おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ドリームガールズ

2021-07-31 08:19:14 | 映画
「ドリームガールズ」 2006年 アメリカ


監督 ビル・コンドン
出演 ジェイミー・フォックス
   ビヨンセ・ノウルズ
   エディ・マーフィ
   ジェニファー・ハドソン
   アニカ・ノニ・ローズ
   ダニー・グローヴァー

ストーリー
1962年。デトロイトのヴォーカルトリオ「ドリーメッツ」は音楽業界に打って出ようとしている野心家・カーティスにスカウトされた。
彼女たちはソウル界のローカルスター、ジミー・アーリーのバックコーラスとしてツアーに参加するようになる。
だが一番の歌唱力を誇るエフィーはいつまでも脇役でいることに不満だった。
マネージャーのマーティーを追い出したカーティスはドリーメッツを独立させて、その名も「ザ・ドリームズ」として売り出そうとする。
ようやくリードシンガーになれると思ったエフィーだが、カーティスはディーナをリードにする決断を下した。
テレビ向けに一番の美人であるディーナをフューチャーしようというのだ。
しかも今までエフィーと付き合っていたカーティスは私生活でもディーナに鞍替えしていた。
グループの活動に支障をきたすようになったエフィーはついにクビを言い渡された。
こうして新メンバーになったザ・ドリームズは瞬く間に人気を獲得していく。
それから8年の歳月が流れディーナは世界的なスーパースターとなり、カーティスと結婚していた。
一方でカーティスの子を産んだエフィーはマーティーの協力を得てクラブシンガーとして再出発を始めていた。
やっとの思いで出したエフィーの新曲を盗んでザ・ドリームズに歌わせてしまうカーティス。
怒ったエフィーやマーティーらはカーティスのレコード会社に乗り込み、怒りをぶつけた。
そして独善的なカーティスに対する不信感を抱えてきたディーナも、ついに離婚を決意するのだった。
こうしてバラバラになってしまったザ・ドリームズの解散コンサートが地元で行われる。
最後の曲でエフィーが現れ、四人になったザ・ドリームズは感動的なパフォーマンスを繰り広げるのだった。


寸評
ストーリーはさして目新しいわけではない。
それなのに、ありきたりとも思える話をここまで見せるのはやはりミュージカルという形態をとっているからだろう。
歌がスゴいし、曲がみんな良いし、歌い手も素晴らしい。
ブロードウェイという素地を持つ米国エンタテインメントは本当に豊かだと感じさせる。
コーラスグループが成り上がっていく物語なので、ミュージカル特有の突然歌いだすと言う異和感を感じさせず安心してみることが出来るのもいいと思う。

出演者のネームバリューとしてエフィを演じたジェニファー・ハドソンは助演扱いだが、途中までは彼女が主演級で「見てくれが悪い」という役柄どおりの外見に似合わず歌はバツグンだ。
後半の主役を務めるのが大スターのビヨンセ・ノウルズが演じたディーナだが、このディーナはルックスがいいだけでリードボーカルに抜擢され、歌のまずさをカーティスがミキシングでごまかしているという役柄である。
そのような設定をビヨンセがよく受けたものだと思うが、そんな設定などどこ吹く風で、やはりビヨンセの歌う「ワンナイト・オンリー」のディスコバージョンはとても良かった。
ビヨンセの抑え目な演技と歌がジェニファー・ハドソンと好対照で雰囲気を高めていたと思う。
美形の女性が中心に配置されるのは、日本においても「キャンディーズ」の伊藤蘭が最終的にセンターになったのと同様で、ビジュアル的には仕方のないことなのかもしれない。

途中でデトロイトの暴動などが挿入されるが、デトロイトが米国の中でも黒人の比率が多いと映画の中でもチラと描かれていて、この町が貧富の差が大きい都市であるという点も考慮しておいた方がいいのかもしれない。
そこには潜在的な黒人差別もあって、苦労しながらやってきたドリームガールズのメンバーややスタッフ、中でもエフィーにとって、カーティスのやり方は金持ちの白人たちに媚びているようにしか見えない。
同時に、カーティスが卑怯な手段を使ってまで営業した理由もそこにあったのだろう。
この街から黒人がなしえなかった道を切り開かねばならなかった彼の立場も理解できるのだが、エフィには許しがたいことだったろうという背景が、物語を奥深いものにしていたと思う。
アメリカの地方都市が抱えていた問題や、60~70年代のモータウンサウンドのことが分かっているであるアメリカ人が見れば、僕が感じた以上の評価をこの作品に与えるかもしれない。
さらにこれは黒人系女性ボーカル・グループのザ・スプリームス(僕らの年代の者にはシュープリームスと呼ぶ)をモデルにしていて、ダイアナ・ロスとフローレンス・バラードの確執が題材となっているのもアメリカ人には身近なものに感じるかもしれない。
モータウンの社長ベリー・ゴーディ・ジュニアがダイアナ・ロスだけを前面に押し出しグループ名も、ダイアナ・ロス&ザ・スプリームスとなった経緯も描かれた通りの様だ。

実際のさよならコンサートがどのようなものであったかは知らないが、ここでのコンサートは男の野望や愛情よりも、女同士の友情が表に出てきていて感動的だ。
カーティスがコンサートを見ながら、エフィの子供を見つめるのも余韻があった。
カーティスのジェイミー・フォックス、ジミーのエディ・マーフィも歌が上手いんだと感心させられた。

2021-07-30 07:27:55 | 映画
「鳥」 1963年 アメリカ


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ティッピー・ヘドレン
   ロッド・テイラー
   スザンヌ・プレシェット
   ジェシカ・タンディ
   ヴェロニカ・カートライト
   ドリーン・ラング

ストーリー
突然、舞い降りてきた1羽のかもめが、メラニー・ダニエルズ(ティッピー・ヘドレン)の額をつつき飛び去った。
これが事件の発端だった。
不吉な影がボデガ湾沿いの寒村を覆った。
若い弁護士ブレナー(ロッド・テイラー)は異様な鳥の大群を見て、ただならぬ予感に襲われた。
そして、ほどなくブレナーの予感は現実となって、鳥の大群が人間を襲い始めたのだ。
アニー(スザンヌ・プレシェット)の勤める小学校の庭では、無数のかもめが生徒を襲撃した。
メラニーが恋人ブレナー家へ夕食によばれた夜、暖炉の煙突から、突然、すずめに似たフィンチが何百羽となく舞い込んできたが、ブレナーがやっとのことで追い払った。
どこからともなく飛来してくる鳥の群れは、ますます増える一方だった。
そして、ついに鳥による惨死者が出た。
農夫が目玉をくり抜かれて死んでいたのだ。
授業中のアニーは、ふいにメラニーの来訪を受け、外を見て足がすくんだ。
おびただしい鴉の群れが校庭の鉄棒を黒々とうずめていたからだ。
鋭い口ばしをとぎ、鴉の大群が小学生を襲った。
ブレナーの妹をかばったアニーは、無残にも鴉の群れにつつき殺された。
この襲撃を機に、今まで不気味な動きを見せていた鳥の大群が、せきを切ったように人家に殺到してきた。
顔といわず手といわず彼らの襲撃は凄絶をきわめた。
もはや一刻の猶予もない。
ブレナーは失神したメラニーを家族と一緒に車に乗せサンフランシスコへの脱出を決心した。


寸評
数あるヒッチコック作品の中でも好きな一編である。
何よりも鳥が人間を襲ってくると言うだけのシンプルな内容がいい。
ブレナーの母親が夫を亡くし、息子に好きな人が出来ると自分は見捨てられるのではないかという恐怖心を抱いて、相手の女性に冷たくしてしまうと言う姿が描かれたりもしているが、基本線は鳥の襲撃で得ある。
合成技術も鳥の素早い動きのこともあって違和感がなく、当時としては画期的と言えるほどの出来栄えだ。
モノローグの「ラブ・バード」にかかわるエピソードも導入部としてはユーモアもありスムーズな入りだ。

襲ってくる鳥は鷲のような大きな鳥ではないが、大群となると人間も太刀打ちできない。
蟻が大群でもって像を倒すことだってあるらしいし、パール・バックの「大地」ではイナゴの大群が農作物を食い尽くしていく様が描かれている。
小さな動物でも数万という数が集まると巨大な力を持つと言う事だろう。
流石に鳥だけに数万羽という数ではないが、徐々に数を増やしていく描写などは不気味感が出ている。
近頃、公園に行くとかなりの数でカラスがたむろしているのをみかけることがあるが、あれらが集団となって襲ってくることはないのだろうか。
カラスは知能が高いし、母性本能が強い鳥であるように思う。
僕は子供の頃、カラスの巣の巣から落ちたヒナを助けたら、親鳥が泣き叫び襲ってきたという経験を有している。
思わず逃げ帰った恐怖体験である。

ところで、アニーが先生を務める小学校が襲われ、近くの子供は家へ、それ以外の子供をホテルへ避難させるシーンがあるが、子供が襲われるシチュエーションとしてはちょっと無理があるのではないか。
そんな危険を冒すのではなく、校内にとどめて安全を期すのが常套手段だと思う。
それでは話にならないのだろうが、描き方はあったのではないか。
また、メラニーがブレナーの家の部屋で鳥の大群に襲われるが、このシーンでもメラニーを部屋から引っ張り出すだけのドアの隙間から一羽も侵入していないのも不自然に見えた。
いずれもアラ捜しの部類に入ることなのだが・・・。

メラニーが鳥によって大けがを負わされたこともあって一家は車で脱出していくが、ブレナー、母親のリディア、そしてメラニーの関係はその後どうなったのだろうと気になった。
鳥が人襲うというテーマを追求しているので、人間関係における確執は横に置かれたような感じだ。
それとも、人に潜んでいる恐ろしい心よりも、訳の分からないままに鳥の大群に襲われることの方が恐ろしいと言うことなのだろうか。
結局、鳥たちはなぜ人間を襲ったのかの謎は不明のままだ。
「ラブ・バード」も関係なかった。
自身の映画には必ず1シーンだけ登場するヒッチコックだが、今回は冒頭に出てくるので見逃がすことはない。
パニック・サスペンスと言っても良い中身だが、ここまで昇華されるとやはり拍手を送りたくなる。

トラフィック

2021-07-29 07:18:04 | 映画
「トラフィック」 2000年


監督 スティーヴン・ソダーバーグ
出演 マイケル・ダグラス
   キャサリン・ゼタ・ジョーンズ
   ドン・チードル
   ベニチオ・デル・トロ
   ルイス・ガスマン
   デニス・クエイド

ストーリー
メキシコ、ティファナ。
国境警備にあたるメキシコ州警察の警察官ハビエル・ロドリゲスとパートナーのマノーロ・サンチェスは、犯罪取締官サラサール将軍に召喚されて、麻薬カルテルの一味である暗殺者フロレスをつかまえるよう頼まれる。
ロドリゲスが難なく男をとらえ連行するや、将軍はフロレスを拷問にあわせ、強力な麻薬組織オブレゴン・カルテルの居場所を吐かせ一味を撲滅する。
アメリカ、オハイオ。
新しい麻薬取締最高責任者に任命されたロバートは麻薬犯罪の摘発に邁進するのだったが、娘のキャロラインがドラッグ中毒への道を進んでいることに深いジレンマを抱く。
アメリカ、サンディエゴ。
オブレゴン・カルテルを訴訟に持ち込むべく捜査を続けている麻薬取締局のおとり捜査官、モンテル・ゴードンとレイ・カストロ、さらに彼らが逮捕した中間ルートの麻薬密売人ルイスと、麻薬王のカール、さらにカールの妻であるヘレーナなどが裁判を通じて大きく絡んでいくのだった。


寸評
メキシコから国境を越えてアメリカに持ち込まれる麻薬の量は想像を絶するものがあるらしいし、国境をまたいで地下トンネルが掘られていたと言う記事をどこかで目にしたような気もする。
「トラフィック」はその麻薬密売ルートに関わる人々を描いた群像劇であるが、セリフのある人物が多数登場し群像劇とは言え目まぐるしい。
ソダバーグは人数の多さによる混乱を抱けるために映像処理を施して観客の戸惑いを軽減している。
キーになる人物はそれぞれのパートに存在している。
ワシントンD.C.などのアメリカの政治にかかわるパートの主人公はマイケル・ダグラスのロバート麻薬撲滅担当補佐官で、ネーム・バリュウから言ってもこの映画の主人公だ。
メキシコのパートはロドリゲス 刑事のベニチオ・デル・トロなのだが、彼の渋すぎる存在はこの映画の中で際立っており、僕には実質的な主人公に思えた。
麻薬の米国側の受け口となっているカルフォルニアのパートはドン・チードル演じる黒人刑事のゴードンである。
しかし彼らも物語の登場人物の一人にすぎず、それぞれに複雑な立場の人物たちが係わっていき、意外な展開も披露されて目を離すことができない。
複雑な人間関係ながら、ソダバーグはそれを整理して見事なサスペンス劇に昇華させている。

メキシコではサラサール将軍が指揮して麻薬撲滅を進めている。
取引現場と関係者を捕らえたロドリゲスたちを襲ったような形のサラサール将軍に疑いの目を向けるが、どうやら本気で麻薬組織を撲滅しようとしているらしいと見えてくる。
殺し屋のフロレスの拷問を見ていると、荒っぽいやり方だがそれがメキシコ流なのだと思わせる。
しかし彼には過酷な摘発の真の目的があって、その目的が明らかになっていく過程はサスペンスフルだ。
しかもサラサール将軍や、麻薬組織のオブレゴンのモデルはいると言うのだから驚きである。
寡黙なロドリゲス刑事は彼こそ麻薬撲滅を願っている人物で、ワイロのようなものも要求せずに公園に照明をつけてほしいと望む、敏腕ながらも清い人で、演じたトロがすごくいい。
ロバート麻薬撲滅担当補佐官に拘わるエピソードは辛い話だ。
補佐官として絶大な権限を持ち、大統領とも面会できる立場で任務遂行に情熱を持っているが、娘が薬物中毒に陥っているという彼の立場上あってはならないことに直面し、ロバートはその事実を隠蔽せざるを得ない。
成績優秀な娘の反抗、娘の管理を押し付けられている妻の反感を知りながらも、ロバートが仕事に埋没し続けることで生まれる夫婦間の溝などが浮かび上がってくる。
権力者や名士の子供が非行に走っているのは、報道される事件の背景として時々見受けられるものであるが、ロバートの家庭に起きていることも有り得ることだと思うし、薬物の根はそれほど深いということだと思う。
ゴードンが捕らえた麻薬密売人ルイスを法廷証人として保護するシーンもスリルがあるし、捕まった密売人のカールを救おうとする妻のへレーナの苦悩とその後に取る行動も緊迫感がある。
摘発した組織が壊滅しても新たな組織が麻薬を取り扱うであろうことが推測されて暗い気持ちになるが、救われるのはありきたりとは言えロバートの家族が再生されそうなこと、そしてなによりも照明が施された夜間の公園で野球に興じる子供たちを眺めるロドリゲスの温かいまなざしである。
ソダバーグはこの頃冴えていた。

とらばいゆ

2021-07-28 07:42:05 | 映画
「とらばいゆ」 2001年 日本


監督 大谷健太郎
出演 瀬戸朝香 塚本晋也 市川実日子
   村上淳 鈴木一真 徳井優 辻香緒里
   あだち理絵子 山口美也子 大杉漣

ストーリー
本城麻美(瀬戸朝香)は女流棋士で、現在名人戦のB級リーグに属している。
麻美の妹、里奈(市川実日子)も同リーグに所属する女流棋士である。
麻美は、エリートサラリーマンの一哉(塚本晋也)と最近入籍した。
一哉は「恋愛よりも将棋が大切」という麻美を説得して、3年間の試験的な同棲の後、結婚したのだ。
しかし麻美は最近スランプで、「一哉と入籍してから、ほとんど勝ってない」と言ってしまい、口論が始まる。
ある冬の日、二人のマンションに里奈が、新しい彼氏の弘樹(村上淳)を連れて遊びに来た。
弘樹は売れないミュージシャンで、里奈の部屋に居候しており、家事をすべてこなしているらしい。
かたやエリート・サラリーマンで妻の仕事に理解のある夫、かたや家事万能の恋人。
麻美と里奈はお互いの相手を羨ましがる。
次の休日、麻美は一哉に嘘をついて、棋士仲間のアイ(辻香緒里)と競馬に出かけた。
競馬場で麻美は、元カレと一緒にいる里奈の姿を見つける。
麻美がマンションにもどると里奈が来ていて、弘樹と喧嘩したので、今日は麻美と一緒だったと口裏を合わせてほしいと頼んだところ、思わず麻美は「嘘つき。 元カレと一緒だったじゃない!」と言い放ち、今度は麻美が嘘をついていたことがばれ、逆に麻美が一哉から責められるはめに。
女流名人戦の対局は続き、今日の麻美の相手は女子中学生だったが完敗してしまう。
ついに麻美は「C級クラスに落ちたら離婚するから!」と言い放つ。
そして、麻美がBリーグ残留を賭けた対局の日、相手は奇しくも里奈であった。


寸評
男性棋士に対して実力も賞金的にも厳しいのが女流棋士の世界の様で、作中でも厳しい状況が語られている。
女流棋士の厳しい世界としてより、僕には共働き家庭を維持していく大変さを感じさせた作品だった。
掃除、洗濯、炊事と家事の多くを女性に任せる構図は想像できる。
女性からすれば同じように働いているのだから、家事も協力してもらわねばの気持ちが湧くであろうことも想像できるのである。
職場にトラブルやストレスはつきもので、それをお互いに家庭に持ち込まないことは出来そうで出来ないことなのかもしれない。

麻美と里奈の姉妹はどちらもB級に属する女性の棋士で、麻美は同棲にケリをつけ入籍したばかりに対し里奈は目下同棲中である。
この姉妹が兎に角負けず嫌いの意地っ張りで、男目線からは非常に我儘な女性である。
麻美は最近負けが込んでいてB級陥落が目前なのだが、その原因は結婚したことにあるとダンナを責める。
家事を押し付ける夫の勝手も描かれてはいるが、麻美から受ける印象は自分勝手な理屈で夫に食って掛かる嫌な女で、これが瀬戸朝香でなければ殴りたくなってくる身勝手さを感じる。
彼女は負けて帰ってくると不機嫌で、職場の嫌な雰囲気を家庭に持ち込んでいるような感じである。
もちろんその日の夜の食事を作るような雰囲気ではなく、夫は「君が負ければ俺の食事はないのか」と怒るが、妻は「私の気持ちを理解しないで食べる事ばかり気にしている」と反論する。
対局の日に夫が妻の好きな弁当を買って帰ると、「無神経だ。私が負けてまた食事を作らないと思っていたんでしょ!」と弁当を床に投げつける始末である。
それでも夫はひどいことをするなというだけで極めて冷静だ。
この包容力のある夫を塚本晋也が演じていて、監督としての実力もさりながら、どうしてどうして俳優としても中々の味を出している。
麻美は何かといえば実家によりついているが、芳江ちゃんと呼んでいる姉妹の母親である山口美也子は悪いのは麻美だと思っていて、彼女を諭すのだが麻美は聞く耳を持たない。
麻美と一哉夫婦が楽しくしている場面は全く出てこなくて、いつも気まずい雰囲気が流れているのだが、それがこの映画の中心でもあり、二人の会話が可笑しく瀬戸朝香のタンカにはそれは理不尽な言い分だと思っていてもスカッとさせるものがある。
いつもふてくされていて笑顔を見せない麻美の姿は、ラストの将棋で見せる笑顔のためのものだったのだろう。

瀬戸朝香の麻美よりも女の勝手さを出しているのが里奈の市川実日子である。
家事一切を同棲中の弘樹に任せていて、麻美以上に家庭的でない。
この様な役しかできない市川実日子だが、このような役をやると輝きを見せる女優である。
勝気な女二人と、優しい男二人の交流が何ともおかしい。

対局シーンもあるが、勝負の緊迫感はない。
ハッピーエンドはいいけれど、ちょっと甘ったるさを感じてしまった。

トラ・トラ・トラ!

2021-07-27 07:39:37 | 映画
「トラ・トラ・トラ!」 1970年 アメリカ / 日本


監督 リチャード・フライシャー 
   舛田利雄 深作欣二
出演 マーティン・バルサム 山村聡
   ジェイソン・ロバーズ
   ジョセフ・コットン
   三橋達也 東野英治朗 田村高廣
   ジェームズ・ホイットモア
   E・G・マーシャル

ストーリー
1939年9月1日、山本五十六中将の連合艦隊司令長官の就任式が、瀬戸内海に停泊中の「長門」艦上でおこなわれたが、それから1週間とたたないうちに、時の首相近衛公爵が閣議を開き、アメリカの日本に対する経済封鎖を討議したところ陸相東条英機はアメリカへの攻撃を進言。
41年1月24日、ワシントンの海軍情報部は日本の暗号無電を解読し、事態の容易ならないことを察知した。
そして、ルーズベルト大統領は新たにキンメル提督を太平洋艦隊司令長官に任命し、日本の動勢に備えた。
そのころ真珠湾では、航空隊のベリンジャー中将が、キンメルに日本の真珠湾攻撃の可能性を説いていた。
41年4月24日、野村駐米大使はハル国務長官と、緊迫した両国の関係を打開しようとしたが、ハルゼイ中将等、海軍側の強硬意見にあい、実を結ばなかった。
41年10月、東条英機が陸相兼首相となり、軍部の権力は頂点に達した。
一方、アメリカ側の情報部は、真珠湾攻撃の決行日を想定し、スチムソン陸軍長官は大統領にそれを伝えることを約し、またマーシャル大将もハワイのショート将軍やキンメル提督に警告を発していた。
12月2日、ハワイへ向け進航中の、南雲司令官の第一航空艦隊は、山本長官から「ニイタカヤマノボレ」という暗号を電受し、いよいよ真珠湾攻撃の時が来た。
12月8日未明、遂に南雲中将の率いる機動部隊は、オアフ島北方から真珠湾に迫り、午前7時57分、淵田少佐を先頭とする戦隊が、空から敵地へ突っこんで行った。
真珠湾攻撃は見事な成功をおさめ、「赤城」からは、作戦成功を伝える暗号が打電されていた。
「トラ・トラ・トラ!」


寸評
日本軍による真珠湾攻撃の全容を、日米合作で映画化した大作だ。
当初、日本側監督には黒澤明が予定されていたが途中降板した。
どうやら黒澤は山本五十六を描きたかったらしい。
幻の“フライシャー=黒澤”作品に思いを馳せたくなる。

全体を通して真珠湾攻撃にいたる日米両国の動きとその立場を公平に描こうという意識は感じられる。
真珠湾奇襲を防ぐことができなかった原因をワシントンの政府上層部の責任として描いていて、大統領をも情報共有から除外したワシントンの隠蔽体質を描いている。
開戦前の米国側の危機管理の甘さも強調されている。
米国側のこのような描かれ方が、日本人からすれば公平だと映るのかもしれない。

ただし全体的な緊迫感には欠けるきらいが有り、長尺である割にアクションシーンが最後だけであるため退屈でもある。
善悪が単純に描かれていて、山本五十六の善に対して、東条英機は悪であり、源田実は優秀で、南雲忠一はダメと言った具合。
ちょっと単純すぎないか?
日米双方を断片的に描くので前半は間延びしている印象を受けるが、後半の戦闘シーンになるとテンションは一気に上がる。
巨費を投じて再現した真珠湾攻撃の模様は、まさにハリウッドの力を見せつけ圧巻。
実際に多くの偽装ゼロ戦を編隊飛行させ、低空から雷撃させることで、標的になった側からゼロ戦がどのように見えていたのかが分かるアングルがこの上なくリアルだ。
離陸途中に撃墜される戦闘機を始め、多くの航空機を爆発・炎上させていて、その業火から逃げる米兵役者の恐れもリアルに伝わって来る。
開戦当時は世界一と言われていた日本の海軍航空隊の操縦技術の高さを、合作とは言えアメリカ側が自国パイロットを使って再現したことは驚きで、今だとCG処理ですませるところだ。
攻撃機が未明に空母から飛び立っていくシーンは絵画的でたまらなく美しい。
朝焼けの中をシルエット敵の飛び立つ戦闘機が次々映し出され、やがて徐々に白んできた中を飛び立つ爆撃機が描かれる。
時間経過もあらわし、この映画一番のシーンに感じた。

渥美清と松山英太郎演じる炊事兵のやりとりは「男はつらいよ」シリーズにおける寅さんを髣髴させる作品中唯一の滑稽シーンで記憶に残る。
オープニング・タイトルの映像も美しく、観客を一気に作品に引きこむ役割を十分にこなしていた。
ラストは最後通牒の遅れによりアメリカ国民を怒らせてしまったとの述懐で終わるが、戦争責任は誰にあったのかは不明のままである。
でもまあ告発映画ではないのだし、真珠湾爆撃シーンとしては一番の地位を有する作品だとは思う。

ドライヴ

2021-07-26 07:10:20 | 映画
「ドライヴ」 2011年 アメリカ


監督 ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 ライアン・ゴズリング
   キャリー・マリガン
   ブライアン・クランストン
   クリスティナ・ヘンドリックス
   ロン・パールマン
   オスカー・アイザック

ストーリー
天才的なドライビングテクニックを持つ寡黙な“ドライバー”(ライアン・ゴズリング)は、昼は映画のカースタントマン、夜は強盗の逃走を請け負う運転手というふたつの顔を持っていた。
家族も友人もいない孤独なドライバーは、ある晩、同じアパートに暮らすアイリーン(キャリー・マリガン)と偶然エレベーターで乗り合わせ、一目で恋に落ちる。
不器用ながらも次第に距離を縮めていくふたりだったが、ある日、アイリーンの夫スタンダード(オスカー・アイザック)が服役を終え戻ってくる。
その後、本心から更生を誓う夫を見たアイリーンは、ドライバーに心を残しながらも家族を守る選択をするのだった。
しかし、服役中の用心棒代として多額の借金を負ったスタンダードは、妻子の命を盾に強盗を強要されていた。
そんな中、絶体絶命のスタンダードに助けを求められたドライバーは、無償で彼のアシストを引き受ける。
計画当日、質屋から首尾よく金を奪還したスタンダードだったが、逃走寸前で撃ち殺され、ドライバーも九死に一生を得る。
何者かによって自分たちが嵌められたことを知ったドライバーは、手元に残された100万ドルを手に黒幕解明に動き出す。
だが、ドライバーを消し去ろうとする魔の手は、すでに彼の周囲の人間にも伸びていた……。


寸評
アメリカ映画の犯罪映画といえば、どうしても派手なアクション映画になりがちだが、この映画はフレンチノワールかと思わせる、クールでスタイリッシュな作品となっている。
映画のオープニングはいきなりの強盗シーンなのだが、犯行そのものは映さず犯人たちの逃走をサポートする主人公に焦点を当てて彼の姿を抑制的に描写する。
彼は「5分間はどんなことがあっても待つが、それ以上は待たない]と伝えている。
オープニングでのやりとりや、事件後の逃走劇でスゴ腕であることが分かるが、同時に超がつくプロというわけでもなく、どこか庶民的なものを持った主人公だ。
カーチェイスなどもあるけれど派手さはないので、よくあるギャング映画と一線を画していた。
さらに、主人公の背景などの説明は一切なく、彼のセリフを必要最小限に止め、当初は表情もあまり変化しない主人公を見せることでこの映画の雰囲気を決定づけていた。
爪楊枝をくわえた寡黙な主人公は時代劇の木枯し紋次郎のようでもある。
ボーン・シリーズやミッション・インポシブルシリーズもいいけれど、僕はどちらかというとこの様な雰囲気の映画の方が好きだ。

修理工でもある主人公がアイリーンの車の故障で親しくなるプロセスも、余計な会話を省きながら進展させている。車をぶっ飛ばして小川で初めてデートした時は、眠った子供をベッドに運び込むまで会話はない。
親しくなっていく自然な流れに青春映画の雰囲気があり思わずニッコリと微笑んでしまう。
そういう前提があるので、追い詰められた物静かな男が豹変する場面はドキリとする。
質屋強盗をやった後で首謀者達に襲われた場面は初めてのバイオレンスシーンで、それまでの静けさが一変する。そして、愛する女性を守る為とは言え、"容疑者X"の如き献身的な愛を捧げる男が彼女の前で見せる凶暴さに、アイリーンが愕然とするシーンが秀逸だった。
青春映画の様なアイリーンとのデートシーンなどによる純愛路線から一挙にサスペンスに持ち込む区切りとしていて、出会ったのもエレベーターなら別れもエレベーターと設定を作り出していたと思う。
最後の相手を殺すシーンはそれまでの派手なシーンとは違って、コンクリートに写る影でもって描いていて、直接の殺人シーンはない。静かに物事が終わったと言っているようだ。

奪った金の処理は良かったと思うのだが、敵対する相手がとてつもない巨大な組織と思えず、主犯をあっさりやっつけてしまえば終わりじゃないのかと感じたのは天の邪鬼なのだろうか?
悪人づらはしているのだが、ドライバーが立ち向かって行っても、とてもかなわない相手には見えなかった。
その辺がこの作品のもうちょっとという部分かな?

寡黙なドライバーを演じた主人公のライアン・ゴズリングもよかったが、人妻役のキャリー・マリガンの哀愁を感じさせる演技が作品を引き立てていたと思う。
ショッキングピンクのクレジットタイトルと、語学に堪能でない私は歌詞の内容はわからなかったけれど、聞こえてくる歌声は良かった。

ドライビング Miss デイジー

2021-07-25 07:37:51 | 映画
「ドライビング Miss デイジー」 1989年 アメリカ


監督 ブルース・ベレスフォード
出演 ジェシカ・タンディ
   モーガン・フリーマン
   ダン・エイクロイド
   パティ・ルポーン
   エスター・ローレ
   ジョー・アン・ハヴリラ

ストーリー
1948年、夏。
長年勤めた教職を退いた未亡人のデイジー(ジェシカ・タンディ)は、ある日運転中に危うく事故を起こしかけ、母の身を案じた息子のブーリー(ダン・エイクロイド)は、彼女専用の運転手としてホーク(モーガン・フリーマン)という初老の黒人を雇う。
しかし典型的なユダヤ人で、元教師のデイジーには、専用運転手なんて金持ちぶっているようで気性が許さなかった。
どうしても嫌だと乗車拒否を続けるデイジーは、黙々と職務に励む飄々としたホークの姿に根負けし、悪態をつきながらも車に乗ることになる。
こうして始まったデイジーとホークの奇妙で不思議な関係は、1台の車の中で、やがて何物にも代えがたい友情の絆を生み出してゆく。
そして25年の歳月の流れの中で、初めてホークはニュージャージー州外を旅し、またデイジーはキング牧師の晩餐会に出席したりした。
いつしか頭がボケ始めたデイジーは施設で暮らすようになり、長年住み馴れた家も売ることになった。
しかしデイジーとホークの友情は、変わることなく続くのだった。


寸評
頑固で裕福なユダヤ系の老婦人と無学文盲ながら物静かな初老の黒人の物語ではあるが、背景には人種差別問題が横たわっている。
人種差別はアメリカ映画におけるひとつのテーマだが、この作品ではそれを声高に叫んでいるわけではない。
僕はアメリカにおける人種差別の実態を映画の中で描かれるものを通じてでしか知らないが、この作品の様に静かに描かれるとむしろ根深いものなのだと思えてくる。
劇中で老夫人のミス・デイジーが「私は人種差別主義者ではない」と言うにも関わらず、彼女は人種差別をしているという事実だ。
ミス・デイジーは教員だったこともあるインテリ層だし、キング牧師の集会にも出ている開明的な女性でありながら、潜在的な差別意識から抜け出せないでいる。
ミス・デイジーが聞きにいった集会で、黒人解放指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師が「黒人が困難な立場にいるのは、悪意の白人の為だけでなく、善意の白人の無関心と無視による」と語るのが流れてくる。
これは無意識のうちに差別と偏見を生じさせていることを語っていて、ミス・デイジーも例外ではない。
黒人のメイドが亡くなり、ミス・デイジーは広い屋敷でホークと二人きりになり、彼を頼りにするようになっているが、相変わらずミス・デイジーはダイニングで食事をし、ホークはキッチンで食事を取っているのである。
主人と使用人という一線も保持しているのかもしれない。
遠くにいる叔父さんの誕生日パーティに行く途中で、一人で車に取り残されたミス・デイジーは不安になりながらも女主人としての威厳を保つ態度を取るなど、彼女はどこまでも可愛げのない老婆なのである。

日本人の僕は人種差別をわずかに感じながら、頑固な婆さんと人の良さそうな黒人のやり取りを楽しめた。
兎に角、ホークに対してだけでなく、息子にも高圧的な態度を崩さない婆さんなのだが、この婆さん役のジェシカ・タンディが面白い存在で光っている。
彼女の存在がモーガン・フリーマンの黒人運転手ホークが女主人に対して意見する面白さを引き立てている。
息子は縫製工場を経営している裕福な家庭で母親思いであるが、息子の妻は義母を快く思っていないし、ミス・デイジーも表面上は普通に接しているが本音の所では軽蔑さえしてそうで、嫁と姑の問題も感じさせる。
息子の妻は時たましか登場しないが、間に立つ息子の苦労もやんわりと描かれている。
なにもかも声高に叫んでいないのがこの映画の特徴でもある。
キング牧師の集会に誘われた息子が会社の立場から参加を断る場面でも母親から妻に対する嫌味を言われているのだが、息子はそれに対して声を荒げるようなことはせず受け流している。

季節の移り変わりを描写しながら年数経過を示しているが、女主人のミス・デイジー、運転手のホーク、デイジーの息子ブーリーが年齢を重ねていくメイクも素晴らしいと感じさせるものがある。
ミス・デイジーは認知症がでてきて老人ホームに入るようになる。
ホームにいるミス・デイジーはすっかり歳をとっている。
息子を追いやりホークと二人だけでいたいデイジーと、かいがいしく食べ物を口に運んでやるホークの姿が万感胸に迫るものがあるラストシーンとなっている。

共喰い

2021-07-24 07:59:40 | 映画
「共喰い」 2013年 日本


監督 青山真治
出演 菅田将暉 木下美咲 篠原友希子
   岸部一徳 光石研 田中裕子
   穴倉暁子 淵上泰史

ストーリー
昭和63年の夏。遠馬(菅田将暉)は、17歳の男子高校生だ。
父の円(光石研)と父の愛人の琴子(篠原友希子)と三人で、川辺の一軒家に暮らしている。
円との性交のたびに殴られたり首を絞められたりするせいで、琴子の顔には痣ができる。
その現場を見ていた遠馬は、円の血をひく自分も恋人の千種(木下美咲)に同じことをするのではないかと恐れている。
母の仁子(田中裕子)は橋の反対側で魚屋を営んでいる。
戦争で空襲に遭って左手首を失った彼女は、特注の義手をつけて魚を下ろす。
円が夏祭りの準備のため外出していたある日、琴子は自分が円の子を妊娠していると遠馬に告げる。
不機嫌になった遠馬は神社で千種を押し倒し、嫌がる彼女の首を絞めてしまう。
それ以来、千種は遠馬と会おうとしなくなる。
琴子は、近いうちに家を出ていくつもりだと遠馬に伝えるが、円にはまだ言わないでほしいという。
遠馬は円が通っているアパートの女(宍倉暁子)と性交する。
夏祭り当日、家に帰ってきた円は、遠馬がアパートの女と性交するときに暴力をふるったことを喜んでいる。
遠馬は、家を出て行った琴子がもう戻ってこないことを円に教える。
雨の中、円は琴子を探しに行くが異変を感じた遠馬が神社へ向かうと、そこには、円に犯された千種が傷だらけで横たわっていた。
魚屋に現れた二人の話を聞いて、仁子は包丁を持って円を探しに行く。
遅れて駆けつけた遠馬の目の前で、仁子の義手に腹を刺された円が川に流されていく。


寸評
時代背景は昭和から平成に変わる頃なのだが、文藝春秋に記念掲載された原作を読んだ時の印象はもっと前の話の様な気がした。
その原因は原作から受けた僕の想像した川のイメージがもっと薄汚れた川で、その川辺の家並みはもとスラム化した、むしろ戦後間もない頃のそれを想像させたからだ。
しかし描かれている時代は前記のとおりで、それからすればなかなかいいロク地ではなかったかと思う。
エンドロールを見ると、どうやらそれは北九州のどこからしいが、もう下関辺りでは生活用水が流れ込み、自転車などの廃棄物が棄てられっぱなしという川は存在していないのかもしれない。
平成も23年目だものなあ・・・。
うなぎが釣れる川だから最低限あれくらいの川でないとなと思い、文字と映像から受ける印象の違いを感じていた。
川はやはりこの作品の大きなファクターだったと思う。
僕にとって作品の残像の多くは、描かれている季節が夏ということもあって度々映し出される汗のシーンだった。
それが濃密な人間模様をさらに深める役割を果たしていたように感じる。

僕は日活ロマンポルノのドンピシャ世代で、見ていて相米慎二や根岸吉太郎、もちろん神代辰巳などの作品を思い出していて、なんだか懐かしさも覚えた作品だった。
当時よりも表現の自由度は増していて、例えば光石研の性器などは絶対に写されはしなかった(あれ、本物じゃないですよね)。
写し出されたことによって、父親・円の性欲と異常性が間違いなく伝わって来て、やはり必要なシーンだったと思うと、当時の監督さん達は苦労したんだろうなと変な同情をしてしまった。

数少ない登場人物を演じた皆さんが熱演だったけれど、僕はその中でも仁子さん役の田中裕子さんが素晴らしかったと思う。
その仁子さんに原作にはない天皇問題を語らせているのに興味を持った。
あの人によって奪われた手首の為に苦労した仁子さんが、こんどはあの人による恩赦で減刑されることを暗示していたが、それはやがて仁子さんがもうすぐあの店に戻ってきますよとの暗示でもあったのか。
映画だと受け入れられるエピソードだが、これが小説中に加えられていたら切り込み不足と揶揄されたのではないかと思う。

個々を重視するあまりに失われつつある家族の絆とか土着性とかだが、血のつながりだけは怖い。
忌まわしい血の宿命に囚われた父と子のどうしようもない人間世界を描いていた。
最後のギター演奏は良かったなあ・・・。
あの親にしてこの子ありと言うが、子は親を選べない。
だから親は子を守る必要がある。
仁子さんは情状酌量されても良いし、琴子さんはシングルマザーになるのかもしれないが、生まれてくる子供をいい子供に育てて欲しいと思った。

止められるか、俺たちを

2021-07-23 07:44:05 | 映画
「止められるか、俺たちを」 2016年 日本


監督 白石和彌
出演 門脇麦 井浦新 山本浩司 岡部尚
   大西信満 タモト清嵐 毎熊克哉
   伊島空 藤原季節 満島真之介
   吉澤健 高岡蒼佑 高良健吾
   寺島しのぶ 奥田瑛二

ストーリー
1969年春。21歳の吉積めぐみ(門脇麦)は、新宿のフーテン仲間のオバケ(タモト清嵐)に誘われ、ピンク映画の旗手・若松孝二率いる“若松プロダクション”の扉を叩く。
当時、若者たちを熱狂させるピンク映画を作り出していた若松プロダクションは、監督の若松孝二(井浦新)を中心とした新進気鋭の異才たちの巣窟であった。
小難しい理屈を並べ立てる映画監督の足立正生(山本浩司)、冗談ばかり言いながらも全てをそつなくこなす助監督のガイラ(毎熊克哉)、飄々とした助監督で脚本家の沖島勲(岡部尚)、カメラマン志望の高間賢治(伊島空)、インテリ評論家気取りの助監督・荒井晴彦(藤原季節)など映画に魅せられた何者かの卵たちが次々と集まってきた。
撮影がある時もない時も事務所に集い、タバコを吸い、酒を飲み、ネタを探し、レコードを万引きし、街で女優をスカウトし、そして撮影がはじまれば、助監督は現場で走り、怒鳴られ、時には役者もやる。
そんななか、めぐみは男でも逃げ出すピンク映画の過酷な現場に圧倒されながらも、若松監督の存在感と、いくつもの才能が集う若松プロの熱気に魅了されていく。
だがある日、めぐみに助監督の全てを教えてくれたオバケが、エネルギーの貯金を使い果たしたと若松プロを去っていき、めぐみ自身も何を表現したいのか、何者になりたいのか、何も見つけられない自分への焦りと、全てから取り残されてしまうような言いようのない不安に駆られていく。
1971年5月。カンヌ国際映画祭に招待された若松と足立は、そのままレバノンへ渡ると日本赤軍の重信房子らに合流し、撮影を敢行。
帰国後、映画「PFLP世界戦争宣言」の上映運動の為、若松プロには政治活動に熱心な多くの若者たちが出入りするようになる。


寸評
若松孝二、足立正生、大和屋竺、荒井晴彦、大島渚、松田政男、赤塚不二夫・・・僕たちの世代で青春時代に映画にいそしんだ者にとっては懐かしい名前がずらりと並ぶ。
これは若松プロの1970年代当時の様子を描いた映画ではあるが、「これは自分の青春時代だ」と思える作品に仕上がっている。
ここで描かれた年代は僕の学生時代とドンピシャで重なっているのだ。
この作品は若松プロの映画であることは間違いないが、同時に普遍的な青春映画になっている。
僕は学生時代に映画研究部に属していていっぱしの映画青年を気取っていた。
映画も年間150本~200本ぐらい観ては仲間と議論し合っていた。
芸術を論じ、エロ話で盛り上がり、政治を語っては熱くなっていた時代だ。
若松プロの事務所は、まるでクラブの部室のようである。
授業が終わった者、講義をさぼった者などが三々五々に集まってくる。
雑多な会話が繰り広げられ、やがて学内から姿が消えていき夜の街へと繰出す。
酒が入れば議論が活発化して、勢いが止まらなくなった者たちは誰かの家に転がり込む。
母子家庭で、2階を自由に使えた僕の家はたまり場だった。
酒を買い込み二次会が始まるが議論は治まりを見せない。
映画の中でも彼らが酒場に集いワイワイとやっている。
大島渚がテレビで稼いだ金で飲もうと皆に奢り、彼の作品である「絞首刑」について論じている。
懐かしい雰囲気である。
飲み屋は酒飲みが集まる場所ではあるが、そこには飲み屋文化とでもいうべきサロンが存在している場所でもあると思うのだが、酒を飲まない人には分かってもらえないだろう。

若松孝二はピンク映画の旗手としてその手の作品におけるヒット作を量産していた。
世相とマッチして、反体制の視点から描く手法は当時の若者たちから圧倒的に支持されていた。
商業主義的作品で金を稼ぎ、自分の撮りたい作品を撮ると言っている。
壁の中の秘事(1965年)、胎児が密猟する時(1966年)、犯された白衣(1967年)、処女ゲバゲバ(1969年)、ゆけゆけ二度目の処女(1969年)などを通じて若松孝二の名前は知っていたが当時は未見であった。
赤軍-PFLP・世界戦争宣言(1971年)が話題になったので、若松は学生運動を支持する左翼作家だと思っていたが、当の若松が「学生運動を支持するために映画を作ったことはなかった」と後年に語っていることを知った。
主人公は若松プロに在籍していた吉積めぐみで、女性ながら助監督の激務をこなしている。
助監督は雑用係でもあり、撮影中は監督から怒鳴られっぱなしである。
終盤に向けて「映画か、政治か」とか、「暴力無しでやるか、やられるか」とかが語られる。
同時にそれは、めぐみが「産むか、堕ろすか」で悩む姿とダブってくる。
めぐみの死は自殺だったのか、事故だったのかの結論は出していない。
彼らの映画を撮りたいと言う情熱は、時として絶望を生み出すのかもしれないが、しかし若松はドライである。
ラストシーンで若松監督は事務所に1人で残り、足立が書いたATG用のシナリオを「やっぱり駄目でしたわ」とATGの葛井に電話を入れるシーンで映画が終わるので、若松はドライな現実主義者だったのだと思った次第。

飛べ!フェニックス

2021-07-22 07:54:02 | 映画
「飛べ!フェニックス」 1965年 アメリカ


監督 ロバート・アルドリッチ
出演 ジェームズ・スチュワート
   リチャード・アッテンボロー
   ハーディ・クリューガー
   アーネスト・ボーグナイン
   ピーター・フィンチ
   イアン・バネン

ストーリー
アラビア石油空輸会社所属の輸送兼旅客機が、サハラ砂漠にある採油地から基地へ帰る途中、砂あらしに遭遇し、砂漠の真只中に不時着した。
この事故で、2名の死者と1名の負傷者がでた。
操縦士のフランク(ジェームズ・スチュアート)は、事故の一切の責任をとる決心をして、航空士ルー(リチャード・アッテンボロー)と共に、なんとか、乗客を無事救出すべく策を練った。
この乗客の中には、イギリス陸軍大尉ハリス(ピーター・フィンチ)と部下のワトソン軍曹(ロナルド・フレイザー)がいたが、ワトソンは上官であるハリスに根深い反感を持っていた。
数日後、救援隊が来ないのにしびれを切らしたハリスは乗客の1人で、小猿をもっている男カルロス(アレックス・モントーヤ)や、採油夫長トラッカー(アーネスト・ボーグナイン)とともに、オアシスを探しにいった。
だが、トラッカーは、砂嵐にまきこまれたのか、数日後死体となって発見された。
一方、年若い飛行機デザイナーのハインリッヒ(ハーディー・クリューガー)は、人手と器材さえあれば、こわれた飛行機から、あたらしい小型の単発機を組立てることができると、フランクに説いた。
だが、ベテランのパイロットであるフランクには、この年若いデザイナーのことを信用することはできなかった。
しかし、医師のルノー(クリスチャン・マルカン)はハインリッヒ計画に賛成した。
そうしたある日、一行は、近くにアラビア人の1隊がキャンプをはっているのを発見し、ハリスとルノーが偵察に出発したが、期待も空しく、夜が明けると、アラビア人の1隊は姿を消し、キャンプのあとから、ハリスとルノーの死体が発見された。
最早、ハインリッヒが作る飛行機に一るの望みを託す以外になくなった。


寸評
14人の登場人物のバックグラウンドがキッチリと描かれていて手抜きを感じさせないので、流石にロバート・アルドリッチはこのような作品を撮らせると上手いと感じる。
キャスティングも的を得ていて、変に若い男や女性が登場しないのもいい。
決して若くはない男たちの風貌は彼らの人生を感じさせる。
ジェームス・スチュアートのパイロットと言えば「翼よ!あれが巴里の灯だ」を思い出すが、ここでの彼は欠点も持ち合わせていて決してスーパーヒーローというわけではない。
それがかえって人間臭さを感じさせていて人物に深みを持たせている。
彼は自分がミスして犠牲者を出したと思っているし、その事を悔やんでもいる。
そして自分が飛行機に関しては時代遅れな人間だと言うことも分かっているし、ハインリッヒを認める気持ちもあるのだが素直になれない。
そんな操縦士のフランクとハインリッヒの仲を取り持つのがリチャード・アッテンボローなのだが、色んなキャラクターの登場人物が登場する中で僕はアッテンボロータイプかなと自問したりする。
自分を誰かのキャラクターに照らし合わせたくなるような多彩な登場人物が楽しませてくれる。

人物の描き方で面白いのはロナルド・フレイザーが演じる軍曹の存在だ。
卑怯な人間は最後に勇気を見せたり、正義に目覚めたり、あるいは天罰を受ける羽目に落ちるのが常道だが、ここでの彼はそのどれでもない。
ロナルド・フレイザーは脇役ではあるが、演じた軍曹の心情が痛ましく思え、観客にいろんな見方をさせてくれるアルドリッチの視野の広さに感心する。
彼の上官がピーター・フィンチの大尉で、根っからの将校を感じさせる存在である。
大尉は決して悪人ではなく、純粋な軍人であり規律と命令で生きるタイプの人間なので、部下の軍曹は自分の命令に絶対従うものだと思っている。
その態度に軍曹は反旗を翻すのだが、それと呼応するかのように操縦士のフランクは航空士のルーに命令に従えと怒鳴りつけ、大尉と同じ態度をとる。
このあたりの対比の仕方もなかなか堂に入った職人芸を思わせる演出だ(原作にあるのか、脚色のルーカス・ヘラーが書き加えたのかは知らないのだが)。

最後にアッと思わせるのがハーディー・クリューガーのハインリッヒの勤務先が判明する場面である。
その後に続くリチャード・アッテンボローの語る言葉も気の利いたセリフで、クライマックスにつながるものとなっている。
飛行機の設計をするという役回りは、アメリカ人でもイギリス人でもなく、やはりドイツ人なんだと思わせる。
ハーディー・クリューガーはうってつけの人物で、貴重な水を盗み飲みしても悪びれることなく理路整然と主張するところなどはハインリッヒのプライドを感じる。
ドイツ人の彼がアメリカ人のジェームズ・スチュアートを小馬鹿にしている所などは愉快だ。
フェニックス号のプロペラが回った時は、彼らだけでなく観客である僕も思わず手を叩きたくなった。
男性向き映画ではあるが人間ドラマとして楽しめる作品となっている。

丼池

2021-07-21 07:07:54 | 映画
「丼池」 1963年 日本


監督 久松静児
出演 司葉子 三益愛子 佐田啓二
   新珠三千代 森光子 中村鴈治郎

ストーリー
大阪のド真ん中にある丼池は戦後丼池筋と呼ばれる約1500軒の繊維街になった。
室井商事の女社長カツミ(司葉子)はこの丼池の商店の裏をくぐって貸付をしている高利貸しの一人。
彼女はがめつさでは丼池筋の高利貸し中のNO・1平松子(三益愛子)から高金利で借りて融資している。
大学を出てこの道に入ったカツミは、世間から冷たいといわれるほど合理的な金融業に徹底している。
カツミとは幼馴染みで、かつて婚約者であった兼光定彦(佐田啓二)は、いまは繊維品の老舗“園忠”の使用人だが、定彦の心の中には未だカツミの面影が深く刻まれていた。
定彦の仲介で“園忠”の忠兵衛(二代目中村鴈治郎)に会ったカツミは700万円の融資を頼まれた。
自己資金では足らず、不足分を平に貸りに行ったカツミは、“園忠”なら貸すことをすすめられた。
すでに平も850万円を“園忠”に貸しており、彼女は腹心のカツミが出す700万円と自分のを合せた1550万円で“園忠”をのっとろうと目論んでいた。
“園忠”をねらっているのは、“たこ梅”という料亭を経営するウメ子(新珠三千代)や、さらに“園忠”の店員仁科(立原博)をおいろけ戦法で口説いて品物を横流しさせ、丼池の共同販売に小さな店を始めている金沢マサ(森光子)もいた。
カツミは平と手を切り自立するため素人相手に宝投資という資金集めの新手を考えた。
その頃、平は1550万円をたてに“園忠”の差押えに出たが、定彦に頼まれたカツミは自分の持っている債権で平の“園忠”に対する破産宣告申請を妨害した。
怒った松子は、宝投資が不渡りであるという噂を流布し、カツミは債権者に追われて苦しい立場にたった。
こうした中でウメ子は土建業の田中(山茶花究)と手を組み、忠兵衛に借用書を入れさせ、一時それで店を差押えたあと返すからと瞞して、忠兵衛から4200万円の借用書をとった・・・。


寸評
丼池とかいて”どぶいけ”と読み、繊維の街大阪の中心だった。
今では高速道路なども出来てかつての賑わいはなく丼池筋の地名を残すだけとなり、多くの商店は高速道路下のセンター街に移っている。
僕は繊維関係の会社に勤めていたので、この界隈にはよく出かけたものだった。
在職中にも変わりつつあった場所だが、丼池筋から心斎橋筋に至る通りは今やすっかり様変わりである。
映画に登場する丼池は最盛期の賑わいを見せている。
その中でうごめく人々、特に女性陣が大阪人の僕には魅力的に見える。
彼女たちが闊歩する丼池の雰囲気はセット撮影だろうがよく出ている。
作中で交わされるえげつない会話が僕には心地よいのだ。
高利貸しを営む”がめつい”女たちと、その高利貸しに群がる”がめつい”男や女たちを小気味よく描いている。
平のばあさんや、タコ梅のウメ子などには、職種は違うが東洋信用金庫を破たんさせた大阪市千日前にあった料亭「恵川」の元経営者の尾上縫を髣髴させるものがある。
新珠三千代のウメ子が経営する料亭の名前は「たこ梅」なのだが、「たこ梅」といえば大阪の老舗のおでん屋であり、僕がアルバイトしていた日本料亭の屋号も「多幸梅」だった。
どちらも作中の「たこ梅」とは関係なさそうである。

出てくる女たちは誰もかれもが強欲な女たちで眉をしかめたくなる人物なのだが、それでもなぜか憎めない。
僕も彼らと同じ大阪の人間だからなのだろうか、とても人間臭さを感じてしまって可愛くすらあるのだ。
女は高利貸しの三益愛子と司葉子、金策に大変な新珠三千代と森光子たちである。
三益愛子は金の亡者のような女であるが、同時に孫には目がないごく普通のおばあちゃんである。
司葉子は自分が味わった屈辱を晴らすために意地を張っている可哀そうな女だ。
彼女がやった宝投資は、今でもある投資詐欺と言われても仕方がないようなものだ。
もっともカツミは平から支援してもらった4000万円で完済しているから詐欺にはならないだろうが。
新珠三千代は後年に出現する尾上縫と言っても過言ではないような、男を手玉に取る女である。
森光子もそこいらに居る調子のいいバイタリティある女のような気もする。
中村鴈治郎や立原博の情けない男に比べれば、女たちは遥かに生命力が高い。
女性賛歌の映画とも見て取れる。

えげつない連中がいっぱい登場するが、カツミに店を差し押さえられた男と、浪花千栄子のおばさんを登場させてバランスを取っている。
二人は失敗をして転落した人物だが、人生はやり直しがきくという象徴的存在でもある。
男はカツミの意見に従って良かった、幸せにやっていると言ってカツミを励ます。
浪花千栄子は「そんとくをわきまえないといけない、とくと言っても二宮尊徳の徳でっせ」と言って去っていく。
定彦もカツミもやっと過去の呪縛から逃れて新たな一歩を踏み出すのだろう。
淀屋橋からだろうか、司葉子を見送る佐田啓二と大川を映し込んが景色が清々しかった。
あの頃の船場は活気があったのだが、繊維問屋の衰退がチラリと出ている。

扉をたたく人

2021-07-20 07:26:20 | 映画
「扉をたたく人」 2007年 アメリカ


監督 トム・マッカーシー
出演 リチャード・ジェンキンス
   ヒアム・アッバス
   ハーズ・スレイマン
   ダナイ・グリラ
   マリアン・セルデス
   マギー・ムーア

ストーリー
コネチカットの大学教授ウォルター・ヴェイルは62歳。
最愛の妻を亡くしてから、心を閉ざして孤独に、日々無気力に生きていた。
ある時、ウォルターは学会出席のためニューヨークを訪れ、留守にしていた別宅のアパートへ向かうが、玄関を開けると、そこには見ず知らずのカップルがいた。
ここに引っ越してきたばかりというシリア出身の移民青年タレクとセネガル出身の恋人ゼイナブは、タレクの知り合いに騙されてこの部屋に住んでいたのだ。
彼らは警察だけは呼ばないでくれと頼み込み、素直に荷物をまとめて出て行く。
2人とも永住許可証を持たないため、警察沙汰になって国外追放されることを恐れていた。
だが、その日の宿もない彼らを見かねたウォルターは、当面、部屋を貸すことを申し出る。
タレクはその親切に感激し、自分の持っていたアフリカの太鼓=ジャンベをウォルターに教える。
ジャンベを通じて友情を深めていくウォルターとタレク。
最初こそ躊躇いを見せたウォルターだったが、大勢の仲間に囲まれて演奏するうちに、久しく忘れていた高揚感が蘇ってきて、その表情には生きることに対する喜びが溢れていた。
しかし帰り道、地下鉄の駅で思いがけない事件が起こる。
タレクが無賃乗車の容疑で逮捕されてしまったのだ・・・。


寸評
ジャンベという楽器が効果的で、独特のリズムがウォルターの心の変化を象徴的に描き出している。
ウォルターがためらいながらも交流を深めていく姿が印象的に描かれる。
9.11同時テロ以降のアメリカは何かしらおかしくなってしまったのではないか?
移民国アメリカは移民に対して寛容であったはずなのに、いつのまにか移民を排除するようになってしまったのではないか?
アメリカは何だかボンヤリと焦点の合っていない写真のような国になってしまったのではないか?
そんな疑問を投げかけているような気がした。
タレクの母モーナが強制送還されたタレクのためにシリアに去る空港の場面で、アメリカ国旗が最初からピンボケ
で写されるシーンが挿入されていたので、なおさらそんな風に感じた。
タレクもゼイナブもモーナもいい人たちだ。
それが敵か味方かの区分けだけで排除されてしまう世の中の理不尽さが伝わってくる

最後は切ない。
ウォルターは怒ったようにウォルターが叩きたかった場所でジャンベを叩く。
いったい彼は何に怒っているのか?
ウォルターはタレクのおかげで再生できたが、そうしてくれたタレクは再生することはできずに追放されることへの苛立ち、無力な自分には何もできなかった悔しさをジャンベにぶつけているのだ。
いくら親身な援助と行動をとっても、国家という強大な力の前には無力であることへの苛立ち。
そんな感情の表現としての演奏シーンだったような気がして、切なくはあるがなかなか印象に残るシーンだった。
モーナの夫が政治犯として拘束されて死亡した為に、モーナとタレクはアメリカに逃れてきた。
彼らは政情不安なシリアに帰らざるを得なくなったが、その後のシリアはもっと悲惨な状況になった。
モーナとタレクの親子はシリアで出会うことができたのだろうか。
出会えたとしてもシリア内戦の中で無事に暮らせることができたのだろうか。

映画はアメリカの移民政策を非難しているだけではない。
ウォルターの味気ない生活からの脱却も同時に描かれている。
ウォルターは大学教授のようだが講義は一コマしか受け持っておらず、講義も毎年同じ内容を繰り返しているだけで、共著となっている論文も名前を貸しているだけで、彼の活躍の場所はない。
彼が必要とされるのは、共著となっている相手の女性が出産の為に講演できない時の代役としてだけである。
亡き妻が得意だったピアノを習ってみようと思うが、才能がなくプライドの高い彼は先生を何度も代えている。
晩年の社会から見放されたような生活は、その人の人間性をなくしてしまう。
人には生きる目的、生き甲斐などが必要なのだ。
タレクの身を案じてニューヨークにやってきた彼の母親モーナとウォルターの出会いも描かれ、見方によっては都合のいいロマンスの挿入とも言えるが、それを感じさせないヒアム・アッバスの演技だった。
この人、「シリアの花嫁」でもいい演技をしていた。
中東の女性を演じる女優さんといえば彼女ということになるのかも。

トニー滝谷

2021-07-19 07:43:08 | 映画
「トニー滝谷」 2004年 日本


監督 市川準
出演 イッセー尾形 宮沢りえ 篠原孝文
   四方堂亘 谷田川さほ 小山田サユリ
   山本浩司 塩谷恵子 猫田直 木野花

ストーリー
トニー滝谷の名前は、本当にトニー滝谷だった。
太平洋戦争の始まる少し前、トニーの父親、滝谷省三郎はちょっとした面倒を起こして、中国に渡った。
日中戦争から真珠湾攻撃、そして原爆投下へと至る激動の時代を、彼は上海のナイトクラブで、気楽にトロンボーンを吹いて過ごした。
彼がげっそりと痩せこけて帰国したのは、昭和21年の春だった。
父が結婚したその翌年にトニーが生まれ、そしてトニーが生まれた三日後に母親は死んだ。
あっという間に彼女は死んで、あっという間に焼かれてしまった。
孤独な幼少期をおくり、やがて美大で地に足の着かない“芸術”を学ぶトニー。
目の前にある物体を一寸の狂いもなく、細部に至るまで正確に写生する彼の絵はどこまでも無機的だった。
ずっと孤独に生きてきたトニーは、孤独を苦にしなかった。
数年後、デザイン会社へ就職し、独立後にイラストレーターとして自宅のアトリエで仕事をするようになった。
トニーは出入りする出版社の編集部員のひとりの女性小沼英子に恋をする。
結婚、幸せな生活、しかし蜜月はあまりに短かった。
妻と死別したトニーは、孤独に耐えかね、容姿、体型とも妻にそっくりな久子を、アシスタントに雇うことにした。
妻が遺した大量の高価な服を、彼女に制服として着て貰い、少しずつ妻の死に慣れようと思ったのだ。
ところが、その服を見た彼女は理由もなく涙を流した。
結局、トニーは彼女を雇うことをせず、そうして1年の歳月が流れた。
全てを忘れた今でも、トニーは時々衣裳部屋で泣いた久子を想い出すことがある。
悩んだ末、彼は彼女に電話をかけてみるのだが…。


寸評
トニー滝谷が、妻と父という愛する二人をなくして、その孤独感を味わうように横たわるシーンは、父が中国の収容所で孤独に耐えながら横たわるシーンとオーバーラップされていて、孤独感を強調すると共に、父と子の精神的な繋がりの希薄さも表現していたと思う。
英子に恋したトニーは「なんというか、服を着るために生まれてきたような人なんだ」と父に言うと、父からは「それはいい」という返事が返ってきたが、それ以上の深まりを感じなかった孤独な親子なのだ。

トニー滝谷の妻となった英子は確かにこと洋服に関しては浪費癖があるけれど、それは唯一彼女の趣味であり贅沢であった筈だ。
それを取り上げようとした時に彼女が死んでしまうのは、単に英子の肉体だけが消滅しただけの話ではなかったような気がする。
自分にとっては価値を持たないものでも、それに価値観を見出している人からすれば、自らの一部をとりあげられることはその人自身の存在をも否定された気持ちになるのではないか。
しかし残されたものは色褪せ、朽ちていき、やがて忘れさられていく。
英子の残した膨大な衣服と靴などもそのような運命をたどる。
僕は映画のチラシを趣味で集めているけれど、家族のものにとっては単なる紙くず同然の代物のはずだ。
だけど、僕が死んだらそれらを眺めて、こんな映画が好きだったんだと思い出してもらいたい思いがあって、いまはタイトル順にファイルに整理し、その内の一冊はセレクションしたものをファイリングして、「お気に入り映画」と題して残しておこうと思っていたのだが、無意味な思いかもしれない。

物陰越しのカメラがパンして次のシーンに移って行ったり、同じく物陰越しにフレームアウトしてフレームインしてくる流れるようなシーンの切り替えの連続や、物語の進行のほとんどを西島秀俊のナレーションで行っていながら、時折そのナレーションを引き継ぐようにして挿入される登場人物によるセリフがある。
ナレーションは小説を朗読しているように感じるし、引き継いだセリフも朗読的であったりする。
あるいは、次々に足もとのスカートと靴だけを映して洋服を買いあさる英子の様子を連想させるカメラワークなど、ポップアート的な感覚もあって「面白い映画を作るなあ~」と感心した。
全体的に想像力をかき立てるような演出で、ラストシーンまでもがその様な演出になっていた。
そのような映画作りってどんな時に発想するのかなあ。
映画監督って、「やっぱ、スゴイ!」と思う。

滝谷省三郎とトニー滝谷、英子とひさこをそれぞれ、イッセー尾形と宮沢りえの二役で処理しているのは、明らかに意図されたキャスティングだった。
二人によって演じられた4人の人物は孤独な人たちだったと感じる。
見終わって時間が経つほど色んなシーンが思い出の様に湧き出てくる不思議な映画だった。
ラストシーンには、何だかほっとしたような、救われたような、希望が持てたような、ほのぼのとした気分になれた。
トニーはもしかすると孤独の世界から抜け出すことが出来るかもしれないという期待だ。
しかしそれを確約していない所が余韻を残して、またまた考えさせるのだ。

となりのトトロ

2021-07-18 08:28:45 | 映画
「となりのトトロ」 1988年 日本


監 督  宮崎駿
声の出演 日高のり子 坂本千夏 糸井重里
     島本須美 北林谷栄 高木均
     丸山裕子 鷲尾真知子 鈴木れい子
     広瀬正志 雨笠利幸 千葉繁

ストーリー
小学3年生のサツキと5歳になるメイは、お父さんと一緒に都会から田舎の一軒屋に引っ越してきた。
それは退院が近い入院中のお母さんを、空気のきれいな家で迎えるためだった。
近くの農家の少年カンタに「オバケ屋敷!」と脅かされたが、事実、その家で最初に二人を迎えたのは、“ススワタリ"というオバケだった。
ある日、メイは庭で2匹の不思議な生き物に出会った。
それはトトロというオバケで、メイが後をつけると森の奥では、さらに大きなトトロが眠っていた。
一家が新しい家に馴染んだころ、サツキもトトロに遭遇した。
雨の日の夕方、サツキが傘を持ってバス亭までお父さんを迎えに行くと、いつの間にか隣でトトロもバスを待っていた。
しばらくするとオバケたちを乗せて飛び回る猫バスがやって来て、トトロはそれに乗って去って行った。
お母さんの退院が少し延びて、お父さんが仕事、サツキが学校に出かけた日、メイは淋しくなって一人で山の向こうの病院を訪ねようとするが、途中で道に迷ってしまった。
サツキは村の人たちとメイを探すが見つからないので、お父さんに病院に行ってもらい、トトロにも助けを求めた。
トトロはすぐに猫バスを呼び、不思議な力でたちどころにメイのいる場所へ連れていってくれた。
そして、さらに猫バスは二人を、山の向こうの病院までひとっ飛びで運んでくれた。
窓から病室をのぞくと明るく笑うお父さんとお母さんの顔があった。
二人はお土産のとうもろこしを窓際に置き、一足先に家に帰るのだった


寸評
僕は好んでアニメを見る方ではないが、日本の50年~60年代の農村を舞台としたファンタジ-に挑戦したこの作品は好きな部類に入る。。
戦後の民話ともいうべき、郷愁に満ちた世界を作り上げたアニメ映画の傑作だと思う。
リアルな動きを追求するアメリカ・アニメより紙芝居的な日本アニメの方が僕は好きだ。
特にこの作品では、それがかえってほのぼのとした雰囲気を出していると思う。
「白蛇伝」や「鉄腕アトム」「長靴をはいた猫」など、傑作アニメもたくさん見てきたと思うのだが、この「となりのトトロ」が作中で描く様子は僕の子供時代を髣髴させ、懐かしくさえある。

僕が育った村は描かれたような山村ではなかったが、それでも農村風景には記憶がよみがえってくる。
どこにあるのか分からないような2階への階段もあったが、アニメと違って2階は物置のようなものだった。
五右衛門風呂があって薪で焚いていたし井戸もあった。
井戸からくみ上げた水は冷たく、トマトやスイカを冷やしていた。
畑になっていたトマトはおやつ代わりだったのだ。
描かれていたように、トウモロコシもあって、もいで来ては焼いて食べていた。
新鮮野菜はいつも手短にあって、子供には共有財産のようなもので、いつでも食べることができた。
オタマジャクシはいやと言うほどいて、その結果としてカエルはそこらじゅうで鳴いていた。
少し登場するカタツムリもたくさんいたし、夏になればホタルだって飛び交っていた。
蚊帳を張ってその中で放って電気を消すと、ホタルはお尻を光らせながら飛びかった。
サツキとメイが張ってふざけまわる蚊帳がなつかしい。
カンタが大人の自転車を三角乗りでやってくる。
あの曲芸的な乗り方を、あの頃の子供たちは皆平気でやっていたのだ。
僕の家のトイレは家の外にあって、手洗い用の鉢が大理石の上に置かれていた。
夜中に起きてトイレに行くと、その大理石のところどころが月明かりで光る。
子供には何とも恐ろしい光景で、あの子たちがやったように恐怖を払拭するための声を上げながらトイレに向かったものだった。
懐かしい。

妖精「トトロ」の愛らしさがよくて、子供達とトトロが出会うシーンの、ほのぼのとしたユーモアに心がなごむ。
キャラクターとしては、古い家に巣食うススワタリの「マックロ・クロスケ」が好きだな。
糸井さんの優しそうな語り口がこの映画にピッタリだと思う。
なんて事のないアニメなのだが、僕にとっては”懐かしさ”・・・それだけで見てしまう作品である。

宮崎アニメとしては「風の谷のナウシカ」もいいと思う。
でも、「もののけ姫」になると、なんだか宮崎さんは偉くなってしまった気がして、ちょっと引いてしまうのだ。
「ポケモン」や「鬼滅の刃」も海外でヒットしたようだし、ガンバレ、日本アニメ!

ドッペルゲンガー

2021-07-17 08:27:36 | 映画
「ドッペルゲンガー」 2002年 日本


監督 黒沢清
出演 役所広司 永作博美 柄本明
   ユースケ・サンタマリア
   ダンカン 戸田昌宏 佐藤仁美
   鈴木英介

ストーリー
早崎道夫は、医療機器メーカー、メディカル・サイテック社のエリート研究者。
彼は10年前に開発した血圧計が大ヒットしたことで、次の開発へ向けて周囲から期待を寄せられている。
だが、今では助手と共に人工人体の開発を続けるもはかどらず、上司からもたびたび進捗状況を問われ、ストレスを募らせていた。
そんなある日、彼は助手の高野から友人・由佳の弟が、自らの分身を目にして自殺したという奇妙な話を聞く。
間もなく、スランプ状態に陥る早崎の前に、彼とそっくりの外見を持つ分身=ドッペルゲンガーが現れる。
内向的で真面目な早崎とは対照的に、社交的で欲望に忠実な分身は自由気ままに振る舞いながらも、やがて早崎の研究を成功させようと協力を始める。
解雇された会社から人工人体を盗み出し、君島と言う助手を雇い、しかも泥棒を働いて研究費やライバル企業の資料までゲットして来てくれた。
その甲斐あって、遂に人工人体は完成したが、分身の存在が疎ましくなった早崎は彼を殺害。
遺体を処分すると、君島と、同じく自殺した弟の分身に悩まされていた由佳と共に、人工人体を売るべく新潟にあるメディコン産業へ車を走らせた。
その途中で、かつての同僚・村上が人工人体を売れと言ってきたり、君島と仲間割れしたりしたが、それでもなんとかメディコン産業に到着した。
ところが、早崎は全てがどうでもよくなり、新たな人生を歩き出そうと、人工人体を売らずに放してやった。
すると、それはまるで意志を持ったかのように動き出し、崖の上から海へ飛び下りて行くのだった。


寸評
冒頭で由佳(永作博美)の弟(鈴木英介)が自殺したという報告が入り、その分身が部屋に居つくあたりは、薄気味悪いホラーのような雰囲気が漂うのだが、映画はそのあとはホラーとはまったく違う雰囲気になっていく。
コミカルで笑えるところが結構あるが、これをコメディと呼ぶには抵抗がある内容だ。
ドッペルゲンガーは分身で、自分に内在している別な欲望を持つ人格ともとれるからである。

早崎(役所広司)の分身ときたらとんでもないワルで、人殺しも平気でするし、女性にも目がない。
助手の高野(佐藤仁美)を早崎の目の前で誘惑している。
分身がお前の思っていることをやったと言うと、早崎がなんてことをしたんだという雰囲気になるのが可笑しい。
また分身は由佳を無理やり誘惑しようとする。
権力、金、女などに執着するドッペルゲンガーは、善人の早崎本人がもともと持っていた姿だとも考えられる。
そんな分身に手を焼く早崎の姿が全くもって可笑しいので、これはコメディなのだという気がしてくるのだが、それでも大笑いが起きる内容ではないので純粋なコメディではないと感じる変な作品だ。
そもそもドッペルゲンガーが現れるという設定そのものが変なのだ。
ところがこの映画、その設定に違和感を感じさせない雰囲気を持っているから面白い。

早崎とドッペルゲンガーのやり取りを、時に顔を見せない代役を立てたり、合成を使ったり、マルチスクリーンの様な画面分割を使ったりしながら、面白おかしく描いていく。
二人のキャラクターを演じ分ける役所はやはり上手い。
作品は一人の人間の人格の分裂と統合の物語だと見ることもできるのだが、黒沢監督はそういうテーマを徹底的に突きつめたりはしていない。
明快な結論を見せたりはせず、あいまいな点をわざと残し、観客の自由な判断に任せているように見える。

後半になると次々と人が殺されていく展開になる。
それまでとはずいぶんと違った雰囲気だ。
早崎の同僚であり上司であった村上(柄本明)の再登場の仕方や、自分に正直に生きようとした矢先の出来事などは、何のためのエピソードだったのかと思わせる。
それでいて、何か意図あるエピソードだったのだろうとも思わせる内容なのだ。
由佳が早崎のもとで働くことになるが、その行動の裏にあるのが早崎に対する愛とは思えない。
映画初出演の永作博美が、由佳の行動の裏にある心理は?と思わせる不思議な魅力を振りまいている。

早崎はよほど世間と離れた存在だったのだろうか?
ドッペルゲンガーが出現しているにもかかわらず、彼の周りでは騒ぎが全く起きていないのである。
しかし、そんな細かいことを気に掛けていたのではこの映画を楽しめない。
ラストにおける人工人体の結末と、早崎と由佳の様子は人生の出直しのようにも見える。
しかし、ドッペルゲンガーを見ると死ぬということはどうなったのだ?
結末は僕の予想とは違ったなあ・・・。