おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

第三の男

2019-09-30 14:31:27 | 映画
「第三の男」 1949年 イギリス


監督 キャロル・リード
出演 ジョセフ・コットン
   オーソン・ウェルズ
   アリダ・ヴァリ
   トレヴァー・ハワード
   バーナード・リー
   ジェフリー・キーン
   エルンスト・ドイッチュ

ストーリー
米国の西部劇作家ホリイ・マーティンス(ジョゼフ・コットン)は、旧友ハリー・ライムに呼ばれて、四カ国管理下にある戦後のウィーンにやって来たが、ハリーは自動車事故で死亡していて、まさにその葬式が行われていた。
マーティンスは墓場で英国のMPキャロウェー少佐(トレヴァー・ハワード)と連れになり、ハリーが闇屋であったときかされたが、信ずる気になれなかった。
ハリーは生前女優のアンナ(アリダ・ヴァリ)と恋仲であったが、彼女と知り合ったマーティンスは、彼女に対する関心も手伝ってハリーの死の真相を探ろうと決意、ハリーの宿の門衛(パウル・ヘルビガー)などに訊ねた結果、彼の死を目撃した男が三人いることをつきとめた。
そのうち二人はようやく判ったが、“第三の男”だけはどうしても判明しないまま、マーティンスは何者かに脅かされはじめ、門衛も殺されてしまった。
一方アンナは偽の旅券を所持する廉でソ連MPに粒致されることになり、それとも知らずに彼女の家から出て来たマーティンスは、街の物蔭に死んだ筈のハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)をみつけた。
ハリーが悪質ペニシリンの売りさばきで多数の人々を害した悪漢であることを聞かされていたマーティンスはこれをMPに急報し、アンナの釈放と引きかえに彼の逮捕の助力をするようキャロウェイから要請された。
マーティンスはハリーとメリイゴウラウンドの上で逢い、改めて彼の兇悪振りを悟って、親友を売るもやむを得ずと決意したが、釈放されたアンナはマーティンスを烈しく罵った。
しかし病院を視察してハリーの流した害毒を目のあたり見たマーティンスは結局ハリー狩りに参加、囮となって彼をカフェに侍った。
現れたハリーは警戒を知るや下水道に飛込み、ここに地下の拳銃戦が開始され、追いつめられた彼はついにマーティンスの一弾に倒れた。


寸評
アントン・カラスの奏でるチターのメロディが最初から流れ続け、その弦音が心を掻き立てるように鳴り響く。
ストーリー的にすごく凝っていると言うわけではないが、見せつけられる映像によってサスペンスの世界に否が応でも引き込まれていく。
何といっても撮影が素晴らしい。
夜のシーンが多いので暗闇にさし込む光がこれ以上ないという効果を生み出している。
ハリー・ライムが親友のマーティンスの前に姿を現す場面などは、分かっているのにドキリとする興奮を持たらす。
暗闇に人がいるのは分かるが足元だけに明かりが射している。
そこに猫がやって来て靴紐にじゃれるが、直前にその猫はライムにしか懐かないと述べられていたので、この男はライムであることが想像できる。
そして路上の騒音に怒った向かいのビルの住人が部屋に明かりをともし窓を開ける。
サッとその光がライムの顔だけに差し込むシーンには分かっているのに感動してしまうのだ。
この光の使い方、陰影による表現はモノトーン作品だけに一層の効果を上げていた。

感心するのはその光のとらえ方と共に時々使用される斜めに切り取った画面だ。
傾いた画面が緊張感を生み出しているのだが、唸ってしまうのはそのような画面だけではなく、スクリーン上に展開される映像の構図だ。
絵画的であり、演劇的であり、藝術写真的であり、何よりも映画的な構図で迫ってくる。
ビルの上からの俯瞰であり、遠くを望む広角的なショットであり、印象的な背景だ。
マーティンスとライムが落ち合う観覧車のシーンなどは脳裏に焼き付いて忘れることのない素晴らしいショットだ。
その後に交わされた会話は覚えていなくても、空一杯にそびえ静かに回転する観覧車の巨大な姿は忘れることはないだろう。
地下水道を走り回る靴音の響きと壁面に映る影の動きも緊張を高めた。
戦争が終わった後のウィーンが舞台で、いたるところに崩壊したビルや瓦礫の山があり、そこに現れるライムのショットも素晴らしい。
これだけ光と構図に凝った作品も珍しいものがある。

出演者の中ではアンナのアリダ・ヴァリがよくて、特にラストシーンが彼女を際立たせている。
マーティンスは結局ライムをMPに売ったことになり、彼の埋葬を終えアメリカに一人帰っていく事になる。
友は悪の道に踏み込み、その友を自分が射殺し去っていくのだが、その前にもう一度女性と言葉を交わしたいと男は待ち受けている。
墓地の中の枯葉の舞う長い一本道を女性は歩いてくるが、待ち受ける男には一瞥もくれず、まっすぐに正面を見据えたまま無視するがのごとく通り過ぎてフレームアウトする。
静かだった長いシーンが終わるとチターのメロディが響き渡る。
う~ん、いいわあ!
映画が娯楽として存在していながら芸術としての存在を見せつけた一つの到達点の様な作品である。
キャロル・リード渾身の一作で、彼の最高傑作だと思うし、映画史に残る作品だとも思う。

ターミネーター

2019-09-29 13:19:04 | 映画
「ターミネーター」 1984年 アメリカ


監督 ジェームズ・キャメロン
出演 アーノルド・シュワルツェネッガー
   マイケル・ビーン
   リンダ・ハミルトン
   ポール・ウィンフィールド
   ランス・ヘンリクセン
   アール・ボーエン
   ベス・モッタ
   リック・ロソヴィッチ
   ディック・ミラー

ストーリー
近未来。反乱を起こした人工知能スカイネットが指揮する機械軍により絶滅の危機を迎えていた人類だが、抵抗軍指導者であるジョン・コナーの指揮下、反撃に転じた。
脅威を感じたスカイネットは、未来から現代へ殺人ロボット「ターミネーター」を送り込み、ジョンの母親サラ・コナーを殺害することでジョンを歴史から抹消しようと目論む。
同じ頃、抵抗軍からも兵士カイル・リースが、サラの護衛という使命を帯びて未来から送り込まれた。
人類の命運を分ける戦いが、1984年のロサンゼルスで始まる。
サラの居場所を突き止めたターミネーター(T-800)を、同様にサラを探していたカイルが間一髪で阻止し、2人で逃走。
事態が飲み込めず怯えるサラに、カイルは「襲撃者はロボットであり、サラを殺害するために未来から送り込まれ、彼女が死ぬまで狙い続けること」「カイルはまだ見ぬサラの息子の指示により、彼女を守るために現代へやってきたこと」を告げる。
ターミネーターから逃れるうちに互いへの愛を抱くようになった2人は、モーテルで結ばれた。
休息も束の間、更なる追撃を受けるサラ達。
運転する大型タンクローリーをカイルに爆破されたターミネーターだが、炎上する車の残骸から、超合金製の骨格だけの姿で立ち上がった。
サラと共に近くの工場へ逃げ込んだカイルは、再びターミネーターを爆破することに成功するものの力尽き、サラも片足に重傷を負い、カイルの死を嘆くサラに、上半身だけとなってなおも迫るターミネーター。
サラはターミネーターをプレス機に誘導して押し潰して完全に破壊した数か月後戦いを決意し旅立つ。


寸評
本作のヒットでシリーズ化されたが、アーノルド・シュワルツェネッガーが悪役であるターミネーターを演じたこの第1作が断然面白い。
光線がきらめき未来からターミネーターがやってくる。
筋肉隆々とした丸裸のアーノルド・シュワルツェネッガーが登場するファーストシーンが一気に観客を引き込む。
この登場のさせ方が観客のど肝を抜きシリーズ化させる入り口となった。
真っ裸でプリンプリンのお尻が画面を圧倒する登場シーンなのだ。
その後に見せる爆発的パワーが興奮をさらに高めていく。
兎に角、アクション、アクションの連続で、カーチェイスがあったかと思えば派手な銃撃戦もあるし、情け容赦のない殺人も繰り返される。
どれだけアクションシーンが途切れないかがこの手の映画の判断基準の一つとなっているが、その点からもこの作品は及第点を獲得している。
唯一その緊迫ムードを途切れさせるのがサラとリースのラブシーンなのだが、この描き方もタイムスリップの彩を入れながら、なかなか堂に入ったものだった。

ターミネーターは人工知能を搭載したロボットなのだが、自ら傷んだ腕を修理し、目ん玉を抜き取るシーンなど斬新な映像が興味を加速させる。
コンピュータによる映像処理ではなく、アナログ的な美術処理で挑んでいることは丸わかりなのだが、それでもそれらのシーンはなかなかユニークで面白く、サングラスをかけたシュワルツェネッガーは丸でヒーローの様だ。
ターミネーターを演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの肉体と風貌が強烈で、善玉であるリースやサラを追いやってしまう存在感を示し、彼のイメージだけが残る作品でもある。
当然の帰結として、2作目からは完全にアーノルド・シュワルツェネッガーのシリーズとなって、サラを初めとする善玉を守るヒーローとして登場することになる。
この時代の肉体派として、シルベスタ・スタローンと双璧をなしたシュワルツェネッガーだが、スタローンが「ロッキー」なら、シュワルツェネッガーはこの「ターミネーター」だろう。
娯楽作に出続けたシュワルツェネッガーだが、この作品はその中でも群を抜く超、超、超娯楽作になっている。

街中でタンクローリーがあれだけの爆発を起こしておきながら、警官がやって来たのはすべてが終わってからというご都合主義もあるけれど、タイムスリップの王道を行くラストシーンもどうしてどうして決まっていた。
最初からシリーズ化を狙っていたのかは不明だが、次回作につながるラストシーンになっている。
シリーズはこの後、1991年に「ターミネーター2」、2003年に「ターミネーター3」、2009年に「ターミネーター4」が製作され、 直接的な繋がりはないが、2015年に本作のリブートとなる「ターミネーター:新起動/ジェニシス」が製作されることとなる。
シュワルツェネッガーは2003年から2011年にかけてカリフォルニア州知事を務めたので、2009年制作の「「ターミネーター4」ではCG合成による出演となっているのだが、それを実現するハリウッドのパワーもすごいものがある。
兎にも角にもこのシリーズは、理屈などいらない文句なしの娯楽作になっていることは間違いない。
発せられた「アイ・ウィル・バック」はこの映画の決め台詞となった。

ダーティハリー

2019-09-28 10:39:20 | 映画
「た」の行に入ります。

「ダーティハリー」 1971年 アメリカ


監督 ドン・シーゲル
出演 クリント・イーストウッド
   ハリー・ガーディノ
   アンディ・ロビンソン
   ジョン・ヴァーノン
   レニ・サントーニ
   ジョン・ラーチ
   ジョン・ミッチャム
   アルバート・ポップウェル
   ジョセフ・ソマー
   メエ・マーサー
   リン・エジングトン

ストーリー
ビルの屋上からプールサイドの女が銃撃され、犯人からの脅迫の手紙がサンフランシスコ警察に届いた。
10万ドルの要求に応じなければ、次の犠牲者を同じ手口で殺す、狙うのは牧師か黒人だ、とあり“サソリ座の男”とサインされてあった。
シスコ市警殺人課のハリー・キャラハンは、少し前に強盗との銃撃戦で脚に重傷を負っていたが、事件を知ると、上司のブレスラーや市長らの意向を無視して、犯人追跡に向かった。
ハリーの意志に反して付けられた相棒のチコは快活な青年で、反抗的なハリーをいぶかしく思ったりした。
第2の犠牲者に屋上から照準を合わせている犯人を警察のヘリコプターが発見したが取り逃がし、ハリーとチコも犯人らしい男を尾行したが、逆に町の与太者たちに袋だたきにあってしまった。
再び犠牲者が出た。“サソリ座の男”の予言どおり黒人であった。
再び警察に「14歳の少女を誘拐して生き埋めにし、少量の酸素を送り込んでいる。すぐ20万ドルの身代金をよこさないと殺す」という脅迫状が舞い込んだ。
ハリーは20万ドルを持って、犯人の指定したマリーナへ急ぎ、ひそかにチコを背後につけさせた。
突然、毛糸のマスクをした犯人から声をかけられたハリーは、銃を奪われ、いきなり脳天を一撃され、更に蹴りあげられて、殺されそうになった。
草むらから飛び出したチコはピストルを乱射してハリーを助けたが、犯人との銃撃戦で負傷した。
しかしハリーの飛びだしナイフは犯人の太ももを傷つけ、必死に逃げる犯人をケザー・スタジアムで捕らえたハリーは、犯人に拷問をかけたのだが、これが思いがけなくハリーを窮地に追い込んだ。
傷を負っている男をきびしく拷問したとして地方検事から告発されてしまったのである。
更に、すぐに釈放された犯人の狂言でハリーは訴えられ、遂に市長とブレスラーから謹慎を命じられた。


寸評
犯人逮捕の能力は抜群にあるのだが、そのための捜査方法が逸脱していて上司からは疎まれているハミダシ刑事と言う設定は、刑事を主人公にした作品ではよくあるものだが、本作はその中でも筆頭の部類に入る作品だし、この手の映画の先鞭をつけたと言える作品だ。

主人公ハリー・キャラハンの有能ぶりを示すのは単刀直入だ。
銀行の前に停車している車を見て銀行強盗を直観し、出てきた犯人に悠然と発砲し取り押さえる。
負傷した犯人の一人が手元近くにある銃を取ろうとしているのに向かって、銃を突きつけたまま弾倉中にもう一発の弾丸が残っているかを当てさせる。
「考えているな?6発撃ったか、5発だったか?俺にもわからない」
「賭けてみるか、“今日はツイてるか?”」
諦めた犯人が「教えてくれ」と言い、キャラハンが引き金を引くと弾は撃ち尽くしていたと言うものである。
このやり取りはラストシーンでも使われていて、オープニングのそれが伏線となっている。

日本でも殺された被害者の人権よりも、生きている犯人の人権が守られたりして憤りを覚えることが度々発生しているが、本作はまさにその典型ともいえる内容である。
キャラハンは少女を誘拐している犯人を追い詰め、無抵抗となった犯人の足を撃ち抜く。
少女の監禁場所を自白させるためであり、拒否する犯人の傷口を踏みつけるという荒手で自白に成功する。
しかし少女はすでに殺されており、さらに捜査令状なしに犯人の住居に踏み込んだので、そこで押収した証拠物件は法律上証拠とならないと言われてしまう。
条痕が一致した凶器が押収されているにもかかわらずである。
犯人が要求した医者や弁護士を呼ばなかったことも人権無視だと指摘を受ける。
それでは殺された少女の人権は誰が代弁するのだ!
僕は人権派を自認する弁護士さんたちに問いたい。
一体、一番守られるべき人権は誰の人権だったのかと。
そんな事件を目にしたなら、日本にハリー・キャラハンが存在してさえおればと思ってしまう。

兎に角クリント・イーストウッドのハリー・キャラハンがカッコいい。
スクール・バスを待ち受けて跨道橋の上にすっくと立っている姿に拍手喝采だ。
キャラハン刑事をヒーローにしているのは、犯人のスコルピオを演じたアンディ・ロビンソンが迫真の演技で見事に狂気に満ちた犯人役を演じ切っているからである。
かれの特異な風貌と本作での熱演が災いし、その後似た様な役しかつかなかったと聞くがさもありなんである。
この作品はダーティー・ヒーローものの典型と見られているし、イーストウッドもこの作品でスターの地位を確立し、彼の最大の当たり役となった。
僕たちの世代の者にとって「ダーティハリー」は間違いなくノスタルジーを掻き起こされる作品で、我が道を行くはみ出し刑事物のバイブル的作品なのだ。
バッジを投げ捨てるシーンも非常に懐かしさを覚える。

ソロモンの偽証 後篇・裁判

2019-09-27 09:32:59 | 映画
「ソロモンの偽証 後篇・裁判」 2015年 日本


監督 成島出
出演 藤野涼子 板垣瑞生 石井杏奈
   清水尋也 富田望生 前田航基
   望月歩 西村成忠 西畑澪花
   佐々木蔵之介 夏川結衣 永作博美
   小日向文世 黒木華 尾野真千子

ストーリー
クリスマスに謎の死を遂げた城東第三中学校の2年A組生徒・柏木卓也(望月歩)。
当初は自殺と思われたその死に対し、いじめグループを率いる問題児・大出俊次(清水尋也)による殺人という匿名の告発状がバラまかれ、事態は急展開を見せる。
殺人を告発する目撃者からの手紙、過熱報道、連鎖していく事件により学校は混乱していたが、大人たちは保身に走る一方だった。
そして2年A組のクラス委員・藤野涼子(藤野涼子)は、大人たちを排除し、中学生だけで真相究明の学校内裁判を開くことを提案する。
やがてそれは様々な困難を乗り越え、ついに実現することに。
こうして検事役には藤野涼子、一方の弁護人を他校の生徒・神原和彦(板垣瑞生)が務め、大出俊次を被告人とする学校内裁判が開廷する。
白熱した審理が進む中、争点は次第に事件当夜の被告人のアリバイに絞られていくが…。
学校内裁判は6日間にわたって行われ、生徒の保護者や関係者も傍聴できるようになっていた。
学校内裁判に現れたたくさんの証言者は、事件の謎を次々と証言していく。
大出俊次の不良仲間だった井口充(石川新太)や橋田祐太郎(加藤幹夫)、大出俊次のアリバイを証言した弁護士、告発文について証言した三宅樹里(石井杏奈)。
そしてついに、事件の真相を知っていた証言者が現れる。
そして、6日目、予定通り陪審員によって大出俊次の判決が下される。
果たして真実は、明らかになるのだろうか。


寸評
前篇は事件が起こりさまざまな謎が提示されたが、裁判を描く後篇は息詰まる法廷劇になっている。
脚本的に未成熟なところもあるように感じるが、それを補うように生徒役の子供たちが素晴らしい演技を見せる。
彼等の演技は未熟なところもあるが、その未熟さが返って等身大の若さをスクリーンにあふれさせていた。
前篇以上に子どもたちが中心のドラマになっていて、ほとんどが体育館での裁判シーン。
その校内裁判の描写は緊張感にあふれ見事なものだったと思う。

学校でのイジメ、大人や子供の嘘、親子愛、家庭環境、不条理がまかり通る現代社会への警鐘などといった問題も浮き彫りになってくる構成もいい。
事勿れ主義だった先生や、ワイドショー的に報じたマスコミへの糾弾はなく、死亡した柏木くんと神原君の特別な関係の説明不足等粗さも目立つが、子供たちの成長する姿を見ることは僕のような初老の者にとっては嬉しくなってくる。
物語を補足するエピソードが裁判劇の脇を固めるが、なかでも永作博美演じる母親の屈折した愛情は強烈だ。
母親は娘を溺愛しているが、ある時娘から「あんたがそこまでバカだったとは思わなかった」と意思表示される。
そんな母親を永作が狂気じみた表情で演じて、強烈な存在感を見せていた。
親たちは子供がどのような状況に置かれ、どのような悩みを抱えているか、何を考えているのかを知らない。
藤野の両親も娘の涼子から苦しんでいたことを聞かされ、もし涼子が柏木君や浅井さんのように突然亡くなったとしたら、そんな悩みを抱えていたことを知らなかったままなのだと漏らす。
大人になってしまうと、自分が子供の頃に持っていた子供なりの思いがあったことを忘れてしまっている。
物事をごまかし、自分を正当化するチエだけがついてしまっていると校長先生は自戒する。

裁判を生徒はもとより父兄たちも傍聴している。
事件に関係する生徒の親たちがそれぞれ傍聴していて、審理の進行に応じてその表情が挿入されるが、亡くなった柏木君の両親もそれらの保護者と同一線上だったのはどうなのだろう。
事件の真相が明らかになった時点で、一番大きなショックを受けたのは柏木君の両親だったのではないか。
警察において自殺と認定されていたが、両親としてはそうだとすればその原因を知りたかったはずだ。
皆と同様に柏木君の両親も真実を知ったわけで、その時の心情はどうだったのかとの疑問が脳裏をよぎった。
無理解、理不尽などが子供たちに降り注いでいるのだが、それを乗り越えて僕も大人になってきたし、子供たちも成長していく。
心の闇や苦悩を抱えながらも、それでも前に進もうとする強い意志をもつこと、どんなに傷ついても真実に向き合うことで、子供たちは成長するのだと思わされる。
三宅樹理が浅井松子の両親に謝り、両親が「松子が見守っているからね」と励ますシーンに胸打たれた。
人に対してはそんな寛容さと愛情を持ちたいものである。

オーディションで選ばれた子供たちに拍手を送りたい一篇である。
主演の藤野涼子にとっては、この先が楽しみと感じさせるデビュー作となったが、次回作でいい作品に巡り合えば性格俳優として成長していくのではないかと思った。

ソロモンの偽証 前編・事件

2019-09-26 09:07:37 | 映画
「ソロモンの偽証 前編・事件」 2015年 日本


監督 成島出
出演 藤野涼子 板垣瑞生 石井杏奈
   清水尋也 富田望生 前田航基
   望月歩 西村成忠 佐々木蔵之介
   夏川結衣 永作博美 黒木華
   田畑智子 小日向文世 松重豊
   尾野真千子 塚地武雅 余貴美子
   安藤玉恵 木下ほうか

ストーリー
教師・中原涼子(尾野真千子)は母校の江東区城東第三中学へ赴任し、校長・上野素子(余貴美子)に伝説の23年前の「校内裁判」のことを話す。
1990年12月25日は大雪で、同級生の野田健一(前田航基)と涼子(藤野涼子)は登校し、正門に嫌いな教師が立っていたため、通用口から学校に入り校舎脇で雪に埋もれた同級生・卓也(望月歩)の遺体を発見した。
卓也の死因は転落死で、警察は屋上からの飛び降り自殺と断定する。
しかし父が刑事の涼子宅や学校宛に、俊次(清水尋也)ら3人の不良生徒の殺害だとする告発状が届いた。
校長・津崎(小日向文世)は担当刑事・佐々木礼子(田畑智子)と相談し、カウンセリングで告発状の送り主を、涼子の同級生・樹理(石井杏奈)と松子(富田望生)と突き止める。
涼子の担任・森内(黒木華)に送られた告発状が破り捨てられたのをマスコミが嗅ぎつけ大々的に報道した。
俊次は不登校に陥り森内は退職するが、佐々木の調査で隣人が森内の住居ポストから告発状を盗んで捨てたことが判明。
保護者会が開かれ、佐々木は告発状が虚偽の内容だと指摘する。
樹理と会った松子が、帰りに自動車事故に遭って死に、松子はショックで声が出なくなってしまう。
校長・津崎は体調を崩し辞任することになる。
涼子はある日、卓也の葬儀に出席していた東都大学付属中の生徒・神原和彦(板垣瑞生)と出会う。
和彦は卓也と小学校の同級生で卓也の死に疑問を抱いていた。
涼子は事件を裁判形式で行おうと決めた…。


寸評
面白い!
オーディションにより選び抜かれた生徒たちの迫力にも圧倒される。
編集で切り取った演技とは言え、なかなかのものだ。
事なかれ主義の大人たち、裏表のある人間たち、偽善者的要素を持ち合わせた少年少女たちなどが躍動(?)する。
作品の性格上、キャラクターを強調した特異な人物たちが登場する。
校長(小日向文世)は典型的な事なかれ主義の人物で、柏木の死を自殺として穏便に早くケリをつけたいと思っている。
柏木の担任でバスケットボール部の顧問もしている教員経験の浅い森内(黒木華)は頼りないし、変な妄想にとりつかれているようなところがある。
教師の権威を振りかざすのが楠山教諭(木下ほうか)と高木学年主任(安藤玉恵)で、観客の反感を買う役目を引き受けている。
いじめにあっている三宅樹理(石井杏奈)はニキビがひどいのでコンプレックスを感じているが、母親(永作博美)はいい加減な人物だ。
その三宅も友人を平気でバカにする性悪な部分を持っている。
子供を守る態度を見せる藤野の母(夏川結衣)や、退職届を提出して生徒と共に戦う決意をする北尾(松重豊)などは正義の味方といったところか。
役得なのか彼女の実力がそうさせるのかは分からないけれど、三宅樹理の母親役である永作博美の存在感は際立っている。

映画は中原涼子(尾野真千子)となって母校に赴任してくる藤野の回想談で始まる。
藤野が「松ちゃんゴメンネ」と言った訳がわかったところで発生する浅井松子の死は、残酷なシーンだが雨に流される血が美しくもあった印象的なシーンだ。
雪の中から掘り出された柏木の死体の目も印象的で、その目を怖いと言った担任の森内の言葉が覆いかぶさる。
その森内の隣人も変で、彼らの夫婦喧嘩を描いた理由も納得させられるが、意表を突いた展開で原作のアイデアによるものなのだろう。
裁判に向けての伏線や大人と子供の人間関係や、登場人物の人間模様がおもしろくてぐいぐいと引き込まれていく迫力を有していた。
主人公の藤野涼子を単純なヒロインにしていない点も作品に深みを持たせている(原作の良さかも知れないけれど、僕は未読である)。
佐々木蔵之介、田畑智子、塚地武雅、余貴美子など脇役陣も充実している。
たくさんの登場人物とたくさんのエピソードを丁寧にまとめ、俳優のアンサンブルも新人とベテランのバランスがよくとれていたキャスティングだった。
真実が暴かれる後篇・裁判の公開が待ち遠しい作品となっている。

それでも夜は明ける

2019-09-25 09:26:11 | 映画
「それでも夜は明ける」 2013年 アメリカ


監督 スティーヴ・マックィーン
出演 キウェテル・イジョフォー
   マイケル・ファスベンダー
   ベネディクト・カンバーバッチ
   ポール・ダノ
   ポール・ジアマッティ
   ルピタ・ニョンゴ
   サラ・ポールソン
   ブラッド・ピット
   アルフレ・ウッダード

ストーリー
奴隷制度が広がっていた1841年、ニューヨーク州サラトガのソロモン・ノーサップは自由黒人のヴァイオリニストで、妻と子供2人と順風満帆な生活を送っていた。
ある日、彼は二人組の男たちから金儲けができる周遊公演に参加しないかと誘いを受けた。
ある晩、二人組の男たちにノーサップはアメリカ南部ニューオーリンズの奴隷商に売られることとなった。
彼は自分は北部の自由黒人だと主張するが、材木商のウィリアム・フォードに購入される。
フォードは信仰心が篤く温和な性格の農園主だった。
奴隷となったノーサップは知能と知識を使って、材木の水運を提案する。
これが成功しフォードに目をかけられるが、農園の監督ジョン・ティビッツにねたまれる。
いやがらせを受けたノーサップは逆上して鞭で打とうとするティビッツからこれ奪い暴力を振るってしまう。
ノーサップはティビッツに報復行為として木につるされる。
ノーサップの身の危険を悟ったフォードは、仕方なしに資金面で世話になっている別の農園の支配人のエドウィン・エップスにノーサップを売ってしまう。
フォードと異なりエップスは狂信的な選民主義者で非常に陰湿で残忍な性格の持ち主だった。
綿花栽培のノルマに達成しない奴隷や気分が悪いときは平気で鞭打つなどしていた。
ある日奴隷として白人であるアームスバイがやってくる。
自分と近い境遇に親近感を覚えたノーサップはアームスバイを信用し、友人へ手紙を送るよう懇願するがアームスバイは裏切り、ノーサップはエップスに責め立てられるが機転を利かし難局を乗り切る。
その後も長い奴隷の時を過ごすが、カナダ人で大工のサミュエル・バスと出会ったことから風向きが変わる。


寸評
映画の冒頭は、すでに奴隷となって過酷な生活を送るソロモンの姿。
そこから観客は彼の12年間に渡る痛みや苦しみを追体験することになるのだが、元々のノーサップは自由黒人のバイオリニストで、白人の友人もいる普通の生活をしていたことが分かる。
自由黒人がいるということは不自由黒人がいるということで、不自由黒人とは奴隷のことなのだろう。
映画は不自由黒人である奴隷の過酷で悲惨な姿をノーサップを通じてこれでもかと描き続けていく。
黒人差別の映画は今までにもたくさんあったと思うが、ここまで奴隷として徹底的に差別される姿を描き続けた作品は少なかったのではないか。

最初に売られた先の農場主はまだマシだった。
教養を身に着けているノーサップの能力を評価するし、彼を目の敵にする監督官からも守ってやろうとしている。
ノーサップが縛り首のリンチにあい、首に縄をかけられたまま爪先立ちの姿勢で放置されているのを救ったのもこの農場主なのだが、しかしその農場主ですら、主人であるにもかかわらず白人である監督官の奴隷殺害を制止できないでいるし、さらに借金のかたとして別の農場主にノーサップを売り渡さねばならない。
奴隷は人間の形をした単なる商品に過ぎないと知らされる。
売り渡された先では地獄のような農場主が待ち構えていて、ここでの壮絶すぎる体験は目を覆いたくなるものだ。
特に恐ろしいのがムチ打ちで、ノーサップや女性のパッツィーに対して行われる。
血が飛び、肉がえぐれる痛すぎる映像が展開され、けっして気持ちのいいものではない。

恐ろしいのは奴隷を虐待するという行為だけではない。
ノーサップは逃亡を計った時に黒人奴隷の処刑場面に出会うが、自分が生き延びるためには処刑される奴隷を見捨てるしかなく、逃亡もあきらめる。
ムチ打ちの刑を命じられればパッツィーに対しても行わねばならないし、自分の身が危険になっても他の奴隷たちが助けに来てくれるわけではない。
奴隷たちは自分の命を守ることで精一杯なのだ。
女性奴隷は主人の愛人となって命を長らえているのだが、彼女たちは性奴隷としての愛人生活がいいのか、勤労奴隷としての過酷な労働がいいのかの二者択一を迫られ、当然のように黒人のメイドを使える愛人生活を選んでいるし、パッツィーは嫉妬する農場主夫人の虐待にも耐えねばならない。
白人女性も奴隷たちに対しては男たちと大して変わりはないのだ。
人間のエゴと環境に染まってしまう怖さを感じる。

ノーサップの前に映画のプロデューサーでもあるブラッド・ピット演じる進歩的なカナダ人が現れ、奴隷制度の非を語るが、その正論すらなにか白々しいと感じてしまう。
それほど描かれ続けた黒人奴隷たちの姿はひどかったのだ。
それでも題名通りノーサップに夜明けが来るのだが、そのシーンを見ても僕の心に感動は起きなかった。
映画は「二度とこんなことをしてはいけない!」と語り、現代社会の差別や虐待にも同様のメッセージを発していると思うが、それにしても気が重くなる映画で、この作品にアカデミー作品賞をよくぞ与えたものだと思う。

それでもボクはやってない

2019-09-24 08:38:25 | 映画
「それでもボクはやってない」 2007年 日本


監督 周防正行
出演 加瀬亮 役所広司 瀬戸朝香
   山本耕史 もたいまさこ
   尾美としのり 北見敏之
   大森南朋 田山涼成 徳井優
   正名僕蔵 小日向文世
   大和田伸也 田中哲司
   益岡徹 山本浩司 高橋長英
   鈴木蘭々 野間口徹 光石研
   清水美砂 柳生みゆ 竹中直人
 
ストーリー 
就職活動中の金子徹平は、会社面接に向かう満員電車で痴漢に間違えられ現行犯逮捕されてしまった。
徹平は警察署での取調べで容疑を否認し無実を主張するが、担当刑事に自白を迫られ、結局拘留されてしまうことになる。
さらに検察庁での担当副検事の取調べでも無実は認められず、ついに起訴されてしまった。
徹平の弁護に当たるのはベテラン弁護士・荒川と、新米弁護士・須藤だ。
徹平の母・豊子や友人・達雄たちも徹平の無罪を信じて動き始めた。
やはり痴漢冤罪事件の経験者で今でも自分の無罪を訴え続けている佐田も協力を惜しまないと言う。
一同はまず事件当時、徹平のことを「犯人ではない」と駅員に証言した女性を探そうとするが、見つからなかった。
そんな中、ついに徹平の裁判が始まる。
幸運なことにこの裁判は、公平な判決を下すことで有名な裁判長が担当することになった。
そして荒川たちの追及によって明らかにされていく警察のずさんな捜査内容。
一見状況は徹平側に有利に進んでいるように見えた。
しかし、途中で裁判長が交代することになり、俄かに雲行きは怪しくなっていく。
何といっても刑事事件で起訴された場合、裁判での有罪率は99.9%と言われているのだ。


寸評
見せる。2時間半に及ぶかなりの長尺だが飽きさせない。取り調べから裁判にいたる出来事を淡々と描いているにもかかわらず、最後まで画面に引き付けられた。裁判の仕組みを知らないので、興味を持って見ていたことも理由の一つだが、全体の構成とシーンのメリハリ感が何よりだった。
例えば冒頭の現行犯逮捕される本当の痴漢の逮捕劇から、自白による釈放までを挿入する事で、主人公の否認をより一層浮かび上がらせていた。
あるいは、竹中直人が演じるアパートの管理人がコミカルな役を引き受けていたが、もたいまさこの母親から手土産を渡され態度が一変するのは、人が相手の行動や印象によって、その人への対応を変えるものだとの表現でもあり、家宅捜査中の刑事にふと漏らす何んでもない会話が、容疑者の証拠探しをする者には重要証言になってしまう危うさを現していて、ほんの少しの登場シーンだったが、決して息き抜き場面にはなっていなかった。
ことほど左様に作りが丁寧なのだ。それが最後まで引き付けた最大の理由だと思う。これぐらい丁寧に作られると、見ていて安心感が湧き出て肩がこらない。
反面、日本の刑事裁判の問題点を追及する姿勢が強いので、主人公を自白に追い込まれそうになる精神状態や、それに屈服しそうになる極限状態などは希薄だった。
それがグイグイ押してくるような迫力に乏しい理由だし、テーマの割には重苦しくしていない理由でもあったと思う。

僕は光石研が演じる、主人公の支援者になる佐田の存在が、主人公の孤独感や不安感をやわらげてしまっていて、むしろ登場させなくても良かったのではないかと思っている。もっとも、一方では、痴漢冤罪裁判を継続中の佐田夫婦を登場させて、免罪事件で戦う人々がいる事を訴えたかったのかも知れないなとも感じているのだが・・・。
痴漢をやる卑劣な男も許せないが、それ以上に冤罪で苦しむ男にも同情してしまう。控訴すると、あの被害者の中学生も再び裁判に付き合うことになるわけで、刑事裁判の難しさも想像できる。

裁判は真実を明らかにする場所ではなく、有罪か無罪かの判断をする場所なのだという事だけは知った。
警察は逮捕した人間が有罪である為にだけ動くし、検事はその犯人が有罪であるとの一方通行の仕事をやる。裁判官は検事の主張に同意できるかどうかだけを判断基準にしている。疑わしきは罰せずなのだろうが、人が人を裁く難しさを感じた。そのことは裁判官が正名僕蔵から小日向文世に代わっただけで、裁判の雰囲気が変わることで表現されていたと思う。
有罪に持っていくための警察の調書作りなどはテレビドラマでもよく見かけるシーンだが、無実を訴える被告に最初から示談を持ちかける当直弁護士や、裁判を早く終らせるために執行猶予をちらつかせ示談を提案する裁判官などの存在は理解し難い。警察、検察、裁判官の理不尽さ、あるいは制度の理不尽さを感じたけれど、正義の側として描かれた弁護士達が、本当の裁判でもあのように真剣に弁護してくれるものなのだろうかとの疑問も残った。ひとり弁護士だけが全くの正義であるとは信じる事が出来ないから。
母親、友人、冤罪被害者達など大勢の支援者も登場して救われる気もしたが、それでも何だか国家不信、人間不信に陥るような映画だったな。

その土曜日、7時58分

2019-09-23 08:17:15 | 映画
「その土曜日、7時58分」 2007年 アメリカ / イギリス


監督 シドニー・ルメット
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン
   イーサン・ホーク
   マリサ・トメイ
   アルバート・フィニー
   ブライアン・F・オバーン
   ローズマリー・ハリス
   マイケル・シャノン
   エイミー・ライアン
   サラ・リヴィングストン
   アレクサ・パラディノ

ストーリー
ニューヨーク郊外の小さな宝石店に男が押し入った。
銃を突きつけ店員の女性を脅しながら、次々と宝石を袋に詰めていく。
隙を見つけた店員が男に発砲。男も撃ち返す。倒れる二人…。
店の外で待っていた共犯者は、強盗が失敗に終わったことを知り、あわてて車を走らせる。
強盗3日前。
アンディ・ハンソンは、ある会社の経理の重役として勤務していた。
近いうちに財務の監査が入ることが明らかになったが、彼は内心焦っていた。
というのは、彼は従業員から金を横領しており、それを隠すための資金繰りに困っているのだ。
アンディの弟、ハンクもまた金に困っていた。
彼の娘の養育費と、娘が通っている私立学校の高額な授業料を払えずにいたのだ。
そんな最中、ハンクはアンディの妻、ジーナと長きにわたって不倫の関係にあった。
金に困り果てたアンディは、ハンクに自分たちの両親が経営する宝石店に強盗に入るという提案をする。
ハンクは嫌がったがアンディの説得に負け、渋々承諾する。
しかし、アンディの話は驚くべきもので、なんとアンディは近所に顔を知られているため正体がバレる可能性が高いため、ハンク一人で実行に移すというものだった。
しかしアンディが言うにはその日は両親が雇っているドーリスという老婆しか店にいない予定で、ハンク一人でも楽勝なこと、また保険に入っているため両親には実質的には損害はないということで、ハンクも承諾する。
かくして総額12万ドル、それぞれが6万ドルの財産が転がり込む予定の強盗計画は開始された。
しかしハンクが身勝手な行動をしたために強盗は失敗し、悲劇が悲劇を呼ぶ連鎖が始まってしまう。


寸評
犯行時を起点にして、時間を行きつ戻りつしながら、それぞれの登場人物の経緯を描き出して異様ともいえる緊張感を生み出している。
ささいなことから破滅へと突き進んでいく姿が痛々しい。
映画の冒頭でアンディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)がベッドの上で美しい女性を相手にしたセックスシーンがリアルに映し出される。
女性はアンディの妻ジーナ(マリサ・トメイ)なのだが、倦怠期の夫婦が久しぶりに妻ジーナとの間でこんな激しいエッチが実現したのは、現実から逃避してリオデジャネイロに来ていたからだ。
どうもアンディは現実逃避したくなるような立場にいるようなのだが、それが会社の金を使い込んでいたことによるものだと判明してくる。
アンディの弟ハンク(イーサン・ホーク)は離婚していているのだが、娘の養育費を払えていないし、可愛い娘の遠足費も出してやれない金欠状態。
ハンクの離婚した元妻のマーサ(エイミー・ライアン)が会うたびに「カネ!カネ!カネ!」と言うのもハンクを追い詰めている。
お互いに金を必要としている立場の二人が実行するのが両親が経営する宝石店というとんでもない計画で、それを実行したとたんに破たんが訪れてしまう。
その状況を同じ場面を視点を変えて挿入しながら、時間軸を前後させて描いていくのだが、個々のシーンの映像もシャープでつなぎ方も実に巧みだ。

いきなりの強盗シーンで、おばあちゃんが予想外の反撃を加える。
犯人はドアの外へ吹っ飛び、それを見たハンクが慌てて車を走らせながら「何てバカなんだ!」と叫んで映画が始まるが、そこから日にちを前後させてそれぞれの行動をあぶりだしていく。
兄弟が追い詰められている状況、また計画が破たんしてしまう状況、事件のあとの戸惑いの様子などがサスペンスらしく緊張感をもって描かれていく。
同時に描かれていくのが彼らを取り巻く欺瞞に満ちた人間関係である。
ジーナは夫のアンディが何も話してくれないことで、常に「魅力的だ」と言ってくれるハンクに安らぎを覚え不倫をしていたことが明らかになる。
アンディと父チャールズ(アルバート・フィニー)との間には確執がある。
アンディは父が弟を可愛がり、自分は無視されていると思っているし、父親もアンディに期待をかけ過ぎたと許しを請うような状態だった。
そんな気持ちが内在していたのに、それを覆い隠して成立していた家族だったことも判明してくる。
やがて兄弟間にも隙間風が吹き始め、もがけばもがくほど、ますます泥沼に陥ってしまう。
破滅に向かう家族の姿を通して人間の持つか弱さと闇の部分をあぶりだしていく。
あまりにもあと味が悪い結末だが、ハンクは一体どうなったのだろう?
それぞれの役者は役柄の人物像を見事に演じ切っていたが、やはりアンディを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンが何といっても秀逸だった。
シドニー・ルメット最後の輝きと言ってもいい作品になっていたと思う。

その男、凶暴につき

2019-09-22 10:54:04 | 映画
「その男、凶暴につき」 1989年 日本


監督 北野武
出演 ビートたけし 白竜 川上麻衣子
佐野史郎 芦川誠 吉澤健 趙方豪

ストーリー
一匹狼の刑事・我妻諒介(ビートたけし)は凶暴なるがゆえに署内から異端視されていた。
ある晩、浮浪者を襲った少年の自宅へ押し入り、殴る蹴るの暴行を加えて無理矢理自白させた。
暴力には暴力で対抗するのが彼のやり方だった。
その行き過ぎた捜査と粗暴な性格から、勤務する警察署内でも危険人物として敬遠され、新たに警察署署長になった吉成(佐野史郎)から注意を受けるほど、警察という組織にあって浮いた存在の我妻だった
麻薬売人の柄本(遠藤憲一)が惨殺された事件を追ううち、青年実業家・仁藤(岸部一徳)と殺し屋・清弘(白竜)の存在にたどり着いたが、麻薬を横流ししていたのは、諒介の親友で防犯課係長の岩城(平泉成)だった。
やがて岩城も口封じのため、自殺に見せかけて殺されてしまう。
若い菊地(芦川誠)は諒介と組むが、いつもハラハラのし通しだった。
一方、清弘の仲間たちは知的障害の少女を諒介の妹と知らずシャブ漬けにして輪姦する。
諒介は刑事を辞めて、岩城の復讐のために仁藤を撃ち殺した。
さらに清弘もアジトで射殺するが、その死体にすがるのは変わり果てた妹・灯(川上麻衣子)の姿だった。
諒介は最愛の妹にも引き金をひいたのだった。
その時、背後から忍び寄った仁藤の部下・新開(吉澤健)が諒介を射殺、菊地に岩城の代わりをさせて麻薬の密売を引き継ぐことになったのだった。
 

寸評
北野武監督のデビュー作で、今から振り返ると北野映画のエッセンスが全て盛り込まれている見事な作品だ。
所謂はみ出し刑事物だが、コミカルな場面を入れて主人公をヒーローとしていないのがいい。
主人公の我妻は寡黙で、特に刑事をやめてからは一言も発しない。
その寡黙さが不気味な雰囲気を出して行く展開も上手いと感じる。
言葉を発するときは反抗的なものだったり、暴力的なものだったりするのだが、時々冗談と思えることを言って観客の笑い心をくすぐる。
若い菊池とバーに言った時に、会社員と身分を偽っている菊池にホステスが「何の会社?」と尋ねると、我妻はすかさず「拳銃の通信販売」と言い放つ。
また麻薬密売人を車で追いかけている時にワイパーが動いてしまうと「なんだコノヤロー!」と叫びながら運転すると言った具合で、ギャグ的な会話が時々登場し思わず笑ってしまうという可笑しさがある。
代金を払わせたり、仲間から1万円を借りたりする姿もアンチ・ヒーロー的である。

寡黙、暴力、笑いは北野映画の真髄のような気もするが、この映画における暴力描写の一貫性には感心する。
カメラをどっしり構えた堂々の演出で、肉を裂き骨を砕く暴力の現場をク-ルに切り取っていく。
冒頭で無抵抗な浮浪者に暴力を加える少年たちが描かれる。
小学生の一団は橋の上から下を通る船に向かって空き缶を投げつける。
子供たちにも内在している暴力的要素だ。
少年の暴力に対して我妻も暴力で制裁を加え自首させる。
DVをふるう男に対しても警察署内で叩きのめし、「ヒモならヒモらしく女を大事にしろ!」と罵声を浴びせる。
我妻は目には目を、歯には歯を、暴力には暴力で応えるという男だ。
暴力を肯定するわけではないが、やられた側になればそうして欲しい気持ちが湧くのではないか。

この映画に締まりをもたらしているのは、我妻が妹を射殺するシーンの存在だ。
妹の灯はもともと精神疾患があったようなのだが、清弘の子分たちに強姦され、麻薬中毒者にされてしまっていて、それを見た我妻が妹を射殺する。
妹は倉庫の片隅に居て、そこに外からの光が斜めに差し込んでいる。
拳銃を発射する吾妻の姿は柱の陰になって見えない。
一発で仕留めてあっけなく終わるが、このエピソードとそれを描いたショットが素晴らしい。
絶賛に値する場面で一番の見どころとなっている。
ビートたけしはもとより、清弘の白竜と共に、妹・灯を演じた川上麻衣子がいい演技を見せていて印象に残る。

全員が死んでしまい、生き残った者を見た場合、最後の展開になるのは予想通りと言えるものだが、「僕はバカじゃありませんから」というセリフは効いている。
冒頭で警察署長の吉成が言う「私もバカじゃないんだから」につなっがていて、おとなしそうなヤツの内面に潜む凶暴性を表現していてビクッとする。
北野作品の中では好きなうちの1本である。

曽根崎心中

2019-09-21 07:52:10 | 映画
「曽根崎心中」 1978年 日本


監督 増村保造
出演 梶芽衣子 宇崎竜童 橋本功
   井川比佐志 左幸子 木村元
   灰地順 目黒幸子

ストーリー
大阪内本町の醤油屋・平野屋久右衛門(井川比佐志)の手代・徳兵衛(宇崎竜童)は、堂島新地天満屋の遊女・お初(梶芽衣子)と深くいいかわしていた。
しかし、天満屋の亭主の吉兵衛(木村元)とお内儀(目黒幸子)は、徳兵衛は律儀者だが銭にならぬので深入りしないよう、事あるごとにお初に文句を言っていた。
徳兵衛の主人であり伯父でもある久右衛門は、彼の正直さを見込み、自分の妻の姪・おはると徳兵衛を一緒にさせようと考えていた。
徳兵衛に否応いわせぬため、徳兵衛の継母であるお才(左幸子)を呼びつけて銀二貫目を渡した。
金に目のないお才に異存はなかったが、久右衛門からこの話を聞いた徳兵衛は驚いた。
母と勝手に相談して祝言を押し付けるのはひどすぎると抗議する徳兵衛に、久右衛門はこの話を止めてもよいが、母親に渡した金を来月七日までに返す事、できない場合は大阪から追放するという条件を持ち出した。
大急ぎで田舎の母親のもとを訪れた徳兵衛は、やっとの思いでその金を取り戻した。
一方、天満屋では、徳兵衛の事を心配し続けるお初に、好意を持たぬ客からの身うけ話が持ち上っていた。
田舎からの帰路、徳兵衛は偶然、親友の油屋九平次(橋本功)に出会った。
九平次は博打に負け、自分の店を売らなければならない破目に陥っている事情を徳兵衛に話した。
親友の窮状を見るに見かねた徳兵衛は、その金を来月三日の朝までに返済するように約束して九平次に貸したのだが、期限を過ぎて返済を迫ると九平次は「借金などは知らぬ」と逆に徳兵衛を公衆の面前で詐欺師呼ばわりしたうえ散々に殴りつけ、面目を失わせるのだった。


寸評
僕が見た心中物作品の中では篠田正浩の「心中天網島」と双璧をなす作品で、増村保造晩年の傑作だ。
悲しいまでの死への道行だが、美しいまでの道行でもあった。
お初、梶芽衣子の死装束が薄暗い森の中で黒と白のコントラストを見せ何とも美しい。
何よりも梶芽衣子の目がいい。
もともと大きな目をした梶芽衣子であったが、その目に支えられたキリリとした顔立ちは女の決心を見せつけた。
舞台劇の様な二人のセリフ回しはリアル感に乏しいが、それが抑揚をもって音楽のように響いてくるから驚きだ。
浄瑠璃の雰囲気を残しておきたかったのかもしれない。

映画は心中するために露天神の森へ向かう二人の姿を追い続けながら、ここに至った出来事を挿入していく。
愛する者のためになら一緒に死ねるという情念が男女ともに燃え上がるのだが、特にお初、梶芽衣子の一途な気持ちが迫ってくる。
二人は露天神の森で根を一つにする松を見つけ、それに体を縛り付けて心中を図る。
数珠を手にしたお初が喉を突いてくれと頼み、徳兵衛が刃を向けるが「俺が愛した女、可愛いと思って抱いたきた身体に傷が付けられるものか!」とためらってしまう。
お初はためらう徳兵衛を励まし命を果てるのだが、二人の愛が一気に燃え上がるシーンとなっている。
徳兵衛の刃で血を流すが、切りつけた傷では死ねない。
「苦しめるのか」とお初が漏らすと、徳兵衛はお初の喉に刃を突きさす。
お初の声がかすれていき、ぐったりとなる。
徳兵衛はお初の持ってきたカミソリで自らの喉を斬り、血がしたたり落ちる。
女の意地は愛を通すこと、男の意地はメンツを保って生き恥をさらさぬ誇りとばかりに、二人の意地が命を奪う。

二人の最後が壮絶なものとなるのは、直前に描かれた二人の幸せが見えたことによる。
それを引き立てるのが悪役九平次の橋本功である。
橋本功の怪演なくしては、宇崎竜童の徳兵衛も、ましてや梶芽衣子のお初も引き立たなかった。
何といってもこの作品では梶芽衣子なのだが、あえて大芝居を見せた橋本功は陰の功労者である。
徳兵衛、お初が心中に向かったところで、九平次のサギ行為が明らかになる。
まだ天満屋に滞在していた平野屋久右衛門が甥の無実を知り、九平次を傷みつける。
九平次に従っていた町衆や、天満屋の亭主が自分たちの浅はかさを詫びる。
そして自分の至らなさを反省した久右衛門は、お初の聡明さを認め、自分が身請けをして徳兵衛と所帯を持たせ江戸の店を任せようと述べる。
それが夢物語に終わることが分かってはいるが、「ああ幸せになれたのに…」と思ってしまう。
そこでかの九平次、橋本功が悪態をついて悲劇を盛り上げた。

もう少し我慢していれば幸せになれたのにという気持ちがあって、やはり胸打つラストシーンとなっている。
徳兵衛を演じた宇崎竜童の音楽が、ポップな心中映画を支えていたと思う。
音楽と相まって、悲劇と言うよりは何か前向きなものを感じさせる作品に思えたが、それが増村保造なのだろう。

卒業

2019-09-20 09:26:51 | 映画
「卒業」 1967年 アメリカ


監督 マイク・ニコルズ
出演 ダスティン・ホフマン
   キャサリン・ロス
   アン・バンクロフト
   マーレイ・ハミルトン
   ウィリアム・ダニエルズ
   エリザベス・ウィルソン
   バック・ヘンリー
   エドラ・ゲイル
   ウォルター・ブルック

ストーリー
学問でもスポーツでも、賞という賞を獲得して、ベンジャミン(ダスティン・ホフマン)は大学を卒業したが、それがなんのためなのか、彼は疑問を感じ、将来に対する不安でいらだっていた。
だが、そんなベンジャミンの心も知らず両親は盛大なパーティーを催した。
口先だけのお世辞やへつらいにいたたまれず部屋に逃げこんだベンジャミンを、ロビンソン夫人(アン・バンクロフト)が追いかけてきた。
この誘惑はベンジャミンにとって強い刺激となり、数日後、彼は自分の方からデートを申し込んだ。
こうして2人は、しばしばホテルで会うようになった。
だが、この2人の関係は、ロビンソン夫妻の娘エレーヌ(キャサリン・ロス)が学校休みで戻ってから、大きく崩れていった。
両親の勧めで、初めはいやいやながらエレーヌとつき合ったベンジャミンだが、その可憐さ、清純さに次第に本気で愛するようになった。
娘の恋に嫉妬したロビンソン夫人は捨身の妨害に出て、ベンジャミンとの関係を明らかにした。
ショックを受けたエレーヌは学校へ戻り、そのエレーヌをベンジャミンは追った。
だがそこは、ロビンソン夫妻が娘と結婚させようとしているカール(ブライアン・エイブリー)という青年がいた。
それでもベンジャミンは、エレーヌを追ったが、とうとうエレーヌとカールの結婚式が挙行されることになった。


寸評
手元に残っているパンフレットに記した日付を見ると1968年8月25日となっている。
僕はまだ高校3年生で、たぶん夏休み最後の映画として見に行ったのだろう。
直接的なシーンのない作品だが、それでもロビンソン夫人の艶めかしい誘惑シーンにドキドキしたことを思い出す正に思春期真っ只中の作品だった
ペンフレンドだったキャサリン・ロスばりの美人のⅠさんと京都に行く機会があってこの作品を語り合ったことも思い出すが、結婚したこともあってⅠさんとはいつの間にか音信不通となってしまった。

サイモン&ガーファンクルの唄う「サウンド・オブ・サイレンス」のメロディに乗って映画が始まるが、当時新鮮に感じたそのサウンドでもって冒頭から引き込まれたが、今聞いてもこのサウンドはいい。
サイモン&ガーファンクルが1966年にリリースしたアレンジ・バージョンの「スカボローフェア」も流れる。
歌詞の内容が字幕で流れる作品も数多くあるが、この作品では歌詞の内容は全く示されないので自分で調べるしかないのだが、調べてみるとその内容も作品にマッチしたものであったことが分かる。
(ベンがエレーヌのもとへ車を疾走させるシーン)
Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme
Remember me to one who lives there
For once she was a true love of mine.
スカボローの市へ行くのですか?
パセリ、セージ、ローズマリー、タイム
そこに住むある人によろしく言ってください
彼女はかつての私の恋人だったから

冒頭のHello darkness, my old friendで始まる「サウンド・オブ・サイレンス」も、ベンの不安な気持ちを代弁しているものだったことも分かる。
そんなことはどうでもいいと思えるくらい、この作品におけるサイモン&ガーファンクルのサウンドはよくて貢献度は計り知れないものがある。
「ミセス・ロビンソン」も映画のために書かれた曲ではなかったが、すっかり映画の為の曲となってしまった。
そう、この映画の主演はロビンソン夫人のアン・バンクロフトなのだ。
満たされない生活を送っているロビンソン夫人が強引にベンを誘惑するさまが面白い。
ロビンソン夫人は娘のエレーヌを嫌っているようなのだが、なぜそんな確執が生まれたのかは不明のままだ。
そんなことを無視して話はどんどん進んでいくテンポの良さもある。
公開当時、アメリカのブルジョアジーはこんなにも退廃的かと思ったりもしたが、同時にあこがれを感じたことも事実で、再見するとストーリー自体が息子の卒業祝いのパーティを開いたり、プールやバーのある家に住んでいる裕福家庭のたわごとであったことがかえって良かったのではないかと思えてきた。
最初は微笑んでいた二人が最終的に不安げな表情で終わるラストシーンも思わせぶりでいい。
略奪婚のピカイチ映画である。

そして父になる

2019-09-19 10:40:00 | 映画
「そして父になる」 2013年 日本


監督 是枝裕和
出演 福山雅治 尾野真千子 真木よう子
   リリー・フランキー 二宮慶多
   横升火玄 風吹ジュン 國村隼
   樹木希林 夏八木勲 中村ゆり
   高橋和也 田中哲司 井浦新
 
学歴、仕事、家庭といった自分の望むものを自分の手で掴み取ってきて、これまで順当に勝ち組人生を歩んできた大手建設会社のエリート会社員・良多(福山雅治)。
妻みどり(尾野真千子)と6歳になる息子・慶多との3人で何不自由ない生活を送っていた。
しかしこの頃、慶多の優しい性格に漠然とした違和感を覚え、不満を感じ始める。
そんな時、自分は成功者だと思っていた彼のもとに、病院から連絡が入る。
それは、良多とみどりの子が赤ん坊の時に取り違えられた他人の子だというものだった。
6年間愛情を注いできた息子が他人の子だったと知り、愕然とする良多とみどり。
相手は群馬で小さな電器店を営む貧乏でがさつな夫婦、斎木雄大(リリー・フランキー)とゆかり(真木よう子)の息子、琉晴。
良多たちは取り違えられた先の雄大とゆかりら斎木一家と会うようになる。
両夫婦は戸惑いつつも顔を合わせ、今後について話し合うことに。
病院側の説明では、過去の取り違え事件では必ず血のつながりを優先していたという。
みどりや斎木夫婦はためらいを見せるも、早ければ早いほうがいいという良多の意見により、両家族はお互いの息子を交換する方向で動き出す。
血のつながりか、愛情をかけ一緒に過ごしてきた時間か。
良多らの心は揺らぐ……。


寸評
これは取り違えで他人の子を育てていたという信じられないような事実を突きつけられて悩む二組の夫婦の物語であると同時に、主人公が父として人間として成長していく物語でもある。
その父親役を父親の経験がない福山雅治がいい感じで演じていて見直した(ちょっと失礼かな)。
彼の心の変化こそが、この映画の感動の源であり、カメラを通じたエピソードの伏線の張り方といい、実に丁寧に静かにストーリー立てしていて、それを支えていたのが俳優たちの見事な演技だった。
この映画にはキャスティングの妙がある。4人の親たちはピタリとはまっていた。
特に斎木家のリリー・フランキーと真木よう子の存在感は際立っていた。
子供と動物が出てくる映画はそれに喰われることが多々あるが、この作品の子供たちの自然な演技もまた素晴らしい。特に、愛されてはいるが優しすぎる性格に不満を持たれている慶多を演じた二宮慶多君がいい。
彼が私立の面接試験で入学塾の先生に言われた通りのウソの模範解答をすることから映画が始まる。
その時、お父さんは凧上げが上手だと答えたりしているのだが、これがすべての伏線となっていたように思える。
言われたままに素直に答える慶多の素直さや優しさを表すと同時に、野々宮家にある本人達も気がつかない欺瞞的な家庭環境を端的にあらわしていたように思う。
だからその後に「そして父になる」のタイトルが出たのではないかなと思うのだ。

斎木夫妻に対し傲慢な態度を繰り返す主人公に嫌悪感を抱くが、斎木は善で野々宮は悪という単純図式ではない。斎木も妻の意見に相乗りする軽薄さを見せたかと思えば、食事代なども病院に請求するセコさを持ち合わせ、夫婦して慰謝料の額を非常に気にしている嫌味な一面をのぞかせる。裕福ではなさそうな斎木雄大は新幹線代が病院から出たので慶多の入学式にやってくる。そちらの面では首尾一貫している人物である。
そのくせ、「金では買えへんもんもあるんや!」と叫ばせている。
自宅の庭で夏の計画を放して聞かせた時に、それを喜んでいる慶多の様子がそれとなく写し込まれ、この男の父親としての魅力をそれとなく見せて、ダメ父親でありながらいい父親でもある。野々宮良多の対極者としての存在だ。入学式で「どう見ても慶多という顔になっている」とつぶやくのは、環境が人を作ると言っているようでもあり、血よりも時間だと言っているようでもあった。
野々宮良多も上から目線の嫌な奴なのだが、仕事一辺倒で毎晩帰宅が遅く子供と全く係わりあわないという風でもないのだ。それなりの愛情を子供に見せ、少なからず父親をやってはいるのだ。
妻のみどりは仕事人間のように言うが、画面上では仕事一辺倒で子供に無関心な父親ではない。
このあたりの微妙性が現実的で、我々をしてどちらか一方に与することをさせない。

「やっぱりそういうことか…」とつぶやく野々宮良多の精神状況。
「母親なのになぜ気がつかなかったのか」と苦悩を見せる妻みどりの気持ち。
そして彼女の「だんだん可愛くなってくる。それまで育ててきた息子に悪い」という言葉に涙してしまう。
そして、これからどうなっていくんだろう?でもきっていい方向に行くんだろうなと思わせるラストは好きだ。
でもセミの話はちょっと説教臭かったな…。
是枝作品は総じてそうなのだが、ショッキングな内容の割にはそれを静かに静かに描いていく。
僕はどちらかと言えばそんな映画が好きで、この作品も期待を裏切らない秀作。

そこのみにて光輝く

2019-09-18 08:32:31 | 映画
「そこのみにて光輝く」 2013年 日本
 
 
監督 呉美保
出演 綾野剛 池脇千鶴 菅田将暉
   高橋和也 火野正平 伊佐山ひろ子
   田村泰二郎 奥野瑛太 あがた森魚
   猫田直 小林万里子 熊耳慶
 
ストーリー
ずっと続けていた仕事をある理由で辞めた佐藤達夫(綾野剛)は、毎日を自堕落に生きていた。
ある日、達夫がパチンコに興じていると、自分の近くに座っていた大城拓児(菅田将暉)という男にタバコの火を貸してほしいと頼まれ、それを機に達夫は拓児と知り合いとなり、拓児の家に出入りするようになる。
彼は前科者でチンピラ風情ながら無垢で憎めない奴だった。
拓児は海辺に建つ粗末なバラックに家族と暮らしていた。
両親と姉の四人暮らしである。
薄汚いバラックで生活を送る拓児たちは、貧困にあえぎながらも脳梗塞で寝たきりになっている父の面倒を見ながら生活している。
そこには寝たきりの父親(田村泰二郎)と、父親の世話をする母親(伊佐山ひろ子)、そして姉の千夏(池脇千鶴)がいた。
ある日、達夫が訪れたスナックで千夏に出くわす。
そのスナックでは売春が行われており、達夫は千夏が自分の体を売って生活していることを知ってしまう。
千夏と達夫はお互いを次第に求めるようになり、次第に惹かれ合っていく。
しかし、ある時、達夫は千夏が地元の有力者である中島(高橋和也)の愛人であることを知ってしまう。
中島は拓児の弱みを握っており、むやみに引き離すことは出来ない。
それを知った拓児は町で開催されていた祭りの会場に乗り込む。
拓児は中島を見つけると中島に詰めより、ある行動に出る。


寸評
脳裏に焼きつくのは池脇千鶴がやった千夏の豊満な肉体と、菅田将暉がやった拓児の軽薄さだ。
この役のために太ったのかと思わせる池脇千鶴は、家族を養うために体を売って稼いでいて、それでいて会社社長の中島との不倫関係も精算できないどん底の女の体だった。
動物的であると同時に、「最初から女です」と吐き捨てる強さの象徴でもあった。
拓児は軽薄ではあるが人懐っこいところもあり、野山で取った植木を大事に育てる優しさを垣間見せる。
仮釈放中の拓児は中島に保護司への報告書を書いてもらっていて頭が上がらない。
中島と姉の関係を知りながらも見ているしかなく、中島から小遣いなどをもらい媚びへつらっている。
そんな拓児も家族のために正業に就こうとするが、中島の姉への態度にキレてしまう。
母親は悪い人と付き合うからだと言うが、姉の千夏は拓児が自分のために取った行動だっと判っている。
拓児のとった行動は達夫と千夏を思っての行為だったと思うが、不器用なやり方しか出来なかったのだろう。
交番に向かう彼を見ていると無性に可哀そうになった。
根はいい人なんだが、どうにもならないどん底生活から逃れるために苦悩するんだが、それでもどうにもならない姿は、原作者を同じとする熊切和嘉監督の「海炭市叙景」とも通じる。
僕は作品を読んだことがないのだけれども、佐藤泰志という作家はそんな市井の人々のもがき苦しむ姿を描き続けた人なのかもしれない。
もしかすると、その抜けきれない絶望感から若くして自らも命を絶ったのかもしれないなと思ったりした。

甘いラブストーリーが吹っ飛ぶ息苦しくなるようなラブストーリーでもあるのだが、負からの脱出と再生の物語でもあり、達夫の妹からの手紙はその象徴でもあった。
過去に起きた事故の呪縛から逃れられずもがき苦しんでいる達夫と、今の生活に汲々としている千夏はお互いを慰め合うように導かれていく。
幸せを感じた千夏が海辺のあばら家の台所で鼻歌を口ずさむが、千夏の精一杯の喜びの表現だったと思うし、そこで語る父親との思い出がありながらも父親を殺そうとしてしまう姿は痛ましい。
そこのみの”そこ”とは、文字通りどん底の底でもあり、彼等が生きている世界そのものである。
千夏は辛うじて尊属殺人を犯すところを達夫によって救われる。
ラストでは彼らを救うように光が差し込むが、はたして神は彼等を救うのだろうか?
そんな風に思うと、池脇千鶴の豊満な姿はまるで仏さまの化身の様にも思えてきた。
わずかな希望を見出せたりするが、もう少し安心して映画館を出たかった作品でもある。

脳梗塞で倒れて体の自由を奪われ、母親が食事に投げ込む薬のせいか意識もはっきりしないのに性欲だけはある父親の田村泰二郎が、唯一の台詞とも思われる「千夏・・・」とつぶやく場面は、その前に千夏が父親との楽しい思い出を語っているだけに重い場面だ。
感動的と言うより重いと感じるのは、性欲のはけ口に娘が応えていたからだったと思う。
千夏が起こす事の前に、散歩に出される伊佐山ひろ子も、通り一遍なダメな母親の姿ではない、どうしようもないので時間に任せるしかない情けない母親を好演。
高橋和也や火野正平の脇役陣もハマっていたが、綾野剛はこんな役も出来たんだなあ・・・。

早春

2019-09-17 09:09:29 | 映画
「早春」 1956年 日本


監督 小津安二郎
出演 淡島千景 池部良 高橋貞二
   岸恵子 笠智衆 山村聡
   藤乃高子 田浦正巳 杉村春子
   浦辺粂子 三宅邦子 東野英治郎
   三井弘次 加東大介 須賀不二夫
   田中春男 中北千枝子 中村伸郎

ストーリー
杉山正二(池部良)は蒲田から丸ビルの会杜に通勤しているサラリーマンである。
結婚後八年、細君昌子(淡島千景)との仲は倦怠期である。
毎朝同じ電車に乗り合わせることから、いつとはなく親しくなったのは通勤仲間の青木(高橋貞二)、辻(諸角啓二郎)、田辺(須賀不二夫)、野村(田中春男)、それに女ではキンギョという綽名の金子千代(岸恵子)などである。
退社後は麻雀やパチンコにふけるのがこのごろでは日課のようになっていた。
細君の昌子は毎日の単調をまぎらすため、五反田の実家に帰り、小さなおでん屋をやっている母のしげ(浦辺粂子)を相手に、愚痴の一つもこぼしたくなる。
通勤グループと江ノ島へハイキングに出かけたその日から、杉山と千代の仲が急速に親しさを増した。
そして杉山は千代の誘惑に勝てず、ある夜、初めて家をあけた。
それが仲間に知れて、千代は吊し上げを食った。
夫と千代の秘密を見破った昌子が家を出た日、杉山は会社で同僚三浦(増田順二)の死を聞かされた。
彼の死は杉山に暗い後味を残し、仕事の面でも家庭生活の上でも、杉山はこの機会に立ち直りたいと思った。
一方、昌子は家を出て以来、旧友の婦人記者富永栄(中北千枝子)のアパートに同居して、杉山からの電話にさえ出ようとしなかった。
杉山の転勤が決まり、赴任先は岡山県の三石だった。
途中大津でおりて、仲人の小野寺(笠智衆)を訪ねると、小野寺は「いざとなると、会社なんて冷たいもんだし、やっぱり女房が一番アテになるんじやないかい」といった。
山に囲まれた三石に着任して幾日目かの夕方、工場から下宿に帰った杉山は、そこに昌子の姿を見た。
二人は夫婦らしい言葉で、夫婦らしく語り合うのだった。


寸評
小津の映画にはビルを切り取ったショットと電車がよく出てくる。
「早春」は正にその電車での通勤仲間を通じて起きる物語である。
そして小津映画に欠かせなかったのが原節子で、小津の映画は原節子と共にあったといっても過言ではないのだが、この映画では原節子を起用せず岸恵子を起用している。
松竹としては「君の名は」で大スターの仲間入りをした岸恵子を起用したかったのかもしれないが、キンギョの役は清楚な原節子には無理で、彼女がやれば全然違った雰囲気の作品になっていただろう。

小津はサラリーマンというものに疑問を持っていたのかもしれない。
目に付くのは場面と人を代えて何度もサラリーマンの悲哀が語られることである。
地方営業所からかつての上司で仲人でもある笠智衆が上京し、二人して池部良のかつての上司であった山村聡が経営するバーを訪ねるのだが、そこで交わされる笠智衆と山村聡の言葉は、サラリーマン生活について悲観的なものばかりで、池部良に対してサラリーマンなどは早くやめてしまったほうがいいなどと勧めている。
また転勤を決意した池部良がそのバーを訪ね、居合わせた定年まじかの東野英治郎が自分のサラリーマン生活がどんなに何もない空しいものであったかを切々と語っている。
また、同僚だった三浦の通夜の席で弔問に訪れた山村聡に、「あいつもサラリーマン生活の嫌な側面を見ないうちに死んで、かえってよかった」と語らせている。
転勤途中で訪ねた笠智衆にも、「会社なんていざとなれば冷たいもので、妻ほどあてになる存在はないと言わせているのである。
確かにサラリーマン生活にはそのような側面もあると思うが、しかし完全否定するようなものでもないと思う。

全編を通じてのテーマは家庭の崩壊危機と再生である。
危機は夫の浮気によってもたらされる。
非は夫にあるのだが、男の僕から見ても随分と男性擁護をしているなあとも感じ取れる。
淡島千景は度々実家の母である浦辺粂子のもとを訪れ、亡くなった子供の命日を忘れているなどと夫の愚痴をこぼしているのだが、母親は「自分だって死んだ亭主の命日を忘れることがある」と言って娘をなだめ、夫の不倫を非難する娘に向かって、つまらぬやきもちは焼くなと説教したりもしている。
キンギョは杉山との不倫を通勤仲間の男性から責められるのだが、その論理は「他の女の亭主には手を出すな」という封建道徳の域を出ないものだ。
そのくせ、キンギョがいなくなると「杉山は上手いことやった」と羨ましがっているのである。
仲人の笠智衆からの手紙には「細かいことにこだわるな。傷はまだ小さいうちに塞いでしまった方がよい。色々あって夫婦関係は育っていく」という風なことが書いてあり、男性擁護の論理と言える。
しかし、この手紙があり、夫の謝罪があって夫婦関係は再生に向かうことになっているのだが少々甘い。
池部良が謝罪して許しを請うと淡島千景は「もう言わないで。なにもかも忘れてやり直しましょう」と言う。
山陽線の列車が三石の駅をゆっくりと出発するところが映ってエンドとなるのだが、始まりも蒲田駅を出たと思われる列車だったから、列車に始まり列車に終わっているということになる。
小津は列車が好きだなあと思う。

ソーシャル・ネットワーク

2019-09-16 18:02:57 | 映画
「そ」の段に入ります。


「ソーシャル・ネットワーク」 2010年 アメリカ


監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 ジェシー・アイゼンバーグ
   アンドリュー・ガーフィールド
   ジャスティン・ティンバーレイク
   アーミー・ハマー
   マックス・ミンゲラ
   ブレンダ・ソング
   ルーニー・マーラ

ストーリー 
2003年の秋。
ハーバード大学の学生にして天才プログラマー、マーク・ザッカーバーグは、腕利きのハッカーだったが人付き合いに関してはおくてで恋人のエリカにフラれ寮の自室に戻り、やけでビールを飲みブログに彼女の悪口を書いていたが、やがて腹いせに学内のデータベースをハッキングして、女子学生たちの顔写真を使った人気投票サイトを作ってしまう。
このサイト“フェイスマッシュ”はたった2時間で22,000アクセスに達し、マークの名前はハーバード中に知れ渡る。
そんな彼の技術に目を付けたのが次期オリンピックにも出場が期待され、資産家の家に育ったボート部の双子のウィンクルボス兄弟だった。
彼等は学内交流を目的としたサイトへの協力を持ちかける。
しかしマークは、親友のエドゥアルドを誘って、ハーバードの学生を対象としたソーシャル・ネットワークのサイトを立ち上げる。
するとそれは瞬く間に登録者を増やし、急速に拡大していく。
これが利用者全世界5億人以上のSNS“フェイスブック”の始まりだった…。
2004年。
ウィンクルボス兄弟は憤慨していた。
自分たちが企画した学内男女のインターネット上の出会いの場“ハーバードコネクション” 立ち上げのためマークに協力を要請していたが、彼は“フェイスブック”を立ち上げてしまったのだ。
一方、“フェイスブック”の共同創業者&CFO、エドゥアルド・サベリンとマークはNYへ広告スポンサー候補との会合に出かけ、19歳で“ナップスター”を作ったショーン・パーカーに出会う。
ショーンは“フェイスブック”が目標にすべき評価額は10億ドルだとアドバイス、そこまで成長させるためカリフォルニアに来るように持ちかける。
マークはスタッフを増やしサーバーを増設、ショーンは次々に投資家とのミーティングを設定するが、それに怒ったエドゥアルドは会社の口座を凍結する…。
やがてウィンクルボス兄弟はアイデアを盗用されたと言い、エドゥアルドは創業者としての権利を主張しマークを告訴した…。


寸評
ブラインドタッチで打ち続けられるキーボードの様にIT用語を交えた会話が飛び交う。
英語の出来ない僕は、速射砲のように放たれるその会話の字幕を追うのに必死で画面から目が離れてしまうぐらいだ。
このセリフの山が彼等の世界の状況を端的にあらわしてこの映画の雰囲気を醸し出している。
そして冒頭のマークとエリカの会話シーンがマークの変人ぶりを印象付ける。
まったく話がかみあわず、マークは攻撃的にしゃべり続ける。
おまけにハーバード大学の彼はボストン大学のエリカを見下げているところがあり、差別的発言も連発する。
対面ではまともなコミュニケーションが取れないマークがネット上ではとてつもないコミュニケーションサイトを作り上げてしまうところが面白い。
これが架空の物語だったら何てことはないのだが、半実話なだけに薄気味悪くもある。

マークが後に起こされた2つの裁判を通じて、それまでに何が起こったのかを明らかにするのが全体の構成だが、その中でマークを全くの悪者にしていないところが良い。
変人ではあるが多様な内面を見せ、誤解を受ける性格も描き出されていて人物像は奥深く描かれている。
途中から登場するショーン・パーカーもマーク以上の幼児性を持っていて、彼らを取り巻く女性たちも警察に問い詰められたとたんに幼児性を見せる。
ネット社会は幼児性を多分に持った社会で、そんな彼等でも億万長者に成り上がれる特殊な世界なのだろうかと思ってしまう。
しかし、ある分野における天才なのだろうということも理解させられた。
流石はハーバードだと映画を見ている間中感じていた。
優秀な人材が集まっていそうだし、なにより僕が通っていた大学とは全く雰囲気が違っていて、かの大学の雰囲気を多分に楽しんでいる自分がいた。
自ら立ち上げた“フェイスブック”で忘れることが出来ないエリカからの返事を待つマークの姿は、バーチャルな世界でしか交友を作れない人間の寂しさを感じて、なんだかやはり欠陥人間のような気がする。
才能と資産のない者にとっては負け犬の遠吠えかもしれないが…。
ブログに書いたことが瞬く間に広がっていく怖さや、SNSが加速度的に広がっていくネット社会が描かれているが、それらが持つ危うさを訴えるのではなく、あくまでも今日を取り巻く状況の現実を見せている。
ハーバード大学のアジア系留学生も登場するが、どう見ても中国系の学生で世界の中の日本人の存在が希薄になっていることを感じさせられ映画とは関係ない不思議な感覚を持った。
何十年もした後でも輝きを保っている映画とは思わなかったが、今の時代を描いた今見る映画としては中々の秀作だ。