラクターにつきる。
探偵はハードボイルドを気取っているが、どこか抜けていてハチャメチャな行動を繰り返す。
そのクセ、どうしても許せないことに対しては真剣に怒りをぶつける男だ。
相方の高田は北大農学部の助手でいながら空手道場の師範もやっているが、いつも眠ってばかりいる男である。
高田がクールで無口であるのに対し、探偵の方は饒舌でドジもするし、強そうな奴に追われると、ひたすら逃げまくるという人間くささを持っているという対比が魅力的だ。
そんな2人による絶妙な掛け合いが最大の見どころになっていて、思わず笑ってしまうやり取りが満載だ。
雪に埋められていた探偵が毛布を持ってきてくれと頼んだら、高田は畜産科のくさい牛の毛布を持ってくる。
探偵がそれをなじると「人間のものと言わなかったから」「そんなこと言わなくてもわかるだろ」・・・。
高田が運転するポンコツ車に、2人で優しく話しかけてエンジンをかけるシーンなども笑わせる。

アクションは本格的で、かなり壮絶なバイオレンスシーンもあるが、ミステリーとしての魅力には欠ける。
最後にどんでん返しがあるものの、事件の構図そのものはそれほど凝ったものではないし、探偵たちによる謎解きの過程もごく普通で、そのことが特別に印象的な作品ではない。
コンドウキョウコと名乗る女性が誰であるは最初から想像がつくし、その女性の目的もおおよその察しがつく。
ましてや導入部で、探偵のナレーションが「この電話はキョウコが死ぬまで続いた」と言っているから、そのへんがミステリーとしての弱さだと思うが、ハナからそんな路線は狙っていなかったのだろう。
滑稽さが表に出てきているが、案外とシリアスな場面をキッチリ描いているので、笑えるシーンとシリアスな場面のメリハリある展開が観客を引きつける。
そして前述のふたりのキャラとやり取りがスクリーンを覆い尽くすというのがこの映画の魅力になっていると思う。
それに納得すれば、この映画は十分に楽しめる内容だ。
こういう探偵ものは好みである。
脇役も魅力的で安藤玉恵のエロ全開なウェイトレスには大笑いしてしまう。

ラストはドンデン返しというほどのものではないが、スタイリッシュかつ哀愁漂う銃撃シーンで盛り上がりはある。
ラストに流れるカルメン・マキの歌が印象的で、「時には母のない子のように」のカルメン・マキを劇中で本当に久方ぶりに見ることができて懐かしかった。
懐かしさに浸っていたら、もひとつオマケシーンが・・・。
大泉洋はこんな役がよく似合う。
彼が示す偽名刺の名前が一瞬写り “桑畑三十郎” となっていたが、これは黒澤の「用心棒」の主人公の名前なので、探偵は依頼人を守るということの一種の表現だったのかな。
そうだとすれば、やけに楽屋落ち的なお遊びだなあ。

誰も守ってくれない

2021-05-21 06:13:17 | 映画
「誰も守ってくれない」 2008年 日本


監督 君塚良一
出演 佐藤浩市 志田未来 松田龍平 石田ゆり子
   佐々木蔵之介 佐野史郎 津田寛治 東貴博
   冨浦智嗣 木村佳乃 柳葉敏郎

ストーリー
親子4人で暮らしていた船村家の幸福は、未成年者の長男が小学生姉妹殺人事件の容疑者として逮捕されたことで無惨にも崩れていく。
衝撃を受ける両親と沙織に群がるマスコミと野次馬たち。
一家の保護のため、東豊島署の刑事である勝浦と三島は船村家に向かう。
容疑者保護マニュアルに沿って船山夫婦は離婚、改めて妻の籍に夫が入ることで苗字が変わる。
中学生の沙織も就学義務免除の手続きを取らされて、同い年の娘を持つ勝浦が保護することになる。
皮肉にも勝浦の家庭も崩壊寸前の状況で、その修復のために娘の美奈が提案した家族旅行の予定もこの事件によって反故になろうとしていた。
マスコミの目を避けるため逃避行を続ける勝浦と沙織だが、どこへ逃げても居所をつきとめられる。
インターネットの匿名掲示板では、船村家に関する個人情報が容赦なく晒されていった。
心労のため保護の目をかいくぐって自殺してしまう母、そしてそれを知った沙織は、ますます錯乱する。
勝浦がたどりついたのは、伊豆のペンションだった。
主人である本庄圭介と妻の久美子のひとり息子は、3年前に勝浦が担当する事件で殺害された。
勝浦の失態は、自身と本庄夫婦の心に大きな傷を残していた。
秘密裡であるはずの二人の行動はネットに依存する野次馬たちの悪意に追跡されていた・・・。


寸評
導入部がシャープな映画はのめり込み安い。
この映画もオープニングシーンから緊迫感を映し出して一気に引きこむ。
背後に流れるテーマ曲が盛り上げて、手持ちカメラの多用によってドキュメンタリー性を醸し出す。
被害者家族と加害者家族という相反する家族に降りかかる苦悩。
本作は加害者の家族に焦点を当て、家族の絆を浮かび上がらせていく。

マスコミとネット社会の暴走にさらされる15歳の少女の姿を描きながら、暴走するマスコミやネット社会を強調しすぎる演出も見られるが、その非現実さをそれぞれの設定でカバーしている点が評価対象の一つだ。
ディテールの不自然さはあるが、わかりやすい展開にしてエンターティメント性を高めようとしているのだと思う。
「加害者の家族も同罪だ」と新聞記者に叫ばせているが、いくらなんでもそのような発言をする記者はいないだろうと思う。
ところが、この記者は子供が学校でイジメを受けて目下不登校になっている事情を抱えており、「学校はいじめられた側よりいじめた側を守った」とつぶやかせて、なんとか前言の不自然さを補っている。
ネット社会の異常性と信じられない行動に、「ネットでは情報に一番近い奴がカリスマだ」と叫ばせてフォローする。
そして主人公の勝浦が過去に出会った事件との絡みが深みをもたらしていて、自らもそうであることで一生追いかけられるという事を証明している。
相棒刑事の松田龍平はピアスにとっぴな髪型、おしゃれなコートと到底刑事には見えぬ風体。
一方、主人公を助ける木村佳乃などは、会話に意味不明なフランス語をまぜる奇天烈なキャラクターだ。
リアリティを追求する観客にとっては疑念を差し挟む余地のある映画だが、これは楽しませる映画なのだ。

カーチェイスなどもあり見どころを蓄えたよくできた脚本だと思うのだが、過去の被害者夫婦はダンナが切れる場面が有るとはいえ、少し立派すぎないか?
両親の離婚手続き、再婚手続きで姓の変更を行い、就業免除手続きを一気に行うあまりの手際の良さに本当なの?と疑ってしまう。
勝浦の家族の絆もかろうじて繋がっている状態なのだが、それを一切登場しない沙織と同年代と思われる娘の携帯電話による会話で示し、つなぎ止めるための小道具であるプレゼントが効果的に用いられていた。
徐々に痛んでいくパッケージを修復する姿は、家族を守り続ける姿の象徴でもあった。

最後に勝浦の手に渡されるのは映画として当然の成りゆきなのだが、なんとか彼の家族も修復をきたすことを願ってやまない気持ちにさせるラストも良かったと思う。
彼女は自分で自分を守らなければいけないが、しかしそれはけっして孤独だということではない。
どんなにひどい仕打ちを受け、傷つけられても、温かい手を差し伸べてくれる人がどこかに必ずいるはずだ。
そんなことを感じさせてくれる。
重いテーマながら見事にエンタティンメント化したいい作品だと思う。

ダラス・バイヤーズクラブ

2021-05-20 08:23:59 | 映画
「ダラス・バイヤーズクラブ」


監督 ジャン=マルク・ヴァレ
出演 マシュー・マコノヒー
   ジャレッド・レトー
   ジェニファー・ガーナー
   デニス・オヘア
   スティーヴ・ザーン
   グリフィン・ダン

ストーリー
1985年、アメリカ南部に位置するテキサス州ダラス。
電気工でマッチョなロデオカウボーイのロン・ウッドルーフは酒と女に明け暮れ、放蕩三昧の日々を送っていた。
多くの女性と性行為を重ねた末、ある日、体調を崩した彼は、突然医者からHIVの陽性で余命30日と宣告される。
ほかの多くの人同様、エイズは同性愛者がかかる病気と信じていたロンにとって、それはあまりにも受け入れがたい事実だった。
突然の事態に驚き、生きるためにエイズについて猛勉強するロン。
アメリカでは認可されている治療薬が少ないため代替治療薬を求めて向かったメキシコで、未認可医薬品やサプリメントを密輸できないかと思いつく。
同じくエイズ患者であるトランスセクシュアルのレイヨンとともに非合法組織ダラス・バイヤーズクラブを設立し新薬の提供を始めたところ、友人や顧客のおかげでネットワークはどんどん拡大し、ロンは日々世界各国を飛び回って特効薬を探していた。
しかしそんな彼に司法当局は目をつける…。


寸評
ロンは余命30日と宣告されながら7年も生きた。
いわゆる難病者だが、政府と闘った偉人伝でもなければ、お涙頂戴の感動物語でもない。
態度も悪く、下劣な言葉を吐き、国や製薬会社の愚かさを批判しながら、生きるために前へ前へと進んでいくロンのバイタリティーに圧倒されるエンタメ性に富んだ作品だ。
アカデミー賞の主演男優賞に輝いたマシュー・マコノヒーの演技だけでも観る価値ありの映画だ。
ゲイの青年役のジャレッド・レト、女性医師役のジェニファー・ガーナーもなかなかな演技で、この三名の出演者が素晴らしい。

ロンの生き様を示すと同時に、社会批判的な要素も込められているが、肩をこらさずに楽しめる映画になっている。
ロンはまるでビジネスマンで、世界をまたにかけて飛びまくっている。
あらゆる手立てを使って薬を国内に持ち込んでくる。
なんと、日本にまで触手を伸ばしていた。
自ら生きるためではあるが、一方で金もうけのためという側面も描いているので単純なお涙頂戴物語になっていないのだろう。

僕は日本の厚生労働省に大いなる疑問を持っている。
薬事行政に関して絶大な権限を持っているので、その政策に懐疑的であるのだ。
メタボ診療など、どうも利権と結び付いているような事柄が多い役所だと感じていて、すべてに懐疑的なってしまっているのだ。
そんな気持ちが根底にあるので、ロンがそれらしい機関と対決していく様に拍手を送りながら見ていた。
もしかすると、そのあたりが、僕がこの映画を楽しめた第一要因だったのかもしれない。

エリザベス・テイラーの抱擁されてエイズで亡くなったロック・ハドソンの名前が度々出るが、偏見時代の象徴として描かれていたのだろう。
ロンの最後を描くことはなく、その後多様な治療薬が認められるようになったこと、ロンが7年も生きたことがテロップで示される。
ラストがロンの末期などではなく、彼が破れながらも拍手で迎えられるシーンだったことは押し付けがましくなくて感動的だった。
でも、あの女医さん、結局その後はどうなったのかなあ・・・。
ちょっと気にかかる。

他人の顔

2021-05-19 07:32:27 | 映画
「他人の顔」 1966年 日本


監督 勅使河原宏
出演 仲代達矢 京マチ子 平幹二朗
   岸田今日子 岡田英次 入江美樹

ストーリー
奥山常務(仲代達矢)は新設工場を点検中、手違いから頭と顔を繃帯ですっかり覆われる大火傷を負った。
彼は顔を失うと同時に妻(京マチ子)や共同経営者の専務(岡田英次)や秘書(村松英子)らの対人関係をも失ったと考えた。
彼は妻にまで拒絶され、人間関係に失望し異常なほど疑い深くなった。
そこで彼は顔を全く変え他人の顔になって自分の妻を誘惑しようと考えた。
病院の精神科医(平幹二朗)は仮面に実験的興味を感じ、彼に以後の全行動の報告を誓わせて看護婦(岸田今日子)と共に仮面作成を引受けた。
彼は頭のレントゲンを受けながら、ふと以前見た映画中の旧軍人精神病院で働く美しい顔にケロイドのある娘(入江美樹)が、ある夜戦争の恐怖におびえてか兄(佐伯赫哉)に接吻を求め、そして夜明けの海へ白鳥のように消えていった姿を思い出すのだった。
そして彼は或る日医者がホクロの男(井川比佐志)の顔型を借りて精巧に仕上げた仮面をつけて街へ出た。
ビヤホールでは女給の脚に目を奪われたが、医者はそれを仮面の正体の現われと評した。
彼はアパートに二部屋をとり他人になりきろうとしたが、管理人(千秋実)の精神薄弱の娘(市原悦子)に包帯の男だと見破られたが、会社の秘書が気付かないと分ると、彼は妻を誘惑し姦通した。
妻を嫉妬し激しくなじると、彼女は初めから夫であることを知っていたと告げ、立去った。
彼は夜更けの通りを歩きながら、「自分は誰でもない純粋な他人だ」と咳き、衝動的に女を襲った。
巡査は診察券を持つ彼を気違いと思って医者を呼び、医者は仮面の返還をせまった。
彼がこばむと「君だけが狐独じゃない。自由というものはいつだって狐独なんだ。剥げる仮面、剥げない仮面があるだけさ」と彼を避けるように歩き出した。
更に医者が「君は自由なんだ。自由にし給え」と言うと、彼はいきなり医者からナイフを奪うと刺し殺した。


寸評
最近は町のあちこちにカラスが出没している。
しかも1羽2羽とかではなく、5羽6羽とたむろして生ゴミなどをあさっている姿を見かけるのは珍しくはない。
僕が見る分には、それら群がっていいるカラスの判別がつかない。
一度飛び去って再び飛来した時に見分けることは至難の業である。
一体、彼らは仲間の判別を何に基づいて行っているのだろうと思う。

僕たちは人の判別を、大抵の場合その人の顔で行っている。
体つきや声色はそれを補足しているに過ぎない。
仲代達矢は大やけどを負い、顔を包帯で覆われているため顔による判別がつかなくなっている。
しかし、きわめて特異な姿だから、その姿で当人を特定できる。
秘書の村松英子からすれば、包帯で顔全体を覆った男は常務なのだと判断するのは当然だ。
男はその安易さを執拗に責める。
顔を失ったことで、相当根性がゆがんでしまっていることを匂わせる。
男のひがみ根性は妻にも向かう。
しかし、妻もケロイドを負った夫を拒絶している。
それは若い女を誘惑しようとした男たちが、その女性のケロイドを負った顔を見てたじろぐ姿と同様だ。

本来の顔を失くしてしまったことは男のコンプレックスとなっている。
コンプレックスは大抵の人が持っている感情だろう。
それが解消されれば随分と精神状況が変わるのではないかと想像は出来る。
髪が薄いことを嘆いている人がフサフサ頭になったらどうだろう。
音痴の者が何かのきっかけで歌が上手くなったらどうか。
運動が苦手でドンクサイと馬鹿にされていた者が徒競走で一番を取れるようになったらどうか。
勉強ができないとさげすまされていた者が一流大学に合格すればどうだろう。
おそらく当人の態度は変化みせるだろうし、なにより周囲の見る目が違ってくるに違いない。
男は仮面を得て他人になることで、抱いていたコンプレックスを取り除く。
取り戻した自信によって、男の目は女性の足に向かう。
医者は男に仮面をつけた他人となった証だと告げるが、顔を変えることは別人格となる事なのだろうか。
本能的な精神薄弱の娘は顔が変わっても人格は変わっていないことを見抜く。
おそらく妻もすぐさま見抜いていたのだろう。
ケロイドを拒絶していても夫を愛していたのかもしれない。
妻は仮面を夫の優しさだと思っていたが、夫は妻への復讐に利用している。
この映画は妻との関係に重点を置いているが、人間の素晴らしさを称賛している内容ではない。
さりとて、人間が持ってしまっている恐さのようなものを感じさせないのは欠点だ。
僕はラストの医者の叫びが分からなかったし、ケロイドの少女の登場もよく分からなかった。
僕は安倍公方作品が理解できないのかもしれない。

タクシー運転手 ~約束は海を越えて~

2021-05-18 07:33:58 | 映画
「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」 2017年


監督 チャン・フン
出演 ソン・ガンホ
   トーマス・クレッチマン
   ユ・ヘジン
   リュ・ジュンヨル
   パク・ヒョックォン
   チェ・グィファ

ストーリー
戒厳令下の1980年5月、民主化を求める学生と民衆による大規模なデモが各地で起こり、韓国西南部の光州では市民を暴徒とみなした軍が市内の出入口を封鎖し厳戒態勢を敷いていた。
その頃、妻に先立たれた陽気なソウルのタクシー運転手のキム・マンソプは、幼い娘を抱えて経済的に余裕のない毎日を送っていて社会の出来事には無関心だった。
家賃を滞納し、その金策に苦慮していたマンソプに耳よりの情報が飛び込む。
「光州へ通行禁止時間までにドイツ人を乗せて行ったら、その人が10万ウォン(約1万円)を支払ってくれる」というものだった。
マンソプは話をつけていた同業の運転手を出し抜いて彼を乗せ、英語もわからぬまま光州に向かった。
マンソプはタクシー代を受け取るために機転を利かせて検問を通り抜け時間ぎりぎりで光州に入る。
光州の治安は悪化の一途をたどっていた。
「危険だからソウルに戻ろう」とマンソプは訴えるが、ピーターは大学生ジェシクと光州のタクシー運転手ファンの助けを借り、撮影を始める。
状況は徐々に悪化し、1人で留守番をさせている11歳の娘が気になるマンソプは焦るが、目の前で起きているデモの生々しい様子を世界に伝えようと夢中で取材しているピーターにはマンソプのそんな思いが伝わらない。
思い余ったマンソプはピーターを置いて走り去るが、ほどなく見つかってしまいピーターらに糾弾される。
最初はお金目当てでピーターと行動を共にし、デモは北朝鮮を支持する「アカ」のやっていることとしか見ていなかったマンソプは、兵士がデモの参加者に発砲し、さらに殴る蹴るの暴行を加える姿を目の前で見て考えを変えていく。
外国人とすぐ分かるピーターが危険を承知で取材を続ける一方、彼のために寝泊まりする場所を提供する面倒見のいい地元光州のタクシー運転手一家や音楽好きのデモ学生らと触れあううちに、平凡なタクシー運転手だったマンソプは「真実」を伝えることの意味に気付いていく。


寸評
光州事件を当時の日本ではどのように報じていたのか僕の記憶の中にはないのだが、僕の関心が薄く記憶の外に追いやられてしまっているのかもしれない。
韓国映画では光州事件を時々取り上げており、僕の事件に対する認識は後年に知りえたものである。
この作品は事件を伝えたドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターとタクシー運転手の交流を描いている。
韓国の歴史に残る暗黒の事件だけに重たい映画なのかと思いきや、滑り出しは何ともおおらかな滑り出しである。
ソン・ガンホ主演の政治がらみ作品として「大統領の理髪師」(2004年)を思い出すが、ソン・ガンホが主演するとどこか滑稽な内容になり、それでいながらシリアスなものを感じさせるという作品になるようで、この作品も正にそんな感じだ。

マンソプは片言の英語が話せるが、ピーターは韓国語がわからないので、まともなコミュニケーションが成立せず、そのすれ違いが数々の笑いを生む。
前半はまるで喜劇映画の様相なのだが、中盤になってそのムードが一変する。
描かれるのは、市民や学生たちの抗議活動の現場。
彼らを軍は実力で押さえつけようとし、ピーターはその現場をカメラに収めようとする。
マンソプやピーターたちも追われることとなり、サスペンスとしてのスリルが加味されてくる。
陽気な滑り出しとはまったく違う映画になり、軍が市民に銃撃、暴行するシーンは迫力たっぷりで、自然と憤りが湧き上がってくる。
実写を思わせるこの演出はスゴイとしか言いようがない。

重いはずの映画に、地元のタクシー運転手の自宅に招かれて絆を深める何ともほほえましい心温まるシーンを挿入して観客を引き止めるが、逆に映画を軽くしている側面も併せ持っていた。
ソン・ガンホの前半における軽妙な演技から一転して、中盤以降はシリアスな様相を呈してくる。
冒頭の楽しい歌と対比するように、悲しい歌を歌いながら涙するシーンが観客の胸を打つ。
再び光州に入ったマンソプは、カメラを回すことをやめたピーターを叱咤激励してもう一度立ち上がらせ、さらに、最前線に立って命がけで傷ついた市民を救おうとする。
光州からの脱出シーンでは、スリリングなカーアクションや銃撃戦まで飛び出し韓国映画の面目躍如である。
市民や学生はやられっぱなしだが、実際は武器庫などを襲って武器を手に入れかなり応戦していたようで、映画では市民側の反撃は描かれていない。
光州事件は誰によって引き起こされたのか知らないが、半ば内戦状態だったのかもしれない。
笑いと涙、スリルと恐怖、そして感動などのさまざまな要素をバランスよく詰め込む韓国映画のエンターティメント性がいかんなく発揮されている。

全斗煥によるクーデター後の話で、やはり軍事政権は問題ありなのだ。
この様な作品が撮られているので韓国の民主化も進んだと思われるが、昨今の政治運営を見ていると、1272まだまだ未熟なものを感じる。
では、日本は成熟しているのかと問われれば、「それもなあ・・・」という気持ちになってしまうのは情けない。

太陽の墓場

2021-05-17 06:07:20 | 映画
「太陽の墓場」 1960年 日本


監督 大島渚
出演 炎加世子 津川雅彦 伴淳三郎
   佐々木功 川津祐介

ストーリー
大阪の小工場街の一角にバラックの立ち並ぶドヤ街がある。
安っぽい看板を下げた建物の中では、愚連隊風の若い男ヤスに見張らせて、元陸軍衛生兵の村田が大勢の日雇作業員から血を採っていた。
花子がそれを手伝った。
ポン太は三百円払うのが仕事だった。
動乱屋と称する男は国難説をぶって一同を煙にまき、花子の家に往みつくことになった。
ヤスとポン太は最近のし上った愚連隊信栄会の会員で、この種の小遣い稼ぎは会長の信から禁じられていた。
一帯を縄張りとする大浜組を恐れる信は大浜組の殴り込みを恐れてドヤを次々に替えた。
二人は武と辰夫という二人の少年を拾い、信栄会に入れた。
仕事は女の客引きだった。
ドヤ街の一角には、花子の父寄せ松、バタ助とちかの夫婦、ちかと関係のある寄せ平、ヤリとケイマ達が住んでいた。一同は旧日本陸軍の手榴弾を持った動乱屋を畏敬の目で迎えた。
花子は動乱屋と組んで血の売買を始めたが、利益の分配でもめ、信栄会と組んだ。
信の乾分の手で村田は街から追い出された。
動乱屋のもう一つの仕事は、正体不明の色眼鏡の男に、戸籍を売る男を世話することだった。
その戸籍は外国人に売られ、その金で武器を買い、旧軍人の秘密組織を作るのだと豪語した。
戦争や革命を夢みて、目的なく生きる人々が集まった。
やがて信栄会は内部分裂し、信と花子は喧嘩別れした。
仲間のパンパンのぶ子をつれて大浜組に身売りしようとしたヤスは信に殺された。
武はこの世界に嫌気がさしたが、その武に花子の心はひかれた。
村田をひろい上げた花子は、動乱屋と組んで再び血の売買を始めた。
バタ助は動乱屋に戸籍を売ると、その金で大盤ふるまいをして、首を吊った・・・。


寸評
東の山谷に対して西の釜ヶ崎は最下層の日雇い労働者たちが巣食う場所だ。
どこからがセットで、どこまでがロケかと思わせる釜ヶ崎の雰囲気がこの映画の半分を占めている。
釜ヶ崎で撮影を行ったことがこの作品に価値を付く加えていると感じるくらい釜ヶ崎のリアル感がいい。
そのリアル感でもって釜ヶ崎の住人を演じている役者たちが本当の住人に見えてくる。
寄せ松・伴淳三郎 、寄せ平・渡辺文雄 、バタ助・藤原釜足、動乱屋・小沢栄太郎、村田・浜村純、泥棒・田中邦衛、バタ屋・左卜全、ちか・北林谷栄などがなりきっていた。
ボロボロの薄汚れたシャツを着ている彼らに比べると、炎加世子の花子や津川雅彦の信がかっこよく見えるし、川津祐介のヤスや佐々木功の武などもまだましなように見えてしまう。
それくらい釜ヶ崎の住人たちは喘いでいる。

「太陽の墓場」というタイトルは「太陽の季節」に対抗したものなのかもしれない。
上流階級層がリードした「太陽族ブーム」の影で、世の中には戦後の成長に取り残された多くの国民がいるのだと叫んでいるようだ。
花子は「世の中変わるんか! ここにいるルンペン野郎達は救われるんか!」と叫ぶ。
「死んだら終わりや」と言いながら、過酷な現実を生き抜く主人公花子はひどく冷徹に見えてしまう。
実際、花子の周りを取り巻く人間たちは、いとも簡単に死んでいってしまう。
彼女自身は、自分が生きていくためには他人の命などどうでもいいようですらあるのだ。
花子を演じた炎加世子の性的魅力と強さが際立った作品だ。
無敵と思える花子も結局は隣に男が必要な女で、彼女のそばには常にワルをやらかす男がいる。
女の強さを描くと同時に弱さも描いて、女の持つ両面をうまく写していた。

悲しげに鳴り響くギターがなんともいえない雰囲気を醸し出し、長い静止ショットを繰り返すカメラワークは役者の様々な表情を捉えている。
その表情からは不満や嘆きはあっても、希望の光を見出すことはできない。
清毒合わせ呑むとは時々耳にする言葉だが、彼らは毒しか呑むことができない人間たちだ。
社会が変わることなどを期待せず、自分自身だけがなんとか生きていくために喘ぎ続けるしかないという彼等の宿命が描かれている。
実に辛い映画だ。
常に男の相棒を必要とする花子は村田とともに駆け出していく。
その先に光明が見えているわけでないが、一体彼らはどこへ行こうとしているのだろう・・・。
舞台となったあいりん地区は平成の世が四半世紀を過ぎても未だに喘いでいる。
バラック小屋は消えたのかもしれないが、そこで暮らす人びとの暮らしは一向に改善されたように思われない。
そこから抜け出せない人間たちが存在し続けているからだ。
格差社会はますます彼らを置いてきぼりにするような気がしてならない。