おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

淵に立つ

2018-05-29 16:57:32 | 映画
深田晃司の「海を駆ける」が公開されている。見に行くつもりが時間が取れず、過去の作品を家で再見。

「淵に立つ」 2016年 日本


監督 深田晃司
出演 浅野忠信 筒井真理子 太賀
   三浦貴大 篠川桃音 真広佳奈
   古舘寛治

ストーリー
郊外で小さな金属加工工場を営む鈴岡家は、夫・利雄(古舘寛治)、妻・章江(筒井真理子)、10歳の娘・蛍(篠川桃音)の三人家族。。
夫婦の間に業務連絡以外の会話はほとんどないものの、平穏な毎日を送るごく平凡な家族だ。
そんな彼らの前にある日、利雄の旧い知人で、最近まで服役していた八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。
利雄は章江に断りなくその場で八坂を雇い入れ、自宅の空き部屋に住まわせてしまう。。
章江は突然の出来事に戸惑うが、敬虔なクリスチャンである章江の教会活動に参加し、蛍のオルガン練習にも喜んで付き合う礼儀正しい八坂に好意を抱くようになる。
すっかり家族同然になった八坂は、あるとき章江に殺人を犯したことを告白するが、すでに彼に揺るぎない信頼を寄せていた章江にとっては、むしろ八坂への感情が愛情に変わるきっかけとなるばかりであった。
家族が八坂を核として動き始めた実感を得たとき、彼による暴挙は始まった。
すべてを目の当たりにし狼狽する利雄をおいて、八坂はつむじ風のように暴れ、そして去っていった。
8年後。
八坂の行方は知れず、利雄は興信所に調べさせているが、一向に手がかりはつかめないでいた。
工場では古株の従業員・設楽篤(三浦貴大)が辞めることになり、代わりに山上孝司(太賀)が新人として入ってきたのだが、母を亡くして独り身の孝司は屈託のない人柄でたちまち夫婦の信頼を得る。
だが皮肉な巡り合わせにより、八坂の消息をつかめそうになった時、利雄と章江は再び己の心の闇と対峙することになるのだった…。

寸評
ミステリー・サスペンスの様相を見せるがそうではない。
かと言って家族崩壊を描いているのかと言えば、一概にそうとは言えないものがある。
幸せそうだった家族が、第三者の登場によって崩壊していくというのは何度か見た内容だし、最初はそんな印象で見ていたが全く期待を裏切る展開を見せる。
八坂は人を殺して刑務所に入り、利雄がそれに関わっていたことが早いうちに示唆されているし、八坂自らの口で自身の過去が語られてしまうからミステリー性は早い段階で消え去る。
また利雄一家はクリスチャンの章江と娘が食事の前にお祈りを捧げているのに、夫の利雄は全く関心を示さない関係で、どこか隙間風が吹いているような感じを最初から示している。

そして八坂が登場して物語は一気に展開を見せていくのだが、この八坂の服装が異様である。
何処に行くのにも白いカッターシャツを着ていて、眠るときもそんな姿のままだったりしている。
刑務所暮らしが身についているらしく、食事は早いし歩く姿勢は手先をピンと伸ばしたものだ。
彼は礼儀正しいし、オルガンを教えたりできるし、利雄の子供である蛍もなついている男なのだが、その表面的な顔の裏に潜む凄みを見せる時がある。
僕たちはその場面で彼の本質を垣間見ることになる。
僕も大学時代にアルバイト先で今は足を洗っている本物のヤクザの凄んだところを目撃したことがあり、その時は玄人さんの怖さに身震いをした事を思い出す。
ある事件の後に八坂は姿をくらましてしまうが、浅野忠信演じる八坂の存在が際立ってくるのが不思議なことに彼がスクリーンから消え去ってからだ。
どのようにして彼がスクリーン上に復帰してくるのかとワクワクしながら見ていたのだが中々再登場しない。
やっと登場したかと思うと、見事にその期待は裏切られてしまう。
画面から消え去った人物が、こんなにも存在感を見せる作品は少ないのではないかと思う。

家族は結束の強いものだと思われているが、それがちょっとしたことでもろくも崩れ去ってしまう危うさを秘めたものであることを迫ってくる作品だ。
妻の章江は夫への不満があったのか、利雄に別な魅力を感じたのか利雄に対して好感を抱き始める。
二人の関係は利雄の目を盗んで続けられるが、利雄はそれを感じ取っていた。
しかし家族の維持のために利雄も章江も平静を装っている。
家庭を維持していくためには、夫も妻も本心を明かしてはいけないことがあるという事だろう。
河原に四人が寝転ぶシーンが二度登場するが、一度目が疑似平穏の状況だったのに対し、二度目では崩壊の状況に追い込まれている。
これだけ必死になるのなら、あの時ああしておけばよかったと手遅れな反省をしているようでもあった。
秘めた暴力性を一瞬だけ見せる浅野忠信、闇を抱えつつひたすら自己抑制に努めているような寡黙な夫の古館寛治、その時々の感情を的確に表現し続けた筒井真理子の迫真の演技。
俳優たちが存在感を見せ、罪と罰、因果応報、信仰というものについて考えさせながら家族の危うさを突きつけてきた重量感のある作品だ。

さようなら

2018-05-28 12:50:12 | 映画
深田晃司の「海を駆ける」が公開されている。見に行くつもりが時間が取れず、過去の作品を家で再見。

「さようなら」 2015年 日本


監督 深田晃司
出演 ブライアリー・ロング
   新井浩文 村田牧子 村上虹郎
   木引優子 ジェローム・キルシャー
   イレーヌ・ジャコブ

ストーリー
近未来の日本。
稼働する原子力発電施設が、同時多発テロによって一晩のうちに爆破され、放射能が大量に流失した。
日本の国土のおよそ8割が深刻な放射能汚染に晒されることになる。
その日からの混乱は凄まじかった。
1億人の人間が一斉に放射能の少しでも薄い地域へと遁走を始めた。
本土はもうどこも汚染されていたので、皆は沖縄か海外を目指したが、諸外国は放射能に汚染された日本人の受け入れには慎重な態度を示した。
テロから2ヶ月後、ついに政府は「棄国」宣言をし、各国と連携して計画的避難体制が敷かれることになった。
つまり、国民に優先順位をつけて、順番に避難を進めていくことになったのだ。
半年後。ターニャは眠っていた。
ターニャの傍には、彼女の友人であるジェミノイドFが座っている。
生前の両親が、病弱で学校にも満足に通えなかった幼いターニャのために買い与えたものだ。
国民番号から「ランダム」に選ばれた人間から順番に避難することになった。
しかし、在日外国人であるターニャの避難順位は下位に設定され、その抽選にあたることもない。
それに、病弱のターニャは、どうせ逃げられないのだ。
ターニャの家を訪ねてくる恋人の聡史や友人たちは皆、マスクをしている。
その友人たちもまたひとりひとりと、避難の順番が来て姿を消していく。
ターニャの恋人も、ある朝、彼女に別れを告げにくる。

寸評
日本全土が放射能にさらされ、全国民が国外退去を余儀なくされるという設定は、少し前なら荒唐無稽な絵空事と片付けられただろうが、福島原発事故を経験し、隣国に核開発とミサイル発射を続ける北朝鮮があり、世界では場所を選ばずテロが多発している現状を思うと、全くの架空物語と言えないものを感じる。
僕はターニャが出会っている現実に違和感を感じない不思議な感覚で見続けた。

ターニャとアンドロイドが暮らす家の外は、国民の避難が進んでいるので殺伐とした風景ばかりだ。
静岡もだめだとの会話があるので、全国で原発事故が起きているらしいことが想像されるが、原発の事故状況とか、テロを描くことなどは排除しているので、起きていることの悲惨な状況に比べて映画は非常に静かだ。
その中で、原発問題、移民問題、家族の意味、生と死についてなどを考えさせていく。
声高に訴えているわけではないのに、自然とそのようなことを考えてしまう余地がある静かな進行だ。
各国に日本の避難民を受け入れてもらうのだが、それは言い換えれば日本人が原発難民となるということだ。
現在の日本は先進国の中では極端に難民を受け入れていない国である。
理由の如何を問わず他国の難民は受け入れないで、自分たちが難民となった時は受け入れてほしいと思うであろうわがままが見え隠れする。
日本人から難民が発生するなどと言うことは想像できないが、しかしもしもそうなったらやはり受け入れてほしいと願うだろうと思う。
文化、治安、環境を考えると難民政策は難しい。

ターニャが父に買ってもらったというアンドロイドは人工知能を持った機械なので感情はない。
感情はターニャから学び取って自分のものにしている。
アンドロイドは足が故障していて、車いすの生活である。
病気のターニャと相互補助の様な関係で生活しているようだ。
人間は忘れることができるが、アンドロイドは一度得た記憶は失うことがない。
辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったことなど嫌な思い出を忘れ去ることが出来るのは、弱い人間が獲得した生きるための能力なのかもしれないが、人は同時に忘れてはならないことも時間の経過とともに忘れ去ってしまう厄介な生き物である。
災害も原発事故も、あるいは戦争の記憶もともすれば忘れ去られてしまう。
原発事故による避難者が増えて、自分の周りからは友人たちが消えていく。
しかし人が死を迎えるころになると、大なり小なり似たような状況になるのではないか。
長年の友人も先に亡くなっているかもしれないし、住む場所も違ってきて疎遠になっているかもしれない。
結局一人でこの世におさらばするのかもしれない。
ターニャは一人淋しく死んでいき、朽ち果てた体も風に吹かれて無くなってしまう。
残されたアンドロイドもみすぼらしい姿になっていき、車いすから投げ出され這っていくと目の前に100年ぐらいに一度咲くという竹の花を目にする。
ターニャの父が見て感動したと言う光景を目にしたのだが、そこにはもう日本人は一人もいなかった。
谷川俊太郎や若山牧水の詩も淋しいものだったが、映画そのものも最後まで淋しいものだった。

ほとりの朔子

2018-05-27 11:47:24 | 映画
深田晃司の「海を駆ける」が公開されている。見に行くつもりが時間が取れず、過去の作品を家で再見。

「ほとりの朔子」 2013年 日本


監督 深田晃司
出演 二階堂ふみ 鶴田真由 太賀
   古舘寛治 杉野希妃 大竹直
   小篠恵奈 渡辺真起子 志賀廣太郎
   松田弘子 想田和弘

ストーリー
大学受験に失敗し、現実逃避中の朔子(二階堂ふみ)。
叔母・海希江(鶴田真由)の誘いで、旅行で留守にするというもうひとりの伯母・水帆(渡辺真起子)の家で、夏の終わりの2週間を過ごすことになった。
朔子は、美しく知的でやりがいのある仕事を持つ海希江を慕い尊敬していたし、小言ばかりの両親から開放された海辺の街のスローライフは、快適なものになりそうだった。
朔子は海希江の古馴染みの兎吉(古舘寛治)や娘の辰子(杉野希妃)、そして甥の孝史(太賀)と知り合う。
小さな街の川辺や海や帰り道で会い、語り合ううち朔子と孝史の距離が縮まっていく。
そんな朔子の小さなときめきをよそに、海希江、兎吉、辰子、後から現れた海希江の恋人・西田(大竹直)ら大人たちは、微妙にもつれた人間模様を繰り広げる。
朔子は孝史をランチに誘う。
しかしその最中、彼に急接近中する同級生・知佳(小篠恵奈)から連絡が入る。
浮足立つ孝史の表情を見て、朔子の心が揺れる…。
兎吉の家で辰子の誕生日パーティが開かれ、海希江と朔子、それに西田も参加することになるが、西田は途中で気分を害し途中で帰ってしまう。
孝史が福島の原発事故で疎開していることを利用して、知佳は反原発のリーダーの男のために孝史をだまして反原発集会で経験談を話させようと企てる。
しかし孝史はマイクの前に立ったものの反原発の話は出来ない。
ネット中継されていた集会の様子を朔子が見ていた。
そして孝史と朔子は家出を決行することになるが・・・。

寸評
浪人生の女の子が、叔母に誘われて夏休みの2週間を海辺の家で過ごすという話を日記風に描いている。
朔子と叔母の海希江が海辺を散歩するシーンや、朔子と孝史が歩きながら話すシーンなどではカメラが二人を捉え続けることによって、交わされる会話が非常にリアルなものになっている。
俳優が演技しているというよりも、普通の人が普通に話しているような感じがする。
その感じはあらゆる場面で用いられており、ドキュメンタリー風な撮り方である。
その徹底した演出ぶりが新鮮だった。

「ほとりの朔子」とはよく付けた題名だ。
朔子が湖に素足で入り、波間が輪状にどんどん広がって行くシーンは美しい。
波紋が広がっていき、それを孝史が眺める印象的なシーンだ。
物語も静かで何もないはずなのに、日常性の中の反世界を波紋が広がるように描いていく。
この湖に通じる道が二つあって、兎吉、海希江のペアと孝史、朔子のペアの自転車が、どちらが早く着くか競争するが孝史ペアが断然早く到着する。
たんなるエピソードの一つなのだが、ずっと後で朔子がそのことを話題にする。
見事に張られた伏線なのだが、しかしその話題もなんとなく終わってしまう。
この自然さがたまらなくいい。

この作品は何気ない日常を映しながら、その実人間世界の悪意が見え隠れしてるような仕掛けを施しているのだが、本当にチラチラと見え隠れすると言う表現がぴったりとくる演出で貫かれている。
朔子の二人の叔母と自分の母親との関係、海希江と兎吉、海希江と西田の関係などもストレートに押し切っていない。
孝史が好意を寄せる知佳も小悪魔的で孝史をだまして原発反対運動へ参加させる。
そのことを通じて、疎開高校生がみんな同じ考えを持っているなんて言う単純なものでないことを、僕たち観客に鋭くぶつける。
女子大教授の西田は紳士面をしているが、教え子を金で買うような所があり、家庭的な面を見せながらも海希江に近づいているし、独善的でもある。
兎吉はビジネスホテルを装うラブホテルの支配人で、いかがわしい交際を目にしても見て見ぬふりをする。
そんな父を娘の辰子は嫌っているのだが、案外と仲がいい面を見せる。
大人の社会、あるいは人間社会と言ってもいいが、そこは臭気漂う汚らしい世界なのだ。
そんな世界を垣間見せて、最後には朔子の成長をさりげなく描いてエンディングを迎えるのだが、観終わって温かな気持ちになれた。

それにしても恐ろしいのが主演の二階堂ふみだ。
今までの作品とはまったく違う演技を披露している。
この子ったら、どれだけ振り幅があるんだろうと思わせるものだった。

歓待

2018-05-26 10:37:55 | 映画
深田晃司の「海を駆ける」が公開されている。見に行くつもりが時間が取れず、過去の作品を家で再見。

「歓待」 2010年 日本


監督 深田晃司
出演 山内健司 杉野希妃 古舘寛治
   ブライアリー・ロング
   オノ・エリコ 兵藤公美

ストーリー
東京の下町。
夏の光に照り返る大きな河川を抱く工場地帯の一角で、小林印刷は今日も輪転機の音を響かせている。
小林幹夫(山内健司)は、若い妻・夏希(杉野希妃)と前妻の娘・エリコ(オノ・エリコ)、出戻りの妹・清子(兵藤清子)と暮らしながらこの印刷屋を営んでいる。
勤勉に働く家族の最近のもっぱらの事件は、エリコの飼っていたインコのピーちゃんが逃げてしまったことぐらいである。
そんなある日、かつて小林印刷に資金援助をしていた資産家の息子と名乗る男、加川花太郎(古舘寛治)が不意に訪れる。
加川は低姿勢で印刷の仕事を手伝いながら小林家に住み込みで居ついてしまう。
ある日、加川の結婚相手だというアナベル(ブライアリー・ロング)がやって来て、夫婦だということで彼女も小林家に同居することになってしまう。
やがてひょんなことから加川はある男を小林印刷で雇い入れようとする。
幹夫は拒絶するが、加川に後ろめたいことが発生していて断ることが出来ない。
不満がたまってきた夏希はある日、無断外泊をした。
そんなある日、アナベルの友人だと言う外国人が大挙してやって来て、観光客なのでしばらく泊めてやってほしいと言われるのだが、国籍はバラバラでご近所からは不審の目で見られる。
加川は小川家の内部へすっかり入り込み、夫妻のゆるやかな日常は加川とその招来客によってにわかに崩れ始めていく…。

寸評
住居の片隅で営まれている小林印刷は小さな印刷屋で、人間関係がよくわからないまま小林家の人間が登場してくる。
若い夏希が清子(せいこ)さんと呼んでいるので、清子は幹夫の奥さんで、夏希は幹夫の妹かと思っていた。
従って夏希が面倒みているエリコは夫婦の子供だと思って見ていたのだが、幹夫は前妻に逃げられており、若くて美人の夏希が後妻でエリコは幹夫と前妻との間に出来た子だということがわかる。
清子は結婚後すぐに別れて帰ってきていることも判明する。
前妻は近くに住んでいるらしく、幹夫とバッタリ会ったりするし、エリコも前妻のところでご飯を食べたりしている。
複雑な一家なのだが、それでもめ事が起こるでもなく、いたって平和な家庭だ。
それは幹夫のおっとりとした性格によるものでもあるだろうし、若いながらも心配りを見せる夏希の努力によって維持されていると言ってもいい。

幹夫が印刷屋を開業するときに資金提供してくれた人の息子と言う加川花太郎が現れてから、話が急展開し小林家がひどいことになっていく。
その様が大いに笑えるのだが、一歩引いてみると家族の在り方だとか不法移民問題なんかを投げかけているようにも思えてくる。
兎に角、加川というキャラクターがユニーク過ぎて笑いを誘う。
優しい物言いなのだが、やることはいい加減すぎるし、ずうずうしいし、押しが強い男だ。
物事の解決能力は備えているらしく、役所から印刷の仕事を随分と持ち帰ってくるし、夏希がかかえる問題も解決してやったりするのである。
それで終わればいいのだが、この男はそれに付け込んで迷惑することを持ち込んでくる。
妻だというアナベルも怪しげで、夫婦にはブラジル出身だと言うが、別の人間にはボスニアだと言ったりする。
英語が分からないと言っていた加川が実は流ちょうな英語が話せたりするから、観客である僕たちもますます不審な人物だと感じるようになる。
ハニートラップの様な出来事と、それを眺める加川とその解決策が笑わせる。

夏希は英語をエリコに教えていているのだが、アナベルがネイティブな発音で指導しだし、主客転倒してしまっているのは幹夫と加川だけではないと見せつける。
とんでもない事件が起こって、結局元の小林家に戻るのだが、迷惑すぎる大量の異邦人の“歓待”を経たことで2人の絆がより深まったという印象を残す。
幹夫が夏希にビンタをくらわし、夏希も幹夫にビンタをくらわすシーンがあるが、あれはお互いに相手の不義を分かっていたのだが、それでもこの家に居続けると言う証でもあったと思う。
何も起きない平穏な日常と言うのは退屈かもしれないが、一番幸せなことなのかもしれない。
最後はもっと滅茶苦茶になるのかと思ったけど、案外とまともだと感じたのは、小林家が壊れなかったためだろう。
小林家が破滅で終わるパターンも見てみたい気がしたエンディングだった。
幹夫と夏希、異邦人たち、清子やエリコ、相手の心のうちが読めない他人と一緒に生活の場を作っていくにはどうすればよいかという苦闘を描いた作品でもあった。

タクシー運転手

2018-05-09 08:09:09 | 映画
タクシー運転手 ~約束は海を越えて~ (2017) 韓国


監督 チャン・フン
出演 ソン・ガンホ  トーマス・クレッチマン
   ユ・ヘジン   リュ・ジュンヨル
   パク・ヒョックォン  チェ・グィファ
   オム・テグ  チョン・ヘジン

ストーリー
1980年5月。妻に先立たれた陽気なタクシー運転手のキム・マンソプ(ソン・ガンホ)は、幼い娘を抱えて経済的に余裕のない毎日を送っていた。
その頃、光州では学生を中心に激しい民主化デモが発生していたが、戒厳令下で厳しい言論規制の中にいるマンソプには詳しい事情など知る由もなかった。
マンソプは、ドイツ・メディアの東京特派員ピーター(トーマス・クレッチマン)から「通行禁止時間までに光州に行ったら大金を払う」と言う話を聞きつけ、話をつけていた同業の運転手を出し抜いて彼を乗せ、英語もわからぬまま光州に向かった。
マンソプはタクシー代を受け取るために機転を利かせて検問を通り抜け、時間ぎりぎりで光州に入る。
「危険だからソウルに戻ろう」とマンソプは訴えるが、ピーターは大学生ジェシク(リュ・ジョンヨル)と光州のタクシー運転手ファン(ユ・ヘジン)の助けを借り、極秘取材の撮影を始める。
状況は徐々に悪化し、1人で留守番をさせている11歳の娘が気になるマンソプはますます焦るが……。

寸評
光州事件を当時の日本ではどのように報じていたのだろうか。
事件の報道は僕の記憶の中にはないのだが、僕の関心が薄く記憶の外に追いやられてしまっていたのかもしれない。
韓国映画では光州事件を時々取り上げており、僕の事件に対する認識は後年に知りえたものである。
この作品は事件を伝えたドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターとタクシー運転手の交流を描いている。
韓国の歴史に残る暗黒の事件だけに重たい映画なのかと思いきや、滑り出しは何ともおおらかな滑り出しである。
ソン・ガンホ主演の政治がらみ作品として「大統領の理髪師」(2004年)を思い出すが、ソン・ガンホが主演するとどこか滑稽な内容になり、それでいながらシリアスなものを感じさせるという作品になるようで、この作品も正にそんな感じだ。

マンソプは片言の英語が話せるが、ピーターは韓国語がわからないので、まともなコミュニケーションが成立せず、そのすれ違いが数々の笑いを生む。
前半はまるで喜劇映画の様相なのだが、中盤になってそのムードが一変する。
描かれるのは、市民や学生たちの抗議活動の現場。
彼らを軍は実力で押さえつけようとし、ピーターはその現場をカメラに収めようとする。
マンソプやピーターたちも追われることとなり、サスペンスとしてのスリルが加味されてくる。
陽気な滑り出しとはまったく違う映画になり、軍が市民に銃撃、暴行するシーンは迫力たっぷりで、自然と憤りが湧き上がってくる。
実写を思わせるこの演出はスゴイとしか言いようがない。

重いはずの映画に、地元のタクシー運転手の自宅に招かれて絆を深める何ともほほえましい心温まるシーンを挿入して観客を引き止めるが、逆に映画を軽くしている側面も併せ持っていた。
ソン・ガンホの前半における軽妙な演技から一転して、中盤以降はシリアスな様相を呈してくる。
冒頭の楽しい歌と対比するように、悲しい歌を歌いながら涙するシーンが観客の胸を打つ。
再び光州に入ったマンソプは、カメラを回すことをやめたピーターを叱咤激励してもう一度立ち上がらせ、さらに、最前線に立って命がけで傷ついた市民を救おうとする。
光州からの脱出シーンでは、スリリングなカーアクションや銃撃戦まで飛び出し韓国映画の面目躍如である。
市民や学生はやられっぱなしだが、実際は武器庫などを襲って武器を手に入れかなり応戦していたようで、映画では市民側の反撃は描かれていない。
光州事件は誰によって引き起こされたのか知らないが、半ば内戦状態だったのかもしれない。
笑いと涙、スリルと恐怖、そして感動などのさまざまな要素をバランスよく詰め込む韓国映画のエンターティメント性がいかんなく発揮されている。

全斗煥によるクーデター後の話で、やはり軍事政権は問題ありなのだ。
この様な作品が撮られているので韓国の民主化も進んだと思われるが、昨今の政治運営を見ているとまだまだ未熟なものを感じる。
では、日本は成熟しているのかと問われれば、「それもなあ・・・」という気持ちになってしまうのは情けない。