おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ああ爆弾

2023-06-30 07:22:28 | 映画
「ああ爆弾」 1964年 日本


監督 岡本喜八
出演 伊藤雄之助 高橋正 越路吹雪 砂塚秀夫 中谷一郎
   沢村いき雄 本間文子 重山規子 北あけみ 天本英世 有島一郎

ストーリー
大名組六代目組長の大名大作(伊藤雄之助)は、子分の太郎(砂塚秀夫)をつれて、三年振りで娑婆に出て来たが、俗界のようすは一変していた。
大勢の子分をかかえた大名組は、市会議員に立候補する矢東弥三郎(中谷一郎)にのっとられていたのだ。
そして二号のミナコ(重山規子)まで、子分のテツ(天本英世)に寝取られて、大作は悄然とした。
大名の家には矢東の表札がかけられ、妻の梅子(越路吹雪)は新しい宗教にこって太鼓を叩き、息子の健作(高橋正)は新聞配達をしているという落ちぶれように大作は愕然とする。
思い余った大作はドスを片手に殴り込んだが果せず、幼馴染のシイタケこと椎野(沢村いき雄)に助けられた。
シイタケは、矢東の運転手で毎週銀行に預金をおろしに行くという。
話を聞いた大作は、矢東の口癖の“ぺンは文化の生命なり”の不愉快な仮面を剥ぎ、平和産業の看板をかける組をわがものにしようと、太郎が爆弾作りの名人なのを利用して万年筆に爆弾を仕組んで、矢東を狙った。
矢東が床屋に行ったのを機会に、清掃員に化けた大作と太郎は、矢東の背広の万年筆をすりかえたが、丁度一緒に来ていたシイタケが、その背広を持つと銀行に出かけていったので二人は青くなった。
貧乏に敗けたシイタケは、預金の金をもってドロンをきめていたが、折しも、銀行ギャングに会い、万年筆も金も置いて逃げ出した。
翌朝、爆弾仕掛けの万年筆は掃除婦の手に渡り、健作はそれを300円で買って大得意。
大作も見覚えのある万年筆に、ようやくの思いで捨てさせた。
一方矢東は選挙に敗れたが、一案を思いついた大作はゴルフボールに爆弾をしかけ、当選議員の命とひきかえに、500万でボールを矢東に売った。
身代り当選に喜んだ矢東だが、またも健作がキャディーとして市会議員についていると知り、太郎はゴルフ場に車を走らせたが、一瞬早くボールは場外に飛び、太郎の車の傍で爆発した。


寸評
これをミュージカルと言って良いのか悪いのか分からないが、ドタバタもドタバタのバタクサイ喜劇であることだけは確かと言える作品で、岡本喜八が映画という媒体を使って思いっきり遊んでいる。
なんといってもこの作品の見所は狂言舞台の如き監獄の中での伊藤雄之助と砂塚秀夫の立ち回りに始まる種々雑多な音楽を使いまくる佐藤勝の音楽と、馬鹿げたシーンを真面目に演じる役者たちの姿であろう。
狂言をメインに全編ミュージカル調のノリで進められ、どこまで本気なのかよくわからないという作品である。

伊藤雄之助の狂言が結構な時間を割いて描かれ、それが終わってやっとタイトルが表示される。
ストーリーは獄中のヤクザの親分(伊藤雄之助)と爆弾作りの犯人(砂塚秀夫)が出所するところから始まる。
親分は出所したもののどうも勝手が違い、組に帰ればすっかり企業化しており違う社長までいる始末。
自分の居場所も無く、やけくそになった伊藤雄之助と砂塚秀夫が「ボールペン爆弾」で社長を木っ端微塵に企てるという支離滅裂な話である。
伊藤雄之助と砂塚秀夫が同じ牢屋に入っているが、その牢屋はまるで能舞台のようであり、伊藤雄之助がいきなり狂言をやりだす。
同房の太郎を太郎冠者と呼び、伊藤雄之助はすっかり狂言師である。
伊藤雄之助も砂塚秀夫もアクの強い役者で、アクの強い作品に拍車をかけている。
このアクの強さについていけるかどうかがこの作品への好みに大いに影響するであろう。
僕はこの作品の面白さを頭の中で理解はできるのだが、胸の内にある感性としては相容れないものを感じる。
狂言で始まった音楽は、南無妙法蓮華経と唱えて太鼓をたたくお題目へと引き継がれ、ジャズやロックが現れたかと思えば浪曲も語られ、ダンス・ミュージックまで登場する。
ごった煮であるが音楽映画の感じはしない。
むしろ完全ミュージカルの音楽映画とした方がウケたのではないかと思う。
東宝はよくこのような作品を撮ることを許したものだと思う。

伊藤雄之助が出所してきたところ、自分を取り巻く環境がすっかり変わってしまっていることに重点を置いた前半のテンポは、作品の性格からすれば遅いと感じる。
それが万年筆爆弾が登場してから改善されて、作品自体の面白さが成長していく。
銀行では残高が10円合わないためのやり取りがミュージカル調で描かれる。
当選と思ってすっかり準備していた中谷一郎が次点と分かり、大暴れが始まるパーティ会場のドタバタもミュージカル映画のような描き方である。
せっかく伊藤雄之助の女房として越路吹雪が出演しているのだから、彼女が本格的に唄うシーンがあっても良かったような気がした。

結局、中谷一郎には何事も起こらず、大作とシイタケがタクシー会社を始めるつもりで買った車は爆弾で燃えてしまい、これでは悪事ははびこると言っているようなものだが、だから喜劇なのかもしれない。
僕は余り評価しないが、岡本喜八ファンは「鴛鴦歌合戦」と並ぶミュージカルの傑作だと評価しているらしい。
十人十色である。

アーティスト

2023-06-29 07:18:52 | 映画
「アーティスト」 2011年 フランス


監督 ミシェル・アザナヴィシウス
出演 ジャン・デュジャルダン ベレニス・ベジョ ジョン・グッドマン
   ジェームズ・クロムウェル ペネロープ・アン・ミラー
   ミッシー・パイル ベス・グラント ジョエル・マーレイ

ストーリー
1927年、サイレント映画全盛のハリウッド。
大スター、ジョージ・ヴァレンティンは、共演した愛犬とともに新作の舞台挨拶で拍手喝采を浴びていた。
熱狂する観客たちで映画館前は大混乱となり、若い女性ファンがジョージを突き飛ばしてしまう。
それでも優しく微笑むジョージに感激した彼女は、大胆にも憧れの大スターの頬にキス。
彼女の名前はペピー・ミラー、未来のスターを目指す新人女優だった。
映画会社キノグラフでオーディションを受けた彼女は、ジョージ主演作のエキストラ役を獲得。
撮影後、楽屋を訪ねてきたペピーに、ジョージは“女優を目指すのなら、目立つ特徴がないと”と、アイライナーで唇の上にほくろを描く。
その日を境に、ペピーの快進撃が始まり、踊り子、メイド、名前のある役、そして遂にヒロインに。
1929年、セリフのあるトーキー映画が登場すると、時代はセリフのあるトーキー映画へと大きく変わっていく。
過去の栄光に固執し、“サイレント映画こそ芸術”と主張するジョージは、キノグラフ社の社長と決別する。
数か月後、自ら初監督と主演を務めたサイレント映画は大コケ、瞬く間にスターの座から滑り落ちることに。
それから1年。今やペピーはトーキー映画の新進スターとして人気を獲得していた。
一方、妻に追い出されたジョージは運転手クリフトンを解雇、オークションで想い出の品々を売り払う。
執事にその全てを買い取らせたペピーは、ジョージの孤独な背中に涙を流す。
酒に溺れるジョージは自分に絶望し、唯一の財産であるフィルムに放火。
愛犬の活躍で救出されたジョージの元へ駆けつけたのは、変わらぬ愛を抱くペピーだった。
“銀幕のスター”ジョージを復活させる名案を携えて……。


寸評
モノクロ映像もさることながら、最近の早口言葉のようなセリフややかましい効果音もなく、字幕と音楽のみというのが非常に新鮮だ。
字幕がないセリフは観客の想像のセリフとなり、それがイメージを膨らませ楽しく思える。
また、キャストの表情や仕草が感情豊かで、スクリーンに釘付けとなってしまう。
サイレント映画らしくオーバー気味な演技と、本来ならオーケストラが奏でるであろう音楽だけで進行していくが、それがいたって小気味よい。
セリフの字幕も最低限に抑えてあるにもかかわらず少しも不自由しない。
ごく自然に恋愛映画として感情移入出来るし、微笑ましいシーンには笑みもこぼれてしまう。
その愛情物語も単純なものにしてあるところがミソで、その単純がセリフの想像を手助けしていたと思う。
サイレント映画時代の観客はきっとこんな感じで映画を見ていたのだろうとも想像させてくれた。
当時の映画はきっと今以上にイマジネーションに飛んだ代物だったのではないか。
だからと言って、再びサイレントになればいいとは思わないが…。

始まると映画の上映シーンで、無声映画時代の劇場の雰囲気が捉えられる。
楽団が音楽を演奏し、舞台裏では出演者が舞台挨拶の準備をしている。
やがて映画は終わり、舞台挨拶をめぐって主演男優と主演女優がいざこざを起こす。
それらを通じて無声映画の楽しみ方を予行演習させられる。
オープニング後のエピソードは、時々表示される字幕だけで何が起きているのか想像できるようになる。
サイレント映画の形式をとっているが、3か所でトーキーとなり、その変化がそれぞれに意味ありの効果をもたらしていて演出の妙がうかがえた。
最初はジョージがトーキーの恐怖を夢に見るシーン。コップを置く音や笑い声で会話はない。ジョージも声が出せない。日本でも訛りのある役者や発生の悪い役者は消えていったと聞くからジョージの恐怖感もわかる。
2度目はペピーが主演するトーキー映画の上映場面。この映画自体は無声映画を装っているので、上映されている映画をそのまま流せない。音楽に歌声をかぶせることで、上映作品がトーキーであることを告知している。
3度目はラストシーンで、ここだけは会話がはいる。ふたりの前途を祝しているようだ。ジョージは声を出さなくても無声時代に鍛えたタップがある。タップはペピーがジョージの映画にエキストラとして出たときの出会いのシーンと重なる。あの時はジョージがスターでペピーは無名だった。その対比がいい。

犬のアギーは大活躍で、火事からジョージを救ったり、自殺しようとするジョージを引き止めたりと、一方の主人公で、この映画一番の芸達者だったかもしれない。
そのシーンでは「バーン!」と字幕が表示される。
無声映画独特の面白さを取り入れた感心させられる字幕だった。
現在見ることが出来る旧作と違って、技術的に古く見せている画面は非常に美しい(雨が降っていないのがよい。古い映画はフィルム傷がスクリーンに雨のように映し出されてしまう)。
当然ながら音楽はステキだ。
古いスタイルをとりながらも新鮮で、想像を豊かにしてくれる映画だが、物珍しさが成功の第一要因だったと思う。

あゝ、荒野 前篇

2023-06-28 09:56:01 | 映画
再び「あ」で思いついたものから掲載します。

「あゝ、荒野 前篇」 2017年 日本 


監督 岸善幸
出演 菅田将暉 ヤン・イクチュン 木下あかり モロ師岡
   高橋和也 今野杏南 山田裕貴 河井青葉 前原滉
   でんでん 木村多江 ユースケ・サンタマリア

ストーリー
かつて母に捨てられた新次(菅田将暉)は、兄のように慕う劉輝(小林且弥)と共に詐欺に明け暮れていた。
そんなある日、彼らは仲間の裕二(山田裕貴)らの襲撃を受ける。
そして、2021年の新宿。
行き場のないエネルギーを抱えた新次は、劉輝を半身不随にした裕二への復讐を誓っていた。
一方、“バリカン”こと建二(ヤン・イクチュン)は、吃音と赤面対人恐怖症に悩む男。
新次と健二は、ひょんなことから“片目”こと堀口(ユースケ・サンタマリア)にボクシングジムに誘われる。
新次は店で出会った芳子(木下あかり)と意気投合し、そのまま関係を持った。
しかし、芳子は男とホテルに入ると、財布を抜いて去るような女だった。
小銭しかなくなった新次は行き場がなく、建二も父親の暴力に耐えかねて家を飛び出し、二人はジムを訪れた。
訪れた海洋拳闘クラブはプレハブ小屋で、ジム兼新次たちの居住スペースともなった。
建二が年上なので、新次は建二を「兄貴」と呼ぶようになる。
建二は今まで通り理髪店に勤めながら、新次は片目に紹介してもらった老人介護施設で文句を言わずに働きながら、二人は仲良く練習を始めた。
練習中に廃墟で立ちションした新次は、カップルの情事に見入る中年男性・宮木社長(高橋和也)を見かけた。
その廃墟は「対テロ防止行動地区」と呼ばれ、周囲から隔離され浮いていた。
二人はプロテストに合格し、新次には「新宿新次」、建二には「バリカン建二」というリングネームがついた。
祝杯を挙げて中華料理屋に行った新次は、そこで店員として働いている芳子と再会した。
片目の師匠にあたる初老男性の馬場(でんでん)がトレーナとしてやって来た。
その頃西北大学では川崎(前原滉)が主催する自殺防止フェスティバルというパフォーマンスが開かれていた。


寸評
フェードアウトを繰り返しながら別の話が入り込んでくるので、予備知識がないと戸惑うかもしれない。
無関係そうに見えるそれらの話が本筋に絡んでくるのは映画としては当然なのだが、その関係は微妙な間合いを保ちながら進行していくので理解をするのに労力を要してしまうのだろう。
荒々しいセックスシーンもさることながら、新宿新次とバリカン建二に扮した菅田将暉、ヤン・イクチュンの存在感と迫力が画面を圧倒する。
鬱積していたものを一気に吐き出すような爆発的エネルギーを示す菅田将暉を、ヤン・イクチュンは吃音というハンデを持つために引っ込み思案な男でありながら、自分が寄り添える相手としての新次にホモセクシャルな感情を抱く年上の男として、抑えた演技で支える。
建二は新次が眠っている時に似顔絵を写生したり、新次が流した血をふき取った包帯を大切に保存していたりしているのだが、二人の関係はそれ以上進まないから新次に対する建二の感情は微妙なままである。
しかし二人は寄り添いながらトレーニングを続けていくから、お互いにやっと心を許し合える相手を見つけたという幸せに浸っていたのかもしれない。
荒れていたし、今もその片鱗を見せる新次だが、ジムにおける彼は明るい表所を見せ素直である。

人間関係は複雑だ。
母に捨てられた新次は教会の孤児院でイジメに会うが、それを救ってくれたのが劉輝。
大きくなった劉輝と新次はオレオレ詐欺のような悪事を働くようになるが、下っ端として加わっていた裕二が、一番実績を上げているにもかかわらず下っ端でいる事に不満を募らせ劉輝を半身不随にしてしまう。
新次の父親は自衛隊員だったが、海外派兵から戻って自殺し、残った母親は新次を孤児院に預け姿をくらます。
建二の父親も自衛隊上がりだが、今は酒浸りで建二のパラサイトになっている。
新次は母に捨てられ、建二は父を棄てることになる。
こういった関係が新次と建二の練習風景の合間に短時間で挿入されるため、上記のような相関図をなかなか理解できなくて、それが難解感を増長させる。
不思議なことに、作品の中でその難解感が魅力となっている。
ミステリアスなのは芳子もそうで、東日本大震災の被災者であり、どうやら母親と離別してそうなのだ。
そういう背景も短いエピソードを紡いで挿入される。
人間関係はそのような手法で語られフェードアウトしていくのが本編の特徴ともいえる。

時代は近未来で、国会では「社会奉仕プログラム」という法律が通ろうとしているので反対運動が起きている。
その制度の内容とは、人々は社会奉仕という観点から、介護施設で働くか自衛隊に入隊して訓練を受けなければならないと言うものである。
新次の父も、建二の父も自衛隊に属していたし、宮本社長は介護施設を経営し、新次もその施設で働くことになるから「社会奉仕プログラム」はまんざら無関係というわけではないのだが、僕にはこのエピソードの存在意図はよくわからなかった。
来るべき時代における自衛隊員の減少問題、高齢化による介護問題を提起していたのだろうか。
一見不要とも思えるエピソードを描きながらも、観客を引き付けるものがある印象深い前編である。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

2023-06-27 07:21:21 | 映画
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」 2019年 アメリカ


監督 クエンティン・タランティーノ
出演 レオナルド・ディカプリオ ブラッド・ピット マーゴット・ロビー
   エミール・ハーシュ マーガレット・クアリー
   ティモシー・オリファント オースティン・バトラー
   ダコタ・ファニング ブルース・ダーン アル・パチーノ

ストーリー
落ち目のTV俳優リック・ダルトンは、なかなか復活の道が拓けず焦りと不安を募らせる。
情緒不安定ぎみな彼を慰めるのは、リックのスタントマンとして公私にわたって長年支えてきた相棒のクリフ・ブース。
固い絆でショウビジネスの世界を生き抜いてきた2人だったが、このままでは高級住宅地にあるリックの豪邸も手放さなければならなくなる。
そんな彼の家の隣には、時代の寵児となった映画監督のロマン・ポランスキーとその妻で新進女優のシャロン・テートが越してきて、彼らとの勢いの違いを痛感するリック。
一方クリフはヒッチハイクをしていたヒッピーの少女を拾い、彼女をヒッピーのコミューンとなっていた牧場まで送り届けてあげるのだったが…。

TVドラマの元人気俳優で今は悪役ばかりのリック・ダルトンは、映画スターへの道が拓けず焦る日々が続いていた。
そんな情緒不安定気味な彼を、親友でありスタントマンのクリフ・ブースがそばで支え続けていた。
ある日、リックの隣家に気鋭の映画監督、ロマン・ポランスキーとその妻で新進女優のシャロン・テートが越してくる。


寸評
幸運だったのは僕の年代の者にとっては無条件に楽しめる作品だったことだ。
1969年は正に僕の青春時代真っただ中の時代だ。
「ボナンザ」など懐かしいテレビ番組が何本も会話の中に登場する。
ディーン・マーティン主演の「サイレンサー/沈黙部隊」などというB級作品も取り上げられている。
ブルース・リーやスティーヴ・マックィーンが登場し、彼等を演じたマイク・モーやダミアン・ルイスが二人の特徴ある仕草をマネた時には思わず笑ってしまった。
学生運動が盛んだったし、街にはヒッピー(死語だ)がたむろしていた。
西部劇は残酷描写のマカロニ・ウェスタンが謳歌し、最先端の映画はアメリカン・ニューシネマへと移り変わっていた時代だ。
リック(レオナルド・ディカプリオ)はテレビ西部劇の主役だったが、今では悪役しか回ってこない落ち目の俳優で、イタリアでマカロニ・ウェスタンに出て出稼ぎしないといけない。
これにリック専属のスタントマンであるクリフ(ブラッド・ピット)が絡むのだが、 僕にとってはロマン・ポランスキーとシャロン・テートが主役だ。
作中で「ローズマリーの赤ちゃん」のロマン・ポランスキーだと語られるが、何といってもインパクトがあるのはシャロン・テートである。
僕がポランスキー作品として感銘を受けた作品の一つである「吸血鬼」に出演していて、これが縁で二人は結婚したので、僕はポランスキーは本当にシャロン・テートに噛みつかれたのだと冗談にも思ったものなのである。
シャロン・テートは 1969年8月9日に狂信的なカルト信者らに妊娠中にもかかわらず10数か所も刺され母子ともに亡くなった。
当時彼女は26歳の若さだったし、僕もこのシャロン・テート事件には衝撃を受けた。
映画を見るにあたっては、この事件のことを事前に知っておいた方がよい。
この事件を背景にしながらタランティーノが「むかし、むかし、ハリウッドでは・・・」と語りだしている作品で、僕にとってはノスタルジーを感じさせる作品で、161分という尺は冗長とも感じるものの楽しめた。
僕は映画で描かれた時代よりもずっと後にハリウッド大通りを訪れたが、描かれた雰囲気とはすでに違っていた。
コンピュータに頼らず当時を再現したタランティーノの根性はすごい。
シャロン・テートが自分の出演作を見に行き、観客の反応にニンマリするシーンなどはくすぐられる。
気持ちがよく分かるのだ。
そしてラストシーン。
その日、シャロン・テートは平穏に暮らしていたのだ。
そしてリックとクリフによって犯人たちは退治され、彼女も災難から逃れたと言う鎮魂歌となっている。
僕はシャロン・テートを「吸血鬼」でしか知らないが、あんなに早く死ぬ必要のなかった女優さんであることは間違いない。
カルト集団は厄介な存在だ。

笑の大学

2023-06-26 06:46:03 | 映画
「笑の大学」 2004年 日本


監督 星護
出演 役所広司 稲垣吾郎 高橋昌也 小松政夫 石井トミコ 小橋めぐみ    
   長江英和 吉田朝 陰山泰 蒲生純一 つじしんめい 伊勢志摩
   小林令門 河野安郎 木梨憲武 加藤あい 木村多江 八嶋智人

ストーリー
昭和15年、秋…。 日本では戦争が激化していた。
国民の娯楽である舞台演劇は規制され、舞台劇は上演前に警察により内容の検閲を受けねばならない。
笑いに対して理解のない警視庁保安課検閲係の向坂(さきさか)は、戦争で国民皆が一致団結するこの時期に、低俗な喜劇など不謹慎だと考えており、上演中止に持ち込みたいと考えていた。
向坂の元に、浅草の劇団〝笑の大学〟の座付作家・椿一が脚本を持ってくる。
向坂は『ジュリオとロミエット』という芝居が外国の設定であることに文句をつけ、日本設定に書き直させる。
椿は設定を日本に変え「金色夜叉」をベースにした脚本に書き変えてくるが、向坂は「お国のために」というセリフを3回入れろと新たな指示を出す。
さらに、警察署長の名前を使った登場シーンを入れろと指示された椿は、チョイ役で警官を登場させることにするが、その登場の設定の甘さに、ついつい向坂は躍起になって設定を詰め始める。
向坂は椿と接するうちに、喜劇舞台に興味を持つようになり、六日目にとうとう上演許可を下すが、ほっとした椿はつい口を滑らせて、笑いを弾圧しようとする国家の体制を批判する本音を漏らしてしまう。
向坂は許可を取り消し「笑いの要素を一切取り除いた脚本にしてこい」と命じる。
七日目、徹夜して仕上げた椿は向坂の元に脚本を持ってきた。
笑いの要素を取り除けと言ったにもかかわらず、今までの中で最も面白い出来になっていた。
向坂は上演不可を言い渡すが、椿は受け入れる。
椿のところに召集令状が届いていて、どっちみち舞台は中止になるわけだ。
そんな彼の後ろ姿に、立場を忘れた向坂は「必ず生還し、君の手で上演しろ!」と叫ぶのだった。


寸評
僕はこの舞台劇を見ているのだが、映画がその機能において舞台と全く違う点がいくつかある。
映画の特徴と言えるのが、クローズアップ、カット割り、モンタージュである。
もちろんエキストラを含めた出演者が多いとか、自由に場面を変えられるとかなどもあるけれど、やはり映像としての機能を生かす上記の3点は映画特有の映像的技術だ。
舞台劇を見ているだけにその違いに目が行った作品だった。

舞台版は西村雅彦、近藤芳正の二人芝居である。
何分かおきに爆笑が起きるというドタバタ喜劇ではないが、時折体をくすぐるユーモアのある、これが演劇なのだと思わせる芝居であった。
演劇に造詣のない僕は、宝塚と吉本新喜劇、松竹新喜劇しか知らなかったが、演劇のもつ力に圧倒された。
映画ではそれぞれを役所広司、稲垣吾郎が演じているが、舞台人である近藤芳正にアイドルグループSMAPの稲垣吾郎が予想に反して伍しているのは特筆されてよい。
舞台ではその存在が名前だけしか登場しなかったが、映画ではそれらの人々がわずかながら登場し、その他にも隠れ出演者がいて、それを発見するだけでも楽しい。
座長の青空寛太を小松政夫が演じて座布団回しを披露している。
モギリのおばさんは石井トミコ、警官・大河原は八嶋智人、チャーチルをダン・ケニーといった具合。
エンドクレジットでは寛一、お宮はそれぞれ 眞島秀和、 木村多江、ロミエット、ジュリオはそれぞれ小橋めぐみ、河野安郎、石川三十五右衛門の長江英和、ヒトラーのチュフォレッティなどが映像で紹介される。
劇団の支配人としてトンネルズの木梨憲武、カフェの女給として加藤あいなどもエキストラ出演していた。
出てこなかったのはおでん屋のオヤジぐらいだ。
その代わり、廊下の制服警官として高橋昌也が新たに登場していた。
ここまで登場させて、おでん屋のオヤジがなぜ登場しなかったのかなあ?

向坂は「笑の大学」劇団の上演を中止に持ち込むべく、椿の台本に対して笑いを排除するような無理難題を課していくが、いっぽう椿は何としても上演許可を貰うため、向坂の要求を飲みながらもさらに笑いを増やす抜け道を必死に考え、一晩かけて書き直していく。
向坂の検閲、椿の書き直し、そんな毎日が続くうち、いつしか向坂も検閲の域を超えた台本直しに夢中になってゆくという設定がユニークで面白い。
舞台同様、大笑いが起きる展開ではないが、舞台ではできない台本のクローズアップや、向坂と椿のやり取りをカットバックでテンポよく見せていく。
検閲室は舞台同様シンプルなセットで、カメラは二方向に固定されているのか、二人芝居を小気味よく切り返す。
時折、引いたショットも入り映画的興奮を高める。
セリフはほとんど舞台を継承しているが、ラストシーンは少し違った印象だ。
映画の方が、言論統制に対する警告が感じられ、このあたりは星監督の主張だったのだろう。
だけど、僕が抱いた最大の疑問は、あれほど完成された舞台劇を、ほぼ同じで映画化する必要がどこにあったのかということだった。

WATARIDORI

2023-06-25 07:42:09 | 映画
「WATARIDORI」 2001年 フランス


総監督 ジャック・ペラン
共同監督 ジャック・クルーゾ ミッシェル・デバストーリー

渡り鳥たちは北半球に春が訪れると、生まれ故郷の北極を目指して飛び立つ。
北極は、世界中からやって来る鳥たちにとっての楽園。
彼らの繁殖は、なぜかこの地でしか行なわれないのだ。
そんな春の北極へ向けてほとんど休まずに飛び続ける鳥もいれば、宿泊地を定めながら向かう鳥、親鳥からはぐれて独りで見知らぬルートを羽ばたいて行く幼い鳥もいる。
彼らは北半球が新しい春を迎えるたびに、苦難を乗り越えながら数千キロにも及ぶ果てしない空の道を辿って“必ず戻ってくる”のだった……。


寸評
鳥が飛んでいる以外に何もない映画だが、ナレーションが一杯でないのもいいし、鳥の習性や天敵とのバトルを描いて興味を引いていない所もいいし、何よりも鳥たちに対して自然体なのがいい作品だ。
カメラは鳥と共に飛び、すぐ横を飛んでいるような映像に驚嘆するが、それは万国博覧会のサントリー館で見ていたものでもあるのだが撮影対象と撮影時間が比較にならず臨場感たっぷりである。

ニューヨークのハドソン川からは自由の女神が見え、パリのセーヌ川をとぶときはエッフェル塔が見える。
砂漠に燃える太陽、夕焼けの海をかすめていく鳥のシルエットが美しい。
シベリアのツンドラでは、長い首と首をからめてのけぞる優雅かつエロチックなツルが撮られている。
大きな羽、力強い背筋、肉感的な胴部、美しい編隊を組んでとぶオオハクチョウの飛翔する姿は、あるときはダイナミック、あるときはエレガントでもある。

渡り鳥たちは太陽と星を目印に移動し、地球の磁場を感知できるらしいのでコースと目的地を絶対に間違わないということであり、その飛行距離は驚異的である。
カオジロガン2500キロ(西ヨーロッパからグリーンランド)。
オオハクチョウ3000キロ(極東からシベリアのツンドラ)。
インドガン2500キロ(ガンジス一帯から中央アジアステップ地帯)。
タンチョウヅル1000キロ(日本からシベリアのタイガ地帯)。
ハクトウワシ3000キロ(アメリカ西部からアラスカ)。
カナダガン3500キロ(メキシコ湾から北極圏)、ハクガン4000キロ(同)。
カナダヅル3500キロ(アメリカ大草原から北極圏)。
キョクアザサシは北極から南極へ地球を半周して2万キロを飛ぶ。

噴煙をあげる工業地帯を飛んだかと思えば、道路わきの廃車のラジエターから湧き出た廃水で水浴びする鳥たちのすぐそばをトラクターが通る。
過酷な旅を続けていることが分かり、数百万羽の鳥のなかには、たどりつけなかった鳥もいるのは当然だ。
羽が折れて飛び立てず、その弱った身体を狙ってカニが追い続け、やがてむらがるカニに生きたまま食いつくされるという残酷な場面もある。
カニは鳥についばまれる生き物だというイメージがあるが、ここではカニが鳥を襲っているので驚いた。

季節は再び春になり鳥たちが戻ってくるのだが、冒頭で登場した小川のほとりの少年も再び登場する。
とびたつガンの群れのなかで、網にからまった鳥が一羽いて、少年は鳥を救い出してやったのだが、網の一部が巻き付いたまま飛び立ったガンが、ヨレヨレになったヒモを脚につけたまま帰ってくる。
ラストを飾るこのシーンだけは演出を感じさせた。
僕はドキュメンタリー映画は好きな方ではないのだが、これは映像でもって見せるところがあり鑑賞に堪える作品だった。
ジャック・ペランは俳優よりもプロデューサーとしての能力が勝っている人かもしれない。

私をスキーに連れてって

2023-06-24 08:55:35 | 映画
「私をスキーに連れてって」 1987年 日本


監督 馬場康夫
出演 三上博史 原田知世 原田貴和子 沖田浩之 高橋ひとみ 布施博
   鳥越マリ 上田耕一 小坂一也 飛田ゆき乃 竹中直人 田中邦衛

ストーリー
矢野文男(三上博史)はある商社に勤める26歳のサラリーマンで、仕事ぶりも恋もいまひとつパッとしない都会人だが、大学時代からスキー選手として鳴らしてプロ級の腕前、ゲレンデではいつもスターなのだ。
会社ではスキーの名門ブランド“サロット”の販売を、元ワールドカッブ選手・田山(田中邦衛)のプロジェクトで行なっていたが、矢野も部外者ながら手伝っていた。
クリスマス、奥志賀のスキーツアーで矢野はOLの池上優(原田知世)と知り合い、一目ぼれ。
矢野の高校時代からのスキー仲間、正明(沖田浩之)、真理子(原田貴和子)、和彦(布施博)、ヒロコ(高橋ひとみ)の四人もなんとか二人をくっつけようとするが、オクテな矢野はなかなかアプローチすることができない。
ある日、彼は仕事のミスで常務に呼び出され、なんと社内で優とバッタリ。
彼女は同じ会社の常務秘書だったのだ。
田山が企画したサロットの新しいウエアの発表会が、バレンタインデーに万座のスキー場で行われることになり、矢野もその準備に忙しく、せっかくの優とのデートにも遅れたり、行けなかったりした。
矢野は優のためにバレンタインの日は、スキーツアーに参加することにした。
当日、矢野は優や仲間たちと志賀でスキーを楽しむが、万座では田山に反発する所崎(竹中直人)らの陰謀により発表用のウエアが一着も届いていなかった。
頼みは矢野たちの身に着けている6着のみ。
矢野がつかまらないので、真理子とヒロコが車で万座へ向かった。
しかし、それでは間に合わないと思い、優はウエアを着込みスキーで万座を目指したが、志賀・万座間は難所が多くスキー歴の浅い彼女には自殺行為だった。


寸評
この作品でスキーブームが起きたとも言われているが、むしろスキーブームを先取りして撮られた作品だ。
寒がり屋の僕は生涯でたった一度だけスキーに行ったのだが、結構楽しめたことを思い出す。
そして高所恐怖症気味の僕はリフトの恐怖をも同時に思い出すのである。

ストーリーは有って無いようなもので、若者たちが大いにスキーを楽しんで騒いでいるだけと言っても過言でない。
兎に角彼等の無邪気なスキーシーンと、ゲレンデやロッジで騒ぐ楽し気なシーンが繰り広げられる。
若者たちのそんなシーンを見ているだけで、不思議と笑顔が漏れてウキウキした気分になってくる。
青春時代のバカ騒ぎがよみがえって来て、つい笑みがこぼれてしまうのだ。
そのころのスキーはブルジョアの遊びで、プロレタリアートだった僕には無縁のものだったが、あのバカ騒ぎは懐かしいし、社会人になってもそれを繰り広げている彼らが羨ましくもある。
この映画を見た人が触発されたのか、トレイン滑降をやる若者が続出し、危険防止のためトレイン滑降が禁止されたスキー場もあったと聞く。

ドラマがスキーを通じて繰り広げられるというよりも、スキーシーンの間にドラマが展開されると言ったほうがよいような感じだ。
全編を通じてライトな感覚が漂っていて、松任谷由実の歌声が雰囲気を盛り上げる。
「恋人がサンタクロース」はこの映画の挿入歌だが、挿入歌であることは忘れられて今やクリスマスのテーマソングとなっている。
ユーミンはこのほかにも「ロッヂで待つクリスマス」「A HAPPY NEW YEAR」「BLIZZARD」など軽快なサウンドを聞かせてくれて、彼女の歌声が聞こえてくるだけで楽しくなってしまう。
矢野と優のピュアな関係も微笑ましく、優が矢野に「今年もよろしくお願いします」と告げるシーンに思わず笑みがこぼれてしまう。
いくら歳を取っても、さわやかな若者たちの恋模様をみると、自分も若返ったような気分になる。

ドラマの部分はもう何でもありの状態で、女二人が凍った雪道でレーシングをやったり、挙句の果ては渋滞を切り抜けるために大ジャンピングを見せたり、ゲレンデを車で走り回ったりする。
車だと5時間ほどかかる道を、スキーなら短時間で行けると進入禁止の危険なコースを滑りだすのだが、ライトを携帯しているとはいえ、優が難コースを滑り切れるとは思われない。
第一、時間がかかる道路を走り、しかも途中で車をひっくり返らせたヒロコたちが矢野より早く会場に到着しているのは何故なんだ。
途中でビバークなんかを試みていた時間がそんなに長かったということなのかなあ。
若大将シリーズの青大将じゃないんだから、会社の同僚が発表会を妨害するなんて飛びすぎもいいとこだ。
そんないいかげんな描き方も気にならないくらい、明るくてノー天気な映画として、それはそれで楽しめる作品になっていて原田知世にとっても代表作の一本だろう。

私は二歳

2023-06-23 07:30:07 | 映画
「私は二歳」 1962年 日本


監督 市川崑
出演 鈴木博雄 船越英二 山本富士子 浦辺粂子 渡辺美佐子
   京塚昌子 岸田今日子 倉田マユミ 大辻伺郎
   浜村純 夏木章 潮万太郎
   声の出演:中村メイコ

ストーリー
太郎くんは都内の団地に住むサラリーマン夫婦、小川五郎と千代の一人息子として生まれました。
両親は太郎くんを育てるのに毎日毎夜真剣でした。
太郎くんが笑ったといっては喜び、蟹のように一歩一歩あるいたといっては歓声をあげ、団地の階段を高いところまで這い上がったといっては仰天する両親なのです。
とにかく両親は太郎くんを眼の中へ入れても痛くないほどかわいくて仕方ありません。
だが、両親のそんなかわいがり方は、太郎くんにとって嬉しいのかどうか……。
案外、その小さな胸中で迷惑がっているかもしれないのです。
太郎くんは、体内に充満している生命の無限性を動作によって発散させたいだけなのかも知れないのです。
ある日、太郎くんは転居によって新しい家族に祖母をくわえ、郊外の平屋に住むことになりました。
おいたに、怪我に、自家中毒、風邪等々、両親や祖母の神経が休まる暇もありません。
それに母親と祖母のしつけ方のくい違いがあったり、父の勤務先のごたごたや、それらに起因して母親のいらいらが生じたりしますが、突然そんな太郎くん中心の生活に祖母の死がおとずれました。
しかし、太郎くんは人間の死ということをしりません。
おばあちゃんは遠い遠い所へ旅行に行ったと信じこんでいます。
丸い大きな月の昇ったある夜、太郎は小さなバースディ・ケーキと二本のローソクの前に座っています。
これからも太郎くんは、みんなの愛情と心づかいの中でぐんぐん大きくなってゆくことでしょう。
両親の顔もはれやかです--。


寸評
子育てをメインに置いたホームコメディで、誇張しながら描いているけれど時代が変われど赤ちゃん育てに関してはあまり変わっていないのだと感じる。
当時の子育て環境はこんなだったのだとの社会点描でもある。

笑ったと言っては喜び、歩いたと言っては喜ぶ子育ての楽しさが活写される。
もの言えぬ赤ちゃんの気持ちなど分かるわけもないが、その身になって挿入される中村メイコの声による赤ちゃんの気持ちのナレーションが可笑しいが、そうかもしれないなと思わせる。
そんなことを思っているはずはないのだが、太郎の言葉でサラリーマンのお父さんを揶揄させていている。
危ないことをしだすとハラハラし、病気になっては心配する親の姿は今もちっとも変わっていない。
子育て中の親ならば「あるある・・・」と納得するのではないか。

五郎、千代の夫婦は兄夫婦が転勤した為に、五郎の母親と同居することになる。
団地から一軒家に移ることが出来、家賃もいらないし母の生活費の一部として兄が仕送りもしてくれるので、メリットもあるのだが嫁、姑問題が横たわることになる。
真っ先にぶつかるのが子育て、子供の教育に関する対応の違いである。
厳しく育てたい母親と、何かにつけて甘いおばあちゃんが対立する。
一方、病気に関してはおばあちゃんは神経質である。
義母と同居しているお母さんならばやはり「あるある・・・」と納得するのではないか。

振り返ってみると、自分も子育てを通じて随分と楽しませてもらったことを思い出す。
確かにハラハラすることもあったし、心配することもあったが、圧倒的に楽しかったのだ。
会社勤めを終えて帰って来た時に飛びつかれると、それだけで疲れも取れたし嫌なことも忘れられた。
寝顔を見ると心癒されたものである。
そんな様子が描かれると「そうだった、そうだった」と思わず笑みが漏れてしまう。

付随する話として渡辺美佐子の義姉が登場したり、千代の姉である京塚昌子が登場するが添え物的だ。
同居している渡辺美佐子の義姉が「交代しましょうか」と言って、千代はすかさず「嫌よ!」と叫んで大笑いするシーンがあって、それはやがて千代夫婦が同居することへの伏線とはなっていたけれど…。
やがておばあちゃんは死んでいく。
太郎は二歳の誕生日を迎え、これからどんどん大きく育っていく。
一家の中でもそのようにして時は移っていくのだ。
この時間の経過はだれも止めることはできない。

山本富士子は当時美人女優としての誉れが高かった人だが、随分と恰幅のいい人だったんだなと思うと同時に、この作品ではそれが生きていた。
船越英二はイメージそのまんまで、この夫婦のバランスは絶妙である。

私は貝になりたい

2023-06-22 06:28:25 | 映画
「私は貝になりたい」 1959年 日本


監督 橋本忍
出演 フランキー堺 新珠三千代 水野久美 笠智衆
   中丸忠雄 藤田進 加東大介 南原伸二

ストーリー
清水豊松(フランキー堺)は高知の漁港町で理髪店を開業していて、家族は女房の房江(新珠三千代)と一人息子の健一(菅野彰雄)である。
戦争が激しさを加え、赤紙が豊松にも来て、彼はヨサコイ節を歌って出発した。
--ある日、撃墜されたB29の搭乗員が大北山山中にパラシュートで降下した。
「搭乗員を逮捕、適当に処分せよ」矢野軍司令官(藤田進)の命令が尾上大隊に伝達され、豊松の属する日高中隊が行動を開始し、発見された米兵は、一名が死亡、二名も虫の息だった。
日高大尉(南原伸二)は処分を足立小隊長(藤原釜足)に命令、さらに命令は木村軍曹(稲葉義男)の率いる立石上等兵(小池朝雄)に伝えられた。
立石が選び出したのは豊松と滝田(佐田豊)の二名だった。
立木に縛られた米兵に向って、豊松は歯をくいしばりながら突進した。
--戦争が終って、豊松は再び家族と一緒に平和な生活に戻ったが、それも束の間、大北山事件の戦犯として豊松は逮捕された。
豊松は、腕を突き刺したにすぎない自分が裁判を受けるのはおかしいと抗議したが、絞首刑の判決を受けた。
独房で、豊松は再審の嘆願書を夢中で書き続けた。
矢野中将が、罪は司令官だった自分ひとりにある旨の嘆願書を出して処刑されてから一年の間、巣鴨プリズンでは誰も処刑されなかった。
死刑囚たちは釈放されるものと信じていたが、豊松は絞首刑の宣告を受ける。
豊松は唇をかみしめながら、一歩一歩十三階段を昇った。
どうしても生れ変らねばならないのなら……私は貝になりたい--という遺書を残して。


寸評
前年にテレビ放映されて評判を呼んだドラマの映画化である。
テレビ版の「私は貝になりたい」はテレビドラマの歴史が語られる時には「岸辺のアルバム」などと共に必ず取り上げられる記念碑的作品である。
本作を見た第一印象は、橋本忍は優れた脚本家であったが優れた監督ではなかったという事だった。
僕はこの作品を随分経ってから見たのだが、たぶん僕には年数を経てもテレビ版の強烈なイメージの残像が残っていたのだろうと思われる。
収監された戦争犯罪人としてA級戦犯の他にB級、C級の戦犯もいた。
A級戦犯は平和に対する罪を訴追されたもので東條英機などが該当する。
B級は通例の戦争犯罪で交戦法規違反行為を行った者が訴追されている。
C級は人道に対する罪で奴隷化、捕虜の虐待などが含まれている。
区別は量刑を表すものではなく罪の根拠となった行為の分類であるのだが、清水豊松はそれからすればC級として訴追されていたことになる。
BC級でも1000名くらいが死刑になったとのことであるが、戦勝国が敗戦国を裁くと言うのはどうなんだろう。

理髪店を営み町の人から慕われていた豊松が召集令状を受け取る。
幸せな家庭生活を営んでいた者が突如召集されて戦地へ赴くのは何度も描かれてきたものだ。
ひどい空襲を受け続けている日本に米軍パイロットが撃墜されてパラシュートで降り、1名は死亡、2名も助かる見込みがない状態で日本軍に発見される。
そこで描かれることがこの映画の持つ特別な状況である。
豊松が士気高揚のために捕虜を銃剣で突き刺すように命令される。
非人道的なことができない豊松は一度はためらい叱責されるが、再度の命令により突撃する。
それでも胸を刺すことが出来ず腕を刺すにとどまってしまい、上官からひどい折檻を受けることになった。
豊松は、戦後になってその行為が死刑に相当すると言われたのだ。
日本軍では上官の命令は絶対で、逆らえば自分が銃殺されると言っても、米国人にはその理屈が通じない。
豊松は二等兵と言う一番下の階級で、上官の命令に従ったばかりに死刑の宣告を受けている。
庶民が戦争犯罪に巻き込まれる戦争の非道さを描いているが、その訴えは手ぬるく感じる。

こんど生れかわるならばこんなひどい目に会わされる人間になりたくない。
人間にいじめられるから牛や馬にも生れない。
どうしても生れかわらなければならないのなら貝になりたい。
貝ならば海の深い底の岩にヘバリついて何の心配もない。
兵隊にとられることもないし戦争もない。
妻や子供を心配することもない。
どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝になりたい。
そのようにつぶやいて清水豊松は絞首台に登る。
理不尽な物語であるが、戦争が引き起こした理不尽な出来事としては何か物足りないものを感じた。

私の少女

2023-06-21 07:08:26 | 映画
「私の少女」 2014年 韓国    

                                 
監督 チョン・ジュリ       
出演 ペ・ドゥナ キム・セロン ソン・セビョク

ストーリー
小さな海辺の村。
ソウルから所長として赴任してきた若き女性警官のヨンナム(ぺ・ドゥナ)は、初日に14歳の少女ドヒ(キム・セロン)と出会う。
ドヒの実の母親は蒸発し、血のつながりのない継父ヨンハ(ソン・セビョク)とその母親である祖母と暮らしているが、ドヒの身体には無数の傷跡があり、日常的に暴力を受けているようであった。
村人は老人ばかりの集落で、若くして力を持つヨンハの横柄な態度を容認し、ドヒに対する暴力ですら見てみぬふりをしている。
そんな状況にひとり立ち向うヨンナムは、ドヒにとって暴力や学校のいじめから守ってくれる唯一の信頼できる大人であり、孤立していたヨンナムにとってもドヒの笑顔が心を癒してくれていた。
ある夜、ヨンナムの家にドヒが泣きながら訪ねてくるが、時を同じくして、老人の遺体発見との電話が署から入る。
海辺に駆けつけると、崖からドヒの祖母が落ちて死亡していた。
「パパとおばあさんが追いかけてきて落ちた」と涙ながらに説明するドヒ。
現場に到着したヨンハがドヒに殴りかかる。
エスカレートしていくヨンハの暴力から守るため、ヨンナムはドヒを一時的に自宅に引き取り面倒をみることにする。
やがて子供らしい無邪気な笑顔がドヒに戻ってくるが、次第にヨンナムと離れることを過剰に恐れ、激しくヨンナムに執着するようになり、そのあまりに過剰な反応にヨンナムは戸惑いを憶え始める。
そんな中、ヨンハは衝突を繰り返していたヨンナムの過去の秘密を知り、彼女を破滅させようと追い込んでいく。
ヨンナムを守るため、全てをかけてドヒはある決断をするが…。


寸評
女性監督であるチョン・ジュリは女性が逆境から立ち直る姿を描いているのだが、同時にサスペンス性と社会性をも兼ね備えた上質の作品に仕上げている。
韓国は血縁重視社会であることは伝え聞くが、血のつながっていないドヒは継父や祖母から「このクソガキ」とののしられて虐待されている。
それを黙認している村人たち、ひいては社会に疑問を持つが、チョン・ジュリ監督も一族だけの繁栄を願う韓国社会に警鐘を鳴らしているのだろう。
拡大解釈すれば、財閥の一族、及び財閥系会社に就職できたものだけが利益を得ている社会構造への批判だ。
村人たちは働き手がいなくなるからと不法滞在者の存在も黙認している。
ヨンハの横暴も仕事がなくなるからと受け入れている。
ヨンナムが赴任した村は見て見ぬふりをする社会が出来上がってしまっている。
ソウルの先輩はそんな村で目立ったことをするなと忠告する。
我々と同じ自由主義の国でありながらも、何処か違う韓国社会。
社会が黙認してしまっている不法移民や血縁重視社会の闇の部分をさりげなく描いていたような気がする。

一方のサスペンスとして、謎めいた事柄を明かさない手法がなかなかいい。
祖母の死因は事故死か殺害なのか?
それを追求するのではなく、あくまでも観客に疑問をもたせたまま最後まで描いていく姿勢がいい。
ヨンナムが飲んでいるのが酒であることは推測できるのだが、なぜ彼女がそうなのかも判明しない。
アル中とも思えるヨンハが酒を飲むと暴力的になるのに対し、ヨンナムは静かで、その対比がミステリー性を高めていく。
ヨンナムは問題を起こして左遷されたらしいことはすぐに描かれるが、その問題とは何であったのかはずっと秘められている。
もちろんそれが明らかになったところで物語は大きく展開するのは予想通りなのだが、その内容と知らされるタイミングは練られていて脚本の妙だ。

子供の怖さは時々描かれるテーマだが、ヨンナムの同僚の若い刑事が「ドヒはよく分からない、小さな怪物に見える時がある」というが、無垢の微笑みと罪人の周到な上目づかいをみせるキム・セロンもなかなかのものであった。
冒頭でカエルとテントウムシと戯れているドヒの姿が映されるが、それはそんな自然が残る田舎の象徴としてのシーンと受け止めていたが、見ていくうちに小動物と戯れる幼さと同時にある、一方をもう一方の餌食にする子供の残忍さの象徴だったのだと思い改めた。

「リンダ リンダ リンダ」「空気人形」のぺ・ドゥナは決して美人ではないが役に上手くはまり込むのは流石だ。
「私と行く?」のひとことは保護者と被保護者という関係を越えて結びついた瞬間だった。
赴任してきた道を帰っていく車の中で無防備に眠るドヒの姿は、過去を持つふたりに光があることを感じさせた。
こういう毛色の作品を送り出してくる韓国映画界は健在だと思わされた。

若者の旗

2023-06-20 07:03:31 | 映画
「若者の旗」 1970年 日本


監督 森川時久
出演 田中邦衛 橋本功 山本圭 佐藤オリエ 松山省二
   石立鉄男 夏圭子 謙昭則 稲葉義男 入江洋佑 中谷一郎
   井口恭子 森幹太 益田ひろ子 高津住男 土屋靖雄 山口果林

ストーリー
佐藤家の五人兄弟はそれぞれにさまざまな問題をかかえて生きていた。
三郎は高等学校の教師をしていたが、校長と意見が合わずやめてしまい、今は昼間、出版社で働き、夜は夜間中学で教べんをとっていた。
社会の底辺に置かれ少年たちも、それぞれの悪環境と戦いながら勉学に励んでいた。
その中の一人、努少年は蒸発した父の借金返しに町工場でタダ働き同様に毎日を送っていた。
オリエは恋人と信じていた戸坂の病気を見舞ったが、そこで将来結婚を約束したという西田和子を紹介され、がく然となった。
戸坂は佐藤家を訪ねて自分の置かれている切実な状況を打ち明け、太郎や三郎に許しを乞うた。
オリエは悲しみにたえ、動揺する戸坂にいつまでも平和運動を続けようと励ました。
末吉は、今では会社内でも指折りの自動車セールスマンとして活躍し、所長の姪・みわと恋愛中だった。
独立してみわとの結婚も真剣に考え始めた末吉の稼ぎっぷりは、ますます猛烈になっていった。
同僚を裏切っても良心に恥じることさえ忘れた。
そんな末吉を見て、みわは「あなたという機械の部品にされるのはいやだ」といって去ってしまいそれからの末吉の行動はますます荒み、太郎や三郎との衝突も激しさを増していった。
一方、次郎は町子と口論を続けながらも桃太郎という愛児をもうけ、その生活ぶりはまずまず順調だった。
末吉は三郎の激しい説得にようやく自分の「金とセックスとバクチのために生きている」という生き方に疑問を感じ始め、次郎と町子の子供、桃太郎を見たとき自分の内に芽ばえてくる新しい生命力を感じ、今までの生活を考え直して、一から出なおす決心をした。


寸評
最終章にあたる今回の主人公は末っ子の末吉である。
彼は自動車販売会社に就職していて、人を踏みつけてでも車を売って売って売りまくっているトップ・セールスマンであるが、まるで金の亡者のようになっている。
恋人も出来ているが、相手を愛しているのか出世の為の打算で付き合っているのか分からない。
冒頭で夜間中学の教員をしている三郎が「今一番欲しいもの」と言うテーマを生徒たちに投げかけている。
末吉が一番欲しいものは「金」である。
三郎は環境改善によって得られる家庭の幸せだと言うが、三郎の言う環境改善とは所得の増加によって得られるよりよい生活ではないのか。
だとすれば末吉の言う「金」という答えにも一理あるのだが、末吉の態度はどこか狂っているように思われる。
そんな末吉に所長の姪でもあるみわは理解を示すが、やがてそのみわも愛想をつかすようになってしまう。
高度経済成長によって生み出されたモ-レツ社員の常軌を逸した精神構造を描いていて、前2作よりもテーマに切り込んでいると思っていたのだが、途中で当時問題となっていた公害問題を取ってつけたように持ち込んできたので僕はシラケてしまった。

オリエと戸坂の関係も被爆者問題によって破たんしてしまう。
戸坂は自分の健康問題を考えて、同じ被爆者である西田和子を選んでいるのであるが、被爆者の悩みや社会の無理解について描けていたとは言い難い。
三郎は被害者同士でしか一緒になれないと考えるのは後ろ向きだと主張するが、被爆者差別と自身の健康や生まれてくる子供のことを考えて悩んでいる被爆者の苦しみはもっと描かれるべきだ。
問題提起をするかのようなエピソードを持ち込んでくるのだが、それがどうしても見ている僕に届かない。
次郎の労災問題に関しても同様のことがいえる。
会社は次郎のギックリ腰は労災ではないと言い張っていて次郎と対立しているが、そもそも労災かどうかは会社が決めることではなく、労働基準監督署が決めることなのだから、次郎が本気で戦う気でいるなら労災申請を監督署に出せばいいではないかと思ったりする。
当然そこには会社の非協力的な妨害行為などが予想されるが、それを描いてこその労災問題だと思う。

次郎は町子と結婚していてもうすぐ子供が生まれるのだが、子供が生まれると今の住まいを出て行く必要があるようなのだが、それを含めて町子との生活がどのような状態なのかよく分からない。
町子との間に喧嘩が絶えないようなことも述べられているが、夫婦仲も含めて家庭状況は想像するしかない。
それでも桃太郎と名付けられる子供の誕生を映して希望を感じさせるが、桃太郎を見つめる末吉のこれからは、これまた想像するしかない。
末吉は香港かシンガポールへ行くのだろうか。
みわとの関係を修復させることができたのだろうか。
末吉は今の生き方や考え方を変えていくのだろうか。
出勤するサラリーマンの雑踏の中を末吉が相変わらず黙々と歩いているシーンで終わっている。
僕たちは想像するしかない。


若者はゆく -続若者たち-

2023-06-19 07:22:20 | 映画
「若者はゆく -続若者たち-」 1969年 日本


監督 森川時久
出演 田中邦衛 橋本功 山本圭 佐藤オリエ 松山省二
   木村夏江 大塚道子 福田豊土 夏圭子 石立鉄男
   中野誠也 塚本信夫 浅若芳太郎 佐伯赫哉
   江守徹 原田芳雄 三谷昇 永井智雄 名古屋章

ストーリー
出稼ぎのまま帰らぬ父、残された母みきと、辰夫との密交渉。
純真な間崎ミツは、そんな母を許さず、自分自身だけを頼りに上京した。
東京で働き、学び、生活する若者たちがいるが、佐藤家の五兄弟もそのひとりひとりだ。
長兄の太郎は設計技師、親代りになって育てた弟妹も成長し、今では、マイホームを築くことに夢を託している。遠距離トラックの運転手次郎は、町子との結婚準備におおわらわだった。
だが、町子はかつて争議で苦労を共にした前労組指導者塚本との縁がきれず、闘いに疲れ争議団の金を持逃げした彼に気をもんでいた。
経済学専攻で理論家肌の大学生三郎は、金のためにあくせくする太郎にことあるごとに反発、全共闘入りし学園粉争で激突抗争を繰返えす親友小川とも対立していた。
そして、就職試験の失敗は、彼に深い挫折感を味あわせた。
働なきがら兄弟の母代りでいるオリエは太郎の部下の武から求婚されたが、脚が悪い被爆者の戸坂のことが心を離れなかった。
進学浪人の末弟末吉は、自動車のセールスでチャッカリ稼いでいた。
そんな頃、オリエの職場の同僚ミツがノイローゼ気味の東北出身のハルエをかばって職制と争い解雇されたため行き場のなくなった彼女をオリエは家に連れ帰った。
一方、太郎は虎の子の金を積んで契約した土地会社がつぶれ、そのショックから胃痙攣を起してしまい、佐藤家はそれをめぐって喧々諤々。
そこへ帰って来た三郎が視線をさけながら荷造りを始め、西表島に教師の口を見つけ発つという。
次郎もオリエも、末吉も皆反対した。


寸評
前作からの佐藤兄弟一家を引き継いでいるが、今回は間崎ミツという田舎から出てきた女性が重要人物として登場し佐藤家に住み込むことになる。
彼女の失職を巡る労働争議が盛り込まれるが、五人兄弟のエピソードも挟み込むために焦点がボケてしまっているのは前作と同様である。
ミツは同僚の女子行員をかばったばかりに工場を解雇されている。
自分が置かれた状況から逃げようとするミツを励まし裁判闘争に持ち込ませるのは三郎らしいし、同じ工場に居たことでオリエが関係し、復職運動を手伝うことで三郎もミツに関係してくる。
殻に閉じこもっていたミツが三郎によって前向きになっていくメインストーリーはそれなりに押さえられている。
父が出稼ぎに出たまま失踪したことで、母親が再婚を考えている男とのエピソードは泣かせるものがある。
ミツと男の夜を徹した語らいはないが、翌日に二人が別れる駅のホームのシーンはなかなかいい。

それに比べれば次郎やオリエに関わるエピソードは端折っている感じがする。
三郎が学生であることも有って学生運動のシーンが度々挿入されるが、それも世相を表す雰囲気作りにとどまっていて、僕にはあまり意味のないシーンに思えた。
次郎はオリエの中学時代からの友人である町子と結婚を考えていて、町子もその気でいるようなのだが、かつて結婚を約束しながら町子たちが作った職場の金を持ち逃げした塚本が現れ、町子に就職を頼んだことから腐れ縁が復活してしまう。
塚本は自殺をほのめかす弱い男なのだが、そんな塚本を町子は放っておけない。
気のいい次郎はどうやら町子の為に自分が保証人になって塚本の就職を手伝ったようなのだが、その様子は描かれていない。
再び塚本が会社の金を持ち逃げしたことで、次郎の口から語られるだけである。
献身的ともいえる次郎の町子への愛だと思うが、描かれ方は添え物的である。

太郎には彼を慕う武と言う同僚がいるが、オリエはその武からプロポーズされてまんざらでもなさそうだ。
しかしその後で、わかれた戸坂をデモ隊の中に発見し思わず駆け出してしまう。
前作を見ていなければその理由が全く理解できない行動である。
このシーンを描くなら、最低限オリエが今でも戸坂のことを忘れられないでいる様子を描き込んでおくべきだ。
武は太郎に挨拶に行くと言っていたが、それはどうなったのだろう。
武はオリエと戸坂の件について話し合ったのだろうか。

一方で太郎がミツに抱いている気持ちに対し、ミツはどう思っているのかが全く分からない。
もしかするとミツは三郎に気があるのかもしれない。
このシリーズは貧困に苦しんでいる下層の人々を描いているので、どうしてもお金の問題がついてくるし、太郎が悲哀を味わっている学歴社会への問題提起もあって、男女の愛情物語については深く描き込んでいない。
意図したものかもしれないが、描く以上は単なるストーリー上だけのものにしてほしくないと言う願望がある。
シリーズは兄弟たちの言い争いがほとんどと言っていいような会話劇だが、とりわけ山本圭の叫びが印象に残る。

若者たち

2023-06-18 07:17:52 | 映画
若者たちシリーズ3部作です。

「若者たち」 1967年 日本


監督 森川時久
出演 田中邦衛 橋本功 佐藤オリエ 山本圭 松山省二
   南美江 小川真由美 井川比佐志 石立鉄男 大塚道子
   栗原小巻 大滝秀治 江守徹

ストーリー
太郎、次郎、三郎、オリエ、末吉の佐藤きょうだいは早くから両親を失い、建築現場の作業員である長男の太郎が、弟妹たちの面倒を見てきた。
ある日、雑用一切を背負わされてきた高校生のオリエが、堪え切れずに家出してしまったことからいろいろな問題が露呈してきた。
末吉の大学受験問題、食費の分担金のこと、運転手次郎の事故等々、それらは、長い間、堅く団結してきたきょうだいの間を、気まずくさせるほど、現実的な問題だった。
オリエはしばらく友だちのアパートに身を寄せたが、勤め先が倒産して行商をやっているマチ子を見て、生活のきびしさを知った。
そんな時、オリエは原爆孤児の戸坂と知り合い、次第に惹かれて行った。
一方、太郎は会社とある事故の処理をめぐって対立し、学歴を持たぬ下積み労務者の悲運を痛感していた。
大学生の三郎は授業料値上げ反対の学園闘争の中で、学友の河田靖子や小川の、積極的な生き方に共鳴するものを覚えるのだった。
ある日、次郎は行商中のマチ子と会い彼女を励ましたのだが、数日後、そのマチ子が信頼してすべてを許した争議団の指導者に裏切られ、酒場の女給になっているのをみた次郎は説得して再び働く仲間に引き戻した。
また、生活の厳しさを知ったオリエは、家に戻ってくると、自分も兄たちと同じように働きに出ると主張した。
やがて大学の入学試験が始まったが、末吉は不合格の憂き目にあい、大学へ行く気はないと言って、学歴の社会的価値を知る太郎に叱られ、喧嘩になった。
また、オリエも、兄たちの反対を受けながらも、戸坂と結婚したい旨、自分の決心を述べた。


寸評
1966年にテレビドラマとして放送され同名の主題歌もヒットして徐々に視聴率も獲得していった作品の映画化で、両親を亡くした5人兄弟が、友情・恋愛・確執などを繰り返しながらたくましく生きていく様はテレビと同様である。
僕もこのテレビドラマを見ていたが、良質のドラマにもかかわらず、在日朝鮮人問題を描いた回が北朝鮮人の亡命事件が起きて中止となりドラマは打ち切られた。
映画はテレビドラマの再現と言った感じで、僕は労映主宰の名画鑑賞会でこの作品を見たような気がする。
労働組合映画協議会、略して労映は戦後の労働運動の隆盛を背景に製作・上映活動を展開していた組織だが、この頃には映画製作は行っていなかったかもしれない。
本作で描かれている内容は労映が上映しそうな内容である。

日本はまだ経済発展途上だったので当時の世相が反映されている。
登場人物はみんな貧しくてお金の話がついて回っている。
佐藤家は両親が亡くなっており、長男の田中邦衛と二男の橋本功が一家を支えてきた。
特に田中邦衛は自分が兄弟を育てたと自負しており、その意識が彼の支えでもある。
当然家庭は苦しく、大学生である三男の山本圭もアルバイトで稼いだ中から食費を出している。
唯一の女性である佐藤オリエが家事を見ているが、彼女も兄弟げんかから家を出て友人と一緒に暮らすようになり、転がり込んだ友人の夏圭子も会社が破たんして商品の日用雑貨を売り歩いている。
彼女は毎日の生活に追われ、中学時代の優しさが消えて同室の友人にもつらく当たるようになってしまっている。
労働者たちは昼休みにバレーボールに興じたり、コーラスを楽しんだりしているが、みんな裕福ではない。
江守徹の家は親父さんが死んで工場は火の車だが、形見を持ち去ろうとする人に囲まれながらも、江守徹は従業員たちと共に苦労して見ようと三郎に告げる。
描かれている内容は辛い話ばかりである。
しかしそのどれもが深く掘り下げて描かれておらず、貧乏人物語の上辺をなぞったような感じになっているので、映画作品としてみると中途半端でテレビドラマの延長のような気がする。

夏圭子は結婚相手に騙され水商売に落ちていくが、橋本功の次郎に励まされて食品工場で働くようになる。
希望を見せているのだろうが、彼女に好意を寄せていた次郎との関係は置いてけぼりだ。
佐藤オリエは片足が不自由で被爆者である石立鉄男の戸坂と愛し合うが、戸坂はオリエのもとを去ってしまう。
それでもオリエは戸坂を探し出し彼の元へ行こうとするが結末は不明のままで終わっている。
建築現場労働者の田中邦衛は、下請け会社の管理職である井川比佐志の妹である小川真由美との結婚を決意するが、最後のところで学歴社会、育ちなどを持ち出されて縁談は破談となる。
小川真由美の言い分はもっともに思えるところもあり、破談というより太郎は彼女に捨てられたような格好だ。
学歴の重さを知った太郎は、その為に末っ子の大学進学に異常な執念を見せる。
学歴社会への批判だが、太郎が言ったように理屈ではなくその後の日本は正に学歴社会となった。
暗い話ばかりが続いてきたが最後になってわずかな希望を見せて映画は終わるが、本作の中途半端な描き方は当初から続編の製作が計画されていたからかもしれない。
佐藤オリエは役名を本名で登場し、そのまま芸名にした。

わが青春のフロレンス

2023-06-17 09:28:07 | 映画
「わが青春のフロレンス」 1970年 イタリア


監督 マウロ・ボロニーニ
出演 マッシモ・ラニエリ オッタヴィア・ピッコロ ティナ・オーモン
   フランク・ウォルフ ルチア・ボゼー アドルフォ・チェリ

ストーリー
1880年、監獄から一人の男が出て来た。
灰色の壁に寄り添って一人待っていた女が近づいて来る。
女は赤ん坊を抱えていた。
「生まれたか……名前は?」「メテロ……」。
そしてその夜、生活の疲れと出産の疲れが重なったメテロの母は死んだ。
数日後、砂取り作業員で革命家だった父もアルノ河の氾濫で濁流に呑まれて死んでしまう。
メテロは田舎に預けられて育ったが、17歳の時、世の不景気のため移往する一家を離れて両親が住んでいたフロレンスに戻る決心をした。
父の古い友人でアナキストのベットは煉瓦工の仕事を捜してくれた。
彼の下宿で世話をうけながら、メテロは熱烈な社会の完全変革をめざす思想を彼から教えられる。
しかし、或る日、彼は酔って姿を消した。
捜しに出たメテロは監獄に行ってみるが、“ベット”という名を喋っただけでブチ込まれる。
牢獄には政治犯もいて初めて階級を意識した。
未成年で無実だったからすぐに釈放され煉瓦職人に戻った彼は、或る日、仕事場の隣にある家の庭仕事を頼まれ、未亡人ビオラに誘惑される。
彼の恋は真剣だったが、しかし彼には3年の兵役が待っていた。
フロレンスに帰ったメテロは以前の会社に戻り社会主義労働者グループに入った。
久し振りに会ったビオラはちっとも変わっていなかったが、もうビオラは自由の身ではなかった。
メテロ達の働く現場で人員整理のゴタゴタが起き、その騒ぎの最中、一人の男が誤って腐った梯子から落ちて死んだ。
その男の葬式の日メテロはエルシリアと会い、彼女の清楚な姿はメテロの心に刻まれた。
組合の赤旗で護られた葬列は官憲の不当弾圧で蹴散らされ、抵抗したメテロと同志達は投獄された。
まだ愛した経験がないから、同情なのか愛情なのか分らないというエルシリアだったが、メテロが出獄すると二人は結婚し、子供も出来た。
組合運動が活発化し、メテロは集会のリーダー格となり、遂にストライキが宣言され20世紀初頭の伝説的争議となった。
メテロの隣に住む人妻イディナは典型的な有閑夫人で日頃からメテロに気のあるそぶりを示し、労働者の妻のエルシリアにはない魅惑的な眼差しを持っていた。
そして、妻の留守中二人は過ちを犯してしまう。
帰宅したエルシリアがその逢瀬を目撃したのには気付かない。
煉瓦工のストは40日以上に渡って続けられ、スト基金は底をつき、職場復帰する者は厚遇するという資本家側に寝返る者が出て来るが、メテロは屈伏しないと頑張った。
一方エルシリアは外で夫と密会を続けるイディナを待伏せ、部屋に連れ込んでいきなり力いっぱい平手打ちを喰わせた。
資本家側に寝返った連中がストを破って仕事にかかるというので、仕事場に駆けつけたメテロ達の前には軍隊の銃口が待ちうけていた。
乱闘になり、軍隊が発砲した。
その時資本家側が労働者の要求に折れスト中止の指令が入った。
騒乱罪でやがて逮捕の手がのびる事を知ったメテロは妻の許へ別れを告げにいく。
メテロはエルシリアの豊かな女らしさに烈しい愛を確認する。
6ヵ月の拘留後、外には息子の手を引き、身重の姿の妻が待っていた。
彼が捕っている間、誰かが金を届けてくれたと妻がいった。
「もうこの中へは絶対入らない、誓うよ」とメテロは言ったが、とエルシリアはメテロを見つめ、息子の肩を抱きしめながら「父の誓いと同じだわ」と呟いた。


寸評
労働組合運動が盛んだったころの作品で、組合運動と若者の恋愛遍歴が並行する形で描かれていく。
成人したメテロは生まれ故郷のフィレンチェで煉瓦工として働くようになり、亡くなった父親と同様の賃金闘争にのめり込んでいく。
メテロは闘争を通じて何度も逮捕され、服役と介抱を繰り返す姿が闘争部分として描かれ続ける。
そんな中でメテロは農業経験者として仕事場の近くの家から庭仕事を依頼され、その家の未亡人ビオラから誘惑されて関係を持つ。
二人の間には愛情めいたものがあったのかもしれない。
ビオラは子供が出来ていたらどうするかと聞くと、メテロは結婚すると返答している。
冗談のようなやりとりだが、この会話はラストへの大きな伏線となっている。
メテロは人員整理のゴタゴタ騒動で自分をかばってくれた男の死に直面し、娘のエルシリアに心を奪われる。
エルシアのオッタヴィア・ピッコロがなかなか良くて、「わが青春のフロレンス」と言えばオッタヴィア・ピッコロだったような気がする。
メテロは隣に住む人妻イディナとも関係を持つのだが、このイディアナから送られるあからさまな誘惑視線の結果である。
イディアナの態度は見ているこちらとしては嫌悪感が生じるもので、それはエルシアとの対比を求めた演技要求だったのだろう。
エルシアとイディアナの対決シーンには胸のすく思いがする。
ストライキが終了してもメテロは再び逮捕されてしまいエルシアは生活に困窮するが、男の子がお金を届けてくれて急場をしのぐことが出来るようになる。
僕は手紙かなと思って見ていたのだが、それは十分すぎるお金だった。
伏線が効いてきて、走り去った子供はメテオの子供だったのではないかと思わせるのだ。
そしてメテロの父親が刑務所から出てくる冒頭のシーンにつながるラストとなる。
賃金闘争のシーンも多くを占めていたが、メテロの女性遍歴が深く印象に残る。

ワーロック

2023-06-16 08:14:56 | 映画
最後の「わ」になりました。
前回は2022/1/10の「ワイアット・アープ」から「若草物語」「若者のすべて」「我等の生涯の最良の年」「ワンダフルライフ」までと、
2020/8/6の「ワイルドバンチ」から「ワイルド・レンジ 最後の銃撃」「わが命つきるとも」「わが青春に悔なし」「わが母の記」「私が棄てた女」「私の男」「わたしは、ダニエル・ブレイク」「笑う蛙」「悪い奴ほどよく眠る」「われに撃つ用意あり READY TO SHOOT」まででした。

「ワーロック」 1959年 アメリカ


監督 エドワード・ドミトリク
出演 リチャード・ウィドマーク ヘンリー・フォンダ アンソニー・クイン
   ドロシー・マローン トム・ドレイク ウォーレス・フォード
   リチャード・アーレン ドロレス・ミッチェル デフォレスト・ケリー

ストーリー
ワーロックの町ではマックオウン(トム・ドレイク)の経営する、サン・パブロ牧場の暴れ者たちが跳梁していた。
マックオウンの部下の1人ギャノン(リチャード・ウィドマーク)は、自分たちの行為を嫌っていた。
マックオウンはワーロックの法律は、自分が作るのだと豪語した。
翌日、町の人々は集会を開き、町を自衛するために保安官クライ(ヘンリー・フォンダ)を呼ぶ協議をした。
しかし、ジェシー(ドロレス・マイケルズ)はクライが行くところ、かならず賭博師モーガン(アンソニー・クイン)がついてくるので、町に新しい騒動が起こるといって反対した。
クライとモーガンがやって来て、モーガンはさっそく酒場を開き、クライはモーガンは悪人ではないと強調した
マックオウンが町に現われ、クライは彼の前に立ちふさがった。
マックオウンは去ったが、家畜は盗まれ、駅馬車は襲われつづけた。
ある日、リリー(ドロシー・マローン)が夫でありボブの兄であるベンを殺したクライへの復讐にやって来た。
モーガンは山かげに待伏せて、リリーとボブの駅馬車を襲い、マックオウン一味のしわざとみせかけ、ボブを射殺した。
モーガンとリリーはかつて恋仲で、モーガンは今でも彼女を愛していたが、彼女は冷たかった。
ギャノンは町の仕事をするようになったが、クライはギャノンの弟ビリーらを町から追放した。
ギャノンはリリーを愛したが、彼女は自分を愛した男はみな無惨な死をとげているので悩んだ。
クライとジェシーも相思相愛の仲になっていた。
ギャノンはマックオウンに町から去ってくれと頼んだが、反対に袋だたきにされた。
ある日、嫉妬に狂ったモーガンはクライにギャノンを殺せといった。
その時、ギャノンはマックオウンと対決し、彼を射殺した。
モーガンは町の実権を握ったギャノンを狙った。
クライはギャノンを牢に入れ、モーガンに退去を命じた。


寸評
リチャード・ウィドマーク、ヘンリー・フォンダ、アンソニー・クインと馴染みのあるスターが出ているにもかかわらず散漫な作品だなあと言うのが僕の第一印象である。
本作は友情、恋愛、復讐といったテーマも盛り込まれており、なかなか複雑なストーリーなのだが複雑にし過ぎてそのどれもが中途半端な描き方になっているのは惜しい。
ロバート・アーサーの脚本が悪いのか、エドワード・ドミトリクの演出が稚拙なのか、いずれにしても面白い設定で傑作西部劇になりえていたかもしれないのに典型的なB級西部劇に甘んじてしまっている。
エドワード・ドミトリク監督と聞いて、僕は思い起こす作品が本作ぐらいで名作を残していないと思う。

冒頭のシーンでは、町で暴れまくる無法者に対して、町を守るはずの郡保安官補が逃げ出してしまう。
マックオウンの手下たちが無法の限りを尽くしているのだが、彼ら一味の悪人ぶりはあまり伝わってこない。
ポニーという一味の一人が散髪屋で髭剃り中に、ポニーが動いたことで散髪屋が顔に傷をつけてしまい、その事で散髪屋が射殺されてしまうくらいのものである。
度々家畜泥棒や駅馬車強盗をやらかしているようだが、その様子も描かれていないので無法者の集団という感じがせず、それらは町の人々によって語られるだけとなっている(駅馬車強盗は別の意味で一度描かれている)。

モーガンは自分を人間扱いしてくれた唯一の男がクライだったと言っているが、この二人の関係もよく分からず、アンソニー・クインのモーガンは不可解な人物である。
リリーの乗った駅馬車をサン・パブロ牧場の二人が襲った時に、彼が同乗していたボブを狙い撃ちで殺した理由などが的確に描けていない。
おそらく過去にクライがリリーの婚約者だったベンを殺した裏事情を話されるのを嫌ったためだったと思われるが、殺人動機は想像の域である。
クライの言うリリーへの復讐とは、思いを寄せていたリリーがベンと婚約したことだったと思うが、肖像画だけでそれを想像させるのは少し観客に期待しすぎのように思う。
敵方の中でも悪の一番手と思われた男が、いくら事前にその片鱗を見せていたとはいえ、最後にギャノンの味方となるのも唐突過ぎて僕はついていけなかった。

面白い描き方をしているのはヘンリー・フォンダ演じるクライが雇われ保安官を職業にしている点と、彼が自分に対する評価を予見していることで、そして町の人々の態度は彼の予見通りになるということだ。
最初は悪人を追っ払ってくれる男として持ち上げているが、やがてその強権的なやり方に反感を持ち出す。
その最たる人物が判事で、現実を見ずして理屈ばかりこねている嫌味な老人だ。
クライが足が不自由な判事の松葉杖を蹴とばして「アンタにはうんざりだ」とののしるシーンでは、なんだかスカッとした気分になった。
いざとなったら冷たくなるという、いい加減な町の人々を描いた作品としてはやはり「真昼の決闘」などの方が数段優れている。
二人の女性のロマンスの描き方も物足りなかったが、対決シーンがけっこう多くて見ていてダルさを感じさせないので、偉大なB級西部劇と言っても良いかもしれない。