おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ビッグ・フィッシュ

2024-06-30 06:14:33 | 映画
「ビッグ・フィッシュ」 2003年 アメリカ


監督 ティム・バートン
出演 ユアン・マクレガー アルバート・フィニー
   ビリー・クラダップ ジェシカ・ラング
   ヘレナ・ボナム・カーター アリソン・ローマン
   ロバート・ギローム マリオン・コティヤールストーリー

ストーリー
息子のウィルとその父エドワード・ブルームは、3年前のウィルの結婚式で仲違いをしてしまった。
父はウィルが生まれた日に、結婚指輪を餌にして巨大な魚を釣り上げたと、その場にいた人々を沸かせたのだが、その話を何回も聞いているウィルはウソの昔話をまたしていると父を責めた。
それから父と疎遠になっていたウィルは、病で倒れたという父のもとにやってきた。
しかし同じように父は過去の話をウィルに話しはじめるのだった。

エドワードは大人になると町で人気者となった。
しかし、ある日町にやってきた巨人カールを町から遠ざけるために一緒に旅にでた。
途中でスペクターという町にたどり着き、詩人ノザー・ウィンズロウ、ジェニファーという少女に出会った。
町をでたエドワードはカールとともにサーカス団に加わった。
サーカス団のサンドラという女性に恋をしたエドワードは彼女と結婚したのだが、戦争に駆り出されてしまった。
中国やロシアなど危険な任務をこなしサンドラのもとにエドワードは帰ってきた。

ウィルはジェニファーと父が浮気をしていたのではと疑いジェニファーのもとを訪れる。
ジェニファーはエドワードが町を救ってくれたことなど彼の思い出をウィルに話して聞かせた。
ウィルの質問にジェニファーは父が決して母を裏切らなかったと話し、ウィルは父の元へと戻った。
ウィルが戻ると、発作をおこして危険な状態の父はウィルに自分の死ぬときの話を聞かせてくれと頼んだ。
父から死ぬときの話は一度も聞いたことのなかったウィルだったが、父が今まで出会った人々に囲まれながら、大きな魚となって川へと泳いでいくという空想の話を父にきかせた。
ビッグ・フィッシュの正体は父であったと締めくくるウィルにエドワードはその通りだと答える。


寸評
年老いたエドワード(アルバート・フィニー)と大人になったウィル(ビリー・クラダップ)が生きる「今」と、若かりし頃のエドワード(ユアン・マクレガー)の冒険を描く「過去」が交互に描かれ、父と子の和解へと導いていく。
「過去」のパートは思いっきり鮮やかで華やかに彩られているファンタジックな作品だ。
息子が子供の頃は父の話を面白おかしく聞いていたが、それがホラ話だとわかる年齢になると、毎回聞かされることに辟易して疎遠になってしまっている。
しかし、聞かされる話として、愚痴や自慢話より失敗談の方が断然面白いものだ。
時として失敗談も自慢話に聞こえることも有るが、聞く側として話を楽しく聞くことが出来る。
話す方としては受けを狙う気持ちもあって、往々にして話を盛る傾向があると思う。
エドワードのホラ話はそのように盛られたものだったのだろう。
本当ではないが、全くの作り話でもなかったのだと思う。
母親のサンドラは「本当のこともあったのよ」と語るが、その事を知ったウィルの行動からラストに向かう展開が「ビッグ・フィッシュ」というタイトルを浮かび上がらせる。

エドワードのファンタジックなホラ話の本当はどうだったのかを想像するのも楽しい。
5メートルもある巨人は2メートルを超える大男だったのではないかとか、下半身が一つの双子の美女歌手は普通の双子だったとか(実際そうであったように示されている)、ノザーの多額の謝礼で白い柵の現在の家を手に入れたのは本当だったのではないかなどだ。
お化け屋敷の魔女の正体も上手く処理されている。
過去の話が華やかな色彩で描かれるのに対し、今の世界は落ち着いた色調で語られる。
ウィルと違って、エドワードが愛するサンドラと、ウィルの妻はエドワードを理解して寄り添っているようで、死を迎えるエドワードにそのような人がいたことは彼にとって幸せなことだったと思う。

死を迎えようとしているエドワードが息も絶え絶えにウィルに自分の最期の話をしてくれと頼む。
ウィルは父親がやったようにホラ話の結末を考えながら話し出す。
その話の結末はエドワードが口から金の婚約指輪を出してサンドラに渡すと言うもので、エドワードが話していたビッグ・フィッシュはエドワードその人だったということだ。
葬儀の参列者は喪主を初めとして生きている人の人脈によることが多いと思うのだが、エドワードの葬儀に集まった人たちはエドワードを慕って参列した人たちだったと思う。
エドワードも「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す」に該当する人だったと思う。
確執のあったウィルもその事を知ったのだろう。
数年後、実家のプールで遊んでいるウィルの息子は友達に「おじいさんは5メートルの大男と戦ったことがあるんだ」と自慢すると、ウィルは「そうだよ」と答える。
ホラ話は父から息子へ、そのまた息子へと語り継がれていく。
そのようにして長い年月を語り継がれたホラ話はやがて伝説となって残るのだろう。
各地に残る伝説はそのようにして出来上がったのかもしれない。
ティム・バートンらしい作品で子供たちも楽しめるのではないかと思う。

悲愁物語

2024-06-29 08:07:46 | 映画
「悲愁物語」 1977年 日本


監督 鈴木清順
出演 白木葉子 原田芳雄 岡田真澄 和田浩治
   佐野周二 小池朝雄 宍戸錠 野呂圭介
   仲谷昇 葦原邦子 左時枝 江波杏子

ストーリー
女子体操競技で世界中を熱狂させたチェブルスカをライバル社の極東レーヨンにさらわれた日栄レーヨン社長の井上(仲谷昇)は、対抗馬のタレント発見を急ぐよう命令する。
企画室長の森(玉川伊佐男)や広告代理店の田所(岡田眞澄)は、若くてプロポーション抜群のプロゴルファー・桜庭れい子(白木葉子)の起用を決定し、れい子をまず女子プロゴルフ界のチャンピオンにしなければと、雑誌「パワーゴルフ」の編集長でれい子の恋人でもある三宅(原田芳雄)に特訓をたのむ。
三宅に依頼を受けた高木(佐野周二)のハード・トレーニングによって、れい子が全日本女子プロゴルフ選手権に優勝したことで彼女の人気は爆発し、日栄レーヨンのポスターは店頭からまたたくまになくなった。
れい子は、日栄レーヨンと専属タレント契約を結び、五千万円を手にする。
れい子は、弟の純(水野哲)といっしょに郊外に大邸宅を構え、テレビのホステスにも起用された。
しかし、れい子の家の近所の主婦たちの憧れは、しだいにドス黒い嫉妬へと変っていった。
多忙なれい子の唯一の心のやすらぎは、三宅の胸に抱かれている時だけであった。
そんなある日、三宅とれい子の乗った車が近所の主婦、仙波加世(江波杏子)をはねてしまった。
実は、れい子に嫉妬した加世が自分から車に飛び込んだのだが、二人はその場を逃げてしまった。
れい子の弱みをにぎった加代は、れい子をメイドのように酷使し、邸宅を我が物顔で使用して友子(左時枝)など近隣の主婦たちと傍若無人の大騒ぎを繰り返す。
あろうことかそのうえ、加世はれい子に自分の亭主(小池朝雄)に抱かれることを命じた。
姉を自分だけのものと思っていた純が、ついに主婦たちの蛮行に怒りを爆発させた。

寸評
製作は三協映画と松竹で、制作者に梶原一騎、藤岡豊、川野泰彦           、浅田健三、野村芳樹が名を連ねている。
劇画の世界の梶原一騎、テレビアニメの世界の藤岡豊、実写映画の世界の川野泰彦という別々の世界で存在していた製作者が「三人で協力する」ものして命名されたのが三協映画である。
これに脚本家の大和屋竺が加わり、10年間ほされてどうしようもなかった鈴木清順が監督することで、最高にどうしようもない作品が出来上がったと思えるのがこの「悲愁物語」である。
鶏頭牛尾で、どうせなら最高の駄作となっていることで存在感を示しているというのが僕の印象だ。

前半はプロゴルファーを目指すスポコン物の雰囲気でスタートするが、B級どころか子供だましもいい加減せよと言いたくなるような描写が続く。
それが後半に入るとホラー映画の様相を呈してきて、普通の女が魔女のような女の魔女狩りによって破滅に向かう姿を描くようになる。
狂った女を演じる江波杏子の存在感が際立っている。
突如、江波杏子の顔が緑色になる時があるのだが、それ以外にも色が強調されるシーンが随所にちりばめられていることに自然と気が付く。
緑は狂気の象徴であり、黄色は生を、黒は死を表し、白は無垢であり赤は性を表していたと思う。
少年純が彼を慕う少女と対面するときは白いシャツを着ていて、彼は部屋を黄色の縄梯子で出入りしている。
そう言えば純たちが語らう背景は桜が満開で、最後のれい子が着ているドレスにピンクの模様が浮かんだから、ピンクは愛の象徴だったのかもしれない。
れい子が三宅と接触する時のマニュキュアの色はまっ赤であり、加代と接触する時は緑もしくは黒、純と乃入浴シーンでは黄色が用いられている。
もちろんれい子の最後のマニュキュアは黒であり、分かりやすい演出だ。
三宅と田所が殴り合いを繰り広げる場面では、あたかも赤と緑の対決と言った風だった。

れい子を演じたのが白木葉子という新人女優である。
記憶に残る女優さんではなかったように思うが、僕たちの年代の者にとって白木葉子と言えば、梶原一騎原作、ちばてつやによる「あしたのジョー」における矢吹丈をリングへ導く財閥令嬢でありヒロインの白木葉子なのだ。
梶原一騎が制作者の一人だったから、このヒロインの名前を芸名にしたのだろうと思われる。
白木葉子が演じるれい子が江波杏子演じる仙波加世によって蝕まれていく様子は滑稽なぐらい強調的に描かれているが、言いがかりとも言える理由で逆恨みの犯行を起こす事件は珍しいことではなくなっている。
社会はやはり蝕まれているのだろう。
野次馬的な主婦たちの恐るべきパワー、モンスター主婦の出現である。
僕は江波杏子よりも、この主婦たちの方に嫌悪感と恐怖感を持った。
江波杏子は悪意を持って行動しているが、主婦たちは罪悪感をまったく持っていなくて、群集心理によるある種の暴動行為である。
抹殺すべきは登場した主婦たちではなかったか。
それにしても自己満足に徹したヒドイ映画だったなあ。

バロン

2024-06-28 05:49:11 | 映画
「バロン」 1989年 アメリカ


監督 テリー・ギリアム
出演 ジョン・ネヴィル サラ・ポーリー
   エリック・アイドル オリヴァー・リード
   ジョナサン・プライス ロビン・ウィリアムズ
   ユマ・サーマン ヴァレンティナ・コルテーゼ

ストーリー
18世紀後半、ドイツはトルコ軍の攻撃に晒されていた。
指揮官のホレィシオ・ジャクソン参謀長は、自分の命令に逆らう部下を次々と処分していた。
廃墟の中に建つ劇場では、ヘンリー・ソルト一座による『ミュンヒハウゼン男爵の冒険』が興行されていたが、突然本物のバロンを名乗る老人が乱入。
彼は、今回の戦争の原因は自分にあると主張し、そのいきさつを語りだした。
老人が回想していたところにトルコ軍の砲撃が始まり、劇場にも直撃する。
老人は負傷するが、一座の娘であるサリーに救われる。
物語の続きを聞きたがるサリーだが、砲撃を再び始めたトルコ軍に老人は反撃を決意。
ヘンリーから嘘つき扱いされる老人だが、一座の女優に頼られた老人は町を救うと宣言。
援軍を呼ぶべく、熱気球で町から脱出したバロンだったが、気球には密かにサリーも乗っていた。
2人はバートホールドのいる月へと向かい、20年前に幽閉されたきり記憶喪失となっていたバートホールドを連れ出して月を脱出する。
月を脱出した一行はエトナ火山の火口に落下して、剣から核兵器まであらゆる武器を製造しているバルカンのもてなしを受け、メイドとして働いていたアルブレヒトと再会。
しかし、バロンはバルカンの妻ヴィーナスとのダンスに夢中になって街のことを忘れてしまう・・・。
果たしてバロンとその家来達、そしてサリーは町を救い出すことができるのか?


寸評
ほら吹き男爵が語る話がホラなのか本当の出来事なのか混とんとしてくるファンタジー映画なのだが、ファンタジー映画であるからには楽しくなくてはならない。
しかしこの作品、金をかけている割には楽しくないし面白くない。
ホラ男爵の話を上演している舞台に、ホラ男爵本人がやってくるまではいいのだが、そこからの展開は自己満足に過ぎないような場面が延々と続く。
僕などは途中で眠気を催してしまった。
こんなデタラメな映画がこんなにも大規模なセットで大金をかけて撮られたと言う事がファンタジーである。
キャラクターはそれなりの魅力を持っているのだが、気に入ったのは羽を持った死に神くらいだった。
バロンには4人の家来がいる。
俊足のバートホールド、射撃の名手アドルファス、驚異的な肺活量を持つ小人グスタヴァス、怪力の持ち主アルブレヒトである。
バロンはエジプト旅行の帰途でサルタンから勧められたワインよりも美味しいトカイワインを持参する賭けを行う。
ワインを取りに行くのは俊足のバートホールドで、すごい勢いで走っていくがウサギとカメのウサギよろしく油断したのか途中で眠ってしまう。
その目を覚まさせるのが、遠くが見渡せる射撃の名手のアドルファスで、とんでもない距離の所にある木の下で眠りこけるバートホールドに銃弾を撃ち込んでたたき起こす。
再び走り出したバートホールドは約束の時間を計る砂時計の最後の一粒が落ちる直前に到着する。
掛けに勝ったバロンは約束通り、持てるだけの財宝を貰うことになる。
力持ちの大男であるアルブレヒトは財宝の総てを持ち上げて運んでしまう。
怒ったサルタンが襲ってくるが、グスタヴァスが噴き出す息で撃退する。
それぞれの得意技を要領よく描いているのだが、バカバカしすぎて笑えないし騒がしすぎると感じる。

バロンは子供みたいな爺さんで、基本的には肌がしわくちゃな爺さんなのだが、途中で肌がつやつやして少し若返ったりして、年寄りと若返りを繰り返している。
どうやら、自信をなくしたり傷心したりするとしわが目立つ老人となり、逆に自信を取り戻したり気持ちが高揚してくると若返っているらしいのだが、そのような細かい配慮もよくよく注していないと気が付かない。
なぜなら少々飽きがきてぼんやりと眺めているだけになってしまっているからだ。
僕は最後がどうなったのかすら覚えていない。
印象の少ない作品だがボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」よろしく登場してくるユマ・サーマンだけが脳裏に残った。
僕は本作以外にテリー・ギリアムの作品を見ていないのだが、テリー・ギリアムは2018年に「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」という作品を撮っている。
どうもこの人自身をドン・キホーテに感じてしまう。
大金をつぎ込みながら制作費を回収することはできなかった作品だが、当時の最先端を行く特撮を使ってこれだけ好き勝手に作った作品があったということで記録されるかもしれない。
稀有な作品である。

パリで一緒に

2024-06-27 07:29:06 | 映画
「パリで一緒に」 1963年 アメリカ


監督 リチャード・クワイン
出演 ウィリアム・ホールデン オードリー・ヘプバーン
   グレゴワール・アスラン ノエル・カワード
   レイモン・ビュシェール トニー・カーティス

ストーリー
脚本家ベンスンはパリのホテルで彼の友人マイヤハムが金を出している新作映画のシナリオを執筆していた。
期限はあと2日というのに書いたのは少しだけ。
彼はガブリエルというタイピストを雇ったが、それは彼のシナリオにも良い結果を生んだ。
シナリオは以下のようなものだった。
リックという大盗賊が、俳優フィリップがギャビーとのデイトをすっぽかしたため、ギャビーを誘惑し、おとりにして警察の目をくらませ、大仕事をしようと企んだ。
ところが、ギャビーは実はパリの売春婦で、警察の手先になってリックの行動を探っていたのだ。
それを知らないリックは彼女を伴って撮影所に行き、大作フィルムを盗み出した。
そして、リックは彼女を警察のスパイと見抜き殺そうとしたが・・・。
シナリオの口述をここまで聞いたガブリエルはベンスンの人柄にひかれ、恋心を抱くようになった。
脚本の続き・・・リックは盗んだプリントで大金をゆするが失敗した。
そしてギャビーは警官をだまして1室にとじこめ、2人は空港に逃げた。
リックが待たせてあった飛行機に乗ろうとしたとき、監禁された部屋から脱出、追って来た警官に撃たれ、ギャビーの腕の中で死んだ。
脚本は完成したが、リックがベンスンに思えるからガブリエルは気に入らなかった。
締め切りの日、ベンスンが目を覚ますとガブリエルの姿がない。


寸評
脚本家のベンスンが脚本内容をタイピストのガブリエルに語り、その内容が描かれていくというだけの映画で、オードリー・ヘプバーンがガブリエルを演じていなかったら単なるお遊び映画となっていただろう。
脚本が映画シーンとなって描かれるが、先ず登場するのがマレーネ・ディートリッヒで、彼女はその1シーンだけの出演となっている。
作中映画の主題歌をフランク・シナトラが歌っているが、それもわずかな時間となっている。
トニー・カーティスなんかは出番が多い方であるが、作中で何回もお前は端役だと言われるというジョークが盛り込まれている。
兎に角ゲスト出演が多い映画である。
ゲスト出演だけではない。
ウィリアム・ホールデンが劇中映画で演じている男の名前はリックで、これは「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが演じた役名で、オードリー・ヘプバーンが劇中映画で演じた女性の名はギャッビーで、これは「望郷」でジャン・ギャバンのペペル・モコがラストで叫ぶ女性の名前で、名作映画へのオマージュが感じられる。
ウィリアム・ホールデンは「ティファニーで朝食を」や「マイフェア・レディ」を語っていて、どちらもオードリーの主演作だから楽屋オチだと思うのだが、「マイフェア・レディ」はこの作品よりも制作年度は後だから、もしかしたら「マイフェア・レディ」の制作とオードリーの出演がすでに決まっていたのかなと思ったりする。

ベンスンとガブリエルの恋が、ベンスンの脚本に従って描かれるリックとギャッビーの恋に重なるように描かれるが、リックとギャッビーの恋は劇中映画の中の事だと分かっているので盛り上がりを感じない。
シリアスでもないし、コメディでもないお遊び映画に付き合って、ロマンチックな雰囲気を楽しむだけのものとなっている。
僕はオードリー・ヘプバーンの主演作を何本か見ているが、その中では最低の出来栄え作品だと思う。
オードリー自身が、「撮影はとても楽しかったので、映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べているから、彼女もこの映画の出来栄えを評価していなかったのだろう。
同時進行していた「シャレード」の方が格段に出来が良い。

オードリー・ヘプバーンと言えば何といっても「ローマの休日」なんだろうけど、彼女の魅力が一番発揮されていたのは次の「麗しのサブリナ」だったと思う。
作品的には「ローマの休日」以外では1967年の「暗くなるまで待って」、1963年の「シャレード」、1961年の「ティファニーで朝食を」などが好きだな。
でもオードリーの相手ってどうして中年の男ばかりなのだろう。
同世代だとリアルすぎて彼女の持つファンタジー的な魅力が削がれてしまうからなのだろうか。
何れにしても僕にとっては外国の映画女優の中において、名前で劇場へ向かわせた唯一の女優と言っても良い存在であったことは間違いがない。
そのオードリーをもってしても、この作品はいただけない。
制作も兼ねるリチャード・クワイン監督の遊びが過ぎた作品だったように思う。

張込み

2024-06-26 07:08:24 | 映画
「張込み」 1958年 日本


監督 野村芳太郎
出演 大木実 宮口精二 高峰秀子 田村高広 高千穂ひづる

ストーリー
警視庁捜査第一課の下岡(宮口精二)と柚木(大木実)は、質屋殺しの共犯石井(田村高廣)を追って佐賀へ発った。
主犯の山田(内田良平)の自供によると、石井は兇行に使った拳銃を持っていて、三年前上京の時別れた女さだ子(高峰秀子)に会いたがっていた。
さだ子は、今は佐賀の銀行員横川(松本克平)の後妻になっていて、石井の立寄った形跡はまだなかった。
両刑事はその家の前の木賃宿然とした旅館で張込みを開始した。
さだ子はもの静かな女で、熱烈な恋愛の経験があるとは見えなかった。
ただ、二十以上も年の違う夫を持ち、不幸そうだった。
猛暑の中で昼夜の別なく張込みが続けられた。
三日目、四日目、だが石井は現れなかった。
柚木には肉体関係までありながら結婚に踏みきれずにいる弓子(高千穂ひづる)という女がいたが、近頃二人の間は曖昧だった。
柚木に下岡の妻(菅井きん)の口ききで、風呂屋の娘(川口のぶ)との条件の良い結婚話が持ち上り、弓子の方には両親の問題があったからだ。
一週間目。柚木が一人で見張っていた時、突然さだ子が裏口から外出した。
あちこち探した末、やっと柚木は温泉場の森の中でさだ子と石井が楽しげに話し合っているのを発見した。
彼が応援を待っていると、二人はいなくなった。
再び探し当てた時、さだ子は石井を難きつしていた。
だが彼女は終いには彼に愛を誓い、彼と行動を共にすると言った。


寸評
ただただ張り込みを続けているだけの映画なのだが、やけに緊迫感を感じさせる作品である。
それをもたらせているのは暑さの表現だろう。
単調な内容だけにきめ細かい演出がなされている。
大木実と宮口精二が横浜から佐賀に向かう列車内の様子を延々と映し出す。
車内は満員で、横浜から乗車した彼らは座ることが出来ない。
混雑具合は通路に座り込む乗客がいることで示される。
東京から乗ればよかったのだが、そうできなかった理由が後半で明かされるという行き届いた演出が見て取れる。
通過駅が次々示され、乗客の交わす会話の話し言葉もそれにつれて変わっていく。
タイトルが出るまでの長い描写で、観客は暑さにあえぐという状況を脳裏に刷り込まれる。
なかなかシャープな出だしである。

彼らは犯人の田村高廣が訪ねてくるかもしれない高峰秀子を向かいにある旅館の二階から見張ることになる。
このアングルも緊張感を維持するのに一役買っている。
俯瞰的なアングルで高峰秀子の様子を見降ろすのみで、余計なショットが挟まれることがない。
見張られている高峰秀子のセリフがほとんどないのもよくて、彼女の生気のない生活が強調されている。
彼女は先妻の子供が三人いる後妻なのだが、夫はその日に必要な生活費を毎日渡すケチな銀行員である。
夫からは小言を言われ、生活は判で押したように時間通りで、交わす会話もおざなりだ。
虐げられているような単調な生活を描き続けることで、生き甲斐を見いだせない平凡な主婦の印象を植え付け、大木実でなくても同情してしまう。
汗だくとなる毎日を部屋に閉じこもって見張る彼らの様子が描き続けられる。
雰囲気に変化をつけるために、そんな彼らに疑問をぶつける宿屋の人へ、ベテラン刑事の宮口精二が軽妙に答えて誤魔化すエピソードを挟んでいる。
間髪を入れずに軽妙な答えを返すのがやけに面白くて、サスペンス映画でありながらユーモアを感じさせるものとなっているのがいい。
犯人に会うのではないかと思われるシーンも無理のないものとなっている。

無口で表情の変化を見せなかった高峰秀子が田村高廣と会ったとたんに豹変する。
生き返ったかのような態度を見せ、それまでの抑圧した生活から解放されたような女に変身するのだ。
二人の会話を聞き入る大木実だが、会話の内容は大木実にも共通するものであることが奥深い。
逮捕劇は高峰秀子がいない所で行われ、逮捕を知った高峰秀子が泣き崩れる。
ずっと見続けて彼女の立場を知っている大木実が、今帰ればご主人が帰ってくる時間に間に合うと告げる。
彼女は燃え上がった時間から、また死んだような生活に戻らねばならないのだと暗示される。
逮捕された犯人に、まだ若いのだからやり直すことが出来ると励ますのだが、それは大木実が自分自身に言い聞かせていたのだろう。
彼は高千穂ひづると結婚することになるのだろうが、そうなると彼女の一家はどうなるのだろうと不安になった。
刑事ドラマとして、ただ見張るだけの映画なのに随分と見ごたえのある作品となっている秀作だ。

花のれん

2024-06-25 07:58:27 | 映画
「花のれん」 1959年 日本


監督 豊田四郎
出演 淡島千景 花菱アチャコ 司葉子 森繁久彌
   石浜朗 佐分利信 乙羽信子 飯田蝶子
   浪花千栄子 万代峯子

ストーリー
大阪船場の河島屋呉服店では吉三郎(森繁久彌)が父の急死後二代目の店主となったが、商売に身が入らず、寄席道楽、女道楽に身を持ち崩し、相場に手を出して多額の負債を作り、店の身代を潰してしまう。
多加(淡島千景)は吉三郎をはげまし、天満天神の近くにある寄席を買い取り、天満亭と名づけて再起の第一歩を踏み出した。
天満亭は番頭のガマ口(花菱アチャコ)の活躍もあり順調に繁昌したが、生活が安定すると吉三郎の遊びぐせはまた頭をもたげ、おしの(環三千世)という妾の許へ足繁く通うようになった。
そのおしのの家で、吉三郎は急死した。
通夜の日、多加は婚礼の際に持参した白い喪服を着たが、それがいつしか、二夫にまみえずという心を彼女に持たせた。
彼女は、幼い久雄を女中のお梅(乙羽信子)に託し商売一筋に駈け廻ったが、市会議員の伊藤(佐分利信)と知り合った彼女の女心は燃えた。
法善寺の金沢亭も買い取った多加は、それを花菱亭と改名し入口に“花のれん”を掲げた。
出雲の民謡である安来節が関西一円を風びし始めると、多加は出雲に出かけ、そこで伊藤と再会したのだが、彼女はこの愛情までも商売のためには吹き消した。
世間では彼女を“女太閤”と呼んだが、中学生になった久雄(石浜朗)には母は遠い存在だった。
他人の罪をかぶり選挙違反で投獄された伊藤の自殺が多加の耳に伝った。
多加はいかに伊藤を愛していたかを知った。
大陸戦線は拡大し、久雄にも召集令状が来た。
多加は、久雄から出発直前京子(司葉子)という愛人を紹介された。
お梅にはすでに打ち開けていると聞かされ、多加は淋しかった。
彼には多加が築いた土台を継ぐ意志が無かった。


寸評
多加のモデルは吉本興業の創設者である吉本せいとされているが、山崎豊子の原作もそうであると思うが物語は彼女の一代記ではない。
多加を通じて描かれているのは大阪女の強さと、商売一筋で生きざるを得なかった女の哀しさである。
豊田四郎、淡島千景、森繁久彌とくれば名作「夫婦善哉」を思い起こすが、「夫婦善哉」が良すぎた。
ここでも森繁久彌は道楽者のダメ亭主を演じているが序盤で死んでしまっている。
道楽者の亭主に愛想をつかしながらも、切っても切れない関係の女房と言う中にあった情緒がこの作品にないのは、描かれたエピソードが多すぎたことによるのではないかと思われる。
ダメ亭主の道楽に翻ろうされる女房の姿、手段を選ばず寄席劇場を拡大していく女の奮闘と亭主の妾との対決。
突然湧きおこる女心に、女主人に思いを寄せる番頭の存在。
商売一筋の母親と息子の間に生じる確執と、息子の彼女との和解。
話はテンポよく進んでいくが、テンポの良さはエピソードの深みを削いでいたように思う。

商売に専念する為に子供の世話を女中に任せたばかりに生まれた親子の確執はラストを締めくくる為の大きな伏線となっているが、息子が自分よりも女中のお梅を頼りにしていることだけでは弱い。
多加は議員の伊藤に秘かな思いを寄せていて、伊藤の死でもってその思いを証明してみせるのだが、その裏返しとして花菱アチャコのガマ口が秘かに淡島千景の多加に想いを寄せていたことが描かれる。
ガマ口の多加への献身ぶりはその事によっていたのだろうが、ガマ口のせつない気持ちは伝わってこなかった。
演じていたのが喜劇役者の花菱アチャコだったからだろうか。
あっさりと喜劇的に描かれていたけれど、しんみりさせても良かったような気がする。
僕は映画全体を通じてもガマ口の献身ぶりが身に染みて心に残った。
自分が彼の立場であったなら、やはり同じような行動をとっただろうなと思うのだ。

淡島千景は宝塚歌劇団の娘役スターだったとは言え東京出身である。
東京を意識させない大阪弁を駆使し、すっかり大阪女になりきっている。
船場では二夫につかえないということで、夫の葬儀には白の喪服で式に臨む風習があったようで、ここでの淡島千景の白い喪服姿の美しさには惚れ惚れするものがある。
妾を横に置いて凛とした姿を見せる多加に女の強さを感じる。
多加は冒頭で借金取りの山茶花究や、道楽亭主にすがる弱い女から、寄席へと商売替えを提案して商売を切り盛りする強い女に変身していく。
僕の従兄の女房殿もチンピラの脅しにおどおどする亭主に代わり、堂々と交渉していたから、いざとなれば女は強いのかもしれない。
大阪空襲があり多くあった劇場はすべて焼けてしまい、多加は世代交代を口にするが、戦争は日本自体にも世代交代をもたらしたのだろう。
政治の混乱を見るにつけ、今の世の中に世代交代をもたらすようなものはあるのだろうかと思ってしまう。
大阪人の僕は映し出される風景に魅入ってしまうのだが、セットだと思われる法善寺のシーンは特にいい。
今となっては風俗資料的作品でもある。

パスト ライブス/再会

2024-06-24 07:33:00 | 映画
「パスト ライブス/再会」 2023年 アメリカ / 韓国


監督 セリーヌ・ソン
出演 グレタ・リー ユ・テオ ジョン・マガロ
   ムン・スンア イム・スンミン ユン・ジヘ

ストーリー
ソウルに暮らす12歳の少女ナヨンと少年ヘソンは、互いに恋心を抱いていた。
24年前、ナヨンは幼馴染みのヘソンをソウルに残して、両親と共にカナダに移住する。
12年後、名前をノラに変えたナヨンはヘソンが自分を探していることをSNSで知り、そこから2人のオンラインでのやり取りが始まる。
懐かしい、だけでは済まされない、互いの心に恋する気持ちを確認しつつ。
だからと言って、2人を隔てる距離は容易に埋められない。
ナヨンは今、ニューヨークに移り住んで劇作家になる夢を捨ててないし、ヘソンは兵役を終えて大学に進学し、交換留学生として上海に行く予定なのだ。
36歳となったノラは作家のアーサーと結婚していた。
ヘソンはそのことを知りながらもノラに会うためニューヨークへと向かい、2人は24年ぶりにめぐり会う。
「ソウルに帰りたい。でも帰れない」と呟くナヨンを受け止める勇気がヘソンにはない。
でも、2人はかすかに感じ始めている。
イニョン(縁)で結ばれた者同士の強くて、切ない運命を。
そして、前世からの繋がりを。


寸評
冒頭は3人の男女がバーで会話をしている場面である。
三人の関係はよくわからなくて、3人の過去に何があって、どうしてここにいるのかがその後に描かれていく。
多くの人が自分の過去を投影できる描き方が観客を引き付ける。
人物をとらえるショットに音楽が重なりムードを醸し出す。
青春ラブストーリーから三角関係を描くようになっていくが、ドロドロとしたののしり合いがあるわけではなく、ましてや肉体関係を持つわけでもない静かな描き方がたまらない。
12歳のナヨンとヘソンはとても仲がよくて、2人はともに成績優秀だ。
幼いながらも恋人同士のような関係を築いている。
ところが、ナヨンの両親がカナダに移住することになり2人は離れ離れになってしまうのだが、その時の別れのシーンが印象的だ。
学校から二人が連れ立って帰ってくる。
今まで黙っていたヘソンがナヨンを呼び止め「サヨナラ」とだけ言って分かれ道をそれぞれの方へ歩いていく。
お互いの気持ちは分かっていたのに、それ以上の事が言えずに離れ離れになってしまう。
12年後にSNSを通じて存在を知り、2人はビデオ通話を介してすぐに打ち解けて親密になる。
2人ともお互いの関係が特別なものだと、心のどこかにあったのだろう。
パソコンを通じて交わす会話シーンが長々と続くが、内容はたわいもないもので微笑ましい。
インターネット技術によるものだが、僕たちのころは手紙か電話だった。
電話はまだまだ一家に一台という時代ではなく通信料は高額だったので、やり取りはもっぱら手紙だった。
顔も見られず、声も聴けないツールだったが、行間で想像が膨らんでいくありようは今から思えば趣のあるものであった。
若い二人には、それでも乗り越えられないものがある。
離れ離れになってしまうと、簡単には会えなくなってしまう。
ましてやナヨンとヘソンはニューヨークとソウルの距離だ。
二人は疎遠になってしまう。
ナヨンはノラと名前を変えアーサーと結婚してしまっている。
それでもヘソンはナヨンを忘れることが出来ない。
ヘソンもちょっとしたきっかけで恋人が出来ながら、経済的な条件が合わなくて別れたのだが、本当の理由はナヨンの面影がヘソンを支配していたのだろう。
ヘソンの中には素敵だったナヨンがいつまでもいるのだ。
カメラワークは2人の愛する喜び、苦しさ、そして葛藤や微妙な距離感を映し出す。

ナヨンは「イニョン」の話をよくする。
「イニョン」とは「縁」のことで、韓国人のナヨンが語ると「縁」「前世」「来世」という言葉に東洋的な思想を感じ、日本人の僕はそれを素直に受け入れることが出来てしまう。
「もしもあの時、勇気を出して行動していたら、違った選択をしていたら」との思いが湧く。
そんなことを感じさせたところで冒頭の場面が再び登場する。
冒頭では分からなかった三人の関係と雰囲気がにじみ出てくる。
それまで以上に縁を感じ合っているナヨンとヘソン、そして、まるで爪弾きにされたようなアーサーの間に流れる気まずい空気を映し取ったものだ。
ナヨンとヘソンは韓国語で親しく語り、時々ナヨンはアーサーに通訳して伝える。
アーサーは二人の間に割って入ることが出来ない。
ヘソンはナヨンを奪ったアーサーへの嫉妬があるが、アーサーにも元カレのヘソンへの嫉妬がありナヨンがヘソンのところへ行ってしまうのではないかという不安もある。

ラストシーンはこの映画の白眉となっている。
ナヨンはアーサーに「ウーバーまで送ってくる。すぐ帰って来るわ」と言って、ヘソンと家の外に出てウーバーの車を待つ。
別れるまでわずか2分の時間だが、その間二人は見つめ合ったままで一言も発しない。
24年前の別れが頭をよぎる。
ヘソンは「縁が合ったら来世で会おう」と言って車に乗り込む。
ヘソンにしてみれば精一杯の強がりだったように僕には思えた。
ナヨンはトボトボと歩きむせび泣く。
アーサーはそのナヨンを優しく受け止める。
12年前にグリーンカード取得目的で結婚したナヨンとアーサーも、縁あって結ばれた仲なのだと思うし、結ばれないこともまた運命なのだと思う。
グレタ・リーとユ・テオの演技は自然体で、作品をリアルなものとしていたし、セリーヌ・ソンの演出は冴えわたっていた。


白痴

2024-06-23 08:08:20 | 映画
「白痴」 1951年 日本


監督 黒澤明
出演 原節子 森雅之 三船敏郎 久我美子 志村喬
   東山千栄子 柳永二郎 千秋実 千石規子 高堂国典
   左卜全 三好栄子 文谷千代子 明石光代 井上大助 

ストーリー
沖縄から復員して来た亀田欽司(森雅之)は、癲癇性痴呆性で白痴だと自ら名乗る無邪気な男だった。
青函連絡船の中から欽司と一緒になった男に赤間伝吉(三船敏郎)と軽部(左卜全)という男があった。
伝吉は、政治家東畑(柳永二郎)の囲い者である那須妙子(原節子)にダイヤの指環を贈ったことから父に勘当されるが、その父が亡くなったので家へ帰るところだった。
欽司は札幌に着いて、狸小路の写真屋に飾られた妙子の写真を見せられその美しさにうたれる。
大野(志村喬)は欽司が帰って来たのを見て、ちょっとあわてた。
欽司が父から遺された牧場を大野が横領した形だったからである。
しかし欽司は一向にそんなことには気にかけず、大野から香山睦郎(千秋実)の家へ下宿させてもらう。
その香山は、東畑の政治的野望で邪魔になった妙子を、60万円の持参金つきで嫁にもらうことになっていた。
札幌へ帰ってその噂を聞いた赤間伝吉は、百万円の札束を積んで、妙子を譲りうけに行った。
赤間と妙子が東京へ行ったと聞くと、欽司も、大野から贈られた牧場の少なからざる利益金を懐にそのあとを追って行ったが、やがて赤間も妙子もそして欽司もまた札幌に舞いもどって来た。
妙子は赤間とはどうしても結婚する気にならず、自分を憐れんでくれるような欽司にはひかれるが、やはり反発するものがあるのだった。
大野の娘綾子(久我美子)は、欽司を一番深く理解し、欽司も綾子にひかれていたが、妙子の危なっかしい生活ぶりがよけいに彼の心をひくのだった。
綾子は、妙子に捨て去られた香山と結婚する決心をし、妙子は欽司と綾子とを結びつけるのがいいと考える。
しかし、伝吉が妙子を刺してしまったことから、欽司は伝吉と共に精神病院の一室で生涯を送る身になった。


寸評
2部作計4時間半あった作品を2時間46分にぶった切ったのだから見ていても説明不足感を随所に感じる。
多分、ここを長尺にわたってカットしたのだろうと思われる冒頭には文字によって説明が加えられている。
何のことはない、それならドストエフスキーの原作を読めばいいのだ。
松竹もどうして2部作で公開しなかったのだろう、どうして作品を大幅にカットして公開したのだろう?
確かに内容的には暗い話だし、今で言う差別用語に満ちた作品でもあるので、公開したところで大衆受けはしないだろうとの判断が働いたのかもしれない。
したがって、この作品は余りにも完璧でなさすぎるので、そもそも批評の対象とはなりえない作品だ。
一つ一つのシーンやカットには見るべきものがあるので残念だ。

ここに出てくる女は強い。
強がっているのかもしれないし、気持ちを正直に表すことが出来ない皮肉れ者なのかもしれないが、強い。
原節子の那須妙子は囲われ者だが札束を燃え盛る暖炉に投げ込むような女である。
男からもらった高価な壺も叩き割ってしまう。
久我美子の綾子はなかなか素直になれなくて、常に食って掛かるような物言いだ。
いつも人を睨みつけるような態度で、父だろうが母だろうが姉だろうがお構いなしである。
母親の東山千栄子は夫にも意見する大御所的存在だ。
比べると、志村喬の大野も、柳永二郎の東畑も、千秋実の香山もまったくもって頼りない男たちだ。
そんな中で、 森雅之が純真無垢な亀田をそれぞれを相手に演じていく。

亀田は白痴、いわゆるバカなのだが、自分で白痴というぐらいなので本当のバカではない。
神がかり的な読心術の能力があり、その人が何を考えているかが分かってしまう。
彼の指摘は世間体や制約にとらわれない的を得たものである。
美貌の那須妙子、無垢な亀田を中心に据えて、彼らが破滅に追いやられる姿を追っていくが、前述のようにその描き方は歯の抜けた櫛のようになってしまっている。
それでも、三船敏郎と森雅之が絡むシーンなどは随所にあるのだがどれも面白い。
二人が再会したラストのシーンでは光の使い方が本当にいい。
暗闇の中で差し込む光を効果的にとらえる演出をしている。
こういうライティング技術を伴ったカメラワークを最近ではなかなか見ることが出来ない。
それぞれの分野で優秀な職人たちが大勢いたことを感じさせる。
中島公園の氷上カーニバルシーンなんかも中々幻想的なものになっていた。
外は雪のシーンばかりで、撮影部隊も役者さんたちも大変だったろうと思う。
原作のムード、北欧の雰囲気を出すために北海道がロケ地とされたのだろう。
それにしても、原節子も久我美子もよくわからん女だったなあ。
三船敏郎と森雅之の友情だってよく分からなかった。
ぶった切ったせいだったのかもしれない。
カットする前の完全版を見たいものである。

HOUSE ハウス

2024-06-22 08:24:01 | 映画
「HOUSE ハウス」 1977年 日本


監督 大林宣彦
出演 池上季実子 大場久美子 神保美喜 笹沢左保
   宮古昌代 南田洋子 松原愛 佐藤美恵子
   田中エリ子 尾崎紀世彦 小林亜星 三浦友和
   檀ふみ 鰐淵晴子

ストーリー
中学生のオシャレは、今日も仲間のファンタ、ガリ、クンフー、マック、スウィート、メロディーたちと間近になった夏休みのことをワイワイ話している現代っ子。
オシャレが学校から帰ると、イタリアから父が帰国していた。
父は彼女に、自分の再婚の相手だと言って涼子を紹介する。
新しい母など考えてもいないオシャレにとっては、これはショックだった。
自分の部屋にもどって、ふと思い出したオバチャマのところに手紙を出し、夏休みに仲間と行くことにする。
いよいよ夏休み。
オシャレは仲間とオバチャマの羽臼邸へ向かって出発。
東郷先生もいっしょに行くはずだったが、あとから来ることになり、七人で出かけた。
オバチャマは、七人を歓迎してくれ、都会育ちの七人は田舎の雰囲気に大喜び。
しかし、それもつかの間で、このオバチャマというのが実は戦争で死んだ恋人のことを思いつつ、数年前に死亡しており、今は、その生霊で、羽臼邸そのものがオバチャマの身体であったのだ。
そして、奇怪なできごとが七人の少女たちを襲った。
まず最初に冷やしておいた西瓜を取りに入ったマックが井戸の中につかっており、このほかにも、ピアノや、ふろ桶や、時計や、電燈などに次々と少女たちが襲われる事件がおき、そのたびに一人一人この家からきえていったのであった。
オバチャマは、若い娘を食べた時だけ若がえり、自分が着るはずだった花嫁衣裳が着られるのであった。
最後は、オシャレになりすまし、後から来た涼子までも襲ってしまうのであった。


寸評
ホラー映画と言えなくもないが、内容はハチャメチャ。
コマシャールフィルムで実績があるとはいえ、新人の大林宣彦に大東宝がよくもまあこんな作品を撮らせたものだと、その事に感心してしまう。
ポップな感じのタイトルから始まり、映画サークルが撮ったような映像処理が施されていくのだが、どうもそれだけにとどまっているように思う。
怪奇現象が起こるが、そのこともどこか子供だまし的で、そのジャンルの作品としてみると随分と物足りない。
オシャレ(池上季実子)たちは中学生ということだが、どう見ても高校生と言った風だ。
彼女たちの無邪気な青春が描かれているわけではないが、写真好きというファンタの大場久美子などが田舎生活を楽しんでいる姿は学園ドラマを思わせる。
しかしそこから彼女たちの青春に切り込んでいるわけではない。
なにせこれは怪奇映画なのだ。

オシャレの父が作家の笹沢左保だったり、東郷先生が歌手の尾崎紀世彦だったり、西瓜を売る農夫が作曲家の小林亜星だったりと、キャストの興味はあるけれど、それぞれのキャラクターに特別な役割があるわけではない。
父の再婚相手として鰐淵晴子が登場するが、娘はその相手を認めることが出来ず、再婚を決めた父も許せないのだが、そのエピソードも全体の中では埋もれている。
オシャレの伯母の南田洋子は戦争で愛する人を亡くしているが、その男性が三浦友和でセリフはない。
これも女教師役の檀ふみ同様キャスティングの妙を狙ったものだろう。
オシャレの母は結婚することが出来たが、オバチャマはその恋人を想って結婚していない。
戦争がもたらした悲劇なのだが、反戦を叫んでいるわけではない。
なにせこれは怪奇映画なのだ。

羽臼(ハウス)邸のオバチャマは若い子を食べては若返っていくのだが、そこでグロテスクな流血シーンが描かれるわけではなく、おおよそがシュールな映像処理がなされていて残酷なものではない。
メロディ(田中エリ子)がピアノに指を食いちぎられながら飲み込まれてしまうシーンなどをはじめ、そのどれもが子供映画のような描き方で、度々見せられると僕などは食傷気味になった。
ただし、おふざけとも思えるパロディーが挿入されていて思わず笑ってしまう。
原一平扮する寅さんそっくりの男が出てきて松竹の「男はつらいよ」をパクっていく。
渋滞中の車列で東郷先生に文句を言う派手な電飾のトラックの男は東映の「トラック野郎」だ。
その他女生徒たちの名前も、前述のファンタをはじめ、マクドナルドのマック(佐藤美恵子)や不二家のチョコレートであるメロディ(田中エリ子)などふざけたものである。
女生徒の中ではクンフーの神保美喜が、長身の空手の達人でタンクトップとブルマーと言ういでたちがセクシーを独り占めしていて、当時の男子中高生の間で断トツの人気だったことが理解できる。
主演の池上季実子などがバストを披露しているが、特に必要とも思えず観客サービスなのかもしれない。
最後のオバチャマ(南田洋子)のナレーションはちょっとしらけた。
大林宣彦監督の初回作品として心に留め置かれる作品だと思う。

PERFECT DAYS

2024-06-21 06:20:25 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/12/21は「ノーカントリー」で、以下「ノー・マンズ・ランド」「野のなななのか」「野火」「野火」「野良犬」「ハート・ロッカー」「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」「博士の愛した数式」「博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」「薄桜記」と続きました。

「は」行になります。

「PERFECT DAYS」 2023年 日本 / ドイツ


監督 ヨルゴス・ランティモス
出演 役所広司 柄本時生 中野有紗 アオイヤマダ
   麻生祐未 石川さゆり 田中泯 三浦友和
   水間ロン 原田文明 三浦俊輔 古川がん
   研ナオコ モロ師岡 あがた森魚 安藤玉恵

ストーリー
東京スカイツリーが近い古びたアパートで独り暮らしをする、中年の寡黙な清掃作業員・平山(役所広司)は、一見、判で押したような日々を送っている。
毎朝薄暗いうちに起き、台所で顔を洗い、ワゴン車を運転して仕事場へ向かう。
行き先は渋谷区内にある公衆トイレで、それらを次々と回り、隅々まで手際よく磨き上げてゆく。
一緒に働く若い清掃員・タカシ(柄本時生)はどうせすぐ汚れるのだからと作業は適当にこなし、通っているガールズ・バーのアヤ(アオイヤマダ)と深い仲になりたいが金がないとぼやいてばかりいる。
平山は意に介さず、ただ一心に自分の持ち場を磨き上げる。
仕事中はほとんど言葉を発することがないが、それでも平山は日々の楽しみを数多く持っている。
たとえば、移動中の車で聴く古いカセットテープ。
休憩時に神社の境内の隅に座ってささやかな昼食をとるときは、境内の樹々を見上げる。
その木洩れ日をみて笑みをうかべ、一時代前の小型フィルムカメラを取り出してモノクロ写真を撮る。
仕事が終わると近くの銭湯で身体を洗ったあと、浅草地下商店街の定食屋で安い食事をすませる。
休日には行きつけの小さな居酒屋で、客にせがまれて歌う女将(石川さゆり)の声に耳を傾けることもある。
家に帰ると、四畳半の部屋で眠くなるまで本を読む。
ある日、平山の若い姪・ニコ(中野有紗)がアパートへ押しかけてくる。
平山の妹(麻生祐未)の娘で、家出してきたという。
平山の妹は豊かな暮らしを送っていて、ニコに平山とは世界が違うと言われているらしい。
ニコは平山を説き伏せて仕事場へついてゆく。
公衆トイレを一心に清掃してゆく平山の姿にニコは言葉を失うが、休憩時、公園で木洩れ日を見上げる平山の姿を見て、ニコにも笑顔が戻ってくる。
しかし平山の妹がニコを連れ戻しにやってくると、平山は捨ててきた自らの過去と向き合うことになる…


寸評
役所広司ワールドである。
判で押したような日々を送っていることを示すために、何度も同じようなシーンが繰り返される。
その間、平山の役所広司はまったく言葉を発しない。
見ていて飽きが来そうなものだが不思議とそうはならない。
トイレに入っていた迷子の子供に「どうした?」と一言かけるまで随分と時間を要し、そこから再び無口な平山の姿を延々と追い続け、石川さゆりのやっている居酒屋の場面になって、やっと会話らしい会話をするようになる。
カメラはその間も一心にトイレ掃除を行っている平山を追い続けるのだが、人々はそんな平山を気にかける風でもない。
母親は子供を見つけてくれた平山に挨拶もせず去っていく。
清掃中の札があっても平気で入ってきて無言で去っていく人もいる。
公園でとる昼食時にいつも出会う女性とは目を合わせてもおア互いに話しかけることはない。
無口な平山だがいろんな人たちと出会っているのだ。
言葉を交わさない上記の人たちとも出会っていることになるし、変な老人の田中泯のことも気にかけているのだ。
わずかな言葉しか交わさない行きつけの食事処の店員や写真店の主人。
これは人と人との係わりを描いた作品なのだと思う。
同僚のタカシはいい加減な男だが、平山とはそれなりの信頼関係を築いているようで、平山は金を貸してやっている。
タカシが思いを寄せるアヤは平山の人柄が気に入ったのか、ホッペにキスをして去っていく。
驚く平山の様子に場内から笑い声が起きた。
そして姪のニコだ。
母親と違っておじさんが気に入っているらしく、家出して久しぶりの対面を果たしている。
平山の仕事ぶりを見て驚くが、やがて仕事を手伝うようになる。
ニコの母親でもあり、平山の妹でもある麻生祐未とは疎遠であったが、最後には二人して抱き合う。
良かったと思うが、父親とのわだかまりは解けておらず、施設へ訪ねることを拒否しているから、肉親と言っても人間関係は難しい。
平山は眠ると日中に見た景色や人々をモノクロで思い浮かべる。
影は重なっても濃くならないが、平山の中でそれらは色濃くなっていく。
石川さゆりの元夫の三浦友和は平山と景踏みをして戯れる。
その後のラストシーンは平山のアップの長回しだがセリフはない。
ただ満足げな平山の表情をとらえ続けるこのシーンに耐える役所はいい。
一日の中で一瞬の出会いがある。
単純な毎日に見える平山の一日だが、彼にとってはその一期一会の出会いに喜びを感じる充実した一日なのだろう。
僕にもやがてそんな日々がやってくるような気がする。
平山の磨く便器はいつもピカピカなのだが、汚れている便器をピカピカにするシーンがないのはなぜなのだろう。
平山の仕事を伝えるにはあっても良かったように思うのだが・・・。

日本の首領 完結篇

2024-06-20 07:03:10 | 映画
「日本の首領 完結篇」 1978年 日本


監督 中島貞夫
出演 三船敏郎 菅原文太 大谷直子 佐藤慶
   遠藤太津朗 渡辺文雄 寺田農 小林稔侍
   片岡千恵蔵 志賀勝 待田京介 鈴木瑞穂
   稲葉義男 桜町弘子 西村晃 金子信雄
   小池朝雄 仲谷昇 高橋悦史 佐分利信

ストーリー
関東同盟理事長、大石剛介(三船敏郎)と、関西中島組組長、佐倉一誠(佐分利信)の間には表向きには平穏無事な日々が続いていたが、日本政財界最大の黒幕、大山喜久夫(片岡千恵蔵)が癌で倒れたことにより、両者の間に再び不穏な空気が漂いはじめた。
大山は佐倉の娘婿の医師、一宮恭介(高橋悦史)の執刀で九死に一生を得た。
大山は任侠団体の統一合体を提唱するが、全国制覇の野望に燃える佐倉、大石は共に同意せず、虚々実々の駆け引きが始まった。
サイパン島開発という国家的な大事業に着眼した大石は大山を後盾に保守党中久保派の伊庭官房長官(仲谷昇)に接近する。
平山幹事長(金子信雄)から大石の野心を聞いた佐倉は大いに動揺した。
大石、佐倉の当面の問題は資金調達にあり、佐倉の胸中を読んだ川西(菅原文太)は、膨大な土地、不動産を持つ松原産業の子会社、木村建設を倒産に追い込んだ。
そして自殺した木村社長の娘、由紀子(大谷直子)を保守党の実力者、刈田(西村晃)に与えた。
一方、大石は、娘の郁子(山本由香利 )と刈田の息子春男(織田あきら)の縁組により、刈田を味方に引き込み、アメリカ側への賄賂の特使として、刈田と春男をサイパンに派遣する。
刈田はサイパンでジェラード議員と取引中に中島組の組員らしき強盗団に襲われ、大金を奪われる。
被害にあったのが日米の両議員のうえ巨額の金とあって、鬼島検事正(鈴木瑞穂)は捜査活動を開始する。
身の危険を悟った大石は帰国した春男と愛人をガス自殺にみせかけ口を封じ、重病を装って入院した刈田も毒殺して、サイパン事件の賄賂の領収書を取り戻そうとする。
だが領収書は由紀子の手にあり、それを大山から外科部長の椅子を約束された一宮が買い取った。


寸評
政界の黒幕である大山(片岡千恵蔵)の快気祝いに、川西(菅原文太)が用意した錦鯉を佐倉(佐分利信)が贈るシーンがある。
そこで大石(三船敏郎)を交えた三人の会話がこの映画を物語っている。
まず大山が「畜生というのは、罪がなくて、かわいいもんだ。 主や棲家に難しい注文をつけんからな」と言うが、これは人になぞらえたもので、人は頼る人間や親分や組織に色々と思惑を持つものだと二人を牽制したものだ。
続いて大石が「しかし、水があわないと長くもたんと聞いております」と合いの手を入れるのだが、組織から抜け出すような裏切りは許さないとの信念を述べたものだ。
最後に佐倉は「なじんだ水をまぜとけば大丈夫です」と返答するが、これは自分の率いる中島組が関東同盟のような寄り合い所帯ではなく、個人と組を一枚岩で抱え込んでいる自信を言ったものだ。
この三者三様の立場と思惑が展開していく構成になっているのだが、筋立てが面白いのに脚本が雑だ。
少し詰め込みすぎたのかもしれない。
例えば、大谷直子の由紀子の描き方だ。
彼女は佐倉によって倒産の挙句に自殺に追いこまれた松原産業の子会社社長の娘なのだが、その実行者の川西に売られ、あるいは一宮(高橋悦史)が佐倉の義息であることを知って複雑な表情を浮かべるのだが、結局彼にもなびいてしまう金の亡者だ。
最後にはそうまでして手に入れた銀座の店を守るために泣き叫ぶ。
そんな彼女の複雑な気持ちの変化は全くと言っていいほど描かれていない。
複雑な立場に居る一宮も同様で、その変節は描かれてはいるが描き方は浅いものだ。
人間ドラマとして弱くしている原因だと思う。
一方で、検察の追求も迫力が足りなくて、政治ドラマとしての要因を割いてしまっている。
描き方に切り込むようなところがなく、ちょっと中途半端な作品に仕上がってしまった。

それでも、「ヤクザになるのは医者になるより難しんだ!」と凄む三船敏郎は流石の貫禄だし、高橋悦史を蹴飛ばして意気込む佐分利信の豹変ぶりも決まっていた。
何よりも片岡千恵蔵御大が久しぶりに本格的な芝居を見せているのも、古い映画ファンには嬉しいことだった。
反面、シリーズとして見た場合には役者不足を感じてしまう。
菅原文太は東京・錦城会の幹部をやっていたのに、今回は逆に中島組の幹部で、最初見たときは錦城会の岩見が裏切ったのかと思った。
また、西村晃はアベ紡績の常務で暴力団担当の役だったのに、今回は同じような立場の代議士・刈田を演じていて、1本の独立した作品ならいいけど、シリーズとなればどうなのかなあ・・・。

興味を引くモデルは、片岡千恵蔵の大山は児玉誉士夫で、結成を目論む大日本同志会は東亜同友会のことだろう。
政民党幹事長・平山英格(金子信雄)は田中角栄だな。
大石のモデルとなったのは錦政会(後、稲川会)の稲川角二で、関東連合のモデルになったのは1963年に結成された「関東会」で山口組の東京進出に対抗して作られた関東やくざ連合らしい。

長崎ぶらぶら節

2024-06-19 07:00:07 | 映画
「長崎ぶらぶら節」2000年 日本


監督 深町幸男
出演 吉永小百合 渡哲也 高島礼子 原田知世 藤村志保
   いしだあゆみ 尾上紫 高橋かおり 松村達雄
   岸部一徳 永島敏行 勝野洋 内海桂子 渡辺いっけい

ストーリー
異国情緒あふれる街、長崎。
そこにはかつて江戸の吉原、京の島原と並び称された丸山という遊里があった。
明治から昭和の初めにかけて、その丸山に三味線にかけては長崎一といわれた愛八(あいはち)という名の芸者がいて、気風もよく皆から慕われていた。
ある日、愛八たち丸山芸者は呼ばれたお座敷で出くわした、町の芸者米吉たちと一触即発となったが、居合わせた古賀の提案で芸を競う事になり、お互いの芸を披露し合う。
お座敷に出ていた愛八は、条約のために廃棄される戦艦土佐に献上すると三味線弾きながら歌い、別のお座敷にいた古賀はその歌に聞き入った。
翌日、港を出る戦艦土佐を見送りに来た岸壁で、愛八と出会った古賀は一緒に長崎の古い唄を探してまわらないかと誘う。
花売りのお雪が売られてきた。
愛八は女将に、自分が芸を仕込むので女郎にだけはしないでくれと頼んだ。
暇を見つけては、愛八と古賀は古い唄を探して旅した。
愛八は古賀に惹かれていき、世話になっている旦那に関係を清算してもらう。
ある日、古賀と一緒に訪ねた先の、90歳を超える女性が歌う唄を聴いて愛八の記憶がよみがえった。
それは愛八が、幼い日に女衒と歌った、ぶらぶら節だった。
その夜、旅館で布団を並べて寝る愛八と古賀だったが、2人は清い関係のままだった。
古賀は「歌探しはおしまいにしよう」と告げ、翌朝「浜節」という詞を残して去っていた。
ひょんな事から愛八は「ぶらぶら節」と、あの日古賀が置いていった詞に曲をつけた「浜節」をレコーディングして大ヒットさせる。
お雪の芸妓デビュー代のお礼に古賀を招いて宴席を張る事になり、愛八も呼ばれた。
「古賀しぇんしぇいが来んなる」とうれしがる愛八だったが、すぐに「逢うたらいけん」と逢わない決心を思い出す。


寸評
作詞家として一時代を築いたなかにし礼氏の直木賞受賞作の映画化とあって、僕は当時大阪梅田新道角にあった東映会館まで足を運んだのだが、期待を裏切られた出来栄えにがっかりした。
愛八という女性の生きざまを描いているのだが、いったい主人公の何を表現したかったのかわからず、見ていて面白みがまったくないのだ。
エピソードを一杯盛り込んでいるのだが、各シーンの意味も場当たり的で一貫性がないから盛り上がりに欠けている。
吉永小百合の土俵入りが話題になっていたのだが、それも大した意味はなかった。
長崎の三菱造船所で建造された戦艦「土佐」は、ワシントン海軍軍縮条約により一度もその役割を果たすことなく翌年廃艦となり魚雷の標的艦になる。
愛八は戦艦「土佐」の運命を擬人化して悲しむが、彼女がそんなにまでして悲しむ背景が分からなかった。
曳航されていく「土佐」を見送りに日章旗を持って一人で岸壁にやってくるが、彼女は軍国女性だったのだろうか。
昭和天皇の即位、爆殺事件、昭和不況とニュースフィルムが挿入されるが、それは何の意味も持たなかった。
吉永小百合を出しておけばよいという安易な企画に思える。
愛八と古賀が古い唄を探して旅する間の生活はどうしていたのだろう。
生活感が全くなかったし、古賀夫人はいったい二人のことをどう思っていたのだろう。
ドラマ的だったのは上海から引き揚げてきたお喜美が愛八と会えないでいたことぐらいだ。
深町幸男はテレビの人で「夢千代日記」や「あ・うん」で良かったのではないか。
なぜこの映画の監督をやったのかなあ。  

トロイ

2024-06-18 06:18:13 | 映画
「トロイ」 2004年 アメリカ


監督 ウォルフガング・ペーターゼン            
出演 ブラッド・ピット   エリック・バナ
   オーランド・ブルーム ダイアン・クルーガー
   ブライアン・コックス ピーター・オトゥール
   シューン・ビーン   ローズ・バーン

ストーリー
ギリシャ連合のスパルタとその宿敵トロイの間に無血同盟が結ばれた夜、トロイの王子パリスとスパルタの王妃ヘレンに禁断の恋が芽生えていた。
若き情熱に駆られたパリスは、非道を承知でヘレンを自国へ奪い去ってしまう。
トロイ侵攻の口実を得たギリシャ王アガメムノンは、屈辱に燃えるスパルタ王メネラオスとともに、全ギリシャを挙げての進軍を開始する。
トロイ攻略の鍵を握るのは、女神の息子と謳われるギリシャ最強の戦士アキレス。
一方トロイでは、パリスの兄で太陽の子ヘクトルが決戦に備えていた。
アガメムノンを快く思わないアキレスの参戦拒否でギリシャ軍は苦戦を強いられ、トロイ側はヘクトルの獅子奮迅の活躍で城壁を守る。
やがてヘクトルは倒れ、知恵者・オデッセウスの計略で木馬が城内に運び込まれると、その中に潜んだギリシャ兵が城壁の門を開け、トロイの町に火を放ち殺戮を繰り返す。
ついにトロイは陥落するが、アキレスもまた唯一の弱点をつかれ倒れてしまう・・・。


寸評
世界最大最古の歴史叙事詩、ホメロスの「イリアス」は、古代ギリシャに起こったトロイ戦争を主題にしている。
史実が神話化されたとでも言ったほうがいい。
それによると以下のような物語となっているようだ。
エギナ島の王ペレウスが海の女神テティスとの結婚式に、不和の女神エリスを招待しなかったので、怒ったエリスは、最も美しい者に送ると書いた金のリンゴを宴席に投げ込む。
この結婚式には神々をはじめギリシャ中の英雄が招待されていた。
当然一番美しい者と自負する女神のヘラ、アテナ、アフロディテも出席していた。
投げ込まれたリンゴのため、三人の間に争いが起き収拾が付かなくなってしまう。
そこで天の支配者ゼウスは「三人のうちで誰が一番美しいかトロイ王の息子パリスに裁いてもらえ」と宣言する。
「パリスの審判」と呼ばれる有名な神話でトロイ戦争のもとになる。
パリス王子の前に出向いた三人は、それぞれに自分を指名するようにと条件を出して懇願する。
ゼウスの妻で結婚の女神ヘラは世界の支配権を、戦いの女神アテナは戦での勝利を、美と愛の女神アフロディテは美しい妻を約束し、パリスに指名を迫る。
そしてパリスが心を動かされ金のリンゴを与えたのは美の女神アフロディテ。
約束通りパリスに与えられる世界一の美女はスパルタ王メネラオスの妃ヘレネと決まった。
パリスはスパルタの王宮を訪ね、王のクレタ島出張の留守を見計らいヘレネを口説きトロイに連れ帰ってしまう。
全てアフロディテの企てだった。
妻の不実を知ったスパルタ王メネラオスは全ギリシャの英雄を集めトロイへの復讐の軍を起こす。
これが10年にも及んだトロイ戦争の発端になる。
ギリシャ軍の総大将は、メネラオスの兄アガメムノン、ペレウスの息子アキレウス、知恵者のオデッセウスなどそうそうたるメンバー。
神は結婚の女神ヘラと、戦いの女神アテナが付いた。
一方のトロイ軍もプリアモス王の長男ヘクトル、アイネイアス等勇士は揃っている。
更に美と愛の女神アフロディテ、太陽神アポロンが付いている。
しかし戦争の不条理な殺戮、略奪行為はオリンポスの神々は許すことはなかった。
そのためトロイ、ギリシャの両軍に悲劇が次々起きる。
このたくさんの悲劇を神話は延々と語り継いでいる。

映画では神は登場することなく、人間同士の愛と確執を描きながら、古代戦争スペクタクルを映し出す。
だからなおさら、愛・確執・権力欲とか人間のエゴとかをもっと描いて欲しかったなと思う。
アガメムノンが弟の妻ヘレンをトロイ攻撃の口実を作ったことだけで評価する言葉を発したりするけれども、もっと自分の権力欲を満たすための道具としてしか見ないいやらしさを出せばよかったと思う。
そうすると、権力をもつアガメムノンと、戦士としての実力と名声を併せ持つアキレスの対立がもっと奥深くなったのではないか。
「若者の死がアキレスを戦場に引っ張り出しギリシャ軍を救うことになる」というアガメムノンの呟きなどもあるけれど、彼の憎らしさはちょっと中途半端なような気がした。
アキレスとブリセウスの関係ももっと掘り下げても良かったかもしれない。
スパルタを捨てトロイへ走ったヘレンと、アキレスの元を去り、トロイへ帰ったブリセウスはある意味では対極にあるのだから。
中途半端といえば、神をも信じない戦士の申し子とでも言うアキレスの屈折した性格は何処からきているのかよくわからなかった。

1000隻もの大船団でエーゲ海を渡り、トロイへ攻め込む上陸戦などは、「史上最大の作戦」のノルマンディ上陸作戦を髣髴させる物量(人海戦術)戦で、楯を巧みに操り、陣形を組みながら攻撃する様子などはとても面白い(アキレスがヘクトルと対決する時のくびれた楯の使い方も面白い)。
神話では船団が出撃しようにも風が吹かず、総司令官の権威が落ちそうになったので、風乞いの生贄をする事になり、生贄の候補者をだまして呼び寄せ、その犠牲で風が吹いて出撃できたなどという話があったりして戦争の悲劇を語っているが、そんな部分は省かれている。
映画は人間ドラマと言うより、スペクタクルとしての側面を強く出しているので、あえてそのような部分は割愛したのだろう。
だから多分ホメロスの叙事詩はもっと壮大なドラマになっているのではないかと想像する。

アキレスが生まれたときに川で逆さ吊りにされて洗礼を受け、その洗礼のおかげで不死身の体を得るが、母親が持った足首だけが洗礼の水を浴びなかったので唯一の弱点となった踵(映画ではその経緯は描かれていない)を射貫かれて絶命するのは周知の事実として描かれるけれど、欲を言えばもっと壮絶な最後を遂げて欲しかった。
でも、トロイの木馬も登場して満足させてくれるから、まあいいか・・・。

僕はずっと、アキレスの身代わりで死ぬのは親友のオデッセウスだと思っていたけれど、それは僕の記憶違いだったのかな?

逃亡地帯

2024-06-17 07:07:27 | 映画
「逃亡地帯」 1966年 アメリカ


監督 アーサー・ペン
出演 マーロン・ブランド ジェーン・フォンダ
   ロバート・レッドフォード

ストーリー
石油成金が牛耳る、週末ごとの派手なパーティや子供たちの乱痴気騒ぎが日常化している退廃的な町に、この町の出身者でもある脱獄囚のババー(ロバート・レッドフォード)が戻ってくる。
たちまち始まる人間狩りはまるで血に飢えた狼のようだった。
暴動を必死で止める保安官のカルダー(マーロン・ブランド)の努力も空しく、抑えられていた感情が爆発し、地獄絵図が繰り広げられる。
その中で、ババーの妻アンナ(ジェーン・フォンダ)の魅力に取り付かれた石油成金の息子は、爆発でとんだタイヤの下敷きとなって死に、逮捕されたババーは保安官事務所の前で突然飛び出してきた男に射殺される。
翌朝、死の町のような人気の絶えた通りをカルダー夫妻が去っていき、同時に二人の男を失ったアンナが気の抜けたようにしゃがみ込んでいた。


寸評
私が最初にアメリカ映画はすごいと思った作品である。
かつてはどこにでもあった駅前の映画館でしか映画を見たことがなかった頃、初めて一人でロードショー館に見に行った。
やけにふわっとしたエンジ色の椅子だったことを覚えている。
自分が見てきた圧倒的多数のプログラムピクチャとは違った雰囲気の映画だった。
そう思ったのは、70ミリ映画のせいだけではなかったと思う。
何よりも画面がかもし出す匂いが違うと感じたものだった。
スクリーンから燃えさかるタイヤがこちらに向かってきたシーンは衝撃的だった。
今まで自分が見てきた映画とは明らかに違う映画がそこにあった。
マーロン・ブランドを初めて知ってファンになったのもこの映画がきっかけである。
その後しばらくの間は洋画ばかり見ていたが、そうなるきっかけもこの作品だったのだ。

あまり俳優さんに興味を持たないで洋画を見ていたが、この作品ぐらいからすごい俳優さんがいるものだと感じてきたと思う。
ジェーン・フォンダを後日知って、逃亡地帯に出ていた素敵な女優さんが彼女だったことを再確認したような気がする。
この作品でも、彼女はいいです!
ロバート・レッドフォードの日本初登場作品だと思う。
ババーという脱獄囚役だが、感じのいい、ついてない男のイメージを演じている。
「明日に向かって撃て!」のパンフレットを見て、サンダンス・キッド役の素敵な彼がババーだった事を思い出した。
アーサー・ペンはアメリカン・ニューシネマの代表作「俺たちに明日はない」を撮っているのだが、僕は本作を
アメリカン・ニューシネマの先駆け作品と思っていて、「俺たちに明日はない」よりも評価している。

同窓会

2024-06-16 06:37:54 | 映画
「同窓会」 

                        
監督 サタケ ミキオ       
出演 宅間孝行 永作博美 鈴木砂羽 二階堂智
   阿南敦子 飯島ぼぼぼ 尾高杏奈 兼子舜 渡辺大 

ストーリー
映画プロデューサーの南克之は年下の新進女優、大崎めぐみ(佐藤めぐみ)とお気楽な不倫関係を楽しんでいた。
高校時代の恋を実らせて結婚した妻、雪との間に子宝は恵まれず、離婚があっさり成立する。
それを聞いた同級生の浪越文太は大激怒。
文太は雪に片想いするも“相手が親友のかっつ(克之)だから”と諦めた過去があったのだ。
“かっつの根性を叩き直してやる!”と勢いこむ文太は、地元長崎にいる“わだまさ”こと和田政子や“とねいち”こと利根川一らを集めるが腹の虫は収まらない。
雪は地元の同級生でいまは東京の出版社で働く親友の“ひめ”こと石川えりを心の支えに新たな一歩を踏み出そうとするが、そんな雪の体に異変が起こる…。
一方、克之が経営する小さな映画会社「サウスピクチャーズ」に大きなチャンスが訪れる。
ヒットを予感させる原作の映画化権の獲得に成功したのだ。
克之ははりきって製作に取り掛かり、新作への思いを新たにしてロケの手配をするために地元の島原へ飛ぶ。
実家に立ち寄り、父ひろし(笑福亭鶴瓶)と母美佐子(うつみ宮土理)に遅い離婚報告を済ませる。
部屋には映画監督を夢見ていた若き日の自分が残した8ミリフィルムや、渡せなかった雪への不器用なラブレターがあった。
克之は、キラキラしていた高校時代を回想する。
20年前の高校時代の克之(兼子舜)は映画研究会に所属し、ヤンキーの文太らに振り回される日々。
友永雪への愛の告白を夢見るが、雪はいつも中垣(窪田正孝)と行動を共にしていて付け入る隙がない。
告白する勇気が出ないまま卒業するが、その13年後に開かれた同窓会をきっかけに克之と雪は交際を始める。
でも雪を好きになればなるほど、克之のなかで中垣の存在は大きくなっていく。
結婚してからも、雪が中垣から贈られたらしい万年筆を大切にしているのを見てその思いを加速させていく。
そして現在。
新作の製作に奔走する克之だが、映画会社が危機に陥ってしまい、さらにえりから衝撃的な連絡が。
雪は重い病に掛かっていて、余命いくばくもないというのだ。
克之は行方知れずの中垣を探し出すための同窓会を企画し、中垣を雪に合わせようと画策する。
そんな時、雪が危険との知らせが入り、克之は雪の元へ走った…。


寸評
雪の病気の結末は予想できたけれど、そこに至る展開は予想外だったなあ。
「え~え、そんなのあり?」と言いたくなるような展開で、ラストに向かって一気に持っていくあたりに、これがデビュー作というサタケミキオ監督のセンスを感じた。
全体の作りはコミカルだが、大笑いを誘うまでになっていないのは、狙いなのか切り込み不足なのか?
それでも初恋時代のみずみずしさがよみがえってきて懐かしくもあった。
その懐かしさは、当時のテレビ番組の「元気がでるテレビ」の名物コーナーだったり、清涼飲料水のチェリオなどからも引き起こされるが、むしろ誰もが有するほろ苦くもあり楽しくもあり活気に満ちていた少年時代、青春時代を髣髴させたことにあったと思う。
初恋か・・・・。
おもわず昔の卒業アルバムを開いてみたくなるような映画だった。

最後は泣かせるなあ。
わかっているんだけど泣けてくるなあ。
映画研究会に属していた孝之が語る「コメディにロマンスをからめて、皆が大笑いしてうっとりするような映画」がまさしくこの映画が目指したことだったと思う。
中垣と雪を引き合わせるために孝之が幹事となって開いた同窓会あたりから僕は泣きっぱなしだった。
監督も兼ねる宅間孝行もよかったけれど、本当は昔から好きだった「かっつ」のために、すべてを受け止め愚痴もこぼさず、ひたすら支え続けていたことが判明する雪を演じた永作博美がよかった。
現在と過去をうまく切り替えながら進められたストーリー展開も小気味よかった。