おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

三度目の殺人 2017年 日本

2017-09-22 09:11:04 | 映画

監督:是枝裕和
出演:福山雅治 役所広司 広瀬すず 満島真之介 吉田鋼太郎
   市川実日子 松岡依都美 斉藤由貴 蒔田彩珠 橋爪功

ストーリー
勝ちにこだわるエリート弁護士・重盛(福山雅治)は、同僚がサジを投げた為にやむを得ず、30年前にも殺人の前科がある三隅(役所広司)の弁護を担当することになる。
解雇された工場の社長を殺し、死体に火をつけた強盗殺人の容疑で起訴された三隅は犯行を自供しており、このままだと死刑は免れない。
さっそく重盛は、どうにか無期懲役に持ち込もうと調査を開始する。
ところが、肝心の三隅は証言をコロコロ変え、味方であるはずの重盛にも決して本心を語ろうとしない。
三隅は会う度に供述を変え、動機が希薄なことに重盛は違和感を覚える。
やがて重盛が三隅と被害者の娘・咲江(広瀬すず)との意外な接点にたどりつくと、それまでと異なる事実が浮かび上がっていく。

寸評
犯人探しや真実を求めようとすると肩透かしにあってしまう。
明快な真実が語られることはなく、謎解きは宙に浮いたままで終わったという印象だが、それは是枝の意図したものだろう。
それはラスト近くで重盛と三隅が交わす最後の対話が何とも意味深ながら、その答えを描いていないことによる。
では是枝の意図とは何だったのだろう。
それは司法制度についての問題提起に他ならなかったと思う。
硬直化しシステム化された司法制度のもとでは、裁判における判決は法廷よりも法廷外で大方のことが決まり、効率優先の経済性も加味されながら進められている現実を訴える。
法定外で裁判を効率的に進めるための打ち合わせが行われていることは、他の裁判劇でもよく描かれている場面だが、ここでも裁判官が目配せで意思を伝え、弁護士や検察官が阿吽の呼吸でそれに応じる場面が登場する。
それは「もう判決は決まっている」という裁判官の合図なのだという。
裁判官も検事も弁護士も、法曹界という同じ船に乗っている乗組員なのだと言うのである。
重盛の娘が流す涙のように、法廷での証言にウソが存在していても人は裁かれる。
三度目の殺人を犯したのは法曹界なんだろうな。
あるいは三隅が自分自身を殺したということか?

内容からして重盛たちは国選弁護士なのだろう。
従って「出張旅費はでるの?」とか、「美味いものはタコなんだろう」とか、「寒いしね…やめておこう」などとビジネスライクな会話をしている。
彼等は裁判をスポーツの試合の如く勝つことだけを考えている。
いかにして無罪を勝ち取るか、いかにして量刑を減刑できるかだけを考えている。
その為の作戦があり、監督のかれらは選手である被告人を自分のたてた作戦通りに動かそうとする。
僕は被告人になったことがないので弁護士との打ち合わせを経験したことがないのだが、ここで行われたやり取りはオーバーではなく真実に近いものであったような気がする。
弁護士事務所の女子職員が大阪のおばちゃんよろしく登場しているのだが、彼女は庶民の代表でもある。
三隅の殺人の動機が強盗なら死刑で、怨恨なら情状酌量の余地ありで無期懲役の可能性あり。
被害者が殺されたという結果は同じなのにその差はどこから来るのかと投げかけるのである。
そして三隅と関係があったと報道された被害者の妻に対し、「絶対やってる顔ですよ」などとワイドショーをみる好奇心旺盛な大衆の興味本位的な意見を吐かせている。
真実とかけ離れたところからもたらされる印象の恐ろしさでもある。
人が人を裁くことの意味が問いかけられ、裁きは本当に正しかったのか、人間は人間をきちんと裁けるのかと問いかけている。

しかしその命題はかすんでしまっている。
それはその命題を浮かび上がらせるための前段があまりにも観客を犯人探し、真実追及に向かわせる内容になっているからだったと思う。
多くを占める三隅と重盛の接見室で話すシーンは緊迫感にあふれ、スリリングで不気味な雰囲気を醸し出す。
やがて三隅と被害者の娘・咲江との意外な接点が浮かび上がり、なぜ?という疑問が自然と湧き上がる。
三隅と被害者の妻・美津江との疑惑も浮上して、本当だろうかと思わせる。
会社の偽装問題も出てきて真実は混とんとしてくる。
そして衝撃的なおぞましい告白がなされて、もう興味は完全に真実の追及に向かってしまっているのである。
法曹界の矛盾に憤っていた自分はどこかに行ってしまって、最後にはなにか物足りない喪失感が残った。
それは多分、是枝が見る者の判断にゆだねたものが多いからだろう。
十字架の謎、咲江が北大を目指している理由、三隅がカナリアを逃がしたわけ、偽装の顛末・・・など。
しかし、人間の一生をも左右する裁判劇映画は名作も多くあって面白い。
本作も派手さは無いものの、決して退屈する作品ではなかった。

許されざる者 2013年 日本

2017-09-20 07:19:30 | 映画

監督:李相日
出演:渡辺謙 柄本明 柳楽優弥 忽那汐里 小池栄子 近藤芳正
   國村隼 滝藤賢一 小澤征悦 三浦貴大 佐藤浩市

ストーリー
舞台は明治13年の北海道。
女郎屋で若い女郎なつめ(忽那汐里)が、客・佐之助(小澤征悦)に顔を切られ、佐之助と弟・卯之助(三浦貴大)が捕まった。
村を牛耳る警察署長・大石(佐藤浩市)は、使えなくなった女郎の弁償に馬を持ってこいと話し、二人を解放。
納得がいかないお梶(小池栄子)ら女郎は、二人の首に懸賞金をかける。
一方、開拓が進められている北海道に、かつて人斬り十兵衛との異名を持ち恐れられていた幕府軍残党・釜田十兵衛(渡辺謙)がいた。
十兵衛はアイヌの妻に先立たれ、二人の息子と農家をしていたが、作物は育たず、生活は困窮していた。
そんなとき、かつて共に行動した馬場(柄本明)が訪ねてくる。
馬場は、懸賞金を目当てに二人を始末しようとしていて、十兵衛にも加勢を求めた。
再び人を殺めることをためらう十兵衛だったが、子供たちを食わせるため、馬場と共に村に向かう。
馬場と十兵衛は、アイヌと和人のハーフの青年・五朗(柳楽優弥)に会い、道案内をさせることにした。
三人は村に着き女郎屋に行くと大石がやってきた。
十兵衛が人斬りと知っていた大石は、十兵衛から刀を奪い、暴行を加えて顔に切り傷をつける。
十兵衛はなつめらの看病で一命を取り留める。
十兵衛が回復し、馬場、五郎と共に卯之助を見つける。
馬場が放った鉄砲が卯之助の太股にあたり、女郎の顔を切ったのは兄だと命乞いをする卯之助。
十兵衛が止めを刺したが、殺しにおじけずいた馬場は自分には無理だと去って行ったのだが…。

寸評
リメイク作品となると、どうしてもオリジナルと比べてしまう。
そして評判の良かったオリジナルに比してリメイクは見劣りしてしまう事が多い。
直前にクリント・イーストウッド監督・主演になるオリジナルを再見したこともあって、ついつい比較しながら見ている自分がいた。
それでも本作は成功した部類で、結構力強い作品となっている。
これがオリジナルであったならまた違った印象を持った作品になっていたかもしれないなとも思う。
舞台がアメリカ西部と北海道との違いはあるが、大きな違いはラストの違いと三人の出会いの仕方と、アイヌという人種問題を付加したところかな・・・。
ラストの処理の仕方は、その後の十兵衛や子供たち、五朗と女郎などの行く末を色々想像させた。
旧幕府軍の残党である十兵衛は、政府軍から執拗な追跡を受けることは明白で、そのため子供たちのところへ戻ることはできなかったのだろうと想像する。
十兵衛の行動はオリジナルより本作の方が説得力がある。
自分が日本人であるからか、北海道の自然描写と雪景色の美しさが心にしみて、自然背景はこっちのほうがいいなと思いながら見ていた。
笠松則通のカメラワークは作品への貢献度大である。
そして蝦夷地の先住民であるアイヌを絡ませていることが物語に深みを持たせていたと思う。

オリジナルもそうだが、この話にはスゴイ悪人が出てこないので、元来単純な僕はもう一つのめり込めない作品なのだが、作者の意図もそこにあるのかもしれない。
事件の発端の女郎にしたって、客のナニが小さいと笑うなんて客商売にあるまじき行為だ。
もちろん、それに切れて顔を切り刻むなんて言語道断の行為なのだが…。
主人公たちは時代が幕末の動乱期とはいえ、見境もなく人を殺していたわけで、反面敵対することになる警察署長は必死で治安を守ろうとしているだけのようにも思えるのだ。
三浦貴大演じる卯之助なども、根はいい奴じゃないかとなる。
このあたりが題名の由来なのかも知れない。

十兵衛は人斬りと恐れられた殺戮者から、一度は妻によってまっとうな精神を与えられ、その妻のいなくなった今の生活も苦しいなかで人間として生きている。
しかし、経緯から再び元の世界へと戻っていってしまう。
その苦悩を演じた渡辺謙は、人間の持つ多重性を表現していて好演していたと思うが、無防備に旅籠に現れ何の抵抗もなく半殺しに会うなど、すこし端折った演出に肩透かし感を覚える。
反面、銃を脇役において刀での乱闘を描いた演出は上手いと思った。
バッタ、バッタと斬り倒すのではなく、十兵衛の刀が錆びていることもあるが、突き殺すアクションが多い。
そのことでより迫力が増していたと思う。
前述のように決してオリジナルに引けを取らない作品に仕上がっていると思うが、警察署長(保安官)はジーン・ハックマンの方が貫録が有ったように思う。

許されざる者 1992年 アメリカ

2017-09-19 22:05:26 | 映画
同じ題名で米国映画が邦画でリメイクされた作品もある。
「許されざる者」もその一つだ。


監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド ジーン・ハックマン モーガン・フリーマン
   リチャード・ハリス ジェームズ・ウールヴェット ソウル・ルビネック

ストーリー
列車強盗や殺人で悪名を轟かせていたウィリアム・マニーは、今では銃を捨て2人の子供とワイオミングで農場を営みながら密かに暮らしていた。
しかし家畜や作物は順調に育たず、3年前に妻にも先立たれ苦しい生活だった。
そんなマニーのもとにスコフィールド・キッドという若いガンマンが訪ねてくる。
彼は娼婦に重傷を負わせた2人のカウボーイを倒して、一千ドルの賞金を得ようとして考えていた。
一緒に組もうと誘われたマニーは11年ぶりに銃を手にし、かつての相棒ネッドを誘って町へ向かった。
その頃、保安官のリトル・ビルは強引なやり方で町を牛耳っていた。
リトル・ビルは伝説的殺し屋のイングリッシュ・ボブを暴力的に町から追放し、賞金稼ぎ達の見せしめにする。
マニーら一行が町に到着すると、ひとり酒場にいたマニーをリトル・ビルは激しく殴りつけ、重症を負わせる。
そんなマニーを献身的に看護したのは傷つけられた娼婦のフィッツジェラルドだった。
立ち直ったマニーはネッドとキッドに追いつき、追っていたカウボーイを発見して1人を射殺するが、ネッドはもう人を撃てないと悟り、マニーらに別れを告げた。
カウボーイたちの家を見つけ、残るひとりを仕留めたキッドは、マニーに初めて人を撃ったと告白する。
その頃、町では殺人罪で捕まったネッドがリトル・ビルの激しい拷問にあい、命を落としていた。
賞金を受け取る際にその話を聞いたマニーは、キッドから拳銃を受け取り町へと向かった。

寸評
従来の西部劇が持っていた、正義対悪という単純な図式ではない。
なぜ人は人をを傷つけるのかを掘り下げていきながら、暴力の本質を追求している哲学的な西部劇と言える。
死への恐怖と暴力に対する恐怖の交錯が感じられる奥深い作品だ。

許されざる者というタイトルから、ではそれは一体誰なのかという疑問が自然と湧いてくる。
被害者である娼婦たちには、娼婦でありながら客のナニが小さいと笑って、客商売にあるまじき態度を取ったのだから、事件を引き起こした責任の一端はある。
尚且つ、賞金を懸けて殺人依頼をするのだから行き過ぎの行為で許される範囲を超えていると言える。
加害者のカウボーイはその残虐性から当然許されるべきではないが、片割れには反省の色をみせて善人ぶりを示させたりして、彼等を全くの悪人たちとして描いていない。
一番それに相当するのがジーン・ハックマンの保安官で、正義、道徳を振りかざしながらも実は悪というパターン。
アメリカという国、現代の世界にたいする強烈な批判と捉えることもできるが、しかしかれは町の平和を守ろうとしているだけである。
彼の作ったルールである「街にいる間は拳銃を保安官事務所に預ける」という決まりを守らせようとしているに過ぎないのだ。
もちろんそれに従わない奴を徹底的に痛めつける暴力性を秘めているが、不法に人々を押さえつけているわけではない。
となると、普通に考えればイーストウッドのマニーがやはり許されざる者ということになる。
一度は普通の人間になりながらも、その残虐性を呼び戻してしまう罪深い男だ。
しかし、最後には都会で事業に成功したとなれば、やはり許された人間ということになる。
人は誰しもが許されない一面を持ち合わせているということか…。

なぜ保安官助手達は保安官に従うのか?
助手たちの中には保安官の凄腕を疑う者もいるし、助手たちの手伝いを断っているのかは不明だが、彼は一人で自分の家を建築している。
どうも尊敬を受けている保安官ではなさそうなのだが、助手達は従がっている。
辣腕あるいはその凶暴性に対する畏怖と、正義の側にいる自尊心なのだろうか?
保安官を射殺された助手達は、表に出てきたマニーをなぜ撃てなかったのか?
かつて平然と女、子供まで殺したマニーのうわさが現実と重なり合ったのだろうか?
現実のマニーはすでに老いぼれていて颯爽としたところがなく、ドジなところを度々見せる。
しかし彼を目の前にすると、誰もが抱く、死への恐怖がよぎる。
死の恐怖を打ち破るために凶暴化する人間達が描かれ、描かれているアクション以上の緊迫感が漂う。
出演者の鬼気迫る演技を引き出しているのは、監督C・イーストウッドの手腕だったと思う。

マニーは最後に「ネッドを埋葬しろ」、「娼婦たちにひどいことをするな」、「守らなければ戻ってきて殺す」と言って立ち去っていくが、それを見送る娼婦の畏敬の表情が何とも言えない余韻を残した。

無法松の一生 1958年 日本

2017-09-17 17:52:12 | 映画
監督;稲垣浩
出演;三船敏郎 高峰秀子 芥川比呂志 飯田蝶子 笠智衆
   田中春男 多々良純 笠原健司 松本薫 中村伸郎

ストーリー
明治三十年の初秋、九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎(三船敏郎 )が、昔ながらの“無法松”で舞戻ってきた。
芝居小屋の木戸を突かれた腹いせに、同僚の熊吉(田中春男)とマス席でニンニクを炊いたりする暴れん坊も、仲裁の結城親分(笠智衆)にはさっぱりわびるという、竹を割ったような意気と侠気をもっていた。
日露戦争の勝利に沸きかえっている頃、松五郎は木から落ちて足を痛めた少年(松本薫)を救った。
それが縁で、少年の父吉岡大尉(芥川比呂志)の家に出入りするようになった。
酔えば美声で追分を唄う松五郎も、良子夫人(高峰秀子)の前では赤くなって声も出なかった。
大尉は雨天の演習での風邪が原因で急死し、残る母子は何かと松五郎を頼りにしていた。
松五郎は引込み勝ちな敏雄と一緒に運動会に出たり、鯉のぼりをあげたりして、なにかと彼を励げました。
世の中が明治から大正に変って、敏雄は小倉中学の四年になった。
すっかり成長した敏雄(笠原健司)は、他校の生徒と喧嘩をして母をハラハラさせたが松五郎を喜ばせた。
高校に入るため敏雄は小倉を去った。
松五郎はめっきり年をとり酒に親しむようになって、酔眼にうつる影は良子夫人の面影であった。
大正六年の祇園祭の日、敏雄は夏休みを利用して、本場の祇園太鼓をききたいという先生(土屋嘉男)を連れて小倉に帰って来た。
松五郎は自からバチを取ったが、彼の老いたる血はバチと共に躍った。
離れ行く敏雄への愛着、良子夫人への思慕、複雑な想いをこめて打つ太鼓の音は、聞く人々の心をうった。
数日後、松五郎は飄然と吉岡家を訪れ、物言わぬ松五郎のまなこには涙があふれていた。

寸評
富島松五郎は淋しい男である。
すさんだ生い立ちから暴れん坊になったが、吉岡一家の面倒を見るようになってから、人のために尽くす喜びを知り、人生の淋しさから解放される。
それは芝居小屋で人の迷惑を顧みずに暴れていた頃の松五郎とは別人のようである。
彼は我が子の様に可愛がっていた敏雄が離れていったことで、味わったことのないような淋しさを感じる。
それは実の母親である吉岡夫人が感じるものに近いものなのだが、やがてその淋しさを紛らわしていたのが吉岡夫人への秘めたる愛だったと気付く。
彼は自分を贔屓にしてくれた大尉に詫び、夫人には「俺の心は汚い」と言って去っていく。
松五郎は吉岡夫人に指一本触れていない。
そのプラトニックな愛は、清酒「富久娘」のポスターに面影を見ることで満たされている。
口に出せない愛がひしひしと伝わってくる。

松五郎の思いと、時の流れを乗せて人力車の車輪が舞う。
何度も登場するオーバーラップした車輪のシルエットは美しい。
この作品のムードを盛り上げることに十分すぎるぐらいの効果をもたらしていた。
敏雄の先生のために、いや敏雄が先生への顔を立つように、松五郎は祇園太鼓のバチをとる。
この映画一番の見どころである。
三船敏郎のバチさばきも素晴らしいものがあり、役者の精進の凄さを感じさせる。
松五郎は雪の中で過去の幻影を見ながら死んでいくが、降り注ぐ雪、敏雄の喧嘩場面、美しかった花々などが特殊処理されて画面を覆いつくす。
これまた美しいシーンだ。
そのなかで吉岡夫人の高峰秀子だけはしっかりと画面いっぱいに映し出される。
その情感の素晴らしさこそが日本映画だ。

松五郎が死んで結城親分が松五郎の荷物を整理している。
すると、松五郎が吉岡家から頂いた祝儀袋を大事にしまい込んでいることが判明する。
好いた女性にかかわりのあるものであれば、どんなものでも大事にしまい込んでおく恋心は僕にも思い当たるふしがあるもので涙を誘う。
吉岡夫人は松五郎の遺品と預金通帳を見て、初めて松五郎の気持ちを知り泣き崩れる。
もしかすると、吉岡夫人は松五郎が別れを言って泣きながら去っていったときに感じていたかもしれない。
松五郎の存命中に、彼の気持ちを知ったところで吉岡夫人は応えることはなかっただろう。
その気持ちもあっての最後の号泣だったと思う。
前半部分は人力車夫の富島松五郎と客との滑稽な様子が描かれたりして軽い感じの描き方だが、松五郎が祇園太鼓を叩く場面ぐらいから、内容的にも映像的にも輝きを増していく。
ラストに向かって一気に駆け上っていく脚本と演出が素晴らしい作品である。
ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したのもうなづける日本映画らしい作品だ。

無法松の一生 1943年 日本

2017-09-16 13:43:40 | 映画
自分の作品をリメイクしたものとして思い浮かぶのは、稲垣浩監督の「無法松の一生」。
戦中時に坂東妻三郎主演で撮り、戦後に三船敏郎主演で撮りなおしている。

監督:稲垣浩
出演:阪東妻三郎 園井恵子 沢村晃夫 川村禾門 月形龍之介
   永田靖 杉狂児 山口勇 葛木香一

ストーリー
松五郎こと無法松(阪東妻三郎)はトラブルを引き起こす暴れ者だが、どこか憎めない人力車夫。
ある日竹馬から落ちた少年・敏雄(沢村晃夫)を助けたことがきっかけで陸軍大尉の吉岡家へ出入りするようになるが……。

寸評
僕は後年に稲垣自身がリメイクした「無法松の一生」を先に見ている。
こちらは無法松の吉岡夫人に対する松五郎の秘めた愛がカットされているのだが、それを想像させるような演出はなされているものの、やはり説明不足感からは逃れられない。
三船敏郎の松五郎が高峰秀子の吉岡夫人に寄せる慕情を見ていただけに、リメイク作品と比較してしまう無いものねだりで、身分の違いを感じながらも秘めた気持ちを抱く松五郎の姿に少し物足りなさを感じてしまう。
松五郎の思いを感じさせるシーンがあったりするし、預金通帳を見せる最後のシーンで松五郎の気持ちをそれとなく感じさせるのだが、やはりカットされてしまったシーンの比重は重かったのだと思ってしまうのだ。
確かに、自分が死ぬと、残された妻は別の男と恋愛沙汰に走るのだと言われれば、戦地に向かう兵士にとっては居たたまれないものがあるだろう。
太平洋戦争の真っただ中の時代で、明日の命が分からないような状況下では、内務省の検閲も理解できないわけではない。
それでも、カットされた尺があるために、松五郎がたった一度だけ泣いたことがあると敏雄に語る場面の回想シーンが相対的に長く感じてしまうので、カットはやはりマイナス面が大きい。
検閲でカットするような行為が行われるような時代は良くないのだ。

始まってすぐに人力車が画面の中央を走っていく。
その後ろ姿のショットは美しい。
その後にも何度か人力車の車輪が舞うシーンが登場するが、モノトーン画面の中にあって美しいシーンを映し出していて、宮川一夫の技量がいかんなく発揮されていた。
阪妻の松五郎は車夫の雰囲気がプンプンする男くささを出していて、リアルな阪妻は知らないが、なかなかいい役者だったのだなあと思わせるに十分な存在感だ。

見せ場はやはり松五郎が祇園太鼓を打ち鳴らす場面だ。
太鼓を打ち鳴らす短いカットが、流れるように画面に挿入され続け気分を高揚させる。
松の引く人力車の車輪がオーバーラップされ、その高揚感はさらに増していく。
この映画を格調高いものとしているいいシーンだ。
そんなシーンがあるかと思えば、敏雄が凧揚げの糸を絡ませて困っているのを見つけた松五郎が、人力車に乗せた客を待たせておいて敏雄の世話をやくが、その時後方で怒った客が飛び跳ねているという滑稽なシーンもあって、ドタバタ喜劇のような演出も見受けられるのである。
暗い時代だったと思うのだが、客席からは笑い声が沸き起こっただろうと想像させられる。
戦時中と言えば戦意高揚映画が多かったと思うのだが、このような作品も撮られていたのだと思うと感激ものだ。

カットを強要された稲垣浩が、怒りを込めて撮ったのが三船敏郎主演によるリメイク版「無法松の一生」なのだが、本作は稲垣浩の無念の思いが伝わってくる作品として見ると、映画の出来栄えとは別に、映画史の一面としての興味が湧いてくる作品でもある。

ビルマの竪琴 1985年 日本

2017-09-15 17:35:57 | 映画

監督:市川崑
出演:石坂浩二 中井貴一 川谷拓三 渡辺篤史 小林稔侍
   井上博一 浜村純 常田富士男 北林谷栄 菅原文太

ストーリー
1945年夏、ビルマ戦線の日本軍はタイ国へと苦難の撤退を続けていた。
そんな逃避行の最中、手製の堅琴に合わせて「はにうの宿」を合唱する一部隊がいた。
井上小隊長が兵士の心をいやすために歌を教えみ、堅琴で判奏するのは水島上等兵であった。
小隊は国境近くまで来たところで終戦を知り、武器を棄てて投降した。
彼らは南のムドンに護送されることになったが、水島だけは附近の三角山で、抵抗を続ける日本軍に降伏を勧めるため隊を離れて行った。
小隊はムドンで労務作業に服していたが、ある時、青いオウムを肩に乗せた水島そっくりの僧とすれ違った。
彼らは僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず歩み去って行った。
三角山の戦いの後ムドンへ向かった水島は、道々、無数の日本兵の死体と出会い、愕然としたのである。
そして自分だけが帰国することに心を痛め、日本兵の霊を慰めるために僧となってこの地に止まろうと決意し、白骨を葬って巡礼の旅を続けていたのだ。
物売りの話から、井上はおおよその事情を推察し、もう一羽のオウムを譲りうけ、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ」と日本語を覚えこませる。
数日後、小隊が森の中で合唱をしていると、大仏の臥像の胎内にいた水島がそれを聞きつけ、思わず夢中で堅琴を弾き始めた。
兵士たちは大仏の鉄扉を開けよとするが、水島はそれを拒んでしまう。
その夜、三日後に帰国することが決まり、出発の前日、水島がとうとう皆の前に姿をあらわした。
収容所の柵越しに、兵士たちは合唱し、一緒に帰ろうと呼びかけるが、水島は黙ってうなだれ、「仰げば尊し」を弾奏し、そして森の中へ去って行く。
帰国の途につく井上のもとへ、オウムが届いた。
オウムは「アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ」と叫ぶのだった。

寸評
リメイク版で、脚本、監督が同じとなれば、一体どんな変化があるのかと思って見始めたら、カラー化されている以外はほとんど同じだった。
全く同じ場所で撮影されたのではないかと思うシーンもあるし、全く同じカメラアングルで撮影されているシーンもあり新鮮さはない。
前作を見ていない人たちへの新作として見るべき作品なのだろうか?
僕が見た前作は総集編だと思うので、それからすると随分と丁寧に作られたなという印象を持つ。
前作の表現不足を補うような演出がなされていたような気がする。
井上部隊の敗走の様子は詳しい。
冒頭はイギリス兵の探索に対して、息をひそめ隠れている井上部隊が描かれる。
イギリス兵の注意を引き付けるために水島の弾く竪琴の音が聞こえてくるシーンもある。
途中で弾薬を積んだ荷車を1台失ったりしているし、敵軍から銃撃も受けているといった具合だ。

水島は助けてもらったビルマの僧が水浴びをしている隙に、その僧の僧衣を盗む。
僧は水島の行為を知っていながら見ぬふりをするのだが、その仕草は前作よりも強調されていると思う。
そして衣服と共に置いてあった腕輪も盗んだのだが、実はその腕輪は高僧が身に着けるものと後半で判明する。
そのことを通じて、水島がビルマに残ってこの慈悲に満ちた態度を取った高僧に弟子入りしたことが伝えられ、話としての一貫性が保たれているなど、細かい配慮がなされた脚本となっている。
細かいついでに言うと、飢えに苦しんでいたはずの水島の腕が筋肉隆々だったのは気になった。

井上部隊がたどり着いた村での出来事も前作とまったく同じ描き方だが、やがて「埴生の宿」を歌いだすシーンはこちらのほうが感動的である。
井上部隊は、敵軍の包囲網を欺くためにわざと騒いで手拍子を打ちながら歌う。
庭先に置いた弾薬を積んだ荷車の確保のために、祭りの踊りの様な振る舞いで取りに出る。
いつ銃撃されるかと冷や冷やしながらやっと戻ったところで、イギリス軍から「埴生の宿」の歌声が聞こえてくる。
水島はそれに合わせるように竪琴を弾く。
戦争映画では時々見られる、敵も味方も一緒になって歌うシーンだ。
暗闇の広場に出てきて歌うイギリス兵の姿は、カラー化されたこともあって美しい。
人間としての美しさだ。

水島はビルマに残る決心をし、仲間と別れの挨拶のためムドンの捕虜収容所前に現れる。
言葉を交わさず「仰げば尊し」を竪琴で奏でる。
「いまこそ分かれ目、いざさらば」とメロディが流れると、自然と僕の涙腺は緩んでしまった。
収容所の面々は水島の名を叫ぶ。
このシーンは川谷拓三を初めとする本作の面々の方が、その思いが伝わるものとなっていて感動的である。
北林谷栄が前作同様に大阪弁を話すビルマの老婆役で出ているが、相変わらず達者なところを見せ面白い。
戦争がもたらす、ものすごい悲惨性を描いた作品ではないが、それでも戦争は良くないと思わせる一遍である。

ビルマの竪琴 1956年 日本 

2017-09-14 13:26:44 | 映画
市川崑は面白い監督で、自身の作品を何作か自分でリメイクしている。
「ビルマの竪琴」もその一つで、モノクロ版とカラー版がある。

監督:市川崑
出演:三国連太郎 安井昌二 浜村純 内藤武敏 西村晃
   佐野浅夫 三橋達也 伊藤雄之助 春日俊二

ストーリー
1945年の夏、敗残の日本軍はビルマの国境を越え、タイ国へ逃れようとしていたが、その中にビルマの堅琴に似た手製の楽器に合せて、「荒城の月」を合唱する井上小隊があった。
水島上等兵は竪琴の名人で、原住民に変装しては斥候の任務を果し、竪琴の音を合図に小隊を無事に進めていた。
やがて、小隊は国境の近くで終戦を知り、武器を捨てた彼らは遥か南のムドンに送られることになったが、水島だけは三角山を固守して抵抗を続ける日本軍に降伏の説得に向ったまま、消息を絶った。
ムドンに着いた小隊は、収容所に出入りする物売りの婆さんに水島を探して貰うが生死のほども判らなかった。
ある日、作業に出た小隊は青い鸚鵡を肩にのせた水島に瓜二つのビルマ僧を見掛けて声をかけるが、その僧侶は目を伏せて走り去った。
水島は生きていたのである。
三角山の戦闘のあと、僧侶姿の彼はムドンへ急ぐ道で数知れぬ日本兵の白骨化した死骸を見て、今は亡き同胞の霊を慰めるため、この地へとどまろうと決心した。
物売り婆さんからあの僧侶の肩にとまっていた鸚鵡の弟という青い鸚鵡を譲り受けた井上隊長は「水島、いっしょに日本へ帰ろう」という言葉を熱心に教え込んだ。
三日後に帰還ときまった日、隊長は物売り婆さんに弟鸚鵡をあの僧侶に渡してくれと頼んだ。
すると、出発の前日になって水島が収容所の前に現われ、竪琴で「仰げば尊し」を弾いて姿を消した。
あくる日、物売り婆さんが水島からの手紙と青い鸚鵡を持って来た。
鸚鵡は歌うような声で「アア、ジブンハカへルワケニハイカナイ」と繰り返すのだった。
それを聴く兵隊たちの眼には、涙が光っていた。

寸評
公開時には「ビルマの竪琴 第一部」と「ビルマの竪琴 第二部・帰郷篇」という形で公開されたらしいが、現在みることが出来るのは「第一部」「第二部」を編集した「総集編」で、本作がそれにあたる。
したがって、シーンによっては説明不足感があり少し違和感を感じるが、それを想像で補っていくとかえってテーマが浮き上がってくる。

三国連太郎が率いる井上小隊は結束していて、終戦間際の殺伐とした雰囲気はない。
それでも第二次大戦での敗北が濃厚になり、ビルマ戦線における井上小隊もイギリス、インドの連合軍に反撃され敗走している。
井上隊長は音楽大の出身ということで彼らは時々合唱をするが、追い立てられているなかで合唱などできるものかと疑問に思うが、そんな疑問を吹き飛ばしてしまう説得力はある。
彼らは殺戮部隊ではないので村人にひどい仕打ちを行うわけではなく、相応の対応をしてもらっている。
第一、この部隊の戦闘行為は全く描かれていない。
敵軍に取り囲まれたところで終戦を知り、武装解除を自ら行っている。

対極にあるのが三角山に立てこもる日本軍で、彼らは降伏を良しとせず玉砕の道を選ぶ。
井上隊長と、三角山守備部隊の隊長との考えの相違で三角山では多くが死んでしまう。
部隊の兵隊たちも玉砕を選択するが、位が低い連中は戦争が終わっているなら降伏したいような雰囲気もわずかであるが描かれている。
上層部が人命を左右したのだというテーゼでもあった。

水島上等兵は三角山の日本兵に戦争の終結を伝え、降伏をする説得する役目を井上隊長から命じられる。
結局その役目は果たされず、三角山守備隊は全滅してしまい、水島の彷徨が始まる。
水島はビルマの僧に助けられるが、その僧の衣服を盗んで彷徨を続ける。
僧衣を盗むという行為を咎めるような演出がないのはいかがなものかと思う。
この時点では水島の心は、ムドンにいる仲間の元へなんとしても帰り着きたいという思いが強かったと思う。
その為の僧衣着服だったのだが、しかしそれでも助けてもらった僧の衣服を盗むのはもってのほかだ。
悪いと思っていながらも、そうせざるを得なかった雰囲気は出ていなかった。
少し違和感を持ったシーンだった。

水島は彷徨を続ける中で、多くの日本人の亡骸を見る。
うち捨てられた死骸を見て、この人たちを置いて日本には帰ることが出来ないとの思いに至る。
彼の行為を見守る現地人。
やがて彼等も水島の埋葬作業に無言で参加する。
水島が竪琴で奏でる「埴生の宿」と共に、人間として心が通じ合ういいシーンだ。
一人の兵隊が言うように、井上隊長は水島の手紙を何と言って日本にいる家族に渡したのだろうと思う。
それを思うと目頭が熱くなる。

野火 2014年 日本

2017-09-13 17:21:59 | 映画

監督:塚本晋也
出演;塚本晋也 森優作 中村達也 リリー・フランキー 神高貴宏

ストーリー
第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。
田村一等兵(塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされるが、負傷兵が大勢いる病院では食料が困窮しており、数本のカモテ芋しか持たされていない田村は早々に追い出されてしまう。
部隊に戻ると分隊長に殴られ、入隊を拒否された田村は再び病院へと向かい、こうして駐屯地と野戦病院を行ったり来たりしているうちに、田村は病院の周囲をたむろする安田(リリー・フランキー)と永松(森優作)の2人組に出会った。
足を負傷している安田は、煙草をエサに永松を手下のように扱い、永松は田村の芋を奪い取ろうとする。
その夜、敵からの攻撃で野戦病院に火が放たれ、田村はあてもなく孤独に歩いて行く。
田村は無人の村と教会堂を見つけたが、そこへ男女2人が入って来たので、田村は彼らに銃を向けて現地語で「マッチをくれ」と頼んだところ、混乱した女は田村の言葉に耳を貸さずに叫び続け、やがて彼は女を撃ち殺し、男には逃げられてしまう。
教会の床下を外すと麻布の袋に入った塩があったので、田村はそれを持って村を出た。
田村は3人の日本兵に出くわし、所属していた村山隊が全滅したことを知らされ、さらに、レイテ島の全兵士はパロンポンに集合すべしとの軍令が入っていた。
塩に目をつけた伍長(中村達也)は、「ニューギニヤじゃ人肉まで食った」と話し、田村を仲間入りさせる。
パロンポンに向かう最中、路傍に転がる日本兵の死体は増えていき、そこで野戦病院で別れた安田と永松に遭遇したが、彼らは兵士に煙草を売りながら歩いていた。
夜、敵からの奇襲を受け、生き残った田村は丘の頂上で負傷した伍長を発見する。

寸評僕は戦後生まれだし、戦争の真の語り部も少なくなって、戦争の実態を知る手立ては限られてきた。
最後の回想シーンを除いて、全編戦場シーンで、しかもジャングルの中を彷徨する姿が捕らえられ続ける。
その映像は戦場とはこのようなものだったのだと思わせ、リアル感があると思わせるに十分なものである。
先ずは、肺病になって所属部隊と野戦病院のどちらからも拒絶された主人公の田村一等兵がジャングルをさまようシーンが続く。
鬱蒼としたジャングルに転がる無数の死体。
血だらけなんて当たり前で、体の一部分がバラバラになって転がっている。
田村一等兵は部隊から命じられて病院に行くが、たしかに肺病の田村一等兵はそこでは患者とは思えない状況が目の前にあり、部隊に引き返せばなぜ帰ってきたとぶん殴られる繰り返しである。
一貫して描かれるのは目を背けたくなるような死体の状況と、食糧不足による飢えの状況である。
イモが主食のようになっているが、それすらなかなか手に入らず、味方同士で奪い合う様子も描かれる。
レイテ戦などの南方戦線では戦死者よりも餓死者が多かったとも聞くから、まさにここに描かれたような状況が生じていたのだろう。
食欲は人間の持つ本能の一つだが、飢餓状況は人間を狂人にするのかもしれない。
貧困からくる飢餓状況が現在の発展途上国混乱の要因の一つであることがよくわかる。

パロンポンに向かう敗残兵が待ち伏せされて攻撃される場面では、兵士の腕がちぎれ、足がふっ飛び、脳みそや内臓まで飛び散る凄惨なシーンとなる。
さまようジャングル内に転がる死体や、上記のような目を覆うシーンに混ざって、時折挿入される美しい自然
の姿が印象的だ。
このような美しい自然の中で、なぜ悲惨な戦争を行わなければならなかったのかと言っているようでもある。
ジャングルに立ち上る野火は平和の象徴だ。
狂気の戦場だけに、登場する人間たちも狂気じみている。
戦場で戦っているうちに、みんな狂気にとり付かれていくし、すでに狂気を帯びている敗残兵がさまよっている。
田村一等兵は人肉食への嫌悪や、自分が狩られるかもしれないという恐怖を抱えつつ、田村一等兵自身も正気と狂気の狭間でもがき苦しむ。
その姿は人間の一面を残しているのだが、恐怖は時として殺すつもりのない人間を殺させてしまう。
田村一等兵はそのために一度は銃を棄てるが、上官に再び銃をあてがわれると拒絶することが出来ない。
人間の弱さでもある。
狂気の代表は安田と永松だ。
安田は永松を支配しているが、永松は淋しさから安田と別れることが出来ない。
彼等は猿と称して人肉を食っている。
人肉を食うなどとはウジ虫と同様だが、それでも空腹はそうさせてしまう。
田村一等兵は人肉を食ってしまいそうになる自分を恐れ、自分が殺されて新鮮な肉として供されるのではないかという恐れを抱くが、それは人間性の欠如でもある。
短い上映時間ながら、救いのない戦争の悲惨さを描き続けた秀作だ。

野火 1959年 日本

2017-09-12 17:11:39 | 映画
リメイク作品を見比べてみるのも面白いかなと思い、何作かを連日見ました。
手始めに市川崑の「野火」と、塚本晋也の「野火」を見ました。

監督:市川崑
出演:船越英二 ミッキー・カーティス 滝沢修 浜口喜博
   石黒達也 稲葉義男 浜村純 潮万太郎

ストーリー
〇比島戦線、レイテ島。日本軍は山中に追いこまれていた。
田村(船越英二)は病院の前に寝ころぶ連中の仲間に加わった。彼らが厄介ばらいされたのは、病気で食糧あさりに行けないからなのだ。
安田(滝沢修)という要領のいい兵隊は、足をハラしていたが、煙草の葉を沢山持っていた。永松(ミッキー・カーティス)という若い兵が女中の子だというので、昔、女中に子を生ませた安田は、彼を使うことにした。
翌日、病院は砲撃され、田村は荒野を一人で逃げた。海辺の教会のある無人の町で、田村は舟でこぎつけてきた男女のうち、恐怖から女を射殺してしまう。
そこで手に入れた塩を代償に、彼は山中の芋畠で出会った兵たちの仲間に入った。彼らは集結地という、パロンポンを目指していた。雨季がきていた密林の中を、ボロボロの兵の列が続いた。安田と永松が煙草の立売りをしていた。
〇オルモック街道には、米軍がいて、その横断は不可能だった。山中で、兵たちは惨めに死んだ。幾日かが過ぎ、田村は草を食って生きていた。
〇切断された足首の転がる野原で、彼は何者かの銃撃に追われた。転んだ彼を抱き上げたのは、永松だった。永松は“猿”を狩り、歩けぬ安田と生きていたのだ。安田は田村の手榴弾をだましとった。永松の見通し通り、安田はそれを田村たちに投げつけてきた。
彼が歩けぬのは偽装だったのだ。永松の射撃で、安田は倒れた。永松がその足首を打落している時、何かが田村を押しやり、銃を取らせ、構えさせた。銃声とともに、永松はそのまま崩れ落ちた。田村は銃を捨て、かなたの野火へ向ってよろよろと歩き始めた。あの下には比島人がいる。危険だが、その人間的な映像が彼をひきつけるのだ。その時、その方向から銃弾が飛んできた。田村は倒れ、赤子が眠るように大地に伏したまま動かなくなった。すでに、夕焼けがレイテの果しない空を占めていた。

寸評
戦争最末期のレイテ島における敗走劇だが、敗走というより食料を求めながらの彷徨と呼んだ方がふさわしい状況下での物語である。

僕は戦後生まれでもあるし、レイテ島がいかなる状況であったのかは知らされる資料でしか知らない。
映画の中で、兵たちは次々死んでいき、発狂する者もあり、投降しようとしてゲリラに殺される者も描かれる。
一兵卒としてフィリピンでの惨たんたる敗戦を体験した大岡昇平の小説を原作にしているとは言え、おそらく本当のレイテ島はもっと悲惨だったのかもしれない。

人数的に戦闘による死者よりも餓死者の方が多かったといわれているのが南方戦線だ。
ここでも悲惨な状況が描かれているが、悲惨さを通り越してどこか滑稽ですらある。
冒頭から、田村一等兵は「病院へ元気に行って来い!」などと、笑ってしまう命令を下されている。
その後は色んなエピソードを挿入しながら、ただただ芥川也寸志の音楽に乗った逃避行が描き続けられる。
そこでも、自分のよりはましな死者の靴を次々やってくる敗走兵が履き換えていくなど、やはり笑ってしまうシーンなどが描かれる。
それほど悲惨な逃避行だったのだろうが、戦争を知らない僕たちはやはりどこか滑稽さを感じてしまうのだ。

しかしながら、これは戦争という愚かな行為を揶揄している作者の精一杯の表現なのだろう。
無残な状況を無残なままに見せるだけでなく、そこに一種のブラック・ユーモアを漂わせているのだ。
原住民の女を殺してしまった田村が、気が抜けてヘタヘタと崩れて座ってしまうシーンや、気の狂った将校が天を仰いで「天皇陛下様、ヘリコプター様、どうぞ助けに来てください」と叫んでいる場面など、滑稽な場面は枚挙に暇がなく、それが意図されたものであることが分かる。
あまりにも滑稽だから最後に田村の崇高さが浮かび上がってきたのだと思う。

田村は人肉を提供され、それと知らず噛み切ろうとするが歯が折れてしまって食べることが出来ない。
このシーンは、神が最も罪深い人肉を食するという行為を押しとどめた象徴だったと思うので、罪深い人間と、それでもその人間を救いたいという願いが込められていたように感じた。
ひたすら飢えていき、人間の生きようとする欲望は露わになって、ついには人食というおぞましい行為に至ることを描きながら、主人公だけにはそれを押しとどめ、人間の尊厳をかろうじて保たせる意味深いシーンだったと思う。
それがラストシーンに引き継がれ、主人公が野火のもとに辿りつくことなく倒れることも、かえって人間の尊厳を高めていたように思われる。
僕は原作を読んでいないが、このあたりの描き方は原作者大岡昇平の功績によるものなのかもしれない。

船越英二は「私は二歳」に於ける、ほのぼのとしたムーミンパパのような役にその存在感を見せた俳優だったが、この作品のおける彼はその一面を見せながら極限状態に置かれながらも、なんとか最後の人間性を守った小市民兵士を好演している。
彼の代表作はこれだろう。

インファナル・アフェアIII 終極無間 2003年 香港

2017-09-11 08:27:24 | 映画

監督:アンドリュー・ラウ / アラン・マック
出演:アンディ・ラウ トニー・レオン レオン・ライ ケリー・チャン アンソニー・ウォン
   エリック・ツァン チャップマン・トー サミー・チェン ショーン・ユー エディソン・チャン

ストーリー
潜入捜査官ヤン(トニー・レオン)の殉職から10ケ月後、難航していた事件の検証がようやく終わった。
ヤンからの情報に基づいてマフィアのサム(エリーック・ツァン)の組織を壊滅させた翌日、再びヤンと接触した折に潜入マフィアのラムが現れ、ヤンを射殺したラムをやむなく殺害した、というラウ(アンディ・ラウ)の証言は、全面的に認められたのだが、彼は一時的に庶務課に左遷され、婚約前に妊娠していたマリー(サミー・チェン)は、生まれた赤ん坊を連れてラウのもとを去っていった。
ラムが死ぬ前に語った「全部で5人」という言葉から、ラウは潜入マフィアを探し出しては始末してきていた。
しかし、保安部のヨン警視(レオン・ライ)の前でチャン巡査部長が自殺する事件が起き、現場近くに居合わせたラウはヨン警視もまた潜入マフィアなのでは?との新たな懸念を抱く。
内務調査課に警部として復帰したラウは、保安部の秘密主義に阻まれながらも、この事件の調査を開始する。
チャンのデスクには、サムとの会話が録音されたテープの入った封筒が置かれ、彼が潜入マフィアだったことが判明し、チャンはサムの商売相手だった本土の大物シェン(チェン・ダオミン)ともつながっていたことが分かる。
そのシェンが、ヨンと一緒に写っている写真も見つかる。
ひそかに保安部に監視カメラを設置し、ヨンの車に発信機を取り付けたラウは、ヨンが金庫に保管していたテープを、ポストに投函するところを目撃する。
ラウはまた、精神科医リー(ケリー・チャン)に近づき、パソコンに大切に保存されていたヤンのカルテを入手。
そのカルテには、ヤンの生涯でもっとも幸福だった日々が記されていた。
カルテを読むうちに、ラウはヤンに自分を重ね、ヤンの世界に入り込んでいく。
だが、いつしかヤンの死の真相を知る者の気配が、ラウの背後に忍び寄ろうとしていた。

寸評
香港フィルムノワールの傑作『インファナル・アフェア』の完結編なのだが、前2作を見ていないとさっぱり分からん作りになっている。
1作目で潜入捜査官ヤンと対決して、ヤンの殉職という悲劇的な結末に直面したマフィアのラウが、警官として生きる決意をして、他の潜入マフィアを見つけて始末しようとするところから始まるのだが、主要人物の多くは1作目で死んでいるのであらたな人物が登場してくる。

それがレオン・ライ演じるエリート警官ヨンで、彼はチェン・ダオミン演じる中国の密輸商人シェンと通じていて、どうもワル警官だという印象を持たせる。
この警官の登場はいいとしても、現在進行形のドラマに加えて過去の出来事だの、想像の中のシーンだのと色々なものが挿入されて、頭の悪い僕は時々年号を入れられても時制がバラバラにいなって、どうにもわからん状態になってしまい混乱状態に陥った。
その支離滅裂状態を辛うじて支えたのが、この映画の持つ雰囲気だ。
一瞬も途切れない緊張感とミステリアスさの演出が上手すぎるという感じなのだ。

ラウが手に入れたヤンのカルテによって、在りし日のヤンとリー医師のロマンスがてんこ盛りで登場するが、作品の中ではそのシーンが甘すぎてダレてしまったなあ。
その分、新登場のレオン・ライ、チェン・ダオミンが思わせぶりな演技で映画を引き締めていた。
ラストに明かされる彼の絡んだ意外な真実は、ちょっと強引な感じはするものの、このドンデン返しは結構驚かされるし、「う~ん、そうだったのか…」と唸らされる。

前作のシーンなども挿入されて、意識はあっち行ったりこっち行ったりで散漫になりがちなのだが、ラウとヨンの対決は息詰まるようなものになっている。
また正義の警官になろうとしながら壊れていくラウの姿が見ごたえあるものになっていた。
それぞれのエピソードは見応えがあるのだが、それは僕が1作目、2作目を見ているからであって、この作品だけを取り上げるならば、評価不可能と言っていい作品だ。
ラウは不死身かと思わせるラストシーンだが、それでも前後に現れる二人の女性はラウの過去を思い出させたし、ラウとリー医師がちょっといい感じになるのは、ヤンとラウをつなぐ橋渡し的な描き方だったのかもしれないな。

最初から計画されていた3作目と聞くが、印象的には何だかオマケ的に作られた作品の様な印象を持つ。
3本セットで見ると間違いなく傑作だと言える作品なのだが、話がつながっているシリーズ物ながら1本、1本を独立した作品として見ても立派に仕上がっていた「ゴッド・ファーザー」シリーズには及ばない出来栄え。
それでも香港フィルムノワール、なかなかやるじゃないかと思わせてくれた作品であることは確か。

前述したリー医師のケリー・チャンをいっぱい登場させたのは観客へのサービスだったのかなあ?
大きな目をしたケリー・チャンは綺麗すぎるので、違和感を感じる彼女の登場シーンだが、彼女の美しさに免じて許してあげようという気持ちが湧いてしまった。

インファナル・アフェア 無間序曲 2003年 香港

2017-09-10 08:16:44 | 映画

監督:アンドリュー・ラウ / アラン・マック
出演:エディソン・チャン ショーン・ユー アンソニー・ウォン エリック・ツァン
   カリーナ・ラウ フランシス・ン チャップマン・トー フー・ジュン

ストーリー
1991年。尖沙咀(チムサアチョイ)に君臨する香港マフィアの大ボス、クワンが暗殺された。
混乱に乗じて離反をもくろむ配下のボス4人。
組織犯罪課のウォン警部(アンソニー・ウォン)と相棒のルク警部(フー・ジュン)は、抗争勃発に備えて厳戒体制を敷くが、新参の5人目のボス、サム(エリック・ツァン)だけは静観を決め込む。
そのためにサムはラウ(エディソン・チャン)を警察に潜入させようと考えていた。
サムの妻マリー(カリーナ・ラウ)にひそかに想いを寄せていたラウは、危険を覚悟で引き受ける。
クワンの跡を継いだ次男ハウ(フランシス・ン)は、知的で物静かな外見の下に野心家の顔を隠していた。
4人のボスそれぞれの弱みを握った彼は、一夜にして新たな大ボスとしての地位を固めてしまう。
一方ウォン警部は、警察学校の優等生でありながら、クワンの私生児であることが発覚して退学処分になったヤン(ショーン・ユー)の存在を知り、その血筋を利用してヤンをハウの組織に潜入させる秘策を思いつく。
無謀とも言える作戦だが、ヤンにとっては警官になれる唯一のチャンスだった。
こうして1992年、ラウとヤンは警察学校で一瞬すれ違う。
1995年。潜入捜査のための厳しい訓練中に、刑務所での喧嘩を機にサムの子分キョン(チャップマン・トウ)と親しくなり、黒社会に溶け込み始めたヤン。
ウォン警部は、警視に昇進したルクの反対を押し切ってヤンをハウのもとに送り込む。
一方、組織犯罪課の警官となって2年目のラウは、サムからの情報によって手柄を重ねながらも、マリーへの恋心は募るばかりだった。
ハウは事業を拡大して一家の安泰をはかるとともに、4年前に父を殺した犯人探しに執念を燃やしていたが、ついに証拠を掴み、クワンが殺された4月11日の命日にすべてのドラマが動きだそうとする……。

寸評
前作ですっぽりと抜け落ちていた潜入捜査官ヤンと、逆に警察に潜入したマフィア、ラウの若き日の2人が描かれるが、実は2人よりも目立っているのが脇役陣だ。
ヤンの上司で警察の組織犯罪課のウォン警部、彼の警察仲間のルク、ラウのボスであるサム、サムの女マリー、父の跡を継いだマフィアのドン・ハウといった人々のドラマがこの映画の中心となっている。
特にウォン警部のドラマは見応えタップリで、演じるアンソニー・ウォンの苦悩漂う表情がたまらない。
昇進を果たしたルクとの関係も味わいがあり、二人して指揮を執ることになるエピソードも雰囲気がある。

話はマフィアのボスであるクワンが暗殺されたところから始まるのだが、それを引き継いだ後継者のハウの策士家ぶりも堂に入っていた。
一見頼りなさそうなハウが4人のボスを粛正していく手際もくどくなくてスピーディだ。
殺し殺され、裏切り裏切られ、陰謀渦巻く黒社会を定番的に描いていくが、密度濃く一気に見せる。
その間に、映画「ゴッド・ファーザー」をイメージさせるシーンも登場し、ハウをはじめとするマフィア一家の物語としての側面をチャッカリ頂いているのは香港映画らしい。
家族大事の気持ちがヤンをその世界で重用し、潜入捜査を可能ならしめるていくという描き方も無理がない。

ただし前作の補助説明作品なので、いきなりこの映画に入ったのでは興味が半減してしまう構成になっているのは否めない。
したがって、本作を見る前には一作目を見ておいたほうが良い。
なによりも少し入り組んでいる人物関係が理解しやすいと思う。
一作目で無線機を出されたヤンが「またこれか」と言っていたのも分かるし、ラウの恋人がどんな人だったのかも知らされる。
二人が組織に潜入していく過程がほとんど描かれなかった前作だが、ラウが警察に潜入する決心をする原因がボスの女に対する思いからだったことなども明らかにされる。
サムがボスになったいきさつも描かれ、前作の登場人物がいかに重たいものを背負っていたかがよくわかって、前作のスゴさを再認識させる映画となっているのだが、やはり前作を補完する作品だけに、前作に比べるとその緊張感はやや劣っていたように思う。

若き日のヤンを演じるショーン・ユーとラウを演じるエディソン・チャンの2人は、前作のトニー・レオンとアンディ・ラウに比べると影が薄い。
その影の薄さは、この映画が脇役たちのドラマに主眼を置いたことにもよるが、彼らの役者としての雰囲気によるところが大きかったような気がする。
ずっとトニー・レオンとアンディ・ラウの二人でいけばいいのにと思ったりしたのだが、やはり若返らせる必要があったのだろうか?
ところが、エンドタイトルのあとに、次回最終章の『インファナル・アフェア 終極無間』の予告が流れ、トニー・レオンとアンディ・ラウが帰ってくることが示される。
すさまじい商魂ながら、二人が帰ってくる次回作も見たくなってしまう2作目の出来栄えではあった。

インファナル・アフェア 2002年 香港

2017-09-09 08:07:22 | 映画
香港映画が見たくなったのだが、香港映画と言えば思い当たるのがまずはこのシリーズで、立て続けに3本を見る。


監督:アンドリュー・ラウ / アラン・マック
出演:アンディ・ラウ トニー・レオン アンソニー・ウォン エリック・ツァン
   エディソン・チャン ショーン・ユー サミー・チェン

ストーリー
1991年、ストリート育ちの青年ラウ(アンディ・ラウ)は香港マフィアに入ってすぐ、その優秀さに目を付けたボスであるサム(エリック・ツァン)によって警察学校に送り込まれる。
一方、警察学校で優秀な成績を収めていた青年ヤン(トニー・レオン)は突然退学となる。
彼は組織犯罪課のウォン警視(アンソニー・ウォン)に能力を見込まれマフィアへの潜入を命じられたのだった。
ラウは香港警察に潜り込み、10年で内部調査課の課長に昇進、ベストセラー作家メリー(サミー・チェン)との結婚も内定していた。
一方、ヤンはサム率いるマフィアに潜入し、今では麻薬取引を任されるまでになっていた。
しかしヤンは長年に渡る内通捜査で自分を見失い、精神科医リー(ケリー・チャン)のもとに通院。
いつしかヤンはリーを愛し始めていた。
ある夜、ヤンから大きな麻薬取引を行うとの情報を得たウォン警視は、水面下で調査を始めるが、同時に警察の動きがラウからサムに伝わり、検挙も取引も失敗に終わる。
双方にスパイがいることが明らかになった。
ラウとヤンは、それぞれ裏切り者を探すよう命じられる。
やがて争いの中で、サムの手下にウォン警視が殺される。
サムの残忍さに嫌気がさしたラウは、サムを射殺。
そしてヤンは、ラウがマフィアのスパイであることに気づくが、やはりサムの手下にヤンも殺される。
残されたラウは、ヤンの分まで警官として生きていくことを決意するのだった。

寸評
組織への潜入物はよく映画化される題材だが、この作品の特異なところははマフィアと警察にそれぞれスパイを送り込んでいることで、それも10年という長い年月をかけたスパイであることだ。
その二人をトニー・レオンとアンディ・ラウが演じていて、二人が対照的な人物を渾身の演技で熱演しているのがこの映画の魅力となっている。
ヤンの上司であるウォン警視役のアンソニー・ウォンもなかなかいい。
潜入者は一体誰なのかを伏せておいて、そのなぞ解きをメインに据える手もあったと思うが、この映画ではそれをせずに当初から潜入者を明らかにしている。
あくまでもお互いの潜入者を介在させたマフィアと警察の攻防に重点を置き、その中で二人の人物像を浮かび上がらせていく演出の巧みさは、本作を香港映画界が生み出した超一級品の香港ノワール作品に仕上げている。

まずはオープニングがいい。
究極の地獄を示す仏教用語(無間道)が語られ、この物語の全体像が暗示される。
続いて、仏の前でマフィアのボス・サムが、これから警察学校に潜入しようというラウたちに語りかける「自分の道は自分で決めろ!」というこの言葉があとあとの展開を左右する重要なキーワードになる。
その後は、潜入捜査官ヤンと警察に潜入したラウの姿が並行して描かれるのだが、その緊張感がたまらない。
前半の麻薬取引の場面は手に汗握るシーンとなっていて、パソコン、携帯電話、無線機などのアイテムを効果的に使用しながら一気に映画世界に観客を引きずり込む。
はでなドンパチがあるわけではなく、雰囲気でもってスリル感を盛り上げていくのがいい。

そして映画はサスペンス劇だけではなく、好対照な二人の人物像をじわじわと描いていく。
ヤンはマフィアに潜入した警察官だが、どこかワイルドな風貌で10年間の潜入生活に疲れ始めている。
ラウは警察に潜入したマフィアの一員なのだが、エリート然としていてスマートで幸せな新婚生活を控えている。
それに反して、ヤンは恋人とも別れてボロボロの生活の様だ。
元恋人が連れていた子供はたぶんヤンとの間に出来た子供の様なのだが、ヤンはそれも知らない。
もちろんラウの恋人のメリーはラウの素性を知る由もない。
しかしどちらもそんな中にあって、悪の中の正義、正義の中の悪という矛盾に苦しみ始めている設定が重厚感を出していた。

クライマックスも、ありがちな展開とはいえ少しも陳腐な感じを抱かせない。
善と悪が交差する微妙なエリアで、情感漂うドラマを展開している。
勧善懲悪の世界が描かれるのではなく、善人だけど悪人、悪人だけど善人という複雑な設定が、ここで一挙にはじけ散る。
無間地獄とは絶え間ない責め苦を受け続けるjことであり、他人と自分自身を一生あざむいて生きることの苦しみは、どこにも属さない地獄の苦しみなのだ。
ラウはその無限道を歩いていくことになるのだろう。
香港映画、恐るべしだ!

湯を沸かすほどの熱い愛

2017-09-08 07:54:33 | 映画
先日、映画館で最後にタイトルが映画を見たのだが、そういえば昨年も最後にタイトルが出る映画があったなと思い当たり再見。


監督:中野量太
出演:宮沢りえ 杉咲花 オダギリジョー 篠原ゆき子 駿河太郎 伊東蒼 松坂桃李

ストーリー
夫の一浩(オダギリジョー)とともに銭湯を営んでいた双葉(宮沢りえ)は、他ならぬ夫の失踪とともにそれを休み、パン屋店員のバイトで娘の安澄(杉咲花)を支えていた。
ある日職場で倒れた彼女が病院で検査を受けると、伝えられたのは末期ガンとの診断であった。
2~3カ月の余命しか自分に残されてはいないと知り落ち込む双葉だったが、すぐに残されたやるべき仕事の多さを悟り立ち上がる。
まずいじめに悩み不登校寸前に陥った安澄を立ち直らせ、級友たちに言うべきことを言えるようにさせること。
そして行方不明の一浩を連れ戻し、銭湯を再度開店するとともに家庭を立て直すこと。
双葉は持ち前のタフさと深い愛情で次々と仕事をこなし、一浩とともに彼が愛人から押し付けられた連れ子の鮎子(伊東蒼)をも引き取って立派に家庭を立て直した。
その上で、彼女は夫に留守番をさせて娘たちと旅に出る。
彼女の狙いは、腹を痛めて得た娘ではない安澄を実母に会わせることだった。
道すがら出会ったヒッチハイク青年拓海(松坂桃李)の生き方をも諭し、義務を果たそうとした双葉だったが、やがて力尽きて倒れる。
だが、彼女の深い思いは家族たちを支え、そして拓海や、安澄の実母・君江(篠原ゆき子)、夫の調査に当たった子連れの探偵・滝本(駿河太郎)の心にも救済をもたらすのだった。
静かに眠りについた彼女に導かれるように、新たな繋がりを得て銭湯で行動しはじめる人々。
彼らを見守る双葉の心が、煙となって店の煙突から立ち上った。

寸評
典型的な難病もので、典型的な母もの作品だが、意表を突いた展開とストーリーが観客を引き付ける。
難病物の割には作品自体が重くなく暗くない。
それは双葉の宮沢りえが末期癌を宣告され落ち込むが、すぐに立ち直り明るく元気に振舞い、最後に自分がしなければならないことに邁進していくからである。
その姿は自然体で悲壮感がないので見ている僕たちは救われた気持ちになる。
伏線を張りながら、あるいは結論を次のシーンに持ち越すような描き方でストーリーが進行していく。

蒸発していたオダギリジョーが帰ってくるが、その時にしゃぶしゃぶで迎えるのだが、そのエピソードからして軽妙なタッチでこの作品の雰囲気と双葉の性格を表していた。
娘の安澄は学校でイジメにあっているのだが、母親の双葉は「逃げないで現実に向き合え」と叱咤する。
現在の風潮としては、イジメにあっている子供が学校に行きたくないと言えば休ませたほうが良いとされているが、双葉はそうではない。
安澄はイジメを克服するが、克服する場面も感動的だが、その前に父親が朝ご飯を食べて行かなかった安澄に牛乳を届けるシーンが挿入されていて、脚本が細かい点にも心を割いていることがわかる。

この家に鮎子という女の子がしかたなく同居することになるが、実は双葉、安澄、鮎子にはある共通点がある。
この共通点が終盤になって明らかになっていくのだが、この展開はアッと驚かされる。
映画を見慣れた者にはある程度の予測は付くとは言うものの、この展開は予想以上だ。
双葉はこれが最後と安澄と鮎子を伴って車での旅行に出かける。
出発前にすべてを話すと一浩に告げているので、いつ自分の病気を話すのかと思っていたらそうではなく、安澄は別の出来事で母の病気を知ることになる。
この一連をくどくど描いていないので深刻にならない場面だが、胸に迫ってくるシーンとなっている。
鮎子が母の「誕生日に迎えに来る」という言葉を信じて、元の家で待っているシーンも涙を誘う。
鮎子は番台の金を盗むが、それは交通費を得るためだったということも鮎子の行動によって判明する。
双葉が安澄と同様に鮎子に注ぐ愛情が感じ取れる描き方も心を打つ。
双葉が抱きしめるのは彼女の愛情が抱きしめさせているのだ。
双葉は安澄も鮎子も抱きしめ、そして旅の青年拓海も抱きしめる。
彼等は双葉の抱擁に追って彼女の愛を感じるのである。

明るいシーンと、そうでないシーンがバランスよく散りばめられている。
一浩は調子のよい男で、結婚前には双葉をエジプトに連れていくと言っていたようなのだが、そのエピソードも感動をもたらす。
それに関するシーンは3度登場するが徐々に盛り上げていく展開で、最後のシーンは感動的だ。
そこで宮沢りえが発する「生きたいよお・・・」のつぶやきには涙せずにはいられない。
ラストシーンはファンタジーで、現実的ではないがここでタイトルが出る演出も納得させられる。
病床の姿を演じるために減量した宮沢りえにすごさを感じた。

幼な子われらに生まれ 2017年 日本

2017-09-07 08:25:50 | 映画

監督:三島有紀子
出演:浅野忠信 田中麗奈 南沙良 新井美羽 鎌田らい樹
   宮藤官九郎 寺島しのぶ 水澤紳吾 池田成志

ストーリー
互いに再婚同士の田中信(浅野忠信)と妻の奈苗(田中麗奈)。
彼女の二人の連れ子にも父親として誠心誠意を尽くし、ささやかな幸せを感じながら暮らしていた。
しかし妻の妊娠により2人の連れ子とはうまく関係を築けず悩みを募らせ始める。
長女(南沙良)が本当の父親に会いたいと言い出したのだ。
一方、元妻・友佳(寺島しのぶ)の再婚相手は末期ガンで余命わずか。
友佳と暮らす実の娘(鎌田らい樹)からは、血のつながらない義父の死を前にしても悲しめないと打ち明けられてしまう。
そんな中、半ば自暴自棄の感情のままに、長女の願いを実現すべく信は奈苗の元夫・沢田(宮藤官九郎)を捜し出す。
奈苗は沢田とDVが原因で離婚しており、彼との面会に反対だった。
色んな問題に直面し、これから生まれてくる命を否定したくなるほど今の家庭を維持することに疲れる信だった……。

寸評
家族とは、夫婦とは、親子とはと問いかけ、その間に沸き起こる微妙な感情を繊細に描き出している。
それぞれは世に存在する最小の関係であり、家族は最小の社会である。
それぞれにとっては絶対的なものであるはずだが、だからと言ってすべてを理解しあっているわけではない。
血の繋がらない家族と血の繋がった他人という形で子供たちが登場するが、その子供たちの心象風景もリアルに感じることが出来る。
再婚は本人たちの理解で解決できるが、連れ子問題は大変だなあと感じさせる。

奈苗の態度は一見、能天気にも見えるが、前の結婚がいまだに手ひどい痛手となっていて、娘が前夫に会うことなど想像できない。
お互いに再婚同士である信と奈苗の家庭は、記念写真を見る限り幸せな家庭を再構築できていたはずだ。
しかし奈苗の妊娠で長女の薫は自分が疎外されるのではないかとの思いを抱くようになる。
可愛がってもらって新しい父として受け入れていたはずだが、生まれてくる子供と自分の立場の違いを感じ取る。
彼女の不安を際立させていくのが、幼さのために理解能力を持たない妹の恵理子の存在だ。
年齢による感受性の違いが上手く描かれている。
薫より少し大人びた存在が真の実子である沙織だ。
彼女の発する二つの言葉が胸に突き刺さる。
彼女は血のつながらない義父の死を前にしても悲しめないと実父の信に打ち明ける。
そして恵理子から信との関係を聞かれた沙織は友達だと答える。
実は僕も長い間叔父を「おとうちゃん」と信じていた時期があった。
自然とそうではないと理解していった頃、あれは従妹のお父ちゃんやでとからかわれたりしたのだが、僕は「仲間やねん」と答え大人達を喜ばせた。
子供心に処世術を兼ね備えていたわけで、僕は沙織の気持ちがよくわかった。

大人たちも微妙な心情を見せ、演じた役者の上手さを感じる。
奈苗は能天気そうだが、信が薫を実の父親に合わせようかと持ち掛けた時に、そんな気を使ってくれるより実子の沙織と会ってくれない方が嬉しいと漏らす。
奈苗が別れた沢田はどうしようもないぐうたら男だが、薫と会うとなった時にはたたずまいを一変させている。
信は妻の連れ子である長女に接する時の態度と、実の娘と接する時の態度に明らかな違いを見せる。
信の前妻は結婚時の信の態度への思いを吐露し、死期が近づいている現夫への微妙な感情を垣間見せる。
三島有紀子監督の演出の冴えを感じた。
単純なハッピーエンドとしていない結末にも好感が持てるし余韻を残した。
沙織が現在の父親の死を悲しむシーンに加え、未だに新しい子供の誕生を喜べない薫が病院に駆けつけるシーンを用意している。
それらのシーンをかすかな光として描き、決して問題が全部解決して万歳と思わせないところがいい。
最後にタイトルが出るが、さてこれからどうなるのかと思わせる。
もがき苦しみ、自分をさらけ出して、互いにぶつかり合った現家族と元家族たちであったが、それがけっして無駄ではなかったことだけは示唆していた。

愛と誠 2012年 日本

2017-09-05 14:10:59 | 映画
武井咲さんが結婚したとか、妊娠したとか、違約金が10億円になるかもしれないとかがワイドショーを賑わしている。
キャリアも積んできた武井咲さんだが、僕は彼女の出演作品をたった1本しか見ていない。
今のところ、僕が見たくなる映画に彼女が出演することはないのだ。


監督:三池崇史
出演:妻夫木聡 武井咲 斎藤工 大野いと 安藤サクラ 前田健 加藤清史郎 一青窈
   余貴美子 伊原剛志 市村正親

ストーリー
1972年の新宿。ブルジョア家庭の令嬢・早乙女愛は、幼い頃に雪山で助けられた“白馬の騎士”太賀誠と運命の再会を果たす。
富豪のひとり娘で天使のように純真無垢なお嬢様・早乙女愛は、復讐を誓い単身上京した、額に一文字の傷がある不良の誠の鋭い眼差しを一目見たときから恋に落ちる。
すっかり札付きの不良になっていた誠は上京早々、不良グループと乱闘を繰り広げ、少年院送りに。
そこで愛は、彼を更正させようと両親に頼んで自分が通う名門青葉台学園に編入させる。
そんな愛の献身的な努力も誠にとっては単なるお節介でしかなく、すぐに問題を起こして退学となり、不良のたまり場、花園実業へと転入する。
すると今度は、誠を追って愛も転校してしまう。
さらに愛への一方的な想いを貫くメガネ優等生・岩清水弘、誠に一目惚れのスケバン、ガムコ、誠と心を通わせていくミステリアスな女子高生・高原由紀らも加わり、愛と誠の運命はますます混沌としていくのだが・・・。

寸評
原作は梶原一騎のあまりにも時代錯誤的で大層な純愛物語。
当時でさえそうだったのだから、今ならますます違和感のある作品になるところを、原作のイメージと違った超純愛青春コメディにして、しかもかつて主演した西城秀樹の歌など、昭和のヒット歌謡曲を歌い踊るミュージカル仕立てにしたことによって、ちょっとしたエンタティンメント作品に仕上がっている。
1話完結にするために、原作にあるエピソードをいくつか割愛して話のつじつまを合わせているので、物語の深みは原作ほどにはない。
とは言え、まじめなのかギャグなのかわからない展開でとにかく笑わせてくれる。

オリジナル曲は一青窈による「曙」、「愛のために」、「愛と誠のファンタジア」の3曲のみで、あとは「激しい恋」、「空に太陽があるかぎり」、「あの素晴らしい愛をもう一度」、「夢は夜ひらく」、 「酒と泪と男と女」、「オオカミ少年ケンのテーマ」、「また逢う日まで」と昭和のヒット歌謡曲が濃いキャラによってお遊戯のようなダンスと共に歌われる。
素人っぽい歌唱で決して上手いとは言い難いが(もちろん僕よりは断然上手いけど)、かえってそれが味わいのあるナンバーへと変身していた。
もっとも、見終わって僕の耳に残ったのは武井咲の歌う「あの素晴らしい愛をもう一度」だけだったのだけれど…。

出演者はとても高校生とは思えないのだが、一番そうは見えない伊原剛志の座王権太に"老人病や"と言わせたりして、その不自然さをギャグにしている。
武井咲の早乙女愛も勘違い女と笑い飛ばしていて梶原一騎さんが生きていたら怒りそうなキャラで微笑ましい。
彼女はもっと、もっと勘違い女として描いても良かったのかも (でもカワイかった)。
それを含めてもう一段ハチャメチャにする工夫があれば良かったと思うし、パパイヤ鈴木の振り付けはむしろ本格的な方が面白かったのではないかとは僕個人の感想。
ダンスシーンは例えば、加藤泰の「真田風雲録」のダンスシーンなんかの方が面白かった(ちょっと古いか・・・)。

終盤になると僕の興味は、ナイフで刺された誠が愛のもとに行き、夕暮れの逗子海岸でふたりは初めて唇を合わせ、愛は腹部から大量の血を流す誠に気付かず "これから始まるのだわ。二人の未来が・・・" という原作のラストシーンをどう処理するのかに移った。
う~ん、なるほど。
刺された相手も違うけど、これはこれで有りかと・・・(話、省いてるもんね)。

とんでもない映画だとは思うが、青春時代を当時に送った僕には結構楽しい映画だった。
クレジットの楽曲紹介では「夢は夜ひらく」となっていたが、あの歌詞内容は「圭子の夢は夜ひらく」だと思う。
ちなみに歌われる曲と歌い手は以下のとおりである。
「激しい恋」(妻夫木聡) 、 「空に太陽があるかぎり」(斎藤工) 、 「あの素晴らしい愛をもう一度」(武井咲) 、「夢は夜ひらく」(大野いと) 、 「酒と泪と男と女」(余貴美子) 、 「オオカミ少年ケンのテーマ」(伊原剛志) 、 「また逢う日まで」(安藤サクラ) 、 「曙」(一青窈) 、 「愛のために」(市村正親) 、 「愛と誠のファンタジア」(一青窈、妻夫木聡、武井咲、斎藤工)